雨月物語を現代劇にした『月を抱く人魚』を観た2026年08月12日

 シアタートラムで『月を抱く人魚 ―雨月物語より―』(作:上田秋成、脚本:鈴木アツト、演出:生田みゆき、出演:岡本圭人、南沢奈央、薬丸翔、鈴木結里、上村聡、松岡依都美、相島一之)を観た。

 雨月物語の『青頭巾』を現代劇に脚色した芝居だと聞いていたので、事前に『青頭巾』の現代語訳を読んだ。短い話なので原文にも目を通した。徳の高い住職が稚児に溺れたのが契機で人食い鬼になる話で、最後は旅の僧によって成仏させられる。この話をどう料理すれば現代劇になるのか見当がつかない。

 冒頭に登場するのは日本画家宮木(南沢奈央)と絵画モデル勝四郎(岡本圭人)である。画家は人魚描きで、派遣されたモデルの背中に背びれを描く。ふざけあいジャレあった二人は一夜を共にする。画家の部屋でモデルが目覚めると、画家は失踪していた。画家を忘れられないモデルは、友人のカップルの二人共に画家の行方を捜す。

 モデルが男性、画家が女性という設定は現代的だ。モデルの友人カップルは、男がウーバーイーツの配達員、女は占い師である。これも現代的なのだろうか。

 舞台は稚児愛の話ではなく、男女や家族の愛憎の話になっている。人食いの話は出てくる。人魚のモチーフに唐十郎を多少感じた。お話の背景に、遠い昔から現代にまで続く戦争状況を設定している。

 モデルと友人二人の三人は現代に生きる人間であり、この芝居は三人の冒険譚である。冒険の始まりに登場するモデルの父親は息子を捨てた戦場カメラマンで、彼ももちろん人間だ。だが、その後に三人が出会う怪しげな人物は、画家をはじめ皆この世の者ではない。信長の安土城の時代から彷徨っている妖怪のような存在なのだ。

 この芝居はかなり入り組んだ話になっていて、それを十分に理解できたわけではないが、現代の怪談になっているのは確かだ。

 ラストで、妖怪たちの屋敷は消滅し、その跡に三人がたたずむ。雨月物語的である。妖怪が消滅しても、その気配が完全に消えたわけではなく、かすかなコミュニケーションのルートが残されているように見える。

 現代世界の背後に妖怪たちの異世界がある――現代の怪談はそう語っているのだろうか。

チエホフを読み返したくなる清水邦夫の『楽屋』2026年08月07日

 テアトル・エコーの「ケイコバ」で『楽屋:流れ去るものはやがてなつかしき』(作:清水邦夫、演出:川本克彦、出演:沖田愛、小泉聡美、黒川なつみ、吉村いろり)を観た。

 女優4人が女優を演じる芝居である。この公演は「かもめ組」「カラス組」のダブル・キャストで、私が観たのは「かもめ組」だった。

 清水邦夫の『楽屋』の初演は1977年。日本で最も多く上演さている戯曲と言われている。私は5年前に東京座という劇団の公演を観て以来、2度目である。上演時間70分の一幕劇、戯曲は「戯曲デジタルアーカイブ」で閲読できる。

 劇場の楽屋を舞台にしたこの芝居は、女優の亡霊たちの話である。華やかな脚光を浴びることなく逝ってしまった女優の亡霊たちは、夜ごとに楽屋に現れ、決してやってくることのない出番を待ちながらメイクアップを続けている。

 この芝居ではチエホフの『かもめ』『三人姉妹』のシーンが何度か演じられる。マクベス夫人の独白や三好十郎の『斬られの仙太』(私は観たことがない)の一場面も登場する。芝居全体の雰囲気はチエホフに通じる部分が多少ある。この一幕劇でチエホフのサワリに接した気分になり、妙なお得感もある。チエホフを読み返したくなった。

