『3マス世界史』の流れで『草原の制覇』を読んだ2026年04月22日

『草原の制覇――大モンゴルまで』(古松崇志/岩波新書/2020.2)
 先日読んだ『もっと深く知るアジアから見る世界史』は、Eテレ『3マス世界史』の講師たちが分担執筆し、各章末には読書案内があった。「第3章 草原と中華の交錯――遊牧国家と中国」の執筆者・古松崇志氏は自身の次の著書を紹介していた。読みやすそうな新書なので入手して読んだ。

 『草原の制覇――大モンゴルまで』(古松崇志/岩波新書/2020.2)

 「ユーラシア東方史概説」とも言える本書は、北魏から元にいたる約千年の中国史を遊牧国家に着目して描いている。中央ユーラシア史や遊牧民国家は私の関心分野であり、まさに本書と重なる。と言っても、悲しいことに読んだ本の内容はかなり蒸発しているので、本書によって新たに知見を得た気分である。

 本書を読みつつ『疾駆する草原の征服者』(杉山正明)や『唐:東ユーラシアの大帝国』(森部豊)を思い出した。前者は本書巻末の参考文献にある。後者の刊行は本書の後なので参考文献にはない。本書の「あとがき」によれば、原稿の一部を森部豊氏にチェックしたもらったそうだ。本書を含めたこの三冊、いつの日かまとめて復習したいものだ。

 中国の王朝の多くは実は遊牧国家の流れを継いでいる。随や唐は鮮卑の拓跋が作った王朝と言われている。漢族の王朝は漢、宋、明だけと聞いたことがあり、たった三つかと思った。だが、本書によれば宋も遊牧系と言えるらしい。北宋以前の五代十国の頃、遊牧民の沙陀が活躍していた。著者は、北宋初期までの沙陀軍団の連続性は明らかで、北宋までを沙陀系王朝に含めるべきと述べている。そうなると、漢族の王朝は漢と明だけだ。驚いた。

 また、本書にによって契丹(キタイ)の重要性を再認識した。部族連合に近い遊牧国家は各部族の自律性が高いために求心力を失いやすい。その脆弱性を克服する統治機構を作ったのが契丹である。それは後のモンゴルに継承される。ナルホドと思った。

NODA・MAP『華氏マイナス320°』はサイエンス・フェイクション2026年04月20日

 東京芸術劇場でNODA・MAP公演『華氏マイナス320°』(作・演出:野田秀樹、出演:阿部サダヲ、広瀬すず、深津絵里、大倉孝二、高田聖子、川上友里、橋本さとし、野田秀樹、橋爪功)を観た。

 2年前に観たNODA・MAPの『正三角関係』は『カラマーゾフの兄弟』がベースだった。今回はブラッドベリの『華氏451度』がネタだ。このSFはよく憶えているので、多少の下準備がある心積もりで観劇した。だが、私の思惑を大きく超えたブッ飛んだ舞台で、ブラッドベリの記憶などは何の役にも立たなかった。

 「正しくない科学に基づいた、正しくないSF(サイエンス・フェイクション)」 と銘打ったこの芝居、難解な部分もあり、理解できたとは言えない。だが、面白い。生命に関わるサイエンス・フェイクションが現代、中世、古代を駆け巡って展開する。言葉遊びも満載だ。休憩なし2時間20分のノンストップ・パフォーマンスを堪能した。

 舞台は目まぐるしく展開する。現代の化石発掘現場、メフィストと取引するファウスト博士、バベルの塔のエレベーター、ハーメルンの笛吹男、邪馬台国の卑弥呼などの場面転換に目を奪われた。骨伝導、天使病、クレオパトラの受精卵などの怪しげな概念に頭がクラクラしてくる。華氏451度は書物を焼き払う温度だったが、華氏マイナス320°は天使たちの卵を死滅させる温度のようだ。

 役者たちのパフォーマンスにも引き付けられた。阿部サダヲの巧さを再認識した。教授役の深津絵里に貫録があり、『Q:A Night At Kabuki』に続く出演の広瀬すずは生き生きしている。橋爪功は怖いもの知らずの老人力全開の演技だ。

 芝居のなかで「人間の脳はほとんど使われていないというのはフェイクだ」との台詞があり、ネット検索した。「脳がほとんど使われていない」は都市伝説だそうだ。以前に読んだ『まちがえる脳』には、「あなたの脳は本当に必要なのか?」という科学記事の紹介があり、脳の可塑性に驚いた。脳は興味深い分野だ。

