仲代達矢・85歳、まだまだ元気だ2018年04月03日

 世田谷パブリックシアターで無名塾の公演『肝っ玉おっ母と子供たち』を観た。主演の「おっ母」は85歳の仲代達矢が演じている。ほとんど出ずっぱりの長丁場で、歌ったり踊ったりもする。科白もよく通る。その元気な姿に感銘した。

 私はブレヒトのこの高名な芝居を観るのは初めてだ。観ていなくても内容は何となく知っていて、特に観たいとは思わなかった。『三文オペラ』や『ガリレオの生涯』ほどに興味をもてなかったのは、タイトルと粗筋だけで内容が透けて見え、あえて観なくても舞台で展開される世界が想像できる気になっていたからだ。

 今回、観劇しようと思ったのは高齢の仲代達矢が主演と知ったからだ。失礼ながら、これが仲代達也を舞台で観る最後のチャンスかもしれないと考えたのだ。その演目が未見の『肝っ玉おっ母と子供たち』なのも宿題をこなすいい機会に思えた。

 仲代達矢が女性を演ずるのに少し驚いた。上演パンフで知ったが、この舞台の初演は30年前の1988年で、そのときも仲代達也が「おっ母」を演じている。演出は隆巴(宮崎恭子:仲代達矢の妻)で、彼女はその8年後に亡くなる。今回の公演も演出は隆巴となっている。30年前の初演を踏襲しているのだろう。

 名優が何でも演じられるのは当然で、仲代達矢の老婆役に違和感はまったくなかった。また、観なくてもわかった気になっていた芝居も、実際に舞台で観ると引きこまれ、ブレヒトの代表作と言われるのもむべなるかなと思った。

 17世紀の三十年戦争の世界の12年間を行商の幌車を引いて戦場を巡り歩く「肝っ玉おっ母」の姿で描く方法は、やはり秀逸だ。戦争と庶民の普遍的な様を抽出しているのは確かで、ブレヒトの才を感じさせられた。

歌舞伎座で唐十郎、野田秀樹想起の時間旅行2018年03月23日

◎祝祭気分になれる場所

 歌舞伎座の「三月大歌舞伎」昼の部、夜の部を通しで観劇、午前11時から約10時間かけて次の六つの演目を観た。

 1. 国性爺合戦(愛之助、扇雀、芝翫、秀太郎、他)
 2. 男女道成寺(雀右衛門、松緑、他)
 3. 芝浜革財布(芝翫、孝太郎、他)
 4. 於染久松色読販(玉三郎、仁左衛門、他)
 5. 神田祭(玉三郎、仁左衛門)
 6. 滝の白糸(壱太郎、松也、他)

 『芝浜革財布』ので市川中車主演をテレビ中継で観た以外はすべて初見だ。

 『芝浜革財布』の元は著名な古典落語で、歌舞伎版ではハッピーエンドのラストシーンで落語とは異なり政五郎が三年ぶりに酒を飲む。ここで飲んではまたアル中に逆戻りするのではと心配になるが、そこが歌舞伎のおおらかさであり、この芝居を祝祭的にしている。

 歌舞伎には時事ネタや楽屋オチが挿入されることも多い。今回は『国性爺合戦』と『神田祭』にカーリング姿や「そだねー」が出てきた。祝祭気分になる。

◎『国性爺合戦』と『滝の白糸』に惹かれた

 「三月大歌舞伎」の目当ては昼一番の『国性爺合戦』と夜ラストの『滝の白糸』である。どちらも著名な演目なので、生きているうちに一度は観ておくべきだろうと思ってチケットを手配した。

 チケットをゲットした後でふいに気づいた。『国性爺合戦』と『滝の白糸』に惹かれたのは記憶の深層のせいだ。これらの芝居のパロディというか別バージョンを若い日に観ていたことをぼんやりと思い出したのだ。古い記録を探索し、次の観劇記録が判明した。

 ※1975年3月上演『唐版滝の白糸』(作:唐十郎、演出:蜷川幸雄。主演:沢田研二・李礼仙)

 ※1989年11月上演『野田版国性爺合戦』(作・演出:野田秀樹、主演:桜田淳子・池畑慎之介)

 前者は43年前、後者は29年前の芝居だ。観たという記憶がかすかにあるだけで内容は失念している。上演当時、沢田研二は28歳、桜田淳子は31歳。私は沢田研二より1歳下、桜田淳子より10歳上だ。みんな若かった。

