加藤九祚の人柄が浮かび上がる中村敦夫の『コーカサスの風』 ― 2026年08月14日
37年前にテレビ朝日が出版した中村敦夫の紀行文を古書で入手して読んだ。
『コーカサスの風:My Silk Road』(中村敦夫/テレビ朝日/1989.11)
この紀行文は、先日読んだ『シルクロード文明の旅』(加藤九祚)の冒頭に載っている旅の別バージョン記録である。
黒海北西岸のオデッサ(ウクライナ、当時はソ連)からカスピ海西岸のバクー(アゼルバイジャン、当時はソ連)までの旅は、ユネスコの学術調査だった。日本、ソ連、英国、米国の人々から成る50人が10台の四駆を連ねて、1989年5月から6月まで約40日かけて旅している。
テレビ朝日や朝日新聞などもこの学術調査に参加している。学術調査団の団長は英国人の学者だが、車10台のうち4台はテレビ朝日の取材班が占めている。事情は不明だが、テレビ朝日がかなり出資した学術調査だったのかもしれない。テレビ撮影をしながらの旅なのだ。途中、団長は「私たちはテレビの奴隷になっています」とぼやいている。
テレビ朝日取材班のレポーターが中村敦夫(当時49歳)、学問上のコンサルタントが加藤九祚(当時67歳)だった。中村敦夫による本書を知り、加藤九祚への言及があるだろうと期待して入手したのだ。期待通りだった。
本書はテレビ取材班の奮闘をやや諧謔的に綴っていて読みやすい。中村敦夫は、自身が歴史に不案内だとしたうえで「この本の中で、少しでも歴史学的叙述が出てくるとすれば、すべて加藤氏からの受け売りと思っていただきたい」とことわっている。また、次のように述べている。
「積極的になれば、歴史というのは結構面白そうだ。だが、他人のやらぬ研究に没頭している加藤氏の人柄は、それ以上に面白い。」
「原宿のニイちゃんみたいな格好をしている。(…)おまけに、カウボーイ・ハットをかぶり、半ぱな色のサングラスをかけている。それがシュールにならず、なんとなく似合うから不思議である。(…)教授というより、チョビ髭先生とでも呼ぶ方が似合っている。」
野原に咲いているアザミの花を見たとき、チョビ髭先生は、頼みもしないのに「アザミの歌」を歌い出す。その歌を中村敦夫は次のように評している。
「老人の歌は、たとえ下手でも、ある種の味が出るものである。だが、チョビ髭先生の歌は、驚いたことに、ただひどいだけなのだ。私がその場を外れようと歩き出すと、歌いながら追いかけてくる。」
加藤九祚の愛嬌がうかがえて楽しい。
本書には「オセチアの祟り」という面白い章がある。「祟り」にはいくつかの意味が込められている。歓迎の酒の強要も「祟り」のようだ。酒に弱くはない中村敦夫もダウンする。そのときの様子は以下の通りだ。
「地元の男たちは、まるで水でも飲むような調子だが、客たちは次第にダウンしてくる。笑っているのは、酒好きのチョビ髭先生だけである。(…)一日に酒を25杯も飲むなんて、人生の新記録だ……。そんなことを思っているうちに、私は意識を失ってしまった。」
加藤九祚は『シルクロード文明の旅』で、この宴会を次のように描いている。
「(…)しきたりにのっとって殺した羊と自家製トウモロコシ酒で大宴会になった。乾杯の連続で中村氏はついにダウンした。ヴォロジャが乾杯の音頭をとるたびにみんながアーメフサウドと叫んだ。「アーメン」という言葉にも似ている。」
坦々とした描写である。やはり、加藤九祚は酒に強かったようだ。
『コーカサスの風:My Silk Road』(中村敦夫/テレビ朝日/1989.11)
この紀行文は、先日読んだ『シルクロード文明の旅』(加藤九祚)の冒頭に載っている旅の別バージョン記録である。
黒海北西岸のオデッサ(ウクライナ、当時はソ連)からカスピ海西岸のバクー(アゼルバイジャン、当時はソ連)までの旅は、ユネスコの学術調査だった。日本、ソ連、英国、米国の人々から成る50人が10台の四駆を連ねて、1989年5月から6月まで約40日かけて旅している。
テレビ朝日や朝日新聞などもこの学術調査に参加している。学術調査団の団長は英国人の学者だが、車10台のうち4台はテレビ朝日の取材班が占めている。事情は不明だが、テレビ朝日がかなり出資した学術調査だったのかもしれない。テレビ撮影をしながらの旅なのだ。途中、団長は「私たちはテレビの奴隷になっています」とぼやいている。
テレビ朝日取材班のレポーターが中村敦夫(当時49歳)、学問上のコンサルタントが加藤九祚(当時67歳)だった。中村敦夫による本書を知り、加藤九祚への言及があるだろうと期待して入手したのだ。期待通りだった。
本書はテレビ取材班の奮闘をやや諧謔的に綴っていて読みやすい。中村敦夫は、自身が歴史に不案内だとしたうえで「この本の中で、少しでも歴史学的叙述が出てくるとすれば、すべて加藤氏からの受け売りと思っていただきたい」とことわっている。また、次のように述べている。
「積極的になれば、歴史というのは結構面白そうだ。だが、他人のやらぬ研究に没頭している加藤氏の人柄は、それ以上に面白い。」
「原宿のニイちゃんみたいな格好をしている。(…)おまけに、カウボーイ・ハットをかぶり、半ぱな色のサングラスをかけている。それがシュールにならず、なんとなく似合うから不思議である。(…)教授というより、チョビ髭先生とでも呼ぶ方が似合っている。」
野原に咲いているアザミの花を見たとき、チョビ髭先生は、頼みもしないのに「アザミの歌」を歌い出す。その歌を中村敦夫は次のように評している。
「老人の歌は、たとえ下手でも、ある種の味が出るものである。だが、チョビ髭先生の歌は、驚いたことに、ただひどいだけなのだ。私がその場を外れようと歩き出すと、歌いながら追いかけてくる。」
加藤九祚の愛嬌がうかがえて楽しい。
本書には「オセチアの祟り」という面白い章がある。「祟り」にはいくつかの意味が込められている。歓迎の酒の強要も「祟り」のようだ。酒に弱くはない中村敦夫もダウンする。そのときの様子は以下の通りだ。
