『シュヴァルの理想宮:ある郵便配達員の夢』を観た2020年07月03日

 自宅のテレビで映画『シュヴァルの理想宮:ある郵便配達員の夢』を観た。この映画が下高井戸シネマで今年4月に上映されると知ったとき、ぜひ観たいと楽しみにしていたが、コロナ禍の非常事態宣言で映画館は閉鎖になってしまった。

 やっと映画館が再開され、この映画の上映も決まったが、コロナ籠城生活のなか、自宅の55インチテレビで AMAZON Prime Video の映画を観る生活に慣れ親しんでしまい、そのラインアップに『シュヴァルの理想宮』が入ったので、映画館には申し訳ないと思いつつ、安易な自宅での映画鑑賞を選択した。

 フランスの郵便配達員が、たった一人で33年かけて造りあげた奇怪で魅力的な「宮殿」のことを知ったのは6年前である。そのときの感想をブログに書き、機会があれば、約100年前に造られたこの「宮殿」を訪れたいとも述べた。この6年間にそんな機会はなく、将来も行けそうにない。だから、せめて映画で「宮殿」の映像を堪能したいと思ったのである。

 『シュヴァルの理想宮』は無口で変わり者の郵便配達員が「宮殿」を造っていく様子を描いた家族愛のドラマである。主人公シュヴァルの雰囲気が私の抱いていたイメージにぴったりだった。建築の知識も技術もない素人が、本業の合間に33年の年月をかけて造り上げた驚異の建造物には、持続する集中力の凄さを感じるしかない。

 この映画の終わりの方では「シュヴァルの理想宮」の全容が俯瞰も含めて映し出される。彼の地を訪れたようなバーチャル体験ができ、まずは満足した。

『パラサイト』ポン・ジュノ監督とソン・ガンホの会見2020年02月23日

 カンヌとアカデミーのダブル受賞で話題の映画『パラサイト』のポン・ジュノ監督と俳優ソン・ガンホの日本記者クラブでの会見に参加した。多数のテレビカメラが並び、補助椅子も出る盛況だった。

 私は先々週、『パラサイト』を観た。パンフの冒頭に監督が「本作をご紹介頂く際、出来る限り兄妹が家庭教師として働き始めるところ以降の展開を語ることは、どうか控えてください。」と述べているので、立ち入った感想を書くのがはばかられる。

 私は、この監督の長編第2作『殺人の追憶』(2003年)を封切時に観た。内容の記憶はぼやけているが、ドキドキ感が胸に迫ってくる印象の深さは鮮明だ。『グエルム 漢江の怪物』と『母なる証明』は『パラサイト』を観た後にネット配信で観た。サスペンスとコメディをないまぜにした迫力ある世界は独特で、日本映画には得難いものだと感じた。

 『パラサイト 半地下の家族』は、2020年2月22日現在の日本での観客動員は220万人を超え、興行収入は30億円を突破、日本での韓国映画の歴代1位だそうだ。

 ポン・ジュノ監督は、この映画がヒットした要因として「予測不能のストーリー展開」と「俳優のかもしだす魅力」を挙げた。私もそう思う。日本映画はどうしてもチマチマした感じになるが、韓国映画には突き抜けたエネルギーがある。

 ポン・ジュノ監督の秘めたる妄想は、クラシック作品を残すことだそうだ。クラシックの例として黒沢明の『七人の侍』とヒチコックの『めまい』を挙げた。なるほどと思った。

『カオス・シチリア物語』は印象深い不思議な映画2019年12月24日

 DVDで『カオス・シチリア物語』を観た。1984年公開のイタリア映画で、原作はルイージ・ピランデッロである。

 先日の小松左京展の記念イベントでヤマザキ・マリ氏がピランデッロを熱く語り、この映画を推奨していたのに突き動かされてDVDを入手した。

 シチリアの異世界的な情景の中で摩訶不思議な物語がくり広げられる面白い映画だった。私は昨年、シチリアの古跡を巡る10日間の旅行を体験している。この映画で私の眺めた風景が確認できたわけではないが、映画に写し出される山・地中海・古跡・歴史的街並み・オリーブ畑・荒れ地などから浮かびあがるシチリアの雰囲気に懐かしさを感じた。

