『サピエンス全史』に対抗した『共感革命』は警世の書2024年02月05日

『共感革命:社交する人類の進化と未来』(山極寿一/河出新書)
 前京大総長、ゴリラ学者・山極寿一氏の次の新書を読んだ。

 『共感革命:社交する人類の進化と未来』(山極寿一/河出新書)

 ハラリは『サピエンス全史』において、人類の歴史は7万年前の「認知革命」で始動し、それに続く「農業革命」「科学革命」が歴史の道筋を決めたとした。巨視的でわかりやすい指摘だった。山極氏は本書において、「認知革命」以前に「共感革命」があり、「共感革命」こそが人類史上最大の革命だったとの説を展開している。

 人類の遠い祖先が二足歩行を始めたのは700万年前、ホモ・エレクトス(ジャワ原人、北京原人など)が180万年前、ホモ・サピエンスの登場は20~30万年前だ。7万年前に人類が言葉を話すようになって認知革命が始まる。数百万年、数十万年という単位で眺めると7万年前が最近に思えてくる。

 山極氏によれば、人類は7万年前に言葉を獲得するずっと以前からダンス、音楽、視線、遊戯などによるコミュニケーションができていて、共感力を基にした社会性を獲得していた。そのようにして作られた人間集団の適正サイズは150人程度だそうだ。

 ゴリラの研究をふまえた本書は、以前に読んだ『家族進化論』に通じる内容だが、霊長類学の研究報告というよりは現代社会への警世の書である。生物や自然に関する哲学的エッセイでもある。

 今西進化論や西田哲学を論じた第6章は、西欧的な自然観を乗り越える見解を提示している。私にはよくわからない点も多く、もう少し勉強が必要だと感じた。

 著者は、本書の冒頭近くで次のような極端な見解を表明している。

 「人類の間違いのもとは、言葉の獲得と、農耕牧畜による食料生産と定住にある。」

 文明の発生こそが人類の間違いだったと取れる。人類史を眺めれば文明が戦争を生んだのは確かであり、文明が人々に不幸をもたらしたとも言える。だが、文明以前にもどるのは無理だとも思う。

 ハラリは『ホモ・デウス』で、人類は戦争を克服するだろうと述べた。著者は、この予言が外れたと指摘したうえで、戦争は人間の本性ではないから克服できると主張している。「戦争は狩猟採集から農耕牧畜に切り替わろうという時代に始まったもので、人類の歴史の中でもきわめて新しいものだ」との見解が新鮮だ。

 本書は、著者なりの未来への処方箋を提起している。数十万年の歴史をふまえた大きな視点で眼前の現代社会の課題に警鐘を鳴らしているのだ。

読み進めるに従って呪いが浮き上がる『ダーウィンの呪い』2024年01月05日

『ダーウィンの呪い』(千葉聡/講談社現代新書)
 『ダーウィンの呪い』(千葉聡/講談社現代新書)

 この新書の新聞広告を見て、すぐに食指が動いた。吉川浩満氏が「見境なく人に薦めたくなりました」と推薦していたからだ。吉川氏の『理不尽な進化』を面白く読んだのは5年前、その2年後に出た増補新版も読んだ。進化論の玄妙を語る名著だった。

 2年前には、かねてからの宿題だった『種の起源』『ビーグル号航海記』を何とか読むことができた。元々、進化論は私の関心分野だった。

 本書の著者は進化生物学と生態学が専門の研究者である。タイトルから、ダーウィンの進化論が社会にもたらした影響を描いた進化論の歴史物語だろうと想像した。その予感通りの書だったが、私の想定した内容をはるかに超えた、広くて深くて恐ろしい内容だった。読み進めるに従って、タイトルの意味が明らかになっていく。

 つづめて言えば「ダーウィンの呪い」とは優生学である。進化論の俗流理解とも言える優生学が社会に悪影響を与え、ナチスの精神障碍者殺害政策や人種政策にもつながった、ということは私も理解しているつもりだった。だが、本書を読んで、私の理解は皮相的だったと知った。プラトンにまで遡る優生学の考えは根深く、根絶は難しそうだ。

 かつて優生学運動を推進した人々はどんな意識をもっていたか、著者は次のように述べている。この一節はかなりコワイ。

 「こうした意識を持つ人々は、現代なら言論の自由を重視し、環境問題や差別の撤廃への関心が強い層に該当するだろう。恐らくダーウィンという言葉が気になるような人々だ。つまり、本書の著者や、恐らく本書の読者層のかなりの部分にも該当する。」

