唐十郎作『秘密の花園』観劇で己の記憶への不信が高まった2018年01月30日

 東京芸術劇場シアターイーストで上演中の唐十郎作品『秘密の花園』(演出:福原充則、出演:寺島しのぶ、柄本佑、田口トモロヲ、他)を観た。久しぶりに唐十郎の夢幻的迷宮世界の彷徨を堪能した。

 同時に、わが記憶の迷妄曖昧を思い知った。またもや記憶のねつ造を認識させられたのだ。

 私は1960年代後半から70年代にかけて唐十郎の芝居をかなり観ている。その大半は唐十郎ひきいる状況劇場の紅テントの芝居だが、他の演出家による一般劇場の舞台も観ている。蜷川幸雄演出、沢田研二主演の『滝の白糸』などは印象深い。

 だが、今回『秘密の花園』のチケットを購入したのは、懐かしき往年の芝居を再度観たいと思ったからではなく、この作品が未見だったからである。新聞記事で『秘密の花園』が本多劇場の柿落としで上演された芝居だとあるのを読んで変だなと思った。

 私は本多劇場の柿落としを観た記憶がはっきりあり、それは唐十郎作『下谷万年町物語』だった。だから、新聞記事は間違いだと思った。近ごろの若い記者はいいかげんだなとも思った。

 そんな気分で池袋の芸術劇場に赴き、初見のつもりで『秘密の花園』を観劇した。途中、かすかにデジャブを感じるシーンもあったが、唐十郎の舞台をいくつも観ているので似た印象の場面があるのは当然だと思った。

 終演後も初見気分は持続していたが、やがて、己の記憶への疑惑がわいてきた。自分はかつて『秘密の花園』を観ているのではないかとの思いが生じたのだ。ネットで検索してみると、確かに本多劇場の柿落としは『秘密の花園』だ。そして、今回、田口トモロヲが演じた役が清水紘治だったと知り、清水紘治がラジカセを担いで登場するシーンがありありと思い浮かんできた。私は『秘密の花園』の初演を観ていると確信せざる得なくなった。

 かつて見た芝居を再度観てもそれに気づかなかったのは、記憶の消滅であり、書籍や映画では日常的に発生する事象なので驚くにはあたらない。だが、今回の観劇は自分に確信があったぶんだけショックが大きかった。

 ネット検索で調べてみると『下谷万年町物語』は『秘密の花園』初演(1982年)の前年に西武劇場(後のパルコ劇場)で上演されている。記憶の中でこの二つが融合したようだ。まことにわが記憶はあてにならない。

 今回の観劇では寺島しのぶが往年の李礼仙にそっくりなのに驚いた。デジャブを感じた。だが『秘密の花園』初演の主役は李礼仙ではなく緑魔子だと判明し、わがデジャブがいささか混乱した。

新たな『近松心中物語』で時代の移ろいを感じる2018年01月15日

 新国立中劇場で上演中の『近松心中物語』(演出:いのうえひでのり、出演:堤真一、宮沢りえ、池田成志、小池栄子)を観た。

 近松門左衛門の浄瑠璃をベースに秋元松代が蜷川幸雄のために書き下ろした蜷川演劇の代表作の一つだ。私は蜷川幸雄演出のこの舞台を観たことはない。テレビ画面で1981年上演(主演:平幹二郎、太地喜和子)の録画を観たことがあるだけだ。

 新たな演出による今回の芝居は当然ながら蜷川演出とは異なっている。舞台美術も刷新されている。格子を組み合わせた立体構造を無数の赤い風車で飾り、それを前後左右に動かしながら回り舞台も駆使するあでやかな舞台は蜷川の世界を彷彿させる。華やかでシンプルな大仕掛けに新しさを感じた。

 堤真一、宮沢りえが平幹二郎、太地喜和子ほどに重厚でないのは、時代の変遷の反映だろう。『冥途の飛脚』をベースにしたこの作品は、心中に至る緊張感を表現すると同時に心中を批判的に相対化する視点も組み込まれている。だから、重ければいいというだけの芝居でもない。今回の舞台でそう感じた。

