没後20年の安部公房の生涯に注目 ― 2013年08月29日
安部公房が亡くなったのは1993年1月、もう没後20年になる。私にとっては学生時代に愛読した同時代作家だが、時代は移り、時間が「同時代」をどんどん過去に押し流していく。若い人々にとって安部公房はすでに歴史上の作家かもしれない。
最近、安部公房に関する本が増えてきた気がする。その中から次の本を続けて読んだ。
『安部公房とはだれか』(木村陽子/笠間書院/2013.5.15)
『安部公房とわたし』(山口果林/講談社/2013.8.1)
『安部公房とはだれか』の著者・木村陽子氏は1972年生まれの研究者、私から見れば娘の世代だ。安部公房の活躍した時代のあれこれをずいぶん調べあげたものだと感心した。研究者としては当然の作業なのだろうが。
著者が「あとがき」で述べているように、研究論文をベースにした本書には≪安部公房入門書≫的なおもむきもある。私は、安部公房の「評伝」として楽しめた。
著者が描いた安部公房の生涯は、大きな成功に続く小さな挫折、そして孤高の焦燥で終わる物語である。
安部公房はある時期から安部システムを標榜した演劇活動に入れ込んでいくが、満足のいく評価は得られなかった。そして、安部スタジオを休眠して執筆活動に専念するも、ノーベル文学賞を意識しすぎて極端に寡作になり、結局はノーベル文学賞の受賞に至らず生涯を終えた。そんな事情が安部公房の後半生を苦いものにしている。
やや単純化した見方ではある。だが、同時代作家として安部公房の小説を読み、演劇を観てきた私には、納得できるとらえ方だ。マイナスの意味ではなく、このような視点から安部公房世界の全体像を眺望するのは興味深い。
『安部公房とわたし』は告白本である。女優・山口果林が安部公房の愛人であり、安部公房は山口果林のマンションで倒れて病院に搬送されて死んだ、という噂は死の直後から流れていた(公式発表は自宅で倒れたとされている)。
その山口果林が、没後20年たって初めて安部公房との関係を語ったのが『安部公房とわたし』である。予感した以上に衝撃的な内容だった。
本書を読んでいると、2年前に安部公房の娘・安部ねりが上梓した『安部公房伝』がオーバーラップしてくる。『安部公房伝』には山口果林は一切登場しないが、その欠落故に隔靴掻痒的なわかりにくさがあったと、いま思う。
私が高校生の頃の1966年、俳優座養成所を発展的に解消した形で桐朋学園大学短期大学演劇科がスタートし、千田是也、安部公房、田中千禾夫が教授に就任した。山口果林はその第1期生である。
桐朋学園大学での安部公房の教え子だった山口果林は、デビュー当時から、安部公房の秘蔵っ子と報道されていた。「果林」という芸名の名付け親が安部公房であることもよく知られている。
当時、私の友人の一人が「秘蔵っ子」という言葉を誤読して、山口果林を安部公房の娘だと勘違いしていたことがある。私より一つ上の山口果林は1947年生まれで、1914年生まれの安部公房とは23歳違いだから、親子でもおかしくない年回りではある。ちなみに、安部公房の本当の娘・ねりは1954年生まれだ。
『安部公房とわたし』で驚いたのは、二人の関係の深さだ。山口果林と安部公房との関係は果林のデビュー前の1969年から始まり、安部公房が亡くなるまで24年間続いた。1980年から夫人の安部真知と別居状態になった安部公房は、真知と離婚し果林と結婚したいと考えていたが、懇意の編集者から「ノーベル賞を取るまではスキャンダルはだめ」と言われていて、離婚できなかったそうだ。果林側からの証言なので真実は定かではないが、二人の関係がそこまで深かったとは思わなかった。
安部ねり(1954年生まれ)の『安部公房伝』には、安部夫妻は一緒にいることが不可能な状態になり、安部公房は箱根の山荘で一人暮らしをするようになったと淡々と書かれている。この箱根の山荘は事実上、山口果林と一緒に過ごす場だったようだ。
安部ねりは、父親の山荘生活を「男の子らしい生活を満喫した」と描写している。愛人である女優と過ごす時間も含めて「男の子らしい生活」とまとめてしまうのは技ではあるが、娘としては父親の愛人の存在を公にしたくないという強い意志があったようだ。
山口果林が『安部公房とわたし』を書いたのは、安部ねりの『安部公房伝』がきっかけではなかろうかと思えてくる。『安部公房伝』で存在を無視されたので、告白本を書きたくなったのかもしれない。『安部公房とわたし』には「透明人間にされた自分の人生」という言葉も出てくる。
『安部公房とわたし』は単なる暴露本ではなく、作家・安部公房の全体像をとらえる上での重要な資料になるのは間違いないだろう。本書をふまえて『箱男』や『密会』などを読み返すと、従来とはちがう読後感が得られそうな気がする。
