ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の翻訳比較と試訳2026年04月25日

 ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を、ささやかな輪読会でチビチビと読み進めている。私たちが読んでいるのはちくま学芸文庫版である。全10巻の4巻途中までは中野好夫訳、訳業半ばで中野好夫が逝き、朱牟田夏雄が継いだが彼も訳業半ばで逝く。6巻半ば以降は中野好夫の倅・中野好之が訳し通した。

 その『衰亡史』は終盤にさしかかり、第1回十字軍の件りに突入した。ギボンは、十字軍に参加した諸侯の筆頭にゴドフロア・ド・ブイヨンを挙げている。その紹介文にわかりにくい箇所があった。

【中野好之訳(ちくま学芸文庫版)】
「彼の父親はブーロニュー伯の高貴な血筋に当り、一方でロレーヌの低部属州に当るブラバントは彼の母方の家産であった。さらに彼は皇帝の恩情により彼自身も公爵の称号を許されたが、後にこれは不当にもアルデンヌのブイヨン家に移ってしまった。」

 この訳文の後半が意味不明なのだ。「後にこれは不当にも」がよくわからない。ロレーヌはややこしい土地であり、ゴドフロアが下ロレーヌを母親から相続する際にゴタゴタした。だが、そのゴタゴタを述べているとも思えない。

 ネット公開されている原文は以下の通りだ。

【原文】
His father was of the noble race of the counts of Boulogne: Brabant, the lower province of Lorraine, was the inheritance of his mother; and by the emperor’s bounty he was himself invested with that ducal title, which has been improperly transferred to his lordship of Bouillon in the Ardennes.

『ローマ帝国衰亡史』は岩波文庫版もあり、その訳文は以下の通りだ。

【村井勇三訳(岩波文庫版)】
「彼の父は代々ブーローニューを領した貴族の出であった。……ローレーヌの下半分であるブラバント公国は彼の母親の遺産であった、そして彼はゲルマン皇帝の恩賜によってそこの公号を付与されたが、彼自身の本領はアルデンヌのブイヨンであった。」

 戦前の翻訳である村井訳は、かなり思い切った意訳である。それに較べて中野訳は直訳に近いが、わかりにくい。

 原文の improperly の含意をつかみにくいが、私にはギボンの揶揄的な諧謔の表現に思える。ギボン節である。で、多少は意味が通りやすいよう補足して訳してみた。解釈が間違っているかもしれないが。

【試訳(超訳)】
「彼(ゴドフロア)の父はブローニュー伯爵の高貴な家系であり、下ロレーヌのブラバントは彼の母の相続地だった。その相続地を巡る紆余曲折の末、神聖ローマ皇帝の恩賞によって彼自身も公爵(下ロレーヌ公)の称号を授かり、下ロレーヌ公の称号は、それにふさわしいとは言い難いアルデンヌのブイヨン領主である彼のものとなった。」

『ユダヤ人の歴史』でユダヤ人集団の多様性を認識2026年04月11日

 『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(鶴見太郎/中公新書)
 2026年新書大賞第2位の『ユダヤ人の歴史』を読んだ。刊行は昨年(2025年)1月だ。

 『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(鶴見太郎/中公新書)

 旧約聖書からナチスに至るまで、世界史関連の本にはユダヤ人が随所に登場する。以前読んだ『ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか』(長谷川修一)はバビロン捕囚の史実を解説していた。ローマ史の本にもユダヤ戦争などの記述がある。『ヒトラー:ナチズムの誕生』(村瀬興雄)は、ナチス登場の背景となった近代反ユダヤ主義詳述していた。何となく、ことさらにユダヤ人の歴史を勉強しなくもいいかという気がして、書店で本書を見かけてもスルーしていた。

 だが、新たなカバーを装着した本書の平積みを店頭で見て気が変わった。本書を読了し、これまでの自分の理解が浅かったと自覚した。本書を読んで認識を新たにしたのはユダヤ人の複雑な多様性である。考えてみれば、マルクスもフロイトもカフカもプルーストもユダヤ人だから多様なのは当然だ。

 本書は、多様なユダヤ人集団がそれぞれの環境に「カスタマイズ」しつつ生き延びてきたさまを「主体と構造」「組み合わせ」というキーワードで解説している。多様なユダヤ人集団が、時代や地域によって繁栄したり迫害されたりしてきた事情を明快に解説している。