 上演内容を失念しているので断言はできないが、「唐版」や「野田版」の芝居を観たときにオリジナルを観たいとは思わなかった。前衛的な「唐版」「野田版」で十分に堪能し、オリジナルへの関心はわかなかったのだ。

 にもかかわらず、今回の観劇には未見のオリジナルに触れたいという深層心理がはたらいたような気がする。『国性爺合戦』も『滝の白糸』もわかりやすくて面白い芝居なので十分に楽しむことができた。そこには深層心理の安堵感もいくぶんあったかもしれない。

◎孝・玉コンビ健在

 目当ての『国性爺合戦』『滝の白糸』以上に堪能できたのは、片岡仁左衛門と坂東玉三郎の姿が美しい『於染久松色読販』『神田祭』だった。

 私が初めて歌舞伎座で観劇したのは32年前(1986年)の『仮名手本忠臣蔵』で、片岡孝夫と坂東玉三郎の美しさに感動し「これがあの孝夫・玉三郎」かと納得した。

 今回の舞台で、その美しいコンビの姿がいまだに健在であることを確認できた。観客である当方は高齢者になっても、同じ年月を経た筈の役者たちが容色を保って一層輝いていることに芝居の世界の不思議を感じる。

唐十郎作『秘密の花園』観劇で己の記憶への不信が高まった2018年01月30日

 東京芸術劇場シアターイーストで上演中の唐十郎作品『秘密の花園』(演出:福原充則、出演:寺島しのぶ、柄本佑、田口トモロヲ、他)を観た。久しぶりに唐十郎の夢幻的迷宮世界の彷徨を堪能した。

 同時に、わが記憶の迷妄曖昧を思い知った。またもや記憶のねつ造を認識させられたのだ。

 私は1960年代後半から70年代にかけて唐十郎の芝居をかなり観ている。その大半は唐十郎ひきいる状況劇場の紅テントの芝居だが、他の演出家による一般劇場の舞台も観ている。蜷川幸雄演出、沢田研二主演の『滝の白糸』などは印象深い。

 だが、今回『秘密の花園』のチケットを購入したのは、懐かしき往年の芝居を再度観たいと思ったからではなく、この作品が未見だったからである。新聞記事で『秘密の花園』が本多劇場の柿落としで上演された芝居だとあるのを読んで変だなと思った。

 私は本多劇場の柿落としを観た記憶がはっきりあり、それは唐十郎作『下谷万年町物語』だった。だから、新聞記事は間違いだと思った。近ごろの若い記者はいいかげんだなとも思った。

 そんな気分で池袋の芸術劇場に赴き、初見のつもりで『秘密の花園』を観劇した。途中、かすかにデジャブを感じるシーンもあったが、唐十郎の舞台をいくつも観ているので似た印象の場面があるのは当然だと思った。

 終演後も初見気分は持続していたが、やがて、己の記憶への疑惑がわいてきた。自分はかつて『秘密の花園』を観ているのではないかとの思いが生じたのだ。ネットで検索してみると、確かに本多劇場の柿落としは『秘密の花園』だ。そして、今回、田口トモロヲが演じた役が清水紘治だったと知り、清水紘治がラジカセを担いで登場するシーンがありありと思い浮かんできた。私は『秘密の花園』の初演を観ていると確信せざる得なくなった。

 かつて見た芝居を再度観てもそれに気づかなかったのは、記憶の消滅であり、書籍や映画では日常的に発生する事象なので驚くにはあたらない。だが、今回の観劇は自分に確信があったぶんだけショックが大きかった。

 ネット検索で調べてみると『下谷万年町物語』は『秘密の花園』初演(1982年)の前年に西武劇場(後のパルコ劇場)で上演されている。記憶の中でこの二つが融合したようだ。まことにわが記憶はあてにならない。

 今回の観劇では寺島しのぶが往年の李礼仙にそっくりなのに驚いた。デジャブを感じた。だが『秘密の花園』初演の主役は李礼仙ではなく緑魔子だと判明し、わがデジャブがいささか混乱した。

