『すばらしい新世界』はブラック・コメディ ― 2026年09月16日
オルダス・ハックスリイの『すばらしい新世界』を読んだ。この反ユートピア小説の古典を入手したのは半世紀以上昔である。早川書房が1968年に刊行開始した『世界SF全集』の第1回配本が第10巻『ハックリイ/オーウェル』だった。この巻の刊行は10代のSFファンだった私には事件だった。当時、高名なのに入手困難だった『1984年』と『すばらしい新世界』を収録していたのだ。
本書を入手して『1984年』はすぐに読んだが、『すばらしい新世界』は後回しにした。人工授精で人間を生産する未来社会の話と聞いて、何となくイメージをつかんだ気分になって後回しにし、そのまま半世紀以上が経過した。
77歳になって遠い昔の宿題を思い出したのは、Eテレの「100分で名著」で『ハクスリー すばらしい新世界』が始まったからである。番組は録画したまま再生せず、古い『世界SF全集』を繙いた。
『すばらしい新世界』(オルダス・ハックスリイ/松村達雄訳/世界SF全集/早川書房/1968.10)
著者は名門の出である。祖父は「ダーウィンの番犬」と呼ばれた生物学者トマス・ハクスリイ、弟ジュリアン・ハクスリイも生物学者だ。この弟が書いた『進化とは何か』(ブルー・バックス)を学生時代に読んだ記憶がある。
オルダス・ハックスリイ(1984-1963)は江戸川乱歩と同い年で、『すばらしい新世界』が出たのは第一次大戦と第二次大戦の狭間の1932年である。第二次大戦後に出た『1984年』より17年早い。
この古い未来小説を読んで、反ユートピア小説には違いないがシニカルなブラック・コメディだと思った。「人間が人工授精で工場生産されるようになれば」という思考実験を展開し、その結果を英国風の皮肉なタッチで描いている。
社会から家族という概念がなくなり、万人が万人に尽くす社会となる。結婚がない社会は、万人が万人と恋愛するフリーセックスの社会である。ただし、社会を安定的に運営するため、アルファからエプシロンまで五段階の階層社会になっている。人間を出荷する工場の操作によって生まれる子の階層はあらかじめ決められる。各階層の人間は、自分にとって自分の階層がベストと感じる条件反射を埋め込まれている。下の階層は一卵性多胎児(96子!)である。
社会の安定には激情の抑制が必要だ。そのための薬品が配布されていて、個人は日常的に自主的にその薬品を服用している。
かなり面白い設定だ。現代の格差社会に通じるものもあり、「100分で名著」がこの小説を取り上げる理由もわかる。
著者は、こんな社会にわれわれと同じ感性の人間がまぎれ込んだらどうなるかを描いている。結果は悲喜劇である。ドタバタ悲劇とも言える。
この小説は作者の茶目っ気があふれている。宗教も神も存在しない社会において「ゴッド」の代用は「フォード様」だ。あの自動車王である。「フォードは自ら助ける者を助ける」という台詞も出てくる。多くの登場人物の名は、マルクス、ダーウィン、ヘルムホルツなど著名人の名を借用している。その含意はよくわからない。前半では反逆のヒーロー役だったバーナード・マルクスは後半で腰砕けになる。これも英国流ユーモアか。
本書を入手して『1984年』はすぐに読んだが、『すばらしい新世界』は後回しにした。人工授精で人間を生産する未来社会の話と聞いて、何となくイメージをつかんだ気分になって後回しにし、そのまま半世紀以上が経過した。
77歳になって遠い昔の宿題を思い出したのは、Eテレの「100分で名著」で『ハクスリー すばらしい新世界』が始まったからである。番組は録画したまま再生せず、古い『世界SF全集』を繙いた。
『すばらしい新世界』(オルダス・ハックスリイ/松村達雄訳/世界SF全集/早川書房/1968.10)
著者は名門の出である。祖父は「ダーウィンの番犬」と呼ばれた生物学者トマス・ハクスリイ、弟ジュリアン・ハクスリイも生物学者だ。この弟が書いた『進化とは何か』(ブルー・バックス)を学生時代に読んだ記憶がある。
オルダス・ハックスリイ(1984-1963)は江戸川乱歩と同い年で、『すばらしい新世界』が出たのは第一次大戦と第二次大戦の狭間の1932年である。第二次大戦後に出た『1984年』より17年早い。
この古い未来小説を読んで、反ユートピア小説には違いないがシニカルなブラック・コメディだと思った。「人間が人工授精で工場生産されるようになれば」という思考実験を展開し、その結果を英国風の皮肉なタッチで描いている。
社会から家族という概念がなくなり、万人が万人に尽くす社会となる。結婚がない社会は、万人が万人と恋愛するフリーセックスの社会である。ただし、社会を安定的に運営するため、アルファからエプシロンまで五段階の階層社会になっている。人間を出荷する工場の操作によって生まれる子の階層はあらかじめ決められる。各階層の人間は、自分にとって自分の階層がベストと感じる条件反射を埋め込まれている。下の階層は一卵性多胎児(96子!)である。
社会の安定には激情の抑制が必要だ。そのための薬品が配布されていて、個人は日常的に自主的にその薬品を服用している。
かなり面白い設定だ。現代の格差社会に通じるものもあり、「100分で名著」がこの小説を取り上げる理由もわかる。
著者は、こんな社会にわれわれと同じ感性の人間がまぎれ込んだらどうなるかを描いている。結果は悲喜劇である。ドタバタ悲劇とも言える。