『安部公房とわたし』には、安部真知が夫の愛人と対峙する安部公房夫人として登場する。だが、美術家としての安部真知への言及はほとんどない。また、安部ねりの『安部公房伝』では、娘と対立する母親としての安部真知の姿が印象的で、美術家・安部真知の影は薄い。
だが、『安部公房とはだれか』では、美術家・安部真知をかなり大きく扱い、高く評価している。著者は、小説家として大きな成功をおさめていた安部公房が1970年以降、演劇活動に深入りして行った要因の一つを「舞台美術家としての妻・真知の成長」としている。また、安部スタジオに関わっていたプロデューサ・戸田宗宏氏の次のような証言も紹介している。
「安部先生の作品において、真知さんの影響力ってすごく大きいんですよ。真知さんがいたから安部先生はあそこまで行ったんだと思います。」
若い時からの芸術的同志だった妻・真知の存在が大きくなっていくに従って、安部公房はその妻から逃げたくなったのだろうか。わからないでもない心理だ。
山口果林の『安部公房とわたし』を安部ねりの『安部公房伝』と重ねあわせると、夫であり父である一人の男を巡る妻と愛人の確執、愛人と娘の確執、妻と娘の確執などが浮かび上がってくる。どこにでもありそうな光景である。
この2冊にさらに『安部公房とはだれか』を重ねてみると、少しスケールが拡大し、「溢れんばかりの想像力と野心のみを武器に」大きな成功を収めた男の、その後の孤高と焦燥の「亡命生活」のような姿が見えてくる。これも、ありがちな姿かもしれない。
安部公房の生涯は、どこにでもありそうではない世界を描き出そうとしていた安部公房の作品世界とは重なりあうわけではない。このギャップに、安部公房世界の面白さと魅力を見出すことができそうな気がする。
最近、安部公房に関する本が増えてきた気がする。その中から次の本を続けて読んだ。
『安部公房とはだれか』(木村陽子/笠間書院/2013.5.15)
『安部公房とわたし』(山口果林/講談社/2013.8.1)
『安部公房とはだれか』の著者・木村陽子氏は1972年生まれの研究者、私から見れば娘の世代だ。安部公房の活躍した時代のあれこれをずいぶん調べあげたものだと感心した。研究者としては当然の作業なのだろうが。
著者が「あとがき」で述べているように、研究論文をベースにした本書には≪安部公房入門書≫的なおもむきもある。私は、安部公房の「評伝」として楽しめた。
著者が描いた安部公房の生涯は、大きな成功に続く小さな挫折、そして孤高の焦燥で終わる物語である。
安部公房はある時期から安部システムを標榜した演劇活動に入れ込んでいくが、満足のいく評価は得られなかった。そして、安部スタジオを休眠して執筆活動に専念するも、ノーベル文学賞を意識しすぎて極端に寡作になり、結局はノーベル文学賞の受賞に至らず生涯を終えた。そんな事情が安部公房の後半生を苦いものにしている。
やや単純化した見方ではある。だが、同時代作家として安部公房の小説を読み、演劇を観てきた私には、納得できるとらえ方だ。マイナスの意味ではなく、このような視点から安部公房世界の全体像を眺望するのは興味深い。
『安部公房とわたし』は告白本である。女優・山口果林が安部公房の愛人であり、安部公房は山口果林のマンションで倒れて病院に搬送されて死んだ、という噂は死の直後から流れていた(公式発表は自宅で倒れたとされている)。
その山口果林が、没後20年たって初めて安部公房との関係を語ったのが『安部公房とわたし』である。予感した以上に衝撃的な内容だった。
本書を読んでいると、2年前に安部公房の娘・安部ねりが上梓した『安部公房伝』がオーバーラップしてくる。『安部公房伝』には山口果林は一切登場しないが、その欠落故に隔靴掻痒的なわかりにくさがあったと、いま思う。
私が高校生の頃の1966年、俳優座養成所を発展的に解消した形で桐朋学園大学短期大学演劇科がスタートし、千田是也、安部公房、田中千禾夫が教授に就任した。山口果林はその第1期生である。
桐朋学園大学での安部公房の教え子だった山口果林は、デビュー当時から、安部公房の秘蔵っ子と報道されていた。「果林」という芸名の名付け親が安部公房であることもよく知られている。
当時、私の友人の一人が「秘蔵っ子」という言葉を誤読して、山口果林を安部公房の娘だと勘違いしていたことがある。私より一つ上の山口果林は1947年生まれで、1914年生まれの安部公房とは23歳違いだから、親子でもおかしくない年回りではある。ちなみに、安部公房の本当の娘・ねりは1954年生まれだ。