 蜷川演出と大きく異なっているのは、随所に効果的に挿入されていた森進一の演歌がなくなっている点だ。この芝居のために作られた『それは恋』(作詞:秋元松代、作曲:猪俣公章)を浄瑠璃の代わりに森進一が嫋嫋と歌い上げて場面を盛り上げるのはこの芝居の肝だった。そこには何とも言えない心地よさがあった。

 今回の舞台では、そんな演歌で盛り上げる仕掛けがなくなっていた。パンフレットに「イメージソング:石川さゆり」とあったので森進一の代わりに石川さゆりの演歌で盛り上げるのかと思っていたが、そのイメージソングが流れたのはカーテンコールの後だった。歌謡曲は昭和の文化だったという説がある。平成も終わろうとしている時代の舞台に昭和歌謡を流すのはあまりにアナクロで、パロディになってしまうのかもしれない。

 時代の移り変わりを感じる舞台であった。

市川中車と坂東玉三郎の『瞼の母』を観ながら思い出したこと2017年12月13日

 歌舞伎座の「十二月大歌舞伎」は3部制で、その第3部を観た。長谷川伸の『瞼の母』と舞踊劇『楊貴妃』の2本で、どちらも市川中車と坂東玉三郎がメインだ。

 『楊貴妃』は夢枕獏が玉三郎のために書き下ろした作品だと知り、レパートリーの広い作家だと驚いた。

 「瞼の母」という言葉や「番場の忠太郎」という名前はずいぶん昔から知っているが、舞台を観るのは初めてだ。初めてにも関わらず観劇しながら既視感がわき出す。有名な話だから子供の頃からインプットされたいろいろな情報が記憶の底に沈んでいるのだろう。カズオ・イシグロの小説を読んでから、つい記憶の不思議を考えてしまう。

 『瞼の母』を観ていて、ふいに『瞼のチャット』という小説が頭によみがえってきた。これは明確な記憶だ。清水義範が1989年10月号の『小説現代』に発表した短編で、当時はまだ珍しかったパソコン通信で肉親が出会う横書きの小説である。当時、私はパソコン通信をやっていて、この小説を読んだ知人から「あなたの書いたメッセージがパスティーシュされている」とのメールをもらった。本屋に行って確認するとその通りで、清水義範ファンだった私は何か誇らしい気分になった。

 そんな遠い記憶をなつかしみながら中車と玉三郎の舞台を堪能した。

浅丘ルリ子主演の近未来SF芝居『プライムたちの夜』2017年11月10日

 新国立劇場小劇場で『プライムたちの夜』(演出:宮田慶子/主演:浅丘ルリ子)を観た。2026年という近未来の家庭劇である。浅丘ルリ子が主演するSF芝居という点に惹かれてチケットを購入した。

 1977年生まれの米国人劇作家ジョーダン・ハリソンの作品で、この作家の戯曲が日本で上演されるのは初めてだそうだ。

 舞台はある家族の居間、その空間だけで芝居は進行し、役者は4人だけだ。このシンプルな構造が好ましい。役者は4人だが登場人物(?)が6人という仕掛けも面白い。

 この芝居には家族を失った喪失感を癒すために故人そっくりに作られたアンドロイドが登場する。つい最近、ソニーの犬型ロボット「AIBO」の最新モデル発表がニュースになった。近い将来、人間を癒す機能に特化したアンドロイドが登場する可能性は高い。この芝居は近未来の家庭に発生するかもしれない新しい課題を描いているのだろうか。

 人間とロボット(アンドロイド)との葛藤やすれ違いを描いたSFはカレル・チャペック以来数多い。さまざまな物語が書かれてきたので、この芝居もその一種に過ぎないようにも思える。だが、アンドロイドが家庭内にいる世界をSF臭を消して普通に描いているところが21世紀的である。

