『物語としての旧約聖書』の読み解きが興味深い ― 2024年03月02日
『ビジュアル版 聖書物語』に続いて次の関連書を読んだ。今年1月に出た新刊である。
『物語としての旧約聖書:人類史に何をもたらしたか』(月本昭男/NHKブックス)
私には本書はやや専門的に感じられた。読者が旧約聖書の内容をある程度把握していることを前提にしているように思える。旧約聖書の多様な解釈にウエイトを置いた本である。私は『聖書物語』を読んだばかりだったおかげで、何とか興味深く読了できた。
天地創造から楽園追放、ノアの洪水、アブラハム、出エジプトを経てカナン定住に至るまでの物語とその解釈が、特に面白かった。
アブラハムが神から愛児イサクを犠牲に献げと命じられて応じる話は、普通に考えれば奇怪である。著者は、この話がどのように解釈されてきたかをいろいろ紹介している。キルケゴールの「そのような不条理を『おそれとおののき』をもって受けとめること、そこにこそ神信仰の本質がある」という見解には「へぇー」と感心した。不条理の哲学だろうか。理解できたわけではない。
出エジプトが史実かどうかは不明だが、その後、イスラエルの民は「約束の地」カナンに定住する。「約束の地」と言ってもそこには先住者がいるのだから穏当ではない。旧約聖書の記述からは「軍事征服説」と「平和浸透説」の二つの解釈が成り立つそうだ。その他に社会学的視座から、貧農層が都市支配から「引き揚げた」という説や貧農層が「反乱」したという説もあるそうだ。
旧約聖書にたたみこまれているもの、反映されている「何か」を読み解く話はスリリングで面白い。
本書を読んで、私の印象に残った旧約聖書の性格は次の三点である。
・唯一神への信仰を強く主張している
・歴史観は因果応報思想である
・記述には矛盾も多く複眼的である
著者が述べているように、オリエントの強大国に翻弄され続けた弱小の民が残した旧約聖書が後世のキリスト教やイスラム教を生み出すことになるのは逆説的な現象である。その不思議に感慨をおぼえざるを得ない。
『物語としての旧約聖書:人類史に何をもたらしたか』(月本昭男/NHKブックス)
私には本書はやや専門的に感じられた。読者が旧約聖書の内容をある程度把握していることを前提にしているように思える。旧約聖書の多様な解釈にウエイトを置いた本である。私は『聖書物語』を読んだばかりだったおかげで、何とか興味深く読了できた。
天地創造から楽園追放、ノアの洪水、アブラハム、出エジプトを経てカナン定住に至るまでの物語とその解釈が、特に面白かった。
アブラハムが神から愛児イサクを犠牲に献げと命じられて応じる話は、普通に考えれば奇怪である。著者は、この話がどのように解釈されてきたかをいろいろ紹介している。キルケゴールの「そのような不条理を『おそれとおののき』をもって受けとめること、そこにこそ神信仰の本質がある」という見解には「へぇー」と感心した。不条理の哲学だろうか。理解できたわけではない。
出エジプトが史実かどうかは不明だが、その後、イスラエルの民は「約束の地」カナンに定住する。「約束の地」と言ってもそこには先住者がいるのだから穏当ではない。旧約聖書の記述からは「軍事征服説」と「平和浸透説」の二つの解釈が成り立つそうだ。その他に社会学的視座から、貧農層が都市支配から「引き揚げた」という説や貧農層が「反乱」したという説もあるそうだ。
旧約聖書にたたみこまれているもの、反映されている「何か」を読み解く話はスリリングで面白い。
本書を読んで、私の印象に残った旧約聖書の性格は次の三点である。
・唯一神への信仰を強く主張している
・歴史観は因果応報思想である
・記述には矛盾も多く複眼的である
著者が述べているように、オリエントの強大国に翻弄され続けた弱小の民が残した旧約聖書が後世のキリスト教やイスラム教を生み出すことになるのは逆説的な現象である。その不思議に感慨をおぼえざるを得ない。
那覇の小劇場で基地問題テーマの芝居を観た ― 2024年03月04日
那覇市安里の「ひめゆりピースホール」という小さなホールで『カタブイ、1995』(脚本・演出:内藤裕子、出演:新井純、花城清長、馬渡亜樹、高井康行、稀乃、宮城はるの)という芝居を観た。
このホールでの観劇は、昨年10月の『カフウムイ』以来2回目だ。私はこの数年、年2回約2週間ずつ沖縄で過ごしている。沖縄滞在のスケジュールに合致したので観劇した。
『カタブイ、1995』は3月中旬に下北沢の小劇場で上演予定で、それを紹介する朝日新聞(2024.2.22夕刊)の記事で那覇上演を知った。その記事によって、米軍基地問題テーマのややシリアスな芝居だろうと予測した。「カタブイ」とはスコールのことで「片降い」と書く。プロパガンダ演劇は苦手だが、それを超える面白さがあるかもしれないと思い、劇場に足を運んだ。
脚本・演出の内藤裕子氏は沖縄出身者ではない。沖縄での取材を重ね、沖縄の本土復帰テーマの3部作を書き下ろし、本作が2作目だそうだ(本作以前に『カタブイ、1972』を上演)。
