3マス世界史のムック版は、かなり深い2026年03月25日

『もっと深く知るアジアから見る世界史』(岡本隆司・編著/NHK出版)
 2年前にEテレで放映した『3か月でマスターする世界史』は、西欧中心視点ではない歴史観を提示した興味深い番組だった。視聴に合わせてテキストを購読し、講師の岡本隆司氏の『世界史序説:アジア史から一望する』も読んだ。

 放映から1年以上経過した昨年(2025年)11月、この番組をベースにした次のムックが出版された。

 『もっと深く知るアジアから見る世界史』(岡本隆司・編著/NHK出版)

 先日読んだ対談本『世界史のミカタ』で「世界史を作ったのは遊牧民」という見方を再確認したのを契機に、積んだままだった3マス世界史のムックを読んだ。

 本書は岡本隆司氏が「序章」と「あとがき」を執筆し、本文は番組に出演したゲスト講師が執筆している。各章の執筆者は以下の通りだ。

 第1章 アジアから考えるローマ帝国 井上文則
 第2章 オリエントと世界宗教 守川知子
 第3章 草原と中華の交錯――遊牧国家と中国 古松崇志
 第4章 モンゴル帝国の完成と解体 宮紀子
 第5章 世界史の分水嶺――ポストモンゴルのヘゲモニーシフト 山下範久
 第6章 ヨーロッパとアジア――国際秩序のゆくえ 細谷雄一

 番組の内容に沿った構成だが、テキストとの重複は少なく、テキストを補完してより深く踏み込んだ記述になっている。各章末のコメント入り「読書案内」も親切だ。

 ゲスト講師6人のなかで私が著書を読んだことがあるのは井上文則氏と宮紀子氏だ。5年前に読んだ井上氏の『シルクロードとローマ帝国の興亡』は本書の内容とも重なる目からウロコの本だった。宮氏のやや専門的な『クビライ・カアンの驚異の帝国』は3マス世界史視聴をきっかけに購入して読んだ。

 ユーラシア視点の本書は、ユーラシア規模の歴史変動の要因として寒冷化や温暖化に着目している。気候変動は人々の大規模な移動や疫病につながり、歴史の動因となる。それが3世紀の危機、14世紀の危機、17世紀の危機などをもたらした。歴史を大きく俯瞰した気分になる。

 オリエント、イスラム世界、モンゴル帝国などは、その全盛期には文明や文化の最先端であり、世界史の中心だった。だが、ポストモンゴルの近代になって西欧文明が中心になっていく。なぜ、そのような大転換が生じたのか。本書はその過程を概説している。一応は理解できるが、十全に把握できたとは言えない。私が世界史を勉強していく上で探究したい大きなテーマである。

旧約聖書を読むのはタイヘンだ2026年03月21日

 ある本を読んでいて「うずらとマナ」が出てきた。ネット検索で旧約聖書の『出エジプト記』に出てくる奇跡の食物だと判明した。旧約の『創世記』と『出エジプト記』はずいぶん昔に読んだと思うが内容は失念している。2年前に木崎さと子の『聖書物語』や月本昭男の『物語としての旧約聖書』も読んだ筈だが、ほとんど頭に残っていない。

「旧約聖書を知っていますか」と問われても「はい」とは言えない。で、次の2冊を続けて読んだ。

 『旧約聖書を知っていますか』(阿刀田高/新潮文庫)
 『ドレの旧約聖書』(訳・構成:谷口絵里也/装画:ギュスターヴ・ドレ/宝島社)

 古典を軽妙に面白く紹介する阿刀田氏の力量は、以前に読んだ『ギリシア神話を知っていますか』『やさしいダンテ〈神曲〉』『ホメロスを楽しむために』でよく承知している。『旧約聖書を知っていますか』も期待に違わず読みやすく、頭に入りやすかった。

  『ドレの旧約聖書』は約半分のページがドレの銅版画で、文章部分は旧約聖書の要約である。挿絵というイメージによって旧約の場面のいくつかを多少は頭に定着できたかもしれない。

 この2冊を読了して感じたのは、旧約聖書のゴチャゴチャした単調さである。楽園追放、ノアの方船、バベルの塔までの「神話」は面白いし、アブラハム、イサクに始まってモーセを経てダビデやソロモンに至るまでは、建国物語として何とか楽しめる。その後がゴチャゴチャしていて容易に頭に入って来ない。

