現代版『テンペスト』の『コテンペスト』な賑やかなコメディ2026年07月01日

 本多劇場で『コテンペスト』(シェイクスピア「テンペスト」より、脚本・演出:村上大樹、出演:小手伸也、鈴木保奈美、片桐仁、崎山つばさ、松田凌、他)を観た。

 チラシに〔「テンペスト」の設定を現代に置き換え大胆に翻案! 怪優・小手伸也が「そろそろシェイクスピアに挑戦したい」曲者たちと巻き起こす爆笑の嵐!〕とある。面白そうに思えてチケッチを入手した。

 『テンペスト(嵐)』は、昨年4月の「俳優座劇場さよなら公演」で観た。孤島を舞台にした妖精や魔術が出てくる芝居なので、どのように現代化するのだろうと思った。チラシには「小手伸也 舞台初主演!!」とある。小手(コテ)のテンペストだから「コテンペスト」のようだ。小手伸也は私にとって未知の役者だと思っていたが、2年前に観た別役実の不条理劇『カラカラ天気と五人の紳士』に出ていた。観劇後にパンフレットを読んで気づいた。テレビ出演も多いらしい。

 舞台は、地方都市の百貨店「天平ストア」の本館から遠く離れた「別館」である。客がほとんど来ない別館は孤島と呼ばれ、別館への人事異動は島流しと言われている。客の来ない別館には下着売場と仏具売場しかない。シェイクスピアの孤島を地方百貨店の別館というナンセンス・コメディ的シュールな場所に設定にしたのに感心した。面白い芝居が湧き出てきそうな設定だ。

 この芝居、確かに『テンペスト』の面影はあるもののエネルギッシュな現代的コメディーだった。原作の主人公は孤島に流された元ミラノ大公プロスペローだが、『コテンペスト』の主役は別館に流された黒須太郎(プロスペロー)にこき使われる妖精オジサンである。小手伸也が妖精オジサンこと内木弁慶を演じる。

 この芝居で初めて「コテる」という言葉を知った。コテコテの芝居がかった演技でコケることを表す演劇用語(?)で、小手伸也の演技に由来するそうだ。『コテンペスト』は、役者全員がコテることを恐れない賑やかなコメディである。

 と同時に、演劇への情熱を表した芝居でもある。主人公・内木弁慶は芝居を辞めた元劇団員という設定で、妖精オジサンになることで演劇に復帰する。天平ストアには役者志望のアルバイトもいる。このアルバイト、おかしな事情から社長への道が拓けるが、それを捨てて役者への道につき進む。

 シェイクスピアへのリスペクトと演劇愛を秘めたメタ・コメディだと思った。

2026年上半期に読んだ本のマイ・ベスト32026年07月03日

 2026年前半に読んだ本のマイ・ベスト3を選んだ。わが「読了メモEXCEL」を確認すると、この半年に57冊読んでいる。すでに記憶がオボロの本も少なくない。ベスト3の選出にはかなり迷った。別の日に選べば別のリストになるもしれない。

『歴史小説のウソ』(佐藤賢一)
『ユダヤ人の歴史』(鶴見太郎)
『台湾漫遊鉄道のふたり』(楊双子/三浦裕子訳)

期待して読んだ『夏の砦』にやや白けたが…2026年07月05日

『夏の砦』(辻邦生/文春文庫/1996.11
 辻邦生(1925-1999)の『夏の砦』を読んだ。30年前(1996年)の文春文庫を古書で入手して読んだのだ。オビには「辻文学初期最高傑作」とある。

 『夏の砦』(辻邦生/文春文庫/1996.11)

 この小説の刊行は60年前の1966年、私が高校生の時だから、ずいぶん昔だ。あの頃からズーッと長い間、辻邦生は私にとって関心外の作家だった。

 だが、10年前に60歳を過ぎて『背教者ユリアヌス』を読み、その面白さに魅せられた。分厚い単行本であの長編を読んだ私は、読了後に書店の棚の文庫本の解説を立ち読みした。解説の筆者・篠田一士が『背教者ユリアヌス』より『夏の砦』を評価すると述べていた。それが気がかりで、いつの日か『夏の砦』を読まねばと思いつつ、うかうかと10年の月日が流れ、やっと『夏の砦』を読んだのである。

