清水邦夫の古い戯曲集を読んだ ― 2026年05月22日
来週、清水邦夫(1936-2021)作の『あの、愛の一群たち』という芝居を観る予定だ。できれば事前に戯曲を読めないかとネット検索し、この戯曲が収録されている古い戯曲集をネット古書店で入手した。
『あらかじめ失われた恋人たちよ 劇篇』(清水邦夫/講談社/1981.10)
本書は次の三つの戯曲を収録している。巻末に上演記録もある。
「あの、愛の一群たち」(1980年7月、木冬社公演)
「一九八一・嫉妬」(1981年5月、文学座アトリエ公演)
「あらかじめ失われた恋人たちよ―劇篇―」(1981年10月、木冬社公演)
書名になった戯曲は、1971年公開のATG映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』(監督:田原総一朗、清水邦夫、出演:石橋蓮司、桃井かおり、加納典明、他)の「劇篇」である。私が大学生時代に公開されたこの映画、タイトルは記憶に残っている。当時、ATG映画は何本か観ているが、この映画は観ていない。
「劇篇」を読む前に映画を観ておく方がよかろうと思って調べると、プライム・ビデオで視聴可能(400円)だ。まず、55年前のこの映画を観た。
映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』は、1970年頃の空気を濃厚に映したATGらしいモノクロ映画で、石橋蓮司も桃井かおりも若い。フーテンの若者(石橋蓮司)が日本海沿岸をさすらい、唖のカップル(加納典明と桃井かおり)に出会い、共にさまよう話である。言葉を失った加納典明と桃井かおりに台詞はなく、石橋蓮司がしゃべり続ける。
オンデマンドで映画を観た後、「劇篇」を読んだ。芝居の冒頭、主人公の「男」が次のように語る。
「十年前、リルケの詩から題名をとった映画がつくられました、<あらかじめ失われた恋人たちよ>……噂によれば、封切当時アートシアター・ギルド作品としてはビリから二番目に当らなかった映画だそうです。そんなわけでごらんになっていない方も多いと思いますが、とりたてて筋を説明してもはじまらない映画で、ま、いってみれば、このぼくを十年若くしたような青年が日本海沿岸をうろつく……そういった話です。」
映画の主人公の10年後を描いた芝居だろうと思って読み進めたが、映画とは別世界の芝居だった。幻の蝶が生息するという森の中で展開する話で、映画との接点はほとんどない。主人公の「男」は蝶の収集家である。三人の女性(女性歯科医、その妹、死んだ弟の妻である歯科医)の人間像が印象深い不思議な戯曲だった。
目当ての「あの、愛の一群たち」は狂気が生み出す幻の人物と現実の人物の相克と溶融を描いている。郷土資料館という奇妙な場所を舞台にした戯曲で、一読では把握しにくい。舞台を観るのが楽しみだ。
「一九八一・嫉妬」も狂気と正常の狭間に展開する奇妙な家庭劇である。安部公房を彷彿させる部分もあり、清水邦夫がデビュー時に安部公房から高く評価されたことを想起した。その後の清水邦夫作品を安部公房がどう評価していたかは知らないが…。
『あらかじめ失われた恋人たちよ 劇篇』(清水邦夫/講談社/1981.10)
本書は次の三つの戯曲を収録している。巻末に上演記録もある。
「あの、愛の一群たち」(1980年7月、木冬社公演)
「一九八一・嫉妬」(1981年5月、文学座アトリエ公演)
「あらかじめ失われた恋人たちよ―劇篇―」(1981年10月、木冬社公演)
書名になった戯曲は、1971年公開のATG映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』(監督:田原総一朗、清水邦夫、出演:石橋蓮司、桃井かおり、加納典明、他)の「劇篇」である。私が大学生時代に公開されたこの映画、タイトルは記憶に残っている。当時、ATG映画は何本か観ているが、この映画は観ていない。
「劇篇」を読む前に映画を観ておく方がよかろうと思って調べると、プライム・ビデオで視聴可能(400円)だ。まず、55年前のこの映画を観た。
映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』は、1970年頃の空気を濃厚に映したATGらしいモノクロ映画で、石橋蓮司も桃井かおりも若い。フーテンの若者(石橋蓮司)が日本海沿岸をさすらい、唖のカップル(加納典明と桃井かおり)に出会い、共にさまよう話である。言葉を失った加納典明と桃井かおりに台詞はなく、石橋蓮司がしゃべり続ける。
オンデマンドで映画を観た後、「劇篇」を読んだ。芝居の冒頭、主人公の「男」が次のように語る。