『安部公房とわたし』で驚いたのは、二人の関係の深さだ。山口果林と安部公房との関係は果林のデビュー前の1969年から始まり、安部公房が亡くなるまで24年間続いた。1980年から夫人の安部真知と別居状態になった安部公房は、真知と離婚し果林と結婚したいと考えていたが、懇意の編集者から「ノーベル賞を取るまではスキャンダルはだめ」と言われていて、離婚できなかったそうだ。果林側からの証言なので真実は定かではないが、二人の関係がそこまで深かったとは思わなかった。
安部ねり(1954年生まれ)の『安部公房伝』には、安部夫妻は一緒にいることが不可能な状態になり、安部公房は箱根の山荘で一人暮らしをするようになったと淡々と書かれている。この箱根の山荘は事実上、山口果林と一緒に過ごす場だったようだ。
安部ねりは、父親の山荘生活を「男の子らしい生活を満喫した」と描写している。愛人である女優と過ごす時間も含めて「男の子らしい生活」とまとめてしまうのは技ではあるが、娘としては父親の愛人の存在を公にしたくないという強い意志があったようだ。
山口果林が『安部公房とわたし』を書いたのは、安部ねりの『安部公房伝』がきっかけではなかろうかと思えてくる。『安部公房伝』で存在を無視されたので、告白本を書きたくなったのかもしれない。『安部公房とわたし』には「透明人間にされた自分の人生」という言葉も出てくる。
『安部公房とわたし』は単なる暴露本ではなく、作家・安部公房の全体像をとらえる上での重要な資料になるのは間違いないだろう。本書をふまえて『箱男』や『密会』などを読み返すと、従来とはちがう読後感が得られそうな気がする。
『安部公房とわたし』には、安部真知が夫の愛人と対峙する安部公房夫人として登場する。だが、美術家としての安部真知への言及はほとんどない。また、安部ねりの『安部公房伝』では、娘と対立する母親としての安部真知の姿が印象的で、美術家・安部真知の影は薄い。
だが、『安部公房とはだれか』では、美術家・安部真知をかなり大きく扱い、高く評価している。著者は、小説家として大きな成功をおさめていた安部公房が1970年以降、演劇活動に深入りして行った要因の一つを「舞台美術家としての妻・真知の成長」としている。また、安部スタジオに関わっていたプロデューサ・戸田宗宏氏の次のような証言も紹介している。
「安部先生の作品において、真知さんの影響力ってすごく大きいんですよ。真知さんがいたから安部先生はあそこまで行ったんだと思います。」
若い時からの芸術的同志だった妻・真知の存在が大きくなっていくに従って、安部公房はその妻から逃げたくなったのだろうか。わからないでもない心理だ。
山口果林の『安部公房とわたし』を安部ねりの『安部公房伝』と重ねあわせると、夫であり父である一人の男を巡る妻と愛人の確執、愛人と娘の確執、妻と娘の確執などが浮かび上がってくる。どこにでもありそうな光景である。
この2冊にさらに『安部公房とはだれか』を重ねてみると、少しスケールが拡大し、「溢れんばかりの想像力と野心のみを武器に」大きな成功を収めた男の、その後の孤高と焦燥の「亡命生活」のような姿が見えてくる。これも、ありがちな姿かもしれない。
安部公房の生涯は、どこにでもありそうではない世界を描き出そうとしていた安部公房の作品世界とは重なりあうわけではない。このギャップに、安部公房世界の面白さと魅力を見出すことができそうな気がする。
コメント
_ かわじもとたか ― 2024年11月15日 08時53分
初めまして。木村陽子さんの本を読みたくなりました。来年、豊後高田市で「安部真知装画本(装丁)展」を開催しょうと本を集めています。64冊の装画本を見つけ、39冊を集めたところです。並べてみると、実に多彩画でシュールから実写的さらに抽象、また活字のみと、和田誠風とか谷内六郎的とか、「~風」がないのは驚きで、まるで舞台風景を思わせる展開の画です。2025年が33回忌です。豊後高田市は真知の故郷です。画家としての安部真知の復活を願いたいところです。私も団塊の世代っです。
_ 梅村守 ― 2024年11月16日 00時46分
コメント、ありがとうございます。
2024年12月8日まで県立神奈川近代文学館で開催中の『安部公房展』には、安部真知のコーナーがありました。舞台装置の模型やリンゴの木彫なども展示していました。
2024年12月8日まで県立神奈川近代文学館で開催中の『安部公房展』には、安部真知のコーナーがありました。舞台装置の模型やリンゴの木彫なども展示していました。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://dark.asablo.jp/blog/2013/08/29/6964506/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。

最近のコメント