『イスラム飲酒紀行』が明かす飲酒禁止イスラム圏の飲酒事情2023年11月08日

『イスラム飲酒紀行』(高野秀行/扶桑社/2011.6)
 先日読んだ『イラク水滸伝』の著者・高野秀行氏が12年前に出した次の本を、古書で入手して読んだ。

 『イスラム飲酒紀行』(高野秀行/扶桑社/2011.6)

 本書を読みたいと思ったのは、先々週(2023.10.28)の日経新聞・読書欄「半歩遅れの読書術」というコラムで生命科学者の仲野徹氏が紹介していたからである。15年前にイランで闇の飲酒の誘いを断った経験のある仲野氏は、本書が発刊されたとき、世の中にはなんと勇敢な人がいるのかと心底驚いたそうだ。

 本書は、原則的に飲酒が禁じられているイスラム圏の飲酒事情ルポである。世界の秘境を探訪する「辺境作家」高野秀行氏はほぼ毎日酒を飲むそうだ。それほど多量に飲むわけではなく、アル中ではないらしい。イスラム圏の国の取材の際も、ただ単に酒を飲みたくて酒を求めて彷徨する著者は、次のように述べている。

 「私はイスラム圏で酒のために悪戦苦闘を繰り返している。決してタブーを破りたいわけではない。酒が飲みたいだけなのだ。そして、実際に酒はどこでも見つかった。いつも意外な形で。」

 また、著者は次のようにも述べている。

 「酒の話になると反射的に食いつくように、誰か現地の人に会うと、反射的に片言の現地語で話しかけないではいられない。私は酒と同じくらい言語も好きなのだ。」

 イスラム圏でも高級ホテルで外国人対象に飲酒サービスをする所がある。だが、著者が求めるのは、タテマエの裏側のホンネの世界の飲酒の現場であり、酒を楽しむ現地の人々と酒を酌み交わして交流することである。「辺境作家」にして可能なディープな世界だ。だから、本書は面白い。

 私が特に意外に感じたのはイランである。イラン革命後は厳格なシーア派の原理主義の国のイメージがあるが、実はタテマエとホンネがある国だそうだ。12年前のルポだから、昨今の状況がどうなっているかはわからないが……。

『イラク水滸伝』でイラク南部湿地帯のアジールを知った2023年09月21日

『イラク水滸伝』(高野秀行/文藝春秋/2023.7)
 『イラク水滸伝』(高野秀行/文藝春秋/2023.7)

 タイトルは怪しい冒険小説っぽいが、秀逸で面白いノンフィクションである。著者は「誰も行かないところに行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」がポリシーのノンフィクション作家だ。そのポリシー通りの本である。分厚い本を一気に読了した。

 オビには「権力に抗うアウトローや迫害されたマイノリティが逃げ込む謎の巨大湿地帯」「中東情勢の裏側と第一級の民族誌的記録」「“現代最後のカオス”に挑んだ圧巻のノンフィクション大作」の惹句が踊る。読んでみると、この惹句通りだった。

 チグリス川とユーフラテス川が合流してペルシア湾にそそぐイラクは、メソポタミア文明発祥の地である。米国がフセイン政権を倒して以降、政情不安が続いている。観光で訪問できる国ではない。そのイラク南部に巨大湿地帯があり、そこは古代以来、中央の政権に反発する人々が逃げ込むアジール、つまりは梁山泊のような所だった――そんな湿地帯のことは、本書に接するまで知らなかった。

 この湿地帯は2016年、シューメール文明の遺跡とともに世界遺産に指定された。だが、現在も依然として「アジール」である。とても行きにくい世界遺産だそうだ。

 著者は大学探検部の頃から世界の辺境を旅してきた辺境旅のプロである。本書は、イラク南部湿原帯探訪の紆余曲折と悪戦苦闘をユーモラスに語った記録である。解説や考察も興味深い。

 著者がこの巨大湿地帯を新聞記事で知り、行こうと思ったのが2017年1月、最初の訪問は1年後の2018年1月である。

 出発までの準備活動から著者の熱意が伝わってくる。文献を読み、識者に会って情報を集める。在日イラク人を探し、取材すると同時にアラビア語を教わる。さらには、9歳上の旧知の「隊長」(レジェンド探検家、環境活動家)を説得して同行を取り付ける。と言っても、準備万端とは言えず、イラク南部湿地帯は行ってみなければわからない謎の場所である。