新たな『近松心中物語』で時代の移ろいを感じる2018年01月15日

 新国立中劇場で上演中の『近松心中物語』(演出:いのうえひでのり、出演:堤真一、宮沢りえ、池田成志、小池栄子)を観た。

 近松門左衛門の浄瑠璃をベースに秋元松代が蜷川幸雄のために書き下ろした蜷川演劇の代表作の一つだ。私は蜷川幸雄演出のこの舞台を観たことはない。テレビ画面で1981年上演(主演:平幹二郎、太地喜和子)の録画を観たことがあるだけだ。

 新たな演出による今回の芝居は当然ながら蜷川演出とは異なっている。舞台美術も刷新されている。格子を組み合わせた立体構造を無数の赤い風車で飾り、それを前後左右に動かしながら回り舞台も駆使するあでやかな舞台は蜷川の世界を彷彿させる。華やかでシンプルな大仕掛けに新しさを感じた。

 堤真一、宮沢りえが平幹二郎、太地喜和子ほどに重厚でないのは、時代の変遷の反映だろう。『冥途の飛脚』をベースにしたこの作品は、心中に至る緊張感を表現すると同時に心中を批判的に相対化する視点も組み込まれている。だから、重ければいいというだけの芝居でもない。今回の舞台でそう感じた。

 蜷川演出と大きく異なっているのは、随所に効果的に挿入されていた森進一の演歌がなくなっている点だ。この芝居のために作られた『それは恋』(作詞:秋元松代、作曲:猪俣公章)を浄瑠璃の代わりに森進一が嫋嫋と歌い上げて場面を盛り上げるのはこの芝居の肝だった。そこには何とも言えない心地よさがあった。

 今回の舞台では、そんな演歌で盛り上げる仕掛けがなくなっていた。パンフレットに「イメージソング:石川さゆり」とあったので森進一の代わりに石川さゆりの演歌で盛り上げるのかと思っていたが、そのイメージソングが流れたのはカーテンコールの後だった。歌謡曲は昭和の文化だったという説がある。平成も終わろうとしている時代の舞台に昭和歌謡を流すのはあまりにアナクロで、パロディになってしまうのかもしれない。

 時代の移り変わりを感じる舞台であった。

市川中車と坂東玉三郎の『瞼の母』を観ながら思い出したこと2017年12月13日

 歌舞伎座の「十二月大歌舞伎」は3部制で、その第3部を観た。長谷川伸の『瞼の母』と舞踊劇『楊貴妃』の2本で、どちらも市川中車と坂東玉三郎がメインだ。

 『楊貴妃』は夢枕獏が玉三郎のために書き下ろした作品だと知り、レパートリーの広い作家だと驚いた。

 「瞼の母」という言葉や「番場の忠太郎」という名前はずいぶん昔から知っているが、舞台を観るのは初めてだ。初めてにも関わらず観劇しながら既視感がわき出す。有名な話だから子供の頃からインプットされたいろいろな情報が記憶の底に沈んでいるのだろう。カズオ・イシグロの小説を読んでから、つい記憶の不思議を考えてしまう。

 『瞼の母』を観ていて、ふいに『瞼のチャット』という小説が頭によみがえってきた。これは明確な記憶だ。清水義範が1989年10月号の『小説現代』に発表した短編で、当時はまだ珍しかったパソコン通信で肉親が出会う横書きの小説である。当時、私はパソコン通信をやっていて、この小説を読んだ知人から「あなたの書いたメッセージがパスティーシュされている」とのメールをもらった。本屋に行って確認するとその通りで、清水義範ファンだった私は何か誇らしい気分になった。

 そんな遠い記憶をなつかしみながら中車と玉三郎の舞台を堪能した。

浅丘ルリ子主演の近未来SF芝居『プライムたちの夜』2017年11月10日

 新国立劇場小劇場で『プライムたちの夜』(演出:宮田慶子/主演:浅丘ルリ子)を観た。2026年という近未来の家庭劇である。浅丘ルリ子が主演するSF芝居という点に惹かれてチケットを購入した。

 1977年生まれの米国人劇作家ジョーダン・ハリソンの作品で、この作家の戯曲が日本で上演されるのは初めてだそうだ。

 舞台はある家族の居間、その空間だけで芝居は進行し、役者は4人だけだ。このシンプルな構造が好ましい。役者は4人だが登場人物(?)が6人という仕掛けも面白い。

 この芝居には家族を失った喪失感を癒すために故人そっくりに作られたアンドロイドが登場する。つい最近、ソニーの犬型ロボット「AIBO」の最新モデル発表がニュースになった。近い将来、人間を癒す機能に特化したアンドロイドが登場する可能性は高い。この芝居は近未来の家庭に発生するかもしれない新しい課題を描いているのだろうか。

