「筒井康隆自作を語る#4」に行った2017年11月13日

「筒井康隆自作を語る#4」のポスター、『筒井康隆コレクションⅦ 朝のガスパール』(日下三蔵・編/出版芸術社)
 11月12日、『筒井康隆コレクション』(全7巻)完結を記念したトークイベント「筒井康隆自作を語る#4」に行った。会場で、予約していた『筒井康隆コレクションⅦ 朝のガスパール』(日下三蔵・編/出版芸術社)も入手した。

 83歳の筒井康隆氏は元気で、今も文芸誌に短編小説を発表している。この調子で行けば、まだ何冊も新作(短編集。ひょっとした長編も)が出そうだ。

 あい変わらずの軽妙で知的なトークだが、最後(?)の長編『モナドの領域』は、神を登場させることで「神は存在しないということを書いた。だから最後の小説だ」との述懐に明晰な作家精神を感じた。近作短篇は耄碌ハチャメチャ作風だが、約20年前からあえて「老人」を演じているとポロリと語るところにこの作家のエネルギーを感じた。

 筒井康隆氏は短編も長編もたくさんあり、どれもが独特の傑作であり、どれが一番かは読者も判断に迷う。自ら「代表作がない作家」と語り「このままでは『時をかける少女』の作家と記憶されそうだ。それでもいいのだが…」とつぶやく姿が印象的だった。代表作と思える作品が多すぎる作家なのだ。

 『筒井康隆コレクション』(全7巻)はメインの作品の他に落穂ひろい風にレアな文章を収集収録しているのが魅力だ。今回入手した第7巻には、1966年に発行された「SF新聞 創刊号」に載った「SFを追って」が収録されていた。私はこの「SF新聞 創刊号」を発行当時購入し、その後も大事に保管してきたはずなのだが、いつの間にか紛失してしまった。「SFを追って」を読み返し、往時の記憶が懐かしくよみがえってきた。

忸怩たる思いにさせられる『世代の痛み』2017年11月12日

『世代の痛み:団塊ジュニアから団塊への質問状』(上野千鶴子・雨宮処凛/中公新書ラクレ)
 『世代の痛み:団塊ジュニアから団塊への質問状』(上野千鶴子・雨宮処凛/中公新書ラクレ)

 1948年生まれの団塊世代・上野千鶴子と1975年生まれの団塊ジュニア・雨宮処凛の対談本である。私は上野千鶴子と同い年、わが長女は雨宮処凛より一つ上、同世代であるゆえに『世代の痛み』というタイトルがイタイ。

 団塊世代論はもうタクサンだと思いつつ、団塊ジュニアとの絡みとなると現代につながる数十年の総括かと考え、つい手が伸びた。

 上野千鶴子はコワイ人なの敬して遠ざかるようにしていたのに、この対談を読んでしまい、あらためて叱責糾弾されている心地悪さを味わった。本書は「団塊世代」と「フェミニズム」に関わる対談で、私たち団塊のオトコは「いい気なオヤジ」となじられている。

 上野千鶴子は「全共闘→連合赤軍」がその後40年にわたる呪縛の時代を招来したと見ている。確かにそうかもしれない。わが世代の責任であり、その子の団塊ジュニアはロスジェネ世代と呼ばれるようになった。忸怩たる思いにならざるを得ない。

 「学生運動はどんどん遠隔目標を作り、一番遠いシンボルに革命という妄想があった」「遠隔目標を作れば作るほど、勝てない闘争になっていく。やはり、目の前の小さな勝利が大切ですね」と語る上野千鶴子はおそらく正しいのだろう。遠隔目標のある大きな物語にも妖しい魅力的はあるのだが…

 雨宮処凛の次のような発言にも身につまされた。

 「後になってインテリの人たちが、おまえらはバカで貧乏だから騙されて小泉に投票したんだ、みたいなことを言ったりもした。そういう言い方はひどいですね。すごく差別的だと思いました。バカで貧乏なやつは投票にいくな、みたいな。そこでまたリベラルな人が嫌いになった人もいる。」

 なんでこんな時代になったのだろうと思うことの多い昨今だ。だが、こんな時代にしたのは、私たち自身だという当然のことを想起させられる対談本だった。

浅丘ルリ子主演の近未来SF芝居『プライムたちの夜』2017年11月10日

 新国立劇場小劇場で『プライムたちの夜』(演出:宮田慶子/主演:浅丘ルリ子)を観た。2026年という近未来の家庭劇である。浅丘ルリ子が主演するSF芝居という点に惹かれてチケットを購入した。

 1977年生まれの米国人劇作家ジョーダン・ハリソンの作品で、この作家の戯曲が日本で上演されるのは初めてだそうだ。

 舞台はある家族の居間、その空間だけで芝居は進行し、役者は4人だけだ。このシンプルな構造が好ましい。役者は4人だが登場人物(?)が6人という仕掛けも面白い。

 この芝居には家族を失った喪失感を癒すために故人そっくりに作られたアンドロイドが登場する。つい最近、ソニーの犬型ロボット「AIBO」の最新モデル発表がニュースになった。近い将来、人間を癒す機能に特化したアンドロイドが登場する可能性は高い。この芝居は近未来の家庭に発生するかもしれない新しい課題を描いているのだろうか。

 人間とロボット(アンドロイド)との葛藤やすれ違いを描いたSFはカレル・チャペック以来数多い。さまざまな物語が書かれてきたので、この芝居もその一種に過ぎないようにも思える。だが、アンドロイドが家庭内にいる世界をSF臭を消して普通に描いているところが21世紀的である。

