白石加代子女優生活50周年記念公演を観て懐旧2017年10月18日

 池袋の「あうるすぽっと」で「白石加代子女優生活50周年記念公演」と銘打った『笑った分だけ怖くなる vol.2』を観た。白石加代子と佐野史郎による朗読劇で、演目は『乗越駅の刑罰』(作・筒井康隆)と『ベーコン』(作・井上荒野)の2作。

 この公演に食指が動いたのは白石加代子と筒井康隆という怖ろし気な取り合わせに惹かれたからだ。白石加代子の舞台を観るのは学生時代に「早稲田小劇場」の『劇的なるのをめぐって 2』以来だと思う。だとすれば約半世紀ぶりだ。

 1960年代末から1970年代初頭の時代、白石加代子はアングラの女王的な怪女優だった。当時の彼女が何歳だったか知らないが、最近たまたまちらりと朝ドラで観た彼女の印象は昔とさほど変わらない。

 約半世紀ぶりに舞台で観た白石加代子は昔の「化け物」的な印象が残ってはいるものの洗練された大女優のようでもあった。

 『乗越駅の刑罰』も『ベーコン』も観ているうちに異世界に引き込まれていくような舞台だった。カーテンコールの際に、白石加代子と佐野史郎の短いトークがあり、その内容が私の遠い記憶をゆさぶった。

 白石加代子と佐野史郎の接点に関するトークだった。白石加代子は「早稲田小劇場」時代に『少女仮面』に主演している。『少女仮面』は「状況劇場」の唐十郎が「早稲田小劇場」のために書いた戯曲で、岸田戯曲賞を受賞した。「劇壇の芥川賞」と言われる岸田戯曲賞を怪しげなアングラが受賞したのは大きな話題になった(その後、唐十郎がホンモノの芥川賞まで受賞するとは予測できなかった)。佐野史郎は唐十郎の「状況劇場」の出身であり、そこに白石加代子と佐野史郎の接点がある。そんな昔話のトークだった。

 私は白石加代子の『少女仮面』を観ていない。伝説の舞台との噂話は聞いていた。戯曲は単行本刊行時に読んだ。後年、西武劇場で渡辺えり子主演で上演された『少女仮面』を観た記憶はあるが、「状況劇場」版を観たか否かは記憶が定かではない。

 「あうるすぽっと」から帰宅し、書棚の奥から『少女仮面:唐十郎作品集』(学藝書林/1970.3.5)を引っ張り出した。口絵には白石加代子の『少女仮面』舞台写真が載っている。パラパラと戯曲を読み返すと、懐かしくも印象深い挿入歌に遭遇した。

  時はゆくゆく乙女は婆アに、
  それでも時がゆくならば
  婆アは乙女になるかしら

 メロディも鮮明によみがえってくる。昔、「唐十郎:四角いジャングルで歌う」というLPレコードで繰り返し聞いたからかもしれない。

 この歌詞、女優生活50周年の白石加代子に重なってくる。

ゾラの『制作』(岩波文庫)の表紙絵に違和感があったが…2017年10月15日

『制作(上)(下)』(エミール・ゾラ/清水正和訳/岩波文庫)
 ゾラの『制作(上)(下)』(清水正和訳/岩波文庫)を読んだ。ゾラの長編は5年前に代表作『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』を読み、それで十分と思っていたが新たな長編に手を出したのは、先月、映画『セザンヌと過ごした時間』を観たからだ。ゾラとセザンヌの友情を描いたこの映画の感想は以前のブログに書いた。

 映画『セザンヌと過ごした時間』によって、ゾラが少年時代からの親友だったセザンヌとの交友を題材にした小説を書き、それがきっかけでセザンヌと疎遠になったという話を知った。その小説が『制作』だ。

 『制作』の主人公は必ずしもセザンヌだけをモデルにしているのではなくマネなど同時代の画家も反映されているという事前知識があった。だから、入手した岩波文庫版のカバーを見て多少の違和感を抱いた。『制作』は上下2冊に分かれていて、上巻の表紙はセザンヌの絵、下巻の表紙はモローの絵だ。上巻の表紙は妥当だが、下巻のモローがよくわからない。ここはマネの絵だろうと思った。

 マネの『青年ゾラの肖像』は上巻の口絵に載っているのでマネが無視されているわけではない。読む進めていくと、この翻訳版には随所に挿絵のような形で物語の情景に対応したマネ、セザンヌ、モネなどの風景画の写真が掲載されていてなかなか楽しい。物語のシーンを描いた版画も挿入されていて、これは原書の挿絵をそのまま掲載したと推測される。

