ショーン・ホームズ演出の『リア王』は不思議世界2024年03月17日

 東京芸術劇場プレイハウスで『リア王』(演出:ショーン・ホームズ、出演:段田安則、上白石萌歌、江口のりこ、田畑智子、小池徹平、玉置玲央、高橋克実、浅野和之、他)を観た。

 幕が上がったとき、これが『リア王』の舞台かと驚いた。背景は白一色の壁、無機質な空間にパイプ椅子が横一列に間隔を置いて並び、スーツ姿の男たちが正面を向いて座っている。舞台脇にはウォーターサーバーとおぼしき装置がポツンと置かれている。

 この非現実的な異次元空間のような舞台で芝居が始まる。スーツ姿の男たちは、ケント伯爵、グロスター伯爵、エドマンド(グロスターの庶子)で、パイプ椅子に座って正面を向いたまま台詞をしゃべる。稽古場の読み合わせを眺めている気分になる。

 やがて、リア王と三人の娘が登場する。リア王はネクタイを締めたダブルの背広、娘たちはおそろいのピンクのスーツ姿、玉座は肘付きオフィスチェアーである。

 ショーン・ホームズ演出の舞台を観るのは、一昨年の『セールスマンの死』、昨年の『桜の園』に続いて3回目だから、ユニークな舞台空間になるだろうとは予感していた。だが、意表を突かれた。

 観劇の直前に今回の上演台本である松岡和子訳の戯曲を読んでいたので、衣装はスーツでも台詞は変えていないとわかる。時代設定を現代にしているわけではないが、時間や場所を特定しない世界になっている。戯曲を読んでいるときに思い浮かべた情景と異なる舞台にとまどいつつ、多様な解釈を迫るシェイクスピアの世界を堪能した。

 イギリス国王と娘たちの世界が、一族経営企業のワンマン社長の老害に辟易している勝気な娘たちの世界に重なって見えたりもする。だが、そんなイージーなイメージを超えた不可思議な不条理劇に思えた。

 冒頭、リア王が娘たちを試す問いがけをし、コーディリア(上白石萌歌)が「何も」と答える。リア王が癇癪を起こすきっかけとなるシーンである。ここで、コーディリアは、背景の白壁にプロジェクターで投影された巨大なイギリス地図にフェルトペンで立ち向かう。てっきり「Nothing」と書くのだと思った。だが、地図の上に書いたのは大きなバッテンだった。おとなしいコーディリアが大きな否定を意思表示したように思え、意外だった。

 また、王の不興をかって退場するケント伯(高橋克実)は、舞台のそでに引っ込むのではなく、背景の白壁に体当たりし、それを突き破って退場する。忠臣の激しい感情表現に驚いた。

 秘めた感情を不思議な形で表現した舞台である。

 また、時おりチカチカ点滅する照明や虫の羽音が役者の芝居を邪魔して台詞を相対化させる。やはり、不思議な舞台だ。

戯曲『リア王』を読んで、あらためて悲劇と認識2024年03月15日

『リア王』(シェイクスピア、松岡和子訳/ちくま文庫)
いま、東京芸術劇場で上演中の『リア王』(演出:ショーン・ホームズ、主演:段田安則)を近く観劇予定だ。観劇に先立って戯曲を読んだ。

 『リア王』(シェイクスピア・松岡和子訳/ちくま文庫)

 シェイクスピアの主要戯曲はだいたい読んでいる気がしていた。だが、『リア王』のチケットを手配したとき、四大悲劇のひとつである『リア王』を戯曲で読んでいないと気づいた。だが、私のシェイクスピア初体験は『リア王』である。

 私がジュニア版の『リア王』を読んだのは小学低学年の頃だった。わがささやかな読書体験の最も初期によんだ「お話し」である。幼少期に読んだ本の印象は長く残る。コーディリアという三女の名とケント伯爵の名は記憶に刻まれている。いまでも、「ケント」という名に接すると煙草やスーパーマンではなく『リア王』が思い浮かぶ。不思議なことだ。