 進化論のベースは自然選択(natural selection 私が読んだ『種の起源』は「自然淘汰」と訳していた)であり、それがもたらす「進化」は「進歩」ではない。獲得形質は遺伝せず、努力が進化に結び付くわけではない――進化論理解の基本だと思う。しかし、本書が語るダーウィン以降の研究者たちの考えは多様で複雑に変遷する。興味深い科学史であり、社会学史でもある。大いに勉強になった。

『零の発見』は私が予感した内容ではなかったが……2023年12月08日

『零の発見:数学の生い立ち』(吉田洋一/岩波新書)
 古代インド史の概説書(『ガンジスの文明』『古代インドの文明と社会』)を続けて読み、「インドで生まれたアラビア数字」への関心がわき、未読棚の次の新書を読んだ。

 『零の発見:数学の生い立ち』(吉田洋一/岩波新書)

 岩波新書の「古典」である。本書の存在は60年以上昔の中学生の頃から承知していたが、入手したのは数年前だ。奥付によれば、初版は1939年(昭和14年、太平洋戦争前夜)、1978年に改訂、私の手元にあるのは2016年発行の111刷である。

 本書を購入したのは、今年101歳になる伯父がきっかけである。数学の著書もある合理的思考をする人である。伯父の暮すホームでは、100歳を迎えた人の百寿を祝う。だが、伯父は99歳が百寿だと主張し、99歳で百寿を祝った。「数え年」を是としているのか思ったが、伯父の話をよく聞くと、少し違う。人間に「0歳」を設定するのはおかしいという考えなのだ。言われてみれば、0は不思議で特殊な数字である。

 「0歳」などあり得ないと語る伯父の話のなかで『零の発見』への言及があった。書名だけを知っていて内容を知らない本書を読んでおかねばと思い、ネット古書店で入手した。だが、そのまま未読棚に積んでいた。

 「零」という数についていろいろ考察する内容を想像したが、そんな内容ではなかった。インドの数学を論じた本でもない。数学の誕生を語る数学史エッセイである。世界史の解説がかなり詳しい。期待した内容ではなかったが、面白く読めた。

 本書は「零の発見――アラビア数字の由来」「直線を切る――連続の問題」という2篇のエッセイから成る。「連続」を扱った後者の方がスリリングで面白かった。

 数と図形の調和を夢見ていたピュタゴラス教団が、有理数で表せない数の存在に気づいたたときの動揺が特に面白い。直角二等辺三角形の対辺のような不通約量をアロゴン(口にしえざるもの)と名付け、その存在を教団の外部に洩らすことを禁じたそうだ。造化の妙の欠陥を意味するからである。ピュタゴラス教団の狼狽に同情した。

牧野富太郎の標本の現物には迫力があった2023年09月19日

 都立大の牧野標本館で開催中の企画展『「日本の植物分類学の父」牧野富太郎が遺したもの』に行った。入場無料だ。NHK朝ドラの『らんまん』関連の企画で、思った以上に入場者がいた。約9割がオバサンで、私のようなオジサンは少ない。若い人は見かけなかった。

 牧野富太郎の膨大な標本を収蔵した牧野標本館そのものを公開するのかな、とも思ったが、当然そんなことはない。別館ギャラリーで標本を展示していた。

 標本の現物は、やはり迫力があり、美しい。驚いたことにオレンジやスイカまでも標本にしている。オレンジやスイカの実を5㎜ほどにスライスしたうえで押し花のようにして標本にしているのだ。黄や赤の色もきれいに残っている。どんな植物も標本で残そうという執念を感じた。

 なぜ都立大に牧野標本館があるのか。それもビデオで説明していた。

 牧野富太郎が亡くなったとき、自宅に約40万点の標本が残されていた。遺族は寄贈を申し出たが引き取り手がいない。牧野富太郎は東大で長年助手・講師を務めたのに、東大は引き取らない。国立博物館もダメ。整理が大変だからである。で、牧野富太郎が名誉都民第1号だった縁で東京都が引き取り、都立大の理学部に牧野標本館ができたそうだ。今回、初めて知った(私は都立大理学部OBなのだが…)。

脳科学の迷信・誤解を指摘する『まちがえる脳』は刺激的だ2023年07月01日

『まちがえる脳』(櫻井芳雄/岩波新書/2023.4)
 『まちがえる脳』(櫻井芳雄/岩波新書/2023.4)

 錯覚に関する脳科学の概説書と思って読み始めたが、私の想定を超えた興味深い内容に引き込まれた。脳科学の概説書ではあるが、わかっていないことがいかに多いかを解説している。脳科学への誤解の指摘にウエイトを置いた本である。ヘェーと驚く事柄の紹介も多い。