 この映画は4つの話とプロローグ、エピローグから成るオムニバスで、1冊の珠玉短篇集を映像化したような作品である。鈴をつけられたカラスが空を舞う俯瞰がすべての短篇をつないでいる。通底する音楽もいい。

 4つの話のタイトルは『もう一人の息子』『月の病』『甕』『レクイエム』で、エピローグは作家ピランデッロの幻想的な帰郷譚になっている。

 それぞれのテイストは異なり、どれも面白いが『甕』が印象に残った。甕から出られなくなった男の話である。満月の下、甕から首だけを出した男の回りで多くの男女が踊りだすシーンがスゴい。甕の中の男も祝祭気分で浮かれている。わけがわからないが何かを象徴しているように思える。

上映時間7時間18分の『サタンタンゴ』を観た2019年10月15日

 渋谷のシアター・イメージフォーラムという小さな映画館で『サタンタンゴ』(監督:タル・ベーラ)を観た。上映時間7時間18分の映画である。上映開始が12時30分、途中に10分と30分の2回の休憩をはさんで8時30分終了という長丁場だった。

 このハンガリー映画は25年前の作品だが日本では初公開である。タル・ベーラ監督は上映を機に先月来日している。新聞の映画評によって、このモノクロ大長編映画が黙示録的な独特の世界を描いているらしいと予感し、普通ではない映画を観るという覚悟をもって上映にのぞんだ。

 夜8時30分、映画を観終えて「えっ、これで終わりか」と思った。腰が少し痛くなったが、長さはあまり感じなかった。情景描写が多いがストーリーのある映画である。劇中の時間経過は数日である。数日の話を描いた長編『カラマーゾフの兄弟』と同様に作品の中に時間が圧縮されている。

 この映画の終幕には、大河小説の幕が下りるような感慨や、複雑な謎が解明されるような爽快感はない。この世界はどうなっていくのだろうという宙ぶらりんな懸念のまま、冒頭の情景に戻るような形で終わる。それは「始まり」のような「終わり」である。

 長回しを多用したこの映画の映像は独特である。降り続く雨、泥でぬかるんだ大地、果てしなく道を歩き続ける人間、牛の群れ、馬の群れ、酒場で酔いつぶれるまでダンスに興じる人々、廃墟のベランダから周囲を睥睨するふくろう……そんな夢の中のような映像がいつまでも印象に残る。

 この映画の後半にはキリストのような風貌の詐欺師が登場する。キリストの肖像が残っているわけではないので、私が勝手に抱いているキリストの風貌に似た男である。この男の巧みな弁舌によって、村人たちはハーメルンの笛吹き男に連れ去られた子供たちのようにさまよい始める。

 観客からは明らかに詐欺師に見えるのに、それなりの存在感のある登場人物たちは容易に欺かれる。映画が描く不思議な異世界と現実世界を結ぶ寓意がそこにあると感じた。

『米軍が最も恐れた男カメジロー 不屈の生涯』を観た2019年10月09日

 那覇市の桜坂劇場で映画『米軍が最も恐れた男カメジロー 不屈の生涯』(監督:佐古忠彦)を観た。2年前に同じ劇場で観た『米軍が最も恐れた男 その名はカメジロー』のPart2にあたるドキュメンタリー映画である。128分の長編だが長さを感じさせず、前作以上に印象深かった。

 カメジローとは瀬長亀次郎、米軍占領下の沖縄の闘士である。投獄生活の後、那覇市長に選出されるも米軍圧力下の市議会の不信任決議で追放される。本土復帰時には衆議院議員に選出される。