この小説は作者の茶目っ気があふれている。宗教も神も存在しない社会において「ゴッド」の代用は「フォード様」だ。あの自動車王である。「フォードは自ら助ける者を助ける」という台詞も出てくる。多くの登場人物の名は、マルクス、ダーウィン、ヘルムホルツなど著名人の名を借用している。その含意はよくわからない。前半では反逆のヒーロー役だったバーナード・マルクスは後半で腰砕けになる。これも英国流ユーモアか。
小林恭二17年ぶりの新作小説の主人公は俳人・西東三鬼だが… ― 2026年09月09日
小林恭二氏が久々に小説を発表した。私は30年以上前に小林氏の小説をかなり読んだ。『ゼウスガーデン衰亡史』『瓶の中の旅愁』『カブキの日』など独特の異世界を現世に絡めて織り上げる長編に魅せられた。この十数年小説発表は途絶え、大学教授に専念しているのだろうと思っていた。
新作のタイトルが『三鬼』と知り、一瞬、鬼の世界を書いたのかと驚いた。西東三鬼の「三鬼」と気づき、なあんだと感じた。
『三鬼』(小林恭二/講談社)
新作が俳人・西東三鬼の話と知って拍子抜けしたのは、まさに小林氏のテリトリーの自家薬籠中の素材に思えたからだ。
私は30年ほど昔に俳句関連の本を集中的に読んだことがあり、少しだけ句作もした。それ以前に桑原武夫が俳句は一流文学になりえないとした『第二芸術』に共感していた。いまも、基本的には変わらない。
にもかわらず俳句に入れ込んだ時期があったのは、俳句のゲーム性に気づいたからである。それを教えてくれたのは小林氏の著作『俳句とは何か』『青春俳句講座』『俳句という遊び』『俳句という愉しみ』などだった。あの頃、西東三鬼にも魅せられ『神戸・続神戸・俳愚伝』(西東三鬼/講談社文芸文庫)も読んだ。この文庫本の解説の筆者は小林氏だった。
そんなわけで、小林氏と西東三鬼は「つきすぎ」と感じつつ、西東三鬼は興味深い人物なので、読まないわけにはいかないと思い、本書を繙いた。
小林流に料理した西東三鬼伝を想定して読み始めたが、まったく違っていた。あらためて、オビをよく見ると「史実とフィクションを融合させた、ノンストップ・歴史エンタ-テインメント」とある。事前に見落としていたこの惹句通りの小説である。
真珠湾攻撃を翌年にひかえた昭和15年の西東三鬼を描いたこの小説は、時おり時空が拡大し、鎌倉時代にまで時間が遡り、さらには東シナ海を跳梁する倭寇の歴史からマレー半島などをめぐるオランダやイギリスの争いにまで話が及ぶ。鄭成功の父親やチャンドラ・ボースなども顔を見せる。そんな世界と西東三鬼を絡ませるのが小林氏の幻術的な離れ業である。
それだけでなく、ノンフクション評伝風に高浜虚子を頂点とする俳句世界の政治空間を的確に描き、京大事件にはじまる俳句弾圧の背後にあるものの正体を妄想的に探っている。
著者の西東三鬼への愛と小説家としての虚構力を十全に発揮した小説だ。
新作のタイトルが『三鬼』と知り、一瞬、鬼の世界を書いたのかと驚いた。西東三鬼の「三鬼」と気づき、なあんだと感じた。
『三鬼』(小林恭二/講談社)
新作が俳人・西東三鬼の話と知って拍子抜けしたのは、まさに小林氏のテリトリーの自家薬籠中の素材に思えたからだ。
私は30年ほど昔に俳句関連の本を集中的に読んだことがあり、少しだけ句作もした。それ以前に桑原武夫が俳句は一流文学になりえないとした『第二芸術』に共感していた。いまも、基本的には変わらない。
にもかわらず俳句に入れ込んだ時期があったのは、俳句のゲーム性に気づいたからである。それを教えてくれたのは小林氏の著作『俳句とは何か』『青春俳句講座』『俳句という遊び』『俳句という愉しみ』などだった。あの頃、西東三鬼にも魅せられ『神戸・続神戸・俳愚伝』(西東三鬼/講談社文芸文庫)も読んだ。この文庫本の解説の筆者は小林氏だった。
そんなわけで、小林氏と西東三鬼は「つきすぎ」と感じつつ、西東三鬼は興味深い人物なので、読まないわけにはいかないと思い、本書を繙いた。
小林流に料理した西東三鬼伝を想定して読み始めたが、まったく違っていた。あらためて、オビをよく見ると「史実とフィクションを融合させた、ノンストップ・歴史エンタ-テインメント」とある。事前に見落としていたこの惹句通りの小説である。
真珠湾攻撃を翌年にひかえた昭和15年の西東三鬼を描いたこの小説は、時おり時空が拡大し、鎌倉時代にまで時間が遡り、さらには東シナ海を跳梁する倭寇の歴史からマレー半島などをめぐるオランダやイギリスの争いにまで話が及ぶ。鄭成功の父親やチャンドラ・ボースなども顔を見せる。そんな世界と西東三鬼を絡ませるのが小林氏の幻術的な離れ業である。
それだけでなく、ノンフクション評伝風に高浜虚子を頂点とする俳句世界の政治空間を的確に描き、京大事件にはじまる俳句弾圧の背後にあるものの正体を妄想的に探っている。
著者の西東三鬼への愛と小説家としての虚構力を十全に発揮した小説だ。
『古事記』は奔放な昔話 ― 2026年09月02日
角川ソフィア文庫の『古事記』を読んだ。
『新版 古事記:現代語訳付き』(中村啓信・訳注/角川ソフィア文庫)
『古事記』は、子供時代にジュニア版を読んだ気がするが、大学時代(半世紀以上昔)に読みかけた岩波文庫版は途中で投げた。