時代は1995年、反戦地主だった父が亡くなった直後の女性3代の家族の物語である。亡くなった父を含めると、曾祖父、祖母、母、娘の4代になる。祖母は元教師、母は教師、娘は中学生で、この家には父が残したサトウキビ畑がある。その刈り入れは大変な作業である。1995年2月、母と同世代の男が東京から訪ねて来る。復帰前の学生時代に援農でサトウキビ刈りに来ていた男で、かつては母と恋仲だったらしい――という導入である。(どうでもいい話だが、この母と男は私とほぼ同世代だ)
この芝居には日本国憲法、日米安保条約、日米地位協定の条文を朗読するシーンが挿入されていて、普段は読むことのないその内容をあらためて認識させられる。1995年の米兵による少女暴行事件をきっかけに高揚した反基地運動、太田知事の代理署名拒否などを背景にして、約30年前の同時代史がよみがえってくる。
第3作目は、おそらくこの家族の現在を描くのだろうが、その後の歴史を知っているので苦い思いになる。芝居のなかで最も印象に残ったのは、中学生の娘が三線を奏でながら歌う民謡である。よく通る高音が時代を貫く人々の思いの表出になっている。
このホールでの観劇は、昨年10月の『カフウムイ』以来2回目だ。私はこの数年、年2回約2週間ずつ沖縄で過ごしている。沖縄滞在のスケジュールに合致したので観劇した。
『カタブイ、1995』は3月中旬に下北沢の小劇場で上演予定で、それを紹介する朝日新聞(2024.2.22夕刊)の記事で那覇上演を知った。その記事によって、米軍基地問題テーマのややシリアスな芝居だろうと予測した。「カタブイ」とはスコールのことで「片降い」と書く。プロパガンダ演劇は苦手だが、それを超える面白さがあるかもしれないと思い、劇場に足を運んだ。
脚本・演出の内藤裕子氏は沖縄出身者ではない。沖縄での取材を重ね、沖縄の本土復帰テーマの3部作を書き下ろし、本作が2作目だそうだ(本作以前に『カタブイ、1972』を上演)。
時代は1995年、反戦地主だった父が亡くなった直後の女性3代の家族の物語である。亡くなった父を含めると、曾祖父、祖母、母、娘の4代になる。祖母は元教師、母は教師、娘は中学生で、この家には父が残したサトウキビ畑がある。その刈り入れは大変な作業である。1995年2月、母と同世代の男が東京から訪ねて来る。復帰前の学生時代に援農でサトウキビ刈りに来ていた男で、かつては母と恋仲だったらしい――という導入である。(どうでもいい話だが、この母と男は私とほぼ同世代だ)
この芝居には日本国憲法、日米安保条約、日米地位協定の条文を朗読するシーンが挿入されていて、普段は読むことのないその内容をあらためて認識させられる。1995年の米兵による少女暴行事件をきっかけに高揚した反基地運動、太田知事の代理署名拒否などを背景にして、約30年前の同時代史がよみがえってくる。
第3作目は、おそらくこの家族の現在を描くのだろうが、その後の歴史を知っているので苦い思いになる。芝居のなかで最も印象に残ったのは、中学生の娘が三線を奏でながら歌う民謡である。よく通る高音が時代を貫く人々の思いの表出になっている。
『地中海の十字路=シチリアの歴史』を読んで沖縄を連想 ― 2024年03月06日
私は6年前にシチリアの古跡を巡るツアーに参加した。それに先立ってシチリア史の概説書を何冊か読んだ。だが、6年前に読んだ本の内容の大半は蒸発していて、シチリア史の何層にも堆積した複雑さの漠然たる印象が残っているだけだ。
あの複雑なシチリア史の復習をしようと思い、次の本を読んだ。1943年生まれの研究者による5年前の本である。
『地中海の十字路=シチリアの歴史』(藤澤房俊/講談社選書メチエ)
本書は、紀元前8世紀のギリシア植民市から20世紀の第2次世界大戦終結までのシチリア史を要領よく描いている。読了して、シチリアの歴史の複雑さと面白さをあらためて認識した。
ざっくり言えば1282年の「シチリアの晩禱」事件までは活気があり、それ以降は沈滞と翻弄の時代に思える。
シチリアと言えば、塩野七生が『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』で魅力的に描いたフェデリーコ2世が思い浮かぶ。「世界の驚異」と呼ばれた13世紀のこの皇帝に、本書はかなりのページを割き、その事績には神話・俗説も多いと述べている。フェデリーコ2世の施策(都市反乱の弾圧など)がイタリアの南北問題の歴史的要因の一つになったとも指摘している。意外な指摘だ。
18世紀末にシチリアを「再発見」したのは『イタリア紀行』を著したゲーテである。その再発見はオリエンタリズムであり、シチリア人にとっては「シチリアに無知なヨーロッパ人」の再発見だった、との見解が面白い。
マルクスもシチリア史に言及しているそうだ。マルクスは、以下のように要領よくまとめている。
「シチリア人は南と北のあらゆる人種が混血したものである。まず、原住民のシカーニ人、フェニキア人、カルタゴ人、ギリシア人、そして売買あるいは戦争によって世界各地からシチリアに連れてこられた奴隷、さらにアラブ人、ノルマン人、イタリア人との混血である。シチリア人は、あらゆる転変と推移の間にも、自らの自由のために戦ってきたし、戦い続けている。」