 記憶には残っているが、『リア王』を面白いと思ったわけではない。バカな王様が騙されて嵐の中をさすらう姿に強烈な印象を受けた。イヤな話だと思った。読み返したいとも思わなかった。後にラムのシェイクスピア物語で読んだ『ハムレット』『マクベス』『オセロ』は面白いと感じ、戯曲も読んだ。しかし、『リア王』はイヤな話という印象が持続したまま戯曲もスルーしていた。

 今回、初めて戯曲を読んで、その展開の速さに驚いた。開幕早々にリア王はコーディリアに対して癇癪を起し、戯曲半ばで、すでに道化と共に嵐の中をさまよっている。私の記憶にあるリア王はこのシーンで終わっているのだ。

 そもそも、小学生時代に読んだジュニア版の記憶を頼りにするのが無理筋で、虚心に戯曲を読み進めねばならない。読み終えて、こんな結末だったのかと少し驚いた。かなり強烈で極端で理不尽な悲劇である。愚かさが招く悲劇とは言え、誰もが多かれ少なかれ愚かなのだから身につまされる。

『君が手にするはずだった黄金について』は小説家に関する連作集2024年03月13日

『君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)
 『君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)

 5カ月前に出た小川哲氏の新作を面白く読んだ。まとまりのいい連作短篇集で、6篇でひとつの世界を構築している。私小説を装って、小説家とは何者かを追究した「小説家小説」である。

 冒頭の短篇のタイトルは『プロローグ』、末尾の短篇のタイトルが『受賞エッセイ』、長編小説の「プロローグ」と「あとがき」とかん違いしそうになる構成だ。内容も、『プロローグ』が小説を書く生活を選んだ決意表明、『受賞エッセイ』が小説を書き続けることの持続表明に思える。

 私は数年前に小川氏の『ゲームの王国』を読んで虚実混在世界構築の筆力に感心し、その後、『ユートロニカのこちら側』『地図と拳』『君のクイズ』なども面白く読んだ。これらの作品を生み出してきた小説家の生活と内面を垣間見た気分になる連作短篇集である。

 冒頭の短篇には「『ムーン・パレス』を読んでいる人に幻滅するような男なら、そもそも付き合わない方がいい」「谷崎の初版本を渡されて喜ばない人とは付き合う価値がないよ」などの気障でシャレた台詞が出てくる。私は『ムーン・パレス』を読んでいないし、もちろん谷崎の初版本も持っていない。でも、こんな台詞がある小説を面白いと感じてしまう。

 フィクションを紡ぐ現場の心境には、現代社会に生きる人々の心象が投影されているという当然のことをあらためて感じた。

大河ドラマ『光の君へ』の藤原実資への興味がわいた2024年03月10日

「紫式部と藤原道長」(倉本一宏/講談社現代新書)
 私はNHKの大河ドラマの大半は見ていないが、今年の『光の君へ』は視聴を続けている。舞台が平安時代で紫式部が主人公という意外性に興味を抱いたからである。と言っても、藤原道長や紫式部についてほとんど知らない。源氏物語は口語訳すら読んだことはない。

 ドラマは現代的で意外に面白い。かなりフィクションを盛り込んでいると感じるが、そもそもの史実を知らないので、どこまで史実を踏まえているかわからない。で、このドラマの時代考証を担当した研究者が著した次の新書を読んだ。

 「紫式部と藤原道長」(倉本一宏/講談社現代新書)

著者は「はじめに」で次のように述べている。

 「紫式部と道長が2024年の大河ドラマの主人公になることが決まったとき、平安時代を研究する者として、この時代の歴史にもやっと日が当たる時が来たと喜んだものである(その直後、喜んでばかりいられないことになってしまったが)。しかし、ドラマのストーリーが独り歩きして、紫式部と道長が実際にドラマで描かれるような人物であったと誤解さるのは、如何なものかとは思う。この本では、ここまでは史実であるという紫式部と道長のリアルな姿を、明らかにしていきたい。」

