追悼・つげ義春 ― 2026年03月28日
つげ義春の訃報がニュースで流れた。3月3日に入院先の病院で亡くなり、親族のみの葬儀を終えたそうだ。
調布市文化会館の「つげ義春のいるところ展」(1月29日~3月22日)の開催中に逝ったことになる。つげ義春は調布市在住だった。ニュースには昨年から体調を崩していたとあるから、この展覧会に出向くことはなかったと思う。体調にかかわらず来なかったかもしれないが。
私はこの無料の展覧会に3回行った。会場まで電車を使って30分弱、徒歩で40分弱、同じ市内だから行きやすいのである。
1回目に観たときの感想をブログに書いた。2回目に行ったのは、調布を舞台にしたマンガのシーンを再確認するためだった。
3回目はTシャツを買うためである。1回目に行ったとき、『ねじ式』のTシャツに食指が動いたが売り切れだった。2回目に行ったとき、陳列しているこのTシャツに「土日のみ販売」の札が下がっていた。私が行ったのは平日である。他のTシャツやグッズは普通に販売しているのに、何故かこのTシャツのみ販売日を限定しているのだ。で、数日後の日曜日に出向き、無事ゲットできた。
つげ義春の訃報に接し、頑張って入手したTシャツをあらためて広げてみた。まだ寒いので着ていないが、今年の夏には何度か着用すると思う。その頃までに全集をゆっくりと読み返したい。
調布市文化会館の「つげ義春のいるところ展」(1月29日~3月22日)の開催中に逝ったことになる。つげ義春は調布市在住だった。ニュースには昨年から体調を崩していたとあるから、この展覧会に出向くことはなかったと思う。体調にかかわらず来なかったかもしれないが。
私はこの無料の展覧会に3回行った。会場まで電車を使って30分弱、徒歩で40分弱、同じ市内だから行きやすいのである。
1回目に観たときの感想をブログに書いた。2回目に行ったのは、調布を舞台にしたマンガのシーンを再確認するためだった。
3回目はTシャツを買うためである。1回目に行ったとき、『ねじ式』のTシャツに食指が動いたが売り切れだった。2回目に行ったとき、陳列しているこのTシャツに「土日のみ販売」の札が下がっていた。私が行ったのは平日である。他のTシャツやグッズは普通に販売しているのに、何故かこのTシャツのみ販売日を限定しているのだ。で、数日後の日曜日に出向き、無事ゲットできた。
つげ義春の訃報に接し、頑張って入手したTシャツをあらためて広げてみた。まだ寒いので着ていないが、今年の夏には何度か着用すると思う。その頃までに全集をゆっくりと読み返したい。
「つげ義春のいるところ展」を観て散歩したくなった ― 2026年02月22日
調布市文化会館たづくり展示室で開催中の「つげ義春のいるところ展」に行った。入場無料だ。つげ義春は調布市に縁の深いマンガである。調布市在住の水木しげるのアシスタントになるのを機に調布市に転居した(1966年)。水木プロで働いたのは短期間だったが、88歳の現在も調布市在住だそうだ。
私が初めてつげ義春作品に接したのは学生時代の1968年だった。書店の店頭で『ガロ 増刊号 つげ義春特集』をパラパラとめくって惹きつけられ、すぐに購入した。この増刊号の巻頭に載っていたのが『ねじ式』である。それ以降、彼の主要作品は読んできた。
あらためてつげ義春ワールドにハマったのは6年前、2020年夏である。ふとしたきっかけで読んだ『貧困旅行記』に始まり、マンガや日記やエッセイを読みあさり、DVDを観て、関連本も読んだ。あの時期に、手元の本との重複が多いのを承知で、ちくま文庫の「つげ義春コレクション(全9冊の全集)」も入手してしまった。
「つげ義春のいるところ展」は、マンガの原画、古い貸本マンガ、昔の写真、識者や関係者のコメントパネルなどを展示している。つげ義春の現在(だと思う)を撮影したビデオも流している。
『海辺の叙景』全ページの複製原画に魅了された。「複製」とあるが原画そのものに見えた。あの有名なラストの見開き「いい感じよ」は迫力があり、やや不気味でもある。
『李さん一家』の李さんのフィギュアなども展示している。物販コーナーもあり、『ねじ式』のキーホルダーを買った。『ねじ式』のTシャツにも食指が動いたがS以外は売り切れだった。
今回の展示で興味深かったのは、調布風景である。つげ義春のマンガには調布市内と思しきシーンがいくつもある。それらを拾い出したコマと、実景写真をパネルで並べて展示している。わが家の近所と思しき情景もある。
帰宅後、『近所の景色』『散歩の日々』などを読み返し、調布風景らしきコマを確認した。いずれ、もう一度「つげ義春のいるところ展」に足を運び、それぞれのシーンをよく確認したうえで、マンガ本を携えた市内散歩を試みたくなった。