そのうち読もうと思いつつ先伸ばしにしていた『古事記』を読む気になったのは、来週『朗読劇 古事記(白石加代子・風間杜夫)』を観劇予定だからだ。正確には、この朗読劇のチケットを購入した動機が、これを機に『古事記』を読むことだった。何らかのきっかけがなければ古典に手が伸びない。
日本最古の書物『古事記』の成立は奈良時代初めの715年、上中下の3巻にわかれている。天地創造から推古天皇までを書いた神話を含む歴史書と言われる。
古い岩波文庫版は本棚に見つからず、角川ソフィア文庫版を購入した。この文庫は、原文(漢文)と「漢文の読み下し」に加えて「現代語訳」も収録している。冒頭の「読み下し」部分に訳注が付いている。ページの下部が訳注欄なので、訳注を参照するときページをめくる手間がない。
まずは「現代語訳」で読み始めたが、わかりにくい言葉は訳注を参照したくなり、そのたびに「読み下し」に飛ぶのがわずらわしい。途中から、「訳注」を参照しながら「読み下し」を読み進め、わかりにくい部分は「現代語訳」を参照する読み方になった。
『古事記』を読了しての感想は「なんじゃ、これは」だ。昔の出来事の記録だろうが、歴史書とは言い難い。神話+昔話で、別世界譚の趣が強い。登場人物たちの奔放な行動に唖然とする。現代の感覚からズレているのは当然だが、神々も天皇たちも、美女には次々と手を出し、醜女は容赦なく追放する。あっさりと人を殺す場面も多い。おおらかに大便・尿・女陰なども頻出する。神話研究の材料としては興味深かろうと推測する。
天皇の系図説明のような退屈な部分は仕方ないとしても、意味不明の話も多い。物語として面白いのは、やはり一般によく知られている話である。イザナギ、イザナミの話、天照大御神とスサノウ、ヤマタの大蛇、海彦山彦、因幡の白ウサギと大国主命、ヤマトタケルの冒険などだ。登場人物たちは善玉悪玉を超えた奇妙なキャラが多い。出雲の国譲り至るためだろうが、大国主命のイメージも分裂している。
神と人間の関係があいまいで、おびただしい数の神が登場するのにも驚いた。天孫降臨だから天皇の先祖は神であり、天皇自身が神に見えるのはいいとしても、有力豪族たちの先祖もまた神である。八百万の神とはよく言ったもので、あらゆる所に安易に神が現れる。
終盤の雄略天皇のくだりに興味深いエピソードが二つあった。
天皇が行列で葛城山を登っていると、向かいの尾根を同じような行列が登っている。この国に自分以外の王はいないはずだと訝って声をかけると、相手も同じように声をかけてくる。自身の複製が出現する超現実譚の面白さを予感したが、期待はずれだった。相手が「葛城之一言主之大神である」と名乗ると、天皇は「大神が人の姿をしておいでなので気づきませんでした」と引き下がる。天皇は神ではなかったのかと思いつつ、天皇より上位の神がいろいろ存在することを認識した。
もう一つは赤猪子の話である。天皇は出かけた先で非常に美しい乙女の出会う。名を赤猪子と言う。「おまえは結婚するな。ほどなく宮廷に召しいれる」と言って帰る。赤猪子は天皇からのお召しを待ち続け、何と80年が経過する。80年待ったすえに天皇に会いに行く。天皇は忘れていて「おまえはどこの婆さんか」と言うが、やがて思い出す。なぜか80年経っても天皇は若いままだが、相手が老いていてもはや結婚できないことを哀れむ――というヒドイ話である。
雄略天皇は『古事記』によれば124歳で亡くなっている。この天皇は、存在が確認できる最古の天皇とも言われ、『日本書紀』では479年に62歳で没したとされている。
『新版 古事記:現代語訳付き』(中村啓信・訳注/角川ソフィア文庫)
『古事記』は、子供時代にジュニア版を読んだ気がするが、大学時代(半世紀以上昔)に読みかけた岩波文庫版は途中で投げた。
そのうち読もうと思いつつ先伸ばしにしていた『古事記』を読む気になったのは、来週『朗読劇 古事記(白石加代子・風間杜夫)』を観劇予定だからだ。正確には、この朗読劇のチケットを購入した動機が、これを機に『古事記』を読むことだった。何らかのきっかけがなければ古典に手が伸びない。
日本最古の書物『古事記』の成立は奈良時代初めの715年、上中下の3巻にわかれている。天地創造から推古天皇までを書いた神話を含む歴史書と言われる。
古い岩波文庫版は本棚に見つからず、角川ソフィア文庫版を購入した。この文庫は、原文(漢文)と「漢文の読み下し」に加えて「現代語訳」も収録している。冒頭の「読み下し」部分に訳注が付いている。ページの下部が訳注欄なので、訳注を参照するときページをめくる手間がない。
まずは「現代語訳」で読み始めたが、わかりにくい言葉は訳注を参照したくなり、そのたびに「読み下し」に飛ぶのがわずらわしい。途中から、「訳注」を参照しながら「読み下し」を読み進め、わかりにくい部分は「現代語訳」を参照する読み方になった。
『古事記』を読了しての感想は「なんじゃ、これは」だ。昔の出来事の記録だろうが、歴史書とは言い難い。神話+昔話で、別世界譚の趣が強い。登場人物たちの奔放な行動に唖然とする。現代の感覚からズレているのは当然だが、神々も天皇たちも、美女には次々と手を出し、醜女は容赦なく追放する。あっさりと人を殺す場面も多い。おおらかに大便・尿・女陰なども頻出する。神話研究の材料としては興味深かろうと推測する。
天皇の系図説明のような退屈な部分は仕方ないとしても、意味不明の話も多い。物語として面白いのは、やはり一般によく知られている話である。イザナギ、イザナミの話、天照大御神とスサノウ、ヤマタの大蛇、海彦山彦、因幡の白ウサギと大国主命、ヤマトタケルの冒険などだ。登場人物たちは善玉悪玉を超えた奇妙なキャラが多い。出雲の国譲り至るためだろうが、大国主命のイメージも分裂している。
