若き橘瑞超の『中亜探検』は面白かった ― 2025年08月17日

『中亜探検』(橘瑞超/中公文庫/1989.6)
◎大谷探検隊とは

 先日読んだスタインの『中央アジア踏査記』に、ミーラン遺跡の壁画を破損した「若い日本人旅行者」の話があった。ネットで調べて、その日本人が大谷探検隊の橘瑞超だと判明し、何年か前に古書で入手して積んだままの『中亜探検』の著者が橘瑞超だと思い出した。スタインを読んだのを機にこの本も読んだ。かなり面白かった。

 『中亜探検』(橘瑞超/中公文庫/1989.6)

 本書巻末に金子民雄(歴史学者)による約50ページの解説と詳細な年譜がある。名前のみしか知らなかった大谷探検隊の概要を知ることができた。

 へディンやスタインが中央アジアを探検した20世紀初頭、大谷探検隊は1902年から1914年にかけて3回実施された。指揮したのは浄土真宗本願寺派(西本願寺)法主の家系に生まれた大谷光瑞(妻は大正天皇の皇后の姉)である。ロンドンに滞在していた光瑞は西域探検を計画、1902年に5名でロンドンから西域に向かう(第1回探検)。光瑞は26歳、他のメンバーも20代だった。翌年、父が死去し、光瑞は27歳で第22世法主となる。

 第2回探検(1908~1909年)は橘瑞超、野村栄三郎の二人が派遣される。このとき、橘瑞超は18歳。成績優秀だった瑞超は15歳で得度、光瑞の側近となっていた。「少年探検隊」の瑞超は楼蘭に到達し、重要な発掘をする。

 第3回探検(1910~1914)の前半は橘瑞超(20歳)、後半は吉川小一郎が担う。ロンドンからロシア経由で西域に入った橘瑞超は、タクラマカン砂漠縦断やチベット探索などを行うが、日本から連絡が取れなくなる。辛亥革命で騒然となった時期であり、瑞超捜索のため、吉川小一郎が派遣される。トルコ人に変装して探査行を続けていた瑞超は敦煌で吉川小一郎と劇的な出会いを果たす。瑞超は1912年に帰国(6月、京都着)。吉川小一郎は1914年まで調査を続行する。

 本書『中亜探検』は瑞超による第3回探検の記録(口述筆記)である。帰国から半年後の1912年の12月、瑞超22歳のときに刊行されている。

 本書刊行の翌々年の1914年、西本願寺の疑獄事件が起きる。第1回探検に参加した光瑞の側近も収監され、光瑞は38歳で法主を辞任、伯爵を返上、隠退生活に入る。反光瑞派からは西域探検の散財も問題にされる。探検を終えた吉川小一郎はひっそりと帰国する。その後、大谷探検隊の発掘品はばらばらになり、民間に流出して所在不明になったものもあるそうだ。

 ……と、ここまでが本書の背景説明である。本書の著者紹介には「光瑞の法王辞任後は隠棲して多くを語らず、謎多き人生でもあった。1968年死去、78歳」とある。

◎隊長は20歳

 本書で印象深いのは20歳という橘瑞超の若さと、探検隊の財力だ。若い瑞超には不撓不屈の探究心がある。金もある。だが無謀に思える場面もある。

 若干20歳で探検隊を率いる瑞超にどれほどの学識があったかは不明だが、英語・中国語・トルコ語ができ、西域に関わる史書も読み込んでいるようだ。本書によれば、第3回探検のロンドン出発前の1909年、大谷光瑞と共に英国でスタイン、ストックホルムでヘディンに会い「シッカリ遣るべし」と奨励されている。

 ミーランの壁画を破損した件について、瑞超は本書で触れていない。金子民雄の解説はこの件を次のように記述している。

 「瑞超師はアブダルからミーランに行き、先年、スタインが発見して持ち帰れなかった壁画を取り外そうとしたが、これはあまりに大きすぎてうまくいかず、一部砕いてしまった。とても無理と思って瑞超師も途中で作業を中止したようであるが、この情報は前年、スタインから知らされたものだった。スタインは自分の発見物だからといって先取権を主張しなかったのであろう。スタインは不満をもらしてはいるが、全部失ったわけではない。こうしたことはよくあることであり、この断片の一部は現在どうもソウルの博物館にあるようである。」

 若い瑞超は考古学への情熱はあっても、十分な技術が備わっていなかったようだ。身近に練達の技術者もいなかった。

 本書で驚いたのはタクラマカン砂漠の縦断だ。南から北へ、チェルチェンからブルクまで22日余をかけて縦断している。ヘディンもスタインも成し遂げていない壮挙である。暴挙に近いかもしれない。最後の数日は水が尽きた瀕死の状態だった。瑞超はトルコ人(1934年以降は古い名称復活で「ウイグル人」と呼ばれる人々)の部隊を率いての旅を次のように記述している。

 「私は僧侶の身でありますから、かかる場合に際会しての覚悟はすでに定っております。(…)私自身においては既に死の問題が解決されているのです。(…)けれどもただ金の力に引かれて、私に従ってきたトルコ人は、今や金の力も何の効力も奏せない、この大沙漠に立ったので、俄に発心し遥に西方メッカに向かって頻に礼拝するようになった。」

 その後、瑞超はホータンから南へ向かい、崑崙山脈の彼方のチベットを目指す。発掘だけでなく地図の空白を埋める探検への関心が強かったようだ。だが、この探検では多くの駱駝や荷物を失い、金で雇った隊員のほとんどが逃亡してしまう。瑞超に従って行けば命がないと思われたのだろう。探検は失敗に帰する。

 瑞超の行動は無謀に近い。駱駝に山道は難しいと知りながら駱駝を使うという判断は疑問だ。瑞超の冒険心や胆力には感嘆するが、隊員たちの人心を掌握して統率する力は、若さ故にまだ培われていなかったように思える。

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