 国を持たないユダヤ人が二千年間、その居住地の人々に同化・溶解することこなく「ユダヤ人という意識」を持続したのは驚異だと思う。それを可能にしたユダヤ人のアイデンティティが不思議だ。本書を読み終えても「ユダヤ人とは何か」の疑問は残る。「民族とは何か」「国民とは何か」以上の難問に思える。

 本書によれば、英語のJewをはじめ諸言語(ヘブライ語も含む)は「ユダヤ人」「ユダヤ教徒」両方の意味を兼ねているそうだ。「ユダヤ人」と「ユダヤ教徒」を区別して表記する日本語が例外らしい。驚いた。ローマのハドリアヌス帝の時代、第二次ユダヤ戦争によってユダヤ人はエルサレムから追放され、最終的な離散(ディアスポラ)となる。このとき追放されたのはユダヤ教徒だけだったと読んで納得した記憶がある。だが、「ユダヤ教徒でないユダヤ人」という概念がないとすると、ユダヤ人全員が追放されたのだろうか。

 おそらく、日本語の「ユダヤ教徒」という概念の問題だろう。キリスト教やイスラム教に改宗したユダヤ人は少なくない。ヴェニスの商人のシャイロックも最終段階でキリスト教への改宗を余儀なくされる(架空の人物だが)。改宗したユダヤ人がユダヤ人でなくなるわけではない。自分をユダヤ人だと意識している限り、改宗者であっても心の奥底に「ユダヤ教徒である意識」が残っている――そういうことだと思う。

 本書でナルホドと思ったのは、ユダヤ人にとっては近代になって住みにくい過酷な時代になったという指摘だ。国民国家という平準化圧力が異質な集団を圧迫するからである。

 また本書は、ロシアや東欧で発生したポグロム(ユダヤ人迫害)について「世界史級の出来事であるのは間違いない」として詳述している。その大きな原因が「想像の民族対立」だったとの指摘も興味深い。いつの時代も人の抱く幻想が歴史を動かしてしまうことが多い。

 あらためて熟読したい書である。

暗澹たる気分になる『新書 世界現代史』2026年04月01日

『新書 世界現代史:なぜ「力こそ正義」はよみがえったのか』(川北省吾/講談社現代新書)
 自分が生きている同時代を歴史の眼で捉えるのは容易ではない。だが、いつの時代でも、現代史こそが最も切実な課題である。多くの識者へのインタビューをベースに「世界現代史」を描いた次の新書を読み、暗澹たる気分になった。

 『新書 世界現代史:なぜ「力こそ正義」はよみがえったのか』(川北省吾/講談社現代新書)

 著者は共同通信の国際ジャーナリストである。本書は共同通信が配信した国際インタビュー連載記事「レコンキスタの時代」を元に書籍化したそうだ。インタビューの相手は多様な論客(学者、政治家、言論人、活動家など)で、その立場は多岐にわたる。だが、本書の内容は散漫ではなく収斂している。著者の問題意識に基づいて整理しているとも言えるが、現代の時代様相に衆目が一致するトレンドがあるのは確かなように思える。

 本書のサブタイトルは“なぜ「力こそ正義」はよみがえったか”であり、エピローグの表題は“「19世紀」へ向かう世界”である。それは、「世界の警察官」がいない「Gゼロ時代」であり、法の支配でなく「ジャングルの掟」が横行する時代である。

 冷戦後のグローバリズムの時代は、米国1強でもG7でもなくGゼロの時代になってしまった。著者は、そんな現代のトレンドライン(時代潮流)を作ったのは米国(トランプ)、ロシア(プーチン)、中国(習近平)らのレコンキスタ(失地回復)への強烈な意思だとしている。

 反グローバリズム、反移民、反リベラル、伝統回帰などが現代のトレンドラインのようだ。そんな民主主義や国際法が霞む時代について、本書に登場する論客たちは、その淵源を多様な視点で論じている。

 21世紀が19世紀のようになるという議論は、ピケティの『21世紀の資本』を想起させる。ピケティは20世紀に縮小傾向を見せた格差が21世紀には拡大し、19世紀のようになると警鐘を鳴らした。

 本書も格差拡大を論じているが、本書の言う19世紀はいくつかの大国の勢力均衡で平和を保つ時代であり、「勢力圏」を争う世界である。それは、小国の命運が大国に握られる弱肉強食の世界とも言える。時代は悪くなると思わざるを得ない。

 と言っても、21世紀が19世紀のくり返しになるとは思えない。19世紀には存在しなかった核やSNSやAIは、より危険な要素になるかもしれない。そうでない可能性もある。21世紀の人類には19世紀以降の歴史の記憶が積み上がっているはずであり、その記憶が「いい方向」に作用することを期待するしかない。