「地元の男たちは、まるで水でも飲むような調子だが、客たちは次第にダウンしてくる。笑っているのは、酒好きのチョビ髭先生だけである。(…)一日に酒を25杯も飲むなんて、人生の新記録だ……。そんなことを思っているうちに、私は意識を失ってしまった。」
加藤九祚は『シルクロード文明の旅』で、この宴会を次のように描いている。
「(…)しきたりにのっとって殺した羊と自家製トウモロコシ酒で大宴会になった。乾杯の連続で中村氏はついにダウンした。ヴォロジャが乾杯の音頭をとるたびにみんながアーメフサウドと叫んだ。「アーメン」という言葉にも似ている。」
坦々とした描写である。やはり、加藤九祚は酒に強かったようだ。
『ユーラシア文明の旅』に続いて『シルクロード文明の旅』を読んだ ― 2026年08月09日
先日読んだ『ユーラシア文明の旅』の続編にあたる次の文庫本を読んだ。
『シルクロード文明の旅』(加藤九祚/中公文庫/1994.3)
自家版『続・ユーラシア文明の旅』(1991年刊)に加筆した「書き下ろし」文庫である。ユーラシア大陸を西から東へカバーする次の5つの旅を記録している。
(1) オデッサからカルムィキアまでの旅(1989.5.9~6.27)
(2) アシュハバードからアルマ・アタへの旅(1991.4.19~6.17)
(3) 西域北道からパミール・ヒンドゥクシュの旅(1990.8.3~8.26)
(4) 青海から西域南道の旅(1992.7.29~8.18)
(5) サハリンと沿海州の旅(1991.3.1~3.18)
1989年から1992年にかけてのこれらの旅は、ソ連崩壊(1991.12)に続く中央アジア5カ国独立の時期に重なり、当時の現地の空気が感じられて興味深い。
著者が訪ねた地の大半は私には未知の場所である。と言っても、私もタジキスタン(ソグディアナ)、新疆ウイグル自治区、カザフ&キルギスなどへの観光旅行をしており、行ったことがある場所が多少は登場する。それが懐かしくて楽しい。
タジキスタンのペンジケント遺跡に関して、サマルカンドから近くて観光客が期待できるので整備すべきだと述べている。その通りだが、サマルカンドとペンジケントの間には国境があり、バスを乗り換えて徒歩で越える手続きが面倒だったなと思い出した。で、気づいた。著者が訪れた時、まだ国境がなくスムーズに通行できたのだ。
ホージェンド(タジキスタン)の「場ちがい」に豪華なコルホーズ宮殿を見学した著者は、一般のコルホーズ員の生活はどうなっているのだろうと考える。著者の28年後、私も同じ建物を見学し、「元コルホーズ事務所」と聞いて著者と似たことを思った。
本書には著者の人柄や個性が反映されている。(2)はユネスコ調査団の旅で各国の研究者が参加していた。旅の途中の報告会でイスタンブールから来た大学教授が、トルコ族を鼓吹するやや政治的発言をし、議論になる。その教授の発言を不愉快に感じた著者は、毅然として政治的発言をたしなめる。著者の気概が伝わってくる。
本書は旅行記であると同時に、シルクロード研究者たちの成果を紹介する解説書でもある。ソグド人やクロライナ(鄯善=楼蘭)の歴史について、かなり詳しく解説していて、勉強になる。研究の現状について次のような記述もある。
「(…)ソグド研究者たちはこれまでほとんど欧米露の学者であったが、今では日本でも吉田豊ら新進の研究者が育っていることは喜ばしい。また、ウイグル語でも森安孝夫、梅村坦らの人々が進出している。」
この分野の泰斗たちも34年前は新進だった。当然のことではあるが、感慨深い。
=========================
【追記】
旧ソ連時代、イシク・クル湖は外国人立ち入り禁止だった。加藤九祚は(2)の旅(ユネスコのシルクロード調査)で、1991年6月にイシク・クル湖を訪れている。『シルクロード 歴史地図の歩き方』(長澤和俊 監修、吉村貴 著)は、この地に初めて入った日本人を長澤和俊と田島信義としている。カザフとキルギスの招きで1992年に行ったそうだ。だが、その1年前に加藤九祚が行っていたようだ。
『シルクロード文明の旅』(加藤九祚/中公文庫/1994.3)
自家版『続・ユーラシア文明の旅』(1991年刊)に加筆した「書き下ろし」文庫である。ユーラシア大陸を西から東へカバーする次の5つの旅を記録している。
(1) オデッサからカルムィキアまでの旅(1989.5.9~6.27)
(2) アシュハバードからアルマ・アタへの旅(1991.4.19~6.17)
(3) 西域北道からパミール・ヒンドゥクシュの旅(1990.8.3~8.26)
(4) 青海から西域南道の旅(1992.7.29~8.18)
(5) サハリンと沿海州の旅(1991.3.1~3.18)
1989年から1992年にかけてのこれらの旅は、ソ連崩壊(1991.12)に続く中央アジア5カ国独立の時期に重なり、当時の現地の空気が感じられて興味深い。
著者が訪ねた地の大半は私には未知の場所である。と言っても、私もタジキスタン(ソグディアナ)、新疆ウイグル自治区、カザフ&キルギスなどへの観光旅行をしており、行ったことがある場所が多少は登場する。それが懐かしくて楽しい。
タジキスタンのペンジケント遺跡に関して、サマルカンドから近くて観光客が期待できるので整備すべきだと述べている。その通りだが、サマルカンドとペンジケントの間には国境があり、バスを乗り換えて徒歩で越える手続きが面倒だったなと思い出した。で、気づいた。著者が訪れた時、まだ国境がなくスムーズに通行できたのだ。
ホージェンド(タジキスタン)の「場ちがい」に豪華なコルホーズ宮殿を見学した著者は、一般のコルホーズ員の生活はどうなっているのだろうと考える。著者の28年後、私も同じ建物を見学し、「元コルホーズ事務所」と聞いて著者と似たことを思った。
本書には著者の人柄や個性が反映されている。(2)はユネスコ調査団の旅で各国の研究者が参加していた。旅の途中の報告会でイスタンブールから来た大学教授が、トルコ族を鼓吹するやや政治的発言をし、議論になる。その教授の発言を不愉快に感じた著者は、毅然として政治的発言をたしなめる。著者の気概が伝わってくる。