私が初めてつげ義春作品に接したのは学生時代の1968年だった。書店の店頭で『ガロ 増刊号 つげ義春特集』をパラパラとめくって惹きつけられ、すぐに購入した。この増刊号の巻頭に載っていたのが『ねじ式』である。それ以降、彼の主要作品は読んできた。
あらためてつげ義春ワールドにハマったのは6年前、2020年夏である。ふとしたきっかけで読んだ『貧困旅行記』に始まり、マンガや日記やエッセイを読みあさり、DVDを観て、関連本も読んだ。あの時期に、手元の本との重複が多いのを承知で、ちくま文庫の「つげ義春コレクション(全9冊の全集)」も入手してしまった。
「つげ義春のいるところ展」は、マンガの原画、古い貸本マンガ、昔の写真、識者や関係者のコメントパネルなどを展示している。つげ義春の現在(だと思う)を撮影したビデオも流している。
『海辺の叙景』全ページの複製原画に魅了された。「複製」とあるが原画そのものに見えた。あの有名なラストの見開き「いい感じよ」は迫力があり、やや不気味でもある。
『李さん一家』の李さんのフィギュアなども展示している。物販コーナーもあり、『ねじ式』のキーホルダーを買った。『ねじ式』のTシャツにも食指が動いたがS以外は売り切れだった。
今回の展示で興味深かったのは、調布風景である。つげ義春のマンガには調布市内と思しきシーンがいくつもある。それらを拾い出したコマと、実景写真をパネルで並べて展示している。わが家の近所と思しき情景もある。
帰宅後、『近所の景色』『散歩の日々』などを読み返し、調布風景らしきコマを確認した。いずれ、もう一度「つげ義春のいるところ展」に足を運び、それぞれのシーンをよく確認したうえで、マンガ本を携えた市内散歩を試みたくなった。
『昭和の選択 “引き揚げの神様”と呼ばれた男』の再放送がある ― 2025年12月13日
先日、NHKの『英雄たちの選択――昭和の選択 “引き揚げの神様”と呼ばれた男』という番組を観た。松村義士男というあまり知られていない人物の紹介だ。私は昨年読んだ『奪還:日本人難民6万人を救った男』(城内康伸/新潮社)で初めてこの人物を知った。ウィキペディアにも、まだ「松村義士男」の項目はない。
『昭和の選択 “引き揚げの神様”と呼ばれた男』は、NHK BS 12月17日(水)午後5:00から再放送されるようだ。この番組で、より多くの人々にこの人物を知ってほしいと思う。
松村義士男は一個人である。労働運動に関わって2回検挙されている。終戦直前、朝鮮の建設会社で働いていて召集され、ソ連の捕虜になる。だが、機敏に脱走する。その後は、現地で邦人引き揚げというプロジェクトに取り組み、抜群の胆力と交渉力を発揮し「引き揚げの神様」と呼ばれるようになる。この男の尽力で6万人が帰国できた。
問題は帰国後である。多額の負債をかかえ、その返済に苦労するのだ。引き揚げ作業には列車や船を調達しなければならない。詳細は不明だが、おそらくは引き揚げ対象の現地邦人の資産家から個人で借り入れたのだろう。借りた金を返すのは当然としても、あまりに理不尽な話だ。本来は国や役所が担うべきプロジェクトを、それが期待できないが故に一個人が担った――その負債である。
松村義士男の後半生には空白が多く、詳細は不明だそうだ。戦後22年の1967年に55歳で病死している。番組の司会者・磯田道史氏は、松村義士男に独自の美学があったのかもしれないと述べている。この番組を機に、何等かの情報で彼の後半生の空白が多少でも埋まればとも思う。
『昭和の選択 “引き揚げの神様”と呼ばれた男』は、NHK BS 12月17日(水)午後5:00から再放送されるようだ。この番組で、より多くの人々にこの人物を知ってほしいと思う。
松村義士男は一個人である。労働運動に関わって2回検挙されている。終戦直前、朝鮮の建設会社で働いていて召集され、ソ連の捕虜になる。だが、機敏に脱走する。その後は、現地で邦人引き揚げというプロジェクトに取り組み、抜群の胆力と交渉力を発揮し「引き揚げの神様」と呼ばれるようになる。この男の尽力で6万人が帰国できた。
問題は帰国後である。多額の負債をかかえ、その返済に苦労するのだ。引き揚げ作業には列車や船を調達しなければならない。詳細は不明だが、おそらくは引き揚げ対象の現地邦人の資産家から個人で借り入れたのだろう。借りた金を返すのは当然としても、あまりに理不尽な話だ。本来は国や役所が担うべきプロジェクトを、それが期待できないが故に一個人が担った――その負債である。