 この芝居に登場する故人そっくりのアンドロイドはプライムと呼ばれる。人間たちはプライムがアンドロイドであることを知っており、プライムとの会話によって故人の思い出をインプットしていく。その過程がこの芝居の肝である。そこには必然的に記憶の可塑性、記憶のねつ造という問題が入り込んでくる。

 これは人工知能云々の問題というより、人間そのものの普遍的な問題である。だからこそ、人間との会話を重ねることによって自己形成(?)していくプライムたちが、人間抜きのプライムたちだけで会話を積み上げていく終幕シーンは、多様な解釈が可能で不気味だ。

白石加代子女優生活50周年記念公演を観て懐旧2017年10月18日

 池袋の「あうるすぽっと」で「白石加代子女優生活50周年記念公演」と銘打った『笑った分だけ怖くなる vol.2』を観た。白石加代子と佐野史郎による朗読劇で、演目は『乗越駅の刑罰』(作・筒井康隆)と『ベーコン』(作・井上荒野)の2作。

 この公演に食指が動いたのは白石加代子と筒井康隆という怖ろし気な取り合わせに惹かれたからだ。白石加代子の舞台を観るのは学生時代に「早稲田小劇場」の『劇的なるのをめぐって 2』以来だと思う。だとすれば約半世紀ぶりだ。

 1960年代末から1970年代初頭の時代、白石加代子はアングラの女王的な怪女優だった。当時の彼女が何歳だったか知らないが、最近たまたまちらりと朝ドラで観た彼女の印象は昔とさほど変わらない。

 約半世紀ぶりに舞台で観た白石加代子は昔の「化け物」的な印象が残ってはいるものの洗練された大女優のようでもあった。

 『乗越駅の刑罰』も『ベーコン』も観ているうちに異世界に引き込まれていくような舞台だった。カーテンコールの際に、白石加代子と佐野史郎の短いトークがあり、その内容が私の遠い記憶をゆさぶった。

 白石加代子と佐野史郎の接点に関するトークだった。白石加代子は「早稲田小劇場」時代に『少女仮面』に主演している。『少女仮面』は「状況劇場」の唐十郎が「早稲田小劇場」のために書いた戯曲で、岸田戯曲賞を受賞した。「劇壇の芥川賞」と言われる岸田戯曲賞を怪しげなアングラが受賞したのは大きな話題になった(その後、唐十郎がホンモノの芥川賞まで受賞するとは予測できなかった)。佐野史郎は唐十郎の「状況劇場」の出身であり、そこに白石加代子と佐野史郎の接点がある。そんな昔話のトークだった。

 私は白石加代子の『少女仮面』を観ていない。伝説の舞台との噂は聞いていた。戯曲は単行本刊行時に読んだ。後に上演された状況劇場版(主演:李礼仙)や西武劇場版(主演:渡辺えり子)の『少女仮面』を観た記憶はある。

 「あうるすぽっと」から帰宅し、書棚の奥から『少女仮面:唐十郎作品集』(学藝書林/1970.3.5)を引っ張り出した。口絵には白石加代子の『少女仮面』舞台写真が載っている。パラパラと戯曲を読み返すと、懐かしくも印象深い挿入歌に遭遇した。

  時はゆくゆく乙女は婆アに、
  それでも時がゆくならば
  婆アは乙女になるかしら

 メロディも鮮明によみがえってくる。昔、「唐十郎:四角いジャングルで歌う」というLPレコードで繰り返し聞いたからかもしれない。

 この歌詞、女優生活50周年の白石加代子に重なってくる。

総選挙さなかの『トロイ戦争は起こらない』上演はタイムリー2017年10月11日

 総選挙公示の翌日、新国立劇場中劇場で『トロイ戦争は起こらない』(作:ジャン・ジロドゥ/演出:栗山民也/主演:鈴木亮平)を観た。

 作者とタイトルに惹かれてチケットを購入したが脚本は未読で、どんな内容か知らないままに観劇した。前半は普通の観劇気分でそれなりに面白く眺めていたが、後半から舞台に引き込まれた。見ごたえのある芝居らしい芝居だった。はからずも、選挙真っ最中のいまの日本の情況に響きあう上演に思えた。

