玄奘はオーレル・スタインの「守護聖人」 ― 2025年08月14日
シルクロード関連の本を読んでいると、ヘディンとスタインの名の並記に出会うことが多い。2カ月前、ヘディンの『さまよえる湖』などを読み終えたとき、数年前に古書で入手したまま積んでいるスタインの本が気がかりになった。ヘディンだけではスタインに申し訳ないので、意を決して次の本を読んだ。
『中央アジア踏査記』(スタイン/沢崎順之助訳/白水社/2004.5)
2段組のやや小さい活字で約300頁。読みにくそうに思えたが、読み始めると意外に面白く、引き込まれた。オーレル・スタインは1862年ハンガリー生まれのイギリスの考古学者・東洋学者である。ヘディンより3歳年長の同時代人だ。二人とも中央アジア探検で有名だが、ヘディンは地理学者、スタインは考古学者なので、業績は重なるようで多少異なる。
スタインは中央アジアを3回探査している。①1900~1902年、②1906~1908年、③1913~1916年の3回である。本書の原著は1933年刊行。一連の探査から十数年後に過去3回の探査をふり返って地域別に記述している。本書は1966年に出た訳書を改版したものである。
巻末に挟み込みの地図があり、口絵などにかなりの数の写真を収録している。だが、本書を読み進めながら、これだけでは物足りないと思った。本文で言及する地名や遺物に地図や写真が対応しきれていないのが残念だ。
本書には玄奘やマルコポーロへの言及が多い。彼らの足跡とスタインの探査地域が重なるからである。『大唐西域記』や『東方見聞録』からの引用もあり、この二つの書を読んだばかりの私にとっては楽しい読書時間だった。スタインは玄奘の記録の正確性を称賛し、玄奘を「私の守護聖人」と述べている。
本書のメインは壁画・木簡・絹絵などを発掘した際の現場報告である。有名な遺物の数々がスタインによって発掘されたことをあらためて認識した。遺跡の多くはタクラマカン砂漠の僻地にあり、そこに辿り着くまでが大変である。多くの作業員・ラクダ・資材などを調達する一大プロジェクトだ。山道や砂漠を行く旅では、スタインも徒歩が多かったようだ。タフな人だと感心した。
ミーラン遺跡の壁画が日本人によって破損されたとの記述には驚いた。スタインは第2回の探査でフレスコ画を発見し、それを安全にとりはずすには周到な準備が必要と判断し、そのままにする。その後の第3回の探査で壁画に対面した場面をスタインは次のように語っている。
「わたしの発見が報ぜられた数年後、考古学への情熱に見合うだけの準備も、専門的技術も経験もない若い日本の旅行者がやって来て、拙劣な方法でフレスコ画をはぎとろうとしたのだ。その企てが、ただ破損をまねくばかりであるのは当然だった。」
ミーラン遺跡は普通の旅行者が行ける場所ではない。この「日本の旅行者」について調べると、大谷探検隊の橘瑞超のようだ。
スタインは多くの遺物を大英博物館やインド(当時は英国領)に運び出している。清朝末期のこの時代、貴重な遺物を持ち出すのを当然と考えていた。放置すれば破壊・盗難・散逸のおそれがあると判断したのだろう。敦煌で発見された大量の文書や絵画は道教の僧侶が管理していた。スタインはその管理者と交渉を重ねて巧みに説得し、寄進と引き換えに大量の遺物を入手する。興味深い話である。
だが、探検隊が発掘物を容易に持ち出せる時代は終わりつつあった。辛亥革命で中華民国がスタートし、次第に外国人による発掘が制限されていく。1930年、スタインは第4回の探査を試みるが果たせなかた。
『中央アジア踏査記』(スタイン/沢崎順之助訳/白水社/2004.5)
2段組のやや小さい活字で約300頁。読みにくそうに思えたが、読み始めると意外に面白く、引き込まれた。オーレル・スタインは1862年ハンガリー生まれのイギリスの考古学者・東洋学者である。ヘディンより3歳年長の同時代人だ。二人とも中央アジア探検で有名だが、ヘディンは地理学者、スタインは考古学者なので、業績は重なるようで多少異なる。
スタインは中央アジアを3回探査している。①1900~1902年、②1906~1908年、③1913~1916年の3回である。本書の原著は1933年刊行。一連の探査から十数年後に過去3回の探査をふり返って地域別に記述している。本書は1966年に出た訳書を改版したものである。
巻末に挟み込みの地図があり、口絵などにかなりの数の写真を収録している。だが、本書を読み進めながら、これだけでは物足りないと思った。本文で言及する地名や遺物に地図や写真が対応しきれていないのが残念だ。
本書には玄奘やマルコポーロへの言及が多い。彼らの足跡とスタインの探査地域が重なるからである。『大唐西域記』や『東方見聞録』からの引用もあり、この二つの書を読んだばかりの私にとっては楽しい読書時間だった。スタインは玄奘の記録の正確性を称賛し、玄奘を「私の守護聖人」と述べている。
本書のメインは壁画・木簡・絹絵などを発掘した際の現場報告である。有名な遺物の数々がスタインによって発掘されたことをあらためて認識した。遺跡の多くはタクラマカン砂漠の僻地にあり、そこに辿り着くまでが大変である。多くの作業員・ラクダ・資材などを調達する一大プロジェクトだ。山道や砂漠を行く旅では、スタインも徒歩が多かったようだ。タフな人だと感心した。
ミーラン遺跡の壁画が日本人によって破損されたとの記述には驚いた。スタインは第2回の探査でフレスコ画を発見し、それを安全にとりはずすには周到な準備が必要と判断し、そのままにする。その後の第3回の探査で壁画に対面した場面をスタインは次のように語っている。
「わたしの発見が報ぜられた数年後、考古学への情熱に見合うだけの準備も、専門的技術も経験もない若い日本の旅行者がやって来て、拙劣な方法でフレスコ画をはぎとろうとしたのだ。その企てが、ただ破損をまねくばかりであるのは当然だった。」
ミーラン遺跡は普通の旅行者が行ける場所ではない。この「日本の旅行者」について調べると、大谷探検隊の橘瑞超のようだ。
スタインは多くの遺物を大英博物館やインド(当時は英国領)に運び出している。清朝末期のこの時代、貴重な遺物を持ち出すのを当然と考えていた。放置すれば破壊・盗難・散逸のおそれがあると判断したのだろう。敦煌で発見された大量の文書や絵画は道教の僧侶が管理していた。スタインはその管理者と交渉を重ねて巧みに説得し、寄進と引き換えに大量の遺物を入手する。興味深い話である。
だが、探検隊が発掘物を容易に持ち出せる時代は終わりつつあった。辛亥革命で中華民国がスタートし、次第に外国人による発掘が制限されていく。1930年、スタインは第4回の探査を試みるが果たせなかた。

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