女優だけで演じる『ジュリアス・シーザー』を観た2021年10月17日

 パルコ劇場でシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』(訳:福田恒存、演出:森新太郎、出演:吉田羊、松井玲奈、松本紀保、シルビア・グラブ、三田和代、他)を観た。

 この高名な戯曲を読んだのは11年前に日生劇場で上演された 『カエサル』という芝居を観る少し前だった。戯曲は読んだが舞台を観る機会がなく、今回『ジュリアス・シーザー』が上演されると知り、すぐにチケットを手配した。チケット購入後にチラシをよく見ると、次のように書いていた。

 「男たちの陰謀と策略の渦巻く古代ローマの政治闘争を女優のみで描く!」

 女優だけという特殊な試みとは気づかず、ローマ史ファンとして『ジュリアス・シーザー』は観ておかねばと思ってチケットを購入したのだが、面白そうな演出だろうと期待した。

 今回の舞台は女優が男装するのではない。古代ローマのトーガを連想させるシンプルで象徴的な衣装をまとって、女性のままシェイクスピアが提示した男性を演じる。舞台装置も簡略で抽象的な空間になっている。女性が男性を演じる芝居にほとんど違和感はなく、シーザーやブルータスの世界に自然に没入できた。シェイクスピアの(福田訳の)名調子を朗々と謳いあげるように発声する女優たちの科白は妙に心地いい。

 もとより芝居の表現はリアリズムではなく「芝居がかって」いて当然であり、それは容易に男性・女性を超えるものだと、あらためて気づいた。

 『ジュリアス・シーザー』は史実通りでない部分もあるようだが、史実をベースに巧く芝居に仕立てていると感心した。さすが、シェイクスピアだ。

 戯曲を読んだときには見過ごしていて、舞台を観て初めて気づいてハッとしたのがラストシーンである。アントニウスがブルータスの自死を悼む科白を述べ、若きオクタヴィアスが科白を引き継いで締めくくる。そこには、オクタヴィアスがアントニウスを滅ぼして初代皇帝になるという後の歴史が象徴されているのだ。

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