 ジロドゥという劇作家については外交官だったということ以外はあまり知らない。かなり昔にジロドゥの芝居を観たというかすかな記憶があるだけで、演目も内容も失念している。日本での上演記録を検索したが、それを眺めても記憶がよみがえってこない。本当に観たかどうかもあやふやになる。そんな宙ぶらりんな感覚を多少でもスッキリさせたいというのが、今回のジロドゥ作品を観る動機にひとつだった。

 ジロドゥはフランスの外交官で第一次世界大戦に従軍している。『トロイ戦争は起こらない』の初演は第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の1935年、ジロドゥ53歳のときだ。彼は大戦終結前の1944年に病死している。

 1935年はヒトラーが総統になった翌年、ラインランド進駐の前年である。この年に上演された『トロイ戦争は起こらない』はトロイとギリシアという古代の戦争を題材にしながら、第二次世界大戦の予感を色濃くはらんでいる。芝居のタイトルとは裏腹にトロイ戦争が起こったのは歴史的事実だ。

 今回の公演も舞台衣装は古代の服装と20世紀の独仏の軍服が混合し、芝居の意図を明示している。圧巻はトロイの王子エクトール(鈴木亮平)とギリシアの知将オデュセウス(谷田歩)の1対1の対話シーンだ。20世紀の外交官の真情が反映された現代劇で迫力がある。

 「戦争は起こらない」「戦争は起こる」のせめぎあいは21世紀の今日まで継続している外交課題である。だれもが戦争を望まないにもかかわらず、戦争を煽る心情は容易に世の中を席巻する。そんなメッセージが伝わってくる芝居だ。

 終演後、劇場外に出ると、甲州街道に選挙カーのスピーカーが響いていた。

エンタメ歌舞伎恐るべし2017年09月06日

 歌舞伎座「秀山祭九月大歌舞伎」の昼の部と夜の部を連続して観た。午前11時から午後9時までの長丁場で、昼食はコンビニの握り飯、夕食は売店の弁当を座席で食すという1日だった。歌舞伎観劇は半年ぶりだ。前回初めて昼夜連続で観て、さほど疲れを感じなかったので、どうせ歌舞伎を観るなら昼夜連続がいいと思った。

 昼夜で演目は五つ、仮名手本忠臣蔵の道行以外は初見だったが、どれも比較的わかりやすい内容で、歌舞伎はエンタメだと実感した。歌舞伎俳優はテレビタレントよりは高級なイメージがあり、確かに芸の修練を積んでいるとは思うが、それがきちんとエンタメになっているところに頼もしさを感じる。

 「極付幡随長兵衛」の序幕は役者が役者を演ずるという芝居内芝居の趣向になっている。メタフィクション的・実験小説的試みがエンタメ的に昔から使われていることに感心した。面白ければ何でもありという精神は大事だ。

 「ひらかな盛衰記」の遠見の場の臆面のなさにも驚いた。歌舞伎では遠近法の表現に、遠くの場面には人形や子役を使い、近景になって本物の役者が登場するという趣向があり、いくつかは実際に観たこともある。だが、「ひらかな盛衰記」の第2場を遠景の子役芝居だけで完結させているのには驚いた。歌舞伎座の観客には外国人も多いが、何の解説もなしに大人たちがいきなり子役たちに変身したのを理解できただろうか。その突拍子もなさが面白いのだが。

 夜の部最後の「再桜遇清水」は歌舞伎座初演という珍しい演目だ。古い芝居をベースに中村吉右衛門が琴平の金丸座のために書いた芝居だそうだ。かなりぶっ飛んだ内容でびっくりした。高僧の雰囲気がある僧侶(市川染五郎)が女性の色香に迷って破戒坊主に変身し、肉食・飲酒・衆道・殺人の果てに殺されても化けて出てきて女性に取りつこうとする話だ。わかりやすいが、あっけにとられた。歌舞伎恐るべしとも感じた。