神と人間の関係があいまいで、おびただしい数の神が登場するのにも驚いた。天孫降臨だから天皇の先祖は神であり、天皇自身が神に見えるのはいいとしても、有力豪族たちの先祖もまた神である。八百万の神とはよく言ったもので、あらゆる所に安易に神が現れる。
終盤の雄略天皇のくだりに興味深いエピソードが二つあった。
天皇が行列で葛城山を登っていると、向かいの尾根を同じような行列が登っている。この国に自分以外の王はいないはずだと訝って声をかけると、相手も同じように声をかけてくる。自身の複製が出現する超現実譚の面白さを予感したが、期待はずれだった。相手が「葛城之一言主之大神である」と名乗ると、天皇は「大神が人の姿をしておいでなので気づきませんでした」と引き下がる。天皇は神ではなかったのかと思いつつ、天皇より上位の神がいろいろ存在することを認識した。
もう一つは赤猪子の話である。天皇は出かけた先で非常に美しい乙女の出会う。名を赤猪子と言う。「おまえは結婚するな。ほどなく宮廷に召しいれる」と言って帰る。赤猪子は天皇からのお召しを待ち続け、何と80年が経過する。80年待ったすえに天皇に会いに行く。天皇は忘れていて「おまえはどこの婆さんか」と言うが、やがて思い出す。なぜか80年経っても天皇は若いままだが、相手が老いていてもはや結婚できないことを哀れむ――というヒドイ話である。
雄略天皇は『古事記』によれば124歳で亡くなっている。この天皇は、存在が確認できる最古の天皇とも言われ、『日本書紀』では479年に62歳で没したとされている。
芥川賞受賞作『ゾンビ回収婦』を読んだ ― 2026年08月19日
惰性のように芥川賞発表の『文藝春秋 2026年9月特別号』を購入し、受賞作を読んだ。
『ゾンビ回収婦』(小砂川チト)
RPG(ロール・プレインブ・ゲーム)、VR(ヴァーチャル・リアリティ)にAIを絡めた仮想異世界の話である。十数年前ならこの設定に魅了されたかもしれないが、もはや驚かない。そんな設定の映画や小説が増殖し、フツーになってしまった。
でも、前回(2026年3月特別号)の受賞作2編よりは今回の受賞作の方が面白かった。現実世界の人物、ゲーム内のバーチャル人物、ゲーム開発者などの境界が崩壊して錯綜するという手法は、もはや目新しくはないだろうが、小説世界を拡張して紡ぎ出すメタフィクション的な技法には、まだまだ可能性があるように思える。器と中身のバランスだ。
この小説で初めて知ったのがNPC(ノン・プレイヤー・キャラクター)という言葉である。「ゾンビ回収婦」もNPCだ。ゲームの世界のNPCという存在は、その意義を拡張して考察すれば興味深い存在に思えてくる。NPCに着目したのが受賞作の手柄かもしれない。
この小説の設定は目新しいが、「働くこと」「承認欲求」「愛」など小説に込められた思いは伝統的だ。「これは凄い。新しい!」と度肝を抜かれ、魂を揺さぶられる作品ではない。文学界隈の秀逸な芸事作品のひとつに接したという気分だ。
そんな読後感を綴りながら、私は自分の感性が摩滅しつつあるのではとも感じている。77歳の私には、現代の若い作家の作品を評価・鑑賞する能力がすでに失われているのかもしれない。人が小説に真に感動し心奪われるのは、未熟な経験がベースの不遜で瑞々しい感性をもつ10代・20代の頃だけのように思えてくるのだ。
『ゾンビ回収婦』(小砂川チト)
RPG(ロール・プレインブ・ゲーム)、VR(ヴァーチャル・リアリティ)にAIを絡めた仮想異世界の話である。十数年前ならこの設定に魅了されたかもしれないが、もはや驚かない。そんな設定の映画や小説が増殖し、フツーになってしまった。
でも、前回(2026年3月特別号)の受賞作2編よりは今回の受賞作の方が面白かった。現実世界の人物、ゲーム内のバーチャル人物、ゲーム開発者などの境界が崩壊して錯綜するという手法は、もはや目新しくはないだろうが、小説世界を拡張して紡ぎ出すメタフィクション的な技法には、まだまだ可能性があるように思える。器と中身のバランスだ。
この小説で初めて知ったのがNPC(ノン・プレイヤー・キャラクター)という言葉である。「ゾンビ回収婦」もNPCだ。ゲームの世界のNPCという存在は、その意義を拡張して考察すれば興味深い存在に思えてくる。NPCに着目したのが受賞作の手柄かもしれない。
この小説の設定は目新しいが、「働くこと」「承認欲求」「愛」など小説に込められた思いは伝統的だ。「これは凄い。新しい!」と度肝を抜かれ、魂を揺さぶられる作品ではない。文学界隈の秀逸な芸事作品のひとつに接したという気分だ。
そんな読後感を綴りながら、私は自分の感性が摩滅しつつあるのではとも感じている。77歳の私には、現代の若い作家の作品を評価・鑑賞する能力がすでに失われているのかもしれない。人が小説に真に感動し心奪われるのは、未熟な経験がベースの不遜で瑞々しい感性をもつ10代・20代の頃だけのように思えてくるのだ。
60年代の安部・三島・大江は熱かった ― 2026年07月26日
安部公房、三島由紀夫、大江健三郎、この三人を並べると、わが学生時代の1960年代末の狂騒的熱気をかすかに思い出す。あの頃、同時代の現代文学はこの三人が担っているという空気があった。
