賢帝と愚帝が織りなすパクス・ローマーナ2026年02月01日

『平和と繁栄の宿命:地中海世界の歴史7 パクス・ロマーナ』(本村凌二/講談社選書メチエ)
 ローマ史家・本村凌二氏の『地中海世界の歴史(全8巻)』の第6巻に続いて第7巻を読んだ。

 『平和と繁栄の宿命:地中海世界の歴史7 パクス・ローマーナ』(本村凌二/講談社選書メチエ)

 パクス・ローマーナと銘打った本巻は、ネロ皇帝殺害後から五賢帝時代を経て軍人皇帝時代になる直前までの約200年を扱っている。登場する主な皇帝は、ウェスパシアヌス、ドミティアヌス、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウス、コンモドゥス、セウェルス、カラカラ、エラガバルスなどである。ここに挙げた皇帝のなかには暴君・愚帝と呼ばれた皇帝が何人かいる。にもかかわらず、この時代のローマ帝国は平和と繁栄を維持できた。帝国を維持運営する仕組みが機能いていたのだと思う。感心すべきことだ。

 本書は次の4章で構成されている。

  第1章 新興家系の皇帝たち
  第2章 比類なき賢帝と最大の過ち
  第3章 薄闇に生きる人々の願望
  第4章 「旅する皇帝」と辺境のローマ

 通史的な記述は前半の2章までで、後半は少し趣が変わる。第3章は古代人の心性変遷の考察、第4章は広大なローマ属州の地歴紹介である。

 前半を読んでいると、暴君・愚帝や賢帝が入れ替わり立ち代わり登場する大河ドラマを眺めている気分になる。最終段階で登場するエラガバルス帝を本村氏は「暴君愚帝のナンバーワン」としている。

 14歳で即位したエラガバルスはシリア生まれの奇怪な太陽神崇拝の皇帝で、女装して男漁りにくれ「ふしだらな女」と噂されるのを好んだ。本村氏は「まことまことに、ローマ史にはなんでもありなのである。」と述懐している。5年前、この皇帝を扱ったアントナン・アルトーの『ヘリオガバルス:または戴冠せるアナーキスト』という怪作を読んだのを思い出した。奇怪過ぎる人物はそれだけで歴史に刻印される。

 第3章は、ローマ世界にキリスト教という一神教が広まっていく背景を古代の人々の心性の変遷という視点で考察している。以前に読んだ本村氏の『多神教と一神教』に重なる内容だが、すでに6年前に読んだ内容の大半を失念しているので、ナルホドと思いながら読んだ。十分に理解できたわけではないが、興味深い領域だ。

 第4章の「旅する皇帝」は、在位期間の大半を属州視察に費やしたハドリアヌスを指す。ハドリアヌスの足跡を辿りつつ、記述の時間幅はかなり広い。属州以前の状況から現代の遺跡巡りまでを語っている。カバーする地域はガリア、ブリタニア、ヒスパニア、シリア、ギリシア、エジプトと広大だ。私の知らない歴史が多く、勉強になった。

 ガリアについてはカエサルの『ガリア戦記』の頃から述べている。『ガリア戦記』は10年近く昔に読んだが、登場するおびただしい部族名に頭が混乱した。私は、何となくそれらの部族をゲルマン人だと思っていたが、本書によってガリアにいたのはケルト人だと知った。勘違いを10年ぶりに是正でき、ささやかな安堵を得た。

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『地中海世界の歴史(全8巻)』の既読分は以下の通り。

 (1)オリエントの文明『神々のささやく世界』
 (2)アッシリアとペルシア『沈黙する神々の帝国』
 (3)エーゲ海とギリシアの文明『白熱する人間たちの都市』
 (4)ヘレニズム文明『辺境の王朝と英雄』
 (5)共和政ローマ『勝利を愛する人々』
 (6)地中海世界帝国の成立『「われらが海」の覇権』

精神世界の大転換を考察した『地中海世界の歴史』最終巻2026年02月04日

『人類と文明の変容:地中海世界の歴史8 「古代末期」という時代』(本村凌二/講談社選書メチエ)
 ローマ史家・本村凌二氏の『地中海世界の歴史(全8巻)』の最終巻を読了した。全8巻を読み終えてホッとした気分だ。前半4巻はボチボチと気ままに読み、後半4巻は続け読みだった(4冊で約2週間)。