「十年前、リルケの詩から題名をとった映画がつくられました、<あらかじめ失われた恋人たちよ>……噂によれば、封切当時アートシアター・ギルド作品としてはビリから二番目に当らなかった映画だそうです。そんなわけでごらんになっていない方も多いと思いますが、とりたてて筋を説明してもはじまらない映画で、ま、いってみれば、このぼくを十年若くしたような青年が日本海沿岸をうろつく……そういった話です。」
映画の主人公の10年後を描いた芝居だろうと思って読み進めたが、映画とは別世界の芝居だった。幻の蝶が生息するという森の中で展開する話で、映画との接点はほとんどない。主人公の「男」は蝶の収集家である。三人の女性(女性歯科医、その妹、死んだ弟の妻である歯科医)の人間像が印象深い不思議な戯曲だった。
目当ての「あの、愛の一群たち」は狂気が生み出す幻の人物と現実の人物の相克と溶融を描いている。郷土資料館という奇妙な場所を舞台にした戯曲で、一読では把握しにくい。舞台を観るのが楽しみだ。
「一九八一・嫉妬」も狂気と正常の狭間に展開する奇妙な家庭劇である。安部公房を彷彿させる部分もあり、清水邦夫がデビュー時に安部公房から高く評価されたことを想起した。その後の清水邦夫作品を安部公房がどう評価していたかは知らないが…。
デュマ『黒いチューリップ』は17世紀オランダが舞台 ― 2026年05月20日
唐十郎の芝居『黒いチューリップ』を観て、この芝居の素材の一つであるデュマの同名の小説が気がかりになり、ネット古書店で入手して読んだ。
『黒いチューリップ』(アレクサンドル・デュマ/宗左近訳/創元推理文庫)
入手したのはカバーのない50年以上前の文庫本で、ページは日焼けて黄ばみ、活字も小さい。高齢者に薄め印字の小活字はつらいが、ハラハラドキドキのエンタメ小説なので読み通せた。
アレクサンドル・デュマ、19世紀パリの王様の一人である。私がデュマの名を知ったのは小学生の頃だ。連続ラジオドラマで『デュマ原作、がんくつ王』というナレーションをくり返し聞き、とても面白い物語を書く人だと刷り込まれた。ジュニア向け『がんくつ王』や大人向け『巌窟王』で面白さを堪能したが、全訳『モンテクリスト伯』を読んだのは17年前の60歳頃だ。長い船旅を体験し、船の図書室にあった『モンテクリスト伯』(松下和則・松下彩子訳)を読んだ。『三銃士』の全訳を読んだの60代半ばの9年前である。デュマの小説はこの二つしか読んでいない。『黒いチューリップ』は三作目だ。
『黒いチューリップ』は歴史恋愛小説である。読ませる工夫はあるが、やや単調な勧善懲悪譚で、面白さは『モンテクリスト伯』や『三銃士』に劣る。
主人公の青年コルネリウスは親が残した資産で暮らすチューリップ愛好家である。黒いチューリップの栽培に心血をそそいでいる。当時、黒いチューリップを咲かせた者には莫大な賞金が約束されていた。コルネリウスは黒いチューリップの栽培に成功するが………という物語である。
唐十郎の『黒いチューリップ』には「デュマは黒いチューリップの栽培法をあきらかにしていない」と語るシーンがあった。チューリップ栽培の蘊蓄はあるが黒い花を咲かせる秘訣は書いていない。ネット検索すると「漆黒のチューリップは存在しないが、光の加減で黒に見えるチューリップは存在する」とあった。現在、「ブラック・ヒーロー」「クィーン・オブ・ナイト」などの品種が黒いチューリップとされているそうだ。
私がこの小説を興味深く感じたのは、黒いチューリップに関わる事柄よりは歴史背景にある。物語は1672年のデ・ウィット兄弟殺害事件を背景に展開する――と言っても、この事件を私が知っていたわけではない。小説の冒頭に事件のシーンがあり、3年前に読んだ『物語オランダの歴史』を繙いて確認した。
私が『物語オランダの歴史』を読んだのは、法学者グロティウスについて知りたかったからであり、この本によって、投獄されたグロティウスが妻の機転で長櫃に隠れて脱獄するという痛快な逸話を知った。グロティウスの脱獄は1621年、デ・ウィット兄弟殺害の半世紀前である。
『黒いチューリップ』の主人公は陰謀によって政治犯として投獄されるが、その監獄が何とグロティウスと同じなのだ。デュマは次のように書いている。
「その部屋は、本をつめる箱に身を隠して、グロチュウスが脱出した部屋である。いまはだれでも知っているように、その妙案はグロチュウス夫人が考えついたものである」
この先の主人公の恋愛の展開を示唆する設定であり、デュマのサービス精神を感じる。読者の私はそのサービスを享受した。
『黒いチューリップ』(アレクサンドル・デュマ/宗左近訳/創元推理文庫)
入手したのはカバーのない50年以上前の文庫本で、ページは日焼けて黄ばみ、活字も小さい。高齢者に薄め印字の小活字はつらいが、ハラハラドキドキのエンタメ小説なので読み通せた。