 著者が目標としたのは、現地で船大工を探し、船を造ってもらい、その船で広大な湿地帯巡りをすることだ。それが湿地帯探訪の最良の手段と判断したのだ。

 湿地帯の旅は3回敢行している(ビザは最長1カ月)。2018年1月の1回目は準備段階、現地の有力者(NGOの所長)と人脈をつなぐ。2019年5月の2回目では船大工を見つけて船を造るところまで進む。2019年秋に予定していた3回目はアクシデントで延期、その後のコロナ禍で渡航不可能になる。2022年3月になってビザOKの連絡があり、2022年4月に3回目の湿地帯探訪を果たす。だが、現地の有力者(NGOの所長=梁山泊の首領)は病気で不在……。

 果たして、自前の船による広大な湿地巡りは成功すか否か、それはここには書かない。本書を読んでのお楽しみだ。

 地球上にもはや秘境・辺境と言える所はなくなりつつあると感じていたが、本書を読むと、そうでもないと思えた。GPSが使え、衛星でテレビ放送を受診できる場所であっても、さまざまな意味で秘境・辺境と見なせる場所は、まだまだありそうだ。

 それにしても、辺境旅のプロの度胸、愛嬌、コミュニケーション力には感服した。

日本が開発した上陸用舟艇「大発」2022年02月09日

2009年1月、ラバウル
 先日読んだ 『暁の宇品』には陸軍船舶司令部の技術者たちが上陸用舟艇を開発する話が出てくる。従来、兵士や物資を輸送船から海岸に陸揚げするには手漕ぎの木舟を使っていた。これをエンジン付きの鉄舟に転換する開発である。

 そして大発(大発動艇)が完成し、1932年の上海事変で初めて実戦に使用される。これは「鉄製の自走舟艇を主力に使っての師団規模の上陸作戦としては世界初の成功例」として世界の軍事関係者の関心を集めた。米国海軍情報部は「日本は艦隊から海岸の攻撃要領を完全に開発した最初の大国」と認めていたそうだ。

 意外な話だった。上陸用舟艇と言えば映画「史上最大の作戦」のノルマンジー上陸の映像が頭に浮かび、やはり米国軍の装備はスゴイという印象を抱いていた。しかし、太平洋戦争開戦前の時点では日本の技術が米国を凌駕していたのだ。『暁の宇品』の著者は「このとき(1939年頃)が頂点であった」と述べている。

 大発とはどんな船だったのだろうと興味を抱き、ネット検索し、いくつかの写真を見た。そして、ハッとした。私は13年前に大発の残骸の実物を見たことがあったのだ。

 2009年1月、パプアニューギニアの ラバウルを訪問し、戦跡を巡った。戦車やゼロ戦の残骸が印象に残っている。あのとき、海岸の洞穴に残された鉄製の小さな船舶の残骸も見た。それが大発だったのだ。当時は、この船の用途も知らず「みすぼらしい船だなあ。こんな小さな船で戦っていたのか」と思った。あの船が一時は世界先端だったとは驚きである。13年前に撮影した写真を引っぱりだし、感慨を新たにした。

焼失から2年目の日に首里城に行った2021年10月31日

 いま沖縄に来ている。本日(2021年10月31日)は首里城焼失からちょうど2年目である。見学用デッキができたと知って見学に行った。首里城復興祭というイベントが開催中で「国王・王妃出御」を見た。さわやかな風が吹き抜ける青空の下、国王と王妃がゆっくり歩く姿に琉球王国時代の空気を少しだけ感じた。

 帰途、国際通りの店で昼食をとった。その店の若い女性スタッフに「いま、首里城に行ってきた」と言うと「私、まだ首里城に行ったことないんです」との返事が返ってきた。聞いてみると、沖縄生まれの18歳で、彼女の周辺にも首里城に行ったことがない人は多いそうだ。ちょっと驚いた。

 東京暮らしの私は、焼失前の首里城に何度か行ったし、焼失から2カ月後の昨年正月にも焼け跡を見に行った。だが、スカイツリーに行ったことはない。首里城もスカイツリーも観光客が行く所で地元の人にはどうでもいい所なのだろうか。

 沖縄の人にとって首里城は古き琉球王国のシンボルだろうと思っていたが、いまの若い人の多くは歴史や琉球王国に関心がないのかもしれない。そんな彼ら彼女らも、年を取るにしたがって自身の現在につながる由縁への関心が深まり、首里城への思い入れがわいてくるのでは、とも思う。