 さて、問題のモローの絵である。私の違和感は小説読了後に訳者の「解説」を読んで解消された。清水正和氏の「解説」は読み応えのある力作だ。ゾラの生涯と作品の時代背景を要領よく解説すると同時に立派な「小説『制作』論」になっている。

 清水正和氏によれば、主人公のクロードにセザンヌやマネが反映されているのは小説の前半までで、後半のクロードは「全くゾラの自由な創造人物と化している」そうだ。後半の主人公については次のように述べている。

 「七〇年代の印象派全盛期すらも素通りして、むしろ八〇年代の美術界における象徴的神秘的傾向の台頭を反映しており、クロードがあのギュスターヴ・モローのような一種の幻想的寓意画家に変貌している」。

 ユニークな指摘だ。時代に反逆した若者たちが十数年の時間を経て挫折していくという普遍的な青春の物語を超える視点でもある。苦い結末で終わる青春小説という単純な読み方しかできなかった私には刺激的で勉強になった。この解説を読んで下巻の表紙にモローの絵を採用した理由がわかり、あらためて大胆な起用だと感心した。

総選挙さなかの『トロイ戦争は起こらない』上演はタイムリー2017年10月11日

 総選挙公示の翌日、新国立劇場中劇場で『トロイ戦争は起こらない』(作:ジャン・ジロドゥ/演出:栗山民也/主演:鈴木亮平)を観た。

 作者とタイトルに惹かれてチケットを購入したが脚本は未読で、どんな内容か知らないままに観劇した。前半は普通の観劇気分でそれなりに面白く眺めていたが、後半から舞台に引き込まれた。見ごたえのある芝居らしい芝居だった。はからずも、選挙真っ最中のいまの日本の情況に響きあう上演に思えた。

 ジロドゥという劇作家については外交官だったということ以外はあまり知らない。かなり昔にジロドゥの芝居を観たというかすかな記憶があるだけで、演目も内容も失念している。日本での上演記録を検索したが、それを眺めても記憶がよみがえってこない。本当に観たかどうかもあやふやになる。そんな宙ぶらりんな感覚を多少でもスッキリさせたいというのが、今回のジロドゥ作品を観る動機にひとつだった。

 ジロドゥはフランスの外交官で第一次世界大戦に従軍している。『トロイ戦争は起こらない』の初演は第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の1935年、ジロドゥ53歳のときだ。彼は大戦終結前の1944年に病死している。

 1935年はヒトラーが総統になった翌年、ラインランド進駐の前年である。この年に上演された『トロイ戦争は起こらない』はトロイとギリシアという古代の戦争を題材にしながら、第二次世界大戦の予感を色濃くはらんでいる。芝居のタイトルとは裏腹にトロイ戦争が起こったのは歴史的事実だ。

 今回の公演も舞台衣装は古代の服装と20世紀の独仏の軍服が混合し、芝居の意図を明示している。圧巻はトロイの王子エクトール(鈴木亮平)とギリシアの知将オデュセウス(谷田歩)の1対1の対話シーンだ。20世紀の外交官の真情が反映された現代劇で迫力がある。

 「戦争は起こらない」「戦争は起こる」のせめぎあいは21世紀の今日まで継続している外交課題である。だれもが戦争を望まないにもかかわらず、戦争を煽る心情は容易に世の中を席巻する。そんなメッセージが伝わってくる芝居だ。

 終演後、劇場外に出ると、甲州街道に選挙カーのスピーカーが響いていた。

『ハプスブルク帝国』の最終章「ハプスブルク神話」は面白い2017年10月08日

ハプスブルク帝国(岩崎周一/講談社現代新書)
 『ハプスブルク帝国』(岩崎周一/講談社現代新書)は出色の新書だった。1974年生まれの若い研究者による教科書風に密度の濃い本で、従来の見解を見直す最近の学説紹介も多い。

 私がハプスブルク家に興味をもったのは6年前だ。ウィーン、プラハ、ブダペストなどのハプスブルク都市へ観光旅行に行くのを機にハプスブルクという言葉が表題にある一般書を10冊ばかりまとめて読んだ。それだけでは1000年に近いハプスブルクの歴史を理解した気分にはならず、長大なドラマの粗筋に触れただけに感じた。その記憶もすでにおぼろだ。

 そんな時に本屋の店頭で本書が目に入り、おぼろな記憶を再生させるのに手頃に思えた。読み始めてみると、かつて私が読んだハプスブルク本(その大半は新書本)とは趣が違うと感じた。サラサラと速読できないのだ。