松村義士男の後半生には空白が多く、詳細は不明だそうだ。戦後22年の1967年に55歳で病死している。番組の司会者・磯田道史氏は、松村義士男に独自の美学があったのかもしれないと述べている。この番組を機に、何等かの情報で彼の後半生の空白が多少でも埋まればとも思う。
現役老大家の『筒井康隆自伝』を一気読み ― 2025年11月18日
91歳の筒井康隆氏は現在も文芸誌に掌編を発表し続けている現役作家である。その老大家が『文學界』に2024年から2025年にかけて連載した自伝が単行本になった。
『筒井康隆自伝』(筒井康隆/文藝春秋)
雑誌連載時にパラパラ読んでいた自伝を、あらためて単行本で一気読みした。冒頭、次のように宣言している。
「作家が自伝を書く限り、他人の言ったことの引用は禁じられるべきだ。そう思うからこの自伝は極力、自分が見聞きし体験したことに限っている。」
90年を生きた時点で、自身の記憶に残っているさまざまな事柄を、往時の心情に現在の思いを交えつつ、てきぱきと綴っている。大作家の90年の走馬灯を疑似体験した気分になる。自分の記憶ではないのに、いろいろなことがあったなあとの感慨がわく。
私は高校1年の頃(1964年)から『別冊宝石』や『SFマガジン』で筒井康隆氏の作品を読んできた。これらの雑誌は月遅れの号を古書店で入手することが多かった。少し安くなるからだ。「下の世界」「群猫」「お紺昇天」「しゃっくり」などの初期作品が印象に残っているが、『SFマガジン』1965年7月号の「東海道戦争」は衝撃(笑撃)だった。今後この作家の作品を追って行こうと思った。1965年10月に最初の短篇集『東海道戦争』が出たときにはすぐに購入し、周辺の友人たちに読ませた。そのため、この本は紛失、後に再度購入した。
そんな体験もあるので、この自伝の1960年代頃の記述が私には興味深い。日本SFの草創期の話であり、私の読書体験と重なる。『SFマガジン』1966年2月号に発表した「マグロマル」を小松左京が「開眼したな」と絶賛したとの話には驚いた。この作品を読んだ高校生の私も「最高傑作だ」と思った。だが、周辺の友人たちの評価はさほどでもなく、「私だけの傑作」との思いがあった。半世紀以上を経て溜飲を下げた。
この自伝に興味深い話はたくさんあるが、文藝春秋の編集者・豊田健次氏との確執が面白い。後に取締役になるこの編集者は3回登場する。担当編集者になったときに書き直しを命じらたが応じなったそうだ。『別冊文藝春秋』に『大いなる助走』を連載したのは、編集長の豊田氏を困らせる意図があったという。筒井氏が『文學界』へ作品を発表しはじめたときには「筒井さんが文學界にいったい何を書くんですか」と揶揄された。この件に関して次のように述べている。
「文藝春秋の編集者という誇りのあまり、少しおかしくなっていたのではないか。」
この自伝を連載したのが『文學界』で、単行本として出版したのが文藝春秋である。だから、この話は面白い。
『筒井康隆自伝』(筒井康隆/文藝春秋)
雑誌連載時にパラパラ読んでいた自伝を、あらためて単行本で一気読みした。冒頭、次のように宣言している。
「作家が自伝を書く限り、他人の言ったことの引用は禁じられるべきだ。そう思うからこの自伝は極力、自分が見聞きし体験したことに限っている。」
90年を生きた時点で、自身の記憶に残っているさまざまな事柄を、往時の心情に現在の思いを交えつつ、てきぱきと綴っている。大作家の90年の走馬灯を疑似体験した気分になる。自分の記憶ではないのに、いろいろなことがあったなあとの感慨がわく。
私は高校1年の頃(1964年)から『別冊宝石』や『SFマガジン』で筒井康隆氏の作品を読んできた。これらの雑誌は月遅れの号を古書店で入手することが多かった。少し安くなるからだ。「下の世界」「群猫」「お紺昇天」「しゃっくり」などの初期作品が印象に残っているが、『SFマガジン』1965年7月号の「東海道戦争」は衝撃(笑撃)だった。今後この作家の作品を追って行こうと思った。1965年10月に最初の短篇集『東海道戦争』が出たときにはすぐに購入し、周辺の友人たちに読ませた。そのため、この本は紛失、後に再度購入した。
そんな体験もあるので、この自伝の1960年代頃の記述が私には興味深い。日本SFの草創期の話であり、私の読書体験と重なる。『SFマガジン』1966年2月号に発表した「マグロマル」を小松左京が「開眼したな」と絶賛したとの話には驚いた。この作品を読んだ高校生の私も「最高傑作だ」と思った。だが、周辺の友人たちの評価はさほどでもなく、「私だけの傑作」との思いがあった。半世紀以上を経て溜飲を下げた。