 本書の内容を十分に理解できたわけではなく、私の誤解・曲解かもしれないが、脳科学の研究が進展しているという印象は錯覚らしい。進展しているのは「わかりつつある分野」であって、それは脳の全体像のほんの一部に過ぎないようだ。わからない部分――それこそが肝心な部分――は依然としてわからない、そんな状況らしい。

 脳はニューロンとそれをつなぐシナプスで動作するイメージがあり、コンピュータの電子回路とのアナロジーで語られることがある。だが、ニューロン間の信号だけで脳を捉えるのはまったくの誤解だそうだ。脳の動作は複雑かつ可塑性に富んでいて、そのメカニズムの大半は不明なのだ。

 また、右脳と左脳の使い分けや脳トレなどは迷信に近く、脳の部位ごとの機能を示す地図も固定的なものではないそうだ。私には意外だった。

 昨今、生成AIが話題になっている。私もchatGTPを何度か使い、その文章力に驚いたものの知ったかぶりには呆れた。著者は、脳は単なる精密機械ではないとの認識から、「AIが脳に近づき、さらに脳を超える」ことはないと断じている。

 私は5年前、『脳の意識 機械の意識』(渡辺正峰/中公新書)を読んで、人工意識の可能性に驚いた。『クオリアと人工意識』(茂木健一郎/講談社現代新書)という本も人工意識に言及していた。本書に「人工意識」という言葉は登場しないが、著者はAIが意識をもつ可能性を否定している。「人工意識」に関する脳科学者たちの議論をもっと知りたくなった。

『統合失調症の一族』はすざまじい大家族の記録2022年12月28日

『統合失調症の一族:遺伝か環境か』(ロバート・コルター/柴田裕之訳/早川書房2022.9)
 かつて精神分裂病と呼ばれた病は2002年から統合失調症という呼称に改訂された。その精神の病に侵された家族を描いた次のノンフクションを読んだ。

 『統合失調症の一族:遺伝か環境か』(ロバート・コルター/柴田裕之訳/早川書房2022.9)

 大家族のすさまじい話である。父は聡明でリベラルな空軍将校、母も聡明、このカトリックの夫婦は何と12人の子供をもうける。上10人が男、下2人が女、長子と末子の年齢差は20歳、母は20年にわたってほぼ1年半ごとに出産したのだ。12人の子供たちが成長していくにしたがって男6人が統合失調症を発症し、この家族は多大な辛苦を経験する。本書は、この怖い病に直面した家族の約50年にわたる苦闘を描いている。

 長男は1945年生まれ、末っ子が生まれたのが1965年、兄弟の何人かは私(1948年生まれ)と同世代だ。原著の刊行は2020年、その時点で両親と3人の息子(すべて発症者)は亡くなっている。息子7人(内3人は発症者)と2人の娘は存命である。

 登場人物はすべて実名、かなり立ち入った迫真的な場面も多い。まるで小説のような心理描写や会話もある。本当にノンフィクションかなと思ってしまう。

 本書末尾でそのカラクリが明かされた。娘二人は、自分たちの家族が体験してきた実情を世間に知ってもらう方法を探していて、2016年初頭に本書の筆者(ジャーナリスト・作家)に出会ったそうだ。家族全員の同意を得たうえで、多くの関係者に取材して完成したのが本書である。

 著者によれば、創作した場面は一つもないそうだ。再現ドラマ風の箇所が続くとやや冗長に感じ、もっと簡潔に書けばいいのにと感じたが、家族の依頼に基づいて執筆した場面に力が入ってしまったのかもしれない。

 本書は統合失調症に取り組む医師や研究者の物語でもある。社会が統合失調症をどう扱ってきたかのレポートでもあり、60年代の反精神医学運動にも触れている。本書サブタイトル「遺伝か環境か」を巡る議論の変遷も追っている。

 ゲノム解析などによって統合失調症の研究は進展しているが、いまだに解明できていない。遺伝的な要素が関与しているのは確かだろうが、発症のメカニズムはよくわからない。治療法や予防法も確定していないようだ。

 本書で興味深く感じたのは、かつて「統合失調症誘発性の母親」という考え方が広まったことがあるという話である。当事者である母親にとっては辛い説だ。ヒチコックの『サイコ』もそんな説をふまえている。統合失調症など精神医学のテーマは社会や歴史の考察に直結している。だから興味深い。そして、やっかいだ。