 今年70歳の私は沖縄復帰の頃は大学生だった。瀬長亀次郎という人物は子供の頃から新聞やテレビで知っていたと思う。彼が那覇市長を追放されたのは私が小学三年の時だが、この人物が子供心に記憶に残っているのは、その独特な風貌と愛嬌を感じさせる名前のせいだろう。印象深い政治家だったのである。

 本土復帰の頃の瀬長亀次郎には「国会議員に成り下がって、一回り小さくなった」と感じた。1960年代末の騒然とした時代、新左翼が「沖縄奪還」と叫んでいたら、佐藤栄作首相によって「沖縄返還」が粛々と進み、全軍労闘争が展開された。そして数年後には佐藤栄作にノーベル平和賞が授与された。釈然としないヘンテコな時代だった。この映画であの頃の気分が甦ってきた。

 この映画の圧巻は亀次郎と佐藤栄作との国会での論戦場面である。前作にも同じ場面があったが、Part2はより詳細に描いている。やはり、亀次郎には迫力がある。佐藤栄作は今の安倍首相の祖父(岸信介)の弟で、当時の多くの学生にとっては最大の敵役だった。いま映像で観ると、団十郎と呼ばれたのもうなずける役者ぶりで、それなりの人物にも見えてきて、現首相をはじめ現在の政治家の矮小さが情けなくなる。己の若かった時代が大きく見えるのは年のせいかもしれないが。

 この映画でハッとしたのは「米国には沖縄の基地存続こそが最大の課題で、その手段として沖縄を返還した」というカメジローの国会論戦での指摘である。「沖縄占領」がまねく抵抗運動拡大の中で基地を維持するのは困難であり、基地維持には返還がいいとた判断したというのである。当然ながら佐藤栄作はカメジローのこの見解を否定する。

 それから半世紀経った現状を見るとカメジローに首肯せざるを得ない。

映画『ちいさな独裁者』を観て考えたこと2019年06月05日

 第二次大戦末期ドイツでの実話をベースにした映画『ちいさな独裁者』を観た。脱走兵がたまたま見つけた将校の制服を身にまとい、将校のふりをして将校としてふるまうなかで、部隊からはぐれた兵士たちを自身の部下として従わせ、権力をふるっていく話である。

 ニセ将校の制服はズボンが長すぎて合っていない。にもかかわらず、彼は総統の特別任務を負った将校として権力を行使し続けることができ、収容所では脱走兵たちの虐殺を命ずる。

 この映画、はじめのうちは主人公がニセ将校とバレるのではないかという緊迫感が面白いのだが、その面白さが途中から逆転する。彼の部下や周囲の軍人たちの何人かは、彼がニセモノかもしれないと気づいているようなのだ。にもかかわらず、彼に利用価値があると判断してその命令に従っているように見える。 ニセモノゆえのカタチ(制服)に忠実な過激なふるまいが他者を圧倒するというところもある。

 この構造は、「おおきな独裁者」ヒトラー自身にもあてはまる所があるし、現代の政治家の某や某にもあてはまるような気がする。ニセモノだとわかっていて内心では馬鹿にしているのだが、利用価値という時代の空気のせいでニセモノをあたかもホンモノのように扱ってしまう。

 その結果、どうなるか。ニセモノはがホンモノに変貌することもあるかもしれないが、悲惨なことになる可能性が高い。

『HHhH 』を映画化した『ナチス第三の男』を観た2019年05月27日

 映画『ナチス第三の男』を下高井戸シネマで観た。ローラン・ボネの メタフィクション的歴史小説『HHhH プラハ、1942年』を映画化したもので、ナチス統治下のプラハ副総督ハイドリヒ暗殺を扱っている。「HHhH」とは「Himmlers Hirn heiβt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)」という意味である。

 この暗殺事件は過去に何度か映画化されている。私は2年前に映画『ハイドリヒを撃て!』を観て、それを機に『HHhH』を読んだ。その時、この作品の映画化の情報を得ていたので、この映画を心待ちにしていた。