『子午線の祀り』(演出・主演:野村萬斎)への満足と興ざめ2017年07月07日

 世田谷パブリックシアターで上演中の『子午線の祀り』(演出・主演:野村萬斎)を観た。高名な木下順二の代表作である。私はこの芝居の謎めいたタイトルは以前から知っていたが、その内容は全く知らなかった。木下順二は、敬して遠ざける…というか関心外の存在だった。

 とは言うものの、私が生まれて初めて身銭を切って観た「新劇」は劇団民芸の『オットーと呼ばれる日本人』で、戯曲は木下順二だった。1960年代後半の高校生の頃だ。当時は「新劇」はブンガク的価値の高いアリガタイものという思い込みもあり、滝沢修のボソボソとした科白を聞きながら、これがホンモノの芝居なのかと感心した記憶がある。

 その後も民芸や俳優座の「新劇」をいくつか観たが、やがて紅テントや黒テントをはじめ多様なアングラ演劇(=同時代演劇)に接するようになり、私の中で「新劇」は急速に色あせていき、木下順二も関心外の劇作家になった。

 だが、時は流れ星は移り、野村萬斎が『子午線の祀り』を上演すると知って食指が動いた。『子午線の祀り』という玄妙で宇宙的な題名が何を意味するのか、以前から気にかかっていたことに気づき、その内容を知りたいと思ったのだ。芝居の案内を見て、平家物語が題材だとわかったが、それが子午線とどう関係するかがわからない。

 タイトルの意味を知ろうと岩波文庫『子午線の祀り・沖縄:木下順二戯曲集IV』を入手した。戯曲を読んで、子午線と平家物語の関連は了解できた。月が子午線を横切ると海の潮の満ちてくる、それによる潮流の反転が壇ノ浦の戦いの帰趨を決めた……単純に言えば、そんな芝居になっている。

 やはり木下順二は知的な劇作家だ。平家物語を題材に人間の織りなす「歴史」を時空を超えた地点から俯瞰する作りになっている。「子午線」の謎は解けたが「祀り」もわかりにくくい言葉だ。英訳版では木下順二の指示で「祀り」を「Requiem」と訳していると知り、なるほどと思った。「歴史」を俯瞰するレクイエムとはカッコよすぎる。

 この芝居の初演(綜合演出・宇野重吉)が1979年だと知り、意外だった。もっと古い時代の「新劇」だと思っていた。1979年ならばアングラ・ブームが一段落した後だし、安部公房が実験演劇のために立ち上げた「安部公房スタジオ」が終焉した年でもあり、すでに「新劇」という言葉があまり使われなくなっていたと思う。そんな時代だからこそ、「新劇」を超えて「歌舞伎」「能」「群読」を取り入れた不思議な舞台になったのだろう。

 『子午線の祀り』は1979年の初演以来何度も上演されているそうだ。野村萬斎演出の今回の舞台が私には初見だったが、十分に楽しむことができた。初演以来継続していると思われる武満徹の超現実的な音楽も効果的だ。この芝居のクライマックスは、月が子午線を横切り、潮目が反転して平家退勢となり、貴人たちが海のもくずとなっていくシーンである。野村萬斎演ずる平知盛の「見るべき程の事は見つ」という辞世の名科白を聞きながら、私自身も、2階席から天空浮遊気分で舞台を俯瞰して「見るべき程の舞台は見つ」という心境になった。

 以下は蛇足に近い。観劇の数日後「源平合戦:壇ノ浦の決着」(石井進/週刊朝日百科:日本の歴史1/1986.4)という記事を読み、目から鱗が落ちる気分がした。

 壇ノ浦の戦いにおける潮流の反転については『平家物語』に明に描かれているわけではない。この記事によれば、大正時代に黒坂勝美という人が当時の潮の流れを研究し、潮流の反転が平家を壊滅させたとし、その説がひろく受け入れられたそうだ。そんな説明の後、筆者の石井進氏は次のように述べている。