本書は旅行記であると同時に、シルクロード研究者たちの成果を紹介する解説書でもある。ソグド人やクロライナ(鄯善=楼蘭)の歴史について、かなり詳しく解説していて、勉強になる。研究の現状について次のような記述もある。
「(…)ソグド研究者たちはこれまでほとんど欧米露の学者であったが、今では日本でも吉田豊ら新進の研究者が育っていることは喜ばしい。また、ウイグル語でも森安孝夫、梅村坦らの人々が進出している。」
この分野の泰斗たちも34年前は新進だった。当然のことではあるが、感慨深い。
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【追記】
旧ソ連時代、イシク・クル湖は外国人立ち入り禁止だった。加藤九祚は(2)の旅(ユネスコのシルクロード調査)で、1991年6月にイシク・クル湖を訪れている。『シルクロード 歴史地図の歩き方』(長澤和俊 監修、吉村貴 著)は、この地に初めて入った日本人を長澤和俊と田島信義としている。カザフとキルギスの招きで1992年に行ったそうだ。だが、その1年前に加藤九祚が行っていたようだ。
半世紀以上昔のシベリア・中央アジア紀行記を読んだ ― 2026年08月05日
加藤九祚は10年前(2016年9月)、ウズベキスタンで発掘調査中に倒れ、客死した。94歳だった。私がこの人物を知ったのは、その死後である。『中央アジア歴史群像』 『シベリア記』 『シルクロードの大旅行者たち』などの著書を読んだが、この人を把握できたわけではない。
数カ月前、加藤九祚がネフスキーの評伝『天の蛇』で1976年(半世紀前だ)の大佛次郎賞を受賞していると知った。数年前、ネフスキーというロシアの東洋学者を知り、その著書『月と不死』(東洋文庫)を入手したが、未読棚に積んだままだ。
さっそく『天の蛇』を古書で入手した。その際、他の著書が何点か検索で引っ掛かった。ネフスキー評伝の前に、加藤九祚が自身の見聞を語った本によって、この著者のことをもう少し知りたいと思った。で、30年以上前に出た中公文庫2冊(『ユーラシア文明の旅』『シルクロード文明の旅』)を古書で入手、その1冊目を読了した。
『ユーラシア文明の旅』(加藤九祚/中公文庫/1993.4)
この文庫本の原本は、著者52歳の1974年に出た新潮選書である。1963年から1972年にかけての数度にわたるシベリア、中央アジア旅行をベースにした紀行文・歴史エッセイで、旧ソ連時代の空気が伝わってくる。
本書の原本を半世紀以上前に、あるいは文庫本を三十数年前にリアルタイムで読んでいれば、20代あるいは30代の私は、おそらく本書を読み通せなかっただろう。当時の私の関心領域と重ならないからだ。
70代半ばを越えた私の関心領域は昔よりは拡がり、この古い文庫本を面白く読了できた。シベリアに行ったことはないが中央アジアへは2回行き、関連書も多少は読んできた。中央アジア諸国の旧ソ連時代の話に接し、妙な懐かしさを感じてしまう。
前半の「学者の森――ソ連の旅」は、ハバロフスク、ノボシビルスク、モスクワ、レニングラードでの現地の学者たちとの交流を描いている。シベリア抑留時代にロシア語を習得し、何冊かの翻訳書も出している著者のエピソードが面白い。
ホテルに迎えに来る知人が風邪をひき、代理の人物が現れる。その代理人の自己紹介を聞き、著者は「あなたがシムチェンコさんですか。これは不思議な縁ですね。私はあなたの本を翻訳しました。今月の20日に刊行されるはずです」と語る。相手も驚いたそうだ。
著者は酒好きで、ソ連の学者たちと痛飲しているうちにロシア語が日本語になってしまうことがあるそうだ。深酒のうえで日本人俘虜に関して苦言を呈し、どなったりもしている。翌朝になって「あんな問題を出さなければよかった」と後悔している。著者の魅力的な人柄が伝わってくる。
驚いたのは、1972年の旅でネフスキーの娘(44歳。医師)や孫娘(22歳。大学生)と会っていることだ。ネフフスキーの妻は日本人で、夫妻は戦時中に日本からソ連に帰国するが、スターリンの粛清時代に処刑されている(1945年)。娘との会見では、ネフスキーの妻の縁者に関する情報なども入手している。この頃、著者はすでにネフスキーの評伝の準備をしていたようだ(『天の虹』刊行は1976年)。
「イスラム文化の背景と中央アジア」というエッセイでは、中央アジアのイスラム教をアラブ諸国のイスラム教と比較検討し、その特徴を分析している。メッカ巡礼より現地の廟への参詣が奨励され、スーフィ(神秘主義)が大きな勢力を持っているとの指摘に、ナルホドと思った。
数カ月前、加藤九祚がネフスキーの評伝『天の蛇』で1976年(半世紀前だ)の大佛次郎賞を受賞していると知った。数年前、ネフスキーというロシアの東洋学者を知り、その著書『月と不死』(東洋文庫)を入手したが、未読棚に積んだままだ。
さっそく『天の蛇』を古書で入手した。その際、他の著書が何点か検索で引っ掛かった。ネフスキー評伝の前に、加藤九祚が自身の見聞を語った本によって、この著者のことをもう少し知りたいと思った。で、30年以上前に出た中公文庫2冊(『ユーラシア文明の旅』『シルクロード文明の旅』)を古書で入手、その1冊目を読了した。
『ユーラシア文明の旅』(加藤九祚/中公文庫/1993.4)
この文庫本の原本は、著者52歳の1974年に出た新潮選書である。1963年から1972年にかけての数度にわたるシベリア、中央アジア旅行をベースにした紀行文・歴史エッセイで、旧ソ連時代の空気が伝わってくる。
本書の原本を半世紀以上前に、あるいは文庫本を三十数年前にリアルタイムで読んでいれば、20代あるいは30代の私は、おそらく本書を読み通せなかっただろう。当時の私の関心領域と重ならないからだ。
70代半ばを越えた私の関心領域は昔よりは拡がり、この古い文庫本を面白く読了できた。シベリアに行ったことはないが中央アジアへは2回行き、関連書も多少は読んできた。中央アジア諸国の旧ソ連時代の話に接し、妙な懐かしさを感じてしまう。