シチリアは歴史的に何度か独立を試みているが、現在はイタリアの特別自治州である。海に囲まれたシチリアの歴史は、海からやって来る「よそ者」に次々に支配・翻弄される歴史だった。最後にやって来た「よそ者」は第2次世界大戦末期の米英連合軍である。
私は現在、沖縄滞在中で、本書を沖縄で読んだ。そのせいか、シチリアと沖縄が二重写しになった。
あの複雑なシチリア史の復習をしようと思い、次の本を読んだ。1943年生まれの研究者による5年前の本である。
『地中海の十字路=シチリアの歴史』(藤澤房俊/講談社選書メチエ)
本書は、紀元前8世紀のギリシア植民市から20世紀の第2次世界大戦終結までのシチリア史を要領よく描いている。読了して、シチリアの歴史の複雑さと面白さをあらためて認識した。
ざっくり言えば1282年の「シチリアの晩禱」事件までは活気があり、それ以降は沈滞と翻弄の時代に思える。
シチリアと言えば、塩野七生が『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』で魅力的に描いたフェデリーコ2世が思い浮かぶ。「世界の驚異」と呼ばれた13世紀のこの皇帝に、本書はかなりのページを割き、その事績には神話・俗説も多いと述べている。フェデリーコ2世の施策(都市反乱の弾圧など)がイタリアの南北問題の歴史的要因の一つになったとも指摘している。意外な指摘だ。
18世紀末にシチリアを「再発見」したのは『イタリア紀行』を著したゲーテである。その再発見はオリエンタリズムであり、シチリア人にとっては「シチリアに無知なヨーロッパ人」の再発見だった、との見解が面白い。
マルクスもシチリア史に言及しているそうだ。マルクスは、以下のように要領よくまとめている。
「シチリア人は南と北のあらゆる人種が混血したものである。まず、原住民のシカーニ人、フェニキア人、カルタゴ人、ギリシア人、そして売買あるいは戦争によって世界各地からシチリアに連れてこられた奴隷、さらにアラブ人、ノルマン人、イタリア人との混血である。シチリア人は、あらゆる転変と推移の間にも、自らの自由のために戦ってきたし、戦い続けている。」
シチリアは歴史的に何度か独立を試みているが、現在はイタリアの特別自治州である。海に囲まれたシチリアの歴史は、海からやって来る「よそ者」に次々に支配・翻弄される歴史だった。最後にやって来た「よそ者」は第2次世界大戦末期の米英連合軍である。
私は現在、沖縄滞在中で、本書を沖縄で読んだ。そのせいか、シチリアと沖縄が二重写しになった。
北里柴三郎の伝記は面白い ― 2024年03月08日
先日、北里研究所の関係者と面談する機会があった。そのときまで、北里研究所とは北里大学内の研究機関だと思っていた。しかし、逆だった。北里研究所のもとに北里大学や北里病院などの諸機関があるそうだ。北里柴三郎が設立したのは北里研究所であり、それがそもそもの母体だと知った。そんなきっかけでこの偉人について知りたくなり、伝記を読んだ。
『北里柴三郎:雷(ドンネル)と呼ばれた男(上)(下)』(山崎光男/中公文庫)
本書は2003年刊行の単行本の文庫版(2007年)である。著者は、医学・薬学分野の作品が多い小説家である。今年の夏、千円札の肖像が野口英世から北里柴三郎に代わるが、それに当て込んだ本ではない。
北里柴三郎については子供時代に偉人の一人として習っただけで、詳しくは知らなかった。第1回ノーベル賞受賞の可能性があったが、東洋人なので受賞を逸したという話を聞いたことはある。本書を読んで、北里柴三郎の業績と疾風怒涛の生涯を知った。第1回ノーベル賞に関する著者の見解も納得できた。とても面白い伝記である。
細菌学と言えばコッホの名が浮かぶ。柴三郎はベルリンに留学し、コッホの門下生になる。単なる弟子ではなく、優秀な共同研究者としてコッホから高く評価される。同じ時期の留学生・森林太郎とはかなり異なる。柴三郎の方が研究熱心だ。
柴三郎はケンブリッジなど英米の大学から「研究所長に…」と要請されるが、国費留学生なので帰国する。しかし、帰国しても能力を活かす場がない。柴三郎の留学時代から「東大vs北里」という感情的対立があったからである。妬みが絡んだ対立という図式は、よくある光景だ。
やがて、福沢諭吉や内務官僚らの支援で柴三郎のための私立伝染病研究所が設立され、その後、国立の研究所になる。柴三郎は伝染病研究所の所長として39歳から61歳まで活躍する。
しかし、柴三郎が61歳のとき、政治家らの思惑で伝染病研究所は唐突に文部省に移管され東大付属となる。柴三郎は辞任し、自ら北里研究所を設立する。そのとき、研究員らも柴三郎と行動を共にする。研究員は残留すると目論んでいた東大側はあわてる。このくだりの経緯は小説のように面白い。現在の北里研究所の由来がよくわかった。
『北里柴三郎:雷(ドンネル)と呼ばれた男(上)(下)』(山崎光男/中公文庫)