面白いけどややこしい『人類の起源』2022年12月10日

『人類の起源:古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(篠田謙一/中公新書)
 今年のノーベル生理学・医学賞は「古ゲノム学」という新たな学問分野を切り開いたスバンテ・ペーボ博士が選ばれた。ノーベル賞発表の半年以上前に出た本書は「古ゲノム学」の最新の成果を紹介している。ノーベル賞効果もあり、よく売れているらしい。

 『人類の起源:古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(篠田謙一/中公新書)

 本書は最新の知見に基づいた人類の起源の概説書だが、それ以上に最近のさまざまな古代ゲノム解析の結果を紹介する報告書である。著者自身が研究の当事者なので、研究の最前線の様子が伝わってきて興味深い。ただし、その内容はかなりややこしくて一読では十分に理解できない。

 本書で私が初めて知ったのは、DNAを高速で解読できる「次世代シークエンサ」なる新技術である。2006年頃から実用化され、これによって研究が飛躍的に進展したそうだ。

 発掘された古代人のDNA(サンプルに含まれるすべてのDNA)の解読が可能になり、2010年にはネアンデルタール人の持つすべてのDNAが解読できた。世界各地で発掘された多くの化石のDNAを解読すれば、さまざまな集団の移動・混合・置換え・消滅などが明らかになる。いま、まさにそんな研究が活況を呈しているそうだ。と言っても、研究にはいろいろな制約や困難があるようだ。

 古代人だけでなく現代人のDNAも研究対象である。私が十分に理解できているわけではないが、DNAには過去から現在までの変異が刻印されているのだ。生物の不思議を感じる。

 十分の咀嚼できていない本書で私が感じたのは、人類の起源と進化の歴史は単純ではないということである。猿人→原人→旧人→新人という進化はわかりやすい。大筋で間違いではないかもしれないが、その実態はかなりややこしいようだ。限られた材料をベースに推測している段階では、すっきりしたわかりやすいモデルが構築可能である。しかし、材料が増えてくるとシンプルなモデルでは捉えられない事象が出てくる。おそらく、この世界の実相はとても複雑なのだと思う。複雑な事象の説明を試みると難解になりやすい。

 古代ゲノム学は、そんな状況なあるのだろうという感想を抱いた。

生きるのが面倒くさい人が増えているらしい2022年11月13日

『生きるのが面倒くさい人:回避性パーソナル障害』(岡田尊司/朝日新書/朝日新聞出版)
 精神科医が書いた次の新書を読んだ。

 『生きるのが面倒くさい人:回避性パーソナル障害』(岡田尊司/朝日新書/朝日新聞出版)

 生きるのが面倒になったから読んだわけではない。というか、すでに七十余年という十分な時間を生きてしまった私には縁遠い話題で、いまさら「面倒くさい」と言える立場でもない。

 本書を読もうと思ったのは、半年前に読んだ『星新一の思想』(浅羽通明)で紹介されていて興味を抱いたからである。星新一をアスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)と見なしている浅羽通明氏は次のように述べている。

 「精神科医岡田尊司は『生きるのが面倒くさい人』第7章の16頁分を、星新一のパトグラフィに充てました。岡田の診断によると星新一はアスペルガーよりも回避性人格のようです。」

 本書のメインテーマである「回避性パーソナル障害」を十分に理解できたわけではないが、「生きるのが面倒くさい」「人生の選択を先のばしにする」「自己評価が低い」「無気力」「ひきこもり」などの性向のようだ。

 本書では、そんな傾向が見られる著名人として、星新一の他に井上靖、サマセット・モーム、藤子・F・不二雄、村上春樹、森鴎外などの事例を紹介している。そして、精神科医である著者自身が回避性パーソナル障害だったとし、自分自身も分析対象にしている。勤務医だった著者は、現在は自分のクリニックを開業し、ひきこもり患者の社会復帰などを手助けしているそうだ。

 回避性パーソナル障害の原因は、遺伝的要素もあるが、家庭環境を含めた社会的要因が大きく、時代とともに世界レべルで増加傾向にあるらしい。村上春樹ではないが「やれやれ」という気分になる。

 本書の後半は、回避性パーソナル障害の若者たちが社会に出て行くための具体的アドバイスである。年寄りの私は、いまの若者たちは大変だなあと同情しつつも、しっかり生きてくれと期待するしかない。

『選択と誘導の認知科学』を読むと自由意思を信じられなくなる2022年10月29日

『選択と誘導の認知科学』(山田歩/新曜社)
 タイトルにある「誘導」という言葉に惹かれて次の本を読んだ。

 『選択と誘導の認知科学』(山田歩/新曜社)

