『DXの思考法』でビジネスの現場を瞥見(べっけん)2021年06月28日

『DXの思考法:日本経済復活への最強戦略』(西山圭太/文藝春秋)
 新聞や雑誌でDX(デジタルトランスフォーメーション)という言葉を目にすることが多い。いつの時代にも跋扈する先端風の流行り言葉だと感じていた。私は現場から身を引いて久しい72歳の気ままな身で、最新のビジネストレンドを追う気はない。

 にもかかわらず次の本を読んだのは、若い人から面白いと教えられたからである。

 『DXの思考法:日本経済復活への最強戦略』(西山圭太/文藝春秋)

 私より15歳若い著者は、経済産業省の役人として多岐にわたって活躍し、退官後の現在は東大客員教授である。

 本書の読み始めに感じたのは、DXなるものが本当に新しいのだろうかという疑念である。「デジタル化」「ネットワーク組織」「プロトタイプ型開発」「プロトコルとレイヤ」「第5世代コンピュータ」などの考え方は数十年前(私が若い頃)からあり、それらと似た概念の繰り返しのように感じた。だが、読み進めるにつれて、私の疑念は年寄りのひが目であって、時代は変わってきていて古い考え方は通用しなくなっていると思えてきた。

 著者が社会人になった頃(1988年)に『ネットワーク組織論』(今井賢一、金子郁容)が出版され、新たな時代を感じたそうだ。その頃39歳だった私もこの本をむさぼるように読んだ。世代は違うが、かすかな同時代意識を感じた。

 本書はわかりやすいハウツー本ではなく難解な部分も多い。抽象的な説明が多いからである。「抽象化の破壊力――上がってから下がる」を説く本書にとって、抽象化の能力こそが眼目だから抽象的表現をためらっていない。そこに一種の説得力を感じた。

 著者が繰り返し呟くのは「いま何か決定的な変化が起こりつつある」というフレーズである。デジタル技術の大きな進展が世の中に質的な変化をもたらそうとしている予感は確かにある。本書の解説で冨山和彦氏が指摘しているように、日本の産業は立ち遅れつつある。新しい人材が育っていくことを願うしかない。

『環境問題の嘘 令和版』(池田清彦)はCO2温暖化説を否定しているが…2021年05月01日

『環境問題の嘘 令和版』(池田清彦/Mdn新書/エムディーエヌコーポレーション)
 生物学者の池田清彦氏の次の新書本を読んだ。

 『環境問題の嘘 令和版』(池田清彦/Mdn新書/エムディーエヌコーポレーション)

 この新書は、ご隠居さんの奔放なおしゃべりを文字にした座談の趣があり、読みやすくて面白い。緻密な議論の書とは言い難いところもあり、著者の主張を検討するには関連資料を精査するべきだろう感じた。

 話題は多岐にわたり、メインはCO2温暖化説の否定である。CO2温暖化否定の本を読むのは久しぶりだ。5年前の 『地球はもう温暖化していない』(深井有) 以来だと思う。最近の新聞は「脱炭素」関連の記事であふれ、CO2温暖化はすでの世界の常識になったように見える。科学の問題ではなく政治・経済・社会の問題として走り出しているので、止めようがないのだ。著者は次のように述べている。

 《人為的地球温暖化論を推進しているのは、エコという正義の御旗を梃子にCO2削減のためのさまざまなシステムを構築して金もうけを企んでいる巨大企業と、それを後押しする政治権力で、反対しているのは何の利権もなく、データに立脚して物事を考える科学者なんだよね。》

 本書全般における著者の批判対象はグローバル資本主義である。それに対抗する道として、物々交換のローカリズムを提唱し、次の見解を提示している。

 《中産階級以下の人が優雅に生きようとするならば、短期的に利潤だけを追求するラットレースから降りて、貨幣に全面依存しないで生きられるような定常システムを構築して、ダンバー数(互いに密接な関係を築ける集団構成員数の上限)以下の信頼できるコミュニティの中で生活するのが一番いいと思う。》

 やや現実離れした夢物語に思えるのが、隠居の放談らしさかもしれない。最近、これと似た印象のビジョンに接した。『人新世の「資本論」』(斎藤幸平)である。斎藤幸平氏はCO2温暖化を全面的に肯定し、それを論拠としていた。地球温暖化に関しては真逆の立場の池田清彦氏と斎藤幸平氏のビジョンが似ているのが面白い。