 人間とロボット(アンドロイド)との葛藤やすれ違いを描いたSFはカレル・チャペック以来数多い。さまざまな物語が書かれてきたので、この芝居もその一種に過ぎないようにも思える。だが、アンドロイドが家庭内にいる世界をSF臭を消して普通に描いているところが21世紀的である。

 この芝居に登場する故人そっくりのアンドロイドはプライムと呼ばれる。人間たちはプライムがアンドロイドであることを知っており、プライムとの会話によって故人の思い出をインプットしていく。その過程がこの芝居の肝である。そこには必然的に記憶の可塑性、記憶のねつ造という問題が入り込んでくる。

 これは人工知能云々の問題というより、人間そのものの普遍的な問題である。だからこそ、人間との会話を重ねることによって自己形成(?)していくプライムたちが、人間抜きのプライムたちだけで会話を積み上げていく終幕シーンは、多様な解釈が可能で不気味だ。

白石加代子女優生活50周年記念公演を観て懐旧2017年10月18日

 池袋の「あうるすぽっと」で「白石加代子女優生活50周年記念公演」と銘打った『笑った分だけ怖くなる vol.2』を観た。白石加代子と佐野史郎による朗読劇で、演目は『乗越駅の刑罰』(作・筒井康隆)と『ベーコン』(作・井上荒野)の2作。

 この公演に食指が動いたのは白石加代子と筒井康隆という怖ろし気な取り合わせに惹かれたからだ。白石加代子の舞台を観るのは学生時代に「早稲田小劇場」の『劇的なるのをめぐって 2』以来だと思う。だとすれば約半世紀ぶりだ。

 1960年代末から1970年代初頭の時代、白石加代子はアングラの女王的な怪女優だった。当時の彼女が何歳だったか知らないが、最近たまたまちらりと朝ドラで観た彼女の印象は昔とさほど変わらない。

 約半世紀ぶりに舞台で観た白石加代子は昔の「化け物」的な印象が残ってはいるものの洗練された大女優のようでもあった。

 『乗越駅の刑罰』も『ベーコン』も観ているうちに異世界に引き込まれていくような舞台だった。カーテンコールの際に、白石加代子と佐野史郎の短いトークがあり、その内容が私の遠い記憶をゆさぶった。

 白石加代子と佐野史郎の接点に関するトークだった。白石加代子は「早稲田小劇場」時代に『少女仮面』に主演している。『少女仮面』は「状況劇場」の唐十郎が「早稲田小劇場」のために書いた戯曲で、岸田戯曲賞を受賞した。「劇壇の芥川賞」と言われる岸田戯曲賞を怪しげなアングラが受賞したのは大きな話題になった(その後、唐十郎がホンモノの芥川賞まで受賞するとは予測できなかった)。佐野史郎は唐十郎の「状況劇場」の出身であり、そこに白石加代子と佐野史郎の接点がある。そんな昔話のトークだった。

 私は白石加代子の『少女仮面』を観ていない。伝説の舞台との噂は聞いていた。戯曲は単行本刊行時に読んだ。後に上演された状況劇場版(主演:李礼仙)や西武劇場版(主演:渡辺えり子)の『少女仮面』を観た記憶はある。

 「あうるすぽっと」から帰宅し、書棚の奥から『少女仮面:唐十郎作品集』(学藝書林/1970.3.5)を引っ張り出した。口絵には白石加代子の『少女仮面』舞台写真が載っている。パラパラと戯曲を読み返すと、懐かしくも印象深い挿入歌に遭遇した。

  時はゆくゆく乙女は婆アに、
  それでも時がゆくならば
  婆アは乙女になるかしら

 メロディも鮮明によみがえってくる。昔、「唐十郎:四角いジャングルで歌う」というLPレコードで繰り返し聞いたからかもしれない。

 この歌詞、女優生活50周年の白石加代子に重なってくる。

総選挙さなかの『トロイ戦争は起こらない』上演はタイムリー2017年10月11日

 総選挙公示の翌日、新国立劇場中劇場で『トロイ戦争は起こらない』(作:ジャン・ジロドゥ/演出:栗山民也/主演:鈴木亮平)を観た。

 作者とタイトルに惹かれてチケットを購入したが脚本は未読で、どんな内容か知らないままに観劇した。前半は普通の観劇気分でそれなりに面白く眺めていたが、後半から舞台に引き込まれた。見ごたえのある芝居らしい芝居だった。はからずも、選挙真っ最中のいまの日本の情況に響きあう上演に思えた。