 『人類と文明の変容:地中海世界の歴史8 「古代末期」という時代』(本村凌二/講談社選書メチエ)

 本村氏は本書のなかで、シリーズ全体について次のように述べている。

 「本シリーズでは、「心性史」を基軸とする「社会史」を重視する歴史叙述に注目する立場をとってきた。だが、それを掘りおこす歴史叙述はかんたんではないのだ。」

 あらためて、なるほどやはりそうであったのかと感じた。

 本書が扱う時代は、3世紀の軍人皇帝マクシミヌスから6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌスまでである。ローマ帝国は軍人皇帝時代の混乱からディオクレティアヌス帝の四分割統治(293年)を経て東西分裂が決定的(395年)となり、西ローマ帝国は滅亡(476年)し、東ローマ帝国が存続する。この間にキリスト教を公認(313年)し、国教とする(392年)。

 心性史という観点では、キリスト教の普及が最大のポイントである。本村氏はそれを「多神教世界が一神教世界に転換するという人類史上の大事件」と捉え、その内実を考察している。それは、人間が個人として突き放され、それぞれが「自分で考える」ことを求められる精神世界の変化であり、「文明の変容」とも呼べるものだという。

 面白く思ったのは、コンスタンティヌス大帝のキリスト教公認後に登場したユリアヌス帝の評価である。キリスト教嫌いで、古来の神々への回帰を推進し、「背教者」と呼ばれた皇帝だ。私は10年前に辻邦生の歴史小説『背教者ユリアヌス』を読んで、この皇帝に魅力を感じた。

 本村氏は、ユリアヌスを時代の逆行者と見なしているのではなく、逆に「彼はある意味ではもっとも時代のムードを身におびていた人物であったかもしれない」としている。ユリアヌスは、人間の内面を見つめる一神教世界の精神性をおびていたが故に、権力に保護されて堕落したキリスト教を嫌悪したというのである。そういう見方もあるのかと驚いた。目から鱗だ。

 本書の「はじめに」では、ピーター・ブラウンが1971年に著した『古代末期の世界』を、この半世紀あまりで最も影響力があった書と高く評価している。私は7年前、本村氏の概説書でこの本を知って読んだが、その内容はほとんど失念している。本書の結論めいた部分はブラウンの「古代末期」をふまえた考察になっていて、次のように述べている。

 「古代末期をながめる視座も多様であるが、現在考えられるかぎりにおいては、もはや衰退・没落史観だけから見ない方に傾いているだろう。むしろ、禁欲思想に現れるような宗教や文化を中心としながら、その当時の民衆の心性に注目しているのである。3世紀から7世紀までの期間は、一つの新しい秩序・考え方・感じ方が生まれた時代と理解されるのではないだろうか。そのようにとらえるのが偏見のない見方であり、それは現在の主流になりつつあると言っていいだろう。」

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『地中海世界の歴史(全8巻)』の既読分は以下の通り。

 (1)オリエントの文明『神々のささやく世界』
 (2)アッシリアとペルシア『沈黙する神々の帝国』
 (3)エーゲ海とギリシアの文明『白熱する人間たちの都市』
 (4)ヘレニズム文明『辺境の王朝と英雄』
 (5)共和政ローマ『勝利を愛する人々』
 (6)地中海世界帝国の成立『「われらが海」の覇権』
 (7)パクス・ローマーナ『平和と繁栄の宿命』

カペー朝の歴史は意外に面白い2026年02月07日

『カペー朝:フランス王朝史1』(佐藤賢一/講談社現代新書)
 かなり以前に入手して積んだままだった次の新書を読んだ。

 『カペー朝:フランス王朝史1』(佐藤賢一/講談社現代新書)

 私はフランス史に暗い。フランス革命以降の歴史はある程度イメージできる。ローマ史の本を多少読んできたので、その延長のフランク王国三分割あたりまでも何となくイメージできる。だが、フランク王国が分裂した西フランク王国(フランスの原型)からフランス革命までの千年近い歴史は頭の中でぼんやりしている。