本書は2003年刊行の単行本の文庫版(2007年)である。著者は、医学・薬学分野の作品が多い小説家である。今年の夏、千円札の肖像が野口英世から北里柴三郎に代わるが、それに当て込んだ本ではない。
北里柴三郎については子供時代に偉人の一人として習っただけで、詳しくは知らなかった。第1回ノーベル賞受賞の可能性があったが、東洋人なので受賞を逸したという話を聞いたことはある。本書を読んで、北里柴三郎の業績と疾風怒涛の生涯を知った。第1回ノーベル賞に関する著者の見解も納得できた。とても面白い伝記である。
細菌学と言えばコッホの名が浮かぶ。柴三郎はベルリンに留学し、コッホの門下生になる。単なる弟子ではなく、優秀な共同研究者としてコッホから高く評価される。同じ時期の留学生・森林太郎とはかなり異なる。柴三郎の方が研究熱心だ。
柴三郎はケンブリッジなど英米の大学から「研究所長に…」と要請されるが、国費留学生なので帰国する。しかし、帰国しても能力を活かす場がない。柴三郎の留学時代から「東大vs北里」という感情的対立があったからである。妬みが絡んだ対立という図式は、よくある光景だ。
やがて、福沢諭吉や内務官僚らの支援で柴三郎のための私立伝染病研究所が設立され、その後、国立の研究所になる。柴三郎は伝染病研究所の所長として39歳から61歳まで活躍する。
しかし、柴三郎が61歳のとき、政治家らの思惑で伝染病研究所は唐突に文部省に移管され東大付属となる。柴三郎は辞任し、自ら北里研究所を設立する。そのとき、研究員らも柴三郎と行動を共にする。研究員は残留すると目論んでいた東大側はあわてる。このくだりの経緯は小説のように面白い。現在の北里研究所の由来がよくわかった。
大河ドラマ『光の君へ』の藤原実資への興味がわいた ― 2024年03月10日
私はNHKの大河ドラマの大半は見ていないが、今年の『光の君へ』は視聴を続けている。舞台が平安時代で紫式部が主人公という意外性に興味を抱いたからである。と言っても、藤原道長や紫式部についてほとんど知らない。源氏物語は口語訳すら読んだことはない。
ドラマは現代的で意外に面白い。かなりフィクションを盛り込んでいると感じるが、そもそもの史実を知らないので、どこまで史実を踏まえているかわからない。で、このドラマの時代考証を担当した研究者が著した次の新書を読んだ。
「紫式部と藤原道長」(倉本一宏/講談社現代新書)
著者は「はじめに」で次のように述べている。
「紫式部と道長が2024年の大河ドラマの主人公になることが決まったとき、平安時代を研究する者として、この時代の歴史にもやっと日が当たる時が来たと喜んだものである(その直後、喜んでばかりいられないことになってしまったが)。しかし、ドラマのストーリーが独り歩きして、紫式部と道長が実際にドラマで描かれるような人物であったと誤解さるのは、如何なものかとは思う。この本では、ここまでは史実であるという紫式部と道長のリアルな姿を、明らかにしていきたい。」
本書は一次史料で確認できる紫式部と藤原道長の姿を描いている。同時代に紫式部や道長に実際に接した人が残した史料から推測される二人のイメージは、ドラマとはかなり異なる。
ドラマは少年少女時代の道長と紫式部の出会いを描いているが、著者は次のように指摘している。
「五男とはいえ摂関家の子息である道長と無官の貧乏学者の女である紫式部が幼少期に顔を合わせた可能性は、ほぼゼロといったところであるが。」
史実で確認できない部分を想像力で膨らませるのが歴史ドラマの醍醐味だから、若い紫式部と道長が互いに引かれ合う設定はいいと思う。と言うか、そうでなければ物語は始まらない。
だが、本書によって紫式部が親子ほど年の離れた年長の藤原宣孝と結婚すると知って驚いた。ドラマの藤原宣孝は紫式部の父を時々訪れる気さくなオジサンで、佐々木蔵之介が演じている。今後、このオジサンが吉高由里子演じる紫式部に求婚する展開になるとは想像し難いが、史実を変えるわけにはいかないだろう。
本書には、藤原実資の記した日記『小右記』からの引用が多い。藤原実資はドラマでも日記を書き続ける不平不満の貴族として登場する。この人物は、この先長く道長や紫式部の生涯に付き合っていくことになるようだ。ドラマを観るうえで、実資への興味が大きくなった。
ドラマは現代的で意外に面白い。かなりフィクションを盛り込んでいると感じるが、そもそもの史実を知らないので、どこまで史実を踏まえているかわからない。で、このドラマの時代考証を担当した研究者が著した次の新書を読んだ。
「紫式部と藤原道長」(倉本一宏/講談社現代新書)
著者は「はじめに」で次のように述べている。
「紫式部と道長が2024年の大河ドラマの主人公になることが決まったとき、平安時代を研究する者として、この時代の歴史にもやっと日が当たる時が来たと喜んだものである(その直後、喜んでばかりいられないことになってしまったが)。しかし、ドラマのストーリーが独り歩きして、紫式部と道長が実際にドラマで描かれるような人物であったと誤解さるのは、如何なものかとは思う。この本では、ここまでは史実であるという紫式部と道長のリアルな姿を、明らかにしていきたい。」