この自伝に興味深い話はたくさんあるが、文藝春秋の編集者・豊田健次氏との確執が面白い。後に取締役になるこの編集者は3回登場する。担当編集者になったときに書き直しを命じらたが応じなったそうだ。『別冊文藝春秋』に『大いなる助走』を連載したのは、編集長の豊田氏を困らせる意図があったという。筒井氏が『文學界』へ作品を発表しはじめたときには「筒井さんが文學界にいったい何を書くんですか」と揶揄された。この件に関して次のように述べている。
「文藝春秋の編集者という誇りのあまり、少しおかしくなっていたのではないか。」
この自伝を連載したのが『文學界』で、単行本として出版したのが文藝春秋である。だから、この話は面白い。
朝ドラに『ボオ氏』が出てきた ― 2025年09月05日
古い知人から朝ドラの『あんぱん』を観てますか、とのメールが届いた。私は観ていないし、どんな内容かも知らない。この朝ドラの関連で、私が12年前に書いたブログがSNSで話題になっているそうだ。びっくりした。
『あんぱん』はやなせたかし氏をモデルにしたドラマで、そのなかで、やなせ氏が懸賞マンガに応募して入選する話が放映されたそうだ。私は12年前のやなせ氏逝去の際に書いたブログで、週刊朝日の百万円懸賞連載マンガ(1967年)に『ボオ氏』が入選した件に触れた。それがSNSの一部で注目されたようだ。
NHKプラスで9月4日の『あんぱん』を観た。やなせたかしや手塚治虫が、それとわかる別名で出てきた。『ボオ氏』はそのままの名だ。忘れられた作品だと思っていた『ボオ氏』がテレビドラマに登場したのに感動した。
私は『ボオ氏』全26回の切り抜きを保存している。あらためて58年前の入選発表記事を読み返してみた。審査員は岡部冬彦(マンガ家)、佐藤忠男(評論家)、永田力(画家)、なだいなだ(作家)と週刊朝日編集長である。
最終的にはやなせたかし、梅田英俊、森町長子の三人の争いとなった。いずれもプロのようだ。審査員で唯一のマンガ家・岡部冬彦氏は「アハハオホホと他意なく笑って過ごす平均的読者のために描く平均的マンガ家が出てほしかった」と不満を漏らしている。永田力氏は「プロの心得がある、やなせ・たかしが入選と決まったときは、ひそかに新しい人を期待していた私は正直いってがっかりだった」と述べている。
この記事を読みながら、またひとつ遠い記憶がよみがえった。やなせ氏と争った梅田英俊氏の『アーネスト0(ゼロ)氏の場合』は、後に『アサヒグラフ』に連載されたと思う。本屋で立ち読みしただけだが、私はやなせ氏よりは梅田氏の方が好みだった。
『あんぱん』はやなせたかし氏をモデルにしたドラマで、そのなかで、やなせ氏が懸賞マンガに応募して入選する話が放映されたそうだ。私は12年前のやなせ氏逝去の際に書いたブログで、週刊朝日の百万円懸賞連載マンガ(1967年)に『ボオ氏』が入選した件に触れた。それがSNSの一部で注目されたようだ。
NHKプラスで9月4日の『あんぱん』を観た。やなせたかしや手塚治虫が、それとわかる別名で出てきた。『ボオ氏』はそのままの名だ。忘れられた作品だと思っていた『ボオ氏』がテレビドラマに登場したのに感動した。
私は『ボオ氏』全26回の切り抜きを保存している。あらためて58年前の入選発表記事を読み返してみた。審査員は岡部冬彦(マンガ家)、佐藤忠男(評論家)、永田力(画家)、なだいなだ(作家)と週刊朝日編集長である。
最終的にはやなせたかし、梅田英俊、森町長子の三人の争いとなった。いずれもプロのようだ。審査員で唯一のマンガ家・岡部冬彦氏は「アハハオホホと他意なく笑って過ごす平均的読者のために描く平均的マンガ家が出てほしかった」と不満を漏らしている。永田力氏は「プロの心得がある、やなせ・たかしが入選と決まったときは、ひそかに新しい人を期待していた私は正直いってがっかりだった」と述べている。
この記事を読みながら、またひとつ遠い記憶がよみがえった。やなせ氏と争った梅田英俊氏の『アーネスト0(ゼロ)氏の場合』は、後に『アサヒグラフ』に連載されたと思う。本屋で立ち読みしただけだが、私はやなせ氏よりは梅田氏の方が好みだった。
かなり古い岩波新書『玄奘三蔵』をやっと読了 ― 2025年08月08日
岩波新書の『玄奘三蔵、シルクロードを行く』に続いて次の岩波新書を読んだ。
『玄奘三蔵:史実西遊記』(前嶋信次/岩波新書/1952.7 第1刷、1966.11 第21刷)
73年前(!)に出た岩波新書である。私が入手したのは半世紀以上前の学生時代だと思う。読了しないまま書架に眠っていた。『玄奘三蔵、シルクロードを行く』の「あとがき」と『玄奘三蔵:西域・インド紀行』の「解題」の両方が、この新書を「名著」と言及していた。かすかな記憶を頼りに書棚を探索し、本書を発見した。