 『ドレの旧約聖書』は、さほど文章が多いわけではないが、後半になると読み続けるのが苦痛になった。「聖書」と言えばアリガタくて崇高な教えの書のイメージもあるが、旧約聖書は嫉妬深いと神とユダヤの民をめぐる血生臭い歴史説話である。似たような話のくり返しも多い。多少の史実を反映しているのだろうが、史書とは思えない。身を入れて読み続けるのはタイヘンである。

 そんな私は、阿刀田氏の次に述懐に納得し、安心した。

 「旧約聖書について言えば、簡単に読めるものではない。研究者でもない限り、全巻をきちんと読むことは不可能である。断言してもよい。普通のサラリーマンが信仰もないのに、電車の中で旧約聖書を読んでいたら、
  ――狂ったのと、ちがうか――
  と、私はそう思いたい。理想は理想として、この古典については読めないのが普通である。」

世界史をサカナの対談本を読んだ2026年03月18日

『世界史のミカタ』(井上章一・佐藤賢一/祥伝社新書/2019.11)
 ネット検索で井上章一氏と佐藤賢一氏の対談新書を見つけた。2年前に読んだ井上章一氏の『日本に古代はあったのか』はとても面白かった。佐藤賢一氏の著作は『歴史小説のウソ』を読んだばかりだ。この二人の対談なら面白そうだと思い、古書を入手した。

 『世界史のミカタ』(井上章一・佐藤賢一/祥伝社新書/2019.11)

 7年前に出た本である。世界史の見方に関する対談のテーマは多岐にわたるが、「世界史を作ったのは遊牧民」という話題が柱に思える。私はこの「見方」にすでに何度も接しているので、それを再確認する気分で読み進めた。

 井上氏の「おわりに――中央アジアから物を言う」で、井上氏の関心領域が私のささやかな関心領域に重なる部分が多いと確認でき、少し嬉しくなった。梅棹忠夫の『文明の生態史観』に圧倒的感銘を受けた井上氏は、それにあおられて、後藤明杉山正明林俊雄森安孝夫らの本によく目を通すそうだ。私もその一部を読んでいるが、内容の記憶はあやふやだ。彼らの著作をあらためて読み返したたくなった。

 フランス革命と明治維新が似ているという指摘に、ナルホドと思った。日本で「朝廷」という古めかしい権威を引っ張り出してきたのと、フランスで「三部会」という中世の仕組みを引っ張り出してきたのが似ているとの議論には驚いた。そんな見方があるのかと感心した。

 日露戦争は英国がしかけたという見方や、英仏にとって第一次大戦のインパクトが非常に大きかったとの見方も興味深い。英仏の第一次大戦の死者数は第二次大戦の死者数よりはるかに多かったと、本書で初めて知った。日本は第一次大戦で被害がなかった。それが、後の判断の誤まりの一因かもしれない。

 本書はロシアのウクライナ侵攻やコロナ禍以前の対談である。最終章「国民国家の次に来るもの」は決して楽観的ではないが、現在の視点で読み返すと、やや気楽な見通しに見えたりもする。この7年で世界はずいぶん変わったように思える。

67年ぶりに『さいごの授業』を再読した2026年03月12日

 ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をチビチビと再読している。すでに終盤、11世紀の十字軍のあたりだ。そこで気になる表現に出会った。民衆十字軍の6万人の大衆が「フランスとロレーヌの国境」から集まってきたとある。

 ロレーヌと言えば「アルザス=ロレーヌ」、独仏の葛藤の場だ。現在はフランス領だが、ギボンが生きた18世紀はドイツ領だったのかと思って調べた。18世紀もフランス領だった。十字軍の頃は神聖ローマ帝国(ドイツ)の一部だったので、ギボンの言う「国境」は11世紀の話だろう。ギボンの頭の中には、ロレーヌはフランスではないという意識があったのでは、と思わなくもない。

 あらためて、歴史概説書やネット情報でアルザス=ロレーヌの歴史を調べ、独仏の間で領有が目まぐるしく変わってきたさまを再認識した。

 この地は、もともとドイツ系住民の地で、アルザス語はドイツ語の方言である。17世紀半ばまでは神聖ローマ帝国の傘下だったが、三十年戦争で神聖ローマ帝国が敗北し、フランス領になる(1648年)。それから、第二次世界大戦で自由フランスがナチス・ドイツからこの地を奪還(1944年)するまでの約300年の間、領有は何度も入れ替わる。