 『背教者ユリアヌス』を面白いと思った私には『夏の砦』は期待外れだった。私の想定したロマンではなく、芸術とは何かを巡るやや自閉的とも思える濃密で細密な描写が延延と積み重なっていく小説だった。『背教者ユリアヌス』が通俗歴史小説ならば、『夏の砦』は内省的な文学作品かもしれないが、私の感性とは波長が合わない。

 この小説は二人の人物の一人称記述で構成されている。一人目の「私」は主人公の支倉冬子である。没落した旧家の娘で、北欧の都市でタピスリ(ゴブラン織)を研究していて消息不明になる。二人目の私は北欧で支倉冬子と知り合いになったエンジニア(おそらく日本人男性)で、彼女が消息不明になった後、彼女が残した日記や手紙を整理しながら、その内面を追究している。二人目の私の語りは、冬子が消息不明になってから三年後という設定だ。

 二人の人物の一人称記述の大半は記憶を遡っていく内面的な追憶譚であり、小説全体にドラマチックな展開はない。静謐な時空を紡ぎ出すタピスリのような小説だ。私は、小説が進行していくに従って、この二人の感性について行けなくなり、どちらにも感情移入できなかった。

 冬子の幼少時代の追憶を緻密に綴った序章は読みごたえがあり魅せられる。だが、その後の展開が、序章のバリエーションのくり返しに感じられ、次第に興ざめしてくる。私は芸術至上主義を否定しないが、主人公たちの社会や実生活への視角に浅薄さを感じてしまう。感性を追究する描写は細密かつ濃密で魅力的だと思うが、にもかかわらず何か大きなズレを感じてしまうのだ。

 面白くなければ読後感を書かなくていいのだが、面白くなさの淵源が私自身にも判然としないのでメモを残したくなった。いつの日か、この小説を再読しそうな予感がないわけではない。

旅行準備で『シルクロードの大旅行者たち』を読んだ2026年07月07日

『シルクロードの大旅行者たち』(加藤九祚/岩波ジュニア新書/1999.3)
 カザフ・キルギス旅行の出発直前に次の新書を読んだ。

 『シルクロードの大旅行者たち』(加藤九祚/岩波ジュニア新書/1999.3)

 7人の旅行家を紹介した岩波ジュニア新書である。その7人のなかにプルジェワリスキーがいると知って、この新書を古書で入手した。

 今回の旅行の訪問先のひとつに、キリギスのイシククル湖の東南岸にあるプルジェワリスキーの墓と記念博物館がある。このロシア人探検家の名に聞き覚えはあるが、よく知らない人物である。手頃な解説書がないかとネット検索していて本書を見つけたのだ。

 著者が加藤九祚(1922-2016)なので躊躇なく購入した。94歳でウズベキスタンで客死した興味深い研究者である。『シベリア記』など何冊かの著書を読んだが、もう少し追究したいと思っている人物のひとりだ。

 この新書は次の7人の簡潔な伝記集である。

 張騫(BC175?~BC114)
 玄奘(602~664)
 ルブリュック(1215-1220頃~1270頃)
 マルコ・ポーロ(1254頃~1324年)
 イブン・バットゥータ(1304~1368/69)
 プルジェワリスキー(1839~1888)
 オーレル・スタイン(1862~1943)

 件のプルジェワリスキー以外の6人は私には馴染みのある人物だ。ルブリュックはモンゴル史や十字軍史でよく目にする。彼とカルピニの旅行記を収めた『中央アジア・蒙古旅行記』(講談社学術文庫)は入手済である――未読棚に積んだままだが。他の5人(プルジェワリスキー以外)は、概説書や著作を読んだことがある。

 この7人の旅行者の選出は概ね妥当だと思う。モロッコ出身のイブン・バットゥータが中国まで足を伸ばしたかは不明だが、中央アジアへは行っているので「シルクロードの旅行者」に含めていいだろう。

 シルクロードの命名者リヒトホーフェンの弟子のヘディンが入っていないのが気がかりだが、同時代のスタインの方を選んだのだろう。ヘディンはプルジェワリスキーに憧れて探検家になった。ブルジェワリスキーの章で「ヘディンの中央アジア探検は、プルジェワリスキーのそれの延長であった」と言及していて、プルジェワリスキーで代替した形になっている。