 終幕、無人の楽屋にミラーボールの光が舞う。スポットライトが当たるはずのない楽屋に、やや安っぽいミラーボールの光が乱舞する。無人の楽屋にうごめく亡霊たちを幻視した気分になった。

女性5人の芝居『マンザナ、わが町』は面白かった2026年07月21日

 紀伊國屋サザンシアターでこまつ座公演『マンザナ、わが町』(作:井上ひさし/演出:鵜山仁/出演:sara、増岡裕子、栗田桃子、福井由峰、真飛聖)を観た。

 第二次世界大戦中、米国カリフォルニア州のマンザナにできた日系人の強制収容所を舞台にした物語である。1993年の初演以来何度も演じられてきた芝居だが、私は初見だ。事前に戯曲を読むこともできず、白紙の状態で観劇した。

 マンザナ強制収容所に連れて来られた5人の日系人女性による芝居である。ソフィア岡崎(31歳)は父が作った日本語新聞のジャーナリスト、オトメ天津(38歳)は女浪曲師、サチコ斎藤(20代後半)は奇術師の助手、リリアン竹内(18歳)は歌手、ジョイス立花(22際)は映画女優である。

 ソフィア岡崎は、収容所所長から芝居の台本を手渡され、それを収容所内で上演するよう命じられる。所長の構想をスタッフが日本語化した芝居のタイトルは「マンザナ、わが町」、マンザナは強制収容所ではなく自治の町だと謳いあげる内容の芝居である。ソフィアが演出、他の4人が出演せよとの命令である。芝居を作る過程を題材にした芝居という面白い設定だ。

 芝居の前半、やや図式的な設定だなと感じた。だが、後半は以外な展開になって面白くなった。劇作家・井上ひさしの才をあらためて認識した。だが、終盤はやや理想的なキレイ事めいてきて少し鼻白む。これも、井上ひさしの作風だとは思うが。

 戦時中、米国在住の日系人は収容所に送られるという差別的待遇を受けた。戦後43年の1988年、戦時補償法が成立、レーガン大統領が日系人の強制収容を謝罪し米国政府は補償金を支払った。井上ひさしはこのニュースから芝居を着想したそうだ。

 『マンザナ、わが町』は日系人差別を題材にしつつ、日本軍の中国での蛮行に話が拡がり、人類が克服すべき普遍的な課題を提示している。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」の実践例のような傑作だと思う。だが、何かモノ足りなさも感じる……。それが何か、よくわからないが。

現代版『テンペスト』の『コテンペスト』な賑やかなコメディ2026年07月01日

 本多劇場で『コテンペスト』(シェイクスピア「テンペスト」より、脚本・演出:村上大樹、出演:小手伸也、鈴木保奈美、片桐仁、崎山つばさ、松田凌、他)を観た。

 チラシに〔「テンペスト」の設定を現代に置き換え大胆に翻案! 怪優・小手伸也が「そろそろシェイクスピアに挑戦したい」曲者たちと巻き起こす爆笑の嵐!〕とある。面白そうに思えてチケッチを入手した。

 『テンペスト(嵐)』は、昨年4月の「俳優座劇場さよなら公演」で観た。孤島を舞台にした妖精や魔術が出てくる芝居なので、どのように現代化するのだろうと思った。チラシには「小手伸也 舞台初主演!!」とある。小手(コテ)のテンペストだから「コテンペスト」のようだ。小手伸也は私にとって未知の役者だと思っていたが、2年前に観た別役実の不条理劇『カラカラ天気と五人の紳士』に出ていた。観劇後にパンフレットを読んで気づいた。テレビ出演も多いらしい。

 舞台は、地方都市の百貨店「天平ストア」の本館から遠く離れた「別館」である。客がほとんど来ない別館は孤島と呼ばれ、別館への人事異動は島流しと言われている。客の来ない別館には下着売場と仏具売場しかない。シェイクスピアの孤島を地方百貨店の別館というナンセンス・コメディ的シュールな場所に設定にしたのに感心した。面白い芝居が湧き出てきそうな設定だ。