本書は一次史料で確認できる紫式部と藤原道長の姿を描いている。同時代に紫式部や道長に実際に接した人が残した史料から推測される二人のイメージは、ドラマとはかなり異なる。
ドラマは少年少女時代の道長と紫式部の出会いを描いているが、著者は次のように指摘している。
「五男とはいえ摂関家の子息である道長と無官の貧乏学者の女である紫式部が幼少期に顔を合わせた可能性は、ほぼゼロといったところであるが。」
史実で確認できない部分を想像力で膨らませるのが歴史ドラマの醍醐味だから、若い紫式部と道長が互いに引かれ合う設定はいいと思う。と言うか、そうでなければ物語は始まらない。
だが、本書によって紫式部が親子ほど年の離れた年長の藤原宣孝と結婚すると知って驚いた。ドラマの藤原宣孝は紫式部の父を時々訪れる気さくなオジサンで、佐々木蔵之介が演じている。今後、このオジサンが吉高由里子演じる紫式部に求婚する展開になるとは想像し難いが、史実を変えるわけにはいかないだろう。
本書には、藤原実資の記した日記『小右記』からの引用が多い。藤原実資はドラマでも日記を書き続ける不平不満の貴族として登場する。この人物は、この先長く道長や紫式部の生涯に付き合っていくことになるようだ。ドラマを観るうえで、実資への興味が大きくなった。
『君が手にするはずだった黄金について』は小説家に関する連作集 ― 2024年03月13日
『君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)
5カ月前に出た小川哲氏の新作を面白く読んだ。まとまりのいい連作短篇集で、6篇でひとつの世界を構築している。私小説を装って、小説家とは何者かを追究した「小説家小説」である。
冒頭の短篇のタイトルは『プロローグ』、末尾の短篇のタイトルが『受賞エッセイ』、長編小説の「プロローグ」と「あとがき」とかん違いしそうになる構成だ。内容も、『プロローグ』が小説を書く生活を選んだ決意表明、『受賞エッセイ』が小説を書き続けることの持続表明に思える。
私は数年前に小川氏の『ゲームの王国』を読んで虚実混在世界構築の筆力に感心し、その後、『ユートロニカのこちら側』、『地図と拳』、『君のクイズ』なども面白く読んだ。これらの作品を生み出してきた小説家の生活と内面を垣間見た気分になる連作短篇集である。
冒頭の短篇には「『ムーン・パレス』を読んでいる人に幻滅するような男なら、そもそも付き合わない方がいい」「谷崎の初版本を渡されて喜ばない人とは付き合う価値がないよ」などの気障でシャレた台詞が出てくる。私は『ムーン・パレス』を読んでいないし、もちろん谷崎の初版本も持っていない。でも、こんな台詞がある小説を面白いと感じてしまう。
フィクションを紡ぐ現場の心境には、現代社会に生きる人々の心象が投影されているという当然のことをあらためて感じた。
5カ月前に出た小川哲氏の新作を面白く読んだ。まとまりのいい連作短篇集で、6篇でひとつの世界を構築している。私小説を装って、小説家とは何者かを追究した「小説家小説」である。
冒頭の短篇のタイトルは『プロローグ』、末尾の短篇のタイトルが『受賞エッセイ』、長編小説の「プロローグ」と「あとがき」とかん違いしそうになる構成だ。内容も、『プロローグ』が小説を書く生活を選んだ決意表明、『受賞エッセイ』が小説を書き続けることの持続表明に思える。
私は数年前に小川氏の『ゲームの王国』を読んで虚実混在世界構築の筆力に感心し、その後、『ユートロニカのこちら側』、『地図と拳』、『君のクイズ』なども面白く読んだ。これらの作品を生み出してきた小説家の生活と内面を垣間見た気分になる連作短篇集である。
冒頭の短篇には「『ムーン・パレス』を読んでいる人に幻滅するような男なら、そもそも付き合わない方がいい」「谷崎の初版本を渡されて喜ばない人とは付き合う価値がないよ」などの気障でシャレた台詞が出てくる。私は『ムーン・パレス』を読んでいないし、もちろん谷崎の初版本も持っていない。でも、こんな台詞がある小説を面白いと感じてしまう。
フィクションを紡ぐ現場の心境には、現代社会に生きる人々の心象が投影されているという当然のことをあらためて感じた。
戯曲『リア王』を読んで、あらためて悲劇と認識 ― 2024年03月15日
いま、東京芸術劇場で上演中の『リア王』(演出:ショーン・ホームズ、主演:段田安則)を近く観劇予定だ。観劇に先立って戯曲を読んだ。
『リア王』(シェイクスピア・松岡和子訳/ちくま文庫)
シェイクスピアの主要戯曲はだいたい読んでいる気がしていた。だが、『リア王』のチケットを手配したとき、四大悲劇のひとつである『リア王』を戯曲で読んでいないと気づいた。だが、私のシェイクスピア初体験は『リア王』である。
私がジュニア版の『リア王』を読んだのは小学低学年の頃だった。わがささやかな読書体験の最も初期によんだ「お話し」である。幼少期に読んだ本の印象は長く残る。コーディリアという三女の名とケント伯爵の名は記憶に刻まれている。いまでも、「ケント」という名に接すると煙草やスーパーマンではなく『リア王』が思い浮かぶ。不思議なことだ。