「72歳の大陸横断ひとり旅」の行動力に感心2021年07月27日

『ぶらりユーラシア:列車乗り継ぎ大陸横断、72歳ひとり旅』(大木茂/現代書館)
 知人から「友人がこんな本を出した」と紹介され、面白そうだと思い購入して読んだ。壮大な旅日記である。

 『ぶらりユーラシア:列車乗り継ぎ大陸横断、72歳ひとり旅』(大木茂/現代書館)

 著者は私より1歳上のフリーカメラマンだ。本書は、ユーラシア大陸の東端から西端までを3カ月(2019年8月~11月)かけて鉄道旅行した記録である。このユーラシア大陸横断は、シベリア鉄道による最短コース(大圏コースに近い)ではなく、極東から、ハルピン、北京、西安、ウルムチ、中央アジア、イラン、トルコとシルクロードをたどってポルトガルの西端に至る大旅行で、ガイドも通訳も旅行会社のアシストもない「貧乏旅行」である。著者のバイタリティに感心する。

 本書は全528ページのほぼすべてに数葉のカラー写真が載った画文集で、ページをめくるだけでも楽しい。著者はこの旅行中、日々の記録と写真を友人たちにメール送信していて、その記録をベースに編集したのが本書である。

 写真の多い本を読むとき、文章読みと写真眺めのタイミングの取り方が難しい。だが本書は、すべての写真に番号を付し、旅日記風の本文中にほぼすべての写真番号を引用しているので、文章を読み進めながらスムーズに写真を眺められて心地よい。と言っても、多数の写真を収録しているために小さい写真が多く、私は天眼鏡で写真のディティールを眺めながら文章を読み進めた。

 そんなわけで、スムーズだが時間のかかる読書になり、それは、著者の3カ月の旅に同行して疑似体験に浸る至福の読書時間でもあった。

 著者は「撮り鉄」が高じてカメラマンの道に進んだ人で、多様な仕事をこなすフリーカメラマンのキャリアを積み重ねる中で幾度となく海外取材を経験している。訪問地の大半は過去に何度か来た場所である。今回の大旅行は著者の旅の集大成のようだ。

 そんな著者が今回初めて訪れたのがタジキスタンで、それは「寄り道」である。ウズベキスタンからトルクメニスタン経由でイランに行く際、ウズベキスタンで10日間の時間つぶしが必要となり、それをタジキスタンへの往復旅行に当てている。その10日間とはトルクメニスタンのビザ申請から取得までの時間である。日本で取れる観光ビザだと宿泊予約やガイド付きで割高になるので、現地の隣国ウズベキスタンで申請するという大胆な方法を採ったのだ。

 この「寄り道」に私が惹かれたのは、ワイルドな行動力への敬服もあるが、タジキスタンがわが思い出の地だからである。私は一昨年、ソグド人への関心から「幻のソグディアナ タジキスタン紀行8日間」というパック旅行に参加した( 紀行文1    )。日程を調べると、私が訪問した翌月に著者は「寄り道」旅行をしている。本書の写真を眺めながら懐かしさに浸ることができ、うれしかった。

 本書を読んでいて、あらためてカメラマンという人種の特性(=魅力)を垣間見た気がする。周到かつ臨機応変で、前線や対象へ突撃する度胸と愛嬌があり、不撓不屈の精神で立ち直りが早い――そんな感じである。

オリーブとナツメヤシの国……チュニジア紀行記(3)2019年12月05日

◎チュニジアは農業国

 ローマ帝国時代の北アフリカは現在よりも緑豊かで、ローマへの食糧供給源だった。現在もチュニジアは農業国である。バスの車窓からは延々と続くオリーブ畑を観察できた。ナツメヤシも多い。この時期、オリーブもナツメヤシも収穫期だった。 

◎ナツメヤシの町

 サハラ砂漠に近いオアシス都市トズールはナツメヤシ栽培で開けた町である。収穫前のナツメヤシは袋をかぶせていて、そんなナツメヤシの森をいくつも見た。いちいち袋をかぶせるのは、かなりの手間だろうと思った。