著者・前嶋信次(1903-1983)はイスラム学者、東洋史家である。私は数年前に著者の『イスラム世界』と『イスラムの陰に』を読み、その独特の語り口に不思議な魅力を感じた。
本書冒頭で、著者は西暦600年頃を激動の時代としている。聖徳太子、ムハンマド、唐の太宗、玄奘らの時代である。日本への仏教渡来を「このややどぎつい、深みのある文化を、われらの祖先たちは、おそれたり、あこがれたりしていた」と表現し、600年頃を次のように描写している。
「世界史の流れは俄にすさまじい勢を示し、さかまき、うずまき、天地をどよもし、無邊際に巨浪をつらねて流れ出したかのような感をあたえる。それでいて決して暗い感じではない。」
そして、玄奘を次のように紹介している。
「大きな期待に何となく胸の高鳴るをおぼえる黎明の時に、黄河の南、中原のかたほとりに眉目うるわしく、健やかな男の子が生まれ出て本篇の主人公となるのである。」
高揚感あふれる前嶋節の玄奘伝への期待が高まる。だが、本編は『大慈恩寺三蔵法師伝』、『大唐西域記』、『続高僧伝』をベースにしたオーソドックスの玄奘の伝記だった。「生い立ち」「旅立ち」「往路」「インドでの勉強と周遊」「帰路」「帰国後の訳経事業」をバランスよく記述している。
往路で玄奘がバクトラ(かつてのバクトリア王国の中心地)を訪問したときの記述で、この地が後の『千夜一夜物語』に関連していると指摘している。あの長大な物語の翻訳者でもある著者らしい挿話で楽しい。
本書で印象に残ったのは、インドでは仏教が衰退期にあることへの玄奘への嘆きである。『大唐西域記』にも荒廃した寺院の記述は多いが、描写は抑制的でヒンズー教への具体的な言及はない。本書は、それをきちんと描き、次のように記述している。
「佛滅後千五百年で大釋迦ムニの教は、インドから消え去るであろうと云う豫言が行われていた。その徴候を玄奘は各地で見ているのである。」
仏陀ゆかりの地を巡る旅は廃墟巡りに近い。祇園精舎は荒れはて、菩提樹の下で玄奘は次のように嘆く。
「今萬里の異域からはるばるとここに辿りついて見れば、佛法はその發祥の地で衰え、観音像は砂中に沈もうとしている。この玄奘は何の故にかくも罪業が深いのであろうか……」
そんなインドではあるが、玄奘はナーランダー寺院で戒賢から5年にわたって学び、さらには4年かけて南インドを周遊してナーランダー寺院に戻る。所期の目的をほぼ果たした玄奘は、膨大な経典を持って帰国の途につくのである。仏教が廃れつつあっても、なおインドには仏教の本場としての底力があった。底知れぬ国だと思う。
『玄奘三蔵:史実西遊記』(前嶋信次/岩波新書/1952.7 第1刷、1966.11 第21刷)
73年前(!)に出た岩波新書である。私が入手したのは半世紀以上前の学生時代だと思う。読了しないまま書架に眠っていた。『玄奘三蔵、シルクロードを行く』の「あとがき」と『玄奘三蔵:西域・インド紀行』の「解題」の両方が、この新書を「名著」と言及していた。かすかな記憶を頼りに書棚を探索し、本書を発見した。
著者・前嶋信次(1903-1983)はイスラム学者、東洋史家である。私は数年前に著者の『イスラム世界』と『イスラムの陰に』を読み、その独特の語り口に不思議な魅力を感じた。
本書冒頭で、著者は西暦600年頃を激動の時代としている。聖徳太子、ムハンマド、唐の太宗、玄奘らの時代である。日本への仏教渡来を「このややどぎつい、深みのある文化を、われらの祖先たちは、おそれたり、あこがれたりしていた」と表現し、600年頃を次のように描写している。
「世界史の流れは俄にすさまじい勢を示し、さかまき、うずまき、天地をどよもし、無邊際に巨浪をつらねて流れ出したかのような感をあたえる。それでいて決して暗い感じではない。」
そして、玄奘を次のように紹介している。
「大きな期待に何となく胸の高鳴るをおぼえる黎明の時に、黄河の南、中原のかたほとりに眉目うるわしく、健やかな男の子が生まれ出て本篇の主人公となるのである。」
高揚感あふれる前嶋節の玄奘伝への期待が高まる。だが、本編は『大慈恩寺三蔵法師伝』、『大唐西域記』、『続高僧伝』をベースにしたオーソドックスの玄奘の伝記だった。「生い立ち」「旅立ち」「往路」「インドでの勉強と周遊」「帰路」「帰国後の訳経事業」をバランスよく記述している。
往路で玄奘がバクトラ(かつてのバクトリア王国の中心地)を訪問したときの記述で、この地が後の『千夜一夜物語』に関連していると指摘している。あの長大な物語の翻訳者でもある著者らしい挿話で楽しい。