前半の「学者の森――ソ連の旅」は、ハバロフスク、ノボシビルスク、モスクワ、レニングラードでの現地の学者たちとの交流を描いている。シベリア抑留時代にロシア語を習得し、何冊かの翻訳書も出している著者のエピソードが面白い。
ホテルに迎えに来る知人が風邪をひき、代理の人物が現れる。その代理人の自己紹介を聞き、著者は「あなたがシムチェンコさんですか。これは不思議な縁ですね。私はあなたの本を翻訳しました。今月の20日に刊行されるはずです」と語る。相手も驚いたそうだ。
著者は酒好きで、ソ連の学者たちと痛飲しているうちにロシア語が日本語になってしまうことがあるそうだ。深酒のうえで日本人俘虜に関して苦言を呈し、どなったりもしている。翌朝になって「あんな問題を出さなければよかった」と後悔している。著者の魅力的な人柄が伝わってくる。
驚いたのは、1972年の旅でネフスキーの娘(44歳。医師)や孫娘(22歳。大学生)と会っていることだ。ネフフスキーの妻は日本人で、夫妻は戦時中に日本からソ連に帰国するが、スターリンの粛清時代に処刑されている(1945年)。娘との会見では、ネフスキーの妻の縁者に関する情報なども入手している。この頃、著者はすでにネフスキーの評伝の準備をしていたようだ(『天の虹』刊行は1976年)。
「イスラム文化の背景と中央アジア」というエッセイでは、中央アジアのイスラム教をアラブ諸国のイスラム教と比較検討し、その特徴を分析している。メッカ巡礼より現地の廟への参詣が奨励され、スーフィ(神秘主義)が大きな勢力を持っているとの指摘に、ナルホドと思った。
カザフ&キルギス旅行記(4) --- カザフスタンとキルギスの国境 ― 2026年07月18日
カザフスタンとキルギスは南北に国境を接し、経度は似ているが時差が1時間ある。カザフスタンの国土は日本の約7倍で人口は約2100万人。キルギスの国土は日本の約半分で人口は約730万人。産油国であるカザフスタンは発展途上国を脱っしつつあるが、キルギスは発展途上の農業国である。
かなり違って見える両国だが、歴史や言語が似た兄弟国とも言われる。中央アジア五カ国のなかで、タジキスタンがイラン系、他のウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、キルギスがトルコ系だと思っていた。だが、カザフスタンとキルギスはモンゴル系とも言われていて、ウズベキスタンやトルクメニスタンとは少し違っているようだ。キルギスには日本人と見まがう容貌の人も多い。
兄弟国と言われるカザフスタンとキルギス、今回のツアーでは、その国境を陸路で2回越えた。「カザフスタン→キルギス」と「キルギス→カザフスタン」の2回である。出国・入国の手続きに約1時間を要し、スーツケースを引きずりながら炎天下を数百メートル歩かねばならない。兄弟国なら、国境越えをもっと簡略にできないかと思うが、そうもいかないらしい。
あらためて国境の不思議を感じた。かつてはソ連邦だった中央アジアの国はソ連崩壊による独立で国境ができた。私が入手したキルギスの地図の西南に二か所の飛び地がある。その飛び地はタジキスタン領のようだ。ガイドの話によれば、現在は国境を調整して飛び地を解消しているそうだ。
そもそも、住民の民族(部族?)と国境が必ずしも対応していないので、面倒な紛争を胚胎しているのだ。
キルギスとカザフスタンの国境のかなりの部分は東西に流れるチュー川である。この川の一部がU字に蛇行していて、道路はそこを直進している。そのため、キルギスの道路の五百メートルがカザフスタン領を通っている。検問などはなく、普通に通過できる。しかし、この五百メートルの間で交通事故が起こるとカザフスタンの警察が処理するそうだ。
川が国境でも、放牧している牛は頓着しない。川を越えて対岸の草を食べることもある。牛の飼い主は勝手に川を渡って牛を連れ戻すことはできない。国境監視塔から銃撃される恐れがある。パスポートを持って遠回りして国境の検問を越えて牛を連れ戻すしかないそうだ。
草原のなか貫く国境にも所々に監視塔が建っている。兄弟国と言いつつ、国境監視はそれなりにシビアなようだ。いつの日かEU諸国のように自由に行き来できるようになるかもしれないが、20世紀になって生じた国境の不便を感じる。
カザフ&キルギス旅行記(1) (2) (3) (4)
かなり違って見える両国だが、歴史や言語が似た兄弟国とも言われる。中央アジア五カ国のなかで、タジキスタンがイラン系、他のウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、キルギスがトルコ系だと思っていた。だが、カザフスタンとキルギスはモンゴル系とも言われていて、ウズベキスタンやトルクメニスタンとは少し違っているようだ。キルギスには日本人と見まがう容貌の人も多い。
兄弟国と言われるカザフスタンとキルギス、今回のツアーでは、その国境を陸路で2回越えた。「カザフスタン→キルギス」と「キルギス→カザフスタン」の2回である。出国・入国の手続きに約1時間を要し、スーツケースを引きずりながら炎天下を数百メートル歩かねばならない。兄弟国なら、国境越えをもっと簡略にできないかと思うが、そうもいかないらしい。
あらためて国境の不思議を感じた。かつてはソ連邦だった中央アジアの国はソ連崩壊による独立で国境ができた。私が入手したキルギスの地図の西南に二か所の飛び地がある。その飛び地はタジキスタン領のようだ。ガイドの話によれば、現在は国境を調整して飛び地を解消しているそうだ。
そもそも、住民の民族(部族?)と国境が必ずしも対応していないので、面倒な紛争を胚胎しているのだ。
キルギスとカザフスタンの国境のかなりの部分は東西に流れるチュー川である。この川の一部がU字に蛇行していて、道路はそこを直進している。そのため、キルギスの道路の五百メートルがカザフスタン領を通っている。検問などはなく、普通に通過できる。しかし、この五百メートルの間で交通事故が起こるとカザフスタンの警察が処理するそうだ。