 この数年、世界史関連の本を読むことが多いが、自分の興味がおもむくままの気ままな読書である。受験生ではないので、すべてをカバーせねばという切迫感はない。これまでさほど食指が動かなかったフランス史に関心が向いたのは、ギボンのせいである。ボチボチ再読中の『ローマ帝国衰亡史』の終盤にユーグ・カペーが登場し、フランス史が気がかりになったのだ。

 佐藤賢一氏の『カペー朝』は想定以上に面白く、退屈することなく一気に読了できた。歴史の実相も興味深いが、佐藤氏の洒脱な語り口がいい。さすが、西洋史に造詣の深い小説家だ。

 本書は、ユーグ・カペー(在987ー996)からシャルル4世(在1322ー1328)まで約300年間の14人のフランス王の姿を鮮やかに描き出している。国王たちの何人かは、その一代記が面白い小説になりそうな気がする。そう思わせるのは著者の描写力のせいだが。

 ユーグ・カペーが諸侯からフランス王に選出された時、かつての西フランク王国は群雄割拠の無政府状態だった。フランスという国があったわけではない。フランス王とは「名ばかりの王」で、一地方領主に過ぎなかった。カペー朝の歴史は「名ばかりの王」が300年の時間をかけて「本当のフランス王」になっていく物語である。著者はそれを、自転車操業の個人商店が大店に成り上がっていく奮闘日記になぞらえている。

 本書を読んでいて、以前に読んだ塩野七生の『十字軍物語』『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』との接点に出会い、歴史を多面的に眺める楽しさを感じた。

 「花の十字軍」と言われる第3回十字軍に参加したカペー朝のフィリップ2世は、早々に遠征先から引き返してフランスの領土拡張を画策した狡い王のイメージがある。華やかな活躍で知られる獅子心王リチャードとの対比で、その悪役ぶりが際立つ。

 本書は、そのフィリップ2世を名君と描いている。あだ名は尊厳王である。フィリップ2世の側に立てば彼の行動や心情も得心できる。

 フランス視点の本書はリチャードをリシャールと表記する。獅子心王リチャードにはイギリス王のイメージが強いが、イングランド王兼ノルマンディー公兼アンジュ―拍 なので、フランス王から見れば封臣でもある。リシャールは、イギリス人というよりは南フランス人なのだ。著者はフィリップ2世の心情を次のように推測している。

 「リシャールという男は(…)派手好き、賑やか好き、贅沢好きの浮かれた南フランス気質であり、(…)フィリップ2世も好きになれなかったに違いない。華やかに着飾られたり、貴婦人と浮名を流されたり、あるいは雅な詩文を綴られたりするだけなら、まだしも無害というものだが、南フランス気質は戦場にあっては、勇猛果敢な豪胆となって現れるのだ。獅子心王は戦をさせれば、やたら滅法強いのだ。まったく面白くない。」

 本書によって北フランスと南フランスの気質の違いを知った。古くからローマ化されていた地中海世界の南フランスは北よりオシャレだったようだ。カペー朝の歴史は、生真面目が取柄の北の王が南を併合してフランスいう国を形作っていく物語である。

那覇の桜坂劇場で「2つのゼロ年」を観た2026年02月09日

 いま、沖縄の那覇に来ている。のんびりした時間を過ごす心づもりだ。桜坂劇場で次の映画2本を続けて観た。

 『ドイツ零年』(監督:ロッセリーニ/1948年)
 『新ドイツ零年』(監督:ゴダール/1991年)

 この2本は「2つのゼロ年」と銘打って連続上演されていた。どんな映画か何の予備知識もないまま、ほとんど発作的にチケットを購入した。

 『ドイツ零年』は1948年(私が生まれた年だ)の映画だから、かなり古い。ロッセリーニという監督の名は聞いたことがあるような気がするが、その映画を観たことはないと思う。ゴダールの映画は学生時代(1960年代末)に何本か観ている。あの頃の学生にとって、ゴダールは観なければならない特別な存在の映画監督だった。

