NODA・MAP『華氏マイナス320°』はサイエンス・フェイクション ― 2026年04月20日
東京芸術劇場でNODA・MAP公演『華氏マイナス320°』(作・演出:野田秀樹、出演:阿部サダヲ、広瀬すず、深津絵里、大倉孝二、高田聖子、川上友里、橋本さとし、野田秀樹、橋爪功)を観た。
2年前に観たNODA・MAPの『正三角関係』は『カラマーゾフの兄弟』がベースだった。今回はブラッドベリの『華氏451度』がネタだ。このSFはよく憶えているので、多少の下準備がある心積もりで観劇した。だが、私の思惑を大きく超えたブッ飛んだ舞台で、ブラッドベリの記憶などは何の役にも立たなかった。
「正しくない科学に基づいた、正しくないSF(サイエンス・フェイクション)」 と銘打ったこの芝居、難解な部分もあり、理解できたとは言えない。だが、面白い。生命に関わるサイエンス・フェイクションが現代、中世、古代を駆け巡って展開する。言葉遊びも満載だ。休憩なし2時間20分のノンストップ・パフォーマンスを堪能した。
舞台は目まぐるしく展開する。現代の化石発掘現場、メフィストと取引するファウスト博士、バベルの塔のエレベーター、ハーメルンの笛吹男、邪馬台国の卑弥呼などの場面転換に目を奪われた。骨伝導、天使病、クレオパトラの受精卵などの怪しげな概念に頭がクラクラしてくる。華氏451度は書物を焼き払う温度だったが、華氏マイナス320°は天使たちの卵を死滅させる温度のようだ。
役者たちのパフォーマンスにも引き付けられた。阿部サダヲの巧さを再認識した。教授役の深津絵里に貫録があり、『Q:A Night At Kabuki』に続く出演の広瀬すずは生き生きしている。橋爪功は怖いもの知らずの老人力全開の演技だ。
芝居のなかで「人間の脳はほとんど使われていないというのはフェイクだ」との台詞があり、ネット検索した。「脳がほとんど使われていない」は都市伝説だそうだ。以前に読んだ『まちがえる脳』には、「あなたの脳は本当に必要なのか?」という科学記事の紹介があり、脳の可塑性に驚いた。脳は興味深い分野だ。
『華氏マイナス320°』は生命科学の驚異と畏れを背景にした芝居だと思う。
2年前に観たNODA・MAPの『正三角関係』は『カラマーゾフの兄弟』がベースだった。今回はブラッドベリの『華氏451度』がネタだ。このSFはよく憶えているので、多少の下準備がある心積もりで観劇した。だが、私の思惑を大きく超えたブッ飛んだ舞台で、ブラッドベリの記憶などは何の役にも立たなかった。
「正しくない科学に基づいた、正しくないSF(サイエンス・フェイクション)」 と銘打ったこの芝居、難解な部分もあり、理解できたとは言えない。だが、面白い。生命に関わるサイエンス・フェイクションが現代、中世、古代を駆け巡って展開する。言葉遊びも満載だ。休憩なし2時間20分のノンストップ・パフォーマンスを堪能した。
舞台は目まぐるしく展開する。現代の化石発掘現場、メフィストと取引するファウスト博士、バベルの塔のエレベーター、ハーメルンの笛吹男、邪馬台国の卑弥呼などの場面転換に目を奪われた。骨伝導、天使病、クレオパトラの受精卵などの怪しげな概念に頭がクラクラしてくる。華氏451度は書物を焼き払う温度だったが、華氏マイナス320°は天使たちの卵を死滅させる温度のようだ。
役者たちのパフォーマンスにも引き付けられた。阿部サダヲの巧さを再認識した。教授役の深津絵里に貫録があり、『Q:A Night At Kabuki』に続く出演の広瀬すずは生き生きしている。橋爪功は怖いもの知らずの老人力全開の演技だ。
芝居のなかで「人間の脳はほとんど使われていないというのはフェイクだ」との台詞があり、ネット検索した。「脳がほとんど使われていない」は都市伝説だそうだ。以前に読んだ『まちがえる脳』には、「あなたの脳は本当に必要なのか?」という科学記事の紹介があり、脳の可塑性に驚いた。脳は興味深い分野だ。
『華氏マイナス320°』は生命科学の驚異と畏れを背景にした芝居だと思う。
気がかりだったイヨネスコの『授業』をついに観た ― 2026年04月17日
南青山のライブハウス「MANDALA」でアンフィニの会の『授業』(作:イヨネスコ、演出:大間知靖子、出演:藤田宗久、清水一雅子、岡本瑞恵)を観た。
不条理のイヨネスコは学生時代(半世紀以上昔)から気になる劇作家だったが、その芝居を観たことはなかった。渋谷ジャンジャンで中村伸郎が『授業』のロングラン(1972~1986年の毎週金曜夜。中村伸郎は最初の10年)をしていると聞いたのもかなり昔で、観たいと思いつつ機を逸した。