 映画『ナチス第三の男』の原題は『THE MAN WITH THE IRON HEART』で、これはヒトラーがハイドリヒを評した言葉である。やはり『HHhH』というタイトルでは何のことやら不明なので変えたようだ。そう思って、パンフをよく見ると、この原題に『HHhH』が隠れていると気づいた。原題は正確には『THE MAN WITH ThE IRON HEART』だった。芸が細かい。

 小説『HHhH』はハイドリヒ暗殺の小説を書く過程を表現した小説で随所に作者が顔を出すので、『ナチス第三の男』にも作者が登場するかと期待したが、そんなヘンテコな作りではなく正統な映画だった。

 『ナチス第三の男』と『ハイドリヒを撃て!』を比べると、暗殺に関する緊迫感は『ハイドリヒを撃て!』の方が上である。『ナチス第三の男』はハラハラドキドキの映画ではなく、暗殺される圧政者側、暗殺者&レジスタンス側の両方を坦々と描いている。

 ハイドリヒの国防軍不名誉除隊、親衛隊への入隊、結婚などを描き、ヒムラーやレームなども登場する。ナチス高官の家庭生活や日常を通して、あの時代の雰囲気が伝わってくる。もちろん、非日常的な悲惨で残虐な場面がメインだが、その合間に日常が顔を出すのが何とも言えず怖い。

映画『カンゾー先生』で大煙突の記憶が蘇る2019年02月27日

 私が15歳までを過ごした岡山県玉野市の日比が登場する小説『始祖鳥記』(飯嶋和一) の読後感をブログに書いたところ、それを読んでくださった方から、日比が舞台の映画『カンゾー先生』を紹介された。

 この映画が日比を舞台にしていると、かなり以前に聞いていたが、観る機会を逸したまま忘れていた。ブログにコメントをいただいたのを機に、中古DVDを入手して『カンゾー先生』(原作:坂口安吾、監督:今村昌平)を観た。31年前の映画である。

 主演は柄本明で、麻生久美子、松坂慶子、唐十郎、世良公則などが出演している。当然ながら、いま観ると役者がみな若い。舞台は終戦直前の日比、開業医「カンゾー先生」の話である。滑稽譚と思っていたが、滑稽譚を超えた味わい深い映画だった。

 原作の舞台は伊東、それを映画では日比に変えている。だが、ロケ地は日比ではなく牛窓(瀬戸内市)である。さほど有名でもない日比を映画の舞台にした理由はよくわからない。

 映画の冒頭は米軍の空襲パイロットのシーンである。大煙突がある日比の精錬所の上空に来るが、連合軍捕虜が精錬所で働かされているとの情報があって空襲は断念する。上空から見た大煙突や精錬所の映像に引き込まれた。

 私は大煙突を毎日眺めながら幼少期を過ごした。精錬所は私の父の職場だった。だから、映画の冒頭シーンに懐かしさを感じた。映画は戦時中の話で、私が知っているのは戦後復興期の情景だから時間差がある。それにしても、よく眺めると、映画の情景は私の知っている大煙突や精錬所ではない。ロケ地が日比でないのだから当然なのだが…。

 日比の大煙突は山頂にあり、東洋一の煙突だと聞かされていた(私の幼少期には「東洋一」という表現が多かった)。子供の頃は煙突山に登って大煙突を真下から見上げたものだ。大煙突の周辺は遊び場のひとつだった。山麓の精錬所と山頂の大煙突の間には大蛇のような煙道があったが、映画ではそれがない。だから、映画の大煙突は私の知っている大煙突とは別物に見えた。

 十数年前、故郷に行ったとき、まだ大煙突は山頂にあったが煙は出てなかった。少し離れた脇に赤白模様のやや近代的でスマートな煙突が建っていた。あの赤白煙突のせいで大煙突が映画のロケに使われなかったのだろうか。

