地元の本屋が消える!2023年12月28日

 わが地元の駅前の書店「書源 つつじヶ丘店」の店頭に「2024年1月14日で閉店」の看板が出ていた。ショックだ。こんな日が来ないように、ネット書店の利用をひかえて地元の本屋で買うようにしなければと心がけてはいた。だが、ついネットに頼ることが多かった。いまさら反省しても手遅れだ。

 この本屋は品揃えがよく、店の規模もほどほどで気に入っていた。都心の大型書店を回っても入手できなかった本をこの本屋でゲットしたこともある。その体験はブログに書いた。

 地元には他に駅ナカにも書店があるが、こちらはファストフード店みたいな本屋でつまらない。無目的に書店の棚を徘徊する楽しみを味わうのは難しい。

 本屋は新聞・雑誌に似ている。目的の本や情報を得るにはネットが手軽で便利だ。しかし、目的に辿り着くまでの寄り道を楽しんだり、無目的に漫然と景色を眺めるには、本屋・新聞・雑誌が適している。でも、それらは衰退しつつある。残念だ。

牧野富太郎の標本の現物には迫力があった2023年09月19日

 都立大の牧野標本館で開催中の企画展『「日本の植物分類学の父」牧野富太郎が遺したもの』に行った。入場無料だ。NHK朝ドラの『らんまん』関連の企画で、思った以上に入場者がいた。約9割がオバサンで、私のようなオジサンは少ない。若い人は見かけなかった。

 牧野富太郎の膨大な標本を収蔵した牧野標本館そのものを公開するのかな、とも思ったが、当然そんなことはない。別館ギャラリーで標本を展示していた。

 標本の現物は、やはり迫力があり、美しい。驚いたことにオレンジやスイカまでも標本にしている。オレンジやスイカの実を5㎜ほどにスライスしたうえで押し花のようにして標本にしているのだ。黄や赤の色もきれいに残っている。どんな植物も標本で残そうという執念を感じた。

 なぜ都立大に牧野標本館があるのか。それもビデオで説明していた。

 牧野富太郎が亡くなったとき、自宅に約40万点の標本が残されていた。遺族は寄贈を申し出たが引き取り手がいない。牧野富太郎は東大で長年助手・講師を務めたのに、東大は引き取らない。国立博物館もダメ。整理が大変だからである。で、牧野富太郎が名誉都民第1号だった縁で東京都が引き取り、都立大の理学部に牧野標本館ができたそうだ。今回、初めて知った(私は都立大理学部OBなのだが…)。

『週刊朝日』休刊号で追憶にふける2023年06月01日

 『週刊朝日』の休刊号('23.6.9)が出た。101年続いた週刊誌の終焉である。発行部数150万部を超えたこともあったが、最近は8万部を切っていたそうだ(実売部数4万5千ともいう)。

 私は60年以上『週刊朝日』に接してきた。親が定期購読していたので、子供の頃から身近な週刊誌だった。社会人になり、実家を離れてしばらくは断続的に読んでいた。いつ頃からか自ら定期購読するようになった。以前は新聞販売店が配達してくれたが、いつしか郵送になり、現在まで続いている。

 いまや稀少な残存定期購読者のひとりだが、熱心な読者とは言えない。最近の『週刊朝日』はあまり面白くなく、読むページが少ない。購読を止めようと思いつつずるずると引き延ばしているうちに休刊になってしまった。

 いざ休刊となると、やはり感慨深い。記憶の底をさぐると過去のいろいろな記事が浮かんでくる。

 休刊号には『「ジャンプしてください!」と著名人に無茶振り』と題した過去の企画記事の紹介がある。60年前の1963年、私が中学2年の頃の記事だ。懐かしい。うさぎ年にちなんだ「ジャンプ'63」という企画で、多くの著名人がジャンプした写真を並べていた。休刊号に載っている岡潔のジャンプ写真もよく憶えている。本田宗一郎はバイクでジャンプしていて、ズルイと感じたのを思い出した。

 いまも『週刊朝日』の手柄だと思うのは、スプーン曲げのトリックをカメラで暴いた記事だ。超能力を否定する痛快な内容だった。調べてみると1974年5月、私が社会人2年目の頃の記事だ。

 連載小説もいくつか読んだ。記憶に残る最も古い連載小説は城山三郎の『イチかバチか』だ。単行本刊行が1962年だから連載は私が中学1年の頃だと思う。梶山季之の『夜の配当』 は中学2年の頃だ。山崎豊子の『仮装集団』は高校生の頃の連載、その後が松本清張の『黒の様式』だった。