その『授業』が南青山のライブハウスで上演されると知り、すぐにチケットを手配し、ついに観劇できた。半世紀ぶりに宿題を果たした気分だ。満足した。
ライブハウスでの観劇は私には初体験だった。1ドリンク付きで、小さなテーブルの周りにびっしり配置した椅子はやや窮屈だが、ステージが近くてとても観やすい。テント芝居のようだ。
今回の公演はジャンジャンの公演の流れをくんでいるらしい。演出は同じ大間知靖子、教授役の藤田宗久は2011年から50ステージ近く演じているそうだ。
実は、私は『授業』の戯曲を読んだことはなかった。イヨネスコは学生時代に『禿の女歌手』を読んだだけだが、わけのわからなさに驚いた。今回の観劇を機に戯曲集を入手し、事前に『授業』を読んだ。教授が個人授業に来た女生徒を殺してしまう話だとは知っていたが、予感通りの不条理劇で、意味不明の会話がエスカレートしていく。
戯曲を読んだ直後にステージを観て、当然ながら読むのと観るのは大違いだと認識した。もちろん観る方が面白い。特に不条理劇の場合、戯曲を読みながら寓意や背後の意味を考えたくなる。だが舞台だと、非現実的で無茶苦茶に思える設定や台詞が、役者の肉体を通すことで「もうひとつの現実世界」になる。その世界を自身が体験し、情況を感じ取っている気分になる。それが面白い。
『授業』は繰り返しの世界であり、繰り返し観たくなる芝居だ。
不条理のイヨネスコは学生時代(半世紀以上昔)から気になる劇作家だったが、その芝居を観たことはなかった。渋谷ジャンジャンで中村伸郎が『授業』のロングラン(1972~1986年の毎週金曜夜。中村伸郎は最初の10年)をしていると聞いたのもかなり昔で、観たいと思いつつ機を逸した。
その『授業』が南青山のライブハウスで上演されると知り、すぐにチケットを手配し、ついに観劇できた。半世紀ぶりに宿題を果たした気分だ。満足した。
ライブハウスでの観劇は私には初体験だった。1ドリンク付きで、小さなテーブルの周りにびっしり配置した椅子はやや窮屈だが、ステージが近くてとても観やすい。テント芝居のようだ。
今回の公演はジャンジャンの公演の流れをくんでいるらしい。演出は同じ大間知靖子、教授役の藤田宗久は2011年から50ステージ近く演じているそうだ。
実は、私は『授業』の戯曲を読んだことはなかった。イヨネスコは学生時代に『禿の女歌手』を読んだだけだが、わけのわからなさに驚いた。今回の観劇を機に戯曲集を入手し、事前に『授業』を読んだ。教授が個人授業に来た女生徒を殺してしまう話だとは知っていたが、予感通りの不条理劇で、意味不明の会話がエスカレートしていく。
戯曲を読んだ直後にステージを観て、当然ながら読むのと観るのは大違いだと認識した。もちろん観る方が面白い。特に不条理劇の場合、戯曲を読みながら寓意や背後の意味を考えたくなる。だが舞台だと、非現実的で無茶苦茶に思える設定や台詞が、役者の肉体を通すことで「もうひとつの現実世界」になる。その世界を自身が体験し、情況を感じ取っている気分になる。それが面白い。
『授業』は繰り返しの世界であり、繰り返し観たくなる芝居だ。
58年ぶりに観た『裏表先代萩』 ― 2026年04月15日
歌舞伎座で四月大歌舞伎の「昼の部」と「夜の部」を観た。演目は以下の通りだ。
【昼の部】
一、廓三番叟
二、裏表先代萩
序幕 花水橋の場
二幕目 大場道益宅の場
三幕目 足利家御殿の場/同 床下の場
大詰 問注所小助対決の場/控所仁木刃傷の場
【夜の部】
一、本朝廿四孝(十種香)
二、連獅子
三、浮かれ心中
『裏表先代萩』は私にとって懐かしい演目である。私が初めて観た歌舞伎が『裏表先代萩』だ。半世紀以上昔の大学生の頃だった。観劇を予定していた叔母に急用ができ、誰か行く人はいないかとの連絡があり、チケットを譲り受け、国立劇場に赴いた。初体験の歌舞伎の記憶はオボロだが、三つのシーンだけ憶えている。「腹が減ってもひもじゅうない」という子役の台詞、花道の「すっぽん」からせり上がってくる仁木弾正、広間の奥の襖が開いた向こうに広がる遠近法の千畳敷――この三つである。
その後、60歳過ぎまで歌舞伎を観ることはほとんどなかった。歌舞伎を観るようになったのは、時間に余裕ができたこの十数年(現在、私は77歳)である。『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』を観て、私が初めて観た演目だと思った。だが、タイトルが違うのが不思議だった。