 本書は圧縮記述された教科書に近いので、一つひとつの文章の意味を咀嚼しながら読み進めないと前後の脈略がわからなくなる。また、ハプスブルク周辺の歴史(フランス、プロイセン、ロシア、イギリスなどの歴史)の基本は読者が把握しているという前提で記述されているので、知識があやふやな私などはたびたび電子辞書を引きながら読み進めねばならない。

 と言って、本書は無味乾燥な教科書的記述に終始しているわけではない。各時代ごとの政治・経済・文化を目配りよく概説しながら、随所に先人の興味深い述懐が引用されていて、つい引き込まれてしまう。

 本書によって蒙を啓かれた事柄は多く、特に啓蒙君主と呼ばれる人たちについてはあらためて興味を抱き、そもそも蒙を啓くとは何を意味し、啓蒙の時代をどう評価するかをじっくり考えてみたくなった。

 本書の圧巻は最終章『ハプスブルク神話』である。この章では第一次世界大戦でハプスブルク君主国が消滅してから直近の2017年までを扱っている。ハプスブルク君主国の後継国家(オーストリア、ハンガリー、チェコ、ルーマニナなど)とハプスブルク家の末裔に関する話は、私の知らない事項にあふれていて、とても興味深かった。

 ハプスブルクの時代を懐かしく肯定的に語るツヴァイク、シュンペーター、ミラン・クンデラなどの言説も興味深いが、末裔のオットーの人物像もなかなかである。

 欧州議会の議員で「パン・ヨーロッパ」運動の総裁でもあったオットーは、国民国家を超えたハプスブルクの伝統精神を欧州統合に活かした人物だろうと勝手に認識していたが、そんなに単純に評価できる人物ではなかったようだ。

 また、ハプスブルクを否定したはずのオーストリアが今やハプスブルクを観光資源にしているという指摘にも得心した。中欧への観光旅行でエリザベート(シシー)が観光の目玉になっていることに共感と違和感の混じった不思議な感慨を抱いたことを思い出し、その源泉が多少なりともつかめた気がした。

日本最西端の与那国島で「海の道」を感じた2017年10月05日

航空機から見た与那国島の祖納、久部良を眺望できる「日本国最西端の地」、『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(奥野修司/文春文庫)
◎与那国島への関心の動機

 日本の最西端、与那国島に行った。那覇から約500㎞、プロペラ機で約1時間30分だ。台湾までは111㎞、那覇よりは遙かに近い。だが、与那国島と台湾の間の定期的な航路は現在はない。

 与那国島に行きたいと考えた動機は二つある。一つは今年4月に初めて台湾を訪れ、台湾への関心が高まり、日本で一番台湾に近い与那国島への興味が湧いたからだ。台湾は私の亡母が生まれた地である(ちなみに私の妻の亡母はサイパン生まれだ。私たちの親はそんな世代だったのだ)。もう一つの動機は『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(奥野修司/文春文庫)という本を読んだことだ。終戦直後の台湾・香港と沖縄・本土にまたがる密貿易時代を活写したノンフィクションで、その中では与那国島が大きなウエイトを占めている。

 この二つの動機は台湾絡みという点では同じだ。与那国島はさいはての国境の島だが、海洋進出の最前線の島にも見える。

◎レンタカーなら1日で何周もできる人口1700人の島

 与那国島には1泊し、レンタカーを25時間借りて島のあちこちを巡った。1周約25㎞で主要な道路は舗装されている。車なら1日に何周もできる。私は全周した後、縦断道を使った西半周と東半周を1回ずつし、その間に部分的な往復を何度かした。それだけで島の全体的な様子はわかった気がした。

 この島には祖納、久部良、比川の3つの集落がある。町役場のある祖納に宿泊し、夕食前と朝食後に町内を散策した。それだけで路地の入り組んだこの町がわが庭のように感じられるようになった。

 与那国島の現在の人口は1,700人、戦前は5,000人以上いたそうだ。近年、人口は減少し続け1,500人台になったが、1年前に自衛隊の駐屯地(100人)ができて少し上向いた。自衛隊駐屯に関しては島を二分する論議になり、住民投票で受け入れ派が上回った。

 それはともかく、そんな与那国島にかつては人口2万人の時代があった。終戦後の1948年頃から約3年間の密貿易の時代である。物資不足の時代だったので密貿易が大きな利益を生み出し、その主な舞台になったのは台湾に最も近い港町、久部良だ。与那国島の久部良の狂騒の様子を『ナツコ 沖縄密貿易の女王』で知り、この港町に強く惹かれた。

 レンタカーで訪れた久部良で人口2万人時代の痕跡を確認することはできなかった。だが、想像していた以上に立派な漁港だった。「日本最西端の地」の碑がある展望台からは久部良の全体を一望できる。コンパクトにまとまったいい町に見えた。