アレクサンドル・デュマ、19世紀パリの王様の一人である。私がデュマの名を知ったのは小学生の頃だ。連続ラジオドラマで『デュマ原作、がんくつ王』というナレーションをくり返し聞き、とても面白い物語を書く人だと刷り込まれた。ジュニア向け『がんくつ王』や大人向け『巌窟王』で面白さを堪能したが、全訳『モンテクリスト伯』を読んだのは17年前の60歳頃だ。長い船旅を体験し、船の図書室にあった『モンテクリスト伯』(松下和則・松下彩子訳)を読んだ。『三銃士』の全訳を読んだの60代半ばの9年前である。デュマの小説はこの二つしか読んでいない。『黒いチューリップ』は三作目だ。
『黒いチューリップ』は歴史恋愛小説である。読ませる工夫はあるが、やや単調な勧善懲悪譚で、面白さは『モンテクリスト伯』や『三銃士』に劣る。
主人公の青年コルネリウスは親が残した資産で暮らすチューリップ愛好家である。黒いチューリップの栽培に心血をそそいでいる。当時、黒いチューリップを咲かせた者には莫大な賞金が約束されていた。コルネリウスは黒いチューリップの栽培に成功するが………という物語である。
唐十郎の『黒いチューリップ』には「デュマは黒いチューリップの栽培法をあきらかにしていない」と語るシーンがあった。チューリップ栽培の蘊蓄はあるが黒い花を咲かせる秘訣は書いていない。ネット検索すると「漆黒のチューリップは存在しないが、光の加減で黒に見えるチューリップは存在する」とあった。現在、「ブラック・ヒーロー」「クィーン・オブ・ナイト」などの品種が黒いチューリップとされているそうだ。
私がこの小説を興味深く感じたのは、黒いチューリップに関わる事柄よりは歴史背景にある。物語は1672年のデ・ウィット兄弟殺害事件を背景に展開する――と言っても、この事件を私が知っていたわけではない。小説の冒頭に事件のシーンがあり、3年前に読んだ『物語オランダの歴史』を繙いて確認した。
私が『物語オランダの歴史』を読んだのは、法学者グロティウスについて知りたかったからであり、この本によって、投獄されたグロティウスが妻の機転で長櫃に隠れて脱獄するという痛快な逸話を知った。グロティウスの脱獄は1621年、デ・ウィット兄弟殺害の半世紀前である。
『黒いチューリップ』の主人公は陰謀によって政治犯として投獄されるが、その監獄が何とグロティウスと同じなのだ。デュマは次のように書いている。
「その部屋は、本をつめる箱に身を隠して、グロチュウスが脱出した部屋である。いまはだれでも知っているように、その妙案はグロチュウス夫人が考えついたものである」
この先の主人公の恋愛の展開を示唆する設定であり、デュマのサービス精神を感じる。読者の私はそのサービスを享受した。
4姉妹の華やかなタンゴが力強い『花よりタンゴ』 ― 2026年05月18日
紀伊國屋サザンシアターでこまつ座公演『花よりタンゴ』(作:井上ひさし/演出:栗山民也/出演:高橋克実、朝海ひかる、南沢奈央、大原櫻子、平体まひろ、他)を観た。
初演は1986年、井上ひさしは「昭和庶民伝三部作」の第ニ部としてこの作品を書いたが、作者としては満足できる作品でなく、三部作から外した。だが、栗山民也が「面白い」と言って作者生前に再演した――という経緯を、この公演のパンフレットで知った。
私は『花よりタンゴ』のみならず「昭和庶民伝三部作(『きらめく星座』『闇に咲く花』『雪やこんこん』)」も観たことがなく、戯曲も読んでいない。今回の公演のチラシを見て、面白そうだと思ってチケットを手配した。
期待通りの面白い芝居だった。井上ひさしがこの作品を不本意に感じたのは、面白く書き過ぎたせいかもしれない。
開演前の舞台に緞帳が降りている。緞帳の左下に「銀座ラッキーダンスホール」の文字がある。この緞帳も舞台装置の一部なのだ。緞帳が上がると、ややクラシックなホールが現れる。上手でピアノ演奏、それに合わせて若い女性が歌っている。歌唱練習のようだ。
時代は終戦から2年後の1947年、場所は銀座のダンスホール。このダンスホールを経営しているのは元男爵家の4姉妹(朝海ひかる、南沢奈央、大原櫻子、平体まひろ)である。下の二人はまだ学生だ。冒頭で歌っていたのは歌手志望の三女だった。
終戦によって財産を失った4姉妹は、このダンスホールを経営しながらここで暮らしている。ダンスホール経営は順調とは言えず、家賃が滞っている。家主に手付金を払ってホールの新たな借り手として乗り込んで来た成金男は、4姉妹のかつての使用人だった――。
没落貴族と元使用人の話である。『桜の園』を思わせる。芝居の雰囲気にチエホフに通じるが、4姉妹はチエホフの登場人物よりは生命力旺盛である。浮沈の激しい成金男(高橋克実)には、したたかな愛嬌がある。
