映画『PERFECT DAYS』の主役は公共トイレか?2024年02月27日

 役所広司がカンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞して話題になった映画『PERFECT DAYS』(監督:ヴィム・ヴェンダース)を観た。公共トイレ清掃員の日常を淡々と描いた映画と聞いていたので、観る前から一定のイメージが頭の中にあった。そのイメージからさほど逸れない想定通りの映画だった。

 一人暮らしの中年のトイレ清掃員の早朝の目覚めで映画は始まる。朝のルーティンを経て軽のワンボックスカーで現場に出勤、いくつかのトイレの清掃を終えて帰宅し、自転車で開店直後の銭湯に行って湯に浸かり、小さな居酒屋で軽く一杯飲む。帰宅後、就寝前に布団に寝そべったまま少々の読書、やがて本を閉じて消灯、眠りにつく。

 そんな日常の繰り返しを表現するだけで映画になるのかと心配になる。小さな出来事はいろいろあっても、物語が展開されるわけではない。でも、退屈することなく観終えた。人生とは小さな出来事の繰り返し――という当然のことを突き付けられ気分になる。

 この映画で驚いたのは、公共トイレが綺麗なことである。どれもデザインが凝っている。主役はこれらの公共トイレかもしれない。

映画『ナポレオン』はアッと言う間の2時間半2024年01月07日

 公開中の映画『ナポレオン』(監督:リドリー・スコット、主演:ホアキン・フェニックス)を観た。2時間半を超える大作、戦闘シーンは大迫力だ。ダヴィドの絵画を動画で再現した戴冠式も見ごたえがある。ナポレオンの事蹟を2時間半で綴るのだからダイジェストにならざるを得ないが、ナポレオン時代の壮大な絵巻物を観た気分である。

 昨年末、ナポレオン関連の本数冊(岩波新書世界史リブレットなど)を読んだばかかりなので、私の頭の中に一定のナポレオンのイメージができている。映画のナポレオンは、そのイメージとは少し異なっていた。歴史研究者と映画製作者との切り口の違いをあらためて認識し、それを面白く感じた。

 ナポレオンとジョゼフィーヌを中心に据えた映画である。ナポレオンが軍人として頭角を現していく頃からセントヘレナ島で没するまでの二十数年を、ナポレオンのジョゼフィーヌへの思いに焦点を当てて描いている。

 エジプト遠征の途中でナポレオンが少人数で帰国した主因を、ジョゼフィーヌの浮気を知ったことにしている。ナポレオンがエルバ島に流されたとき、すでにジョゼフィーヌを離婚しオーストリア皇女と再婚しているが、エルバ島脱出を決意するのは、ジョゼフィーヌとロシア皇帝の交際の報に接して怒りに燃えたせいにしている。ワーテルローで敗れた遠因をジョゼフィーヌの死を知った失意としているようにも見える。映画らしい目のつけ所だと感心した。史実にどれだけ近いか遠いか、私にはわからないが。

『北北西に進路を取れ』の「北北西」の謎2023年11月26日

 ヒッチコックの有名映画はいくつか観ているが、1959年の『北北西に進路を取れ』は未見だった。タイトルは航海映画を思わせるのに、映画のなかに「北北西」が出てこないとは聞いていた。いずれ観ようと、テレビ放映を録画していたのを、ついに観た(録画したまま未見の映画は数十本、いつになったら観るのか自分でも不明)。

 別人に間違えられた広告マンが謎の組織に追いかけられる話である。74年前の映画だから冗長に感じる部分もあるが、飽きることなく楽しめた。往年の米国の雰囲気を感得できるのがうれしい。

 問題はタイトルである。『謎解き「ハムレット」』という本には次の記述がある。

 「ハムレットが「俺の気が狂うのは北北西の風が吹くときだけだ。南風なら、鷹の子と糸鋸の区別はつく」といったわけのわからない台詞を言うのも、ギルデンスターンらを煙に巻くための佯狂だ。この台詞から題名を借りたアルフレッド・ヒッチコック監督の映画『北北西に進路を取れ』は、ある日突然ひとりの男が不可解な事件に巻きこまれてしまう不条理を描くものだが、この映画と同様に、狂っているのは主人公ではなくて、彼の陥った状況のほうかもしれない。」

 ネットで調べると、このタイトルがハムレット由来というのはひとつの説にすぎないようだ。

 映画の原題は"North by Northwest"、実在しない方位だそうだ。北北西は"North Northwest"である。ハムレットも"North Northwest"と言っている。byを使った"Northwest by North"という方位はあり、これは北西と北北西の間の方向になる。