千年前の修道士のような国防長官2026年03月30日

 米国のヘグセス国防長官の胸に十字軍のタトゥーがあると知り、いま再読中の『ローマ帝国衰亡史』(ギボン)第58章の一節を想起した。

 第58章は第1回十字軍の話である。18世紀の啓蒙人であるギボンは、11世紀末に始まった十字軍に批判的だ。十字軍を無知と狂信と見なし、次のように述懐している。

 「われわれの一層冷静な理性はアシアを押し流しヨーロッパを空にしたこの途方もない兵員による遠隔な作戦の正当さを否認せねばならない。」(中野好之訳)

 また、十字軍の熱狂に乗じた「抜け目のない一修道士」が自分の肌に十字架の焼き印を刻み、それを見せびらかすことで「裕福な聖職禄」を得たというエピソードを揶揄的に紹介している(画像参照)。

 この一節を読んだ直後に、米国のヘグセス国防長官が十字軍マークと「Deus Vult(神はそれを望まれる)」のタトゥーを入れていると知ったのである。千年前の「抜け目のない一修道士」が21世紀によみがえったように思え、頭がクラクラした。ギボンもビックリだと思う。

 ヘグセス国防長官はプリンストン大学を卒業し、ハーバード大学で修士号を取得し、FOXニュースの司会者から政界に転じた人だそうだ。彼からは、18世紀の啓蒙人は時代遅れリベラルの淵源に見えるのかもしれない。

 おかしな時代に突入していると思う。

3マス世界史のムック版は、かなり深い2026年03月25日

『もっと深く知るアジアから見る世界史』(岡本隆司・編著/NHK出版)
 2年前にEテレで放映した『3か月でマスターする世界史』は、西欧中心視点ではない歴史観を提示した興味深い番組だった。視聴に合わせてテキストを購読し、講師の岡本隆司氏の『世界史序説:アジア史から一望する』も読んだ。

 放映から1年以上経過した昨年(2025年)11月、この番組をベースにした次のムックが出版された。

 『もっと深く知るアジアから見る世界史』(岡本隆司・編著/NHK出版)

 先日読んだ対談本『世界史のミカタ』で「世界史を作ったのは遊牧民」という見方を再確認したのを契機に、積んだままだった3マス世界史のムックを読んだ。

 本書は岡本隆司氏が「序章」と「あとがき」を執筆し、本文は番組に出演したゲスト講師が執筆している。各章の執筆者は以下の通りだ。

 第1章 アジアから考えるローマ帝国 井上文則
 第2章 オリエントと世界宗教 守川知子
 第3章 草原と中華の交錯――遊牧国家と中国 古松崇志
 第4章 モンゴル帝国の完成と解体 宮紀子
 第5章 世界史の分水嶺――ポストモンゴルのヘゲモニーシフト 山下範久
 第6章 ヨーロッパとアジア――国際秩序のゆくえ 細谷雄一

 番組の内容に沿った構成だが、テキストとの重複は少なく、テキストを補完してより深く踏み込んだ記述になっている。各章末のコメント入り「読書案内」も親切だ。

 ゲスト講師6人のなかで私が著書を読んだことがあるのは井上文則氏と宮紀子氏だ。5年前に読んだ井上氏の『シルクロードとローマ帝国の興亡』は本書の内容とも重なる目からウロコの本だった。宮氏のやや専門的な『クビライ・カアンの驚異の帝国』は3マス世界史視聴をきっかけに購入して読んだ。

 ユーラシア視点の本書は、ユーラシア規模の歴史変動の要因として寒冷化や温暖化に着目している。気候変動は人々の大規模な移動や疫病につながり、歴史の動因となる。それが3世紀の危機、14世紀の危機、17世紀の危機などをもたらした。歴史を大きく俯瞰した気分になる。

 オリエント、イスラム世界、モンゴル帝国などは、その全盛期には文明や文化の最先端であり、世界史の中心だった。だが、ポストモンゴルの近代になって西欧文明が中心になっていく。なぜ、そのような大転換が生じたのか。本書はその過程を概説している。一応は理解できるが、十全に把握できたとは言えない。私が世界史を勉強していく上で探究したい大きなテーマである。