『伽羅先代萩』をもとにした別バージョンの『裏表先代萩』があると知ったのは最近だ。そして今回、『裏表先代萩』が上演されたのである。パンフレット末尾の上演記録(昭和20年以降)によれば、『裏表先代萩』は戦後6回しか上演されてない。『伽羅先代萩』に比べると圧倒的に少ない。今回が7回目の上演である。
パンフレットの上演記録のおかげで、私が昔観たのは1968年5月の国立劇場公演だと判明した。58年前、19歳のときだ。出演した主な役者も確認できたが、その演技を憶えているわけではない。
今回の『裏表先代萩』は八代目菊五郎が小助、政岡、仁木弾正の3役を演じる。やはり、政岡のシーンが一番面白く、引き込まれる。
夜の部の『浮かれ心中』は井上ひさしの直木賞受賞作『手鎖心中』を歌舞伎化した演目で、わかりやすくて面白い。亡くなった勘三郎が何度か演じたそうだ。それを勘九郎が演じている。勘九郎のコミカルな演技を観ていると、やはり父親に似ているなあと思った。
『手鎖心中』は昔読んでいるが、ぼんやりとした記憶しかない。『浮かれ心中』が面白かったので『手鎖心中』を再読したくなった。
【昼の部】
一、廓三番叟
二、裏表先代萩
序幕 花水橋の場
二幕目 大場道益宅の場
三幕目 足利家御殿の場/同 床下の場
大詰 問注所小助対決の場/控所仁木刃傷の場
【夜の部】
一、本朝廿四孝(十種香)
二、連獅子
三、浮かれ心中
『裏表先代萩』は私にとって懐かしい演目である。私が初めて観た歌舞伎が『裏表先代萩』だ。半世紀以上昔の大学生の頃だった。観劇を予定していた叔母に急用ができ、誰か行く人はいないかとの連絡があり、チケットを譲り受け、国立劇場に赴いた。初体験の歌舞伎の記憶はオボロだが、三つのシーンだけ憶えている。「腹が減ってもひもじゅうない」という子役の台詞、花道の「すっぽん」からせり上がってくる仁木弾正、広間の奥の襖が開いた向こうに広がる遠近法の千畳敷――この三つである。
その後、60歳過ぎまで歌舞伎を観ることはほとんどなかった。歌舞伎を観るようになったのは、時間に余裕ができたこの十数年(現在、私は77歳)である。『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』を観て、私が初めて観た演目だと思った。だが、タイトルが違うのが不思議だった。
『伽羅先代萩』をもとにした別バージョンの『裏表先代萩』があると知ったのは最近だ。そして今回、『裏表先代萩』が上演されたのである。パンフレット末尾の上演記録(昭和20年以降)によれば、『裏表先代萩』は戦後6回しか上演されてない。『伽羅先代萩』に比べると圧倒的に少ない。今回が7回目の上演である。
パンフレットの上演記録のおかげで、私が昔観たのは1968年5月の国立劇場公演だと判明した。58年前、19歳のときだ。出演した主な役者も確認できたが、その演技を憶えているわけではない。
今回の『裏表先代萩』は八代目菊五郎が小助、政岡、仁木弾正の3役を演じる。やはり、政岡のシーンが一番面白く、引き込まれる。
夜の部の『浮かれ心中』は井上ひさしの直木賞受賞作『手鎖心中』を歌舞伎化した演目で、わかりやすくて面白い。亡くなった勘三郎が何度か演じたそうだ。それを勘九郎が演じている。勘九郎のコミカルな演技を観ていると、やはり父親に似ているなあと思った。
『手鎖心中』は昔読んでいるが、ぼんやりとした記憶しかない。『浮かれ心中』が面白かったので『手鎖心中』を再読したくなった。
『メアリー・ステュアート』は緊張感が持続する芝居 ― 2026年04月13日
パルコ劇場で『メアリー・ステュアート』(原作:シラー、翻案:ロバート・アイク、翻訳:小田島則子、演出:栗山民也、出演:宮沢りえ、若村麻由美、他)を観た。
観劇前にシラーの原作『マリア・ストゥアルト』を読み、映画『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』もオンデマンドで視聴した。どちらも史実をベースにしたフィクションだが、16世紀のスコットランド女王メアリーとイングランド女王エリザベス1世の確執の概要を知ることはできた。
今回の公演は、英国の劇作家・演出家ロバート・アイク(1986-)がシラーの原作を翻案したものだ。7年前に観たギリシア悲劇『オレステイア』(アイスキュロス)もロバート・アイクの翻案だった。『メアリー・ステュアート』は大胆に現代化しているかと予感したが、思った以上にシラーの原作に忠実だった。冒頭シーンもラストシーンも原作通りで、より明解なメリハリある芝居になっていた。