 『華氏マイナス320°』は生命科学の驚異と畏れを背景にした芝居だと思う。

気がかりだったイヨネスコの『授業』をついに観た2026年04月17日

 南青山のライブハウス「MANDALA」でアンフィニの会の『授業』(作:イヨネスコ、演出:大間知靖子、出演:藤田宗久、清水一雅子、岡本瑞恵)を観た。

 不条理のイヨネスコは学生時代(半世紀以上昔)から気になる劇作家だったが、その芝居を観たことはなかった。渋谷ジャンジャンで中村伸郎が『授業』のロングラン(1972~1986年の毎週金曜夜。中村伸郎は最初の10年)をしていると聞いたのもかなり昔で、観たいと思いつつ機を逸した。

 その『授業』が南青山のライブハウスで上演されると知り、すぐにチケットを手配し、ついに観劇できた。半世紀ぶりに宿題を果たした気分だ。満足した。

 ライブハウスでの観劇は私には初体験だった。1ドリンク付きで、小さなテーブルの周りにびっしり配置した椅子はやや窮屈だが、ステージが近くてとても観やすい。テント芝居のようだ。

 今回の公演はジャンジャンの公演の流れをくんでいるらしい。演出は同じ大間知靖子、教授役の藤田宗久は2011年から50ステージ近く演じているそうだ。

 実は、私は『授業』の戯曲を読んだことはなかった。イヨネスコは学生時代に『禿の女歌手』を読んだだけだが、わけのわからなさに驚いた。今回の観劇を機に戯曲集を入手し、事前に『授業』を読んだ。教授が個人授業に来た女生徒を殺してしまう話だとは知っていたが、予感通りの不条理劇で、意味不明の会話がエスカレートしていく。

 戯曲を読んだ直後にステージを観て、当然ながら読むのと観るのは大違いだと認識した。もちろん観る方が面白い。特に不条理劇の場合、戯曲を読みながら寓意や背後の意味を考えたくなる。だが舞台だと、非現実的で無茶苦茶に思える設定や台詞が、役者の肉体を通すことで「もうひとつの現実世界」になる。その世界を自身が体験し、情況を感じ取っている気分になる。それが面白い。

 『授業』は繰り返しの世界であり、繰り返し観たくなる芝居だ。

58年ぶりに観た『裏表先代萩』2026年04月15日

 歌舞伎座で四月大歌舞伎の「昼の部」と「夜の部」を観た。演目は以下の通りだ。

【昼の部】
 一、廓三番叟
 二、裏表先代萩
  序幕 花水橋の場
  二幕目 大場道益宅の場
  三幕目 足利家御殿の場/同 床下の場
  大詰  問注所小助対決の場/控所仁木刃傷の場
【夜の部】
 一、本朝廿四孝(十種香)
 二、連獅子
 三、浮かれ心中

 『裏表先代萩』は私にとって懐かしい演目である。私が初めて観た歌舞伎が『裏表先代萩』だ。半世紀以上昔の大学生の頃だった。観劇を予定していた叔母に急用ができ、誰か行く人はいないかとの連絡があり、チケットを譲り受け、国立劇場に赴いた。初体験の歌舞伎の記憶はオボロだが、三つのシーンだけ憶えている。「腹が減ってもひもじゅうない」という子役の台詞、花道の「すっぽん」からせり上がってくる仁木弾正、広間の奥の襖が開いた向こうに広がる遠近法の千畳敷――この三つである。

 その後、60歳過ぎまで歌舞伎を観ることはほとんどなかった。歌舞伎を観るようになったのは、時間に余裕ができたこの十数年(現在、私は77歳)である。『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』を観て、私が初めて観た演目だと思った。だが、タイトルが違うのが不思議だった。

 『伽羅先代萩』をもとにした別バージョンの『裏表先代萩』があると知ったのは最近だ。そして今回、『裏表先代萩』が上演されたのである。パンフレット末尾の上演記録(昭和20年以降)によれば、『裏表先代萩』は戦後6回しか上演されてない。『伽羅先代萩』に比べると圧倒的に少ない。今回が7回目の上演である。

 パンフレットの上演記録のおかげで、私が昔観たのは1968年5月の国立劇場公演だと判明した。58年前、19歳のときだ。出演した主な役者も確認できたが、その演技を憶えているわけではない。