 『週刊朝日』の連載小説にはもっと有名な作品が多くある(『飢餓海峡』『さぶ』『世に棲む日々』『官僚たちの夏』など)。だが、なぜか私が連載で読んだ記憶が鮮明なのは比較的マイナーな上記4作なのである。

 マイナーと言えば、やなせたかしの連載マンガ『ボウ氏』も懐かしい。これは、切り抜きをいまも保存している。「百万円懸賞連載マンガ」の入選作だからマイナーと言うのは不適切かもしれないが、その後のやなせ氏の活躍から見れば注目度は低いと思う。

「立ち読書」用の「書見台台」を自作2023年05月01日

 私は5~6年前から、立って本を読むよう心掛けている。もちろん座って読むこともあるが、読書時間の大半は「立ち読書」である。

 立ったまま読むと腰によさそうだ。だが、最大のメリットは眠くなりにくい点にある。座った読書だとウツラウツラすることも多い。立ち読書で寝落ちはない。

 立ち読書を始めたとき、書斎のデスクに読書用の台をしつらえた。デスク上方数十センチの位置に、あり合わせの材料で台を作り、そこに書見台を置いたのである。ところが先日、体重をかけ過ぎてその台が崩壊してしまった。

 そこで、本格的な「台」を自作することにした。書見台を乗せるための「書見台台」である。図面を引き、木材と金具を入手し、ほぼ1日で高さ37センチの台が完成した。われながら満足のいく出来栄えである。デスクの高さは70センチだから床から107センチの位置に書見台を置くことができる。私にはこの高さが最適だ。

 この台は締め金具でデスクに固定している。かなり頑丈だから崩壊の恐れはない……と思う。折りたたみ式の棚受け金具を使用し、座って読みたいときは台板をたためるようにした。

 立ち読書の問題点は足が疲れてくることだ。そんなとき、私は片方の足を曲げてデスクに乗せる。半跏思惟像が水平に曲げた足はそのままに立ち上がり、曲げた足を膝ではなくデスクで支える――そんな姿勢である。半跏思惟立像の姿で読書ができるのも、デスク上方に書見台台を設置するメリットである。

シンポジウム「前田耕作先生の業績を語る会」に行った2023年02月23日

 本日(2023年2月23日)、東京国立博物館平成館大講堂で開催された「シンポジウム:前田耕作先生の業績を語る会」に行った。2022年12月に89歳で亡くなったアジア文化史研究者・前田耕作先生を偲んで、多くの関係者たちが先生の業績を語り合うシンポジウムである。

 私が前田先生に初めて接したのは9年前、カルチャーセンターで「ギボン『ローマ帝国衰亡史』を読む」という講義を受講したときである。この講義は全10巻(ちくま学芸文庫)の8巻目に入った昨年春、先生の入院で中断した。その他にも「プルタルコス」「ローマの宗教」「ローマ皇帝群像」「ルネッサンスの異教秘儀」「弥勒」などいろいろな講義を受講した。2018年には先生が同行するシチリアの古跡を巡るツアーにも参加した。

 先生の講義を受講して、すぐに感じたのは「学者の凄さ」だった。どんなことに関しても造詣が深く、この先生は何でも知っているのではなかろうかと感じた。私は学問の世界に縁のない人間で、人文系の学者と接する機会がなかったので、学問の世界の底深さに驚いたのである。

 前田先生はローマ史の専門家ではない。若いときにアフガニスタンの学術調査に携わり、バーミアン遺跡などの文化財保護活動に尽力したことで知られている。本日のシンポジウムでもバーミアン絡みの話題が多かった。

 そんな話のなかで、先生より12歳下の後輩学者が「<夢想・歴史・神話/宗教>を結ぶ“前田学”の原点」と題した、先生の学問の基盤の紹介が興味深かった。現象学、言語学、図像学など私には馴染みのない難しそうな世界の話だったので、十分に理解できたわけではないが…。

 先生の専門が何であったか、私にはよくわからない。新聞などの表記は「アジア文化史」が多いが「ユーラシア思想史」や「東洋美術史」などもある。以前、酒席で先生にお尋ねすると「インド以外のアジア文化史」と返ってきた。アジアと言っても先生の著書『アジアの原像』はヘロドトスの話だからヨーロッパにも食い込んでいる。私が受講した講義の大半は古代ローマ史関連である。

 先生から「一人の研究者が読める史料には限界があるので、おのずと歴史研究者の専門範囲は限られる」と聞いたこともある。だが、先生は専門を狭く限定するのでなく、文化の交流という広がりのある歴史を探究していた。「文明の十字路、混成文化の発信地」と言われるアフガニスタンの学術調査からスタートしたことが、視野の広い学風につながったのだと思う。「日本の学界からは距離を置いていた。行動する学者だった」というシンポジウムでの指摘が印象深い。