 『新ドイツ零年』というタイトルから、ゴダールがロッセリーニにインスパイアされてリメイクした映画だと推測し、この2本を続けて観るのは面白そうに思えたのである。

 『ドイツ零年』は、ナチス崩壊(1945年)後のベルリンの街を彷徨う少年を描いた映画だった。かなり衝撃的で面白かった。『新ドイツ零年』は、ベルリンの壁崩壊(1989年)後のベルリンを描いたコラージュ風のわけのわからない映画だった。ヘーゲル、ゲーテ、カフカなどなど断片的に織り込まれていて、相変わらずゴダールだなあと感心しながら観た。

 『新ドイツ零年』に『ドイツ零年』との共通点はあまり感じなかった。『ドイツ零年』は敗戦後のベルリンを少年が彷徨う。『新ドイツ零年』は、東ベルリンに潜伏していた老スパイが東ドイツ崩壊後に西をめざして旅する。映画のテイストはかなり異なる。

 映画を観た後、売店で『2つのゼロ年』という冊子を購入して読んだ。冊子には『新ドイツ零年』の採録シナリオも収録されている。この冊子を読んで、『新ドイツ零年』の内容がやっと把握できた。もう一度観ないと楽しめない映画だと思った。だが、いまのところ、もう一度観る予定はない。

 『ドイツ零年』で印象に残ったシーンは、総統官邸跡の廃墟を見物する進駐軍の兵士に、少年がヒトラー演説のレコードを販売するシーンだ。

 『新ドイツ零年』で印象に残ったのは、東から西に戻ってホテルに投宿した老スパイの質問に対して、若い女性従業員が「Arbeit macht freid (働けば自由になれる。アウシュヴィッツの看板)」と応えるシーンだ。

『フランス史10講』は歴史解釈の講義だった2026年02月11日

『フランス史10講』(柴田三千雄/岩波新書)
 講談社現代新書の『カペー朝』を読み、これまで馴染んでこなかったフランス史への多少の関心がわき、次の新書も読んだ。

 『フランス史10講』(柴田三千雄/岩波新書)

 本書の刊行は20年前の2006年5月、私が入手したのは2025年7月の23刷である。ロングセラーの定番本だろう思って読み始めた。

 ガリアと呼ばれた古代ローマ時代からシラク大統領(1995年就任)までの長い歴史を10回の講義で語っている。前半の5講がフランス革命直前まで、後半の5講でフランス革命から現代までを語っている。

 フランス史の入門書のつもりで読み始めたが、少し勝手が違った。歴史的事象の背景や構造を考察する歴史解釈への言及が多く、大学の講義のような雰囲気である。高校世界史程度の知識がある読者を想定しているようだ。フランス史に暗い私の知らない史実が説明抜きで出てくる。そのいくつかをネットや事典で調べながら読み進めた。思った以上に読了に時間を要した。

 本書を半分まで読んだ時点で、この著者の『革命と皇帝(大世界史14)』を3年前に読んだことを思い出した。私の頭の中に断片的に残っているフランス革命に関する知識はあの本に負っている。あの本に続けて岩波新書の『ナポレオン』なども読んだが、3年前に読んだ本の内容はすでに霞んでいる。

 本書によってヘェーと思った事象はいくつかある。その例を二つ挙げる。

 15世紀のジャンヌ・ダルクが歴史的に注目されたのは19世紀半ばで、それまでは忘れられた存在だった。そもそも、同時代のフランス王にとって彼女は有難迷惑で警戒すべき存在だったらしい。近代になって、国民国家の発生と結びついて「救国の乙女」と神話化されたのだ。

 ヒトラーに敗れたフランスに誕生したヴィシー政府の国家主席ペタン元帥は、当時の大多数のフランス国民にとって「救世主」であり、彼への国民の信頼は消えなかった。米国やソ連はヴィシーに大使館をおいていた。

 著者は「第8講 共和主義による国民統合」で1871年のパリコミューンについて、次のように述べている。

 「(…)コミューンのプログラムは、いっときの解放感に浸った民衆の願望を集約したものであり、実行する時間もないユートピアに終わった。このリベルテール(絶対自由主義)政治文化は、約1世紀後の「五月革命」に蘇生することになる。」