記憶には残っているが、『リア王』を面白いと思ったわけではない。バカな王様が騙されて嵐の中をさすらう姿に強烈な印象を受けた。イヤな話だと思った。読み返したいとも思わなかった。後にラムのシェイクスピア物語で読んだ『ハムレット』『マクベス』『オセロ』は面白いと感じ、戯曲も読んだ。しかし、『リア王』はイヤな話という印象が持続したまま戯曲もスルーしていた。
今回、初めて戯曲を読んで、その展開の速さに驚いた。開幕早々にリア王はコーディリアに対して癇癪を起し、戯曲半ばで、すでに道化と共に嵐の中をさまよっている。私の記憶にあるリア王はこのシーンで終わっているのだ。
そもそも、小学生時代に読んだジュニア版の記憶を頼りにするのが無理筋で、虚心に戯曲を読み進めねばならない。読み終えて、こんな結末だったのかと少し驚いた。かなり強烈で極端で理不尽な悲劇である。愚かさが招く悲劇とは言え、誰もが多かれ少なかれ愚かなのだから身につまされる。
『リア王』(シェイクスピア・松岡和子訳/ちくま文庫)
シェイクスピアの主要戯曲はだいたい読んでいる気がしていた。だが、『リア王』のチケットを手配したとき、四大悲劇のひとつである『リア王』を戯曲で読んでいないと気づいた。だが、私のシェイクスピア初体験は『リア王』である。
私がジュニア版の『リア王』を読んだのは小学低学年の頃だった。わがささやかな読書体験の最も初期によんだ「お話し」である。幼少期に読んだ本の印象は長く残る。コーディリアという三女の名とケント伯爵の名は記憶に刻まれている。いまでも、「ケント」という名に接すると煙草やスーパーマンではなく『リア王』が思い浮かぶ。不思議なことだ。
記憶には残っているが、『リア王』を面白いと思ったわけではない。バカな王様が騙されて嵐の中をさすらう姿に強烈な印象を受けた。イヤな話だと思った。読み返したいとも思わなかった。後にラムのシェイクスピア物語で読んだ『ハムレット』『マクベス』『オセロ』は面白いと感じ、戯曲も読んだ。しかし、『リア王』はイヤな話という印象が持続したまま戯曲もスルーしていた。
今回、初めて戯曲を読んで、その展開の速さに驚いた。開幕早々にリア王はコーディリアに対して癇癪を起し、戯曲半ばで、すでに道化と共に嵐の中をさまよっている。私の記憶にあるリア王はこのシーンで終わっているのだ。
そもそも、小学生時代に読んだジュニア版の記憶を頼りにするのが無理筋で、虚心に戯曲を読み進めねばならない。読み終えて、こんな結末だったのかと少し驚いた。かなり強烈で極端で理不尽な悲劇である。愚かさが招く悲劇とは言え、誰もが多かれ少なかれ愚かなのだから身につまされる。
ショーン・ホームズ演出の『リア王』は不思議世界 ― 2024年03月17日
東京芸術劇場プレイハウスで『リア王』(演出:ショーン・ホームズ、出演:段田安則、上白石萌歌、江口のりこ、田畑智子、小池徹平、玉置玲央、高橋克実、浅野和之、他)を観た。
幕が上がったとき、これが『リア王』の舞台かと驚いた。背景は白一色の壁、無機質な空間にパイプ椅子が横一列に間隔を置いて並び、スーツ姿の男たちが正面を向いて座っている。舞台脇にはウォーターサーバーとおぼしき装置がポツンと置かれている。
この非現実的な異次元空間のような舞台で芝居が始まる。スーツ姿の男たちは、ケント伯爵、グロスター伯爵、エドマンド(グロスターの庶子)で、パイプ椅子に座って正面を向いたまま台詞をしゃべる。稽古場の読み合わせを眺めている気分になる。
やがて、リア王と三人の娘が登場する。リア王はネクタイを締めたダブルの背広、娘たちはおそろいのピンクのスーツ姿、玉座は肘付きオフィスチェアーである。
ショーン・ホームズ演出の舞台を観るのは、一昨年の『セールスマンの死』、昨年の『桜の園』に続いて3回目だから、ユニークな舞台空間になるだろうとは予感していた。だが、意表を突かれた。
観劇の直前に今回の上演台本である松岡和子訳の戯曲を読んでいたので、衣装はスーツでも台詞は変えていないとわかる。時代設定を現代にしているわけではないが、時間や場所を特定しない世界になっている。戯曲を読んでいるときに思い浮かべた情景と異なる舞台にとまどいつつ、多様な解釈を迫るシェイクスピアの世界を堪能した。
イギリス国王と娘たちの世界が、一族経営企業のワンマン社長の老害に辟易している勝気な娘たちの世界に重なって見えたりもする。だが、そんなイージーなイメージを超えた不可思議な不条理劇に思えた。
冒頭、リア王が娘たちを試す問いがけをし、コーディリア(上白石萌歌)が「何も」と答える。リア王が癇癪を起こすきっかけとなるシーンである。ここで、コーディリアは、背景の白壁にプロジェクターで投影された巨大なイギリス地図にフェルトペンで立ち向かう。てっきり「Nothing」と書くのだと思った。だが、地図の上に書いたのは大きなバッテンだった。おとなしいコーディリアが大きな否定を意思表示したように思え、意外だった。
また、王の不興をかって退場するケント伯(高橋克実)は、舞台のそでに引っ込むのではなく、背景の白壁に体当たりし、それを突き破って退場する。忠臣の激しい感情表現に驚いた。