 この芝居、確かに『テンペスト』の面影はあるもののエネルギッシュな現代的コメディーだった。原作の主人公は孤島に流された元ミラノ大公プロスペローだが、『コテンペスト』の主役は別館に流された黒須太郎(プロスペロー)にこき使われる妖精オジサンである。小手伸也が妖精オジサンこと内木弁慶を演じる。

 この芝居で初めて「コテる」という言葉を知った。コテコテの芝居がかった演技でコケることを表す演劇用語(?)で、小手伸也の演技に由来するそうだ。『コテンペスト』は、役者全員がコテることを恐れない賑やかなコメディである。

 と同時に、演劇への情熱を表した芝居でもある。主人公・内木弁慶は芝居を辞めた元劇団員という設定で、妖精オジサンになることで演劇に復帰する。天平ストアには役者志望のアルバイトもいる。このアルバイト、おかしな事情から社長への道が拓けるが、それを捨てて役者への道につき進む。

 シェイクスピアへのリスペクトと演劇愛を秘めたメタ・コメディだと思った。

『シャープさんフラットさん』はメタ・コメディ2026年06月28日

 紀伊國屋サザンシアターでKERA CROSS公演『シャープさんフラットさん』(作:ケラリーノ・サンドロヴィッチ、演出:マギー、出演:柄本時生、高梨臨、安達祐実、田中俊介、トリンドル玲奈、他)を観た。

 初演は2008年(ナイロン100℃)だそうだ。私は初見である。劇団から逃亡した劇作家・演出家を主人公にしたメタ・コメディ、つまりコメディを語るコメディである。作者はこの作品を半自伝劇と述べている。バブル絶頂からバブルが崩壊する1990年以降の数年を時代背景にしている。懐かしくて面白かった時代だ。芝居も面白い。

 東京から車で3時間ほどの北アルプスを望むサナトリウムが舞台である。サナトリウムと言っても、都会生活の喧騒から逃れてきた人々が暮らす高級リゾートホテルに近い。劇団の仕事を投げ出した主人公が逃げ込んだ先が、このバブルっぽい施設なのだ。

 「シャープさんフラットさん」はNHKの1960年代の音楽クイズ番組の題名だが、芝居のなかであのクイズ番組への言及はない。このサナトリウムに暮らす人々が世の標準から半音ズレていることを表しているようだ。

 ケラリーノ・サンドロヴィッチはナンセンス・コメディからスタートした演劇人である。上演パンフレットでは次のように語っている。

 “本作は「もしもあの頃、あのままナンセンスのみを書き続けていたら、自分はどうなっていたか?」。そんな想像を転がしながら書いた。”

 この芝居を観ながら、「コメディ」や「笑い」の難しさと不思議をあらてめて感じた。いつの時代にも誰もを笑わせる「普遍的な笑い」というものがあると思うが、人はそれだけを面白いと感じるわけではない。世代や地域の違いによって面白さの基準は異なる。ある人々にとって笑えるモノが、他の人々にはどこが面白いかわからないということは多い。

 主人公がサナトリウムに逃亡した一因は、ナンセンス・コメディを追究する自身の「笑い」が他の人々の「笑い」とズレてきていると感じたことだ。これは、かなり深くて難しいテーマだ。「笑い」の質は多数決で決まるものではないと思うが、独善的自己満足で決まるものでもない。

 メタ・コメディは、やや苦くて面白い。

映画でしか知らない『十二人の怒れる男』の舞台を観た2026年06月03日

 博品館劇場で『十二人の怒れる男』(作:レジナルド・ローズ、訳:小田島恒志・小田島則子/演出:松森望宏/出演:和田琢磨、中村梅雀、相葉裕樹、モロ師岡、大鶴義丹、佐藤B作、他)を観た。