パルコ劇場での栗山民也演出、宮沢りえ主演の芝居は2年前の『オーランド』を観た。あの芝居にも宮沢りえ演ずるオーランドにエリザベス1世が絡むシーンがあった。あのときの河内大和(映画『8番出口』の「歩く男」役)演じるエリザベスは不気味だったが、今回は二大女優競演である。
舞台『メアリー・ステュアート』は、これまでにさまざまなバージョンが上演されてきたそうだ。私は今回が初めての観劇だが、ネット検索すると5件確認できた。メアリーとエリザベスを「麻実れい×白石加代子(1990年)」「南果歩×原田美枝子(2005年)」「栗原小巻×樫山文枝(2013年)」「中谷美紀×神野美鈴(2015年)」「長谷川京子×シルビア・グラブ(2020年)」らが演じている。そして今回は「宮沢りえ×若村麻由美」である。
舞台装置はシンプルで、三方を高い壁で囲まれたやや抽象的な空間だ。メアリーが幽閉されている牢獄にふさわしい装置である。エリザベスの宮廷のシーンも同じ空間で演じられる。エリザベスもまた王冠という牢獄に身を置いていることを表しているのだろう。
シラーの原作は全5幕、翻案もそのまま全5幕で、幕ごとに緞帳が昇降する。舞台装置の組み替えがあるわけではないが、緞帳の昇降による場面転換というシンプルな手法の効果を再認識した。
この芝居はメアリー処刑までの3日間を描いた宮廷陰謀劇である。舞台はメアリーの牢獄とエリザベスの宮廷、中盤のメアリーとエリザベスの対面がひとつのクライマックスになる。宮沢りえと若村麻由美の熱演で、最後まで緊張感が持続する舞台だった。
役者たちの衣装はエリザベス朝風ではなく超時代的であり、16世紀の宮廷劇が21世紀の混迷をも反映しているように見える。
原作戯曲には描かれていないが、処刑場へ去っていくメアリーの黒い衣装が一瞬で赤い衣装に変わる。映画『ふたりの女王』と同じだ。視覚に訴える印象的なシーンであり、ドキリとした。メアリーが赤い衣装で処刑場へ赴いたというのは実話らしいが、よくわからない。
観劇前にシラーの原作『マリア・ストゥアルト』を読み、映画『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』もオンデマンドで視聴した。どちらも史実をベースにしたフィクションだが、16世紀のスコットランド女王メアリーとイングランド女王エリザベス1世の確執の概要を知ることはできた。
今回の公演は、英国の劇作家・演出家ロバート・アイク(1986-)がシラーの原作を翻案したものだ。7年前に観たギリシア悲劇『オレステイア』(アイスキュロス)もロバート・アイクの翻案だった。『メアリー・ステュアート』は大胆に現代化しているかと予感したが、思った以上にシラーの原作に忠実だった。冒頭シーンもラストシーンも原作通りで、より明解なメリハリある芝居になっていた。
パルコ劇場での栗山民也演出、宮沢りえ主演の芝居は2年前の『オーランド』を観た。あの芝居にも宮沢りえ演ずるオーランドにエリザベス1世が絡むシーンがあった。あのときの河内大和(映画『8番出口』の「歩く男」役)演じるエリザベスは不気味だったが、今回は二大女優競演である。
舞台『メアリー・ステュアート』は、これまでにさまざまなバージョンが上演されてきたそうだ。私は今回が初めての観劇だが、ネット検索すると5件確認できた。メアリーとエリザベスを「麻実れい×白石加代子(1990年)」「南果歩×原田美枝子(2005年)」「栗原小巻×樫山文枝(2013年)」「中谷美紀×神野美鈴(2015年)」「長谷川京子×シルビア・グラブ(2020年)」らが演じている。そして今回は「宮沢りえ×若村麻由美」である。
舞台装置はシンプルで、三方を高い壁で囲まれたやや抽象的な空間だ。メアリーが幽閉されている牢獄にふさわしい装置である。エリザベスの宮廷のシーンも同じ空間で演じられる。エリザベスもまた王冠という牢獄に身を置いていることを表しているのだろう。
シラーの原作は全5幕、翻案もそのまま全5幕で、幕ごとに緞帳が昇降する。舞台装置の組み替えがあるわけではないが、緞帳の昇降による場面転換というシンプルな手法の効果を再認識した。
この芝居はメアリー処刑までの3日間を描いた宮廷陰謀劇である。舞台はメアリーの牢獄とエリザベスの宮廷、中盤のメアリーとエリザベスの対面がひとつのクライマックスになる。宮沢りえと若村麻由美の熱演で、最後まで緊張感が持続する舞台だった。
役者たちの衣装はエリザベス朝風ではなく超時代的であり、16世紀の宮廷劇が21世紀の混迷をも反映しているように見える。