秘めた感情を不思議な形で表現した舞台である。
また、時おりチカチカ点滅する照明や虫の羽音が役者の芝居を邪魔して台詞を相対化させる。やはり、不思議な舞台だ。
幕が上がったとき、これが『リア王』の舞台かと驚いた。背景は白一色の壁、無機質な空間にパイプ椅子が横一列に間隔を置いて並び、スーツ姿の男たちが正面を向いて座っている。舞台脇にはウォーターサーバーとおぼしき装置がポツンと置かれている。
この非現実的な異次元空間のような舞台で芝居が始まる。スーツ姿の男たちは、ケント伯爵、グロスター伯爵、エドマンド(グロスターの庶子)で、パイプ椅子に座って正面を向いたまま台詞をしゃべる。稽古場の読み合わせを眺めている気分になる。
やがて、リア王と三人の娘が登場する。リア王はネクタイを締めたダブルの背広、娘たちはおそろいのピンクのスーツ姿、玉座は肘付きオフィスチェアーである。
ショーン・ホームズ演出の舞台を観るのは、一昨年の『セールスマンの死』、昨年の『桜の園』に続いて3回目だから、ユニークな舞台空間になるだろうとは予感していた。だが、意表を突かれた。
観劇の直前に今回の上演台本である松岡和子訳の戯曲を読んでいたので、衣装はスーツでも台詞は変えていないとわかる。時代設定を現代にしているわけではないが、時間や場所を特定しない世界になっている。戯曲を読んでいるときに思い浮かべた情景と異なる舞台にとまどいつつ、多様な解釈を迫るシェイクスピアの世界を堪能した。
イギリス国王と娘たちの世界が、一族経営企業のワンマン社長の老害に辟易している勝気な娘たちの世界に重なって見えたりもする。だが、そんなイージーなイメージを超えた不可思議な不条理劇に思えた。
冒頭、リア王が娘たちを試す問いがけをし、コーディリア(上白石萌歌)が「何も」と答える。リア王が癇癪を起こすきっかけとなるシーンである。ここで、コーディリアは、背景の白壁にプロジェクターで投影された巨大なイギリス地図にフェルトペンで立ち向かう。てっきり「Nothing」と書くのだと思った。だが、地図の上に書いたのは大きなバッテンだった。おとなしいコーディリアが大きな否定を意思表示したように思え、意外だった。
また、王の不興をかって退場するケント伯(高橋克実)は、舞台のそでに引っ込むのではなく、背景の白壁に体当たりし、それを突き破って退場する。忠臣の激しい感情表現に驚いた。
秘めた感情を不思議な形で表現した舞台である。
また、時おりチカチカ点滅する照明や虫の羽音が役者の芝居を邪魔して台詞を相対化させる。やはり、不思議な舞台だ。
KERAの新作『骨と軽蔑』は不気味なコメディ ― 2024年03月20日
日比谷のシアタークリエで『骨と軽蔑』(作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチッチ、出演:宮沢りえ、鈴木杏、犬山イヌコ、堀内敬子、水川あさみ、峯村リエ、小池栄子)を観た。ケラリーノ・サンドロヴィッチッチ書下ろしの、女優7人による辛辣コメディである。
パンフレット掲載のSTORY冒頭は以下の通りだ。
「東西に分かれて内戦が続く、とある国の田舎町。作家の姉マーゴとその妹ドミー、母のグルカ、長年この家に仕えてきた家政婦のネネは、町の人から「お城」と呼ばれる巨大な邸宅に暮らしている。」
舞台台装置が、邸宅と前庭が混合したしつらえになっているのが面白い工夫だ。役者が室内にいるのか庭にいるのかは、役者の演技を観ている観客が判断するのだ。
「とある国」はおとぎ話のなかの国のようでありながら、21世紀世界の戦火の国を連想せざるを得ない。邸宅の背後からは常に砲撃の音が響いている。戦っている兵士は女性と子供である。男たちの大半はすでに戦死し、女子供を徴兵しているのだ。そんな悲惨な状況だが、舞台上の世界はどこかのんびりしていて、内戦は日常の背景に霞んでいる。戦争が日常になっている世界のコメディはやはりブラックコメディだ。
7人の女優たちが演じる役は、姉(作家)、妹、母、父の秘書で愛人、姉(作家)の担当編集者、姉(作家)の熱烈な読者、家政婦の7つである。芸達者な女優たちの多彩な会話劇に魅了された。姉(宮沢りえ)と妹(鈴木杏)の果てしなくエスカレートする口喧嘩が面白い。母、秘書、編集者が変貌していく姿も面白い。現実を映した非現実世界が不気味である。
パンフレット掲載のSTORY冒頭は以下の通りだ。
「東西に分かれて内戦が続く、とある国の田舎町。作家の姉マーゴとその妹ドミー、母のグルカ、長年この家に仕えてきた家政婦のネネは、町の人から「お城」と呼ばれる巨大な邸宅に暮らしている。」
舞台台装置が、邸宅と前庭が混合したしつらえになっているのが面白い工夫だ。役者が室内にいるのか庭にいるのかは、役者の演技を観ている観客が判断するのだ。
「とある国」はおとぎ話のなかの国のようでありながら、21世紀世界の戦火の国を連想せざるを得ない。邸宅の背後からは常に砲撃の音が響いている。戦っている兵士は女性と子供である。男たちの大半はすでに戦死し、女子供を徴兵しているのだ。そんな悲惨な状況だが、舞台上の世界はどこかのんびりしていて、内戦は日常の背景に霞んでいる。戦争が日常になっている世界のコメディはやはりブラックコメディだ。