世界史をサカナの対談本を読んだ2026年03月18日

『世界史のミカタ』(井上章一・佐藤賢一/祥伝社新書/2019.11)
 ネット検索で井上章一氏と佐藤賢一氏の対談新書を見つけた。2年前に読んだ井上章一氏の『日本に古代はあったのか』はとても面白かった。佐藤賢一氏の著作は『歴史小説のウソ』を読んだばかりだ。この二人の対談なら面白そうだと思い、古書を入手した。

 『世界史のミカタ』(井上章一・佐藤賢一/祥伝社新書/2019.11)

 7年前に出た本である。世界史の見方に関する対談のテーマは多岐にわたるが、「世界史を作ったのは遊牧民」という話題が柱に思える。私はこの「見方」にすでに何度も接しているので、それを再確認する気分で読み進めた。

 井上氏の「おわりに――中央アジアから物を言う」で、井上氏の関心領域が私のささやかな関心領域に重なる部分が多いと確認でき、少し嬉しくなった。梅棹忠夫の『文明の生態史観』に圧倒的感銘を受けた井上氏は、それにあおられて、後藤明杉山正明林俊雄森安孝夫らの本によく目を通すそうだ。私もその一部を読んでいるが、内容の記憶はあやふやだ。彼らの著作をあらためて読み返したたくなった。

 フランス革命と明治維新が似ているという指摘に、ナルホドと思った。日本で「朝廷」という古めかしい権威を引っ張り出してきたのと、フランスで「三部会」という中世の仕組みを引っ張り出してきたのが似ているとの議論には驚いた。そんな見方があるのかと感心した。

 日露戦争は英国がしかけたという見方や、英仏にとって第一次大戦のインパクトが非常に大きかったとの見方も興味深い。英仏の第一次大戦の死者数は第二次大戦の死者数よりはるかに多かったと、本書で初めて知った。日本は第一次大戦で被害がなかった。それが、後の判断の誤まりの一因かもしれない。

 本書はロシアのウクライナ侵攻やコロナ禍以前の対談である。最終章「国民国家の次に来るもの」は決して楽観的ではないが、現在の視点で読み返すと、やや気楽な見通しに見えたりもする。この7年で世界はずいぶん変わったように思える。

67年ぶりに『さいごの授業』を再読した2026年03月12日

 ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をチビチビと再読している。すでに終盤、11世紀の十字軍のあたりだ。そこで気になる表現に出会った。民衆十字軍の6万人の大衆が「フランスとロレーヌの国境」から集まってきたとある。

 ロレーヌと言えば「アルザス=ロレーヌ」、独仏の葛藤の場だ。現在はフランス領だが、ギボンが生きた18世紀はドイツ領だったのかと思って調べた。18世紀もフランス領だった。十字軍の頃は神聖ローマ帝国(ドイツ)の一部だったので、ギボンの言う「国境」は11世紀の話だろう。ギボンの頭の中には、ロレーヌはフランスではないという意識があったのでは、と思わなくもない。

 あらためて、歴史概説書やネット情報でアルザス=ロレーヌの歴史を調べ、独仏の間で領有が目まぐるしく変わってきたさまを再認識した。

 この地は、もともとドイツ系住民の地で、アルザス語はドイツ語の方言である。17世紀半ばまでは神聖ローマ帝国の傘下だったが、三十年戦争で神聖ローマ帝国が敗北し、フランス領になる(1648年)。それから、第二次世界大戦で自由フランスがナチス・ドイツからこの地を奪還(1944年)するまでの約300年の間、領有は何度も入れ替わる。

 アルザスと言えばドーデの『最後の授業』を想起する。普仏戦争でフランスが敗北、アルザスとロレーヌの東半分がプロイセン領となる(1871年)。そのときの「悲劇」をフランス視点で描いた短編である。かつて読んだ『世界史との対話』(小川幸司)がこの小説を論じていた。

 『最後の授業』は、祖国愛や国語愛うたった作品として日本の国語教科書にも採用された。だが近年、この作品の虚構性とイデオロギー性が指摘され、教科書から姿を消した。

 私は小学生のとき、講談社の『少年少女世界文学全集』で読んだ。それ以来読んでいないが、内容のあらましと印象は残っている。この大昔の全集は、いまも納戸の奥に積んである。それを引っ張り出して再読した。1959年刊行だから、小学5年のときに読んだのだと思う。67年ぶりの再読である。

 タイトルは仮名で『さいごの授業』だった。子供向けのリライト版か否かは不明だ。アメル先生が黒板に「フランス ばんざい」!」と書いて泣いている挿絵を見て、なつかしさが甦った。記憶に残る情景の挿絵だ。