原作戯曲には描かれていないが、処刑場へ去っていくメアリーの黒い衣装が一瞬で赤い衣装に変わる。映画『ふたりの女王』と同じだ。視覚に訴える印象的なシーンであり、ドキリとした。メアリーが赤い衣装で処刑場へ赴いたというのは実話らしいが、よくわからない。
観劇前に戯曲『マリア・ストゥアルト』を読んだ ― 2026年04月07日
今月中旬、舞台『メアリー・スチュアート』(出演:宮沢りえ、若村麻由美、他)を観劇予定だ。スコットランド女王メアリー・スチュアートとイングランド女王エリザベス1世の話らしいが、どんな内容かよく知らない。観劇前にシラーの戯曲を読もうと思い、「メアリー・スチュアート」でネット検索すると次の本が出てきた。
『悲劇 マリア・ストゥアルト』(シラー/相良守峯訳/岩波文庫)
タイトルが違うと思ったが、マリア・ストゥアルトはメアリー・スチュアートのドイツ語表記だった。ドイツ人シラーが書いた戯曲だからマリア・ストゥアルトなのだ。と言っても、イギリス王室の話のドイツ語表記には違和感がある。
舞台『メアリー・スチュアート』を観たいと思ったのは、出演者に惹かれたのに 加え、先日『ヴァロア朝』(佐藤賢一)を読んだからである。生後6日でスコットランド女王になったメアリー・スチュアートは、未来のフランス王妃として6歳からフランス王宮で育てられた。だが、夫のフランス王は早世する。フランス読みだとマリー・ステュアールの彼女について、佐藤氏は次のように述べている。
「マリー・ステュアールというのは、その美貌ゆえに波乱の人生を余儀なくされ、最後はイングランド女王エリザベス1世に斬首されて果てたという、あの伝説のスコットランド女王メアリー・スチュアートのことなのだ。(…)王妃(マリー・ステュアール)自身は政治家という玉ではなかった。この方面に才覚があれば、あんな支離滅裂な人生を送るわけがない。」
この一節を読んで、どんな支離滅裂な人生を送ったのだろうと興味がわいた。で、芝居のチケットを手配し、戯曲を読んだのである。
『悲劇 マリア・ストゥアルト』はメアリー・スチュアートの支離滅裂な人生そのものは描いていない。その果ての最期の3日間を描いている。
スコットランドからエリザベスを頼って逃れて来たメアリーは、イングランドの王宮に幽閉され軟禁生活を送っている。エリザベスにとって彼女は、色仕掛けなどの手練手管でイングランド王位を狙う危険人物である。そして、ある証言をもとに彼女への死刑が宣告され、エリザベスの意に反して刑が執行されてしまう――という戯曲である。面従腹背の登場人物たちの右往左往の展開も面白い。
戯曲の軸はメアリーとエリザベスという二人の女王である。この二人、芝居が始まった時点(処刑の3日前)では顔を合わせたことがない。前段はメアリーが軸、中盤で二人の面会、後段はエリザベスが軸、という構成がわかりやすい。
冒頭近くでメアリーの乳母がメアリーに「あなた様の罪といえば、軽はずみということだけでございます」と語る。佐藤氏の言う「支離滅裂な人生」を想起し、ニヤリとしてしまった。二人の女王が背負った人生を3日に反映させた戯曲だ。
『悲劇 マリア・ストゥアルト』(シラー/相良守峯訳/岩波文庫)
タイトルが違うと思ったが、マリア・ストゥアルトはメアリー・スチュアートのドイツ語表記だった。ドイツ人シラーが書いた戯曲だからマリア・ストゥアルトなのだ。と言っても、イギリス王室の話のドイツ語表記には違和感がある。
舞台『メアリー・スチュアート』を観たいと思ったのは、出演者に惹かれたのに 加え、先日『ヴァロア朝』(佐藤賢一)を読んだからである。生後6日でスコットランド女王になったメアリー・スチュアートは、未来のフランス王妃として6歳からフランス王宮で育てられた。だが、夫のフランス王は早世する。フランス読みだとマリー・ステュアールの彼女について、佐藤氏は次のように述べている。
「マリー・ステュアールというのは、その美貌ゆえに波乱の人生を余儀なくされ、最後はイングランド女王エリザベス1世に斬首されて果てたという、あの伝説のスコットランド女王メアリー・スチュアートのことなのだ。(…)王妃(マリー・ステュアール)自身は政治家という玉ではなかった。この方面に才覚があれば、あんな支離滅裂な人生を送るわけがない。」
この一節を読んで、どんな支離滅裂な人生を送ったのだろうと興味がわいた。で、芝居のチケットを手配し、戯曲を読んだのである。
『悲劇 マリア・ストゥアルト』はメアリー・スチュアートの支離滅裂な人生そのものは描いていない。その果ての最期の3日間を描いている。