 本書の表紙写真はプルジェワリスキーの記念碑である。私は今回の旅先でこの記念碑を実見するはずだ。楽しみである。プルジェワリスキーの功績は、19世紀から20世紀にかけての中央アジア探検の端緒を開いたことにあるようだ。「グレートゲーム」の号砲を鳴らした人とも言える。

 最終章のスタインを読んでいて、著者・加藤九祚とスタインが重なって見えてきた。スタインは、かねてからの願望だったアフガニスタンの考古学的調査が80歳になってかない、現地におもむく。だが、到着から数日後にカーブルで病死する。生前に「死ぬなら旅先で死にたい」と述べていたそうだ。加藤九祚はウズベキスタンで発掘調査中に倒れ、現地の病院で死去した。享年94だった。

 スタインはハンガリー出身の英国の研究者だった。加藤九祚は朝鮮出身である。そんな出自も二人は重なっている。

カザフ&キルギス旅行記(1) --- アク・ベシム遺跡など2026年07月17日

 カザフ&キルギスのツアーから帰ってきた。このツアーに参加した主な理由はアク・べシム遺跡の見学だった。

 2014年、世界遺産に登録された「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」には、キルギスの三つの遺跡(アク・ベシム、クラスナヤ・レーチカ、ブラナ)が入っている。今回のツアーでは、この三つの遺跡すべてを巡った。

 事前に『アク・ベシムを掘る』なども読み、遺跡の写真も見ていたので、派手な遺物などを期待していたわけではないが、思った以上に殺風景な場所だった。

 アク・ベシム、クラスナヤ・レーチカ、ブラナの三つの遺跡は、それぞれ車で数十分の距離にあり、三点セットといった趣だが、時代や内容は多少異なる。アク・ベシムは6~12世紀の都市遺跡・城砦遺跡、クラスナーヤレーチカは8世紀後半および13~14世紀の都市遺跡、ブラナは8世紀末~9世紀および13~14世紀の都市遺跡である。

 アク・ベシムは、ソグド人の都市と唐の砕葉鎮城が隣接した遺跡である。7世紀前半に玄奘が往路で立ち寄った西突厥の拠点もここにあったらしい。かなりの規模の遺跡だろうと推測していたが、見学できたのはネストリウス派の教会跡と城砦跡の一部だけだった。さほど大きな遺跡ではない。

 先々月に新聞報道された大雲寺跡を見学できるかと期待していたが、それを見ることはできなかった。ガイドの説明によれば、帝京大の山内教授らによる発掘現場は、発掘後に埋め戻しているそうだ。

 そう言えば『アク・ベシムを掘る』には、発掘シーズンは4月中旬から5月下旬とあった。夏や冬の発掘作業は難しいそうだ。私が訪れた7月は発掘シーズンではないので、埋め戻しているのだ。ここはまさに発掘進行中の現場であり、遺跡の全貌を見学者に披露する前段階の場所なのだと認識した。

 アク・ベシムもクラスナヤ・レーチカも、野原の中に小さな丘があるだけの似たような雰囲気である。世界遺産を示す標識はあるが、囲いなどはなく、管理人もいない。バスを降りた場所から遺跡までの道もない。草原に散らばっている家畜の糞や水溜まりを避けながら遺跡まで歩く。われわれのツアー以外の観光客もなく、青空トイレOKの開放的な場所である。

 ブラナ遺跡はアク・ベシムやクラスナヤ・レーチカとは少し様子が違う。ブラナの塔というミナレットの残骸があるせいだと思うが、多少の観光客が来ている。各地で出土した石人を陳列した公園風の場所もある。小さな土産物屋もポツンとある。少しだけ整備された遺跡である。やはり、見栄えのする遺物があった方が観光客を呼び込みやすいようだ。

 遺跡見学の醍醐味は、現場に立って周辺を見渡しながら往時に思いを馳せ、空間のなかに時間を感じることにある――あらためて、そんな思いを確認させられる三つの遺跡だった。

カザフ&キルギス旅行記(1) (2) (3) (4)

