期待して読んだ『夏の砦』にやや白けたが…2026年07月05日

『夏の砦』(辻邦生/文春文庫/1996.11
 辻邦生(1925-1999)の『夏の砦』を読んだ。30年前(1996年)の文春文庫を古書で入手して読んだのだ。オビには「辻文学初期最高傑作」とある。

 『夏の砦』(辻邦生/文春文庫/1996.11)

 この小説の刊行は60年前の1966年、私が高校生の時だから、ずいぶん昔だ。あの頃からズーッと長い間、辻邦生は私にとって関心外の作家だった。

 だが、10年前に60歳を過ぎて『背教者ユリアヌス』を読み、その面白さに魅せられた。分厚い単行本であの長編を読んだ私は、読了後に書店の棚の文庫本の解説を立ち読みした。解説の筆者・篠田一士が『背教者ユリアヌス』より『夏の砦』を評価すると述べていた。それが気がかりで、いつの日か『夏の砦』を読まねばと思いつつ、うかうかと10年の月日が流れ、やっと『夏の砦』を読んだのである。

 『背教者ユリアヌス』を面白いと思った私には『夏の砦』は期待外れだった。私の想定したロマンではなく、芸術とは何かを巡るやや自閉的とも思える濃密で細密な描写が延延と積み重なっていく小説だった。『背教者ユリアヌス』が通俗歴史小説ならば、『夏の砦』は内省的な文学作品かもしれないが、私の感性とは波長が合わない。

 この小説は二人の人物の一人称記述で構成されている。一人目の「私」は主人公の支倉冬子である。没落した旧家の娘で、北欧の都市でタピスリ(ゴブラン織)を研究していて消息不明になる。二人目の私は北欧で支倉冬子と知り合いになったエンジニア(おそらく日本人男性)で、彼女が消息不明になった後、彼女が残した日記や手紙を整理しながら、その内面を追究している。二人目の私の語りは、冬子が消息不明になってから三年後という設定だ。

 二人の人物の一人称記述の大半は記憶を遡っていく内面的な追憶譚であり、小説全体にドラマチックな展開はない。静謐な時空を紡ぎ出すタピスリのような小説だ。私は、小説が進行していくに従って、この二人の感性について行けなくなり、どちらにも感情移入できなかった。

 冬子の幼少時代の追憶を緻密に綴った序章は読みごたえがあり魅せられる。だが、その後の展開が、序章のバリエーションのくり返しに感じられ、次第に興ざめしてくる。私は芸術至上主義を否定しないが、主人公たちの社会や実生活への視角に浅薄さを感じてしまう。感性を追究する描写は細密かつ濃密で魅力的だと思うが、にもかかわらず何か大きなズレを感じてしまうのだ。

 面白くなければ読後感を書かなくていいのだが、面白くなさの淵源が私自身にも判然としないのでメモを残したくなった。いつの日か、この小説を再読しそうな予感がないわけではない。

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