 アルザスと言えばドーデの『最後の授業』を想起する。普仏戦争でフランスが敗北、アルザスとロレーヌの東半分がプロイセン領となる(1871年)。そのときの「悲劇」をフランス視点で描いた短編である。かつて読んだ『世界史との対話』(小川幸司)がこの小説を論じていた。

 『最後の授業』は、祖国愛や国語愛うたった作品として日本の国語教科書にも採用された。だが近年、この作品の虚構性とイデオロギー性が指摘され、教科書から姿を消した。

 私は小学生のとき、講談社の『少年少女世界文学全集』で読んだ。それ以来読んでいないが、内容のあらましと印象は残っている。この大昔の全集は、いまも納戸の奥に積んである。それを引っ張り出して再読した。1959年刊行だから、小学5年のときに読んだのだと思う。67年ぶりの再読である。

 タイトルは仮名で『さいごの授業』だった。子供向けのリライト版か否かは不明だ。アメル先生が黒板に「フランス ばんざい」!」と書いて泣いている挿絵を見て、なつかしさが甦った。記憶に残る情景の挿絵だ。

 小学生だった私が何を思ったのかは定かでない。勉強をサボっていると後悔するぞという教訓めいたイヤな話だと感じた気がする。学校を追われるアメル先生を可哀そうに思ったのは確かだ。プロシアという聞きなれない国への悪感情を植え付けられたかもしれない。

 この小説の問題点を認識してから再読し、おかしな点を確認できた。フランス語の最後の授業に際して「ぼくは、まだろくに書くこともできなかったのだ」とあり、小学生の私は、主人公はずいぶんサボってたのだと思った。教室の奥のベンチで大人たちが受講している姿に、この大人たちは文盲だったのかと感じた気がする。彼らの母語がアルザス語(ドイツ語の方言)であり、フランス語がエリートのための公用語だったとは、小学生の私はまったく知らなかった。

 アメル先生は、アルザス語を母語とするアルザス人に対し、フランス語を「国語」として押しつける立場にあったのだ。この作品からは見えてこない背景である。

 『最後の授業』批判の根底には、国民を構成する要素は言語や人種だというドイツ的な考え方があるそうだ。それに対してフランスでは、国民の観念を「国家がかかげる基本原理を共有しようとする意志」に求める考え方が有力だそうだ(谷川稔『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』より)。『世界史との対話』における小川幸司氏の『最後の授業』評価はフランス的な考えに近い。

 第一次世界大戦でドイツが敗北したとき、この地は『アルザス=ロレーヌ共和国』として独立を宣言した。だが、独立を認めないフランスに占領され、10日足らずで共和国は消滅した。この地に住む人々には、ドイツでもフランスでもない独自の存在だとの意識があるようだ。

 『最後の授業』の舞台はアルザスだが、ロレーヌはアルザスと同じような情況だったのだろうか。私にはよくわからない。国語や民族、「国民国家」をどう捉えるか、わかりにくいことばかりである。わかりにくいからこそ、探究しなければならないのだが。

『<木挽町>のあだ討ち』は面白かった2026年03月10日

『木挽町のあだ討ち』(永井紗耶子/新潮文庫)
 2023年に山本周五郎賞と直木賞をW受賞した『木挽町のあだ討ち』が映画化され、話題になっている。映画評を読んで原作を読みたくなった。

 『木挽町のあだ討ち』(永井紗耶子/新潮文庫)

 江戸時代のあだ討ちの物語である。登場人物の大半は架空の人物で、戯作者の篠田金治だけは実在の人物をモデルに脚色しているようだ。先日、『歴史小説のウソ』を読んだばかりなので、歴史小説の実例をニヤニヤしながら検証している気分になった。よくできたエンタメである。面白かった。

 この小説にはミステリーの要素があり、以下はネタバレの読後感になる。

 あだ討ちの2年後、若い武士があだ討ちの目撃者たちを訪ねて、2年前の事件の目撃談を聞いて回るという趣向の小説である。ミステリーとしては半ばあたりで仕掛けが見えてくるが、面白さは減衰しない。5人の興味深い「歌舞いた」人物たちの語りという構成に引き込まれる。この世は舞台、人はみな役者という趣がいい。

 この小説のタイトルを聞いたとき、実在の事件を題材にしているのかと思い「木挽町であだ討ちがあったかなあ」と思った。現在、木挽町はないが、歌舞伎座のあたりが江戸時代には木挽町と呼ばれていた。私は、歌舞伎座のある東銀座周辺には多少の土地勘がある。若い頃には彼の地の「こびき」とい小料理屋によく行き、店名の由来から木挽町を知ったのだ。