その三人の鼎談・対談をまとめた本が出ていると知り、入手して読んだ。猛暑続きでふやけた頭には、対談本のような軽いものがいいと思った。
『文学者とは何か』(安部公房、三島由紀夫、大江健三郎/中央公論社/2024.12)
この三人の生年・没年・享年は以下の通りだ。
安部公房(1924-1993、68歳)
三島由紀夫(1925-1970、45歳)
大江健三郎(1935-2023、88歳)
安部公房と三島由紀夫は同世代、二人ともノーベル文学賞候補と言われた。彼らより10歳若い大江健三郎は1994年、ノーベル文学賞を受賞した。
本書は次の5編を収録している。
「文学者とは」------------安部公房×三島由紀夫×大江健三郎、1958.11
「現代作家はかく考える」--三島由紀夫×大江健三郎、1964.9
「短編小説の可能性」------安部公房×大江健三郎、1965.7
「二十世紀の文学」--------安部公房×三島由紀夫、1966.2
「対談」------------------安部公房×大江健三郎、1990.12
これらの鼎談や対談、おそらく私は過去に読んでいるが、遠い昔のことなので失念している。なつかしさもあるが、現在の視点でまとめて読めば、何が浮かび上がってくるだろうかとの関心もあった。軽い読書のつもりだったが、カミ合っているのかいないのか不明の抽象的な話題の展開が多く、言葉のアクロバットを眺めている気分になった。脳内の回路がショートしそうだ。
この5編、1958年の鼎談は「序章」、1990年の対談は「後記」、1964年から1966年にかけての対談3編が「本編」という趣である。
1958年の「序章」鼎談の大江健三郎は23歳、まだ在学中の学生作家で、安部公房と三島由紀夫は三十代前半の気鋭だ。三人とも、かなりツッパッている。
1990年の「後記」対談は、三島由紀夫の自死から20年経過した時点の対談である。安部公房と大江健三郎は1970年代に絶交し、その後は本気で仲直りすることはなかったそうだ(『大江健三郎 自作を語る』より)。そんなせいか、この対談は淡々としている。今後の仕事についても語っているが、一仕事終えた二人の回想譚のようでもある。三島由紀夫とは何者だったかについても語り合っている。
1960年代の「本編」対談3編は熱気にあふれている。時代精神と文学の関わりを追究する三人の作家は意気軒高だ。議論がそれぞれにカラ回りしているように感じられたりもするが、新しい文学を生み出していこうという意欲が伝わってくる。
そんな時代があったのだ。私がこの三人の作品を同時代意識で読んだのも1970年代初頭までだった。時の流れを感じざるを得ない本である。読む前からわかってはいたが。
その三人の鼎談・対談をまとめた本が出ていると知り、入手して読んだ。猛暑続きでふやけた頭には、対談本のような軽いものがいいと思った。
『文学者とは何か』(安部公房、三島由紀夫、大江健三郎/中央公論社/2024.12)
この三人の生年・没年・享年は以下の通りだ。
安部公房(1924-1993、68歳)
三島由紀夫(1925-1970、45歳)
大江健三郎(1935-2023、88歳)
安部公房と三島由紀夫は同世代、二人ともノーベル文学賞候補と言われた。彼らより10歳若い大江健三郎は1994年、ノーベル文学賞を受賞した。
本書は次の5編を収録している。
「文学者とは」------------安部公房×三島由紀夫×大江健三郎、1958.11
「現代作家はかく考える」--三島由紀夫×大江健三郎、1964.9
「短編小説の可能性」------安部公房×大江健三郎、1965.7
「二十世紀の文学」--------安部公房×三島由紀夫、1966.2
「対談」------------------安部公房×大江健三郎、1990.12
これらの鼎談や対談、おそらく私は過去に読んでいるが、遠い昔のことなので失念している。なつかしさもあるが、現在の視点でまとめて読めば、何が浮かび上がってくるだろうかとの関心もあった。軽い読書のつもりだったが、カミ合っているのかいないのか不明の抽象的な話題の展開が多く、言葉のアクロバットを眺めている気分になった。脳内の回路がショートしそうだ。
この5編、1958年の鼎談は「序章」、1990年の対談は「後記」、1964年から1966年にかけての対談3編が「本編」という趣である。
1958年の「序章」鼎談の大江健三郎は23歳、まだ在学中の学生作家で、安部公房と三島由紀夫は三十代前半の気鋭だ。三人とも、かなりツッパッている。
1990年の「後記」対談は、三島由紀夫の自死から20年経過した時点の対談である。安部公房と大江健三郎は1970年代に絶交し、その後は本気で仲直りすることはなかったそうだ(『大江健三郎 自作を語る』より)。そんなせいか、この対談は淡々としている。今後の仕事についても語っているが、一仕事終えた二人の回想譚のようでもある。三島由紀夫とは何者だったかについても語り合っている。
1960年代の「本編」対談3編は熱気にあふれている。時代精神と文学の関わりを追究する三人の作家は意気軒高だ。議論がそれぞれにカラ回りしているように感じられたりもするが、新しい文学を生み出していこうという意欲が伝わってくる。
そんな時代があったのだ。私がこの三人の作品を同時代意識で読んだのも1970年代初頭までだった。時の流れを感じざるを得ない本である。読む前からわかってはいたが。