 そして「第10講 変貌する現代フランス」では、1968年の「五月革命」を次のようにまとめている。

 「それは、あらゆる意味で「栄光の30年」の産物であり、当事者自身がそのユートピア性を自覚する「祭り」であった。「五月革命」は直接的な政治成果をほとんど残さなかったが、社会、文化の深部で大きな変化を残した。」

 「五月革命」は、私のような団塊世代とって、学生時代に接した同時代の懐かしくも生々しい事象である。本書のような歴史概説書で「五月革命」に接すると、自分が古老になった気がするる。

イランが舞台の『砂のクロニクル』は面白い2026年02月14日

『砂のクロニクル(上)(下)』(船戸与一/小学館文庫)
 『砂のクロニクル(上)(下)』(船戸与一/小学館文庫)

 2015年に71歳で亡くなった冒険小説家・船戸与一の『砂のクロニクル』を読んだ。この作家の作品を読むのは初めてだ。目まぐるしい展開のエンタメ上下2冊(約1600枚)を一気に読了した。

 この小説を読もうと思ったのは舞台がイランと知ったからだ。今月(2026年2月)イラン旅行を予定していたが、イラン情勢で中止になった。旅行準備の気分でイラン関連本を何冊か読んできてイランへの関心が高まり、この小説を読みたくなった。

 『砂のクロニクル』の単行本が出たのは35年前の1991年、ソ連解体や湾岸戦争の年だ。当時の世界情勢をふんだんに織り込んでいる。イラン革命の1979年頃から1991年まで、約12年間のイランを舞台にした、やや沈鬱な冒険活劇である。

 この小説には「イランの革命防衛隊」「イランの革命委員会」「イランの人民戦線(フェダイン・ハルク)」「イランのクルド人ゲリラ」「イラクのクルド人ゲリラ」「独立を画策するアルゼバイジャン人」などが登場する。私はイラン関連本(『イラン現代史』『物語イランの歴史』『イランを知るための65章』など)を読んだばかりだったので、本の断片的知識が当事者の体験談で肉付けられていく感覚になり、とても興味深く読み進めることができた。

 と言っても本書は完全なフィクションであり、IJPCを扱った『バンダルの塔』のようなモデル小説ではない。PFLPから人民戦線(フェダイン・ハルク)に派遣された日本人ゲリラ、一匹狼の日本人武器商人など、怪しげで魅力的な人物が登場する。ゴルゴ13を連想させる雰囲気もある。読了後に知ったのだが、船戸与一は別の筆名でゴルゴ13の原作をいくつも書いていたそうだ。

 この小説は多彩な登場人物が繰り広げる「恋と革命」「愛と戦争」の物語であり、バイオレンスとSEXの冒険譚であり、「崇高な精神」や「観念」が挫折・破綻にさらされる悲劇でもある。登場人物はやや類型的だが、それが気になるような物語ではない。

皇帝ハインリッヒ4世は頑張っている2026年02月16日

『ウルバヌス2世と十字軍:教会と平和と聖戦と』(池谷文夫/世界史リブレット人・山川出版社)
 十字軍関連の本をボチボチ読んでいる流れで次の冊子を読んだ。

 『ウルバヌス2世と十字軍:教会と平和と聖戦と』(池谷文夫/世界史リブレット人・山川出版社)

 クレルモン宗教会議で十字軍を提唱した教皇ウルバヌス2世の事績解説がメインで、第1回十字軍についても概説した96頁のブックレットである。

 イェルサレムを占拠した第1回十字軍の実態については、参加者が残した当時の書簡などを紹介している。襲来した側の記録からも、十字軍とは「蛮族の襲来」に他ならないと見えてくる。書簡は異教徒虐殺を誇らしげに語り、「わが兵たちは馬の膝まで浸るサラセン人の血の海に乗り入れました。」と述べている。