川が国境でも、放牧している牛は頓着しない。川を越えて対岸の草を食べることもある。牛の飼い主は勝手に川を渡って牛を連れ戻すことはできない。国境監視塔から銃撃される恐れがある。パスポートを持って遠回りして国境の検問を越えて牛を連れ戻すしかないそうだ。
草原のなか貫く国境にも所々に監視塔が建っている。兄弟国と言いつつ、国境監視はそれなりにシビアなようだ。いつの日かEU諸国のように自由に行き来できるようになるかもしれないが、20世紀になって生じた国境の不便を感じる。
カザフ&キルギス旅行記(1) (2) (3) (4)
カザフ&キルギス旅行記(3) --- タラス河畔の古戦場 ― 2026年07月18日
私にとって今回のツアーの目当ての一つがタラス河の古戦場の見学だった。唐がアッバース朝に敗れた751年のタラス河畔の戦いについては、高校世界史の簡略な知識しかなく、その場所も明確には認識していなかった。ツアーでタラス河の古戦場を見学すると知り、私自身の歴史地理の認識を深化できると思った。と言っても、古戦場は遺跡ではなく、かつて戦争があった場所に過ぎない。さほどの所ではなくても、現場に立つことが重要だ。
旅行準備段階で気分を盛り上げるため、この戦いを扱った歴史小説『天涯の戦旗』を読むなど多少の知識は仕入れた。
タラス河畔の戦いの場所については、現在のキルギスとしている資料が多い。だが、今回のツアーではキルギスからカザフスタンに移動した後、古戦場を見学することになっている。地図で調べるとカザフスタンにタラズという町があり、その西方のキルギスにタラスという町がある。似た地名の町が両国にあるのだ。
現地のキルギス人の日本語ガイドはキルギスのタラス出身だった。彼の話によれば、カザフ語のタラズとキルギス語のタラスは同じで、「戦い」という意味だそうだ。751年のタラス河畔の戦い以前から、かの河はタラス河(戦いの河)と呼ばれていた。
タラス河は現在もキルギスからカザフスタンに向かって流れている。戦いがあった場所は現在の国境を含むかなり広い範囲だったらしい。アッバース朝は20万人、唐は10万人と言われる規模の戦いだった。古戦場はキルギスとカザフスタンにまたがっていたようだ。
現地に赴いてみると、思った通り何もない場所だった。丘の上から眼下の川を見下ろすだけである。「河」より「川」の表記がふさわしい。川幅は数十メートル程度で、水浴を楽しんでいる人も見える。
川を眺望する丘はイスラームの廟が建つ場所で、聖人の大きな銅像も立っている。バスが見学場所に近づき、その銅像が見えたとき、タラス河畔の戦いに勝利したアッバース朝の将軍の銅像が立っているのかと勘違いしたが、まったく違っていた。
そもそも、現地住民の大半はこの地でタラス河畔の戦いがあったことなど知らないそうだ。川を見下ろす場所には、古戦場を示す標識などは何もない。現地の人は、われわれのような観光客を見て、なぜ外国人がイスラームの廟をお参りに来ているのだろうといぶかしんでいるらしい。この場所に来る観光客のほとんどは日本人だという。
丘から見下ろすタラス川は751年当時に比べると川幅がかなり狭くなっている。当時の川幅は500メートルだったという。「川」ではなく「河」だ。
往時の光景は心眼でしか見えない。現地の空気を吸い、現在の光景を眺めながら、頭の中で千数百年昔の様子を幻視する――そんなタラス河畔古戦場の見学だった。
カザフ&キルギス旅行記(1) (2) (3) (4)
旅行準備段階で気分を盛り上げるため、この戦いを扱った歴史小説『天涯の戦旗』を読むなど多少の知識は仕入れた。
タラス河畔の戦いの場所については、現在のキルギスとしている資料が多い。だが、今回のツアーではキルギスからカザフスタンに移動した後、古戦場を見学することになっている。地図で調べるとカザフスタンにタラズという町があり、その西方のキルギスにタラスという町がある。似た地名の町が両国にあるのだ。
現地のキルギス人の日本語ガイドはキルギスのタラス出身だった。彼の話によれば、カザフ語のタラズとキルギス語のタラスは同じで、「戦い」という意味だそうだ。751年のタラス河畔の戦い以前から、かの河はタラス河(戦いの河)と呼ばれていた。
タラス河は現在もキルギスからカザフスタンに向かって流れている。戦いがあった場所は現在の国境を含むかなり広い範囲だったらしい。アッバース朝は20万人、唐は10万人と言われる規模の戦いだった。古戦場はキルギスとカザフスタンにまたがっていたようだ。
現地に赴いてみると、思った通り何もない場所だった。丘の上から眼下の川を見下ろすだけである。「河」より「川」の表記がふさわしい。川幅は数十メートル程度で、水浴を楽しんでいる人も見える。
川を眺望する丘はイスラームの廟が建つ場所で、聖人の大きな銅像も立っている。バスが見学場所に近づき、その銅像が見えたとき、タラス河畔の戦いに勝利したアッバース朝の将軍の銅像が立っているのかと勘違いしたが、まったく違っていた。
そもそも、現地住民の大半はこの地でタラス河畔の戦いがあったことなど知らないそうだ。川を見下ろす場所には、古戦場を示す標識などは何もない。現地の人は、われわれのような観光客を見て、なぜ外国人がイスラームの廟をお参りに来ているのだろうといぶかしんでいるらしい。この場所に来る観光客のほとんどは日本人だという。
丘から見下ろすタラス川は751年当時に比べると川幅がかなり狭くなっている。当時の川幅は500メートルだったという。「川」ではなく「河」だ。
往時の光景は心眼でしか見えない。現地の空気を吸い、現在の光景を眺めながら、頭の中で千数百年昔の様子を幻視する――そんなタラス河畔古戦場の見学だった。
カザフ&キルギス旅行記(1) (2) (3) (4)
カザフ&キルギス旅行記(2) --- イシク・クル湖 ― 2026年07月17日
今回のカザフ&キルギス旅行は、玄奘の行った道を辿るという意味では、昨年の西域旅行の続編でもあった。昨年の旅行では玄奘が通った亀茲を経て、スバシ故城(世界遺産。玄奘の足跡を示す標識がある)を訪れた。