 今回の『裏表先代萩』は八代目菊五郎が小助、政岡、仁木弾正の3役を演じる。やはり、政岡のシーンが一番面白く、引き込まれる。

 夜の部の『浮かれ心中』は井上ひさしの直木賞受賞作『手鎖心中』を歌舞伎化した演目で、わかりやすくて面白い。亡くなった勘三郎が何度か演じたそうだ。それを勘九郎が演じている。勘九郎のコミカルな演技を観ていると、やはり父親に似ているなあと思った。

 『手鎖心中』は昔読んでいるが、ぼんやりとした記憶しかない。『浮かれ心中』が面白かったので『手鎖心中』を再読したくなった。

『メアリー・ステュアート』は緊張感が持続する芝居2026年04月13日

 パルコ劇場で『メアリー・ステュアート』(原作:シラー、翻案:ロバート・アイク、翻訳:小田島則子、演出:栗山民也、出演:宮沢りえ、若村麻由美、他)を観た。

 観劇前にシラーの原作『マリア・ストゥアルト』を読み、映画『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』もオンデマンドで視聴した。どちらも史実をベースにしたフィクションだが、16世紀のスコットランド女王メアリーとイングランド女王エリザベス1世の確執の概要を知ることはできた。

 今回の公演は、英国の劇作家・演出家ロバート・アイク(1986-)がシラーの原作を翻案したものだ。7年前に観たギリシア悲劇『オレステイア』(アイスキュロス)もロバート・アイクの翻案だった。『メアリー・ステュアート』は大胆に現代化しているかと予感したが、思った以上にシラーの原作に忠実だった。冒頭シーンもラストシーンも原作通りで、より明解なメリハリある芝居になっていた。

 パルコ劇場での栗山民也演出、宮沢りえ主演の芝居は2年前の『オーランド』を観た。あの芝居にも宮沢りえ演ずるオーランドにエリザベス1世が絡むシーンがあった。あのときの河内大和(映画『8番出口』の「歩く男」役)演じるエリザベスは不気味だったが、今回は二大女優競演である。

 舞台『メアリー・ステュアート』は、これまでにさまざまなバージョンが上演されてきたそうだ。私は今回が初めての観劇だが、ネット検索すると5件確認できた。メアリーとエリザベスを「麻実れい×白石加代子(1990年)」「南果歩×原田美枝子(2005年)」「栗原小巻×樫山文枝(2013年)」「中谷美紀×神野美鈴(2015年)」「長谷川京子×シルビア・グラブ(2020年)」らが演じている。そして今回は「宮沢りえ×若村麻由美」である。

 舞台装置はシンプルで、三方を高い壁で囲まれたやや抽象的な空間だ。メアリーが幽閉されている牢獄にふさわしい装置である。エリザベスの宮廷のシーンも同じ空間で演じられる。エリザベスもまた王冠という牢獄に身を置いていることを表しているのだろう。

 シラーの原作は全5幕、翻案もそのまま全5幕で、幕ごとに緞帳が昇降する。舞台装置の組み替えがあるわけではないが、緞帳の昇降による場面転換というシンプルな手法の効果を再認識した。

 この芝居はメアリー処刑までの3日間を描いた宮廷陰謀劇である。舞台はメアリーの牢獄とエリザベスの宮廷、中盤のメアリーとエリザベスの対面がひとつのクライマックスになる。宮沢りえと若村麻由美の熱演で、最後まで緊張感が持続する舞台だった。

 役者たちの衣装はエリザベス朝風ではなく超時代的であり、16世紀の宮廷劇が21世紀の混迷をも反映しているように見える。

 原作戯曲には描かれていないが、処刑場へ去っていくメアリーの黒い衣装が一瞬で赤い衣装に変わる。映画『ふたりの女王』と同じだ。視覚に訴える印象的なシーンであり、ドキリとした。メアリーが赤い衣装で処刑場へ赴いたというのは実話らしいが、よくわからない。

『ユダヤ人の歴史』でユダヤ人集団の多様性を認識2026年04月11日

 『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(鶴見太郎/中公新書)
 2026年新書大賞第2位の『ユダヤ人の歴史』を読んだ。刊行は昨年(2025年)1月だ。

 『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(鶴見太郎/中公新書)