本書で印象に残ったのは、インドでは仏教が衰退期にあることへの玄奘への嘆きである。『大唐西域記』にも荒廃した寺院の記述は多いが、描写は抑制的でヒンズー教への具体的な言及はない。本書は、それをきちんと描き、次のように記述している。
「佛滅後千五百年で大釋迦ムニの教は、インドから消え去るであろうと云う豫言が行われていた。その徴候を玄奘は各地で見ているのである。」
仏陀ゆかりの地を巡る旅は廃墟巡りに近い。祇園精舎は荒れはて、菩提樹の下で玄奘は次のように嘆く。
「今萬里の異域からはるばるとここに辿りついて見れば、佛法はその發祥の地で衰え、観音像は砂中に沈もうとしている。この玄奘は何の故にかくも罪業が深いのであろうか……」
そんなインドではあるが、玄奘はナーランダー寺院で戒賢から5年にわたって学び、さらには4年かけて南インドを周遊してナーランダー寺院に戻る。所期の目的をほぼ果たした玄奘は、膨大な経典を持って帰国の途につくのである。仏教が廃れつつあっても、なおインドには仏教の本場としての底力があった。底知れぬ国だと思う。
『玄奘三蔵、シルクロードを行く』は著者の肉声が聞こえてくる ― 2025年08月04日
『大唐西域記』や玄奘の伝記を続けて読んだのを機に、次の新書を再読した。
『玄奘三蔵、シルクロードを行く』(前田耕作/岩波新書/2010.4)
本書を読んだのは11年前だが、読後感メモは残していない。玄奘の壮大な旅に中央アジアの魅力を感じた記憶がかすかに残っている。11年前、私はカルチャーセンターの講義で初めて著者に接した。その後、いくつかの講義を受講し、著者同行の海外旅行へも参加し、いろいろお話を聞く機会を得た。だから、著者を「先生」と呼ばないとしっくりこない。
前田耕作先生は2022年12月に89歳で亡くなり、先生の業績を偲ぶシンポジジウムも開催された。
本書の対象は『大唐西域記』全12巻のうちの巻1と巻2であり、先生の広範な学識と東西を見はるかす洞察に裏打ちされた魅力あふれる講義である。本書を再読していると、先生の肉声が聞こえてくる気がする。
前田先生は若い頃からバーミアン遺跡の調査に携わっていた。バーミアン大仏破壊後の現地調査にも赴いている。バーミアンの歴史の現存する最古の記録が『大唐西域記』である。本書はバーミアンを含むアフガニスタンに多くのページを割いている。玄奘の記録をベースにした近代の発掘史は興味深い。7世紀の玄奘の旅を辿りつつも記述は現場レポートのように瑞々しい。先生が玄奘に憑依して語っているように感じられる箇所もある。
本書「第1章 不東の旅立ち」では、『大唐西域記』には記述のない玄奘の生い立ちから密出国までを語っている。玄奘の青少年時代は隋朝末期から唐朝初期に移る動乱の時代だ。知的向上心の強い玄奘は模索する哲学青年だった。若き玄奘を描く前田先生は、自身の青年時代と青年玄奘を重ねているように思える。
戦後の騒然とした時代に哲学科に入学した前田先生は、大学の授業とは別に在野の学者の勉強会に参加して鍛えられたそうだ。マルクス主義から現象学へ脱出する格闘だったらしい。同時に奈良の古寺を巡り、各地の遺跡発掘にも携わる。激烈な紆余曲折の青春だったという。先生は青年期の玄奘を次のように表現している。
「活力にみなぎった青年期の玄奘の知の糧が、真諦の訳した諸経にあったことは、時代の流れもあろうが明らかであった。無著・世親の斬新な教学こそ、若き玄奘にとっては緻密に読み返すべき「精神現象学」であったにちがいない。」
前田先生は知の探究者であると同時に行動する学者だった。古跡を巡る旅行では、そこに何も残っていなくても現場に立って何かを感じることが大事だと述べていた。玄奘も行動する学者である。先生が描く「旅する玄奘」は求法の僧であると同時に文化人類学者であり、異文化交流研究者である。先生の想いが玄奘に投影されているようにも感じられる。
本書のメインはバクトリアとバーミアン、つまり現在のアフガニスタンであり、玄奘がハッダを後にしてガンダーラに向かう場面で終わる。結語は「ガンダーラ巡拝についてはいつの日か改めて語るとしよう」である。
先生との雑談のなかで私が本書に触れたとき「あれは、続きを書かなければ…」とつぶやかれた。その思いを果たすことなく逝ってしまわれた。
『玄奘三蔵、シルクロードを行く』(前田耕作/岩波新書/2010.4)
本書を読んだのは11年前だが、読後感メモは残していない。玄奘の壮大な旅に中央アジアの魅力を感じた記憶がかすかに残っている。11年前、私はカルチャーセンターの講義で初めて著者に接した。その後、いくつかの講義を受講し、著者同行の海外旅行へも参加し、いろいろお話を聞く機会を得た。だから、著者を「先生」と呼ばないとしっくりこない。