 ヒッチコックは、"North by Northwest"がコンパスに実在しないことをふまえて「タイトルがこの映画の全体を象徴している」と述べているが、公開後の後付けの弁の可能性がある。

 このタイトルは"North Northwest"のつもりで間違えたかのだろうか。何らかの効果を考えてあえて"North by Northwest"としたのだろうか。ネイティブの意見を聞いてみたい。

大島新監督の『国葬の日』を沖縄で観た2023年10月06日

いま、沖縄に来ている。気ままに過ごす日々のなか、那覇市の桜坂劇場で上映中の『国葬の日』(監督:大島新)を観た。2022年9月27日、安倍元首相国葬があった日に日本各地で取材したドキュメンタリー映画である。大島新監督の映画を観るのは2007年の『シアトリカル』以来だ。

 私は、岸田首相が安倍元首相を国葬にすると決めたとき驚いた。まさか国葬はないだろうと思っていた私の認識は甘かった。世論調査では賛成4割、反対6割だった。元首相暗殺事件から2カ月後に実施された国葬の印象は薄く、その日、自分が何をしていたかも覚えていない。日記帳で確認すると、1年前の9月27日も沖縄に来ていて、のんびりした一日を過ごしていた。

 この映画が2022年9月27日にキャメラをまわした場所は、国葬が行われた東京、元首相の出身地・山口、最期の地・奈良の他に京都、福島、沖縄、北海道、広島、静岡、長崎などだ。各地のさまざまな人々に国葬についてインタビューをしている。賛成の人も反対の人もいるが「どちらかといえば賛成」「どちらかといえば反対」というあいまいで無関心な人が多い。

 この映画によって、映画監督の足立正生がいまだ健在なのを知り、少し驚いた。元首相暗殺事件に取材した映画を短期間で制作し、国葬の日に合わせて渋谷で上映会を開催していたのだ。足立監督に限らず国葬に強く反対を表明する人には高齢者が多い。

 若い人には賛成が多いように思える。強く賛成しているというよりは時代の空気に流されて賛成しているように思えるのは、高齢者である私の偏見だろうか。「大統領やってた人だから」と国葬に賛意を表明する若者もいて、苦笑するより暗然とした。

 映画のラストに流れるテロップによれば、内閣発表による献花した人数(25,889人)は、主催者発表の反対デモ参加者(16,600人)をかなり上回る。どちらもたいした数字ではないとも言えるが、献花した人が意外に多いなとも思う。

読んでから観た『あちらにいる鬼』2022年11月22日

 今月封切りの映画『あちらにいる鬼』を観た。瀬戸内寂聴と井上光晴の不倫を描いた映画である。寂聴役の寺島しのぶが剃髪シーンでは本当に剃髪したと知り、映画館に足を運びたくなった。著名作家のスキャンダルへのミーハー的関心も多少はある。

 映画を観ると決めると、事前に原作を読みたくなり『あちらにいる鬼』(井上荒野/朝日文庫)を読んだ。オビには「作者の父 井上光晴と私の不倫が始まった時、作者は五歳だった――瀬戸内寂聴」という当事者のコメントが載っている。

 私は井上光晴の長編を学生時代に読みかけたが挫折した。短編はいくつか読んだ。井上光晴編集の季刊誌『辺境』(1970年~)はリアルタイムで何冊か読んだ。井上光晴に関して最も印象深いのは彼が癌で死ぬまでを撮ったドキュメンタリー映画『全身小説家』(監督:原一男)だ。彼の女装ストリップシーンも強烈だが、彼が「嘘つき」であり、それは作家という存在の本質だというメッセージにインパクトがあった。

 作家にとっては虚構こそが真実なのだ。作家・井上荒野が作家・井上光晴のことを作家・瀬戸内寂聴から取材して書いた小説『あちらにいる鬼』を読んでいると、どこまでが事実だろうという週刊誌的関心が無意味に思えてくる。みんな嘘つきで、かつ真実を語っているのかもしれない。

 この小説で最も興味をひかれた人物は井上光晴の妻、つまり作者の母親だ。不思議な人である。井上光晴の短編のいくつかは妻の作品だという話が面白い。作家と妻が二重写しになる。この小説は、娘が亡き母親のために書いたようにも思える。

 当然ながら、映画と小説の印象は異なる。白木篤郎(井上光晴)役の豊川悦司は適役である。映画のなかの作家は「作家を演じている作家」の感じがあり、やや滑稽で哀れをもよおす所もある。作家を揶揄している表現ではない。

