『唐十郎のせりふ』は舞台の姿を文章で伝える書2022年12月20日

『唐十郎のせりふ:二〇〇〇年代戯曲をひらく』(新井高子/幻戯書房)
 唐十郎の戯曲を論じた次の本を読んだ。

 『唐十郎のせりふ:二〇〇〇年代戯曲をひらく』(新井高子/幻戯書房)

 私は1960年代終わりから70年代始めにかけて唐十郎の紅テントの芝居をかなり観ている。戯曲も10冊近く読んだ。近年、再演が多い唐作品のいくつかも観ている。だから『唐十郎のせりふ』というタイトルの本書に惹かれたのである。

 本書が出たのは昨年12月、購入したのは今年はじめだ。書店の店頭で本書の目次を眺めたとき、少し驚いた。唐十郎の15作品が並んでいるが、私が知っているのは1編(泥人魚)だけ、他の14編は未知の作品だ。本書が論じているのは2000年以降に劇団唐組が上演した作品で、往年の状況劇場ファンの私が惹かれた全盛期の芝居とはズレている。でも、唐十郎を論じた本は珍しいので手元に置いておこうと思って購入した。

 著者は1966年生まれの詩人、埼玉大准教授だそうだ。本書は今秋、第32回吉田秀和賞を受賞した。そのニュースに接したのを機に、積んであった本書をひもといた。

 戯曲も舞台も知らない芝居に関する文章にどこまでついて行けるか、多少の不安があった。だが、杞憂だった。著者は、それぞれの芝居のあらすじを著者の見方で紹介したうえで、その芝居の含意や魅力を的確に展開している。文章を読んでいるだけで、見たことのない舞台の様子が頭に浮かんでくる。これは不思議な読書体験である。単に戯曲を読む以上に舞台を感じられた。著者が舞台を観て感得した重層的な体験が巧く文章化されているせいだと思う。

 唐十郎の芝居は「わからない。でも、面白い」と言われることが多い。そんな芝居を論ずるのは容易でない。自分なりに安易に読み解いてしまうと、こぼれ落ちるものが多く、かえってつまらなくなる。芝居は戯曲という文学ではなく、役者の肉体表現であり、詩・音楽・美術でもある。それを文章で捉えるには修練と感性が必要だと思う。

 本書は冷静な戯曲論の体裁をしているが、その背後には著者の紅テント芝居への並々ならぬ熱情(イレコミ)が秘められている。ときとして、著者は舞台で演じている役者以上に観客として芝居に没入しているようにも思える。本書からは、そんな体験を踏まえた迫力が伝わってくる。

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