 旧約聖書からナチスに至るまで、世界史関連の本にはユダヤ人が随所に登場する。以前読んだ『ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか』(長谷川修一)はバビロン捕囚の史実を解説していた。ローマ史の本にもユダヤ戦争などの記述がある。『ヒトラー:ナチズムの誕生』(村瀬興雄)は、ナチス登場の背景となった近代反ユダヤ主義詳述していた。何となく、ことさらにユダヤ人の歴史を勉強しなくもいいかという気がして、書店で本書を見かけてもスルーしていた。

 だが、新たなカバーを装着した本書の平積みを店頭で見て気が変わった。本書を読了し、これまでの自分の理解が浅かったと自覚した。本書を読んで認識を新たにしたのはユダヤ人の複雑な多様性である。考えてみれば、マルクスもフロイトもカフカもプルーストもユダヤ人だから多様なのは当然だ。

 本書は、多様なユダヤ人集団がそれぞれの環境に「カスタマイズ」しつつ生き延びてきたさまを「主体と構造」「組み合わせ」というキーワードで解説している。多様なユダヤ人集団が、時代や地域によって繁栄したり迫害されたりしてきた事情を明快に解説している。

 国を持たないユダヤ人が二千年間、その居住地の人々に同化・溶解することこなく「ユダヤ人という意識」を持続したのは驚異だと思う。それを可能にしたユダヤ人のアイデンティティが不思議だ。本書を読み終えても「ユダヤ人とは何か」の疑問は残る。「民族とは何か」「国民とは何か」以上の難問に思える。

 本書によれば、英語のJewをはじめ諸言語(ヘブライ語も含む)は「ユダヤ人」「ユダヤ教徒」両方の意味を兼ねているそうだ。「ユダヤ人」と「ユダヤ教徒」を区別して表記する日本語が例外らしい。驚いた。ローマのハドリアヌス帝の時代、第二次ユダヤ戦争によってユダヤ人はエルサレムから追放され、最終的な離散(ディアスポラ)となる。このとき追放されたのはユダヤ教徒だけだったと読んで納得した記憶がある。だが、「ユダヤ教徒でないユダヤ人」という概念がないとすると、ユダヤ人全員が追放されたのだろうか。

 おそらく、日本語の「ユダヤ教徒」という概念の問題だろう。キリスト教やイスラム教に改宗したユダヤ人は少なくない。ヴェニスの商人のシャイロックも最終段階でキリスト教への改宗を余儀なくされる(架空の人物だが)。改宗したユダヤ人がユダヤ人でなくなるわけではない。自分をユダヤ人だと意識している限り、改宗者であっても心の奥底に「ユダヤ教徒である意識」が残っている――そういうことだと思う。

 本書でナルホドと思ったのは、ユダヤ人にとっては近代になって住みにくい過酷な時代になったという指摘だ。国民国家という平準化圧力が異質な集団を圧迫するからである。

 また本書は、ロシアや東欧で発生したポグロム(ユダヤ人迫害)について「世界史級の出来事であるのは間違いない」として詳述している。その大きな原因が「想像の民族対立」だったとの指摘も興味深い。いつの時代も人の抱く幻想が歴史を動かしてしまうことが多い。

 あらためて熟読したい書である。

阿刀田高氏の短編集4冊をまとめ読み2026年04月09日

 阿刀田高氏の『90歳、男のひとり暮らし』を読んだのを機に阿刀田氏の短編集4冊をまとめ読みした。

 『ナポレオン狂』(阿刀田高/講談社文庫)
 『一ダースなら怖くなる』(阿刀田高/文春文庫)
 『冷蔵庫より愛をこめて』(阿刀田高/講談社文庫)
 『おいしい命:阿刀田高傑作短編集』(阿刀田高/集英社文庫)

 前2冊はかなり以前に読んだ文庫本の再読、後2冊は新たに入手した。4冊で短編54編になる。以前に読んでいても内容を忘れている話が多く、新鮮な気分で読んだ。大半が私好みのブラック・ユーモアである。面白かった。

 実は、私は阿刀田氏の「いい読者」とは言えない。『ギリシア神話を知っていますか』などの古典解説本は何冊か読んだし、長編の『新トロイア物語』『獅子王アレクサンドロス』も読んだ。だが、阿刀田氏の本領である短編小説(何十冊もある)は文庫本2冊を昔読んだだけで、その内容もほとんど失念している。

 阿刀田氏は『90歳、男のひとり暮らし』のなかで「昨今は長編小説は読まない」「短編を偏愛している」と述べている。そして「自惚れの本棚から――仕事」という章では、編集者に乞われて自身が書いた900編を越える短編から好きな15編を選び、自作を語っている。