4人姉妹モノは、やはり華やかだ。4人が力強くタンゴを踊るシーンがいい。庶民の対極にある存在への批判的メッセージを秘めた芝居だとは思う。だが、ドタバタ劇を含んだテンポの速い展開は、時代の変転に翻弄されながらも、くじけることなく生き延びていく人々の活力を謳った愉快な芝居に感じられた。
ミラーボールや緞帳の文字が昭和レトロを醸し出しているが、それも終戦直後の元気な昭和を想起させる。
初演は1986年、井上ひさしは「昭和庶民伝三部作」の第ニ部としてこの作品を書いたが、作者としては満足できる作品でなく、三部作から外した。だが、栗山民也が「面白い」と言って作者生前に再演した――という経緯を、この公演のパンフレットで知った。
私は『花よりタンゴ』のみならず「昭和庶民伝三部作(『きらめく星座』『闇に咲く花』『雪やこんこん』)」も観たことがなく、戯曲も読んでいない。今回の公演のチラシを見て、面白そうだと思ってチケットを手配した。
期待通りの面白い芝居だった。井上ひさしがこの作品を不本意に感じたのは、面白く書き過ぎたせいかもしれない。
開演前の舞台に緞帳が降りている。緞帳の左下に「銀座ラッキーダンスホール」の文字がある。この緞帳も舞台装置の一部なのだ。緞帳が上がると、ややクラシックなホールが現れる。上手でピアノ演奏、それに合わせて若い女性が歌っている。歌唱練習のようだ。
時代は終戦から2年後の1947年、場所は銀座のダンスホール。このダンスホールを経営しているのは元男爵家の4姉妹(朝海ひかる、南沢奈央、大原櫻子、平体まひろ)である。下の二人はまだ学生だ。冒頭で歌っていたのは歌手志望の三女だった。
終戦によって財産を失った4姉妹は、このダンスホールを経営しながらここで暮らしている。ダンスホール経営は順調とは言えず、家賃が滞っている。家主に手付金を払ってホールの新たな借り手として乗り込んで来た成金男は、4姉妹のかつての使用人だった――。
没落貴族と元使用人の話である。『桜の園』を思わせる。芝居の雰囲気にチエホフに通じるが、4姉妹はチエホフの登場人物よりは生命力旺盛である。浮沈の激しい成金男(高橋克実)には、したたかな愛嬌がある。
4人姉妹モノは、やはり華やかだ。4人が力強くタンゴを踊るシーンがいい。庶民の対極にある存在への批判的メッセージを秘めた芝居だとは思う。だが、ドタバタ劇を含んだテンポの速い展開は、時代の変転に翻弄されながらも、くじけることなく生き延びていく人々の活力を謳った愉快な芝居に感じられた。
ミラーボールや緞帳の文字が昭和レトロを醸し出しているが、それも終戦直後の元気な昭和を想起させる。
紅テントの『鉛の兵隊』はイラク戦争への自衛隊派遣が種 ― 2026年05月16日
新宿花園神社境内の紅テントで劇団唐組公演『鉛の兵隊』(作:唐十郎、演出:久保井研+唐十郎、出演:久保井研、藤井由紀、加藤野奈、大鶴美仁音、福本雄樹、友寄有司、影山翔一、他)を観た。
この芝居、初演は2005年の唐組公演で、その後も再演されているそうだが、私は今回が初見である。テントの売店で文庫本サイズの戯曲を売っていたので購入し、観劇後に目を通した。
かなり入り組んだ芝居である。舞台を一回観て、おおまかな雰囲気を楽しんだ気分にはなるが、いま一つ内容をつかみきれない。観劇後に戯曲に目を通し、『唐十郎のせりふ』(新井高子)の『鉛の兵隊』に関する論評を読み返し、「そういうことだったのか」と事後に得心するシーンがいくつもあった。
唐十郎の芝居は夢幻的異世界に見えて、現実世界に根差した材料が散りばめられている。現実社会の取材で得た情報と唐十郎の脳内に蓄積されたアレコレが溶融して「もうひとつの世界」が立ち上がってくる。
『鉛の兵隊』のメイン素材はイラク戦争でイラク南部のムサンナ州に派遣された自衛隊員であり、第二次大戦時に旭川からガダルカナルに派遣された陸軍第七師団である。それに、アンデルセン童話「鉛の兵隊(実は「錫の兵隊」)を絡めている。主人公の二風谷やヒロイン(?)の小谷にアイヌの血が流れているとは、うかつにも観劇中には気づかなかった。聞きなれない「シチカップ(鷹)」「ホルケウ(狼)」という言葉を受け取り損ねていたのだ。
全2幕の芝居である。1幕目の舞台は「スタント店ドタンバ」、2幕目は下水口がある半地下の不思議な空間で、「渦屋」という資源回収業風の<指紋屋>がある。スタントとは要は「身代わり」業であり、戦場に赴く自衛隊員の「身代わり」が発端だ。乱暴に単純化すれば、戦場の事故で失った指紋を巡る物語である。何故か中勘助の『銀の匙』が絡んでくる。
アンデルセンの「錫の兵隊」は子供の時に読んだかすかな記憶があるもののほとんど失念している。観劇後にネットの青空文庫で「しっかり者のすずの兵隊」を読んだ。かなりヘンな話だと再認識した。