 小学生だった私が何を思ったのかは定かでない。勉強をサボっていると後悔するぞという教訓めいたイヤな話だと感じた気がする。学校を追われるアメル先生を可哀そうに思ったのは確かだ。プロシアという聞きなれない国への悪感情を植え付けられたかもしれない。

 この小説の問題点を認識してから再読し、おかしな点を確認できた。フランス語の最後の授業に際して「ぼくは、まだろくに書くこともできなかったのだ」とあり、小学生の私は、主人公はずいぶんサボってたのだと思った。教室の奥のベンチで大人たちが受講している姿に、この大人たちは文盲だったのかと感じた気がする。彼らの母語がアルザス語(ドイツ語の方言)であり、フランス語がエリートのための公用語だったとは、小学生の私はまったく知らなかった。

 アメル先生は、アルザス語を母語とするアルザス人に対し、フランス語を「国語」として押しつける立場にあったのだ。この作品からは見えてこない背景である。

 『最後の授業』批判の根底には、国民を構成する要素は言語や人種だというドイツ的な考え方があるそうだ。それに対してフランスでは、国民の観念を「国家がかかげる基本原理を共有しようとする意志」に求める考え方が有力だそうだ(谷川稔『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』より)。『世界史との対話』における小川幸司氏の『最後の授業』評価はフランス的な考えに近い。

 第一次世界大戦でドイツが敗北したとき、この地は『アルザス=ロレーヌ共和国』として独立を宣言した。だが、独立を認めないフランスに占領され、10日足らずで共和国は消滅した。この地に住む人々には、ドイツでもフランスでもない独自の存在だとの意識があるようだ。

 『最後の授業』の舞台はアルザスだが、ロレーヌはアルザスと同じような情況だったのだろうか。私にはよくわからない。国語や民族、「国民国家」をどう捉えるか、わかりにくいことばかりである。わかりにくいからこそ、探究しなければならないのだが。

歴史学と歴史小説のちがいから「史観」へ2026年03月06日

『歴史小説のウソ』(佐藤賢一/ちくまプライマリー新書/筑摩書房)
 佐藤賢一氏の『カペー朝』『ヴァロア朝』を読み、この作家への関心が高まり、昨年末に出た次の新書を読んだ。

『歴史小説のウソ』(佐藤賢一/ちくまプライマリー新書/筑摩書房)

 著者は西洋史研究者から歴史作家へ転身した人である。本書の「はじめに」では、小説を書き始めた経緯から大学院へ退学届けを出すまでの自身の体験を語っている。

 15世紀フランス史研究の合間に小説を書いた著者は、小説と論文の両方を書き続けるのは難しいと気づき、どちらを選ぶか悩む。小説を選んで大学院を退学、その翌年に『王妃の離婚』で直木賞を受賞する。

 そんな体験をふまえて歴史小説と歴史学のちがいを解説しているので臨場感がある。記述が具体的でわかりやすい。

 人間を書くのが歴史小説、時代を書くのが歴史学、どちらも過去の事実=ファクトを押させている。そのうえで、ファクトから人間の真実=トゥルースを引き出すのが歴史小説、時代の真実=トゥルースを引き出すのが歴史学――それが著者の見解だ。

 本書で面白いと思ったのは、歴史小説家は現地取材に熱心だが、インドア作業の文書学である歴史学の研究者にとって現地取材は必ずしも重要でないという指摘だ。両者の心構えのちがいの一端を覗えた気がする。

 歴史小説はSF(サイエンス・フィクション)との指摘には驚いた。著者は歴史学をサイエンスと捉えている。歴史学という文系の科学を土台にしたフィクションだから歴史小説はSFなのだ。ナルホドと思わされてしまう。

 本書の最終章は史観に関する議論である。とても興味深い話題だ。結論はやや常識的だが、そうなるしかないかなとも思える。

 著者は、俗に言う「司馬史観」を話題にしたうえで、「ジャコバン史観」「唯物史観」「アーリア史観」「皇国史観」などをイデオロギー史観としてしりぞける。そして、史観を打ち出すという行為は主観的なものだから、歴史学というサイエンスの役割ではないと結論する。

 史観が不要なわけではない。歴史小説は史観を語ることができる。だが、歴史小説や歴史書に接するそれぞれの個人こそが、自分が生きている時代を評価したうえで歴史(過去)との比較検討をふまえて、自分の史観をもたねばならない――それが著者の主張である。