 著者は「史料に嬉々として記述されている聖戦の暗黒面は、後世に作成された種々の書物や写本の挿絵においては描かれることがなかった」と指摘している。

 本書によって、十字軍提唱の背景に教皇と皇帝の攻防があったとの認識を新たにした。司教叙任権に絡んだ「カノッサの屈辱」は1076年の事件、第1回十字軍によるイェルサレム陥落は1099年である。この二つの事象の間の23年にわたる教皇と皇帝との攻防が興味深い。

 皇帝ハインリッヒ4世が教皇グレゴリウス7世に謝罪した「カノッサの屈辱」発生時、ハインリッヒは27歳、グレゴリウスは57歳ぐらいだった。この事件、ハインリッヒの敗北というよりは戦略だったように思える。その後、ハインリッヒは巻き返し、グレゴリウスはローマ脱出後に65歳ぐらいで憤死する。

 グレゴリウスの後継者がウルバヌス2世である。教皇ウルバヌスと皇帝ハインリッヒの一進一退の攻防はグレゴリウス没後も継続する。

 本書を読んでいて、ハインリッヒは頑張っているなあとの感を強くした。共治帝にした長男は教皇側に寝返り、皇后(2番目の妻)も教皇のもとに走る。教皇はハインリッヒの長男や妻らを巧みに利用する。それでもハインリッヒは巻き返す。

 教皇と皇帝の攻防に関しては、最終的に司教叙任権は教皇のものになるので教皇側の勝ちとされている。だが、ウルバヌス対ハインリッヒで見ると、そうは言い切れないようだ。ウルバヌスはイェルサレム陥落の年に没する。その頃、ハインリッヒは長男を廃位し、次男(ハインリッヒ5世)をドイツ王に戴冠させていた。

 著者は次のように述べている。

 「ウルバヌス最晩年の年、帝国内の情勢はまたも皇帝優位へとゆりもどされていたのである。叙任権闘争の最終決着に至るまで、後継教皇たちの苦闘は続く。」

 本書の範囲からは外れるが、その後、ハンリッッヒは次男にも裏切られれる。

「思考の言語化」に関する自問自答を言語化した作品2026年02月19日

『言語化するための小説思考』(小川哲/講談社)
 『言語化するための小説思考』(小川哲/講談社)

 ベストセラーリストに妙なタイトルの本書がランクインしていてヘェーと思っていたら、朝日新聞(2026.2.14)読書欄の「売れてる本」がこの本を取り上げていた。小川哲氏の小説は最近作の『火星の女王』など何点か読んでいるが、本書は小説ではなさそうだ。

 書店の店頭に平積みになっているのを手に取った。「まえがき」の次のセンテンスで買う気になった。

 「小説に限らず、(他者に読まれることを前提として書かれた)あらゆる文章表現に共通しているのは、その文章に価値があるかどうかを決めるのが「他者」という点である。文章は「他者のため」、より正確に言えば「作品のため」に書かれるべきであって、自分を大きく見せるために書かれるべきではない。文章は「自己表現」であると同時に、「その自己表現に他者がどれだけ感心したか」という側面を持つ。

 薄い新書版で、手軽に読めそうだ。「まえがき」を読めば文章表現のハウツー本にも思える。ベストセラーになった由縁かもしれない。判型は新書版だが新書のレーベルではない。「あとがき」の後に短編小説1編を収録して189ページ、不思議な形態の単行本である。

 本書は「小説を書く」という行為に関する作者自身の自問自答の書であり、「認知や思考の言語化」ということを言語化した新たな小川作品にも見える。小川哲氏には小説を書く生活をテーマにした『君が手にするはずだった黄金について』という小説がある。あの作品世界をさらに突きつめていくと本書のような「作品」になったのだろうか。

 本書にハウツー本としての価値がどれほどあるか、私にはよくわからないが、「アイデアは生みだすものではなく、見つけるもの――すなわち「視力」である」との指摘に共感・納得する。凡人にとっては、頭の中の茫漠を言語化する「書く」という行為こそが「思考」ではないかと私は感じている。ソクラテスのような「書かない哲学者」もいるが。

 本書の巻末には何の説明もなしに「エデンの東」という短編小説を収録している。若手作家の競作短編集『あえのがたり』 に収録していた小説である。本文に続けて小説を読むと、この小説が本文と一体になっていると了解できる。粋な構成だと思う。