新書大賞の『人新世の「資本論」』は気宇壮大だが……2021年04月29日

『人新世の「資本論」』(斎藤幸平/集英社新書)
 気になりつもスルーしていた新書を読んだ。きっかけは、新聞広告で目にした「SDGsは大衆のアヘンだ」という惹句だ。2021新書大賞第1位の話題の本である。

 『人新世の「資本論」』(斎藤幸平/集英社新書)

 著者は34歳の研究者(経済思想、社会思想)である。現在は地質年代で完新世だが、人類の経済活動が地球に与える影響によって「人新世」という新たな年代に突入したという説がある。本書はそんな新時代の新たなマルクス解釈を展開している。

 団塊世代である私の学生時代、マルクスはまだかなりの影響力をもっていた。私は『資本論』を入手したものの数ページで挫折した。初期マルクスの短い論考は読んだが内容は失念している。ソ連が崩壊し、過去の思想家になったと思われていたマルクスが21世紀になって復活しつつあるように見えるのは興味深い。

 本書の著者はマルクスの草稿やノートを研究し、晩期マルクスの思想をベースにコミュニズムの新たな姿を提示している。それは〈コモン〉と呼ぶ社会的な富を市民(協同組合)が共同管理する「脱成長コミュニズム」という形態である。
 
 著者は現代社会には気候変動による悲惨な未来が迫っており、資本主義の体制が続く限りはそれを避けることはできないと認識している。そして、悲惨な未来を避けるには、資本主義を克服した「脱成長コミュニズム」しかないとしている。

 気宇壮大な議論に引き付けられるが、著者の主張に納得はできなかった。興味深い考えだが夢想的に見える。格差が拡大しつつある新自由主義の世界を変えなければ未来は悲惨であり、大きな変革が必要なのは確かだ。どう変革するのが正しいかはわからないので、本書の主張も未来を考えるために有益な材料にはなるだろう。

 著者がCO2温暖化による気候変動を大前提に論を展開しているも気になる。脱炭素社会という新ビジネスの資本主義的スローガンに安易に乗っているように見える。

 また、「脱成長コミュニズム」という新たな世界のイメージを提示するのに、マルクスにこだわり過ぎているようにも思える。マルクス研究者としては仕方ないのかもしれないが。

ガルブレイスは懐メロ昭和歌謡……2021年03月21日

『今こそ読みたいガルブレイシ』(根井雅弘/インターナショナル新書/集英社インターナショナル)
 ガルブレイスは懐かしい名前だが、最近はほとんど目にしない。忘れられた経済学者だと思っていたので、本屋の店頭に次の新書が積まれいるのを見つけて驚いた。

 『今こそ読みたいガルブレイス』(根井雅弘/インターナショナル新書/集英社インターナショナル)

 近頃は『資本論』を再評価する本が目につく。そんな流れの本かなと思いつつ購入して読んだ。短時間で読了できる読みやすい本である。

 約40年前、社会人になって数年目の頃、何人かでサムエルソンの『経済学』(当時の標準的教科書)の輪講読書会をした。並行してガルブレイスの『ゆたかな社会』と『新しい産業国家』を興味深く読んだ。正統的なサムエルソン(新古典派総合)に対する異端のガルブレイスという構図だった。別の異端であるシカゴ学派のフリードマンに手を伸ばす気はせず、この学派が他を駆逐して後の正統になるとは思いもしなかった。

 本書の著者はガルブレイスの主著を『ゆたかな社会』『新しい産業国家』『経済学と公共目的』とし、読み継がれるのは『ゆたかな社会』だと見なしている。私は『経済学と公共目的』は未読で、他に読んだのは『不確実性の時代』だけで、そもそも読んだ内容の大半は失念しているので、何を読み継ぐべきかの評価はできない。

 と言うものの、本書を読んでいて昔の読書の記憶がまだらに浮かびあがり、ガルブレイスの名文に魅せられた記憶がよみがえってきた。変なたとえだが、本書を読みながら懐メロの昭和歌謡にうっとり浸っている気分になった。そして、ガルブレイスは経済学者というよりは社会学者、文明論の人だったと思えてきた。

 著者が指摘しているように、現時点で見ればガルブレイスの見解に誤りは多い。にもかかわらず「今こそ読みたい」と言いたくなる気持はわかる。大きな問題を抱えた現代、骨太な叡智を感じる論客が見当たらないのが問題なのだ。