 日本認知科学会監修『「認知科学のススメ」シリーズ』という叢書の1冊である。認知科学とは多様な分野にまたがる学問だそうだ。私には心理学と脳科学の要素が大きいように見える。

 本書冒頭では、ファーストフード店が長時間滞在を減らすために椅子の形状や固さを工夫している話、電車の座席に凸凹をつけてマナー違反の座り方を減らしている話など、物理的環境で人の行動を誘導する例を紹介している。続いて、人々の意思や考えを確認するための質問において、選択肢を少し工夫するだけで結果が大きく異なる事例を紹介している。確かに「誘導の科学」である。

 興味深い事例に惹かれて読み進めるうちに次第に「アタリマエのこと」をくり返し述べているように思えてきた。著者に文句をつけているのではない。自分自身を含めて人間とは、さほど考えずに行動するのが「アタリマエ」に思えてきたのである。

 例えば、異性を選ぶときに「外見」「中身」のどちらを重視するかと聞かれても、常に同じ回答をするとは限らない。聞かれるまでは、そんな割り切った基準は頭のなかになく、曖昧模糊としていて、要は何も考えていなのである。選択肢の工夫によって回答がぶれるのは当然のように思われる。

 脳科学の本で、人は必ずしも「意識→行動」というプロセスをとっているのではなく、行動の後追いで意識が発生するという話を読んだ記憶がある。

 本書を読んで人間の「自由意思」があやふやであることを再認識した。考えているように見えて、実はさほど考えていないから容易に誘導されるのである。

 また、理由があって行動するのではなく、行動してから理由を後付けしているにもかかわらず、自分では「理由→行動」と思い込んでいるという話もよくわかる。自分自身のことも含めて、そんな事例は多いと思う。

 何も考えていないのに、何かを考えていると思い込んでいる、それが人間である、と考えることは何ともむなしい。「考える」の実相に迫るのが非常に難しいということかもしれないが……。

医学者が書いた『皮膚、人間のすべてを語る』は広範な考察の書2022年07月18日

『皮膚、人間のすべてを語る:万能の臓器と巡る10章』(モンティ・ライアン/塩崎香織訳/みすず書房)
 約1カ月前(2022年6月19日)の朝日新聞と日経新聞の書評欄が同じ本を取り上げていて、面白そうな本だと興味を抱いた。次の本である。

『皮膚、人間のすべてを語る:万能の臓器と巡る10章』(モンティ・ライアン/塩崎香織訳/みすず書房)

 皮膚を研究する医学者が「皮膚とは何か」を多面的に全10章で解説・考察している。冒頭は皮膚に関する医学的・生物学的な話である。やがて脳科学がからんでくる。さらには心理学・社会学・宗教学にまで論点が広がっていく。面白い本だ。これまで皮膚について考えたことがほとんどなかったので、皮膚を巡る考察がこんなにも広がるのかと驚いた。

 本書では、著者が医師として接してきたさまざまな皮膚病の事例を紹介している。そんな恐ろしげな症状を読んでいるだけで体がムズムズする。たしかに皮膚とは不可思議で身近な「臓器」である。

 人類(先住民)の多様な皮膚の色(メラミンの量)の分布は地球に降り注ぐ紫外線の量の分布と重なるそうだ。きわめて当然の話である。しかし、かつては長い時間をかけて移動した人類がいまでは短時間で移動できるようになった。そのため、皮膚の色と紫外線量に齟齬が発生し、それが皮膚がんの発生やビタミンD欠乏につながっている。わかりやすい説明であり、文明のパラドックスを感じざるをえない。

 本書後半の次のような指摘が印象に残った。

 「おそらく脳を除けば、皮膚以上に人間が聖なるものとして大きな意味をもたせる臓器はない。皮膚は神学者を夢中にさせ、哲学者を虜にしてきた。また、私たちの日常的な考え方に意外なかたちで作用するものである。」

 「皮膚は肉体と森羅万象とを分かつバリアとして機能していながら、肉的な欲望に身を任せる私たちのきわめて重要な一部でもある。皮膚は感覚器官であり、ありてにいえば、欲望と罪と恥が入り混じるスリルと興奮に満ちた最大の生殖器だ。」

 本書を読んでいて安部公房の『他人の顔』を思い出した。事故で顔面がケロイドになった技術者が精巧な仮面を作る話である。著者は文学の領域までには踏み込んでいないが、皮膚を巡る文学もいろいろありそうに思える。