玄奘は亀茲から西進した後に天山山脈を南から北へ越えてイシク・クル湖へ至る。昨年の旅行では亀茲あたりから天山山脈が見えるかと期待していた。だが、ガイドから「このツアーでは天山山脈は見えません」と言われた。
今回のツアーではイシク・クル湖が目玉のひとつだった。琵琶湖の9倍の広さの透明度の高い湖である。「大唐西域記」では大清池と表記している。そのイシク・クル湖からは天山山脈をはっきりと望むことができた。感動した。巨大な氷雪の山脈である。
テンシャンという響きには独特の魅力を感じる。高校時代に友人から示された吉増剛三の詩(天山山脈をを超越的に謳っていた)の記憶のせいでもある。その詩は手元になく、強烈な印象だけが残っている。
玄奘は、イシク・クル湖畔のカラクルからアク・ベシム(砕葉、スイアブ)、タラス、シムケントを経てタシケントに至るコースで旅している。これは今回のツアーのコースに重なっている(ツアーの最後はウズベキスタンに入国してタシケントの空港から帰国)。
先月読んだ『シルクロード 歴史地図の歩き方』には、イシク・クル湖の水位は上昇し続けていて、玄奘が辿った湖畔の道はすでに湖に沈んでいると書いていた。ガイドの話では、現在のイシク・クル湖は流れ込む水量と蒸発する水量がバランスしていて水位は変わらないそうだ。玄奘が湖畔の北側を通ったか南側を通ったかも不明なので、玄奘の足跡を正確に辿るのは不可能だ。
今も昔もさほど変わっていないであろう山や湖などを眺めながら、このあたりを玄奘は旅したのだろうと想像するしかない。
イシク・クル湖は夏に観光客が来る保養地になっているとは聞いていた。と言っても僻地の高山の湖だからさほどの観光地ではないだろうと思った。それは見くびりだった。宿泊したチョルポン・アタという湖畔の町はソ連時代から要人が保養に来ていた場所で、いまは一大観光地である。ビーチには音楽が流れ、周辺には瀟洒なコテージやホテルが林立している。近くに空港もある。
約1400年前に玄奘が辿った頃には、きっと何もない場所だったのだと思う。リゾート客がひしめく湖畔で玄奘の旅に思いを馳せるのはなかなかにシュールな体験で、これもまた面白いと思った。
カザフ&キルギス旅行記(1) (2) (3) (4)
玄奘は亀茲から西進した後に天山山脈を南から北へ越えてイシク・クル湖へ至る。昨年の旅行では亀茲あたりから天山山脈が見えるかと期待していた。だが、ガイドから「このツアーでは天山山脈は見えません」と言われた。
今回のツアーではイシク・クル湖が目玉のひとつだった。琵琶湖の9倍の広さの透明度の高い湖である。「大唐西域記」では大清池と表記している。そのイシク・クル湖からは天山山脈をはっきりと望むことができた。感動した。巨大な氷雪の山脈である。
テンシャンという響きには独特の魅力を感じる。高校時代に友人から示された吉増剛三の詩(天山山脈をを超越的に謳っていた)の記憶のせいでもある。その詩は手元になく、強烈な印象だけが残っている。
玄奘は、イシク・クル湖畔のカラクルからアク・ベシム(砕葉、スイアブ)、タラス、シムケントを経てタシケントに至るコースで旅している。これは今回のツアーのコースに重なっている(ツアーの最後はウズベキスタンに入国してタシケントの空港から帰国)。
先月読んだ『シルクロード 歴史地図の歩き方』には、イシク・クル湖の水位は上昇し続けていて、玄奘が辿った湖畔の道はすでに湖に沈んでいると書いていた。ガイドの話では、現在のイシク・クル湖は流れ込む水量と蒸発する水量がバランスしていて水位は変わらないそうだ。玄奘が湖畔の北側を通ったか南側を通ったかも不明なので、玄奘の足跡を正確に辿るのは不可能だ。
今も昔もさほど変わっていないであろう山や湖などを眺めながら、このあたりを玄奘は旅したのだろうと想像するしかない。
イシク・クル湖は夏に観光客が来る保養地になっているとは聞いていた。と言っても僻地の高山の湖だからさほどの観光地ではないだろうと思った。それは見くびりだった。宿泊したチョルポン・アタという湖畔の町はソ連時代から要人が保養に来ていた場所で、いまは一大観光地である。ビーチには音楽が流れ、周辺には瀟洒なコテージやホテルが林立している。近くに空港もある。
約1400年前に玄奘が辿った頃には、きっと何もない場所だったのだと思う。リゾート客がひしめく湖畔で玄奘の旅に思いを馳せるのはなかなかにシュールな体験で、これもまた面白いと思った。
カザフ&キルギス旅行記(1) (2) (3) (4)
カザフ&キルギス旅行記(1) --- アク・ベシム遺跡など ― 2026年07月17日
カザフ&キルギスのツアーから帰ってきた。このツアーに参加した主な理由はアク・べシム遺跡の見学だった。
2014年、世界遺産に登録された「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」には、キルギスの三つの遺跡(アク・ベシム、クラスナヤ・レーチカ、ブラナ)が入っている。今回のツアーでは、この三つの遺跡すべてを巡った。
事前に『アク・ベシムを掘る』なども読み、遺跡の写真も見ていたので、派手な遺物などを期待していたわけではないが、思った以上に殺風景な場所だった。
アク・ベシム、クラスナヤ・レーチカ、ブラナの三つの遺跡は、それぞれ車で数十分の距離にあり、三点セットといった趣だが、時代や内容は多少異なる。アク・ベシムは6~12世紀の都市遺跡・城砦遺跡、クラスナーヤレーチカは8世紀後半および13~14世紀の都市遺跡、ブラナは8世紀末~9世紀および13~14世紀の都市遺跡である。
アク・ベシムは、ソグド人の都市と唐の砕葉鎮城が隣接した遺跡である。7世紀前半に玄奘が往路で立ち寄った西突厥の拠点もここにあったらしい。かなりの規模の遺跡だろうと推測していたが、見学できたのはネストリウス派の教会跡と城砦跡の一部だけだった。さほど大きな遺跡ではない。
先々月に新聞報道された大雲寺跡を見学できるかと期待していたが、それを見ることはできなかった。ガイドの説明によれば、帝京大の山内教授らによる発掘現場は、発掘後に埋め戻しているそうだ。
