『榎本武揚 シベリア日記』で榎本の好奇心・探検心を再認識 ― 2019年01月13日
◎ペテルブルグからシベリア経由で帰国
榎本武揚関連の評伝(『榎本武揚』、『近代日本の万能人』)や小説(『武揚伝』、『航』、『小説榎本武揚』、『かまさん』)を数冊を読み、いよいよ本人が書き残した『シベリア日記』を読んだ。
『榎本武揚 シベリア日記』(講談社編/講談社学術文庫)
榎本没後100年の2008年に刊行された本書には『シベリア日記』の他に『渡蘭日記』と書簡3通も収録されている。
箱館戦争に敗れて投獄された榎本武揚は1872年(明治5年)に釈放され、北海道開拓使を勤めた後、1974年に対ロシア領土問題処理のため特命全権公使・海軍中将としてペテルブルグに赴任する。
4年間の海外任務を終えて1878年(明治11年。榎本43歳)、帰国の途につく。ルートはシベリア経由である。ペテルブルグ出発は1878年7月26日、小樽到着は同年10月4日、2カ月余のシベリア横断の記録が『シベリア日記』である。
◎埋もれていた『シベリア日記』
榎本武揚がシベリアを横断したのは西南戦争の翌年、西郷・大久保・木戸らが相次いで没し、幕末の争乱が一段落した時期である。なぜか『シベリア日記』は公表されず、榎本没後27年の昭和10年に発見される。昭和10年代に3回出版されたそうだが非売品や少部数のためあまり知られず、講談社学術文庫版の本書で日の目を見た。
当時、ペテルブルグからの帰国は船旅が常識で、シベリア横断は榎本武揚の好奇心と探検心のあらわれである。同行の日本人は3人(留学生2人、書記官1人)いて、ロシア当局は日本の高官がシベリア横断旅行を支障なく遂行できるよう各地に通達を発している。
◎幅広い関心領域
この日記を読んで、次のようなことを感じた。
・主要な町で厚待遇を受け、大名旅行のようである。
・と言うものの、拷問のような馬車や南京虫に悩まされる苛酷な旅である。
・榎本の関心領域は、土壌・植生・鉱工業・経済・軍備・言語・民族と幅広い。
・夏の旅のせいか、極寒のイメージはあまりない。
・やはり、当時のシベリアには囚人が多い。
・美人目撃の記述が散見される。
・シベリアだけでなく満州や蒙古への関心も強い。
旅の後半で黒龍江(アムール河)を船で下るとき次のような感想を述べている。
「実に亜細亜中屈指の良河にして、欧州のダニューブ北米のミシシッピーとただちに比較し得るものなり」
国際人・榎本武揚の識見を感じる。
◎18歳のとき蝦夷に行っていた
また、この日記の中に次の記述があるのにも注目した。
「予かつて二十五年前、石狩川を航過せしとき河鮫の網に罹かりしこと聴きたり」
25年前と言えば18歳のときである。榎本は昌平坂学問所卒業後、蝦夷・樺太に行ったとされているが、証拠文書が乏しいと聞いたことがある。この日記は証拠のひとつだと思った。
◎幕末留学生の『渡蘭日記』
『渡蘭日記』は幕末にオランダ留学するときの航海日記で、バタビアからセントヘレナ島まで寄港地なしの帆船の旅の坦々とした記録である。
洋上、マグロを釣り上げ、留学生たちは刺身で食べたいと思うが、オランダ人に野蛮と思われそうなので言い出せない。不味く調理された煮魚に辟易する場面などが面白い。
洋上が晴れていても島の上に雲がかかっていることが多いという指摘は、私が航海したときの経験と同じで共感したが、榎本は「ただ、雲容の模様、自ずから異なれり」と記している。幕末の人が私より深く観察しているのに敬服した。
◎解説文も歴史的文書では?