スコットランドからエリザベスを頼って逃れて来たメアリーは、イングランドの王宮に幽閉され軟禁生活を送っている。エリザベスにとって彼女は、色仕掛けなどの手練手管でイングランド王位を狙う危険人物である。そして、ある証言をもとに彼女への死刑が宣告され、エリザベスの意に反して刑が執行されてしまう――という戯曲である。面従腹背の登場人物たちの右往左往の展開も面白い。
戯曲の軸はメアリーとエリザベスという二人の女王である。この二人、芝居が始まった時点(処刑の3日前)では顔を合わせたことがない。前段はメアリーが軸、中盤で二人の面会、後段はエリザベスが軸、という構成がわかりやすい。
冒頭近くでメアリーの乳母がメアリーに「あなた様の罪といえば、軽はずみということだけでございます」と語る。佐藤氏の言う「支離滅裂な人生」を想起し、ニヤリとしてしまった。二人の女王が背負った人生を3日に反映させた戯曲だ。
『サボテンの微笑み』の屋敷は小さな異空間 ― 2026年04月05日
シアタートラムでケムリ研究室公演『サボテンの微笑み』(作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ、出演:緒川たまき、瀬戸康史、瀬戸さおり、清水伸、赤堀雅秋、萩原聖人、鈴木慶一)を観た。
チラシには「ナイーブな人たちの小さな物語」とある。A4判4ページのチラシだが、それ以外の文章はなく、見開きはイメージ写真だけだ。チラシ作成時点で戯曲は未完成だったので、それ以上のことは書けなかったのだと思う。
観劇後、あらためてチラシの見開き写真を眺めた。実際の舞台とチラシの写真は微妙に雰囲気が異なる。舞台はチラシほどホノボノしていない。
昭和初期の東京郊外の洋館に住む兄と妹の話である。広い客間が舞台だ。客間後方の大きなガラス戸の向こうの庭には巨大な温室がある。中央のテーブルの回りに椅子が4脚、客席から見ると手前の1脚は後向きになる。変な配列だと思ったが、そこに仕掛けがあった。
兄弟は親が残した遺産で不自由なく静かに暮らしている。二人ともやや引っ込み思案の独身である。温室で花を育てている兄の綽名はサボテンだ。兄は妹に早く嫁いでほしいと思っている。妹は兄に嫁が来てほしいと願っている――そんな設定だ。
この芝居、「静→動→静」と展開する。二人の静かな生活が動に転ずるのは、旧友たちの来訪に伴う一連の騒動によって兄も妹も伴侶を求めるようになるからである。だが、結局は二人の静かな生活に戻る。
テーブルがある舞台中央は回転舞台になっている。回転部分に立っている人物とその外の人物の会話は、会話の流れに沿うように遠ざかったたり近づいたりする。面白い仕掛けだ。
緒川たまきが演じる妹は、竹久夢二の絵の女性のような儚い風情を醸し出している。それをやや過剰にコミカルに表現しているのが面白く、また不気味でもある。温室で育てた花を愛でる兄もどこか不気味だ。
二人の住む昭和初期の洋館は世の中から隔絶した空間であり、それは時代をも超えた異次元空間にも感じられる。手回し蓄音機から流れるレコードの音楽も現実世界から遊離している。
諦めに似た異次元的な小さな自足の世界は現代の何を反映しているのだろうか。
チラシには「ナイーブな人たちの小さな物語」とある。A4判4ページのチラシだが、それ以外の文章はなく、見開きはイメージ写真だけだ。チラシ作成時点で戯曲は未完成だったので、それ以上のことは書けなかったのだと思う。
観劇後、あらためてチラシの見開き写真を眺めた。実際の舞台とチラシの写真は微妙に雰囲気が異なる。舞台はチラシほどホノボノしていない。
昭和初期の東京郊外の洋館に住む兄と妹の話である。広い客間が舞台だ。客間後方の大きなガラス戸の向こうの庭には巨大な温室がある。中央のテーブルの回りに椅子が4脚、客席から見ると手前の1脚は後向きになる。変な配列だと思ったが、そこに仕掛けがあった。
兄弟は親が残した遺産で不自由なく静かに暮らしている。二人ともやや引っ込み思案の独身である。温室で花を育てている兄の綽名はサボテンだ。兄は妹に早く嫁いでほしいと思っている。妹は兄に嫁が来てほしいと願っている――そんな設定だ。
この芝居、「静→動→静」と展開する。二人の静かな生活が動に転ずるのは、旧友たちの来訪に伴う一連の騒動によって兄も妹も伴侶を求めるようになるからである。だが、結局は二人の静かな生活に戻る。
テーブルがある舞台中央は回転舞台になっている。回転部分に立っている人物とその外の人物の会話は、会話の流れに沿うように遠ざかったたり近づいたりする。面白い仕掛けだ。