7人の女優たちが演じる役は、姉(作家)、妹、母、父の秘書で愛人、姉(作家)の担当編集者、姉(作家)の熱烈な読者、家政婦の7つである。芸達者な女優たちの多彩な会話劇に魅了された。姉(宮沢りえ)と妹(鈴木杏)の果てしなくエスカレートする口喧嘩が面白い。母、秘書、編集者が変貌していく姿も面白い。現実を映した非現実世界が不気味である。
同時代小説は時代とともに変転する ― 2024年03月26日
『日本の同時代小説』(斎藤美奈子/岩波新書/2018.11)
6年前に出た新書を読んだ。1960年代から2010年代までの60年間の同時代小説(エンタメ、ノンフィクションも含む)を紹介した「入門書」である。斎藤美奈子の書評やエッセイには、意外な切り口でスルドク対象に迫る面白さがあり、ワクワク気分で本書を読み始めた。
本書の前半三分の一ぐらいまでは快調に読み進めることができた。だが、後半になって読書速度が急速に低下し、予想外の時間を要して何とか読了した。理由は簡単だ。団塊世代である私が同時代意識で小説を読んだのは1960年代、1970年代までで、それ以降の小説や作家にさほど馴染みがなく、読み進めるのが難儀だったからである。
作家中心ではなく作品中心に記述を進める本書は、10年ごとに章を区切り、それぞれの年代に次のようなタイトルを付けている。
1960年代 知識人の凋落
1970年代 記録文学の時代
1980年代 遊園地化する純文学
1990年代 女性作家の台頭
2000年代 戦争と格差社会
2010年代 ディストピアを超えて
こう並べると、ナルホドという気になり、たかだか10年でも時代相は変転し、それを反映した「同時代」小説が次々に生み出されてきたとわかる。団塊世代老人の私は、1960年代・1970年代の同時代意識がすでの時代遅れだと認識せざる得ないが、せわしなく「同時代」を追いかけても仕方ないという気分にもなる。
斎藤美奈子流のスルドイ指摘は本書にも随所にある。
村上龍の『希望の国のエクソダス』や丸谷才一の『女ざかり』をオッチョコチョイな小説と評しているのが面白い。これらの小説を面白く読んだ私もオッチョコチョイかもしれない。
純文学のDNAを「ヘタレな知識人」「ヤワなインテリ」と喝破し、純文学と大衆文学の違いを解説した桑原武夫の『文学入門』を「現役をとうに退いた骨董品」と切り捨てているのもすがすがしい。私は、高校一年の夏休みに読んだ『文学入門』で桑原武夫ファンになったが、斎藤美奈子の言説にも納得させられてしまう。
斎藤美奈子のガイドブックで、私の知らない「同時代小説」が続々と生み出されている現状に触れることができたのが収穫だった。
6年前に出た新書を読んだ。1960年代から2010年代までの60年間の同時代小説(エンタメ、ノンフィクションも含む)を紹介した「入門書」である。斎藤美奈子の書評やエッセイには、意外な切り口でスルドク対象に迫る面白さがあり、ワクワク気分で本書を読み始めた。
本書の前半三分の一ぐらいまでは快調に読み進めることができた。だが、後半になって読書速度が急速に低下し、予想外の時間を要して何とか読了した。理由は簡単だ。団塊世代である私が同時代意識で小説を読んだのは1960年代、1970年代までで、それ以降の小説や作家にさほど馴染みがなく、読み進めるのが難儀だったからである。
作家中心ではなく作品中心に記述を進める本書は、10年ごとに章を区切り、それぞれの年代に次のようなタイトルを付けている。
1960年代 知識人の凋落
1970年代 記録文学の時代
1980年代 遊園地化する純文学
1990年代 女性作家の台頭
2000年代 戦争と格差社会
2010年代 ディストピアを超えて
こう並べると、ナルホドという気になり、たかだか10年でも時代相は変転し、それを反映した「同時代」小説が次々に生み出されてきたとわかる。団塊世代老人の私は、1960年代・1970年代の同時代意識がすでの時代遅れだと認識せざる得ないが、せわしなく「同時代」を追いかけても仕方ないという気分にもなる。
斎藤美奈子流のスルドイ指摘は本書にも随所にある。
村上龍の『希望の国のエクソダス』や丸谷才一の『女ざかり』をオッチョコチョイな小説と評しているのが面白い。これらの小説を面白く読んだ私もオッチョコチョイかもしれない。
純文学のDNAを「ヘタレな知識人」「ヤワなインテリ」と喝破し、純文学と大衆文学の違いを解説した桑原武夫の『文学入門』を「現役をとうに退いた骨董品」と切り捨てているのもすがすがしい。私は、高校一年の夏休みに読んだ『文学入門』で桑原武夫ファンになったが、斎藤美奈子の言説にも納得させられてしまう。
斎藤美奈子のガイドブックで、私の知らない「同時代小説」が続々と生み出されている現状に触れることができたのが収穫だった。
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