『絶望を希望に変える経済学』は格差拡大社会への処方箋を提示2021年02月04日

『絶望を希望に変える経済学:社会の重大問題をどう解決するか』(アビジット・V・バナジー&エステル・デュフロ/村井章子訳/日本経済新聞出版)
 知人に薦められて次の本を読んだ。

 『絶望を希望に変える経済学:社会の重大問題をどう解決するか』(アビジット・V・バナジー&エステル・デュフロ/村井章子訳/日本経済新聞出版)

 昨年夏に新聞の書評で見かけ、ちょっと気になった本である。著者二人は2019年にノーベル経済学賞を受賞した研究者夫婦(MIT教授)で、夫はインド出身、妻はフランス人だ。本書の原題は“Good Economics for Hard Times”、2019年の刊行である。

 私は経済学に関心をもった時期もあるが最近は敬遠気味だ。複雑・多様でわかりにくくなった経済学に、現実問題への正しい処方箋のを求めるのは難しいと感じていた。本書は狭量な経済学の視点を超えた処方箋を提示している。

 本書の著者二人の専門は開発経済学で、貧困問題に取り組んでいるそうだ。序文では「富裕国が直面している問題は、発展途上国で私たちが研究している問題と気味がわるいほどよく似ている」と指摘している。その問題とは端的にいえば格差拡大である。

 本書は経済学の書ではあるが、理論を展開した本でない。さまざまな調査に基づいた事例研究紹介であり、経済学者批判であり、理念に基づく政策提言の書である。その主張には概ね共感できる。「よい経済学」と「悪い経済学」という表現は露骨だが、あえてこんな言い方をしなければならない所に、現状の「困難」があるのだと思う。著者のいう「困難な時代」はレーガン、サッチャーの時代に始まり、現在まで持続している。

 「移民」「自由貿易」「好き嫌いの心理」「経済成長」などに関する著者の考察は非常に興味深い。複雑怪奇な現実は、単純明快な理論では容易に切り取れないとわかる。社会科学者はタイヘンだと思う。経済成長に関する次のような記述が印象に残った。

 「経済学者が何世代にもわたって努力してきたにもかかわらず、経済成長を促すメカニズムが何なのかということはまだわかっていない。(…)いつ成長という機関車が走り出すのか、いや本当に走り出すのかさえわからない(…)成長率を押し上げる方法などわからなくても、よりよい世界に向けてできることはまだまだある」

複雑な内陸アジア史をコンパクトに復習2020年08月13日

『内陸アジア(地域からの世界史 6)』(間野英二・中見立夫・堀直・小松久男/朝日新聞社/1992.7)
 トルグン・アルマスの 『ウイグル人』 は、思いっきりウイグル人視点の中央アジア史で、あれもこれもウイグル人になっていた。歴史の見方はそれぞれだろうが、一般的な見方の確認を兼ねて中央アジア史をおさらいしておこうと思い、次の本を読んだ。

 『内陸アジア(地域からの世界史 6)』(間野英二・中見立夫・堀直・小松久男/朝日新聞社/1992.7)

 古代から現代までの内陸アジア史を約200ページで概説したコンパクトな歴史書である。かなり以前に入手して未読だった。4人の研究者による共著で、「18世紀まで」と「19世紀以降」の2部に分かれている。全体の7割に近い「Ⅰ 紀元前から18世紀まで」は間野英二氏が執筆している。

 昨年の夏、間野氏の 『中央アジアの歴史』 『バーブル:ムガル帝国の創設者』 を読んだが、その内容がおぼろになってきてたので、本書が復習になった。

 第1部で、この地域の歴史は草原の遊牧民とオアシス都市の定住民との対立と相互依存が絡み合った歴史であり、トルコ化とイスラーム化という大きな流れがあることを再認識した。もちろん、ウイグル人も大きなウエイトを占めている。チンギス・ハーンの登場に関して、次のように記述している。

 「9世紀におけるウイグル王国(744-840)の崩壊後、実におよそ350年という長い年月を経て、モンゴリアに、ふたたびひとりのハーンが支配する強力な遊牧国家が誕生したのである。」

 19世紀以降を記述した第2部は「モンゴルとチベット」「中国と内陸アジア」「ロシア・ソ連と内陸アジア」の地域別になっていて、3人の執筆者がそれぞれの地域の19世紀以降の歴史を概説している。私はこの地域の現代史はほとんど知らなかったので、勉強になった。

 なぜモンゴルが独立できてチベットは独立できなかったのか、新疆ウイグル自治区はどのようにしてできたのか、中央アジアの五つの国(カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、キルギス)の産業や国境ができる経緯など、興味深い問題がいろいろ提示されている。