 また、映画は原作以上に昭和世相史になっている。全共闘や三島事件なども挿入されていて、同時代を生きてきた私の世代には懐かしい。だが、とってつけたような感じもする。もっと時代背景の表現に踏み込んでもよかったのではと思う。

〔蛇足〕映画では、三島由紀夫の自死に際して書いた文章を白木(井上光晴)が読むシーンがある(小説にはない)。この文章は『新潮』への掲載を拒否され、自らが編集する『辺境』に掲載拒否の経緯を含めて掲載したものだ。そんな事情も映像化すれば面白かったと思う。映画のトーンからはズレるかもしれないが……

芝居『キネマの天地』を観た後で映画版を観たが…2021年06月14日

 映画『キネマの天地』を観ないままに 芝居『キネマの天地』(脚本:井上ひさし) を観劇し、違う話とは言えやはり映画も観ておこうという気になり、 Amazon prime video でこの映画を観た。

 1986年公開の山田洋次監督の映画で、脚本は井上ひさし、山田太一、山田洋次、朝間義隆となっている。

 有森也実、中井貴一、渥美清はじめ多くの有名俳優が出ている。35年前の映画なので俳優たちがみな若い。物故者も多いが懐かしい面々だ。1930年代の浅草と松竹蒲田撮影所を舞台にした物語で、戦前の情景にノスタルジーを感じる(私は戦後生まれだが)。

 映画館の売り子だった少女がスター女優になっていく人情味あふれたサクセスストーリーで、その続編の位置づけのミステリー仕立ての芝居とはかなり趣が異なる。

 それはともかく、途中で気づいたのだが、私はこの映画を既に観ていた。次の科白が頭に浮かんだり、所々の情景に既視感があり、以前に観ていると感じたのは映画の半分を過ぎたあたりだった。いつ、どこで観たかはまったくわからない。

 年を取るとこういう体験が増えていくだろう。そのうち、かすかな既視感のなかで映画を観終わり、それを以前に観たか否かの判断がつかなくなり、やがては既視感なく観終えることになるかもしれない。それは結構なことに思える。

壮大な歴史絵本のような映画『クレオパトラ』2021年04月16日

 1963年公開の映画『クレオパトラ』をブルーレイで観た。私が中学生の頃に公開された大作映画で、当時いろいろ話題になっていたのは憶えている。エリザベス・テーラーやリチャード・バートンという俳優名もその頃に知った。だが、歴史やクレオパトラにさほどの関心がなかったので、映画を観たいとは思わなかった。

 中学生の頃に関心がなかった映画を70歳を過ぎて初めて観たのは、年を取って歴史への関心がわいたからである。いつかは観ようと思いつつ、ずるずると半世紀以上の時間が経過したとも言える。

 この10年ばかりで古代ローマ史関連の本をいくつか読んできたので、カエサルやクレオパトラに関する知識も多少は増え、そのイメージの定着に資するだろうと思って映画を観た。

 壮大な失敗作との評判を知ったうえで4時間を超えるこの映画を観て、失敗作と言われる由縁が理解できた気がした。長時間の映画にもかかわらず歴史のダイジェストを眺めている感じで、何とも平板な印象の物語なのだ。

 しかし、映像には圧倒された。CGのない時代に壮大なセット、華麗な衣装、膨大なエキストラを使って作り上げた情景には感心する。大規模な絵本を眺めている気分になる。20世紀フォックスの経営を傾かせるほどの製作費を費やしたということが納得できる。

 もちろん、映画の画像が歴史の実景だとは思わない。あくまでハリウッド的な古代ローマ時代の情景である。歴史の情景は、これまでさまざまな絵画で表現されてきた。同様に映画でも表現されてきた。それがフィクションであっても、歴史のあれこれを自分の頭の中に定着させるには有効だと思う。史実とおぼしき史料をベースに、画家や映画製作者が想像し創造した情景を借用してイメージを紡がなければ、歴史を知った気にはなれない。

『騙し絵の牙』が想定通り大泉洋主演で映画化2021年04月05日

 先週から公開中の映画『騙し絵の牙』を観た。 原作の小説 を読んだのは3年以上前で、構造不況の出版業界を描いた面白い話だと思った。この小説で驚いたのは、主人公を俳優・大泉洋にアテガキしていることだった。表紙には大泉洋が主人公に扮した写真が載っていた。役者をアテガキする戯曲はあるが小説は珍しい。

 この小説が刊行された頃、大泉洋がどこかで「この小説が映画化されるとき、ぼくが主人公じゃなかったら騙しですよね」と語っていた。小説が売れないことをネタにしたこの小説がどれほど売れたかは知らないが、無事、大泉洋主演で映画化されたのはご同慶の至りである。