◎昔はおしゃれな島だった

 かつて台湾が日本の植民地だった頃、与那国島にとって台湾は身近な存在で多くの島民は台湾と行き来していた。日本は殖民地・台湾にかなりの規模の投資をしていたから、ある意味で内地以上に近代化された場所だった。

 那覇の書店で入手した『与那国台湾往来記』(松田良孝/南山舎)という本に戦前の面白いエピソードが載っていた。与那国島から那覇の高等女学校に進学した女学生は台湾経由で入手した物品を持参していたので、那覇の同級生から「おしゃれだから与那国はいいね」とうらやまれたそうだ。

 いまの与那国島はひなびた田舎で、那覇は中国からの観光客があふれるオシャレな都会に発展している。だが、かつては与那国島が那覇からうらやまれる時代もあったのだ。今回の与那国島訪問で、与那国島の栄華のよすがを偲べればと思っていたが、短い滞在だったのでそんな探索は果たせなかった。

◎海洋は道であると再認識

 与那国島の集落や墓地は石垣島や沖縄本島と似ている。同じ沖縄県であり、かつては琉球王国のテリトリーだったのだから当然かもしれない。だが、不思議でもある。沖縄本島と与那国島は500㎞も離れている。端から橋までの距離がこんなに遠い都道府県は他にはない。

 そんなに離れていても共通のローカル文化をもっているのは、遠い昔から人が交流していたからだ。対岸など見えるはずもない水平線だけの大海を果敢に航海する人々が昔からいたのだ。ある種の人間にとって海路は陸路以上に近い道だったのかもしれない。

 そんなことを考えると、9年前に客船で太平洋を横断したときの思いがよみがえってきた。約4000㎞も離れたイースター島とタヒチ島が同じポリネシア文化圏に含まれいることに驚き、遠い昔から広大な大洋を航行する人々がいたことに感動した。

 水平線しか見えない海が「道」に見えるということが人類の探求心の証であり人類進化の源泉のように思えてくる。与那国島を訪れて大海への船出の魅力を再認識し、そんなことを考えた。

『新版 動的平衡』で生命と時間の深淵を覗く2017年09月23日

『新版 動的平衡:生命はなぜそこに宿るのか』(福岡伸一/小学館新書)
◎時の流れの速さを感じながら…

 福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)に大きな刺激を受けたのは数年前のように感じていた。だが、読書メモを確認すると10年前だった。時の流れの速さに驚く。

 その後、新聞や雑誌で福岡伸一氏の文章に何度も接してきたものの著書をひもとく機会がなく10年が経過し、このたび次の本を読んだ。

 『新版 動的平衡:生命はなぜそこに宿るのか』(福岡伸一/小学館新書)

 科学エッセイに近いにも関わらず先端的な見解も開陳されていて、わが干からびかけた脳への大いなる刺激になった。

 第1章では、年を取るとなぜ時間の流れを速く感じるかについての明解な解説もあり、私が『生物と無生物のあいだ』読了からの時間経過を速いと感じた由縁も納得できた。年を取るに従って体内時計の回転速度が徐々に遅くなるからだそうだ。

◎生命現象と時間の絡み

 10年前に読んだ『生物と無生物のあいだ』で最も印象深かったのは、生命を動的平衡と捉え、時間という要素を強調した点だ。生命を時間と絡めて探求する見解に瞠目した。

 『新版 動的平衡』は『生物と無生物のあいだ』で提示した「生命とは何か」をより明確に描出している。もちろんキーワードは動的平衡であり、そこで否定されているのは機械論的な生命像(デカルト主義)である。

 私は人間機械論的な考え方にある程度の共感を感じていたが、本書を読んでいると著者の見解が正しく思えてきた。生命を構成する物質の合成と分解が絶え間なく進行している動的平衡の状態が生命現象だというのは納得しやすい。

 さらに興味深いのは、この動的平衡において分解がわずかに合成を上回っているとすれば、生命の有限性が必然となり、そこに「時間の発生」の概念が生まれるという指摘だ。

 生命現象が時間を生み出したという考えは、橋元淳一郎氏の『時間はどこで生まれるのか』『時間はなぜ取り戻せないのか』『時空と生命』などでも提示されている。福岡伸一氏の考えと同じというわけではなさそうだが、通底するものがあり興味深い。時間論は面白い。

◎不老不死は杞憂か

 福岡伸一氏は動的平衡という生命観に基づいて、ips細胞などのバイオテクノロジーの医療応用には懐疑的である。人間の部品を置き換えるという機械論的な手法は不可能だろうと考えているのだ。 