 「現代のウイグル」については、1934-35年頃から公用されはじめ定着していった民族名とし、次のように述べている。

 「トルコ系言語を使い、オアシスに定住し、イスラーム教徒であって、清朝以来の中国領に住んでいる、あるいは住んでいた人びとがウイグル族とされた。要するに中国支配の下のトルコ系イスラーム教徒定住民がウイグル人となったわけで、民族が国境によって創られたということができる。」

 本書はソ連崩壊の翌年(1992年)の発行なので、それ以降に発生したタジキスタン内戦などは語られていない。それにしても、清朝末期とロシア帝政の19世紀から現代までの約200年、大国のはざまの内陸アジア地域の情況変転は目まぐるしい。この地域に限ったことではないが……

『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』は刺激的で異界の夢のようだ2017年07月02日

『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』(水野和夫/集英社新書)
 資本主義の終焉を主張する水野和夫氏の新著『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』(集英社新書)を読んだ。2年前に読んだ前著『資本主義の終焉と歴史の危機』と似た内容のようで、あえて読むこともないと思ったが「閉じていく帝国」という概念が気になって購入した。

 前著でも私は水野氏の主張に納得したわけではなく、今回の『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』も、そこで展開されている論旨をそのまま受け容れることはできなかった。興味深い指摘は多いがマクロな話とミクロな話に加えて著者の思い込みのような概念が入り混じっていて、何とも評価が難しい。

 本書は経済学の本ではなく、歴史、科学史、哲学、宗教、社会学、地政学、文学などを援用して21世紀の世界のありようを述べている。

 著者の主張によれば現代とは、500年続いた近代が終わり、800年続いた資本主義が終わり、かつまたノアの方舟に始まった蒐集の時代が終わろうとしている大転換期である。かなりの時間軸だ。

 蒐集、資本主義、近代システムが終わった後は経済成長のない定常状態を目指さねばならず、21世紀は国民国家を超えた「閉じた帝国」が割拠する時代になるという。「閉じた帝国」とは「世界帝国」を目指さない「地域帝国」であり、米国、EU、ロシア、中国などだ。そんな21世紀は中世を参照した新中世と呼ぶような時代になるそうだ。

 あまりに風呂敷が大きすぎて、不思議なモノを読んだというのが正直な感想だ。刺激的な本だったのは間違いない。歴史の大きな流れや「国民国家」という概念についてはボチボチと自ら検証して行きたいという気になった。

 水野氏は「国民国家」(著者はそれを「主権国家」とも呼ぶ)が、資本に対抗したり安全保障を考えるには小さすぎ、人々の日々の活動に対処するには大きすぎる中途半端なものだと見なしている。だから、「地域帝国」と「地方政府」という形態になるのが望ましいと述べる。面白い視点だと思う。水野氏の視点とはずれるかもしれないが、「国民国家」を乗り越えるべき歴史的存在と考える「国民国家論」には興味がある。

 ゼロ成長、定常状態という経済をイメージするのは私には難しい。生命という現象や宇宙という存在との整合性を感じにくいからだ。生物には誕生から死までの成長曲線があり、現代の宇宙論は定常宇宙という安心できる概念を否定し膨張宇宙という気持ち悪い状態を肯定している。福岡伸一氏によれば生命とは動的平衡だそうだから、定常状態を動的平衡と捉えればいいのかもしれないが…。

 本書の「あとがき」で、富山県利賀村で上演された鈴木忠志の芝居が出てきたのには驚いた。水野氏は利賀村で上演された「世界の果てからこんにちは」を観て、「資本主義の終焉」というインスピレーションを得たそうだ。私はこの芝居を観たことはないが、若い時に一度だけ利賀村まで足を運んで鈴木忠志の芝居を観たことがある。交通の便の悪い山間の利賀村まで行って芝居を観るのは、俗世から隔絶した空間での非日常的体験だった。本書の「あとがき」までを読み終えて、俗世を離れた異界で観た夢を描いた本を読んだ気がした。

スー・チーさんの記者会見でミャンマーの過去・現在・未来を考えた2016年11月05日

 昨日(2016年11月4日)、ミャンマーの国家最高顧問アウン・サン・スー・チーさんの記者会見に出席した。

 私はミャンマーに3回行ったことがあり、この国に関するニュースには関心がある。私がミャンマーを訪問したのは1999年から2007年にかけてで、最後に訪れてから10年近く経っている。当時、スー・チーさんは軟禁状態だった。その後、ミャンマーは大きく変化しつつあり、いまや投資対象の最後のフロンティアとして大きな注目を集めている。