 映画の展開は小説とは少し異なっている。大手文芸出版社という舞台設定は同じだ。雑誌、特に文芸雑誌が売れなくなってきた時代への対応を迫られている出版社の話は興味深い。小説で描かれていたパチンコ業界やゲーム業界との絡みは映画では省かれている。そのかわり、というのも変だが、町の本屋の苦境が取り上げられている。

 映画は小説以上に「騙し合い」をメインにしたエンタメになっていて、それなりに楽しめた。出版不況への対応策を提示しているわけではないが、現代の問題を提示しているのは確かだ。

 どうせなら「小説の映画化」というプロジェクトそのものを映画化して、メタフィクション風に映画業界を相対化して観せる映画にしても面白かったのではと思った。

カザフスタン映画『女王トミュリス』を観た2021年01月18日

 マッサゲタイ族の女王を題材にしたカザフスタン映画が上映されていると聞いて驚いたのは昨年(2020年)秋だった。マッサゲタイは高校世界史には出てこないマイナーな存在だ。ヘロドトスの『歴史』の最初の方に登場する遊牧民で、アケメネス朝のキュロス2世はマッサゲタイとの戦いで戦死する。

 この珍品歴史映画をぜひ観たいと思ったが、渋谷の小さな映画館での単館上映はすでに終了していた。ネットで予告編の迫力ある動画だけを観た。その映画『女王トミュリス』が Prime Video に入っているのを発見し、レンタル料550円で観た。

 私はヘロドトスの『歴史』を『世界の名著』(中央公論)収録の抄編で読み、やはり全編を読まねばと岩波文庫の全3冊を購入した。その上巻だけを読んで中断したままだ。キュロス王とマッサゲタイのトミュリスとの戦いは上巻に出てくる。文庫本で10頁足らずの話で、『世界の名著』の抄編ではこの箇所を割愛している。

 映画『女王トミュリス』の展開はヘロドトスが描いた内容とはかなり違っていた。話をふくらませ、わかりやすい歴史スペクタクルになっている。広大な草原を疾駆する騎馬遊牧民軍団の映像は見応えがある。

 トミュリスは紀元前6世紀の人だが、映画は10世紀のダマスカスで始まる。歴史家と思しき人物が過去の出来事を執筆しているシーンに「ヘロドトスの『歴史』で不滅となった物語、真実の物語を書き記そうと思う」というナレーションに重なり、紀元前6世紀のカスピ海東側の草原地帯を駆け巡る遊牧民の物語が始まる。

 10世紀のイスラムの文人と遠い昔の遊牧民の組み合わせに、西欧中心に近いヘロドトスを相対化したうえで、遠い御先祖の遊牧民英雄を顕彰しようというカザフスタンの心意気を感じた。

 現在のカザフ人の先祖がマッサゲタイかどうか私にはわからない。旧ソ連の中央アジアの国々が、広場の中心にあったレーニン像の代替を求めている情況はわかる。そんなシンボルの一つがトミュリスかもしれない。日本の神功皇后(神話に近い人だ)を連想するが、トミュリスはそれよりはるかに昔(日本では縄文時代)の人である。

『ゴッドファーザー』全3作はやはり見ごたえがある2021年01月06日

 一昨日と昨日の二日がかかりで、昨年末のBSプライム放映を録画した映画『ゴッドファーザー』全3作をまとめた観た。3作とも20年以上昔に観ているが、強烈な印象が残っているだけで物語の詳細は失念している。

 傑作映画だとの安心のもとに、初めて観るような楽しみを味わえ、正月らしい至福の時を過ごした。3作とも3時間前後の長尺で、9時間以上の時間を要したが退屈することはなかった。

 3作まとめて観ると、役者たちが年齢を重ねていく様子がわかり、共に長い時間を過ごした気になる。取り戻すことができない「時間」という宿命も感じる。この映画の公開年と作品が扱う時代は次の通りだ。

『ゴッド・ファーザー』1972年公開:1945年頃の話
『ゴッド・ファーザーPART2』1974年公開:1958~1959年と1901~1925の話の二重進行
『ゴッド・ファーザーPART3』1990年公開:1979年頃からの話

 言わずと知れた、米国のイタリア・マフィアの物語で、フィクションではあるが、イタリア移民やマフィアの歴史を垣間見た気がする。また、数年前にシチリア旅行を経験していることもあり、マフィアの原風景シチリアのシーンにも惹かれた。

 この映画にはキューバ革命やローマ法王急死などの現実の出来事が反映されている。昔、観たときはそんなことを気にとめなかたように思う。年を取ってくると、歴史絡みの部分に関心がわく。