 ジロドゥという劇作家については外交官だったということ以外はあまり知らない。かなり昔にジロドゥの芝居を観たというかすかな記憶があるだけで、演目も内容も失念している。日本での上演記録を検索したが、それを眺めても記憶がよみがえってこない。本当に観たかどうかもあやふやになる。そんな宙ぶらりんな感覚を多少でもスッキリさせたいというのが、今回のジロドゥ作品を観る動機にひとつだった。

 ジロドゥはフランスの外交官で第一次世界大戦に従軍している。『トロイ戦争は起こらない』の初演は第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の1935年、ジロドゥ53歳のときだ。彼は大戦終結前の1944年に病死している。

 1935年はヒトラーが総統になった翌年、ラインランド進駐の前年である。この年に上演された『トロイ戦争は起こらない』はトロイとギリシアという古代の戦争を題材にしながら、第二次世界大戦の予感を色濃くはらんでいる。芝居のタイトルとは裏腹にトロイ戦争が起こったのは歴史的事実だ。

 今回の公演も舞台衣装は古代の服装と20世紀の独仏の軍服が混合し、芝居の意図を明示している。圧巻はトロイの王子エクトール(鈴木亮平)とギリシアの知将オデュセウス(谷田歩)の1対1の対話シーンだ。20世紀の外交官の真情が反映された現代劇で迫力がある。

 「戦争は起こらない」「戦争は起こる」のせめぎあいは21世紀の今日まで継続している外交課題である。だれもが戦争を望まないにもかかわらず、戦争を煽る心情は容易に世の中を席巻する。そんなメッセージが伝わってくる芝居だ。

 終演後、劇場外に出ると、甲州街道に選挙カーのスピーカーが響いていた。

エンタメ歌舞伎恐るべし2017年09月06日

 歌舞伎座「秀山祭九月大歌舞伎」の昼の部と夜の部を連続して観た。午前11時から午後9時までの長丁場で、昼食はコンビニの握り飯、夕食は売店の弁当を座席で食すという1日だった。歌舞伎観劇は半年ぶりだ。前回初めて昼夜連続で観て、さほど疲れを感じなかったので、どうせ歌舞伎を観るなら昼夜連続がいいと思った。

 昼夜で演目は五つ、仮名手本忠臣蔵の道行以外は初見だったが、どれも比較的わかりやすい内容で、歌舞伎はエンタメだと実感した。歌舞伎俳優はテレビタレントよりは高級なイメージがあり、確かに芸の修練を積んでいるとは思うが、それがきちんとエンタメになっているところに頼もしさを感じる。

 「極付幡随長兵衛」の序幕は役者が役者を演ずるという芝居内芝居の趣向になっている。メタフィクション的・実験小説的試みがエンタメ的に昔から使われていることに感心した。面白ければ何でもありという精神は大事だ。

 「ひらかな盛衰記」の遠見の場の臆面のなさにも驚いた。歌舞伎では遠近法の表現に、遠くの場面には人形や子役を使い、近景になって本物の役者が登場するという趣向があり、いくつかは実際に観たこともある。だが、「ひらかな盛衰記」の第2場を遠景の子役芝居だけで完結させているのには驚いた。歌舞伎座の観客には外国人も多いが、何の解説もなしに大人たちがいきなり子役たちに変身したのを理解できただろうか。その突拍子もなさが面白いのだが。

 夜の部最後の「再桜遇清水」は歌舞伎座初演という珍しい演目だ。古い芝居をベースに中村吉右衛門が琴平の金丸座のために書いた芝居だそうだ。かなりぶっ飛んだ内容でびっくりした。高僧の雰囲気がある僧侶(市川染五郎)が女性の色香に迷って破戒坊主に変身し、肉食・飲酒・衆道・殺人の果てに殺されても化けて出てきて女性に取りつこうとする話だ。わかりやすいが、あっけにとられた。歌舞伎恐るべしとも感じた。