 現在のミャンマーは私が訪れた頃からさま変わりしているが、当時からミャンマーの潜在力は注目されていた。国土は日本の約2倍、人口は日本の約半分、多くの国民は勤勉で親日的だ。国民所得は非常に低く、最貧国のひとつとされていた。

 軍事政権下のミャンマーへの投資は限られていたとは言え、当時からミャンマーに進出している日本企業は少なくはなかった。ヤンゴン郊外にある日本の縫製工場を見学したことがある。交通機関などのインフラが未整備なので従業員の通勤バスも工場で運行している、などという話を日本人の責任者から聞いているとき、会議室の電気が消えた。突然の停電だったが、動じることなく話は続いた。乾期には停電が日常茶飯事だと知り、現地の苦労が了解できた。

 そんな10年近く前の状況は改善し、現地で頑張っていた人々の苦労も報われつつあるのではないかと思われる。当時は軟禁状態だったスー・チーさんが、国家の代表としてミャンマーが抱える課題を語る姿を見ていると、時間の流れを感じざるを得ない。71歳の彼女は容色衰えず貫禄もあり、とても元気そうに見えた。

 ミャンマーは女性が強くてしっかりしている国だ、というのは私がミャンマーを訪れたときの印象だった。今回の記者会見で、女性記者から日本で女性の活躍が遅れている件を訊かれたスー・チーさんの答えが印象的だった。「日本は経済が発展しているにもかかわらず、ジェンダーの問題は解決していない。経済発展が問題を解決するわけではないようだ。なぜなのか、むしろ日本人に訊ねてみたい」

 ミャンマーは今まさに経済成長のとば口に立っている。これから経済が発展するのは間違いないが、どんな経済発展が望ましいか、そのモデルが現在の先進諸国にあるわけではない。これは興味深い困難な課題だ。

『世界』『中央公論』『正論』のピケティ特集を読んだ2015年03月26日

『世界 2015年3月号』『中央公論 2015年4月号』『正論 2015年4月号』
◎三誌三様のスタンス

 『世界 3月号』『中央公論 4月号』『正論 4月号』が軒並みピケティ特集をしている。さほど売れているとは思えない総合月刊誌は、右も左も中央(?)もピケティを忠臣蔵のような「独参湯」と捉えているようだ。

 三誌の特集名は以下の通りで、スタンスがかなり違うように見える。

 『世界』  不平等の拡大は防げるか(32ページ)
 『中央公論』ピケティの罠:日本で米国流格差を論じる愚(44ページ)
 『正論』  哀れなり、「ピケティ」騒動(37ページ)

 普段、総合月刊誌は読まないが、『21世紀の資本』を読んだいきがかりで上記三誌の特集に目を通した。

 一般に『世界』はヒダリ、『正論』はミギと見なされている。高名な『中央公論』のスタンスはよくわからないが、資本的には読売新聞傘下になっている。傾向の異なるこの三誌が、欧州的左派の経済学者・ピケティ(フランス社会党のオランド現大統領を支持)の『21世紀の資本』をどう料理しているかに興味があった。

◎量も質も『中央公論』が充実

 三誌の特集記事は以下の通りだ。執筆者の肩書は雑誌に掲載されていたものを抜粋。便宜上、雑誌ごとの連番([世1][世2]など)を付した。

『世界』
   [世1]話題のピケティを読む:誤読・誤謬・エトセトラ…伊東光晴(京都大学名誉教授、理論経済学)
  [世2]『21世紀の資本』の紙背を読む…間宮陽介(京都大学名誉教授、経済理論)
  [世3]不平等を縮小させるには…ロバート・ライシュ(カリフォルニア大学バークレー校教授)
  [世4]支配のシステム:自由主義的民主主義が不平等を拡大する…ウォルデン・ベロー(フィリピン共和国下院議員、フィリピン大学教授)