期待して読んだ『夏の砦』にやや白けたが… ― 2026年07月05日
辻邦生(1925-1999)の『夏の砦』を読んだ。30年前(1996年)の文春文庫を古書で入手して読んだのだ。オビには「辻文学初期最高傑作」とある。
『夏の砦』(辻邦生/文春文庫/1996.11)
この小説の刊行は60年前の1966年、私が高校生の時だから、ずいぶん昔だ。あの頃からズーッと長い間、辻邦生は私にとって関心外の作家だった。
だが、10年前に60歳を過ぎて『背教者ユリアヌス』を読み、その面白さに魅せられた。分厚い単行本であの長編を読んだ私は、読了後に書店の棚の文庫本の解説を立ち読みした。解説の筆者・篠田一士が『背教者ユリアヌス』より『夏の砦』を評価すると述べていた。それが気がかりで、いつの日か『夏の砦』を読まねばと思いつつ、うかうかと10年の月日が流れ、やっと『夏の砦』を読んだのである。
『背教者ユリアヌス』を面白いと思った私には『夏の砦』は期待外れだった。私の想定したロマンではなく、芸術とは何かを巡るやや自閉的とも思える濃密で細密な描写が延延と積み重なっていく小説だった。『背教者ユリアヌス』が通俗歴史小説ならば、『夏の砦』は内省的な文学作品かもしれないが、私の感性とは波長が合わない。
この小説は二人の人物の一人称記述で構成されている。一人目の「私」は主人公の支倉冬子である。没落した旧家の娘で、北欧の都市でタピスリ(ゴブラン織)を研究していて消息不明になる。二人目の私は北欧で支倉冬子と知り合いになったエンジニア(おそらく日本人男性)で、彼女が消息不明になった後、彼女が残した日記や手紙を整理しながら、その内面を追究している。二人目の私の語りは、冬子が消息不明になってから三年後という設定だ。
二人の人物の一人称記述の大半は記憶を遡っていく内面的な追憶譚であり、小説全体にドラマチックな展開はない。静謐な時空を紡ぎ出すタピスリのような小説だ。私は、小説が進行していくに従って、この二人の感性について行けなくなり、どちらにも感情移入できなかった。
冬子の幼少時代の追憶を緻密に綴った序章は読みごたえがあり魅せられる。だが、その後の展開が、序章のバリエーションのくり返しに感じられ、次第に興ざめしてくる。私は芸術至上主義を否定しないが、主人公たちの社会や実生活への視角に浅薄さを感じてしまう。感性を追究する描写は細密かつ濃密で魅力的だと思うが、にもかかわらず何か大きなズレを感じてしまうのだ。
面白くなければ読後感を書かなくていいのだが、面白くなさの淵源が私自身にも判然としないのでメモを残したくなった。いつの日か、この小説を再読しそうな予感がないわけではない。
『夏の砦』(辻邦生/文春文庫/1996.11)
この小説の刊行は60年前の1966年、私が高校生の時だから、ずいぶん昔だ。あの頃からズーッと長い間、辻邦生は私にとって関心外の作家だった。
だが、10年前に60歳を過ぎて『背教者ユリアヌス』を読み、その面白さに魅せられた。分厚い単行本であの長編を読んだ私は、読了後に書店の棚の文庫本の解説を立ち読みした。解説の筆者・篠田一士が『背教者ユリアヌス』より『夏の砦』を評価すると述べていた。それが気がかりで、いつの日か『夏の砦』を読まねばと思いつつ、うかうかと10年の月日が流れ、やっと『夏の砦』を読んだのである。
『背教者ユリアヌス』を面白いと思った私には『夏の砦』は期待外れだった。私の想定したロマンではなく、芸術とは何かを巡るやや自閉的とも思える濃密で細密な描写が延延と積み重なっていく小説だった。『背教者ユリアヌス』が通俗歴史小説ならば、『夏の砦』は内省的な文学作品かもしれないが、私の感性とは波長が合わない。
この小説は二人の人物の一人称記述で構成されている。一人目の「私」は主人公の支倉冬子である。没落した旧家の娘で、北欧の都市でタピスリ(ゴブラン織)を研究していて消息不明になる。二人目の私は北欧で支倉冬子と知り合いになったエンジニア(おそらく日本人男性)で、彼女が消息不明になった後、彼女が残した日記や手紙を整理しながら、その内面を追究している。二人目の私の語りは、冬子が消息不明になってから三年後という設定だ。
二人の人物の一人称記述の大半は記憶を遡っていく内面的な追憶譚であり、小説全体にドラマチックな展開はない。静謐な時空を紡ぎ出すタピスリのような小説だ。私は、小説が進行していくに従って、この二人の感性について行けなくなり、どちらにも感情移入できなかった。
冬子の幼少時代の追憶を緻密に綴った序章は読みごたえがあり魅せられる。だが、その後の展開が、序章のバリエーションのくり返しに感じられ、次第に興ざめしてくる。私は芸術至上主義を否定しないが、主人公たちの社会や実生活への視角に浅薄さを感じてしまう。感性を追究する描写は細密かつ濃密で魅力的だと思うが、にもかかわらず何か大きなズレを感じてしまうのだ。
面白くなければ読後感を書かなくていいのだが、面白くなさの淵源が私自身にも判然としないのでメモを残したくなった。いつの日か、この小説を再読しそうな予感がないわけではない。
マッサゲタイの女王を描いた小説があった! ― 2026年06月22日
史上最初の世界帝国は前550年にオリエントを統一したアケメネス朝ペルシアだと思う。建国者キュロス2世は、メディア、リュディア、バビロニアを征服し、エジプトに赴く前にカスピ海東岸の騎馬民族マッサゲタイに遠征し、その地で戦死する。マッサゲタイを率いていたのは女王トミリュスである。