 自選15編はすべて私の知らない作品だった。で、私は阿刀田氏の「いい読者」ではなかったと自覚したのである。そして、この機会に阿刀田氏お気に入りの何編かを読んでみようと思った。

 今回私が読んだ54編には、阿刀田氏が挙げた15編の内の7編が含まれている。私が面白いと思ったのは『結婚嫌い』『閉じた窓』『来訪者』『サン・ジェルアマン伯爵考』『ゴルフ事始め』『狂暴なライオン』『幸福通信』『ギャンブル狂夫人』『掌の哲学』『独りぼっち』である。作者の自選と重なるのは4編だった。

 4冊読むと、阿刀田氏の作風とその独自性が少し見えた気がしてくる。機知に富んだブラック・ユーモアや恐怖小説がベースで、ニヤリと笑わせる艶笑譚の要素も大きい。『掌の哲学』のサルトルや『サン・ジェルアマン伯爵考』のように蘊蓄や知性を忍び込ませる技もある。日常生活を超越したシャレた世界のようでいて、世相・風俗や人間の生理などのやや下世話で辛辣な要素も取り込んでいる。その結果、奇妙な味の小説世界が紡ぎ出される。

観劇前に戯曲『マリア・ストゥアルト』を読んだ2026年04月07日

『悲劇 マリア・ストゥアルト』(シラー/相良守峯訳/岩波文庫)
 今月中旬、舞台『メアリー・スチュアート』(出演:宮沢りえ、若村麻由美、他)を観劇予定だ。スコットランド女王メアリー・スチュアートとイングランド女王エリザベス1世の話らしいが、どんな内容かよく知らない。観劇前にシラーの戯曲を読もうと思い、「メアリー・スチュアート」でネット検索すると次の本が出てきた。

 『悲劇 マリア・ストゥアルト』(シラー/相良守峯訳/岩波文庫)

 タイトルが違うと思ったが、マリア・ストゥアルトはメアリー・スチュアートのドイツ語表記だった。ドイツ人シラーが書いた戯曲だからマリア・ストゥアルトなのだ。と言っても、イギリス王室の話のドイツ語表記には違和感がある。

 舞台『メアリー・スチュアート』を観たいと思ったのは、出演者に惹かれたのに 加え、先日『ヴァロア朝』(佐藤賢一)を読んだからである。生後6日でスコットランド女王になったメアリー・スチュアートは、未来のフランス王妃として6歳からフランス王宮で育てられた。だが、夫のフランス王は早世する。フランス読みだとマリー・ステュアールの彼女について、佐藤氏は次のように述べている。

 「マリー・ステュアールというのは、その美貌ゆえに波乱の人生を余儀なくされ、最後はイングランド女王エリザベス1世に斬首されて果てたという、あの伝説のスコットランド女王メアリー・スチュアートのことなのだ。(…)王妃(マリー・ステュアール)自身は政治家という玉ではなかった。この方面に才覚があれば、あんな支離滅裂な人生を送るわけがない。」

 この一節を読んで、どんな支離滅裂な人生を送ったのだろうと興味がわいた。で、芝居のチケットを手配し、戯曲を読んだのである。

 『悲劇 マリア・ストゥアルト』はメアリー・スチュアートの支離滅裂な人生そのものは描いていない。その果ての最期の3日間を描いている。

 スコットランドからエリザベスを頼って逃れて来たメアリーは、イングランドの王宮に幽閉され軟禁生活を送っている。エリザベスにとって彼女は、色仕掛けなどの手練手管でイングランド王位を狙う危険人物である。そして、ある証言をもとに彼女への死刑が宣告され、エリザベスの意に反して刑が執行されてしまう――という戯曲である。面従腹背の登場人物たちの右往左往の展開も面白い。

 戯曲の軸はメアリーとエリザベスという二人の女王である。この二人、芝居が始まった時点(処刑の3日前)では顔を合わせたことがない。前段はメアリーが軸、中盤で二人の面会、後段はエリザベスが軸、という構成がわかりやすい。

 冒頭近くでメアリーの乳母がメアリーに「あなた様の罪といえば、軽はずみということだけでございます」と語る。佐藤氏の言う「支離滅裂な人生」を想起し、ニヤリとしてしまった。二人の女王が背負った人生を3日に反映させた戯曲だ。