本書の巻末には次の二つの解説が載っている。
「両日記の解説 -- 榎本武揚小伝」(廣瀬彦太)
「学術文庫版解説」(佐々木克)
後者の筆者は幕末史の著名な歴史学者で妥当な解説文だが、前者の解説がヘンである。文体や内容から昭和10年代に刊行された『日記』の解説文と思われる。廣瀬彦太という人はウィキペディアにも載っていない。「生年1882年、没年1968年」とはわかった。「両日記の解説 -- 榎本武揚小伝」なる解説は歴史的文書として扱われるべきものと思われるが、本書には何の説明もない。不親切である。
榎本武揚関連の評伝(『榎本武揚』、『近代日本の万能人』)や小説(『武揚伝』、『航』、『小説榎本武揚』、『かまさん』)を数冊を読み、いよいよ本人が書き残した『シベリア日記』を読んだ。
『榎本武揚 シベリア日記』(講談社編/講談社学術文庫)
榎本没後100年の2008年に刊行された本書には『シベリア日記』の他に『渡蘭日記』と書簡3通も収録されている。
箱館戦争に敗れて投獄された榎本武揚は1872年(明治5年)に釈放され、北海道開拓使を勤めた後、1974年に対ロシア領土問題処理のため特命全権公使・海軍中将としてペテルブルグに赴任する。
4年間の海外任務を終えて1878年(明治11年。榎本43歳)、帰国の途につく。ルートはシベリア経由である。ペテルブルグ出発は1878年7月26日、小樽到着は同年10月4日、2カ月余のシベリア横断の記録が『シベリア日記』である。
◎埋もれていた『シベリア日記』
榎本武揚がシベリアを横断したのは西南戦争の翌年、西郷・大久保・木戸らが相次いで没し、幕末の争乱が一段落した時期である。なぜか『シベリア日記』は公表されず、榎本没後27年の昭和10年に発見される。昭和10年代に3回出版されたそうだが非売品や少部数のためあまり知られず、講談社学術文庫版の本書で日の目を見た。
当時、ペテルブルグからの帰国は船旅が常識で、シベリア横断は榎本武揚の好奇心と探検心のあらわれである。同行の日本人は3人(留学生2人、書記官1人)いて、ロシア当局は日本の高官がシベリア横断旅行を支障なく遂行できるよう各地に通達を発している。
◎幅広い関心領域
この日記を読んで、次のようなことを感じた。
・主要な町で厚待遇を受け、大名旅行のようである。
・と言うものの、拷問のような馬車や南京虫に悩まされる苛酷な旅である。
・榎本の関心領域は、土壌・植生・鉱工業・経済・軍備・言語・民族と幅広い。
・夏の旅のせいか、極寒のイメージはあまりない。
・やはり、当時のシベリアには囚人が多い。
・美人目撃の記述が散見される。
・シベリアだけでなく満州や蒙古への関心も強い。
旅の後半で黒龍江(アムール河)を船で下るとき次のような感想を述べている。
「実に亜細亜中屈指の良河にして、欧州のダニューブ北米のミシシッピーとただちに比較し得るものなり」
国際人・榎本武揚の識見を感じる。
◎18歳のとき蝦夷に行っていた
また、この日記の中に次の記述があるのにも注目した。
「予かつて二十五年前、石狩川を航過せしとき河鮫の網に罹かりしこと聴きたり」
25年前と言えば18歳のときである。榎本は昌平坂学問所卒業後、蝦夷・樺太に行ったとされているが、証拠文書が乏しいと聞いたことがある。この日記は証拠のひとつだと思った。
◎幕末留学生の『渡蘭日記』
『渡蘭日記』は幕末にオランダ留学するときの航海日記で、バタビアからセントヘレナ島まで寄港地なしの帆船の旅の坦々とした記録である。
洋上、マグロを釣り上げ、留学生たちは刺身で食べたいと思うが、オランダ人に野蛮と思われそうなので言い出せない。不味く調理された煮魚に辟易する場面などが面白い。
洋上が晴れていても島の上に雲がかかっていることが多いという指摘は、私が航海したときの経験と同じで共感したが、榎本は「ただ、雲容の模様、自ずから異なれり」と記している。幕末の人が私より深く観察しているのに敬服した。
◎解説文も歴史的文書では?
本書の巻末には次の二つの解説が載っている。
「両日記の解説 -- 榎本武揚小伝」(廣瀬彦太)
「学術文庫版解説」(佐々木克)
後者の筆者は幕末史の著名な歴史学者で妥当な解説文だが、前者の解説がヘンである。文体や内容から昭和10年代に刊行された『日記』の解説文と思われる。廣瀬彦太という人はウィキペディアにも載っていない。「生年1882年、没年1968年」とはわかった。「両日記の解説 -- 榎本武揚小伝」なる解説は歴史的文書として扱われるべきものと思われるが、本書には何の説明もない。不親切である。
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