 先日読んだ『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ)では、バイオテクノロジーの発展によって人類が生物学的に定められた限界を超えて「超ホモ・サピエンス」になっていく未来を、やや暗いトーンで描いていた。だが本書を読むと、そんな未来は杞憂なのかもしれないとも思えてきた。

小学生時代に読んだ『少年少女世界文学全集』を読み返す2017年09月21日

『少年少女世界文学全集26 フランス編(2) ああ無情、三銃士、マテオ・ファルコーネ』(講談社/1958.9)
◎59年前の講談社版『少年少女世界文学全集』

 『レ・ミゼラブル』の完訳本を読了すると、子供の頃に読んだ『ああ無情』を読み返したくなった。子供時代の本を還暦過ぎまで保管している人は珍しい。私もそんな本は散失しているが、例外的に講談社版『少年少女世界文学全集』(全50巻)だけは八ヶ岳の山小屋の物置に保管している。そんな場所に置いているのは、わが家の書架に余裕がないからだ。先日、山小屋に行った際に次の1巻を持ち帰った。

 『少年少女世界文学全集26 フランス編(2) ああ無情、三銃士、マテオ・ファルコーネ』(講談社/1958.9)

 『ああ無情』収録の巻は全50巻の26巻目となっているが、この全集の第1回配本である。私には印象深い1冊だ。奥付によれば発行は59年前の1958年9月。私がこの本を手にしたのは小学4年の時のようだ。箱入りハードカバーの立派な造本の手触りの記憶は今も残っている。収録されている全作品を読んだはずだ。

 この『少年少女世界文学全集』は1958年9月から毎月1冊ずつ書店から届けられた。私は小学4年から中学2年までの5年間、毎月この全集の新刊に接していた。全巻を読破したわけではないし、最終巻配本の頃には子供っぽい本だと感じるようになっていたようにも思うが、わが少年時代の読書のメインだったのは間違いない。この全集を私と弟に与えてくれた亡き両親に感謝する。

 わが団塊世代のかなりの人数がこの全集を愛読したと推測される。ある同世代の著名人がこの全集に言及した新聞記事を読んだことがある。34年前に結婚するとき、わが実家に『少年少女世界文学全集』が保管されていることを知った同世代の家内が、ぜひそれを1DKの新居に搬入したいと所望した。子供時代に読んだ懐かしい全集を身近に置きたいと考えたようだ。そんな経緯から『少年少女世界文学全集』全50巻はたびたびの引っ越しを耐えて、いまは山小屋の物置に収まっている。

◎短編の方が記憶に残っている

 閑話休題。『ああ無情』を読み返したついでに『少年少女世界文学全集26』収録の全作品を59年ぶりに読み返した。

 「フランス編(2)」の表題があるこの巻には次の作品が収録されている。

 長編
  『ああ無情』(ユーゴー)
  『三銃士』(デュマ)
 短編
  『マテオ・ファルコーネ』(メリメ)
  『ジュールおじさん』(モーパッサン)
  『小さい町で』(シャルル・ルイ・フィリップ)
  『朝のおはなし』(シャルル・ルイ・フィリップ)

 再読するまでもなく59年前の読書記憶が鮮明に残っているのは、長編ではなく短編である。特に『マテオ・ファルコーネ』の印象は強烈で、小学4年の時に受けた衝撃は半世紀以上を経ても薄れていない。『ジュールおじさん』『小さい町で』も話の内容はよく覚えている。『朝のおはなし』は再読しながら記憶がよみがえってきた。

 その後、数知れね小説を読んだとは思うがその大半の記憶がおぼろになっている。なのに、小学4年の時に読んだ短編の記憶は鮮明なのだ。記憶の機構の不思議を感じるとともに、営々と積み重ねてきた年月はいったい何だったのかという虚しさも感じてしまう。

◎『ああ無情』の冒頭は面白いのだが…

 短編の記憶が鮮明なのに対して長編の『ああ無情』と『三銃士』の記憶は不鮮明だ。『ああ無情』に関してはジャン・バルッジャンが司教の館から銀の食器を盗み出して赦される冒頭部分の記憶が残っているだけで、その後の展開はよく覚えていなかった。『三銃士』に至っては、主人公たちの名前以外は何も覚えていない。

 『ああ無情』は那須辰造訳、さしえは向井潤吉だ。私の概算計算では、この『ああ無情』は『レ・ミゼラブル』を10分の1以下の約9%に圧縮している。完訳版を読了した視点から、どんな形に圧縮したのか興味があった。