カザフ&キルギス旅行記(2) --- イシク・クル湖2026年07月17日

 今回のカザフ&キルギス旅行は、玄奘の行った道を辿るという意味では、昨年の西域旅行の続編でもあった。昨年の旅行では玄奘が通った亀茲を経て、スバシ故城(世界遺産。玄奘の足跡を示す標識がある)を訪れた。

 玄奘は亀茲から西進した後に天山山脈を南から北へ越えてイシク・クル湖へ至る。昨年の旅行では亀茲あたりから天山山脈が見えるかと期待していた。だが、ガイドから「このツアーでは天山山脈は見えません」と言われた。

 今回のツアーではイシク・クル湖が目玉のひとつだった。琵琶湖の9倍の広さの透明度の高い湖である。「大唐西域記」では大清池と表記している。そのイシク・クル湖からは天山山脈をはっきりと望むことができた。感動した。巨大な氷雪の山脈である。

 テンシャンという響きには独特の魅力を感じる。高校時代に友人から示された吉増剛三の詩(天山山脈をを超越的に謳っていた)の記憶のせいでもある。その詩は手元になく、強烈な印象だけが残っている。

 玄奘は、イシク・クル湖畔のカラクルからアク・ベシム(砕葉、スイアブ)、タラス、シムケントを経てタシケントに至るコースで旅している。これは今回のツアーのコースに重なっている(ツアーの最後はウズベキスタンに入国してタシケントの空港から帰国)。

 先月読んだ『シルクロード 歴史地図の歩き方』には、イシク・クル湖の水位は上昇し続けていて、玄奘が辿った湖畔の道はすでに湖に沈んでいると書いていた。ガイドの話では、現在のイシク・クル湖は流れ込む水量と蒸発する水量がバランスしていて水位は変わらないそうだ。玄奘が湖畔の北側を通ったか南側を通ったかも不明なので、玄奘の足跡を正確に辿るのは不可能だ。

 今も昔もさほど変わっていないであろう山や湖などを眺めながら、このあたりを玄奘は旅したのだろうと想像するしかない。

 イシク・クル湖は夏に観光客が来る保養地になっているとは聞いていた。と言っても僻地の高山の湖だからさほどの観光地ではないだろうと思った。それは見くびりだった。宿泊したチョルポン・アタという湖畔の町はソ連時代から要人が保養に来ていた場所で、いまは一大観光地である。ビーチには音楽が流れ、周辺には瀟洒なコテージやホテルが林立している。近くに空港もある。

 約1400年前に玄奘が辿った頃には、きっと何もない場所だったのだと思う。リゾート客がひしめく湖畔で玄奘の旅に思いを馳せるのはなかなかにシュールな体験で、これもまた面白いと思った。

カザフ&キルギス旅行記(1) (2) (3) (4)

カザフ&キルギス旅行記(3) --- タラス河畔の古戦場2026年07月18日

 私にとって今回のツアーの目当ての一つがタラス河の古戦場の見学だった。唐がアッバース朝に敗れた751年のタラス河畔の戦いについては、高校世界史の簡略な知識しかなく、その場所も明確には認識していなかった。ツアーでタラス河の古戦場を見学すると知り、私自身の歴史地理の認識を深化できると思った。と言っても、古戦場は遺跡ではなく、かつて戦争があった場所に過ぎない。さほどの所ではなくても、現場に立つことが重要だ。

 旅行準備段階で気分を盛り上げるため、この戦いを扱った歴史小説『天涯の戦旗』を読むなど多少の知識は仕入れた。

 タラス河畔の戦いの場所については、現在のキルギスとしている資料が多い。だが、今回のツアーではキルギスからカザフスタンに移動した後、古戦場を見学することになっている。地図で調べるとカザフスタンにタラズという町があり、その西方のキルギスにタラスという町がある。似た地名の町が両国にあるのだ。

 現地のキルギス人の日本語ガイドはキルギスのタラス出身だった。彼の話によれば、カザフ語のタラズとキルギス語のタラスは同じで、「戦い」という意味だそうだ。751年のタラス河畔の戦い以前から、かの河はタラス河(戦いの河)と呼ばれていた。