『子午線の祀り』(演出・主演:野村萬斎)への満足と興ざめ2017年07月07日

 世田谷パブリックシアターで上演中の『子午線の祀り』(演出・主演:野村萬斎)を観た。高名な木下順二の代表作である。私はこの芝居の謎めいたタイトルは以前から知っていたが、その内容は全く知らなかった。木下順二は、敬して遠ざける…というか関心外の存在だった。

 とは言うものの、私が生まれて初めて身銭を切って観た「新劇」は劇団民芸の『オットーと呼ばれる日本人』で、戯曲は木下順二だった。1960年代後半の高校生の頃だ。当時は「新劇」はブンガク的価値の高いアリガタイものという思い込みもあり、滝沢修のボソボソとした科白を聞きながら、これがホンモノの芝居なのかと感心した記憶がある。

 その後も民芸や俳優座の「新劇」をいくつか観たが、やがて紅テントや黒テントをはじめ多様なアングラ演劇(=同時代演劇)に接するようになり、私の中で「新劇」は急速に色あせていき、木下順二も関心外の劇作家になった。

 だが、時は流れ星は移り、野村萬斎が『子午線の祀り』を上演すると知って食指が動いた。『子午線の祀り』という玄妙で宇宙的な題名が何を意味するのか、以前から気にかかっていたことに気づき、その内容を知りたいと思ったのだ。芝居の案内を見て、平家物語が題材だとわかったが、それが子午線とどう関係するかがわからない。

 タイトルの意味を知ろうと岩波文庫『子午線の祀り・沖縄:木下順二戯曲集IV』を入手した。戯曲を読んで、子午線と平家物語の関連は了解できた。月が子午線を横切ると海の潮の満ちてくる、それによる潮流の反転が壇ノ浦の戦いの帰趨を決めた……単純に言えば、そんな芝居になっている。

 やはり木下順二は知的な劇作家だ。平家物語を題材に人間の織りなす「歴史」を時空を超えた地点から俯瞰する作りになっている。「子午線」の謎は解けたが「祀り」もわかりにくくい言葉だ。英訳版では木下順二の指示で「祀り」を「Requiem」と訳していると知り、なるほどと思った。「歴史」を俯瞰するレクイエムとはカッコよすぎる。

 この芝居の初演(綜合演出・宇野重吉)が1979年だと知り、意外だった。もっと古い時代の「新劇」だと思っていた。1979年ならばアングラ・ブームが一段落した後だし、安部公房が実験演劇のために立ち上げた「安部公房スタジオ」が終焉した年でもあり、すでに「新劇」という言葉があまり使われなくなっていたと思う。そんな時代だからこそ、「新劇」を超えて「歌舞伎」「能」「群読」を取り入れた不思議な舞台になったのだろう。

 『子午線の祀り』は1979年の初演以来何度も上演されているそうだ。野村萬斎演出の今回の舞台が私には初見だったが、十分に楽しむことができた。初演以来継続していると思われる武満徹の超現実的な音楽も効果的だ。この芝居のクライマックスは、月が子午線を横切り、潮目が反転して平家退勢となり、貴人たちが海のもくずとなっていくシーンである。野村萬斎演ずる平知盛の「見るべき程の事は見つ」という辞世の名科白を聞きながら、私自身も、2階席から天空浮遊気分で舞台を俯瞰して「見るべき程の舞台は見つ」という心境になった。

 以下は蛇足に近い。観劇の数日後「源平合戦:壇ノ浦の決着」(石井進/週刊朝日百科:日本の歴史1/1986.4)という記事を読み、目から鱗が落ちる気分がした。

 壇ノ浦の戦いにおける潮流の反転については『平家物語』に明に描かれているわけではない。この記事によれば、大正時代に黒坂勝美という人が当時の潮の流れを研究し、潮流の反転が平家を壊滅させたとし、その説がひろく受け入れられたそうだ。そんな説明の後、筆者の石井進氏は次のように述べている。

 「また、船舶史家石井謙治氏は、同一潮流上に乗った両軍軍船の相対速度は同一となるから、科学的には潮流と勝敗は無関係だと断定され、ここに至って黒坂説は根本的に再検討されねばならなくなったのが現状であり、これに代わる定説はまだ出ていない。」

 壇ノ浦が源平の船舶同士の合戦だったならば、月が子午線を横切って潮流が反転しても、それは源平どちらにとっても有利でも不利でもない。科学的に考えれば、天空の状況は海上の合戦とは無関係なのだ。『子午線の祀り』観劇直後の身には興ざめなことである。