 本書は一次史料で確認できる紫式部と藤原道長の姿を描いている。同時代に紫式部や道長に実際に接した人が残した史料から推測される二人のイメージは、ドラマとはかなり異なる。

 ドラマは少年少女時代の道長と紫式部の出会いを描いているが、著者は次のように指摘している。

 「五男とはいえ摂関家の子息である道長と無官の貧乏学者の女である紫式部が幼少期に顔を合わせた可能性は、ほぼゼロといったところであるが。」

 史実で確認できない部分を想像力で膨らませるのが歴史ドラマの醍醐味だから、若い紫式部と道長が互いに引かれ合う設定はいいと思う。と言うか、そうでなければ物語は始まらない。

 だが、本書によって紫式部が親子ほど年の離れた年長の藤原宣孝と結婚すると知って驚いた。ドラマの藤原宣孝は紫式部の父を時々訪れる気さくなオジサンで、佐々木蔵之介が演じている。今後、このオジサンが吉高由里子演じる紫式部に求婚する展開になるとは想像し難いが、史実を変えるわけにはいかないだろう。

 本書には、藤原実資の記した日記『小右記』からの引用が多い。藤原実資はドラマでも日記を書き続ける不平不満の貴族として登場する。この人物は、この先長く道長や紫式部の生涯に付き合っていくことになるようだ。ドラマを観るうえで、実資への興味が大きくなった。

北里柴三郎の伝記は面白い2024年03月08日

『北里柴三郎:雷(ドンネル)と呼ばれた男(上)(下)』(山崎光男/中公文庫)
 先日、北里研究所の関係者と面談する機会があった。そのときまで、北里研究所とは北里大学内の研究機関だと思っていた。しかし、逆だった。北里研究所のもとに北里大学や北里病院などの諸機関があるそうだ。北里柴三郎が設立したのは北里研究所であり、それがそもそもの母体だと知った。そんなきっかけでこの偉人について知りたくなり、伝記を読んだ。

 『北里柴三郎:雷(ドンネル)と呼ばれた男(上)(下)』(山崎光男/中公文庫)

 本書は2003年刊行の単行本の文庫版(2007年)である。著者は、医学・薬学分野の作品が多い小説家である。今年の夏、千円札の肖像が野口英世から北里柴三郎に代わるが、それに当て込んだ本ではない。

 北里柴三郎については子供時代に偉人の一人として習っただけで、詳しくは知らなかった。第1回ノーベル賞受賞の可能性があったが、東洋人なので受賞を逸したという話を聞いたことはある。本書を読んで、北里柴三郎の業績と疾風怒涛の生涯を知った。第1回ノーベル賞に関する著者の見解も納得できた。とても面白い伝記である。

 細菌学と言えばコッホの名が浮かぶ。柴三郎はベルリンに留学し、コッホの門下生になる。単なる弟子ではなく、優秀な共同研究者としてコッホから高く評価される。同じ時期の留学生・森林太郎とはかなり異なる。柴三郎の方が研究熱心だ。

 柴三郎はケンブリッジなど英米の大学から「研究所長に…」と要請されるが、国費留学生なので帰国する。しかし、帰国しても能力を活かす場がない。柴三郎の留学時代から「東大vs北里」という感情的対立があったからである。妬みが絡んだ対立という図式は、よくある光景だ。

 やがて、福沢諭吉や内務官僚らの支援で柴三郎のための私立伝染病研究所が設立され、その後、国立の研究所になる。柴三郎は伝染病研究所の所長として39歳から61歳まで活躍する。