この芝居、初演は2005年の唐組公演で、その後も再演されているそうだが、私は今回が初見である。テントの売店で文庫本サイズの戯曲を売っていたので購入し、観劇後に目を通した。
かなり入り組んだ芝居である。舞台を一回観て、おおまかな雰囲気を楽しんだ気分にはなるが、いま一つ内容をつかみきれない。観劇後に戯曲に目を通し、『唐十郎のせりふ』(新井高子)の『鉛の兵隊』に関する論評を読み返し、「そういうことだったのか」と事後に得心するシーンがいくつもあった。
唐十郎の芝居は夢幻的異世界に見えて、現実世界に根差した材料が散りばめられている。現実社会の取材で得た情報と唐十郎の脳内に蓄積されたアレコレが溶融して「もうひとつの世界」が立ち上がってくる。
『鉛の兵隊』のメイン素材はイラク戦争でイラク南部のムサンナ州に派遣された自衛隊員であり、第二次大戦時に旭川からガダルカナルに派遣された陸軍第七師団である。それに、アンデルセン童話「鉛の兵隊(実は「錫の兵隊」)を絡めている。主人公の二風谷やヒロイン(?)の小谷にアイヌの血が流れているとは、うかつにも観劇中には気づかなかった。聞きなれない「シチカップ(鷹)」「ホルケウ(狼)」という言葉を受け取り損ねていたのだ。
全2幕の芝居である。1幕目の舞台は「スタント店ドタンバ」、2幕目は下水口がある半地下の不思議な空間で、「渦屋」という資源回収業風の<指紋屋>がある。スタントとは要は「身代わり」業であり、戦場に赴く自衛隊員の「身代わり」が発端だ。乱暴に単純化すれば、戦場の事故で失った指紋を巡る物語である。何故か中勘助の『銀の匙』が絡んでくる。
アンデルセンの「錫の兵隊」は子供の時に読んだかすかな記憶があるもののほとんど失念している。観劇後にネットの青空文庫で「しっかり者のすずの兵隊」を読んだ。かなりヘンな話だと再認識した。
イランのアラグチ外相の歴史概説書が緊急出版された ― 2026年05月14日
ニュースによく登場するイランのアラグチ外相は日本大使も務めた親日家だ。そのアラグチ外相の書が緊急出版された。
『歴史の歩みにおけるイランと日本:サーサーン朝ペルシアから現代まで』(アラグチ、モヘブ/井波誉弘訳/PAO)
アラグチ外相と女性外務省書記官の共著である。本書は、日本語訳の他にイラン語原文、英訳も収録している。日本語訳は約60頁、シルクロードの時代から現代までのイランと日本との交流史を概説している。
現役の政治家による緊急出版だから日本に対する政治的意図が込められているのは当然だ。本書の末尾近くで、日本を以下のように位置付けている。
「日本は、西側陣営の中でイランと良好な外交関係を維持している唯一のアメリカの同盟国である。それゆえ、日本には現実的かつ中立的、そして平和を追求する仲介者として、イランと協力しながら中東地域の政治的安定と永続的な平和体制の構築に寄与するポテンシャルがある。」
これが本書のメッセージだと思う。政治的パンフレットに近いとは言え、外交史の概説書であり、私の知らない事柄の解説も多く、興味深く読了した。私は、昨年末に出た『イラン現代史』を読んでいるが、イランと日本の外交史に関してはあの本よりも詳しい。
明治時代から第二次大戦に至るまでの話が私には新鮮だった。知らない日本人が多く登場するが、私の関心対象である榎本武揚の名も出てくる。榎本はサンクトペテルグルクでシャーや皇太子らと会談しているそうだ。明治の外交官・吉田正春も登場する。この人の『波斯之旅』はいずれ読みたいと思っている。
本書であらためて認識したのは日露戦争の影響力である。日露戦争の衝撃がイランの立憲革命につながったそうだ。『シャー・ナーメ(王書)』ならぬ『ミカド・ナーメ(天皇の書)』なる明治天皇と日露戦争を詠った詩集まで出版されたという。
第二次大戦後のイベントで大きいのは、やはり日章丸だ。IJPC(イラン・ジャパン石油化学)への言及もあるが、やや歯切れが悪い。石油危機やイラン・イラク戦争などの困難に直面して清算されたとしている。間違いではないかもしれないが、最大の要因はイラン・イスラム革命だろう。
当然ながら本書は、現在のイラン体制の立場で書かれている。この体制が将来どうなっていくかは不明だが、体制側のなかにも多様な人々がいるのだと思う。
『歴史の歩みにおけるイランと日本:サーサーン朝ペルシアから現代まで』(アラグチ、モヘブ/井波誉弘訳/PAO)
アラグチ外相と女性外務省書記官の共著である。本書は、日本語訳の他にイラン語原文、英訳も収録している。日本語訳は約60頁、シルクロードの時代から現代までのイランと日本との交流史を概説している。
現役の政治家による緊急出版だから日本に対する政治的意図が込められているのは当然だ。本書の末尾近くで、日本を以下のように位置付けている。
