『アラブが見た十字軍』はイスラム世界のドタバタ劇か?2025年05月11日

『アラブが見た十字軍』(ミン・マールーフ/牟田口義郎、新川雅子訳/ちくま学芸文庫)
 『中世ヨーロッパ』(堀米庸三)、『ヨーロパ中世』(鯖田豊之)の2冊を続けて読んで頭が 中世モードになり、未読棚の次の本を引っ張り出して読んだ。

 『アラブが見た十字軍』(アミン・マアルーフ/牟田口義郎、新川雅子訳/ちくま学芸文庫)

 著者は1949年レバノン生まれのジャーナリスト。私より1歳若い。原書はフランス語、1983年の刊行だ。タイトル通り、アラブ視点で十字軍襲来を描いている。

 十字軍はヨーロッパ視点で語られることが多い。そもそも「十字軍」という概念や用語がヨーロッパ視点である。私は4年前に塩野七生の『十字軍物語』を読んだ。あの歴史小説も基本的にはヨーロッパ視点だが、イスラム側から見た十字軍の野蛮な後進性にも言及していた。

 本書のタイトルから、西方から襲来する蛮族の侵略行為を描いた本だろうと思った。だが、少し違っていた。もちろん、フランク(ヨーロッパから来た十字軍をイスラム側はフランクと呼ぶ)の蛮行も描いているが、フランク襲来の時代のイスラム世界の混迷ぶりの描写がメインである。混迷の後にサラディンらによる統一と反撃があるとしても、不条理なドタバタ劇の印象が強い。

 最初の十字軍が小アジアに現れた1096年頃、セルジューク朝はすでに全盛期を過ぎ、分離傾向が強くなっていた。小アジアで最初に十字軍に対応したのは、バグダードから分離独立したルーム=セルジューク朝のスルタンである。

 第一回十字軍がエルサレム占拠に成功し、いくつかの十字軍国家が成立したのは、十字軍に対応するイスラム世界がバラバラだったせいだとは聞いていた。その実態を本書で知り、少々驚き、あきれた。

 本書の舞台となるイスラム世界は元来はアラブ人の土地で、セルジューク朝はトルコ系である。そんなところにもバラバラの要因があるだろうが、トルコ系の領主同士も相争っている。

 割拠する領主たちは兄弟であっても敵なのである。領主同士の合従連衡はあるが、いつ裏切られかわからない。フランクと戦っている領主への支援に駆け付け、手のひら返しで戦わずに引き返したりもする。フランクの勝利が自身に有利と判断したのである。相手を倒すためには、フランクと組むこともいとわない。

 バグダッドではセルジューク朝のスルタンが傀儡のカリフ(アッバース朝)を戴いている。このカリフが傀儡であることに不満で、支援者を糾合してスルタンに戦いを挑んだりもする。

 ビザンツとフランクの関係も複雑だ。共にキリスト教なのに、フランクはギリシア正教の村を略奪する。ビザンツがイスラムと組んでフランクに対峙することもある。

 イスラム世界には、ビザンツで弾圧された非カトリックのキリスト教徒(ヤコブ派、東方キリスト諸派)も住んでいる。イスラムは異教徒に寛容だからだ。彼らはフランクではなくイスラムを支援する。

 フランクも団結しているわけでなく、フランク同士の争いもある。そんな争いの一方にイスラム側が加担することもある。

 また、同じイスラムでもスンニ派のセルジューク朝とシーア派のファーティマ朝(エジプト)は敵対することが多い。そこに過激なシーア派の暗殺教団が絡み、スンニ派の要人を暗殺する。暗殺教団とフランクが組むこともある。

 マクロに見れば、キリスト教世界の十字軍とイスラム世界の争いなのだが、ミクロに見ると敵と味方が入り乱れて何でもありのゴチャゴチャした世界だ。人間の集団は宗教という理念で動くのではなく、己の利害や感情で動くことが多く、それが自然だろうとの思いにかられる。不条理なドタバタ劇は歴史の常態に近いのかもしれない。

 本書は面白いのだが、馴染みのない人名の頻出に難儀した。イスラムの似たような人名の識別が難しくて混乱するのだ。人名索引もない。仕方なく、主な登場人物をメモしながら読み進めた。読了後に数えるとイスラム側の人名だけで58人になった。そのうちの11名は、本書の記述のベースになった歴史家や年代記作家である。あらためて、当時のイスラム世界の文化レベルの高さを感じた。

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