 「木挽町であだ討ちがあったかなあ」と思ったとき、思考がその先に進まなかったのはウカツだった。己れの凡庸を自覚する。現在の歌舞伎座があったあたりに、江戸時代には森田座という芝居小屋があった。あだ討ちは、森田座の前で実施される。だから「木挽町のあだ討ち」なのである。なぜそんな場所でと考えれば、タイトルから物語の仕掛けを推測できてもよかったのに――そう思ったのは読了後である。

歴史学と歴史小説のちがいから「史観」へ2026年03月06日

『歴史小説のウソ』(佐藤賢一/ちくまプライマリー新書/筑摩書房)
 佐藤賢一氏の『カペー朝』『ヴァロア朝』を読み、この作家への関心が高まり、昨年末に出た次の新書を読んだ。

『歴史小説のウソ』(佐藤賢一/ちくまプライマリー新書/筑摩書房)

 著者は西洋史研究者から歴史作家へ転身した人である。本書の「はじめに」では、小説を書き始めた経緯から大学院へ退学届けを出すまでの自身の体験を語っている。

 15世紀フランス史研究の合間に小説を書いた著者は、小説と論文の両方を書き続けるのは難しいと気づき、どちらを選ぶか悩む。小説を選んで大学院を退学、その翌年に『王妃の離婚』で直木賞を受賞する。

 そんな体験をふまえて歴史小説と歴史学のちがいを解説しているので臨場感がある。記述が具体的でわかりやすい。

 人間を書くのが歴史小説、時代を書くのが歴史学、どちらも過去の事実=ファクトを押させている。そのうえで、ファクトから人間の真実=トゥルースを引き出すのが歴史小説、時代の真実=トゥルースを引き出すのが歴史学――それが著者の見解だ。

 本書で面白いと思ったのは、歴史小説家は現地取材に熱心だが、インドア作業の文書学である歴史学の研究者にとって現地取材は必ずしも重要でないという指摘だ。両者の心構えのちがいの一端を覗えた気がする。

 歴史小説はSF(サイエンス・フィクション)との指摘には驚いた。著者は歴史学をサイエンスと捉えている。歴史学という文系の科学を土台にしたフィクションだから歴史小説はSFなのだ。ナルホドと思わされてしまう。

 本書の最終章は史観に関する議論である。とても興味深い話題だ。結論はやや常識的だが、そうなるしかないかなとも思える。

 著者は、俗に言う「司馬史観」を話題にしたうえで、「ジャコバン史観」「唯物史観」「アーリア史観」「皇国史観」などをイデオロギー史観としてしりぞける。そして、史観を打ち出すという行為は主観的なものだから、歴史学というサイエンスの役割ではないと結論する。

 史観が不要なわけではない。歴史小説は史観を語ることができる。だが、歴史小説や歴史書に接するそれぞれの個人こそが、自分が生きている時代を評価したうえで歴史(過去)との比較検討をふまえて、自分の史観をもたねばならない――それが著者の主張である。

南米に逃亡したナチスの医師メンゲレを描いた小説2026年03月04日

『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』(オリヴィエ・ゲーズ/高橋啓訳/創元ライブラリ/東京創元社)
 『死の天使 ヨーゼフ・メンゲレ』という映画が先週公開された。映画公開に合わせて原作単行本が文庫になった。映画を観たいと思っているが、その前に新刊文庫を購入して読んだ。

 『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』(オリヴィエ・ゲーズ/高橋啓訳/創元ライブラリ/東京創元社)

 ヨーゼフ・メンゲレはアウシュヴィッツで残虐な人体実験を行った医師である。ナチス親衛隊の大尉だった。戦後、南米に逃亡し、西ドイツやモサドなどの探索から逃れ続ける。1979年、ブラジルで海水浴中に脳卒中で溺死。67歳だった。

 メンゲレの逃亡生活を描いた本書は事実をベースにした小説である。本書のどこまでがノンフクションで、どこからが作者の想像なのか、私に判断はできない。事実関係の大半はノンフィクションに思えるが、メンゲレの心理や感情に立ち入って描写は創作だろう。