『中央公論』
  [中1]『21世紀の資本』が問う読み手の「知」…猪木武徳(青山学院大学特任教授)
  [中2]なぜ日本で格差をめぐる議論が盛り上がるのか…[対談]大竹文雄(大阪大学教授)、森口千晶(一橋大学教授・スタンフォード大学客員教授)
  [中3]ピケティ神話を剥ぐ:不平等はr>gの問題なのか?…竹森俊平(慶應義塾大学教授)
  [中4]格差の原因は「資産」だけでない…原田泰(早稲田大学政治経済学術院教授)
  [中5]税金データからの推計には限界がある…M・フェルドシュタイン(ハーバード大学教授)
  [中6]格差拡大は証明されていない…C・ジャイルズ(『フィナンシャルタイムズ』経済部長)
  [中7]みなさんの疑問に答えましょう…トマ・ピケティ(経済学者)
  [中8]早わかり『21世紀の資本』…広瀬英治(読売新聞ニューヨーク支局長)

『正論』
  [正1]『21世紀の資本』の欺瞞と拡散する誤読…福井義高(青山学院大学教授)
  [正2]『再分配こそ正義』という陥穽… 仲正昌樹(金沢大学教授)
  [正3]左翼たちの異様な喜びはキモくないか…中宮崇(サヨクウォッチャー)
  [正4]グローバリズムの亜種としての『21世紀の資本』…柴山桂太(滋賀大学准教授)

 『世界』『正論』の4本に対して『中央公論』は8本、しかもピケティ本人の「みなさんの疑問に答えましょう」という記事まである。これが、[中1]~[中6]をふまえた回答なら秀逸な企画だが、そうではなく、既報のインタビューや講演を再構成した記事だった。[中7][中8]の10ページは特集のオマケのようなものだから『中央公論』は実質6本だ。とは言え『中央公論』の特集が質的にも最も充実していると思えた。

◎全面批判の記事はない

 私の予断では、『世界』がピケティを持ち上げ、『正論』がピケティに難癖をつけ、『中央公論』はどっちつかずか、などと思っていた。だが、そんな単純で図式的な見方は裏切られた。

 三誌の記事を通読して意外だったのは、大半の執筆者が『21世紀の資本』をかなりの程度評価していることだ。評価した上で、いくつかの疑念を提起している記事が多い。その疑念には雑誌それぞれのイロが滲み出ている。

 記事のいくつかは、ピケティ・ブームを論じたもの([正2][正3])や、ピケティをダシにした自論展開([世2][世3][世4])だった。これらは、『21世紀の資本』の内容の妥当性や評価を知りたい私にとって、当面は関心外だ。

◎『世界』の伊東光晴氏が最もシビア
  
 やや意外なことに、ピケティに対して最もシビアな見方をしているのは伊東光晴氏だ [世1]。老いてなお元気なアベノミクス批判急先鋒のリベラル派・伊東光晴氏は、ピケティが新自由主義を論じていない点などを指摘し、「かれの本は、資本主義についても、現代資本主義についても分析のメスをふるってはいない」と批判し、ピケティが提唱する資産課税についても「課税の原則に反する」として全否定している。次のような記述もある。

 「(ピケティの本は)経済理論の発展とは何の関係もない。経済政策上も影響はないものと思われる」

 他誌のいくつかの記事のピケティ評価を抜粋すると、以下のような調子だ、

 「ピケティの野心的な試みは、「経済学は大事な問題を扱う学問なのだ」というメッセージを発信する上で大きな効果があった。ただ、科学的著作としての『21世紀の資本』の評価が確定したとは言い難い。」[中1]

 「単なるブームで終わらせず、本書に触発されて成長率と不平等の関係を徹底して吟味することが、知識人の役目だと思われる。」[中2]

 「経済格差に関する基礎データをわかりやすい形で提供することで、『21世紀の資本』は事実に基づく冷静な議論を可能にした。ただし、そのグローバル国家主義に基づく政策提言は、欧米エリートと主要メディアが許容する範囲内に終始した、陳腐な政府介入論の域を出ない。」[正1]

 やはり、三誌の特集記事を執筆した経済学者の中では伊東光晴氏の評価が最も厳しいように思われる。

◎r>gが格差拡大をもたらすのか?