 収穫期なのでトズールの市場には店頭にナツメヤシを吊るしている店がたくさんあった。かなり安いので、つい2Kgも買ってしまった(2Kgで約540円)。

◎オリーブが豊作

 ナツメヤシ以上に目に入るのオリーブ畑である。チュニジアの人口は約1千万人で、オリーブの木はその6倍、約6千万本だそうだ。

 世界のオリーブ生産量のランキングは、ネットで検索した2017年のデータによれば、スペインが第1位で、ギリシア、イタリアと続きチュニジアは第7位である。 

 チュニジアのオリーブは今年は豊作で質もいいそうだ。現地ガイドの話では、今年の生産量はスペインを抜いたそうだ。もしそうならば、生産量世界一になったのかもしれない。

◎搾りたてのオリーブ・オイル

 オリーブの大半はオリーブ・オイルになって輸出される。だが、収穫期の現地でなければ入手できないオリーブ・オイルがある。搾りたてのオリーブ・オイルである。精製前の加熱していないオイルで、バター代わりにパンにつけたり、スプーンでそのまま飲んだりする。色はグリーンだ。

 そんなオリーブ・オイルを売る露店が道端にいくつも出ていて、購入者は自前のボトルを持って買いに行く。

 今回のツアーでは、臨時にオリーブ・オイル工場に停車し、工場見学をした。大規模な機械が稼働していたが、要は大量のオリーブを擦りつぶして液体を抽出しているだけの機械に見えた。

 この工場でも搾りたてのオリーブ・オイルを販売していて、バスの運転手やガイドがペットボトルで購入した。私も自前のペットボトルの水を捨てて空にし、500ml購入した(約150円)。

 ツアー客には購入をためらう人が多かった。ペットボトルの液体は航空機の預け入れ荷物でなければ持ち帰れないので、スーツケース内での液体漏れを心配したのである。私はホテルに到着してから、日本から持参した水のペットボトルに詰め替え、ビニールテープ、ビニール袋、輪ゴムなどを駆使して厳重に梱包した。だから、緑色のオリーブ・オイルを無事日本に持ち帰ることができた。

復活途上の観光地……チュニジア紀行記(2)2019年12月04日

◎「アラブの春」以降、観光客は激減

 チュニジアは遺跡があるだけではなく、地中海のリゾート地でもある。また、南部はサハラ砂漠で、映画『スターウォーズ』のロケ地としても有名である。観光地として魅力的で、国も観光に力を入れている。

 しかし、2011年のジャスミン革命(「アラブの春」のきっかけ)とその後の混乱によって観光客は激減した。ジャスミン革命と呼ばれる民主化運動はベン・アリ独裁政権を倒したが、その後の国の運営は必ずしもうまく行っていない。

 ヨーロッパへの出稼ぎ労働者が送還されたこともあり失業率は高い。現在の国民の平均年収はベン・アリ時代より低いそうだ。治安はさほど悪くなく、観光客の数は戻りつつあるらしい。

◎さびれた観光地?

 チュニジアのいくつかの観光地では、かつてのブームが過ぎたさびれた観光地に迷い込んだ気分になった。観光シーズンではない11月に訪れたせいかもしれない。

 今回のツアーの訪問先には『スターウォーズ』ロケ地が二つあった。一つ目は第1作のロケ地で、砂漠の中にハリボテの住居が残っている。小さな売店も出ている。それなりの趣があり雰囲気は悪くない。だが、セットの近くに作られた共同トイレは悲惨な状態になっていた。誰かが「これなら、砂漠の中でする方がましだ」と言った。同感である。

 二つ目の『スターウォーズ』ロケ地は、第1作と第5作に使われた洞窟住居である。ガイドブックには、この洞窟住居はホテルになっていて、スターウォーズ・ファンの聖地だと書いていた。だが、そのホテルはすでに営業していない。ドミトリー式の小さなホテルだったが客が減ったため、現在は地元住民のバーになっているそうだ。
  
◎バルドー国立博物館の銃痕

 チュニスのバルドー国立博物館には立派なモザイク画が大量に展示されている。その壮観に圧倒されたが、ここには別の不思議なモニュメントがある。

 2015年3月、この博物館で銃乱射事件が発生し、日本人3名を含む22名の観光客が死亡した。博物館の前庭には犠牲者の肖像を描いた大きなモザイク画があり、入口付近には犠牲者の氏名と国籍を刻んだ慰霊碑がある。その脇には犠牲者の国の国旗10本が立っている。