 ユゴーの「演説」部分を割愛しているのは当然として、冒頭部分のジャン・バルジャンがディーニュの町を去るまでの物語が意外と元版に忠実なのに驚いた。この調子で10分の1以下に圧縮できるのだろうかと懸念していると、後半は駆け足のあらすじ紹介のような形になってきた。

 子供向きに改変されている箇所があるのは仕方ないとしても、コゼットとマリユスの恋愛に関してはかなり省略され、この二人に対するジャンバルジャンの心理的葛藤は割愛されている。ジャベールの人物像も単純化されている。バリケードや地下水道の脱出シーンなどもあるが、「物語」ではなく「あらすじ紹介」だ。だから、読者にとって後半は意味をつかみにくい展開になり、あまり興が乗らない。

◎『三銃士』も駆け足のあらすじ紹介

 デュマの『三銃士』は、いまだに完訳版を読んでいない。だから、どんな物語だったかを確認する興味もあって59年ぶりに読み返した。これも駆け足のあらすじ紹介のような内容で、何を書いてあるかはわかっても、物語の楽しさに浸る気分にはなれなかった。表面的な面白さが多少はあるとしても、わけがわからない話になっているのだ。

◎抄訳は難しい

 ほぼ完訳に近いと思われる短編が記憶に残っているのに、抄訳の長編が記憶に残っていないのは、それがあらすじ紹介になっていて、物語世界に引き込まれにくかったからだと思われる。あらためて、抄訳の難しさを認識した。

『レ・ミゼラブル』を読んだ2017年09月17日

『「レ・ミゼラブル」の世界』(西永良成/岩波新書)、『レ・ミゼラブル (1)(2)(3)(4)(5)』(西永良成/ちくま文庫)、『「レ・ミゼラブル」百六景』(鹿島茂/文春文庫)
◎あの長い小説を読んだわけ

 小学生の頃、『がんくつ王』を読み、その元が『モンテクリスト伯』という長大な物語だと知り、いつかはそれを読んでみたいと思った。同じ頃、『ああ無情』を読み、その元が『レ・ミゼラブル』という長大な物語だと知ったが、それを読みたいとは思わなかった。『がんくつ王』も『ああ無情』も面白かったが、前者が文句なしに面白いのに対し、後者には美談仕立ての説教くささを感じたからだと思う。

 『モンテクリスト伯』の完訳版は、還暦を迎えた8年前に読んだ。そして先日、『レ・ミゼラブル』を次の完訳版で読んだ。

  『レ・ミゼラブル (1)(2)(3)(4)(5)』(西永良成/ちくま文庫)

 さほど意欲が湧かなかった『レ・ミゼラブル』を読む気になったのにはいくつかの動機がある。一つはピケティなどの「21世紀は19世紀の再現になるかもしれない」という言説に接し、19世紀の小説を読んで19世紀の様相を断片的にでも把握したいと考えたからだ。その関心から次の新書を手にした。

 『「レ・ミゼラブル」の世界』(西永良成/岩波新書)

 これを読んだのが完訳版を読む直接のきっかけになった。新聞記事で「『レ・ミゼラブル』は途中で投げ出す人が多く、通読した人が少ない」という一節を目にしたのも挑戦意欲をそそった。

◎デザート本で余韻を楽しむ

 『「レ・ミゼラブル」の世界』による事前知識で、「哲学的部分」(作者の脱線気味の演説)が多い小説だと覚悟していたおかげで、さほど面食らうこともなく読了できた。大長編にもかかわらずあまり長さを感じなかった。読了後、食後のデザート気分で次の本も読んだ。

 『「レ・ミゼラブル」百六景』(鹿島茂/文春文庫)

 この本は原版の挿絵紹介の本で、230葉の挿絵が掲載されている。全ページの半分が挿絵で残りの半分はその挿絵の解説を交えた『レ・ミゼラブル』の要約の文章である。大長編読了後に物語を反芻して余韻を楽しむにはうってつけの本で、堪能できた。

◎覚悟を決めれば読みやすい 

 読んでいる途中では、あざといストーリー展開のメロドラマと感じることも多かったが、読み終えたときには、19世紀の文豪の圧倒的な力業に屈したような爽快感を覚えた。やはり、面白いのだ。『レ・ミゼラブル』は、ユゴーの蘊蓄長口舌につきあう覚悟と度量さえあれば、ディティールを楽しめる古典の味わいがあるエンタメ長編である。

 この小説には、本編の展開とはあまり関連のない演説が延々と続く場面が随所にある。ハラハラドキドキの物語を小出しにしながら作者のおしゃべりを繰り返すのは、「私の演説を聞かなければ、このお話しの続きは教えないよ」という老獪な戦術にも見えるが、そこに可愛げもある。