前田耕作先生は2022年12月に89歳で亡くなり、先生の業績を偲ぶシンポジジウムも開催された。
本書の対象は『大唐西域記』全12巻のうちの巻1と巻2であり、先生の広範な学識と東西を見はるかす洞察に裏打ちされた魅力あふれる講義である。本書を再読していると、先生の肉声が聞こえてくる気がする。
前田先生は若い頃からバーミアン遺跡の調査に携わっていた。バーミアン大仏破壊後の現地調査にも赴いている。バーミアンの歴史の現存する最古の記録が『大唐西域記』である。本書はバーミアンを含むアフガニスタンに多くのページを割いている。玄奘の記録をベースにした近代の発掘史は興味深い。7世紀の玄奘の旅を辿りつつも記述は現場レポートのように瑞々しい。先生が玄奘に憑依して語っているように感じられる箇所もある。
本書「第1章 不東の旅立ち」では、『大唐西域記』には記述のない玄奘の生い立ちから密出国までを語っている。玄奘の青少年時代は隋朝末期から唐朝初期に移る動乱の時代だ。知的向上心の強い玄奘は模索する哲学青年だった。若き玄奘を描く前田先生は、自身の青年時代と青年玄奘を重ねているように思える。
戦後の騒然とした時代に哲学科に入学した前田先生は、大学の授業とは別に在野の学者の勉強会に参加して鍛えられたそうだ。マルクス主義から現象学へ脱出する格闘だったらしい。同時に奈良の古寺を巡り、各地の遺跡発掘にも携わる。激烈な紆余曲折の青春だったという。先生は青年期の玄奘を次のように表現している。
「活力にみなぎった青年期の玄奘の知の糧が、真諦の訳した諸経にあったことは、時代の流れもあろうが明らかであった。無著・世親の斬新な教学こそ、若き玄奘にとっては緻密に読み返すべき「精神現象学」であったにちがいない。」
前田先生は知の探究者であると同時に行動する学者だった。古跡を巡る旅行では、そこに何も残っていなくても現場に立って何かを感じることが大事だと述べていた。玄奘も行動する学者である。先生が描く「旅する玄奘」は求法の僧であると同時に文化人類学者であり、異文化交流研究者である。先生の想いが玄奘に投影されているようにも感じられる。
本書のメインはバクトリアとバーミアン、つまり現在のアフガニスタンであり、玄奘がハッダを後にしてガンダーラに向かう場面で終わる。結語は「ガンダーラ巡拝についてはいつの日か改めて語るとしよう」である。
先生との雑談のなかで私が本書に触れたとき「あれは、続きを書かなければ…」とつぶやかれた。その思いを果たすことなく逝ってしまわれた。
旅の経緯を描いた『玄奘三蔵:西域・インド紀行』は面白い ― 2025年08月02日
玄奘の『大唐西域記』に目を通し、その消化不良を補うために『西域記:玄奘三蔵の旅』を読み、『大慈恩寺三蔵法師伝』への興味がわいた。玄奘の弟子が同時代に書いた伝記である。
『西域記:玄奘三蔵の旅』の著者・桑山正進氏は、この伝記(『大慈恩寺…』)が世に出る経緯を興味深く推理していた。『大唐西域記』の訳者・水谷真成氏は解説で「もし玄奘法師の行実の躍如たるを求むるならば、本書(『大唐西域記』)よりはむしろ『大慈恩寺三蔵法師伝』十巻をこそ選ぶべきであろう」と語っている。
そんな記述に誘われて『大慈恩寺三蔵法師伝』の日本語訳である次の本を読んだ。
『玄奘三蔵:西域・インド紀行』(慧立・彦悰/長澤和俊訳/講談社学芸文庫)
シルクロード関連の著書が多い長澤和俊氏は若い頃、『大慈恩寺三蔵法師伝』全十巻の全訳を上梓している。その前半五巻を改訳したのが講談社学芸文庫版の本書である。前半五巻は玄奘が西域へ旅立ってから帰国するまで、後半五巻は帰国後の経典翻訳の話だそうだ。私にとっては前半だけで十分である。
本書は『大唐西域記』より読みやすい。出国時や帰国時の経緯もいろいろ書いてあって興味深い。仏教に関する討論試合などの記述も、単に勝敗だけでなく討論の内容にまで立ち入って記述している。だが、仏教思想に無知な私は哲学的談義について行けない。残念である。玄奘が巡った国々の地誌や故事に関する記述には『大唐西域記』との重複を感じる箇所もある。
玄奘は求法のためにインドに行きたいと上奏するが、国外旅行はダメとの詔が下る。よって、密出国することになる。苦労のうえ玉門関を突破する場面は面白い。その後の砂漠の旅については「空には飛ぶ鳥もなく、地上には走る獣もなく、また水草もない。あたりをみまわしても、ただ一つ自分の影があるのみである」と表現している。過酷な旅だったようだ。