そう言えば『アク・ベシムを掘る』には、発掘シーズンは4月中旬から5月下旬とあった。夏や冬の発掘作業は難しいそうだ。私が訪れた7月は発掘シーズンではないので、埋め戻しているのだ。ここはまさに発掘進行中の現場であり、遺跡の全貌を見学者に披露する前段階の場所なのだと認識した。
アク・ベシムもクラスナヤ・レーチカも、野原の中に小さな丘があるだけの似たような雰囲気である。世界遺産を示す標識はあるが、囲いなどはなく、管理人もいない。バスを降りた場所から遺跡までの道もない。草原に散らばっている家畜の糞や水溜まりを避けながら遺跡まで歩く。われわれのツアー以外の観光客もなく、青空トイレOKの開放的な場所である。
ブラナ遺跡はアク・ベシムやクラスナヤ・レーチカとは少し様子が違う。ブラナの塔というミナレットの残骸があるせいだと思うが、多少の観光客が来ている。各地で出土した石人を陳列した公園風の場所もある。小さな土産物屋もポツンとある。少しだけ整備された遺跡である。やはり、見栄えのする遺物があった方が観光客を呼び込みやすいようだ。
遺跡見学の醍醐味は、現場に立って周辺を見渡しながら往時に思いを馳せ、空間のなかに時間を感じることにある――あらためて、そんな思いを確認させられる三つの遺跡だった。
カザフ&キルギス旅行記(1) (2) (3) (4)
2014年、世界遺産に登録された「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」には、キルギスの三つの遺跡(アク・ベシム、クラスナヤ・レーチカ、ブラナ)が入っている。今回のツアーでは、この三つの遺跡すべてを巡った。
事前に『アク・ベシムを掘る』なども読み、遺跡の写真も見ていたので、派手な遺物などを期待していたわけではないが、思った以上に殺風景な場所だった。
アク・ベシム、クラスナヤ・レーチカ、ブラナの三つの遺跡は、それぞれ車で数十分の距離にあり、三点セットといった趣だが、時代や内容は多少異なる。アク・ベシムは6~12世紀の都市遺跡・城砦遺跡、クラスナーヤレーチカは8世紀後半および13~14世紀の都市遺跡、ブラナは8世紀末~9世紀および13~14世紀の都市遺跡である。
アク・ベシムは、ソグド人の都市と唐の砕葉鎮城が隣接した遺跡である。7世紀前半に玄奘が往路で立ち寄った西突厥の拠点もここにあったらしい。かなりの規模の遺跡だろうと推測していたが、見学できたのはネストリウス派の教会跡と城砦跡の一部だけだった。さほど大きな遺跡ではない。
先々月に新聞報道された大雲寺跡を見学できるかと期待していたが、それを見ることはできなかった。ガイドの説明によれば、帝京大の山内教授らによる発掘現場は、発掘後に埋め戻しているそうだ。
そう言えば『アク・ベシムを掘る』には、発掘シーズンは4月中旬から5月下旬とあった。夏や冬の発掘作業は難しいそうだ。私が訪れた7月は発掘シーズンではないので、埋め戻しているのだ。ここはまさに発掘進行中の現場であり、遺跡の全貌を見学者に披露する前段階の場所なのだと認識した。
アク・ベシムもクラスナヤ・レーチカも、野原の中に小さな丘があるだけの似たような雰囲気である。世界遺産を示す標識はあるが、囲いなどはなく、管理人もいない。バスを降りた場所から遺跡までの道もない。草原に散らばっている家畜の糞や水溜まりを避けながら遺跡まで歩く。われわれのツアー以外の観光客もなく、青空トイレOKの開放的な場所である。
ブラナ遺跡はアク・ベシムやクラスナヤ・レーチカとは少し様子が違う。ブラナの塔というミナレットの残骸があるせいだと思うが、多少の観光客が来ている。各地で出土した石人を陳列した公園風の場所もある。小さな土産物屋もポツンとある。少しだけ整備された遺跡である。やはり、見栄えのする遺物があった方が観光客を呼び込みやすいようだ。
遺跡見学の醍醐味は、現場に立って周辺を見渡しながら往時に思いを馳せ、空間のなかに時間を感じることにある――あらためて、そんな思いを確認させられる三つの遺跡だった。
カザフ&キルギス旅行記(1) (2) (3) (4)
若い日本人のキルギス冒険譚を読んだ ― 2026年06月25日
来月キルギスへ行くのでネット書店で「キルギス」を検索すると『草原の国キルギスで勇者になった男』という本が出てきた。キルギスで格闘家になった話かと思ったが、オビに高野秀行氏が「こんなヘンでこんなに凄い冒険家は見たことがない」と推薦している。ヘンで凄い辺境作家・高野氏がヘンで凄いというので購入、読了した。
『草原の国キルギスで勇者になった男』(春間豪太郎/新潮社/2020.10)
オビで謳っている通り「ヘンで凄い新時代の冒険譚」だった。とても面白い。著者は1990年生まれの「冒険家」である。
21世紀の現代、秘境とされる地域は減少し、探検や冒険の領域は狭まっている。そんな時代にも「冒険家」が存在することを本書で納得した。
家庭や社会との違和感を抱き続けていた著者は、大学時代にフィリピンで消息不明になった友人の捜索・救出で「冒険」に目覚め、アフリカ冒険などを通じて新時代の冒険家になっていく。
著者は自身の冒険をリアルRPG(ロールプレイングゲーム)と名付けている。ロバと自作の荷車でモロッコ1000Km野宿旅をしたとき、ゲームの世界に迷い込んだように感じたそうだ。リアルRGPとは、言語、交渉術など各種スキルをレベルアップさせ、さまざまなアイテムを入手し、仲間を得ながら課題を段階的にクリアしていく冒険である。ゲームの世界なら落命してもリトライできるが、リアルRPGではそうはいかない。
本書のキルギス冒険(2017年)で、著者は自身にいくつかの課題を課している。「馬を入手して乗馬で旅する」「羊を連れて雪山を越える」などのステージが課題だ。そんな課題の意義はよくわからないが、著者の意気込みには説得力がある。