「日本は、西側陣営の中でイランと良好な外交関係を維持している唯一のアメリカの同盟国である。それゆえ、日本には現実的かつ中立的、そして平和を追求する仲介者として、イランと協力しながら中東地域の政治的安定と永続的な平和体制の構築に寄与するポテンシャルがある。」
これが本書のメッセージだと思う。政治的パンフレットに近いとは言え、外交史の概説書であり、私の知らない事柄の解説も多く、興味深く読了した。私は、昨年末に出た『イラン現代史』を読んでいるが、イランと日本の外交史に関してはあの本よりも詳しい。
明治時代から第二次大戦に至るまでの話が私には新鮮だった。知らない日本人が多く登場するが、私の関心対象である榎本武揚の名も出てくる。榎本はサンクトペテルグルクでシャーや皇太子らと会談しているそうだ。明治の外交官・吉田正春も登場する。この人の『波斯之旅』はいずれ読みたいと思っている。
本書であらためて認識したのは日露戦争の影響力である。日露戦争の衝撃がイランの立憲革命につながったそうだ。『シャー・ナーメ(王書)』ならぬ『ミカド・ナーメ(天皇の書)』なる明治天皇と日露戦争を詠った詩集まで出版されたという。
第二次大戦後のイベントで大きいのは、やはり日章丸だ。IJPC(イラン・ジャパン石油化学)への言及もあるが、やや歯切れが悪い。石油危機やイラン・イラク戦争などの困難に直面して清算されたとしている。間違いではないかもしれないが、最大の要因はイラン・イスラム革命だろう。
当然ながら本書は、現在のイラン体制の立場で書かれている。この体制が将来どうなっていくかは不明だが、体制側のなかにも多様な人々がいるのだと思う。
團十郎の助六と辰之助の牛若丸を観た ― 2026年05月13日
歌舞伎座で「團菊祭五月大歌舞伎」の夜の部を観た。演目は以下の二つだ。
《夜の部》
鬼一法眼三略巻 菊畑
助六由縁江戸桜
團十郎の助六が目当てである。「歌舞伎と言えば團十郎の助六」のイメージがある。まだ、團十郎の助六を観たことがないと思い至り、歌舞伎座に足を運んだ。
私は9年前、團十郎が海老蔵だったときに彼の助六を観ている。それが、助六初観劇だった。8年前には仁左衛門の助六も観た。いずれの舞台も記憶の彼方で、あまり憶えていない。だから、今回は新鮮な気持ちで観劇できた。
「助六由縁江戸桜」は上演時間約2時間と比較的長いが、入り組んだストーリー展開はない。揚巻たちの華やかな花魁道中、助六の伊達男ぶり、ユーモラスな股くぐりなど「見せ場」の連続を愉しむ舞台である。やはり、歌舞伎らしい歌舞伎だ。
開幕早々、新之助(13歳)が裃姿で堂々と口上を語る。子供はアッと言う間に大きくなっていくのだなあと、老人らしい凡庸な感慨をおぼえた。
人間国宝の梅玉のコミカルな演技(白酒売)に、この人はこんな演技もするのかと感心した。先代の團十郎のときから同じ役を演じているそうだ。
「鬼一法眼三略巻 菊畑」は初めて観る演目である。この芝居は「三代目尾上辰之助襲名披露狂言」と銘打っている。義経(牛若丸)が虎蔵という若者に身をやつしていて、「実は…」という展開の話だった。虎蔵を演じるのが辰之助(20歳)である。芝居の途中に襲名口上がある。芝居を中断し、役者たちがあらたまって口上を述べ、その後に芝居を再開するという流れだった。
歌舞伎の口上は面白い趣向だと思う。役者が素に戻るのではなく別の役に転じて演じているようにも見えて、早替わりの舞台の趣がある。
《夜の部》
鬼一法眼三略巻 菊畑
助六由縁江戸桜
團十郎の助六が目当てである。「歌舞伎と言えば團十郎の助六」のイメージがある。まだ、團十郎の助六を観たことがないと思い至り、歌舞伎座に足を運んだ。
私は9年前、團十郎が海老蔵だったときに彼の助六を観ている。それが、助六初観劇だった。8年前には仁左衛門の助六も観た。いずれの舞台も記憶の彼方で、あまり憶えていない。だから、今回は新鮮な気持ちで観劇できた。
「助六由縁江戸桜」は上演時間約2時間と比較的長いが、入り組んだストーリー展開はない。揚巻たちの華やかな花魁道中、助六の伊達男ぶり、ユーモラスな股くぐりなど「見せ場」の連続を愉しむ舞台である。やはり、歌舞伎らしい歌舞伎だ。
開幕早々、新之助(13歳)が裃姿で堂々と口上を語る。子供はアッと言う間に大きくなっていくのだなあと、老人らしい凡庸な感慨をおぼえた。
人間国宝の梅玉のコミカルな演技(白酒売)に、この人はこんな演技もするのかと感心した。先代の團十郎のときから同じ役を演じているそうだ。
「鬼一法眼三略巻 菊畑」は初めて観る演目である。この芝居は「三代目尾上辰之助襲名披露狂言」と銘打っている。義経(牛若丸)が虎蔵という若者に身をやつしていて、「実は…」という展開の話だった。虎蔵を演じるのが辰之助(20歳)である。芝居の途中に襲名口上がある。芝居を中断し、役者たちがあらたまって口上を述べ、その後に芝居を再開するという流れだった。