だが、砂漠を抜けて伊吾(ハミ)に到達して以降は、おとぎ話のようなトントン拍子で、大名行列に近い旅になる。懇意になった高昌国王は玄奘のために、さまざまな物資と共に少年僧4人、手力(クーリー)25人、馬30匹、道案内などを提供、先々の国への封書や贈物も持たせてくれる。
とは言っても、天山山脈を越える山旅は大変だったようだ。「キャラバンのうち、凍病死した者が十人のうち三、四人もあり、牛馬はそれ以上だった」と記述している。玄奘の旅に巻き込まれて落命した人は少なくない。
帰国の旅も、北インドを支配するハルシャヴァルダナ王(戒日王)の支援を受けて象に乗った大行列になる。大量の経典や仏像を持ち帰るには象が必須だ。しかし、途中で象が溺死してかなりの経典を失う。クスタナ(ホータン)まで帰ってきた玄奘は皇帝に上奏文を送り、皇帝からは歓迎の返書が届く。沿道の諸国には、玄奘に人夫や馬を提供するようにとの勅令も出る。密出国したにもかかわらず、大歓迎を受けるのだ。
この伝記を読むと、玄奘という人物の大きさが伝わってくる。探究心や向学心が旺盛な優れた学者であると同時に現場に赴くことを重視する行動の人であり、並外れた政治力やコミュニケーション力をそなえた人物だったと思える。
本書で面白く思ったのは、ソグド商人に関する記述である。さほどソグド商人が登場するわけではないが、その多くが悪人だ。たまたまなのか、そんなイメージが一般的だったのか、よくわからない。
『西域記:玄奘三蔵の旅』の著者・桑山正進氏は、この伝記(『大慈恩寺…』)が世に出る経緯を興味深く推理していた。『大唐西域記』の訳者・水谷真成氏は解説で「もし玄奘法師の行実の躍如たるを求むるならば、本書(『大唐西域記』)よりはむしろ『大慈恩寺三蔵法師伝』十巻をこそ選ぶべきであろう」と語っている。
そんな記述に誘われて『大慈恩寺三蔵法師伝』の日本語訳である次の本を読んだ。
『玄奘三蔵:西域・インド紀行』(慧立・彦悰/長澤和俊訳/講談社学芸文庫)
シルクロード関連の著書が多い長澤和俊氏は若い頃、『大慈恩寺三蔵法師伝』全十巻の全訳を上梓している。その前半五巻を改訳したのが講談社学芸文庫版の本書である。前半五巻は玄奘が西域へ旅立ってから帰国するまで、後半五巻は帰国後の経典翻訳の話だそうだ。私にとっては前半だけで十分である。
本書は『大唐西域記』より読みやすい。出国時や帰国時の経緯もいろいろ書いてあって興味深い。仏教に関する討論試合などの記述も、単に勝敗だけでなく討論の内容にまで立ち入って記述している。だが、仏教思想に無知な私は哲学的談義について行けない。残念である。玄奘が巡った国々の地誌や故事に関する記述には『大唐西域記』との重複を感じる箇所もある。
玄奘は求法のためにインドに行きたいと上奏するが、国外旅行はダメとの詔が下る。よって、密出国することになる。苦労のうえ玉門関を突破する場面は面白い。その後の砂漠の旅については「空には飛ぶ鳥もなく、地上には走る獣もなく、また水草もない。あたりをみまわしても、ただ一つ自分の影があるのみである」と表現している。過酷な旅だったようだ。
だが、砂漠を抜けて伊吾(ハミ)に到達して以降は、おとぎ話のようなトントン拍子で、大名行列に近い旅になる。懇意になった高昌国王は玄奘のために、さまざまな物資と共に少年僧4人、手力(クーリー)25人、馬30匹、道案内などを提供、先々の国への封書や贈物も持たせてくれる。
とは言っても、天山山脈を越える山旅は大変だったようだ。「キャラバンのうち、凍病死した者が十人のうち三、四人もあり、牛馬はそれ以上だった」と記述している。玄奘の旅に巻き込まれて落命した人は少なくない。
帰国の旅も、北インドを支配するハルシャヴァルダナ王(戒日王)の支援を受けて象に乗った大行列になる。大量の経典や仏像を持ち帰るには象が必須だ。しかし、途中で象が溺死してかなりの経典を失う。クスタナ(ホータン)まで帰ってきた玄奘は皇帝に上奏文を送り、皇帝からは歓迎の返書が届く。沿道の諸国には、玄奘に人夫や馬を提供するようにとの勅令も出る。密出国したにもかかわらず、大歓迎を受けるのだ。
この伝記を読むと、玄奘という人物の大きさが伝わってくる。探究心や向学心が旺盛な優れた学者であると同時に現場に赴くことを重視する行動の人であり、並外れた政治力やコミュニケーション力をそなえた人物だったと思える。
本書で面白く思ったのは、ソグド商人に関する記述である。さほどソグド商人が登場するわけではないが、その多くが悪人だ。たまたまなのか、そんなイメージが一般的だったのか、よくわからない。








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