冒険の過程でスキルアップを図るのがリアルRGPだが、事前準備も周到だ。元々、言語、プログラミング、交渉などの能力が高い著者は、出発前に医療技術(船舶衛生管理者)や馬に関する知識も習得している。バックパックには、野宿のためのテントや寝袋の他に、スマホやドローンなどの電子機器から医療器具までさまざまなアイテムを詰め込んでいる。
キルギスに入国した著者は現地で馬を購入する。このとき乗馬経験はなかったそうだ。次のように述べている。
「おれには乗馬経験がない。なぜなら、事前に習得してしまうと今回の計画では不確定要素がほとんどなくなり、冒険ではなくなってしまうと考えたからだ。」
ヘンにストイックな冒険家である。著者は、これまでの冒険の経験から善人と悪人の区別がつくそうだ。よくしてくれそうな人に近づき、危害を加えそうな人を避ける能力があると自認している。キルギスの旅の途中、悪人と思われる人物からお茶に誘われる。断ろうと思ったが、自分の識別能力の精度を確かめるために誘いに乗る。その人物はやはり悪人で、スマホを盗られそうになる。
本書で驚いたのは「誘拐婚」に出くわした話だ。私がキルギスの誘拐婚を知ったのは13年前、『ナショナルジオグラフィック 日本語版』(2013年7月号)を読んだときだ。日本人女性カメラマンによる「キルギス 誘拐婚の現実」という記事は衝撃的だった。女性を連れ去り花婿一家が総出で説得して強引に結婚させる「誘拐婚」が現在もあるという。もちろん法律では禁じられている。
著者の冒険は野宿旅だが、現地の人の家に泊めてもらうことが多い。ある集落で青年に声をかけると歓待され、若い婚約者を紹介される。青年は「街で出会って、キルギスの伝統的なやり方で口説いたんだ」と話す。それは誘拐婚だった。その日は、婚約者の両親が初めて訪問してくるイベントの日だった。著者は婚約者から、この結婚を望んでいないと聞かされる。両親が訪ねて来たら結婚が確定するので来てほしくないと思っている。だが、すでに諦めているという。結局、著者は結婚が確定する食事会に同席することになる。
本書によって、13年前に読んだ『ナショナルジオグラフィック』の記事を思い出し、古い雑誌を探し出して読み返した。「誘拐婚が伝統というのは間違いで、ソ連時代になってからの事象を伝統と思い込んでいる人が増えた」との学者の指摘を紹介していた。
『草原の国キルギスで勇者になった男』(春間豪太郎/新潮社/2020.10)
オビで謳っている通り「ヘンで凄い新時代の冒険譚」だった。とても面白い。著者は1990年生まれの「冒険家」である。
21世紀の現代、秘境とされる地域は減少し、探検や冒険の領域は狭まっている。そんな時代にも「冒険家」が存在することを本書で納得した。
家庭や社会との違和感を抱き続けていた著者は、大学時代にフィリピンで消息不明になった友人の捜索・救出で「冒険」に目覚め、アフリカ冒険などを通じて新時代の冒険家になっていく。
著者は自身の冒険をリアルRPG(ロールプレイングゲーム)と名付けている。ロバと自作の荷車でモロッコ1000Km野宿旅をしたとき、ゲームの世界に迷い込んだように感じたそうだ。リアルRGPとは、言語、交渉術など各種スキルをレベルアップさせ、さまざまなアイテムを入手し、仲間を得ながら課題を段階的にクリアしていく冒険である。ゲームの世界なら落命してもリトライできるが、リアルRPGではそうはいかない。
本書のキルギス冒険(2017年)で、著者は自身にいくつかの課題を課している。「馬を入手して乗馬で旅する」「羊を連れて雪山を越える」などのステージが課題だ。そんな課題の意義はよくわからないが、著者の意気込みには説得力がある。
冒険の過程でスキルアップを図るのがリアルRGPだが、事前準備も周到だ。元々、言語、プログラミング、交渉などの能力が高い著者は、出発前に医療技術(船舶衛生管理者)や馬に関する知識も習得している。バックパックには、野宿のためのテントや寝袋の他に、スマホやドローンなどの電子機器から医療器具までさまざまなアイテムを詰め込んでいる。
キルギスに入国した著者は現地で馬を購入する。このとき乗馬経験はなかったそうだ。次のように述べている。
「おれには乗馬経験がない。なぜなら、事前に習得してしまうと今回の計画では不確定要素がほとんどなくなり、冒険ではなくなってしまうと考えたからだ。」
ヘンにストイックな冒険家である。著者は、これまでの冒険の経験から善人と悪人の区別がつくそうだ。よくしてくれそうな人に近づき、危害を加えそうな人を避ける能力があると自認している。キルギスの旅の途中、悪人と思われる人物からお茶に誘われる。断ろうと思ったが、自分の識別能力の精度を確かめるために誘いに乗る。その人物はやはり悪人で、スマホを盗られそうになる。
本書で驚いたのは「誘拐婚」に出くわした話だ。私がキルギスの誘拐婚を知ったのは13年前、『ナショナルジオグラフィック 日本語版』(2013年7月号)を読んだときだ。日本人女性カメラマンによる「キルギス 誘拐婚の現実」という記事は衝撃的だった。女性を連れ去り花婿一家が総出で説得して強引に結婚させる「誘拐婚」が現在もあるという。もちろん法律では禁じられている。
著者の冒険は野宿旅だが、現地の人の家に泊めてもらうことが多い。ある集落で青年に声をかけると歓待され、若い婚約者を紹介される。青年は「街で出会って、キルギスの伝統的なやり方で口説いたんだ」と話す。それは誘拐婚だった。その日は、婚約者の両親が初めて訪問してくるイベントの日だった。著者は婚約者から、この結婚を望んでいないと聞かされる。両親が訪ねて来たら結婚が確定するので来てほしくないと思っている。だが、すでに諦めているという。結局、著者は結婚が確定する食事会に同席することになる。
本書によって、13年前に読んだ『ナショナルジオグラフィック』の記事を思い出し、古い雑誌を探し出して読み返した。「誘拐婚が伝統というのは間違いで、ソ連時代になってからの事象を伝統と思い込んでいる人が増えた」との学者の指摘を紹介していた。








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