 「また、船舶史家石井謙治氏は、同一潮流上に乗った両軍軍船の相対速度は同一となるから、科学的には潮流と勝敗は無関係だと断定され、ここに至って黒坂説は根本的に再検討されねばならなくなったのが現状であり、これに代わる定説はまだ出ていない。」

 壇ノ浦が源平の船舶同士の合戦だったならば、月が子午線を横切って潮流が反転しても、それは源平どちらにとっても有利でも不利でもない。科学的に考えれば、天空の状況は海上の合戦とは無関係なのだ。『子午線の祀り』観劇直後の身には興ざめなことである。

安部公房の『城塞』が半世紀を経て復活2017年04月22日

 今月初旬、新国立劇場中劇場で『葵上・卒塔婆小町』(作:三島由紀夫、演出・美術・主演:美輪明弘)を観たとき、劇場入口付近に『城塞』と大きな文字で印字された看板があった。近日上演の芝居の案内だと分かったが、私には馴染みのない知らない芝居だと思った。その看板を遠目に眺めながら私は次のようなことを考えていた。

 「そういえば、ずいぶん昔に安部公房も『城塞』という戯曲を書いていたなあ。あれと同名の芝居だ。ありふれたタイトルなんだ。」

 看板の前をさほどの興味もなく通り過ぎるとき、ちらりと「作 安部公房」という文字が飛び込んできた。びっくりした。それはまさに安部公房の『城塞』だったのだ。

 私は半世紀近く昔の学生時代には安部公房ファンだったので、彼の小説や戯曲はほぼすべて読んでいる。かつてはヒーローに見えた安部公房も没後20年以上が経過し、忘れられた存在になりつつあると感じている。三島由紀夫や井上ひさしの芝居が没後も継続的に上演されているのに対し、安部公房の芝居が上演されるという話は聞かない。

 そう思っていたので、安部公房の数ある戯曲の中でもあまり知名度のない『城塞』が新国立劇場で上演されるという事態は想像もできなかったのだ。

 さっそく劇場窓口でチケットを手配し、本日(4月22日)、『城塞』(作:安部公房、演出:上村聡史、主催:新国立劇場)を新国立劇場小劇場で観た。

 今回知ったのだが、『城塞』をはじめ安部公房のいくつかの芝居が昨年俳優座で上演されたそうだ。安部公房の芝居が最近は上演されていないというのは私の思い過ごしだろうか。

 『城塞』の初演は1962年、私は地方在住(岡山県玉野市)の中学2年生で、安部公房という作家の名も知らなかった頃だ。戯曲は『文藝 1962年11月号』に掲載されている。私は、安部公房に関心をもち始めた60年代末にこの雑誌を古書店で探索入手して『城塞』を読んだ。その後、1970年1月発行の『安部公房戯曲全集』(新潮社)にこの戯曲は収録された(「全集」と銘打ったこの単行本は全戯曲を収録しているのではなく、収録されていないアジプロ戯曲もある)。

 戯曲を読んだのは半世紀近く前なので、かすかな印象が残っているだけだ。観劇に先立って戯曲を再読し、『安部公房全集 016 1962.04-1962.11』に収録されている『城塞』に関する安部公房のいくつかのコメントにも目を通した。その抜粋は以下の通りだ。

 「ナンセンス・コメディは、いつの間にやら、深刻きわまる重量級ドラマに変わってしまっていた」
 「この作品もまた、その本質は、同じ喜劇なのだということである」
 「あるブルジョアジーをブルジョアジーとして確立するプロセスを内的に捉えて、それがやはり民族とか国家というものを内的に超えることでブルジョアジーとして確立してくという点を、明瞭に出したかった」
 「階級制をくもらせる、霧のようなイデオロギー、民族だとか、祖国だとかいう、あの危険な思想と対決してみたいというのが、こんどの作品の中心テーマだったのです」