映画『家に帰ろう』で人それぞれの70年を考えた2018年12月26日

 シネスイッチ銀座でアルゼンチン映画『家へ帰ろう』を観た。広い意味でナチス・ヒトラー関連の映画だが、シンプルな作りの好感の持てる映画だった。

 アルゼンチン在住の仕立屋の爺さんが主人公で、この爺さんは1945年にポーランドから逃げて来たユダヤ人である。昨年、私はポーランド旅行をしアウシュヴィッツにも行ったが、第二次大戦を体験したユダヤ人にとってドイツやポーランドが特殊な場所だということを再認識させられる映画だ。

 主人公の爺さんは少年時代にナチス支配下のポーランドで迫害され、父や妹を失いながらも、ポーランド人の友人に助けられてアルゼンチンに亡命する。それから70年、娘や孫に囲まれた生活から老人ホームへの入居をひかえた爺さんは、突如ポーランド目指して旅立つ。70年前の1945年に分かれた友人に自分が仕立てたスーツを届けに行くのである。

 つまりはアルゼンチンからポーランドまでのロードムービーであり、娘たちに裏切られてさまようリア王の要素も入っている。

 フィクションではあるが、70年間会っていない旧友に会いに行くという設定に感動した。私は現在70歳であり、10年~50年ぶりの旧友との再会は想像できるが70年はあまりに長い。でも、それもありと思えてくる。

 ナチスの時代以前のポーランドには多くのユダヤ人が住んでいたが、現在は非常に減少している。そんな近代史の実情もこの映画から伝わってくる。

映画『マルクス・エンゲルス』『ウィンストン・チャーチル』を観た2018年07月25日

 下高井戸シネマで『マルクス・エンゲルス』と『ウィンストン・チャーチル』の2本を続けて観た。入れ替え制の小さな映画館だが、往年の2本立て映画館に行った気分だ。

 2本とも歴史上の有名人を扱った映画で面白く鑑賞できた。事実がベースでも映画的脚色が施されているだろうと思いつつも、書籍では感得しにくいナマの人物像や時代の雰囲気に引き込まれた。映像の力だ。

 『マルクス・エンゲルス』は2017年に制作されたフランス・ドイツ・ベルギー合作の映画で原題は「THE YOUNG KARL MARX」。ソ連崩壊後の21世紀になって、マルクスの映画が西欧で制作されたことに驚いた。マルクスは復活しつつあるのだろうか。

 この映画は若きマルクスの「森林伐採法」批判を象徴するシーンで始まり、マルクス30歳の時にエンゲルスと共に『共産党宣言』を執筆する時点で終わる。マルクス夫妻とエンゲルスの青春を描いた映画だ。『ヘーゲル法哲学批判』や『哲学の貧困』も登場する。

 私は『資本論』を読んだことはなく共産主義には懐疑的だが、学生時代には初期マルクスの何編かを読み、読書会などに参加したこともある。この映画を観ていて、初期マルクスの著作と格闘した頃の記憶がよみがえり妙な気分になった。あの「マルクス」がナマイキな青年の姿で画面で動き回る姿に新鮮な感動をおぼえた。

 『ウィンストン・チャーチル』はチャーチルが首相に就任してからダンケルクまでの1カ月足らずの時期を描いている。評伝とは言い難いが、チャーチルの人物像が十全に伝わってくる映画だ。

 この映画がどこまで史実を反映しているかわからないが、英国議会の雰囲気はあんな風だったのだろうと思える。

 私はチャーチルの著作も評伝も読んだことがなく、通り一遍の知識しかない。だが、彼が首相に就任していなければ、第2次世界大戦の様相は変わっていただろうとは思う。

 歴史を学ぶには歴史書を読むしかない。当該時代の文書や後代の史書によってアプローチするのが王道だろう。それによって自らイメージを紡ぎだせればそれに越したことはない。だが、歴史への関心を喚起するには映画という映像の力は大きい。

 『マルクス・エンゲルス』を観て、E・Hカーの『カール・マルクス』を再読したいと感じ、『ウィンストン・チャーチル』を観てチャーチルの『第2次世界大戦回顧録』に挑戦したいという気分になった。