 タラス河は現在もキルギスからカザフスタンに向かって流れている。戦いがあった場所は現在の国境を含むかなり広い範囲だったらしい。アッバース朝は20万人、唐は10万人と言われる規模の戦いだった。古戦場はキルギスとカザフスタンにまたがっていたようだ。

 現地に赴いてみると、思った通り何もない場所だった。丘の上から眼下の川を見下ろすだけである。「河」より「川」の表記がふさわしい。川幅は数十メートル程度で、水浴を楽しんでいる人も見える。

 川を眺望する丘はイスラームの廟が建つ場所で、聖人の大きな銅像も立っている。バスが見学場所に近づき、その銅像が見えたとき、タラス河畔の戦いに勝利したアッバース朝の将軍の銅像が立っているのかと勘違いしたが、まったく違っていた。

 そもそも、現地住民の大半はこの地でタラス河畔の戦いがあったことなど知らないそうだ。川を見下ろす場所には、古戦場を示す標識などは何もない。現地の人は、われわれのような観光客を見て、なぜ外国人がイスラームの廟をお参りに来ているのだろうといぶかしんでいるらしい。この場所に来る観光客のほとんどは日本人だという。

 丘から見下ろすタラス川は751年当時に比べると川幅がかなり狭くなっている。当時の川幅は500メートルだったという。「川」ではなく「河」だ。

 往時の光景は心眼でしか見えない。現地の空気を吸い、現在の光景を眺めながら、頭の中で千数百年昔の様子を幻視する――そんなタラス河畔古戦場の見学だった。

カザフ&キルギス旅行記(1) (2) (3) (4)

カザフ&キルギス旅行記(4) --- カザフスタンとキルギスの国境2026年07月18日

 カザフスタンとキルギスは南北に国境を接し、経度は似ているが時差が1時間ある。カザフスタンの国土は日本の約7倍で人口は約2100万人。キルギスの国土は日本の約半分で人口は約730万人。産油国であるカザフスタンは発展途上国を脱っしつつあるが、キルギスは発展途上の農業国である。

 かなり違って見える両国だが、歴史や言語が似た兄弟国とも言われる。中央アジア五カ国のなかで、タジキスタンがイラン系、他のウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、キルギスがトルコ系だと思っていた。だが、カザフスタンとキルギスはモンゴル系とも言われていて、ウズベキスタンやトルクメニスタンとは少し違っているようだ。キルギスには日本人と見まがう容貌の人も多い。

 兄弟国と言われるカザフスタンとキルギス、今回のツアーでは、その国境を陸路で2回越えた。「カザフスタン→キルギス」と「キルギス→カザフスタン」の2回である。出国・入国の手続きに約1時間を要し、スーツケースを引きずりながら炎天下を数百メートル歩かねばならない。兄弟国なら、国境越えをもっと簡略にできないかと思うが、そうもいかないらしい。

 あらためて国境の不思議を感じた。かつてはソ連邦だった中央アジアの国はソ連崩壊による独立で国境ができた。私が入手したキルギスの地図の西南に二か所の飛び地がある。その飛び地はタジキスタン領のようだ。ガイドの話によれば、現在は国境を調整して飛び地を解消しているそうだ。

 そもそも、住民の民族(部族?)と国境が必ずしも対応していないので、面倒な紛争を胚胎しているのだ。

 キルギスとカザフスタンの国境のかなりの部分は東西に流れるチュー川である。この川の一部がU字に蛇行していて、道路はそこを直進している。そのため、キルギスの道路の五百メートルがカザフスタン領を通っている。検問などはなく、普通に通過できる。しかし、この五百メートルの間で交通事故が起こるとカザフスタンの警察が処理するそうだ。

 川が国境でも、放牧している牛は頓着しない。川を越えて対岸の草を食べることもある。牛の飼い主は勝手に川を渡って牛を連れ戻すことはできない。国境監視塔から銃撃される恐れがある。パスポートを持って遠回りして国境の検問を越えて牛を連れ戻すしかないそうだ。

 草原のなか貫く国境にも所々に監視塔が建っている。兄弟国と言いつつ、国境監視はそれなりにシビアなようだ。いつの日かEU諸国のように自由に行き来できるようになるかもしれないが、20世紀になって生じた国境の不便を感じる。

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