長いトンネルを戻ると雪国であった2023年02月11日

越後湯沢の一本杉スキー場
 車で越後湯沢へ行き、2泊して昨日帰京した。

 関越道の関越トンネルを抜けると越後湯沢である。雪のシーズンに関越トンネルを抜けるたびに「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」が頭に浮かぶ。川端康成の名文は鉄道の清水トンネルだが、トンネルの長さは往時の清水トンネルより関越トンネルの方が少し長い。

 長いトンネルを抜けて別世界に出る――それは心ときめく体験である。だが、今年の往路は、たまたま越後湯沢の雪の少ない日にあたり、トンネルを出たときの反射的な「雪国だ!」という感動は薄かった。その代わり、帰路が「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という状態だった。面白い逆転である。

 こういう逆転体験は脳への刺激になりそうな気がする。何故か近頃、脳に刺激を与えることを、いろいろ急かされているような気がする。後期高齢者直前の私が、そんな記事や番組に無意識のうちに引き寄せられているだけかもしれないが……。

 いずれにしても「長いトンネル」は異世界へ赴く格好の道具である。過去や未来につながるタイムトンネルSFは多い。元の場所に戻るトンネルというのもあった。長いトンネルを抜けて、どんな光景に出会うと脳の刺激になるだろうかと、いろいろ考えてみたが陳腐なものしか思いつかない。トンネルを抜けると逆走していた、なんてのは怖い。

酒ぬきでも『加藤登紀子ほろ酔い50年祭』で酔った気分に…2022年12月26日

 有楽町マリオンのヒューリックホール東京で開催された『加藤登紀子ほろ酔い50年祭』に行った。加藤登紀子のライブは初体験である。

 観客に酒をふるまう「ほろ酔いコンサート」を加藤登紀子が定期的に開催しているという話は昔から聞いていた。彼女の曲は好きだが、コンサートに行こうと思ったことはなかった。だが、広告で「50年祭」という文字を見て、あらためて50年という歳月の長さをしみじみ考えた。私が彼女のLPを初めて買ったのは50年以上前の二十前後の頃だ。私より5歳上の加藤登紀子は今年79歳、いまのうちにライブを見ておかねば……という気になった。

 ヒューリックホール東京は昔の日劇だ。大劇場である。そんな大きな会場で「ふるまい酒」はなかろうと思って出かけた。客席シートのドリンクボックスにワンカップ大関が用意されていた。飲みながらコンサートを聞いてもいいのかなと思った。だが場内アナウンスが「おみやげとして、お持ち帰りください」とくり返していた。

 満席の観客は、予感した通り私と同様の高齢者が大半だった。かなり盛り上がっていた。客席のワンカップはおみやげだが、ステージ上の加藤登紀子はワンカップをグイグイと飲んでいた。歌声がかすれたりもするが、そんなことはものともせず何曲も歌いあげる。しゃがれ声にも味があると思えてくる。

 「時代遅れの酒場」や「時には昔の話を…」を聞いていると、酒を飲んでいなくても追憶の感傷にひたって酔った気分になってくる。アンコールでは「Never Give Up Tomorrow」「 Power to the People」を高らかに歌いあげた。前方の観客の多くはスタンディングで合唱、かすかに往年の新宿西口地下広場の光景に重なった。

 トークで満洲という地名が出てきて、ハッとした。そう言えば加藤登紀子は満洲のハルピン生まれだった。満洲を舞台にした小説『地図と拳』を読了したばかりだったので、相乗効果で歴史の彼方の満州が身近に浮かび上がってきた気分になった。

なはーとで『博覧会と〈人間の展示〉』の展示を観た2022年09月27日

 いま那覇市に来ている。昨年オープンした巨大複合施設「那覇文化芸術劇場なはーと」の小スタジオで開催中の『帝国の祭典:博覧会と〈人間の展示〉』(入場無料)を観た。

 「人間の展示」という言葉が刺激的で、どんな展示だろうと興味を抱いた。展示物は写真絵葉書が中心だった。19世紀中頃から20世紀初頭にかけての「帝国主義」の時代、主に欧州で開催された博覧会の様子を伝える写真である。絵葉書サイズだから目を近づけなければよく見えない。欄外に小さな文字が入っている写真もあり、読み取るのは難儀だ。拡大展示してくれればいいのに、と思った。