 私が『21世紀の資本』を読んだとき、これは経済理論の本ではなく別の何かだと感じた。本書のキー・コンセプトである「r(資本収益率)>g(経済成長率)」も現象を表しているだけで理論の提示ではない(本書の補足のウェブでは理論展開もあるらしい)。

 経済理論の本ではないと思うのは素人読者の勝手で、経済理論を研究する経済学者にとっては「r>gの持続が格差拡大をもたらす」というピケティの主張の妥当性を理論的に検証しようとするのは当然の誠実な態度だ。

 そんな態度が見られるのが[世1][中1][中2][中3][正1]などである。門外漢の私には、これらの反論の妥当性をただちには判断できない。このような反論があるということを留意して、もう少し勉強せねばとは思う。

◎刺激的な表題だが……

 特集の表題にある「ピケティの罠」「哀れなり」という惹句は刺激的で煽情的でもある。だが、特集記事全体の内容を反映しているとは言えない。東京スポーツの見出しのようなもので、『中央公論』も『正論』もピケティ大批判を展開しているわけではなく、羊頭狗肉に近い。

 「ピケティの罠」という表題の意味は、ピケティを援用して日本の経済問題を論じることへの警鐘のようで、いくつかの記事にはそのような指摘の箇所もある。それは、当然の注意事項、留意事項のようなもので、とりたててあげつらう問題とは思えない。表題は針小棒大・羊頭狗肉だが、日本の現状分析をふまえた記事は課題の掘り下げになっていて興味深い。

 「哀れなり」という冷笑的なトーンは、品がいいとは言い難い[正3]の反映のようだ。他の『正論』の記事はさほど冷笑的ではない。私は、[正1]や[正4]が指摘するグローバリズムや移民と格差の問題は、検討が必要な論点だと思えた。また、世襲や相続については家族制度の社会的意義とからめて論じなければならないとする[正4]の指摘には、そんな社会学的視点もあり得るのかと少々驚いた。

 いずれにしても『21世紀の資本』は、今後の社会がどうなっていくかをいろいろな論点から考えたくなる刺激的な本だと改めて認識した。

オースティンとバルザックは21世紀のヒントになるか?2015年03月09日

『高慢と偏見』(オースティン/阿部知二訳/世界文学全集Ⅱ-6/河出書房新社)、『従妹ベット』(バルザック/水野亮訳/世界文学全集Ⅱ-8/河出書房新社)、『壊れかた指南』(筒井康隆/文藝春秋)
◎19世紀西欧文学の世界へ

 ピケティの『21世紀の資本』のおかげでバルザックの『ゴリオ爺さん』とオースティンの『マンスフィールド・パーク』を読むと、他の作品も読みたくなった。実は、バルザックとオースティンは66歳にして初体験だった。あの19世紀西欧文学の独特の世界には、ちょっとクセになるところがあるようだ。

 で、次の2冊を古い文学全集で読んだ。

 『高慢と偏見』(オースティン/阿部知二訳/世界文学全集Ⅱ-6/河出書房新社)
 『従妹ベット』(バルザック/水野亮訳/世界文学全集Ⅱ-8/河出書房新社)

◎懐かしの「世界文学全集」

 わが家の本棚には約50年前に刊行された「世界文学全集」(河出書房新のグリーン版)がある。私が子供の頃に実家にあったものだ。昔は何種類もの文学全集が出版されていて、家具のように文学全集を飾っている家も多かった。両親が他界して実家を処分するとき、迷った末にこの「世界文学全集」を引き取った。若い頃に何冊かは読んだ筈だが、半分以上は読んでいない。

 せっかくわが家まで運搬したのだから少しは読まねばもったいない。そんな気持も『高慢と偏見』と『従妹ベット』に手が伸びた動機のひとつだ。

◎バルザックと筒井康隆

 この古い「世界文学全集」にはバルザックの『幻滅(Ⅰ)(Ⅱ)』も収録されているが、迷わずに『従妹ベット』を選んだ。それには、ピケティとは別の理由がある。筒井康隆さんの『耽読者の家』という短篇小説のせいである。

 短篇集『壊れかた指南』(文藝春秋/2006年4月)に収録されている『耽読者の家』は不思議な魅力を湛えた印象的な短篇だ。登場人物たちが家の中でひたすら世界文学を読み耽る、それだけの話である。世界文学が紡ぎ出す広大で魅惑的な世界に現実世界が包み込まれていくような感覚になる。この短篇には多くの文学作品が出てくるが、冒頭に登場するのが『従妹ベット』である。登場人物の次のような科白もある。

 「バルザックは『人間喜劇』の中の『ゴリオ爺さん』が有名なんだけど、ぼくは今読んでいる『従妹ベット』の方があれより面白いし、傑作だと思う。ああ、ごめんごめん、こんなことはあまり言わない方がいいんだ」

 『耽読者の家』を読んだ時、いつか『従妹ベット』を読まねばと思った。それから、つい9年が経過し、やっと読むことができた。

◎お金がやたらと出てくる小説

 『高慢と偏見』の舞台は19世紀初頭のイギリスの田園(荘園)、『従妹ベット』の舞台は19世紀中頃のパリ、どちらもそこに棲息する中流以上の人々の社交や恋愛を描いた家庭小説である。作風はかなり異なる。