 後にパロディも作られた有名作である。ヘンリー・フォンダ主演の映画(1957年)をテレビで観たのはかなり昔だ。今回の観劇前、あのモノクロ映画をプライム・ビデオで再度観た。12人の陪審員の密室劇である。当初は有罪11人無罪1人だったのが、緊迫した討議の過程で次第に無罪を支持する陪審員が増え、最終的には全員一致で無罪になる。展開の面白さは秀逸、法廷モノの古典と言える。

 今回の観劇で、私の勘違いが判明した。遠い昔、あのモノクロ映画を観て、この映画は演劇の映画化だと思った。一つの部屋で12人が議論や罵倒を重ねていく展開は実に演劇的だ。私は『十二人の怒れる男』は芝居がオリジナルで、あの有名映画は芝居の映画化だと思っていた。だから、『十二人の怒れる男』の上演を知ったとき、映画のオリジナルの芝居を確認したくてチケットを購入した。だが、調べてみると、テレビドラマが最初で、続いて映画化され、その後に舞台になったらしい。

 そんな経緯はともかく、演劇向きの話なのは確かだ。だが、舞台を観ながら12人という登場人物は多すぎ、12人を識別するのはかなり大変だと感じた。と言っても、この人数を減らせば話が成り立たない。12人全員一致でなければ評決できないという設定がスリリングであり、この前提がなければドラマは成立しない。観客には12人を識別しなければならない義務と楽しみがある。

 私は観劇直前にあのモノクロ映画を観ていたので、舞台上の役者に映画の役者を重ねるような観方になってしまった。これはマイナスだった。映画のイメージにひきずられると、妙な対比気分になり、あまり意味のない違和感を抱いたりもして舞台に没入しにくくなる。

 若い役者たちの演技を堪能するには頭のネジを少しゆるめ、新鮮な気分で臨まねばならいない――そんな反省的感慨がわいた。

吉田羊の『リチャード三世』はシンプルで面白い2026年05月31日

 パルコ劇場でシェイクスピアの『リチャード三世』(訳:松岡和子/演出:森新太郎/出演:吉田羊、愛希れいか、中越典子、赤澤遼太郎、増子倭文江、浅野雅博、星智也、清田智彦、篠井英介、渡辺いっけい)を観た。

 森新太郎演出、吉田羊主演のシェイクスピアを観るのは『ジュリアス・シーザー』『ハムレットQ1』に続いて3作目だ。上演時間3時間(休憩20分含む)のテンポのいい現代的なシェイクスピアだった。

 昨年、加藤義宗主演の『リチャード三世』を観たときに福田恒存訳の戯曲を読んだ。今回は観劇前に松岡和子訳を入手して読んだ。歴史劇は事前に人間関係を把握しておかないとわかりにくい。『リチャード三世』はランカスター家とヨーク家の私闘と言える薔薇戦争末期の話で、登場する貴族たちの姻戚関係がゴチャゴチャしている。対立関係の系図を頭に入れておく方が芝居を楽しめる。

 舞台は上段と下段の水平二段のいたってシンプルな造りで、大道具も背景もない。役者たちの衣装もシンプルで現代的だ。リチャードの白いジャケット、スタンリー卿の赤いジャケットは白薔薇、赤薔薇を現わしているのだろう。中世の話というよりは、陰謀、派閥抗争、冷酷な人事が渦巻く現代の企業社会に見えてくる。現代風の衣装に王冠の姿はオーナー社長だ。

 そんななかで、芝居全体に呪いをかける存在の元王妃マーガレットが特異である。王だった夫や皇太子だった息子をヨーク家(白薔薇)に殺害されたランカスター家(赤薔薇)の大立者だが衣装は赤ではなく黒だ。顔に赤い血がにじんだ不気味なメイクでマーガレットを演じる女形・篠井英介の姿は遠い過去から現れた怨霊に見える。

