『桐島です』の脚本家・梶原阿貴の『爆弾犯の娘』は面白い ― 2025年07月18日
先日観た映画『桐島です』のパンフレットを読んで、脚本を書いた梶原阿貴の父親は爆弾事件を起こした人物だと知って驚いた。彼女には『爆弾犯の娘』という近著があるそうだ。
爆弾犯である父親は現代人劇場の役者で、1971年の新宿クリスマスツリー爆弾事件などを起こしたグループの一員だそうだ。1971年、大学生だった私は現代人劇場の芝居をいくつか観ている。ツリー爆弾事件も記憶にある。阿貴という名は高橋和巳の『邪宗門』の登場人物から付けたそうだ。そういえば、あの小説に出てくる教祖の娘・阿礼の妹がそんな名だった。この脚本家への興味がわき、その著書を読んだ。
『爆弾犯の娘』(梶原阿貴/ブクマン社/1925.7.2)
とても面白い本で、一気に読了した。特に小学生時代の話が興味深い。
著者は1973年生まれ。父は1948年生まれ(私と同じだ)。母は父より2歳上である。爆弾事件の1971年、父は23歳だった。事件後の逃亡生活のなかで父は母と一緒になり、著者が生まれる。著者の家は表向きは母子家庭だが、実は逃亡中の父が隠れて同居していた。その父は、著者が小学6年のとき、14年間の逃亡生活の末に自首する。その後の裁判で懲役6年になり、1991年に刑期を終え、再び家族3人の生活が始まるが――という波乱の物語である。
子供の頃から、父は著者にとってやっかいな同居人だった。存在を秘匿せねばならない面倒な人物を著者は「あいつ」と呼ぶ。名前を知らなかったのだ。
小学6年になって、母親から父の名前と爆弾事件を知らされる。そのとき著者は「全部、知っていたような気がする」と答える。その直後に父は自首し、著者は中学生になる。
父の裁判で「元俳優だけあってテノールの良い声」で朗読した冒頭陳述への著者の感想が面白い。
「こんなに純粋で真面目だと、生きていくのが大変そうだと同情したことを憶えている。(…)確かに私は父とも母とも違って、純粋ではないような気がしている。要領がいいし、すぐに嘘をつく。」
著者の母親は興味深い人物だ。亭主の14年間の逃亡生活を仕切り、6年間の服役時代を支える。しかし、父が出所してしばらくすると、母は「今までお疲れ様でした。今日から私たちは別々です。解散!」と、家族解散を宣言する。爆弾犯を抱えた緊張で支えられてきた家族は、緊張が消えれば消滅なのだ。父は不本意げに出て行き、母は伊豆の祖母のもとに去る。20歳になった著者は自立し、15歳から始めていた俳優業を続ける。
このとき、著者は父に郵送する本のなかに『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』の戯曲を見つけ、父がこの芝居の準主役だったと知る。私は1971年のこの芝居を観ている。あの芝居の役者が、芝居の延長のように爆弾事件を起こしたという短絡に愕然とした。胸に刺さる。戯曲を読んだ著者は次のように述べている。
「今一度この戯曲を読むと、段々と清水邦夫と蜷川幸雄に腹が立ってきた。自分たちは賢くて大人で、現実と虚構に区別をきっちり線引きできていたのかもしれないけれど、無垢でアホで真面目な若者は、現実との区別がつかなくなってしまったかもしれないのだ。その責任についてあなたたちはどう考えているんですか? と問い質したくなった。」
闘争の当事者ではない劇作家と演出家が、闘争の代償行為のような芝居を作ることによってナイーブな若者たちを煽っていると見られても仕方ないと思う。私は著者の父親世代だが、著者に共感した。あの芝居への多少の違和感の根が逆照射で見えた気がした。芝居は怖い。
15歳で俳優になった著者は30歳から脚本を書き始め、現在は脚本家である。爆弾犯の娘という出自を公にするにはためらいもあったようだ。『桐島です』の脚本を引き受けたのを契機に本書を執筆した。この脚本について次のように、ややドヤ顔で述べている。