 それだけではない。博物館の随所には銃痕がいまだにある。柱や扉の穴やガラスケースの亀裂の一部を修復せず、そのまま残しているのである。かなり生々しい。歴史的遺物なのかテロ抑止効果をねらっているのか、よくわからない。このような措置が観光客回復にプラスの効果があるかマイナスの効果があるかも、よくわからない。

歴史の地層を感じる国……チュニジア紀行記(1)2019年12月03日

◎カルタゴがあった国

 この11月下旬、チュニジアの世界遺産を巡るツアーに参加した。私の目当てはカルタゴやローマの遺跡見学である。かつてはローマ帝国領だった北アフリカにはローマ時代の遺跡が多く残っていると聞いていたので、いつかは訪問したいと思っていた。また、古代ローマへの関心から、ローマに滅亡させられた通商国家カルタゴも私には興味深い存在である。

◎巨大建築物を残したローマ

 ローマ時代の遺跡としては「ザグーアンの水道橋」「エルジェムの円形闘技場」「アントニヌス帝の共同浴場」「ドゥッガの遺跡」などの巨大建築物を見学し、その威容を堪能した。多くの石材が後世のイスラムのモスク建築のために持ち去られたそうだが、それでも往年を偲べる姿は残っている。

◎カルタゴ遺跡とローマ遺跡の向き

 事前にわかっていたことではあるが、カルタゴの遺跡は少ない。ローマによって紀元前146年に徹底的に破壊し尽くされたからである。それでも、ピュルサの丘にはローマ時代の遺跡の合間にカルタゴ時代の遺跡が残っている。

 この遺跡で興味深かったのは、二つの遺跡の向きがズレている点である。カルタゴ人は海に向かって(適当に?)建てたのに対し、ローマ人は東西南北にこだわって建てている。ローマ人らしさを感じた。

◎意外に小さく感じたカルタゴ軍港

 古代カルタゴの軍港と商業港の跡も残っている。この二つの港を上空から眺めた写真を事前に読んだ本で見たことがあり、期待していた。だが、軍港跡は想像していたよりは小さな池のような場所だった。上空から展望する場所があると思っていたのだが、あの写真は航空写真だったようだ。

◎現代のカルタゴは高級住宅街

 私たちは「カルタゴ」という言葉でポエニ戦争で敗れた都市国家を思い浮かべる。だが、かつて都市国家があった場所は現在もカルタゴという地名であり、カルタゴはチュニス郊外の高級住宅街である。

 だから「カルタゴの遺跡」という言葉はカルタゴ地区にある遺跡という意味になり、その大部分はローマ時代の遺跡になる。ハンニバルらが活躍した頃の遺跡を示すには「古代カルタゴの遺跡」「カルタゴ人の遺跡」「ポエニ人の遺跡」などと言わなければならない。

 この地の紀元前からの歴史を振り返ると、「原住民(ベルベル人)」→「カルタゴ」→「ローマ」→「ヴァンダル人」→「ビザンチン」→「アラブ(イスラム)」と変遷している。アラブの時代になってからもオスマン・トルコの支配下に入ったりフランスの植民地になったりしている。

 ひとつの場所の歴史の地層は複雑である。この地にはいろいろな時代の記憶が堆積している。現地を訪れて、そんな感慨を抱いた。

ペンジケント遺跡に立つ……タジキスタン紀行記(3)2019年08月23日

 ソグド商人への関心から「ソグディアナ」という言葉に惹かれてツアーに参加した私にとって、メインの訪問地はペンジケント遺跡である。ただし事前に「ほとんど何も残っていない場所ですよ」と聞いていたので、現場の雰囲気を感じるだけでいいと覚悟していた。

 ペンジケントは5~8世紀のソグド人の都市遺跡である。ここをマーイムルグ(米国)と比定する吉田豊説が有力だそうだ( 森安孝夫『シルクロードと唐帝国』による。吉田豊氏はソグド語が解読できる日本でただ一人の学者)。シルクロードの支配者とされるソグド商人の故地ソグディアナは、多くのオアシス都市で構成されていた。それは都市国家の緩やかな連合体であり、ソグド人は統一国家を作ることはなかった。ペンジケントはそんな都市国家の一つである。

 ペンジケント遺跡は中央アジアで発掘が最も進んでいる遺跡である。歴史学者ドゥ・ラ・ヴェシエールは「最盛期におけるソグディアナの経済的・社会的情報は、ザラフシャン川の渓谷に深く入りくんだまちであるペンジケントにおいてのみ知られている」と 『ソグド商人の歴史』で述べている。中央アジアの歴史概説書のいくつかには、ペンジケント遺跡の図面や発掘された壁画の写真が載っている。