 本書にはアイヒマンも登場する。メンゲレは南米でアイヒマンと接触している。アイヒマンはモサドに拘束されるが、メンゲレは逃げおおせる。小心で用心深かったからである。

 本書の肝は、メンゲレの小心な卑小さと傲慢な無反省という二点の描出にある。それが人間の本性の典型のようにも感じられるのが怖い。

 親衛隊大尉の医師はさほど大物とは言えないが、アウシュヴィッツ生還者の証言などから悪魔性が伝わり、逃亡を続ける身になる。本書が描くメンゲレは、人類学・優生学者としての自身の行動を肯定し、何の後悔もしていない。追われる身になった不運を自身で憐れんでいるだけである。

 本書によって、戦後の南米に存在した旧ナチス擁護・支援ネットワークの一端を知ることができた。また、メンゲレの実家が小財閥とも言える実業家で、メンゲレの逃亡資金などを援助していたことも知った。

 この文庫版には「訳者あとがき(2018年9月)」の他に「独仏の人間観ギャップを超える傑作セミドキュメンタリー小説!(2026年1月)」と題する解説が載っている。この文章がとても面白い。

 この小説の作者はフランス人、描写対象はドイツ人である。その微妙なギャップを「ドイツ的」という視点で論じている。本書と同様にフランス人作家がナチスのドイツ人を描いて映画化された『HHhH』(映画は『ナチス第三の男』)やハンガリー系ドイツ移民2世が書いた『帰ってきたヒトラー』を比較対象に取り上げているのが興味深い。また、ハンナ・アーレントの言う「悪の凡庸さ」の意味の解説も勉強になった。

 解説の筆者はマライ・メントライン。私には未知な人なのでネットで調べた。1983年ドイツ生まれ、日本在住の翻訳家・エッセイストで、『テレビでドイツ語』のキャスターも務めた女性である。「職業はドイツ人」と自称しているそうだ。

『カペー朝』に続いて『ヴァロア朝』を読んだ2026年02月28日

『ヴァロア朝:フランス王朝史2』(佐藤賢一/講談社現代新書)
 佐藤賢一氏の『カペー朝:フランス王朝史1』が意外に面白かったので、続編にあたる『ヴァロア朝』も読んだ。

 『ヴァロア朝:フランス王朝史2』(佐藤賢一/講談社現代新書)

 『カペー朝』は比較的短時間で読了できたが『ヴァロア朝』には思いのほか時間を要した。未知の人名と地名の奔流に足を取られた。ページ数も増えている。語り口は面白いが、細かな出来事が次々と出て来て少々とまどう。私はそこまで詳しい情報を求めているわけではないのだが、という気分で読み進めた。

 ヴァロア朝(1328-1589)は、日本だと南北朝時代から室町時代を経て安土桃山時代までの約260年であり、13人の王が登場する。本書は一人1章、全13章でヴァロア朝の王たちの行状や事蹟を紹介している。まさに王朝史であり、社会史や文化史ではない。百年戦争やユグノー戦争を含む時代だが、そんな出来事も王朝史の遠景に過ぎない。

 本書で興味深かったのは、後半の宗教戦争に関する記述だ。旧教と新教が対立した時代のフランスの動向は、いまひとつわかりにくい。本書によって、そのわかりにくさの由縁が見えてきた。

 『カペー朝』の読後感で書いたが、私はフランスの中世史に暗い。フランク王国分裂からフランス革命までの千年近い歴史がよくわからない。だが、読書メモによって、世界史シリーズの中世ヨーロッパを扱った巻を4冊も読んでいたと判明した。

〔文春版 大世界史7〕『中世の光と影』(堀米庸三)
〔中公版 世界の歴史10〕『西ヨーロッパ世界の形成』(佐藤彰一、池上俊一)
〔中公旧版 世界の歴史3〕『中世ヨーロッパ)』(堀米庸三)
〔河出版 世界の歴史9〕『ヨーロパ中世』(鯖田豊之)

 にもかかわらずフランス中世史が頭に入っていないのは、わが忘却力のせいである。中世ヨーロッパを1冊で概説する書では、フランス王朝の細かな経緯にさほど頁を割いていない、ということもある。各国史とヨーロッパ史は趣がかなり違うようだ。時代の実相を把握するには、国王、〇〇公、△△伯たちのプライドを賭けた攻防などはさほど重要ではないのだと思う。

 歴史を知るには大きな流れをつかむのが重要である。だが、ディティールに面白さがあるのも確かだ。『ヴァロア朝』に登場する国王やその一族(母、妻、兄弟など)には興味深い人物が多い。彼らに関する知見によって、概説書をより面白く読み返すことができそうに思える。概説書を再読する日が来るかどうかは不明だが…。