旅行準備で『シルクロードの大旅行者たち』を読んだ ― 2026年07月07日
カザフ・キルギス旅行の出発直前に次の新書を読んだ。
『シルクロードの大旅行者たち』(加藤九祚/岩波ジュニア新書/1999.3)
7人の旅行家を紹介した岩波ジュニア新書である。その7人のなかにプルジェワリスキーがいると知って、この新書を古書で入手した。
今回の旅行の訪問先のひとつに、キリギスのイシククル湖の東南岸にあるプルジェワリスキーの墓と記念博物館がある。このロシア人探検家の名に聞き覚えはあるが、よく知らない人物である。手頃な解説書がないかとネット検索していて本書を見つけたのだ。
著者が加藤九祚(1922-2016)なので躊躇なく購入した。94歳でウズベキスタンで客死した興味深い研究者である。『シベリア記』など何冊かの著書を読んだが、もう少し追究したいと思っている人物のひとりだ。
この新書は次の7人の簡潔な伝記集である。
張騫(BC175?~BC114)
玄奘(602~664)
ルブリュック(1215-1220頃~1270頃)
マルコ・ポーロ(1254頃~1324年)
イブン・バットゥータ(1304~1368/69)
プルジェワリスキー(1839~1888)
オーレル・スタイン(1862~1943)
件のプルジェワリスキー以外の6人は私には馴染みのある人物だ。ルブリュックはモンゴル史や十字軍史でよく目にする。彼とカルピニの旅行記を収めた『中央アジア・蒙古旅行記』(講談社学術文庫)は入手済である――未読棚に積んだままだが。他の5人(プルジェワリスキー以外)は、概説書や著作を読んだことがある。
この7人の旅行者の選出は概ね妥当だと思う。モロッコ出身のイブン・バットゥータが中国まで足を伸ばしたかは不明だが、中央アジアへは行っているので「シルクロードの旅行者」に含めていいだろう。
シルクロードの命名者リヒトホーフェンの弟子のヘディンが入っていないのが気がかりだが、同時代のスタインの方を選んだのだろう。ヘディンはプルジェワリスキーに憧れて探検家になった。ブルジェワリスキーの章で「ヘディンの中央アジア探検は、プルジェワリスキーのそれの延長であった」と言及していて、プルジェワリスキーで代替した形になっている。
本書の表紙写真はブ プルジェワリスキーの記念碑である。私は今回の旅先でこの記念碑を実見するはずだ。楽しみである。プルジェワリスキーの功績は、19世紀から20世紀にかけての中央アジア探検の端緒を開いたことにあるようだ。「グレートゲーム」の号砲を鳴らした人とも言える。
最終章のスタインを読んでいて、著者・加藤九祚とスタインが重なって見えてきた。スタインは、かねてからの願望だったアフガニスタンの考古学的調査が80歳になってかない、現地におもむく。だが、到着から数日後にカーブルで病死する。生前に「死ぬなら旅先で死にたい」と述べていたそうだ。加藤九祚はウズベキスタンで発掘調査中に倒れ、現地の病院で死去した。享年94だった。
スタインはハンガリー出身の英国の研究者だった。加藤九祚は朝鮮出身である。そんな出自も二人は重なっている。
『シルクロードの大旅行者たち』(加藤九祚/岩波ジュニア新書/1999.3)
7人の旅行家を紹介した岩波ジュニア新書である。その7人のなかにプルジェワリスキーがいると知って、この新書を古書で入手した。
今回の旅行の訪問先のひとつに、キリギスのイシククル湖の東南岸にあるプルジェワリスキーの墓と記念博物館がある。このロシア人探検家の名に聞き覚えはあるが、よく知らない人物である。手頃な解説書がないかとネット検索していて本書を見つけたのだ。
著者が加藤九祚(1922-2016)なので躊躇なく購入した。94歳でウズベキスタンで客死した興味深い研究者である。『シベリア記』など何冊かの著書を読んだが、もう少し追究したいと思っている人物のひとりだ。
この新書は次の7人の簡潔な伝記集である。
張騫(BC175?~BC114)
玄奘(602~664)
ルブリュック(1215-1220頃~1270頃)
マルコ・ポーロ(1254頃~1324年)
イブン・バットゥータ(1304~1368/69)
プルジェワリスキー(1839~1888)
オーレル・スタイン(1862~1943)
件のプルジェワリスキー以外の6人は私には馴染みのある人物だ。ルブリュックはモンゴル史や十字軍史でよく目にする。彼とカルピニの旅行記を収めた『中央アジア・蒙古旅行記』(講談社学術文庫)は入手済である――未読棚に積んだままだが。他の5人(プルジェワリスキー以外)は、概説書や著作を読んだことがある。
この7人の旅行者の選出は概ね妥当だと思う。モロッコ出身のイブン・バットゥータが中国まで足を伸ばしたかは不明だが、中央アジアへは行っているので「シルクロードの旅行者」に含めていいだろう。
シルクロードの命名者リヒトホーフェンの弟子のヘディンが入っていないのが気がかりだが、同時代のスタインの方を選んだのだろう。ヘディンはプルジェワリスキーに憧れて探検家になった。ブルジェワリスキーの章で「ヘディンの中央アジア探検は、プルジェワリスキーのそれの延長であった」と言及していて、プルジェワリスキーで代替した形になっている。
本書の表紙写真はブ プルジェワリスキーの記念碑である。私は今回の旅先でこの記念碑を実見するはずだ。楽しみである。プルジェワリスキーの功績は、19世紀から20世紀にかけての中央アジア探検の端緒を開いたことにあるようだ。「グレートゲーム」の号砲を鳴らした人とも言える。
最終章のスタインを読んでいて、著者・加藤九祚とスタインが重なって見えてきた。スタインは、かねてからの願望だったアフガニスタンの考古学的調査が80歳になってかない、現地におもむく。だが、到着から数日後にカーブルで病死する。生前に「死ぬなら旅先で死にたい」と述べていたそうだ。加藤九祚はウズベキスタンで発掘調査中に倒れ、現地の病院で死去した。享年94だった。
スタインはハンガリー出身の英国の研究者だった。加藤九祚は朝鮮出身である。そんな出自も二人は重なっている。
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