 悪人リチャードを演じる吉田羊のせむしを強調した演技に違和感はなく、熱演のなかにコミカルな要素もあり、余裕さえ感じた。

 この芝居の登場人物は50人近いが役者は10人、リチャード役の吉田羊以外の9人は一人で複数の役を入れ替わり立ち代わり演じる。この趣向がテンポいい展開につながっている。

 芝居終盤、戦場の夜の場面、リチャード三世と仇役リッチモンド(後のヘンリー七世)が二手に分かれて眠っているとき、リチャードに殺された亡霊たちが現れ、リチャードには呪いの言葉、リッチモンドには勝利の予言を語りかける。戯曲では亡霊は11人だが、役者が10人の今回の舞台の亡霊は8人に減らしている。

 ラストは、有名なリチャードの次の台詞である。

 「馬だ! 馬をよこせ! 代りに俺の王国をくれてやる、馬!」
 (A horse! A horse! My kingdom for a horse!)

 この台詞の直後にリチャードは戦死、幕となる。戯曲ではこの後にスタンリー卿とリッチモンド会話する場面があるが、今回の上演では省いている。リチャード戦死で幕が下がり、また幕が上がり、赤いマントで後向きの王冠姿が現れる。赤マントだから新たな国王リッチモンド(ヘンリー七世)だと思ったが、振り返ると無言のリチャード三世(吉田羊)だった。そこで終幕である。意表をつかれた。

 戯曲ではリッチモンドが白薔薇と赤薔薇の和解を宣言するので、それを表しているのかもしれない。あるいは、後年のリチャード再評価を反映した終幕だろうか。

ライブハウスで『あの、愛の一群たち』を観た2026年05月27日

 南青山MANDALAで『あの、愛の一群たち』(作:清水邦夫、演出:富澤正幸、出演:南谷朝子、大西多摩江、都築香弥子、他)を観た。先日、事前に戯曲を読んだばかりだ。

 この南青山のライブハウスで芝居を観るのはイヨネスコの『授業』に続いて2度目である。『授業』は登場人物が少ないシンプルな舞台で、ライブハウスの小さなステージに最適だった。『あの、愛の一群たち』はシンプルとは言い難い芝居なので、あの小さなステージがどんな劇空間になるのだろうと期待した。

 配布された配役表に「語り手」という役がある。戯曲にはない役なので不思議に感じたが、芝居が始まると同時に判明した。「語り手」はト書を読む役だった。大道具や小道具がないリーディング芝居に近く、舞台衣装の役者たちは、台本を手にしたまま客席に向かってしゃべる。音楽や効果音はステージ後方のドラムセットの奏者が担当し、ライブ感がある。

 舞台装置がないので、ト書の語りを聞きながら頭の中で大道具や小道具を想像する。これは新鮮な観劇体験だった。自分が劇の制作に参加しているような気分になる。

 『あの、愛の一群たち』は、狂気をはらんだ3人の女性を中心にした「幻かもしれない男」を巡る重層的な話である。40歳近くの独身女性「ふね」は15年ぶりに日本海沿いの故卿に戻り、古い屋敷を改造した郷土資料館を訪れる。そこで、裸足の不思議な女性「しのぶ」に出会う。彼女はこの屋敷の娘で、精神病院から、夫に会うために脱走してきたらしい。そして、しのぶの姉「ぎん」が登場する。彼女は郷土資料館の主である。ぎんの夫らしき「影」のような館長も登場する。

 しのぶの夫は実在するのか幻の人物なのか、はたまたふねの弟が実はしのぶの夫なのか――女性たちの会話のなかで状況は二転三転していく。たどり着いた状況が正解か否かも不明だ。

 この劇には「朱鷺」「火事」「来襲する鼓笛隊」などが効果的に登場し、その不気味な異世界的イメージが現実世界に侵入してくる。登場人物が詠みあげる高村光太郎の詩「雷獣」「ぼろぼろな駝鳥」が幻の姿をふらませる。人は己れのなかに幻を紡ぎ、幻を追求していく――それこそが人が生きていくことの実相に思えてくる芝居だった。