ノルマン朝シチリアは異文化同居の興味深い国 ― 2024年04月16日
先月、シチリア史の復習気分で『地中海の十字路=シチリアの歴史』を読んだ流れで、6年前に読んだ次の新書を再読した。
『中世シチリア王国』(高山博/講談社現代新書)
6年前、私はシチリアの古跡を巡るツアーに参加した。本書を読んだのはツアー出発2カ月前だった。11~12世紀のノルマン朝シチリア王国の話だったとは憶えているが、内容の大半は失念している。ツアーは紀元前のギリシア植民都市の遺跡巡りがメインだったので、本書で得た知見を現地で確認する機会もあまりなかった。
再読し、ノルマン支配時代のシチリアの面白さを再確認した。北フランスのノルマンディの小領主オートヴィル家の息子たちが、紛争の地・南イタリアに傭兵として赴き、ついにはシチリア国王となり、半島南部までも支配下におさめる物語である。アメリカン・ドリームならぬ南イタリアン・ドリームだ。
シチリア中世史をざっくり言えば、ビザンツ帝国の支配下にあったシチリアがイスラムに奪われ、それをノルマン人が奪い返してシチリア王国をつくるという展開である。だが、実態はキリスト教国とイスラムの宗教対立とは言えない。
本書掲載のオートヴィル家の系図は夥しい人名でゴチャゴチャしている。最も興味をひかれるのは初代シチリア王(在1130-1154)のロゲリウス2世である。彼の父ロゲリウス1世はその兄であるロベルトゥス・グイスカルドゥスの後見のもとシチリアを征服する。
ロゲリウス1世がシチリアを征服するときの軍隊にはイスラム教徒も多く、イスラム教徒の将軍もいたそうだ。ロゲリウス2世がシチリア国王になった後、南イタリアで反乱があり、国王軍を派遣して鎮圧する。その国王軍はイスラム教徒が中心だった。宗教とは関係のない利害関係がはたらいていたのだ。
シチリア王国ではラテン系とギリシア系(ビザンツ)の聖職者が混在していた。また、行政の中核を担ったのはアラブ人の役人だった。カトリック、ギリシア正教、イスラムが同居・並立する王国だったのだ。そんなシチリア王国の行政制度は、同時代の西欧諸国の中で最も官僚化・専門化が進んでいたそうだ。
ロゲリウス2世は学問への関心が高く、アラブ人学者やギリシア人学者たちとの議論を楽しんでいた。だが、穏健な平和主義者ではない。ビザンツ帝国やイェルサレム(イスラム支配下)に攻撃をしかけたりもする。コンスタンティノープルの皇帝位を狙っていたというから、驚きである。
著者は本書末尾で、シチリア王国で異文化集団が共存した理由を考察している。要は、異なる文化的背景を持つ多くの人々がこの地に暮らしていたから、共存政策を採らざるを得なかったようだ。著者は次のように結んでいる。
「このような異文化集団の共存を可能としたのは、この地に住む人々の宗教的・文化的寛容性ではない。強力な王権がアラブ人を必要とし、彼らに対する攻撃や排斥を抑制していたからである。したがって、戦争や騒乱のときには必ずと言ってよいほど、異文化集団に対する略奪や攻撃が行われた。また、王国のアラブ人口が減少し王権にとってアラブ人が不要になると、アラブ人住民に対する態度も冷淡となった。そして、異文化集団によって支えられた王国の文化的・経済的繁栄も終焉を迎えるのである。」
===============================================
【付記】
本書は多くの人名をラテン語で表記している。ロベルトゥス(ロゲリウス2世の父の兄。狡猾なロベルトゥス)については、次のように各国語の表記を紹介している。
ロベルトゥス・グイスカルドゥス(ラテン語)
ロベール・ギスカール(フランス語)
ロベルト・ギスカルド(イタリア語)
ロバート・ギスカード(英語)
上記以外はラテン語のみだ。当時の共通語はラテン語だったからだろう。だが、他の本では異なる表記も多く、私は少しとまどった。で、本書に登場する主な人物の各国語表記をまとめてみた。〇印が本書の表記だ。
〇ウィレルムス(ラテン語)
ギヨーム(フランス語)
グリエルモ(イタリア語)
ウィリアム(英語)
ヴィルヘルム(ドイツ語)
〇ロゲリウス(ラテン語)
ロジェール(フランス語)
ルッジェーロ(イタリア語)
ロジャー(英語)
ロゲル(ドイツ語)
〇ヘンリクス(ラテン語)
アンリ(フランス語)
エンリコ(イタリア語)
ヘンリー(英語)
ハインリヒ(ドイツ語)
〇フレデリクス(ラテン語)
フレデリック(フランス語)
フェデリコ(イタリア語)
フレデリック(英語)