 しかし、柴三郎が61歳のとき、政治家らの思惑で伝染病研究所は唐突に文部省に移管され東大付属となる。柴三郎は辞任し、自ら北里研究所を設立する。そのとき、研究員らも柴三郎と行動を共にする。研究員は残留すると目論んでいた東大側はあわてる。このくだりの経緯は小説のように面白い。現在の北里研究所の由来がよくわかった。

『地中海の十字路=シチリアの歴史』を読んで沖縄を連想2024年03月06日

『地中海の十字路=シチリアの歴史』(藤澤房俊/講談社選書メチエ)
 私は6年前にシチリアの古跡を巡るツアーに参加した。それに先立ってシチリア史の概説書を何冊か読んだ。だが、6年前に読んだ本の内容の大半は蒸発していて、シチリア史の何層にも堆積した複雑さの漠然たる印象が残っているだけだ。

 あの複雑なシチリア史の復習をしようと思い、次の本を読んだ。1943年生まれの研究者による5年前の本である。

 『地中海の十字路=シチリアの歴史』(藤澤房俊/講談社選書メチエ)

 本書は、紀元前8世紀のギリシア植民市から20世紀の第2次世界大戦終結までのシチリア史を要領よく描いている。読了して、シチリアの歴史の複雑さと面白さをあらためて認識した。

 ざっくり言えば1282年の「シチリアの晩禱」事件までは活気があり、それ以降は沈滞と翻弄の時代に思える。

 シチリアと言えば、塩野七生が『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』で魅力的に描いたフェデリーコ2世が思い浮かぶ。「世界の驚異」と呼ばれた13世紀のこの皇帝に、本書はかなりのページを割き、その事績には神話・俗説も多いと述べている。フェデリーコ2世の施策(都市反乱の弾圧など)がイタリアの南北問題の歴史的要因の一つになったとも指摘している。意外な指摘だ。

 18世紀末にシチリアを「再発見」したのは『イタリア紀行』を著したゲーテである。その再発見はオリエンタリズムであり、シチリア人にとっては「シチリアに無知なヨーロッパ人」の再発見だった、との見解が面白い。

 マルクスもシチリア史に言及しているそうだ。マルクスは、以下のように要領よくまとめている。

 「シチリア人は南と北のあらゆる人種が混血したものである。まず、原住民のシカーニ人、フェニキア人、カルタゴ人、ギリシア人、そして売買あるいは戦争によって世界各地からシチリアに連れてこられた奴隷、さらにアラブ人、ノルマン人、イタリア人との混血である。シチリア人は、あらゆる転変と推移の間にも、自らの自由のために戦ってきたし、戦い続けている。」

 シチリアは歴史的に何度か独立を試みているが、現在はイタリアの特別自治州である。海に囲まれたシチリアの歴史は、海からやって来る「よそ者」に次々に支配・翻弄される歴史だった。最後にやって来た「よそ者」は第2次世界大戦末期の米英連合軍である。

 私は現在、沖縄滞在中で、本書を沖縄で読んだ。そのせいか、シチリアと沖縄が二重写しになった。

那覇の小劇場で基地問題テーマの芝居を観た2024年03月04日

 那覇市安里の「ひめゆりピースホール」という小さなホールで『カタブイ、1995』(脚本・演出:内藤裕子、出演:新井純、花城清長、馬渡亜樹、高井康行、稀乃、宮城はるの)という芝居を観た。

 このホールでの観劇は、昨年10月の『カフウムイ』以来2回目だ。私はこの数年、年2回約2週間ずつ沖縄で過ごしている。沖縄滞在のスケジュールに合致したので観劇した。

 『カタブイ、1995』は3月中旬に下北沢の小劇場で上演予定で、それを紹介する朝日新聞(2024.2.22夕刊)の記事で那覇上演を知った。その記事によって、米軍基地問題テーマのややシリアスな芝居だろうと予測した。「カタブイ」とはスコールのことで「片降い」と書く。プロパガンダ演劇は苦手だが、それを超える面白さがあるかもしれないと思い、劇場に足を運んだ。