 作者の長口舌に読者がうんざりしているだろうと作者自身が自覚しているふしもあり、それでもおしゃべりを続けるのだから、そのエネルギーと執念に読者は屈服するしかない。ゆったりした気分で聞くなら、その長口舌にも味わいがありそうだ。

 ということは、『レ・ミゼラブル』を十分に堪能するには2度読むのがいいのである。どんな小説でも再読した方が堪能できるのは当然だが、『レ・ミゼラブル』の場合は1度目は物語の展開を楽しみ、2度目はユゴーの演説をじっくり拝聴するという読み方になるだろう。と言っても、私は当面、再読する元気はない。

◎パリの貫禄

 『レ・ミゼラブル』は1862年に60歳のユゴーが発表した小説で、その内容は主に1815年から1833年までの物語である。発表時の近過去を舞台にしたフィクションにはユゴーが生きた同時代のさまざまな事象が反映されている。

 この小説は、次の二つと重ねて読むと一層興味深く読み進めることができる。
  
  (1)18世紀から19世紀のフランスの歴史
  (2)その時代を生きたユゴーの生涯

 私自身はこの2点に不案内だったが、事前に新書の『「レ・ミゼラブル」の世界』を読んでいたので、ある程度は興味深い重ね読みができた。

 今回の読書で、パリという町が「恋と革命」という盤石で永遠の青春テーマの背景にふさわしい町だと、あらためて気づいた。1789年の大革命から1960年代の5月革命まで、パリには繰り返しバリケードが築かれ市街戦が展開された。歴史が作られる町なのだ。私は行ったことはないが…。

 『レ・ミゼラブル』はバリケード蜂起小説でもあり、この小説によって年季の入ったパリの貫禄を感じさせられた。

「社会主義」や「リベラル」はどうなるのだろうか2017年09月09日

『僕らの社会主義』(國分巧一郎・山崎亮/ちくま新書)、 『リベラルという病』(山口真由/新潮新書)
 次の新書を読んだ。

 『僕らの社会主義』(國分巧一郎・山崎亮/ちくま新書/2017.7.10)
 『リベラルという病』(山口真由/新潮新書/2017.8.20)

 『週刊朝日(2017.9.8)』の書評で斎藤美奈子が『僕らの社会主義』を「少しだけ希望が湧く本」と紹介していたので興味を抱き、駅前の本屋の新書コーナーで探しが見当たらず(駅前で入手できそうな本はネットを使わないようにしているのに…)、後日、都心の大型書店で入手した。その大型書店にも1冊しかなかった。

 『僕らの社会主義』を購入したとき、平積みになっている『リベラルという病』が目に入り、それも購入した。リベラルと社会主義は同一ではないが似たイメージなので、それを擁護していると思われる新書と批判していると思われる新書を読み比べるのも一興と思ったのだ。

 2冊ともオビに著者の写真があり、みな若い(私から見れば)。『僕らの社会主義』の國分巧一郎氏は1974年生まれの哲学者、山崎亮氏は1973年生まれのコミュニティデザインの専門家(大学教授)、『リベラルという病』の山口真由氏は1983年生まれの元財務官僚の弁護士だ。

 現代では不人気な「社会主義」を現役世代の若い人がどのように論じているか興味があり、リベラル不人気の由縁も知りたいと思った。だが、2冊とも私が想定した内容とはかなり違っていた。

◎楽しげな対談本だが

 『僕らの社会主義』は二人の論者の対談本で、そこで楽しげに語られている主な話題は建築・土木・装飾・まちづくり・起業などで、いささか面食らった。もちろん社会主義についても触れられているが、著者たちの関心はエンゲルスによって「空想的」と批判された社会主義にあり、19世紀イギリスのウィリアム・モリス、トマス・カーライル、ロバート・オウエンなどを熱く論じている。

 建築・土木も19世紀イギリスの社会主義も私にはまったく不案内な領域だ。勉強にも刺激にもなったが、対談本という形なので話題が散漫になり勝ちで十分には咀嚼できなかった。

 著者たちが19世紀の社会主義に関心を抱いているのは、21世紀の社会状況が19世紀に近づいているとの認識があるからだ。これは、ピケティが『21世紀の資本』で「21世紀には19世紀の格差社会が再現する危険性がある」と述べた警告に似ている。だが、本書ではピケティへの言及はなく、格差問題を中心に据えているわけでもない。