フリードリヒ(ドイツ語)
『中世シチリア王国』(高山博/講談社現代新書)
6年前、私はシチリアの古跡を巡るツアーに参加した。本書を読んだのはツアー出発2カ月前だった。11~12世紀のノルマン朝シチリア王国の話だったとは憶えているが、内容の大半は失念している。ツアーは紀元前のギリシア植民都市の遺跡巡りがメインだったので、本書で得た知見を現地で確認する機会もあまりなかった。
再読し、ノルマン支配時代のシチリアの面白さを再確認した。北フランスのノルマンディの小領主オートヴィル家の息子たちが、紛争の地・南イタリアに傭兵として赴き、ついにはシチリア国王となり、半島南部までも支配下におさめる物語である。アメリカン・ドリームならぬ南イタリアン・ドリームだ。
シチリア中世史をざっくり言えば、ビザンツ帝国の支配下にあったシチリアがイスラムに奪われ、それをノルマン人が奪い返してシチリア王国をつくるという展開である。だが、実態はキリスト教国とイスラムの宗教対立とは言えない。
本書掲載のオートヴィル家の系図は夥しい人名でゴチャゴチャしている。最も興味をひかれるのは初代シチリア王(在1130-1154)のロゲリウス2世である。彼の父ロゲリウス1世はその兄であるロベルトゥス・グイスカルドゥスの後見のもとシチリアを征服する。
ロゲリウス1世がシチリアを征服するときの軍隊にはイスラム教徒も多く、イスラム教徒の将軍もいたそうだ。ロゲリウス2世がシチリア国王になった後、南イタリアで反乱があり、国王軍を派遣して鎮圧する。その国王軍はイスラム教徒が中心だった。宗教とは関係のない利害関係がはたらいていたのだ。
シチリア王国ではラテン系とギリシア系(ビザンツ)の聖職者が混在していた。また、行政の中核を担ったのはアラブ人の役人だった。カトリック、ギリシア正教、イスラムが同居・並立する王国だったのだ。そんなシチリア王国の行政制度は、同時代の西欧諸国の中で最も官僚化・専門化が進んでいたそうだ。
ロゲリウス2世は学問への関心が高く、アラブ人学者やギリシア人学者たちとの議論を楽しんでいた。だが、穏健な平和主義者ではない。ビザンツ帝国やイェルサレム(イスラム支配下)に攻撃をしかけたりもする。コンスタンティノープルの皇帝位を狙っていたというから、驚きである。
著者は本書末尾で、シチリア王国で異文化集団が共存した理由を考察している。要は、異なる文化的背景を持つ多くの人々がこの地に暮らしていたから、共存政策を採らざるを得なかったようだ。著者は次のように結んでいる。
「このような異文化集団の共存を可能としたのは、この地に住む人々の宗教的・文化的寛容性ではない。強力な王権がアラブ人を必要とし、彼らに対する攻撃や排斥を抑制していたからである。したがって、戦争や騒乱のときには必ずと言ってよいほど、異文化集団に対する略奪や攻撃が行われた。また、王国のアラブ人口が減少し王権にとってアラブ人が不要になると、アラブ人住民に対する態度も冷淡となった。そして、異文化集団によって支えられた王国の文化的・経済的繁栄も終焉を迎えるのである。」
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【付記】
本書は多くの人名をラテン語で表記している。ロベルトゥス(ロゲリウス2世の父の兄。狡猾なロベルトゥス)については、次のように各国語の表記を紹介している。
ロベルトゥス・グイスカルドゥス(ラテン語)
ロベール・ギスカール(フランス語)
ロベルト・ギスカルド(イタリア語)
ロバート・ギスカード(英語)
上記以外はラテン語のみだ。当時の共通語はラテン語だったからだろう。だが、他の本では異なる表記も多く、私は少しとまどった。で、本書に登場する主な人物の各国語表記をまとめてみた。〇印が本書の表記だ。
〇ウィレルムス(ラテン語)
ギヨーム(フランス語)
グリエルモ(イタリア語)
ウィリアム(英語)
ヴィルヘルム(ドイツ語)
〇ロゲリウス(ラテン語)
ロジェール(フランス語)
ルッジェーロ(イタリア語)
ロジャー(英語)
ロゲル(ドイツ語)
〇ヘンリクス(ラテン語)
アンリ(フランス語)
エンリコ(イタリア語)
ヘンリー(英語)
ハインリヒ(ドイツ語)
〇フレデリクス(ラテン語)
フレデリック(フランス語)
フェデリコ(イタリア語)
フレデリック(英語)
フリードリヒ(ドイツ語)
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