マッサゲタイや女王トミリュスに関する史料は少ない。ヘロドトスが『歴史』でキュロス2世のマッサゲタイ遠征と戦死の経緯を述べているが、岩波文庫版で10頁ほど(巻1、201-216)に過ぎない。
5年前、この女王を描いたカザフスタン映画『女王トミリュス』の存在を知り、プライムビデオで視聴した。世界史ではマイナーな存在の映画化に驚いたが、最近になって、そのマッサゲタイ女王を描いた日本人女性作家の小説『マッサゲタイの戦女王』があると知り、もっと驚いた。小説の刊行は2010年、映画制作の2019年より前だ。その小説の文庫版を入手して読んだ。文庫化の際に改題している。
『夢の王国 彼方の楽園:マッサゲタイの戦女王』(篠原悠希/光文社文庫/2024.4)
この小説は、映画と同様に少女が女王へと成長し、キュロス2世を倒す強い存在になっていく姿を描いている。しかし、トミュリスの人物造型や状況設定は映画とはまったく異なる。小説の方が深くて広い。
小説に登場する実在の地名や人名は原音に近い表記になっている。以下のような具合だ。
トミュリス→タハーミラィ
キュロス→クルシュ
ペルシア→ファールス
アケメネス→ハカーマニシュ
一般に馴染みのある表記(ギリシア語)ではない表記によって、歴史小説というよりは異世界物語の雰囲気になった気がする。
ヘロドトスは、キュロス2世のマッサゲタイ遠征の発端を次のように描いている。
「当時マッサゲタイでは、夫に先立たれたトミュリスという名の女が女王であった。キュロスは使者を通じ、自分の妻に迎えたいと称してこの女王に求婚した。しかしトミュリスは、キュロスが求めているのは自分ではなくて、マッサゲタイの王位であることを見抜き、彼の来訪を拒絶したのである。」(松平千秋訳)
その後、トミュリスの若い息子がキュロスの謀略によって自死に追い込まれるなどの経緯があり、両軍の会戦となり、キュロスは戦場で落命する。トミュリスはキュロスの首を切り落とし「私は生き永らえ戦いにはそなたに勝ったが、所詮はわが子を謀略にかけて捕えたそなたの勝ちであった」(松平千秋訳)と嘆く。
小説はヘロドトスの記述を踏まえている。しかし、その背後に奇想天外とも言える壮大な物語を盛り込んでいる。
クルシュ(キュロス)の戦死は前529年だが、その二十数年前、クルシュ24歳、タハーミラィ(トミュリス)15歳のとき、二人はメディアの首都エクバ―タナの宮殿で出会っていた。メディアの属国ファールス(ペルシア)の王子で客分の人質のような立場だったクルシュは、タハーミラィとの密会の場で自分が構想する楽園のような国の姿を語る。文庫版のタイトル『夢の王国 彼方の楽園』はそれを表している。二人は互いに意識し合う仲だったのだ。
二十数年を経て「諸王の王」と呼ばれるようになったクルシュの「求婚」は領土的野心によるのもではなくクルシュの本心だったかもしれない――それが、この小説の眼目だと思う。人間の成長譚と愛憎劇に国家興亡と建国物語を絡めた歴史ロマンである。
マッサゲタイや女王トミリュスに関する史料は少ない。ヘロドトスが『歴史』でキュロス2世のマッサゲタイ遠征と戦死の経緯を述べているが、岩波文庫版で10頁ほど(巻1、201-216)に過ぎない。
5年前、この女王を描いたカザフスタン映画『女王トミリュス』の存在を知り、プライムビデオで視聴した。世界史ではマイナーな存在の映画化に驚いたが、最近になって、そのマッサゲタイ女王を描いた日本人女性作家の小説『マッサゲタイの戦女王』があると知り、もっと驚いた。小説の刊行は2010年、映画制作の2019年より前だ。その小説の文庫版を入手して読んだ。文庫化の際に改題している。
『夢の王国 彼方の楽園:マッサゲタイの戦女王』(篠原悠希/光文社文庫/2024.4)
この小説は、映画と同様に少女が女王へと成長し、キュロス2世を倒す強い存在になっていく姿を描いている。しかし、トミュリスの人物造型や状況設定は映画とはまったく異なる。小説の方が深くて広い。
小説に登場する実在の地名や人名は原音に近い表記になっている。以下のような具合だ。
トミュリス→タハーミラィ
キュロス→クルシュ
ペルシア→ファールス
アケメネス→ハカーマニシュ
一般に馴染みのある表記(ギリシア語)ではない表記によって、歴史小説というよりは異世界物語の雰囲気になった気がする。
ヘロドトスは、キュロス2世のマッサゲタイ遠征の発端を次のように描いている。
「当時マッサゲタイでは、夫に先立たれたトミュリスという名の女が女王であった。キュロスは使者を通じ、自分の妻に迎えたいと称してこの女王に求婚した。しかしトミュリスは、キュロスが求めているのは自分ではなくて、マッサゲタイの王位であることを見抜き、彼の来訪を拒絶したのである。」(松平千秋訳)
その後、トミュリスの若い息子がキュロスの謀略によって自死に追い込まれるなどの経緯があり、両軍の会戦となり、キュロスは戦場で落命する。トミュリスはキュロスの首を切り落とし「私は生き永らえ戦いにはそなたに勝ったが、所詮はわが子を謀略にかけて捕えたそなたの勝ちであった」(松平千秋訳)と嘆く。
小説はヘロドトスの記述を踏まえている。しかし、その背後に奇想天外とも言える壮大な物語を盛り込んでいる。