「本文中、何度も、「五日で脚本を書いた」とドヤ顔で自慢気に言ってますが、これに要した時間は、五日ではなく私の人生五十年です。」
爆弾犯である父親は現代人劇場の役者で、1971年の新宿クリスマスツリー爆弾事件などを起こしたグループの一員だそうだ。1971年、大学生だった私は現代人劇場の芝居をいくつか観ている。ツリー爆弾事件も記憶にある。阿貴という名は高橋和巳の『邪宗門』の登場人物から付けたそうだ。そういえば、あの小説に出てくる教祖の娘・阿礼の妹がそんな名だった。この脚本家への興味がわき、その著書を読んだ。
『爆弾犯の娘』(梶原阿貴/ブクマン社/1925.7.2)
とても面白い本で、一気に読了した。特に小学生時代の話が興味深い。
著者は1973年生まれ。父は1948年生まれ(私と同じだ)。母は父より2歳上である。爆弾事件の1971年、父は23歳だった。事件後の逃亡生活のなかで父は母と一緒になり、著者が生まれる。著者の家は表向きは母子家庭だが、実は逃亡中の父が隠れて同居していた。その父は、著者が小学6年のとき、14年間の逃亡生活の末に自首する。その後の裁判で懲役6年になり、1991年に刑期を終え、再び家族3人の生活が始まるが――という波乱の物語である。
子供の頃から、父は著者にとってやっかいな同居人だった。存在を秘匿せねばならない面倒な人物を著者は「あいつ」と呼ぶ。名前を知らなかったのだ。
小学6年になって、母親から父の名前と爆弾事件を知らされる。そのとき著者は「全部、知っていたような気がする」と答える。その直後に父は自首し、著者は中学生になる。
父の裁判で「元俳優だけあってテノールの良い声」で朗読した冒頭陳述への著者の感想が面白い。
「こんなに純粋で真面目だと、生きていくのが大変そうだと同情したことを憶えている。(…)確かに私は父とも母とも違って、純粋ではないような気がしている。要領がいいし、すぐに嘘をつく。」
著者の母親は興味深い人物だ。亭主の14年間の逃亡生活を仕切り、6年間の服役時代を支える。しかし、父が出所してしばらくすると、母は「今までお疲れ様でした。今日から私たちは別々です。解散!」と、家族解散を宣言する。爆弾犯を抱えた緊張で支えられてきた家族は、緊張が消えれば消滅なのだ。父は不本意げに出て行き、母は伊豆の祖母のもとに去る。20歳になった著者は自立し、15歳から始めていた俳優業を続ける。
このとき、著者は父に郵送する本のなかに『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』の戯曲を見つけ、父がこの芝居の準主役だったと知る。私は1971年のこの芝居を観ている。あの芝居の役者が、芝居の延長のように爆弾事件を起こしたという短絡に愕然とした。胸に刺さる。戯曲を読んだ著者は次のように述べている。
「今一度この戯曲を読むと、段々と清水邦夫と蜷川幸雄に腹が立ってきた。自分たちは賢くて大人で、現実と虚構に区別をきっちり線引きできていたのかもしれないけれど、無垢でアホで真面目な若者は、現実との区別がつかなくなってしまったかもしれないのだ。その責任についてあなたたちはどう考えているんですか? と問い質したくなった。」
闘争の当事者ではない劇作家と演出家が、闘争の代償行為のような芝居を作ることによってナイーブな若者たちを煽っていると見られても仕方ないと思う。私は著者の父親世代だが、著者に共感した。あの芝居への多少の違和感の根が逆照射で見えた気がした。芝居は怖い。
15歳で俳優になった著者は30歳から脚本を書き始め、現在は脚本家である。爆弾犯の娘という出自を公にするにはためらいもあったようだ。『桐島です』の脚本を引き受けたのを契機に本書を執筆した。この脚本について次のように、ややドヤ顔で述べている。
「本文中、何度も、「五日で脚本を書いた」とドヤ顔で自慢気に言ってますが、これに要した時間は、五日ではなく私の人生五十年です。」
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