ビザンツの扱いが気になって昔の歴史概説書を読んだ2025年04月24日

『中世ヨーロッパ(世界の歴史3)』(責任編集:堀米庸三/中公文庫)
 中央公論社のシリーズ本『世界の歴史』は旧版(全16巻:1960年刊行開始)と新版(全30巻:1996年刊行開始)がある。その旧版第3巻の文庫版を古書で入手して読んだ。

 『中世ヨーロッパ(世界の歴史3)』(責任編集:堀米庸三/中公文庫)

 本書の原版の刊行は1961年2月。こんな古い本を読もうと思ったのは、ビザンツ史への関心がきっかけだ。ビザンツ史の概説書には、コンスタンティノープルの見聞記を残したクレモナ司教リュートプランドがよく登場する。この人物をウィキペディアで検索すると次の記述がある。

 「堀米庸三は、彼に匹敵するギリシア通が後世に現れなかったため、彼の東ローマに対する偏見が後世まで影響を及ぼしたと述べている。(『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』)」

 半世紀以上昔、碩学・堀米庸三はビザンツ史が偏見で語られがちだと指摘していたようだ。彼がビザンツ史をどのように語っているかに興味がわき、本書を読んだ。

 読み終えて、小さな失望と大きな満足を得た。ビザンツ史に関しては、私が期待したような記述はなかった。だが、本書を読み進めながら中世ヨーロッパ史の多様な面白さを堪能できた。読みごたえのある歴史書だった。

 本書は前半四分の三を堀米庸三、残りの四分の一を弟子の木村尚三郎が執筆している。ウィキペディアが紹介している指摘の正確な引用は以下の通りだ。

 「リュートプランド以後には、彼に匹敵するギリシア通の使節はもはやあらわれず、かえって彼のビザンツに対する偏見があとあとまで影響した。」

 リュートプランドの複数回にわたるコンスタンティノープル訪問について、本書は約3ページを費やして記述している。全般的にリュープランドに同情的であり、ビザンツへの偏見をことさら話題にしているわけではない。

 本書は基本的に「ビザンツ」ではなく「東ローマ」という用語を使用している。この二つは同じだと思うが、あえて使い分けるなら、東ローマのギリシア化(7世紀頃)以降をビザンツと呼ぶこともあるようだ。本書はそんな使い分けはせず、東ローマで一貫しているが、以下のような文脈でビザンツという言葉が出てくる。

 「西方との接触がうすれていけば、それだけ東ローマは専制的な東洋風、ビザンツ風になっていく。」
 「サラセンの地中海制覇以来、東ローマが西方との関係を次第に薄くし、東方化、ビザンツ化を深めたことは否定できない。こういった理由から私は、東ローマをビザンツ世界としてヨーロッパから区別する。」

 「ビザンツ風」「ビザンツ化」「ビザンツ世界」とは何かの説明はない。読者には自明ということなのだろう。東ローマは「中世ヨーロッパ」と題する本書の対象外としているのである。東ローマから離脱することによってヨーロッパが成立したと見なしているようだ。だから、東ローマに関する記述はさほど多くない。

 と言っても、ヨーロッパの成立を語るには東ローマに言及せざるを得ない場面はいろいろある。あのアンナ・コムネナも「きこえた才媛」と紹介し、その著書の記述をかなり引用している。

 本書には、ビザンツ関連以外にも興味をひかれる話題が多い。私は9年前、『大聖堂』(ケン・フォレット)という小説を読んで中世ヨーロッパへの関心がわき、概説書を2冊読んだことがある。その1冊は堀米庸三の著作だった。だが、9年前に読んだ概説書の内容はほとんど蒸発していて、頭の中は白紙に近い。本書を読み進めながら、初めて中世ヨーロッパ史の概説書に取り組んでいるような新鮮な気分を味わった。

 例えば、カノッサの屈辱で知られるハインリヒ4世とグレゴリー7世の波乱に富んだ物語は、中世ヨーロッパのさまざまな事情が反映されていて、とても面白い。二人とも失意の最期をむかえるのも小説のようだ。あらためて、この時代への興味がわいた。

 いずれ、ゆっくり再読したい本である。

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