 私なりに把握した本書の眼目は次の2点である。

 ・「楽しさ」という価値基準の提示
 ・「主義」という硬直した思考パターンの否定

 これらはかなり新鮮な考え方であり、共感できる。

◎米国のリベラルの問題点

 『リベラルという病』はハーバード・ロースクール卒の著者が留学体験をふまえて米国の現状を「リベラル vs コンサバ(コンサーバティブ)」という視点で解説している。米国を「リベラル vs コンサバ」という単純化した図式でとらえるのに多少の疑問も感じるが、著者によればそれが米国の実態だそうだ。

 著者が指摘するリベラルの「病」とは傲慢さである。リベラルはコンサバに比べて理性的なのだが、理性を信じる態度が理性への「信仰」にまでエスカレートし、傲慢で宗教的になっていると指摘している。行き過ぎたPC(ポリティカル・コレクトネス)などがその例にあげられている。わかりやすい話で、リベラルの問題点はわかるが、コンサバに乗り換えれば解決する問題ではない。

 リベラルに批判的な著者がコンサバかと言えば、そこは明確ではなく、やはり日本人なのだ。著者は米国の状況をふまえた上で日本のリベラル(民進党?)もやり玉にあげている。だが、日本の状況は図解困難に思われる。

 本書の「あとがき」は次の文章で締めくくられている。

 「日本が日本にあったリベラリズムを(それがリベラリズムと呼ばれるべきなのかは定かではないが)手に入れられるのはいつなのか。模索は続く。」

◎2冊の著者たちに共通しているもの

 『僕らの社会主義』と『リベラルという病』はかなり異質な本で、比較検討してもかみあうところが少なく、読書前の目論見ははずれたと感じた。しかし、よく考えてみると、この2冊には似ているところがある。それは、「一貫した正しさ」というものへの疑問と不信である。この感覚は、普通に生活している人が思考の言語化以前に感じているものに通じている。

40年後の「解説」で『日本の歴史』を楽しむ2017年09月07日

中公文庫版の『日本の歴史 第13巻 第14巻 第15巻』
 市立図書館の書架に中公文庫の『日本の歴史』全26巻が並んでいた。1965年から1967年にかけて刊行された中央公論社のベストセラー叢書『日本の歴史』の文庫版だ。私は数年前に元版の函入ハードカバー版全31冊(別巻5冊を含む)を5千円で購入し、ボチボチ読んでいる。

 図書館の文庫版を手にすると「解説」が付加されていた。この文庫版の刊行は2005年なので、原著刊行の約40年後に書かれた「解説」だ。40年という年月は世代交代には十分な時間で、見晴らしのいい時点からの「解説=評価」が期待できる。その「解説」を読んでみたいと思い、最近読んだ第13巻、第14巻、第15巻を借り出した。

 この3冊の解説者とその肩書は以下の通りだ。

 『第13巻 江戸開府/根岸茂夫(國學院大学教授)』
 『第14巻 鎖国/池内敏(名古屋大学大学院教授)』
 『第15巻 大名と百姓/青木美智男(専修大学教授)』

 解説者は原著者の弟子あるいは後輩にあたる研究者のようだ。この3編の「解説」は史学の門外漢である私には難しかった。十分には理解できないが、読み応えはあった。研究者が学界における研究動向のあれやこれやを解説しているので話が専門的になってしまう。それでも学界の議論の雰囲気が伝わってきて、それなりに面白かった。

 3人の解説者はそれぞれに原著の意義を評価しつつ、その後の研究によって見直しが必要になってきた事項や新たに重視されはじめてきた事柄などを指摘している。例えば次のような指摘だ。

 ・近世の朝廷という存在への着目が高まり、朝幕関係の研究が進んだ。
 ・あまり評価されていなかった秀忠の政治の評価が高まった。
 ・対外関係史におけるアイヌ、琉球、朝鮮との関係の研究が進んだ。
 ・第14巻で述べられている「鎖国」理解は、現在では乗り越えられている。
 ・慶安御触書は慶安期には存在しなかった。

 他にもいろいろあり、興味深い事項も多いが簡単にまとめるのは難しい。

 3つの「解説」を読み、約半世紀前の『日本の歴史』と約40年後の「解説」をセットで読むのは「当たり」だと思った。新たに刊行された通史や概説書を読むより、時間を経た二種類の文章を読む方がダイナミックで面白い。今後、書架の『日本の歴史』のどれかを読むときは、続けて市立図書館の文庫版の「解説」も読もうと思う。

 この「解説」自体すでに10年以上昔のものだから最新の研究動向はまた変わっているかもしれない。それは、とりあえず気にしない。10年前の視点で50年前を見るだけでも十分に興味深い。