クルシュ(キュロス)の戦死は前529年だが、その二十数年前、クルシュ24歳、タハーミラィ(トミュリス)15歳のとき、二人はメディアの首都エクバ―タナの宮殿で出会っていた。メディアの属国ファールス(ペルシア)の王子で客分の人質のような立場だったクルシュは、タハーミラィとの密会の場で自分が構想する楽園のような国の姿を語る。文庫版のタイトル『夢の王国 彼方の楽園』はそれを表している。二人は互いに意識し合う仲だったのだ。
二十数年を経て「諸王の王」と呼ばれるようになったクルシュの「求婚」は領土的野心によるのもではなくクルシュの本心だったかもしれない――それが、この小説の眼目だと思う。人間の成長譚と愛憎劇に国家興亡と建国物語を絡めた歴史ロマンである。
タラス河畔の戦いを描いた小説があった! ― 2026年06月12日
私は来月(2026年7月)、中央アジアのカザフスタンとキルギスを巡るツアーに参加する予定である。目当てはアク・ベシム遺跡(砕葉=スイアブの遺構)とタラス川古戦場の見学だ。関連書を検索していて、タラス河畔の戦いを扱った小説があると知り、早速入手して読んだ。
『天涯の戦旗:タラス河畔の戦い』(小前亮/朝日新聞出版/2011.10 )
著者は大学院でアジア・イスラーム史を専攻した小説家で、多くの歴史小説を書いている。私は本書で初めてこの作家を知った。
751年のタラス河畔の戦いは高校世界史の教科書にも載っている。と言っても「アッバース朝と唐がタラス河畔で戦い、唐が敗れた。唐の捕虜によって製紙法がイスラーム世界へ伝わった」とあるだけだ。それ以上のことは私も知らない。かなりマイナーな「戦い」だと思う。それが小説になっていることに驚いた。
『天涯の戦旗』は重厚な歴史小説とは言えない。かなり「軽い」物語で、読みやすい。史実をどの程度ふまえた小説かは不明だが、教科書で2行程度の情報を拡張できたことに満足した。
この小説には実在の人物が何人も登場する。将軍・高仙芝という名にはかすかな記憶があったが、他は未知の人物ばかりだ。人物が登場するたびにネット検索し、その人物に関する情報の有無を確認した。
人物や情景を具体的にイメージできるのは歴史小説や歴史ドラマの利点だと思う。史実と違っているとしても、何等かのイメージを抱かないと歴史は把握しにくい。イメージで興味を喚起したうえで史実へのアプローチを図るしかない。
本書によって、作者が造型した実在の人物たちのイメージが私の頭に転写された。そのうち忘れてしまうだろうが、その前にさらなる情報によってイメージを深化できればとも思う。
この小説が「軽い」のは、狂言回しの杜環という人物が軽いからでもある。クチャの安西都護府に派遣されてきた長安の名家の若者で、美女と美酒には目がなく、仕事に関してはやる気がない。なまけ者で戦争嫌いの臆病者である。作者が創造した架空の人物だろうと思ったが、検索するとウィキペディアに載っていた。「タラス河畔の戦いで捕らえられた、数少ない中国人の一人」とある。
杜環に関する史料は少ないらしい。この小説における杜環の人物像は作者の想像力に負うところが大きいと思う。こんな杜環という人物を中心に据えているので、この小説は面白くなっている。
『天涯の戦旗:タラス河畔の戦い』(小前亮/朝日新聞出版/2011.10 )
著者は大学院でアジア・イスラーム史を専攻した小説家で、多くの歴史小説を書いている。私は本書で初めてこの作家を知った。
751年のタラス河畔の戦いは高校世界史の教科書にも載っている。と言っても「アッバース朝と唐がタラス河畔で戦い、唐が敗れた。唐の捕虜によって製紙法がイスラーム世界へ伝わった」とあるだけだ。それ以上のことは私も知らない。かなりマイナーな「戦い」だと思う。それが小説になっていることに驚いた。
『天涯の戦旗』は重厚な歴史小説とは言えない。かなり「軽い」物語で、読みやすい。史実をどの程度ふまえた小説かは不明だが、教科書で2行程度の情報を拡張できたことに満足した。
この小説には実在の人物が何人も登場する。将軍・高仙芝という名にはかすかな記憶があったが、他は未知の人物ばかりだ。人物が登場するたびにネット検索し、その人物に関する情報の有無を確認した。
人物や情景を具体的にイメージできるのは歴史小説や歴史ドラマの利点だと思う。史実と違っているとしても、何等かのイメージを抱かないと歴史は把握しにくい。イメージで興味を喚起したうえで史実へのアプローチを図るしかない。
本書によって、作者が造型した実在の人物たちのイメージが私の頭に転写された。そのうち忘れてしまうだろうが、その前にさらなる情報によってイメージを深化できればとも思う。
この小説が「軽い」のは、狂言回しの杜環という人物が軽いからでもある。クチャの安西都護府に派遣されてきた長安の名家の若者で、美女と美酒には目がなく、仕事に関してはやる気がない。なまけ者で戦争嫌いの臆病者である。作者が創造した架空の人物だろうと思ったが、検索するとウィキペディアに載っていた。「タラス河畔の戦いで捕らえられた、数少ない中国人の一人」とある。
杜環に関する史料は少ないらしい。この小説における杜環の人物像は作者の想像力に負うところが大きいと思う。こんな杜環という人物を中心に据えているので、この小説は面白くなっている。








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