歌舞伎の口上は面白い趣向だと思う。役者が素に戻るのではなく別の役に転じて演じているようにも見えて、早替わりの舞台の趣がある。
『十字軍という聖戦』はやや学術的な概説書 ― 2026年05月11日
十字軍に関する次の本を古書で入手して読んだ。
『十字軍という聖戦:キリスト教世界の解放のための戦い』(八塚春児/NHKブックス/2008.2)
著者は1951年生まれの西洋中世史研究者、18年前に出たNHKブックスである。一般向け概説書のつもりで読み始めたが、少し勝手が違う。十字軍研究の歴史や史料批判などから始まり、大学の講義のようでもある。十字軍に関する一応の知識がある読者を想定していると思える。
本書の「はじめに」では、少年十字軍がどのように語られてきたかを話題にしている。少年十字軍が奴隷商人に騙されてエジプトに売られたという話は虚構らしい。著者は、史料で確認できることと伝説との峻別を説き、1960年代に出た中公版『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』(堀米庸三)の少年十字軍に関する記述を「一般的な伝説を無批判に踏襲するだけ」と批判している。
大学講義風は冒頭の3章「第1回十字軍の招集」「教皇の意図」「十字軍思想の形成」までで、それ以降は解説風で読みやすい。
著者が冒頭で史料批判に基づいて論じているのは、クレルモン会議で教皇ウルバヌスは何を語ったか、会議でのウルバヌス演説にどれほどの影響力があったか、ウルバヌスはエルサレム解放を意図していたか、教皇特使アデマールの実際の役割はどの程度だったか……などなどである。一般読者の私から見れば些細な議論にも感じられるが、研究者の関心のありようが窺えて興味深い。
本書は、現代の研究者たちが従来の見解とは異なる見方をしている事例をいろいろ紹介している。民衆十字軍のユダヤ人迫害の背景解説は、先日読んだ『ユダヤ人の歴史』に重なり、ナルホドと思った。十字軍は回を重ねるごとに本来の姿から逸脱していったという見方の誤りなども得心できた。
交渉によってエルサレムを無血奪回したフリードリヒ2世については「寛容と平和主義の精神による紛争解決の例として高く評価する論者も多い。しかし、実際はあまり過大に評価すべきではない」とし、その論拠をいくつか挙げている。フリードリヒ2世ファンの私としては少々残念だが、史料批判に基づく研究者の見解には重みがある。
『十字軍という聖戦:キリスト教世界の解放のための戦い』(八塚春児/NHKブックス/2008.2)
著者は1951年生まれの西洋中世史研究者、18年前に出たNHKブックスである。一般向け概説書のつもりで読み始めたが、少し勝手が違う。十字軍研究の歴史や史料批判などから始まり、大学の講義のようでもある。十字軍に関する一応の知識がある読者を想定していると思える。
本書の「はじめに」では、少年十字軍がどのように語られてきたかを話題にしている。少年十字軍が奴隷商人に騙されてエジプトに売られたという話は虚構らしい。著者は、史料で確認できることと伝説との峻別を説き、1960年代に出た中公版『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』(堀米庸三)の少年十字軍に関する記述を「一般的な伝説を無批判に踏襲するだけ」と批判している。
大学講義風は冒頭の3章「第1回十字軍の招集」「教皇の意図」「十字軍思想の形成」までで、それ以降は解説風で読みやすい。
著者が冒頭で史料批判に基づいて論じているのは、クレルモン会議で教皇ウルバヌスは何を語ったか、会議でのウルバヌス演説にどれほどの影響力があったか、ウルバヌスはエルサレム解放を意図していたか、教皇特使アデマールの実際の役割はどの程度だったか……などなどである。一般読者の私から見れば些細な議論にも感じられるが、研究者の関心のありようが窺えて興味深い。
本書は、現代の研究者たちが従来の見解とは異なる見方をしている事例をいろいろ紹介している。民衆十字軍のユダヤ人迫害の背景解説は、先日読んだ『ユダヤ人の歴史』に重なり、ナルホドと思った。十字軍は回を重ねるごとに本来の姿から逸脱していったという見方の誤りなども得心できた。
交渉によってエルサレムを無血奪回したフリードリヒ2世については「寛容と平和主義の精神による紛争解決の例として高く評価する論者も多い。しかし、実際はあまり過大に評価すべきではない」とし、その論拠をいくつか挙げている。フリードリヒ2世ファンの私としては少々残念だが、史料批判に基づく研究者の見解には重みがある。