 日本から約6000Km、はるばるたどり着いたペンジケント遺跡の入口付近には案内板が3つ立っていた。それだけで、門や囲いはなく管理人などもいない。丘陵への階段を登っていくと踏み跡のような道につながり、周囲に日干しレンガの構築物の残骸らしきものが見えてくる。住居や寺院の跡のようだがよくわからない。廃墟というより荒野に近い。われわれ以外には誰もいない。

 この遺跡に立って千数百年前のオアシス都市の姿を偲ぶには心の眼で眺めるしかない。現場に立ったという昂揚感で、時間の彼方から吹いてくるシルクロードの風をかすかに感じた気がした。

 遺跡内に説明看板は一つもない。来場者に対してもう少し親切に整備するべきではと思った。だが、空気を感じるには何もない方がいいのかもしれない。

 この遺跡は住居跡から多くの壁画が発掘されたことで有名である。ソ連時代に発掘された壁画の多くはエルミタージュ美術館に運ばれた。ドゥシャンベの国立古代博物館に展示されている壁画もあり、それは昨日観てきた。

 壁画で有名なペンジケント遺跡だが、現場は抜け殻である。それは仕方のないことではあるが、遺跡のどこにどんな壁画があったのかは知りたいと思った。

        タジキスタン紀行記 (1) (2) (3)

タジキスタンは山岳の国……タジキスタン紀行記(2)2019年08月22日

 紀元前4世紀のアレクサンダー大遠征の最遠地『アレクサンドリア・エスカテ(最果てのアレクサンドリア)』が現在のホジャンド(タジキスタン第2の町)である。国境を越えた最初の訪問地がホジャンドで、ここから首都ドゥシャンベまでは二つの山脈(トルキスタン山脈とヒッサール山脈)を越える山岳道路である。峠の標高は3000メートルを越える。

 事前に旅行会社から配布された書類には次の記述があった。

 「ホジャンド~ドゥシャンベ、ドゥシャンベ~ペンジケントなどは険しい山岳道路です。小型バスまたはバンに分乗してのご案内となり、添乗員が同乗しない車両がございます」

 13年前に刊行された『週刊シルクロード紀行』という雑誌には、この山岳道路を「尻が5センチも浮き上がる衝撃が続く悪路」と綴った紀行文があった。だから覚悟はしていた。

 しかし、この山岳道路は思いのほか快適で、窓外に広がる息をのむ山岳風景を満喫できた。道路はすべて舗装されてる。ガードレールはほとんどない。総勢13人(参加者9人、添乗員、ガイド2人、運転手)には贅沢すぎる普通のバスで走行でき、小型バスに分乗することはなかった。

 近年、この道路は中国によって舗装され、トンネルも掘られたそうだ。タジキスタンと中国は国境を接している。この道路整備も「シルクロード経済ベルト」を目指す一帯一路構想の一環だろうか。世界各地で増大する中国の存在感が不気味でもある。

 標高3000メートルを越えるこの山岳道路は冬季も通行可能だそうだ。驚きである。ガイドは「有料道路なので冬も整備しています」と言っていた。

 タジキスタンは山岳の国である。地形図を見れば明らかなように、われわれが旅行した西側はまだ標高が低い地域で、国の東側は7000メートルを越える高山が連なるパミール高原になる。その山岳地域にもかなりの数の人々が暮らしているそうだ。

 ドゥシャンベのホテルの部屋には「MOUNTAINS ARE CALLING」と書いたチラシや冊子を置いてあった。パミールの山岳地帯を目指すワイルドないで立ちの宿泊客も見かけた。

 ガイドの話によれば、パミールに行くツアーも多くあり、パミールから国境を越えてアフガニスタンに入ることもできるそうだ。そこはアフガニスタンでも比較的安全な地域で、日本人観光客も何人か案内したと言っていた。これにはびっくりした。日本の外務省はアフガニスタンを危険レベル最高のレベル4(退避してください。渡航は止めてください)に指定している。

 なお、日本のパミール中央アジア研究会は、日本の地図帳の「パミール高原」という記載を「パミール」に訂正すべきだと提言している。この地域は「高原」という言葉で連想されるのどかな場所ではない。険しい大山岳地帯なのである。

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