 だが、そんな望みは無理だと悟った。写真の量が膨大なのである。壁面に延々と並んだ写真に圧倒される。大半の写真が未開人(欧米から見た)の写真である。その多くは博覧会のために現地から連れて来られた(あるいは派遣、もしくは招待された)人々である。19世紀の欧米人に感情移入すれば、異文化の世界を眺めてワクワクしたのだろうと思う。

 博覧会の意義はいろいろあるだろうが、人々の好奇心を満たす異文化の見世物という要素が強かったと思う。幕末のパリ博覧会には幕府や薩摩藩も出展している。そのとき、渋沢栄一は「自分が観られている」と強く意識したそうだ。展示物の古い欧文書籍に侍の顔写真があり、誰だろうとよく見ると福沢諭吉だった。

 この展示には欧州の博覧会だけでなく「大日本帝国」で開催された博覧会の写真もある。そこには北海道の土人(アイヌ)や台湾の生蛮などの写真が並んでいた。

 かつての博覧会で行われていた、人々の優越意識に基づく「未開人の展示」は否定されて当然だろう。だが、人間の好奇心や探究心が人間に向かうのは避けられない。優越意識や差別意識とは無縁の「人間の展示」とはどんな形態になるのだろうか、などと考えてしまった。

当事者が語る『朝日新聞政治部』は告発と再生祈念の書2022年07月07日

『朝日新聞政治部』(鮫島浩/講談社)
 元・朝日新聞政治部記者が書いた次の本が、新聞広告で「驚きの反響 発売即3刷」と大きく宣伝されていた。

 『朝日新聞政治部』(鮫島浩/講談社)

 書店の店頭に平積みされているだろうと思い、中規模書店に入って平積みの本を捜したがなかなか見つからない。目立たない場所に積まれているのをやっと見つけて購入した。新聞社の政治部に関する暴露本への一般読者の関心ランキングは高くないのだと感じた。増刷を重ねているようだが…

 2014年に朝日新聞で発生した「池上コラム掲載拒否」「吉田調書問題」「慰安婦記事取り消し」を巡って、当事者の一人でもあった元・政治部記者が実情を語った本である。これら一連の「事件」に関する記述は本書の後半で、前半は著者が朝日新聞入社してから政治部デスクになるまでの体験記になっている。

 このような構成になっているのは、本書が単なる「事件」告発の書ではなく、著者が27年間の記者生活で体験した大新聞というメディアの体質と現状に警鐘を鳴らす書だからである。

 本書が指摘しているのは大新聞に棲息する人々の傲慢性、自己保身性、官僚制などである。「この会社は頭から順々に腐ってしまった」という表現もある。本書に著者の自己正当化がないとは言えないだろうが、著者の無念が伝わってくる。概ね共感できる内容だった。

 部数減少の趨勢にある大新聞の厳しさはわかるが、このまま消滅していいとは思わない。新たなジャーナリズムの姿を見出して再生してほしいと思う。

日本が開発した上陸用舟艇「大発」2022年02月09日

2009年1月、ラバウル
 先日読んだ 『暁の宇品』には陸軍船舶司令部の技術者たちが上陸用舟艇を開発する話が出てくる。従来、兵士や物資を輸送船から海岸に陸揚げするには手漕ぎの木舟を使っていた。これをエンジン付きの鉄舟に転換する開発である。

 そして大発(大発動艇)が完成し、1932年の上海事変で初めて実戦に使用される。これは「鉄製の自走舟艇を主力に使っての師団規模の上陸作戦としては世界初の成功例」として世界の軍事関係者の関心を集めた。米国海軍情報部は「日本は艦隊から海岸の攻撃要領を完全に開発した最初の大国」と認めていたそうだ。

 意外な話だった。上陸用舟艇と言えば映画「史上最大の作戦」のノルマンジー上陸の映像が頭に浮かび、やはり米国軍の装備はスゴイという印象を抱いていた。しかし、太平洋戦争開戦前の時点では日本の技術が米国を凌駕していたのだ。『暁の宇品』の著者は「このとき(1939年頃)が頂点であった」と述べている。

 大発とはどんな船だったのだろうと興味を抱き、ネット検索し、いくつかの写真を見た。そして、ハッとした。私は13年前に大発の残骸の実物を見たことがあったのだ。

 2009年1月、パプアニューギニアの ラバウルを訪問し、戦跡を巡った。戦車やゼロ戦の残骸が印象に残っている。あのとき、海岸の洞穴に残された鉄製の小さな船舶の残骸も見た。それが大発だったのだ。当時は、この船の用途も知らず「みすぼらしい船だなあ。こんな小さな船で戦っていたのか」と思った。あの船が一時は世界先端だったとは驚きである。13年前に撮影した写真を引っぱりだし、感慨を新たにした。