花園神社で唐十郎の『黒いチューリップ』を観た ― 2026年05月09日
新宿花園神社境内の紫テントで新宿梁山泊公演『黒いチューリプ』(作:唐十郎、演出:金守珍、出演:水嶋カンナ、荒澤守、二條正士、鴨鈴女、他)を観た。
1983年に唐十郎が蜷川幸雄に書き下ろした芝居で、初演は西部劇場(パルコ劇場の前身)、李礼仙や柄本明が出演したそうだ。今回の演出の金守珍は蜷川幸雄と唐十郎の二人を師匠とする演劇人である。公演パンフレットには、初演時のチラシ・チケット・舞台写真などが載っている。当然ながら李礼仙も柄本明も若い。
私は今回が初見で、戯曲も未読だ。デュマに『黒いチューリプ』という小説があり、芝居のなかでデュマに言及しているが、その小説も私は読んでいない。
この芝居では、おかしな姉妹が栽培している「黒いチューリップ」という存在しえない花に、パチンコ台のチューリップを重ねている。パチプロと姉妹が絡んだ哀切で不思議な世界が展開する。チューリップ→パチンコの連想に共感した。
唐十郎は「刑務所志願の女」という新聞記事からこの芝居を発想し、その女を乗せたタクシー運転手にも取材したそうだ。そんな現実世界で得た素材は妄想世界に溶解し、怪異な別世界を紡ぎ出す建材に変換されている。
幕開きで怪しげな天魔が「時はゆくゆく 乙女は婆アに…」と歌いながら登場する。『少女仮面』冒頭の「老婆の歌」だ。あの歌に続く印象的な台詞「…錬肉術は誰にしよう」「何よりも、肉体を!」も語る。また、中盤では『ジョン・シルバー』の「74人で船出をしたが、帰ってきたのはただ一人」の歌も飛び出す。戯曲を読んでいないので、戯曲に組み込まれているのか演出の工夫なのかはわからない。テント内に唐十郎世界が立ち上がってくる楽しい仕掛けだ。オールド・ファンは感激。
一粒300メートルのグリコの看板を背負った狂言回しの「少年グリコ」が昭和の懐かしさを体現している。この芝居は『ロミオとジュリエット』を借用したシーンもあり、「小田島雄志訳」を持ち上げる台詞もある。1983年当時の空気を感じるが、21世紀の上演なら唐十郎ファンの松岡和子訳への挨拶があってもいいのではと思った。
ラストの屋台崩しは、端正で壮大なチューリップ畑が広がる。屋台崩しの先にまた舞台がある感じに意外性があり、こんな仕掛けもいいなと思った。初演の西部劇場でも、蜷川幸雄は屋台崩しもどきの工夫をしたのかもしれない。
1983年に唐十郎が蜷川幸雄に書き下ろした芝居で、初演は西部劇場(パルコ劇場の前身)、李礼仙や柄本明が出演したそうだ。今回の演出の金守珍は蜷川幸雄と唐十郎の二人を師匠とする演劇人である。公演パンフレットには、初演時のチラシ・チケット・舞台写真などが載っている。当然ながら李礼仙も柄本明も若い。
私は今回が初見で、戯曲も未読だ。デュマに『黒いチューリプ』という小説があり、芝居のなかでデュマに言及しているが、その小説も私は読んでいない。
この芝居では、おかしな姉妹が栽培している「黒いチューリップ」という存在しえない花に、パチンコ台のチューリップを重ねている。パチプロと姉妹が絡んだ哀切で不思議な世界が展開する。チューリップ→パチンコの連想に共感した。
唐十郎は「刑務所志願の女」という新聞記事からこの芝居を発想し、その女を乗せたタクシー運転手にも取材したそうだ。そんな現実世界で得た素材は妄想世界に溶解し、怪異な別世界を紡ぎ出す建材に変換されている。
幕開きで怪しげな天魔が「時はゆくゆく 乙女は婆アに…」と歌いながら登場する。『少女仮面』冒頭の「老婆の歌」だ。あの歌に続く印象的な台詞「…錬肉術は誰にしよう」「何よりも、肉体を!」も語る。また、中盤では『ジョン・シルバー』の「74人で船出をしたが、帰ってきたのはただ一人」の歌も飛び出す。戯曲を読んでいないので、戯曲に組み込まれているのか演出の工夫なのかはわからない。テント内に唐十郎世界が立ち上がってくる楽しい仕掛けだ。オールド・ファンは感激。
一粒300メートルのグリコの看板を背負った狂言回しの「少年グリコ」が昭和の懐かしさを体現している。この芝居は『ロミオとジュリエット』を借用したシーンもあり、「小田島雄志訳」を持ち上げる台詞もある。1983年当時の空気を感じるが、21世紀の上演なら唐十郎ファンの松岡和子訳への挨拶があってもいいのではと思った。
ラストの屋台崩しは、端正で壮大なチューリップ畑が広がる。屋台崩しの先にまた舞台がある感じに意外性があり、こんな仕掛けもいいなと思った。初演の西部劇場でも、蜷川幸雄は屋台崩しもどきの工夫をしたのかもしれない。








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