 このように作者のコメント羅列してみると1962年頃の左翼的な気張りがむんむんとしてきて、時代の香りがする。満州で財を成し戦後も軍需で事業を拡大させた資本家の家庭を舞台にした芝居である。劇中で二回出てくる資本家の次の科白も印象深い。

 「戦争で負けたくらいで、国が死んだりするものか……国家を殺すことができるのは、革命だけさ」

 と言っても『城塞』は図式的な資本家糾弾プロパガンダ劇ではなく、歴史という現実を紡ぎあげていく人間の姿を演劇的かつ普遍的に描いている。だからこそ、21世紀の現代に若い演出家によって再演されることになったのだろう。

 安部公房の戯曲が再演されることを、その作品が古典に近づいたと寿ぐこともできるかもしれないが、時代のうねりが回帰しているのではないかとも感じられる。それは決して目出度いことではない。

 今回の舞台の美術にはいろいろ工夫があった。最後のシーンで東京タワーを遠望する窓からの俯瞰が、拡大していく日の丸に変容していくさまはクライマックスの効果を盛り上げて効果的だった。現代へのメッセージを感じた。

チェーホフとシェイクスピア---文豪の2本立て公演2017年04月16日

 明治座で東京乾電池のチェーホフとシェイクスピアの2本立て公演を観た。明治座と東京乾電池という取り合わせが異種格闘技風だ。チェーホフとシェイクスピアという組み合わせは盤石の文豪タッグで世界文学全集の1巻のようである。4月15日の1日だけの特別企画だそうだ。

 第一部はチェーホフの『煙草の害について』で柄本明の一人芝居、第二部はシェイクスピアの『夏の夜の夢』だ。観劇の前に戯曲に目を通した。『夏の夜の夢』は手元の世界文学全集に福田恆存訳が収録されていた。『煙草の害について』は『ちくま文学の森(6) 思いがけない話』に米川正夫訳で収録されていた。どちらも肩の凝らない軽喜劇で、文豪と称される作家もこういうものを書いていたのかと思うとホッとする。

 舞台は第一部の方が第二部より面白かった。第一部『煙草の害について』は戯曲で8頁の短い一人芝居だが、柄本明はこれに独自のギャグを盛り込んで1時間で演じた。上手いものだと思った。

 公演のチラシによれば、『煙草の害について』は「作・チェーホフ、演出・構成・柄本明」となっている。『夏の夜の夢』は「作・シェイクスピア、訳・福田恆存、演出・柄本明」と訳者を明記しているのに『煙草の害について』には訳者が載っていない。柄本明がかなり自由に脚色したからだろう。その分、面白さが倍加している。

 第二部『夏の夜の夢』は一応は福田恆存訳の戯曲の科白を役者たちがそのまましゃべっているのだが、いろいろな工夫が盛り込まれていた。

 『夏の夜の夢』は他愛もないコメディで、祭りの演し物のような目出度い芝居ではあるが16世紀の芝居だ。現代の日本人が当時の英国人の感性で舞台を楽しむのは容易でない。シェイクスピアという名前にひれ伏して教養主義的に古典鑑賞の気分で観劇するのではつまらない。

 柄本明演出は福田恆存訳の戯曲をできる限り楽しく猥雑に演じようとしている。科白にはルー大柴的なジャパニーズ・イングリッシュが入り、昭和歌謡曲を盛り込み、衣装はデタラメだ。柄本明演ずる妖精の王はステテコ、ダボシャツ姿でマントは唐草模様の風呂敷である。古典ではなく笑劇として演じようとする工夫だろう。

 何百年も昔の芝居に当時の人が感じたであろう面白さを現代の観客に追体験させるのは容易でない----『夏の夜の夢』を観劇しながらそんなことを感じた。