 脚本・演出の内藤裕子氏は沖縄出身者ではない。沖縄での取材を重ね、沖縄の本土復帰テーマの3部作を書き下ろし、本作が2作目だそうだ(本作以前に『カタブイ、1972』を上演)。

 時代は1995年、反戦地主だった父が亡くなった直後の女性3代の家族の物語である。亡くなった父を含めると、曾祖父、祖母、母、娘の4代になる。祖母は元教師、母は教師、娘は中学生で、この家には父が残したサトウキビ畑がある。その刈り入れは大変な作業である。1995年2月、母と同世代の男が東京から訪ねて来る。復帰前の学生時代に援農でサトウキビ刈りに来ていた男で、かつては母と恋仲だったらしい――という導入である。(どうでもいい話だが、この母と男は私とほぼ同世代だ)

 この芝居には日本国憲法、日米安保条約、日米地位協定の条文を朗読するシーンが挿入されていて、普段は読むことのないその内容をあらためて認識させられる。1995年の米兵による少女暴行事件をきっかけに高揚した反基地運動、太田知事の代理署名拒否などを背景にして、約30年前の同時代史がよみがえってくる。

 第3作目は、おそらくこの家族の現在を描くのだろうが、その後の歴史を知っているので苦い思いになる。芝居のなかで最も印象に残ったのは、中学生の娘が三線を奏でながら歌う民謡である。よく通る高音が時代を貫く人々の思いの表出になっている。

『物語としての旧約聖書』の読み解きが興味深い2024年03月02日

『物語としての旧約聖書:人類史に何をもたらしたか』(月本昭男/NHKブックス)
 『ビジュアル版 聖書物語』に続いて次の関連書を読んだ。今年1月に出た新刊である。

 『物語としての旧約聖書:人類史に何をもたらしたか』(月本昭男/NHKブックス)

 私には本書はやや専門的に感じられた。読者が旧約聖書の内容をある程度把握していることを前提にしているように思える。旧約聖書の多様な解釈にウエイトを置いた本である。私は『聖書物語』を読んだばかりだったおかげで、何とか興味深く読了できた。

 天地創造から楽園追放、ノアの洪水、アブラハム、出エジプトを経てカナン定住に至るまでの物語とその解釈が、特に面白かった。

 アブラハムが神から愛児イサクを犠牲に献げと命じられて応じる話は、普通に考えれば奇怪である。著者は、この話がどのように解釈されてきたかをいろいろ紹介している。キルケゴールの「そのような不条理を『おそれとおののき』をもって受けとめること、そこにこそ神信仰の本質がある」という見解には「へぇー」と感心した。不条理の哲学だろうか。理解できたわけではない。

 出エジプトが史実かどうかは不明だが、その後、イスラエルの民は「約束の地」カナンに定住する。「約束の地」と言ってもそこには先住者がいるのだから穏当ではない。旧約聖書の記述からは「軍事征服説」と「平和浸透説」の二つの解釈が成り立つそうだ。その他に社会学的視座から、貧農層が都市支配から「引き揚げた」という説や貧農層が「反乱」したという説もあるそうだ。

 旧約聖書にたたみこまれているもの、反映されている「何か」を読み解く話はスリリングで面白い。

 本書を読んで、私の印象に残った旧約聖書の性格は次の三点である。

 ・唯一神への信仰を強く主張している
 ・歴史観は因果応報思想である
 ・記述には矛盾も多く複眼的である

 著者が述べているように、オリエントの強大国に翻弄され続けた弱小の民が残した旧約聖書が後世のキリスト教やイスラム教を生み出すことになるのは逆説的な現象である。その不思議に感慨をおぼえざるを得ない。