緒川たまきが演じる妹は、竹久夢二の絵の女性のような儚い風情を醸し出している。それをやや過剰にコミカルに表現しているのが面白く、また不気味でもある。温室で育てた花を愛でる兄もどこか不気味だ。
二人の住む昭和初期の洋館は世の中から隔絶した空間であり、それは時代をも超えた異次元空間にも感じられる。手回し蓄音機から流れるレコードの音楽も現実世界から遊離している。
諦めに似た異次元的な小さな自足の世界は現代の何を反映しているのだろうか。
舞台『砂の女』は男女の年齢を含めて原作に忠実 ― 2026年03月23日
紀伊國屋ホールで『砂の女』(原作:安部公房、脚本・演出:山西竜矢、出演:森田剛、藤間爽子、他)を観た。
安部公房は戯曲も書く小説家で、舞台演出も手掛けた。自身の小説のいくつかも戯曲化している。代表作『砂の女』に関しては、映画化やラジオ化の際に自らシナリオを書いているが、戯曲化はしていない。
安部公房自身が『砂の女』を舞台化したいと思ったかどうか、私は知らない。おそらく、舞台化の構想はなかったと思う。小説の完成度が高く、映画(監督:勅使河原宏)も高く評価された傑作だった。小説や映画を超える舞台を創るのは難しいと考えたかもしれない。
作家自身が戯曲を残さなかった『砂の女』だが、私は5年前に二つの舞台を観た。うずめ劇場の『砂女』とケラリーノ・サンドロヴィッチ演出・上演台本の『砂の女』である。今回が三つ目の舞台だ。5年前に観た二つの舞台は、原作を多少アレンジしていた。今回の舞台は原作に非常に忠実に作られている。原作を読み込んだうえで、巧みに舞台化していると感じた。
変な言い方になるが、原作を読んでいなくても、この芝居を観れば原作の内容を十分に把握できると思った。私にとっては、芝居を観ながら原作の内容を次々に思い出していく観劇体験だった。緊張が持続する至福の2時間だった。
主人公の男と女が若く感じられたのは、私が年を取ったせいだと思う。特に「女」の藤間爽子が原作のイメージ以上に若く見えた。だが、私の錯覚だった。観劇後、原作を確認すると「まだ三十前後の、いかにも人の好さそうな小柄な女だった」と書いていた。
男(仁木順平)の年齢は、小説末尾の「審判」の書類で正確にわかる。生まれたのは昭和2年3月7日(月日は安部公房と同じ。年齢は3つ下)、昆虫採集に出発したのは昭和30年8月18日だから、28歳である。そんなに若かったのかと驚いた。私がこの小説を最初に読んだのは十代だったので、男をオジサンと感じたようだ。
小説は、男を失踪者と宣告する簡潔な「審判」書類で終わる。三島由紀夫が「砂のように簡潔で無味乾燥な突然のオチ」と称賛した結末である。舞台は、この書類をプロジェクターで投影して終わる。このシーンは、投影した書類を朗々と無味乾燥に読み上げてほしかった。
私は原作を3回ぐらい読んでいる。原作に忠実な舞台『砂の女』の読後感ならぬ「観後感」は、初めてこの小説を読んだときの感慨とは微妙に異なる。以前は、世界という情況や桎梏と格闘する話に思えた。だが今回は、脱出が空しい家庭劇のようにも見えた。これは、小説と芝居の違いではなく、私の年齢や時代の違いのせいだろう。
安部公房は戯曲も書く小説家で、舞台演出も手掛けた。自身の小説のいくつかも戯曲化している。代表作『砂の女』に関しては、映画化やラジオ化の際に自らシナリオを書いているが、戯曲化はしていない。
安部公房自身が『砂の女』を舞台化したいと思ったかどうか、私は知らない。おそらく、舞台化の構想はなかったと思う。小説の完成度が高く、映画(監督:勅使河原宏)も高く評価された傑作だった。小説や映画を超える舞台を創るのは難しいと考えたかもしれない。
作家自身が戯曲を残さなかった『砂の女』だが、私は5年前に二つの舞台を観た。うずめ劇場の『砂女』とケラリーノ・サンドロヴィッチ演出・上演台本の『砂の女』である。今回が三つ目の舞台だ。5年前に観た二つの舞台は、原作を多少アレンジしていた。今回の舞台は原作に非常に忠実に作られている。原作を読み込んだうえで、巧みに舞台化していると感じた。
変な言い方になるが、原作を読んでいなくても、この芝居を観れば原作の内容を十分に把握できると思った。私にとっては、芝居を観ながら原作の内容を次々に思い出していく観劇体験だった。緊張が持続する至福の2時間だった。
主人公の男と女が若く感じられたのは、私が年を取ったせいだと思う。特に「女」の藤間爽子が原作のイメージ以上に若く見えた。だが、私の錯覚だった。観劇後、原作を確認すると「まだ三十前後の、いかにも人の好さそうな小柄な女だった」と書いていた。