 オースティンは英国風にシニカルで辛辣でありユーモラスでもある。バルザックは饒舌で過剰で、おびただしい登場人物たちが精力的に動きまわる。彼ら彼女らはドストエフスキイの人物ほどにはエキセントリックでないにしても、尋常な人物ではない。

 この2作品に共通しているのは、登場人物たちの金銭へのこだわりである。ピケティも 『21世紀の資本』の中で「18世紀、 19世紀の小説には、お金がいたるところに登場する」と指摘している。今回、オースティンとバルザックを読むにあたっては、特にお金に関する記述をチェックしようと思った。

 小説の中で「○○ポンド」「○○フラン」のように具体的な金額が記述されている箇所に鉛筆で傍線を入れ、そのページを扉ページに転記しながら読み進めたのである。

◎『高慢と偏見』の金銭記述

 私のチェックでは『高慢と偏見』の金銭記述は11カ所、すべて、登場人物の資産や年収に関するものだ。この小説の登場人物たちの大半は仕事をもたない地主たちで、資産の額が年収に直結している。資産や年収の記述は、登場人物を描写する基本情報のようだ。

 11カ所を多いと思うか否かは人それぞれだが、金銭に関する記述が印象に残るのは確かだ。訳者である阿部知二の解説にも次のような一節がある。

 「読者はこの小説で、人々が、とくに結婚の問題において、金銭のことをやかましくいうのに気づかざるを得ないのである」

◎『従妹ベット』の金銭記述

 『高慢と偏見』に続いて読んだ『従妹ベット』でも、同じように鉛筆で金銭記述に傍線を入れながら読んだが、すぐにうんざりしてきた。あまりに多いのだ。『従妹ベット』は本文が475ページで、金銭記述のあるページは私のチェックでは140ページある。1ページの中に複数の記述もあるので140カ所をはるかに超えるが、面倒なのでそれは集計していない。

 読者は『従妹ベット』をパラパラとめくると、3~4ページごとに□万フラン、△千フランなどの記述に遭遇することになる。それは登場人物の年収や資産だけでなく、持参金や情婦につぎこむ費用から年金、恩給、手形、借金、利息、抵当、土地や家屋の価格など多様である。バルザックの金銭への大いなる関心がうかがえる。

 読みようによっては、バルザックの小説は経済小説かもしれない。そんなことを思いつつ、本書の解説(中島健蔵が執筆)を読んでいると、次のような記述があった。

 「ロンドンにいたカール・マルクスにとって、バルザックの作品は、架空の小説どころか、豊富きわまりない報告書の価値をもっていた。中途半端な思想的整理がおこなわれていないこの素材をかたわらに置きながら、マルクスは自分の思想の肉づけをおこなっていた。」

 うかつにも、バルザックとマルクスのそんな関連には不案内だった。ピケティがバルザックを素材にしたのは、マルクスに倣ったのかもしれない。

◎19世紀をふりかえりつつ21世紀を望見

 『高慢と偏見』や『従妹ベット』などの19世紀西欧小説が、いま読んでも楽しめるのは確かだが、そこに描かれている社会、生活習慣、風俗、モラルなどは現代とはかなり異なっている。

 オースティンの描く英国の世界は、不労所得者たちの階層社会であり、召使いなど下層の人々は視野の外にある。視野の中にある中流以上の人々の間での階層意識もなかなか厳しい。差別観小説と読めなくもない。

 バルザックの描く世界は、英国ではなくフランスのパリで、時代も少し進んでいるせいか、不労所得者は少なく貴族や商人が混在した猥雑な社会であり、下層の人々も活躍する。だが、好色というか色ボケの軍人男爵(老人である)を中心に描かれたこの社会のモラルは現代人である私には理解しがたく、何とも不思議である。

 これらの小説を読んで、社会の様相や人間の考え方はたかだか100年ちょっとで大きく変わるものだなあと思った。過去から現代にかけて変わってきたものは、また、未来にかけても大きく変わっていくかもしれない。

 『21世紀の資本』は、これからの21世紀が19世紀のような格差社会になる可能性を警告している本だ。19世紀西欧小説が描いた社会が、21世紀の未来社会に再現されるかもしれないと考えてみるのも、思考実験としては面白い。もちろん、再現を期待しているのではない。