『聖書物語』(木崎さと子)は神へのツッコミが面白い2024年02月29日

『ビジュアル版 聖書物語』(木崎さと子/講談社)
 先日、『ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか』を読み、自分が旧約聖書について無知だと認識し、かなり以前に入手したまま未読だった次の本を読んだ。

 『ビジュアル版 聖書物語』(木崎さと子/講談社)

 文学者の視点で聖書の内容を物語風に紹介した本である。前半の約三分の二が旧約聖書、後半の約三分の一が新約聖書だ。著者は1939年生まれの芥川賞作家、43歳でカトリックの受洗をしている。

 聖書は超有名本だから目を通しておかねばと若い頃から思っていた。旧約の『創世記』『出エジプト記』、新約の『マタイ伝』だけは読んでいるはずだが、内容をよくおぼえていない。齢を重ね、いまさら聖書に取り組もうという気力は失せ、木崎氏の『聖書物語』が手頃と思って入手したのが数年前。それをやっと読了したのである。

 私にとって旧約聖書のイメージは、小学生の頃に観た映画『十戒』のモーゼである。だが、あれは旧約のほんの一部に過ぎず、旧約の大半はおよそ千年にわたるイスラエル人の歴史を延々と語っているようだ。

 本書を読んでいて、旧約のどこが「聖書」なのだろうという気がした。ありがたい教えを説いている書とは思えないのである。そこに面白さがあるのかもしれない。

 旧約は史書ではなく伝説の集成に近く、人類の愚行を言い伝える書のように思える。その愚行はかなりゴチャゴチャしていて、頭に入りにくい。ざっくり言えば、人間は神への信仰と裏切りを繰り返し、神はそんな人間を懲らしめることを繰り返しているのである。

 著者はキリスト教徒ではあるが、本書では神に対するかなり辛辣なツッコミが随所にある。聖者や預言者たちの言動に現代人の感覚から違和感を表明している箇所もある。私には、そんなところが面白かった。

 後半の新約聖書はイエスの伝記という体裁で、かなりすっきりしていて読みやすい。個別の福音書それぞれを解説するのではなく、「マタイ」「マルコ」「ルカ」および「ヨハネ」による福音書をベースに、イエスの生誕から復活までの言動を解説し、それぞれの福音書における表現の違いを指摘している。初心者に親切な解説だ。

 新約聖書はイエスの復活で終わるのではなく、その後のパウロによる宣教の旅があり、さらにはヨハネの黙示録もある。これらも簡潔に解説していて、なるほどと思った。

 本書を読んで、私が何となく知っている故事や格言の多くが聖書由来だと知った。西欧キリスト教文化圏の人々の思考のベースを把握するには、旧約聖書・新約聖書の基本的な知識が必須だとあらためて認識した。

映画『PERFECT DAYS』の主役は公共トイレか?2024年02月27日

 役所広司がカンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞して話題になった映画『PERFECT DAYS』(監督:ヴィム・ヴェンダース)を観た。公共トイレ清掃員の日常を淡々と描いた映画と聞いていたので、観る前から一定のイメージが頭の中にあった。そのイメージからさほど逸れない想定通りの映画だった。

 一人暮らしの中年のトイレ清掃員の早朝の目覚めで映画は始まる。朝のルーティンを経て軽のワンボックスカーで現場に出勤、いくつかのトイレの清掃を終えて帰宅し、自転車で開店直後の銭湯に行って湯に浸かり、小さな居酒屋で軽く一杯飲む。帰宅後、就寝前に布団に寝そべったまま少々の読書、やがて本を閉じて消灯、眠りにつく。

 そんな日常の繰り返しを表現するだけで映画になるのかと心配になる。小さな出来事はいろいろあっても、物語が展開されるわけではない。でも、退屈することなく観終えた。人生とは小さな出来事の繰り返し――という当然のことを突き付けられ気分になる。

 この映画で驚いたのは、公共トイレが綺麗なことである。どれもデザインが凝っている。主役はこれらの公共トイレかもしれない。