男(仁木順平)の年齢は、小説末尾の「審判」の書類で正確にわかる。生まれたのは昭和2年3月7日(月日は安部公房と同じ。年齢は3つ下)、昆虫採集に出発したのは昭和30年8月18日だから、28歳である。そんなに若かったのかと驚いた。私がこの小説を最初に読んだのは十代だったので、男をオジサンと感じたようだ。
小説は、男を失踪者と宣告する簡潔な「審判」書類で終わる。三島由紀夫が「砂のように簡潔で無味乾燥な突然のオチ」と称賛した結末である。舞台は、この書類をプロジェクターで投影して終わる。このシーンは、投影した書類を朗々と無味乾燥に読み上げてほしかった。
私は原作を3回ぐらい読んでいる。原作に忠実な舞台『砂の女』の読後感ならぬ「観後感」は、初めてこの小説を読んだときの感慨とは微妙に異なる。以前は、世界という情況や桎梏と格闘する話に思えた。だが今回は、脱出が空しい家庭劇のようにも見えた。これは、小説と芝居の違いではなく、私の年齢や時代の違いのせいだろう。
『国語事件殺人辞典』は熱気が伝わってくる芝居 ― 2026年03月16日
紀伊國屋サザンシアターでこまつ座公演『国語事件殺人辞典』(作:井上ひさし/演出:大河内直子/出演:筧利夫、諏訪珠理、他)を観た。
1982年、小沢昭一の劇団・しゃぼん玉座の旗揚げ公演のために井上ひさし書いた作品である。1982年の初演以降上演がなく、44年ぶりの上演だそうだ。観劇前に戯曲を読みたいと思ったが入手できなかった。
全2幕、上演時間2時間30分(休憩時間除く)の迫力ある舞台だった。言葉をテーマにした芝居で、1幕と2幕で趣が転換するのが面白い。
主人公・花見万太郎(筧利夫)は無名の国語学者である。正しくて美しい日本語にこだわって独力で国語辞典の原稿を書き上げている。6万枚のカードから成る6万語の辞典原稿はトランク(鞄)に詰まっている。そのトランクを抱えて万太郎に付き従っているのは弟子の山田青年(諏訪珠理)である。
チラシに「井上ひさし版ドン・キホーテ」とあるように一種の遍歴譚である。万太郎と山田青年は、国語辞典の出版に関わる大物国語学者や出版社の策謀・欺瞞から逃れて、言葉のアレコレをめぐる遍歴を始める。言葉や国語辞典へのこだわりが強い井上ひさしらしい着眼点だと思った。
言葉に取り憑かれた人間を主人公にした言葉氾濫蘊蓄コメディーかと思いながら1幕目を観ていたが、2幕目になると管理社会や抑圧者を糾弾するメッセージ性の強い芝居へと展開して行った。
2幕目に言葉を預かる質屋が登場する。質草になるのは否定語である。生活に窮して否定語を預けて金に替えると、「いいえ」や「ノー」と言えなくなる。お伽話のような設定が不気味な世界に転回し、芝居の熱量が上がる。44年前の熱気がよみがえってくるような気がした。
1982年、小沢昭一の劇団・しゃぼん玉座の旗揚げ公演のために井上ひさし書いた作品である。1982年の初演以降上演がなく、44年ぶりの上演だそうだ。観劇前に戯曲を読みたいと思ったが入手できなかった。
全2幕、上演時間2時間30分(休憩時間除く)の迫力ある舞台だった。言葉をテーマにした芝居で、1幕と2幕で趣が転換するのが面白い。
主人公・花見万太郎(筧利夫)は無名の国語学者である。正しくて美しい日本語にこだわって独力で国語辞典の原稿を書き上げている。6万枚のカードから成る6万語の辞典原稿はトランク(鞄)に詰まっている。そのトランクを抱えて万太郎に付き従っているのは弟子の山田青年(諏訪珠理)である。
チラシに「井上ひさし版ドン・キホーテ」とあるように一種の遍歴譚である。万太郎と山田青年は、国語辞典の出版に関わる大物国語学者や出版社の策謀・欺瞞から逃れて、言葉のアレコレをめぐる遍歴を始める。言葉や国語辞典へのこだわりが強い井上ひさしらしい着眼点だと思った。
言葉に取り憑かれた人間を主人公にした言葉氾濫蘊蓄コメディーかと思いながら1幕目を観ていたが、2幕目になると管理社会や抑圧者を糾弾するメッセージ性の強い芝居へと展開して行った。
2幕目に言葉を預かる質屋が登場する。質草になるのは否定語である。生活に窮して否定語を預けて金に替えると、「いいえ」や「ノー」と言えなくなる。お伽話のような設定が不気味な世界に転回し、芝居の熱量が上がる。44年前の熱気がよみがえってくるような気がした。








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