 この芝居に登場する故人そっくりのアンドロイドはプライムと呼ばれる。人間たちはプライムがアンドロイドであることを知っており、プライムとの会話によって故人の思い出をインプットしていく。その過程がこの芝居の肝である。そこには必然的に記憶の可塑性、記憶のねつ造という問題が入り込んでくる。

 これは人工知能云々の問題というより、人間そのものの普遍的な問題である。だからこそ、人間との会話を重ねることによって自己形成(?)していくプライムたちが、人間抜きのプライムたちだけで会話を積み上げていく終幕シーンは、多様な解釈が可能で不気味だ。

最近の小説も読んでみた2017年11月08日

『年刊日本SF傑作選:行き先は特異点』(大森望・日下三蔵編/創元SF文庫)、『あとは野となれ大和撫子』(宮内悠介/角川書店)
 このところ、バルザック、ゾラ、デュマなど19世紀フランスの小説を続けて読んだ。年を取り、未読の古典文学を読んでおかなければという駆け込み意識が出てきたせいかもしれない。

 古典を読むのはある種の自己満足であり、そんなものばかり読んでいると世捨て人になりかねないとも思う。まだ現世を超越する心境にはなれず、同時代の小説も読まねばとも思い、次の本を読んだ。

 『年刊日本SF傑作選:行き先は特異点』(大森望・日下三蔵編/創元SF文庫)

 2016年に発表された短編SFのイヤーズ・ベスト20編(内漫画3編)が収録されている。20人の作家の中で私が知っている(読んだことがある)のは5人(円城塔、眉村卓、北野勇作、谷甲州、上田早夕里)に過ぎない。このアンソロジーには作品ごとに簡単な作者紹介が掲載されていて年齢もわかる。日本SF第1世代の眉村卓以外はみんな私よりかなり若い作家だ。

 頭から順に全作品を読み、確かに新しい小説だと感じつつも、私の感覚が時代からズレつつあるとの認識を新たにした。私にとっては全般的には期待外れで、昔のSFの方が面白かったと感じてしまう。ここ何年かは、若い作家の話題作を読んでも共感できないことが多いのだ。

 とは言ってもいくつかの作品には感心した。『行き先は特異点』(藤井太洋)はグーグルやアマゾンなどの扱いに近未来を感じた。『太陽の側の島』(高山羽根子)は不気味な雰囲気が漂う不条理異世界小説だ。『悪夢はまだ終わらない』(山本弘)はうまいと思った。

 『スモーク・オン・ザ・ウォーター』(宮内悠介)はいかにもSFらしい楽しい小品で、作者紹介によればSF大賞や三島賞も受賞しているベテラン作家だ。たまたまカミサンがこの作家の次の長編を読んでいて、面白いというので読んでみた。

 『あとは野となれ大和撫子』(宮内悠介/角川書店)

 この小説は直近の直木賞候補作(受賞は逸した)だそうだ。読み始めると止まらなくなり、一気に読んでしまった。内容はぶっ飛んでいて展開が早い。ハリウッドのノンストップ・アクション映画のようだ。

 書きっぷりは軽いが舞台と題材は重い。中央アジアのアラルスタンという架空の国で日本人の両親をテロで失った女の子が大活躍する話である。周辺の国々の歴史や政治は現実の情況をふまえた設定になっていて、巻末には中央アジア関連の文献が列挙されている。

 〇〇スタンという国々の多い中央アジアは私の意識の中では地球上で最も遠い場所であり、それ故にロマンを感じる。『見知らぬ明日』(小松左京)、『天山を越えて』(胡桃沢耕史)などの小説がこのあたりを舞台にしていたが「とても遠い所」という強い印象だけが残っている。

 そんな地域の政治経済を題材にしているのだから、料理の仕方によっては重厚で緻密な大冒険小説にも成りえた小説だ。それを女子高生の学園祭のようなノリの小説に仕上げている所が何ともすごい。この軽さは何だろうと考えてしまう。

 面白いのは確かだが、これを新しいというべきかどうかは判断できない。

バルザックに引きずりこまれ『ウジェニー・グランデ』も読んだ2017年11月06日

『ウジェニー・グランデ』(水野亮訳/世界文学全集5/河出書房新社)
 バルザックの『幻滅』を2冊にまたがる「世界文学全集」(河出のグリーン版)で読了し、2冊目の後半に収録されていた『ウジェニー・グランデ』(水野亮訳)を未読のまま放置するのも気持ち悪いので、ついでにそれも読んでしまった。

 2段組みで約200ページだから長編小説と言うべきだろうが、短編小説のような読後感だ。バルザックの濃密な世界に引きずりこまれた状態の頭で読むからそんな気分になるのかもしれない。

 フランスの田舎町(ソーミュール)を舞台に、吝嗇で守銭奴の資産家(元は樽屋の親方)の父親とその娘(ウジェニー・グランデ)を中心にした19世紀前半の約10年間の物語である。比較的シンプルなストーリーで登場人物もさほ多くはなく、途中からおよその展開が見えてくる。それ故に読みやすいし面白い。

 『ウジェニー・グランデ』は恋愛小説の形式をとった経済小説でもある。大多数の登場人物たちが金銭欲にまい進する姿にはあきれてしまう。社会を動かすエネルギーをそこに見出したのはバルザックの慧眼なのだろう。身も蓋もない物語のエネルギーを感じる。

バルザックの『幻滅』で小説世界を堪能2017年11月03日

『幻滅 ⅠⅡ』(バルザック/生島遼一訳/世界文学全集4、5/河出書房新社)
◎小さい活字の試練

 ついにバルザックの『幻滅』を読んだ。実家を処分するときに引き取った半世紀前の「世界文学全集」(河出書房新のグリーン版)に収録されているこの小説が気にはなっていた。2冊本の長編なので手を出しかねていたが、『谷間の百合』を読了してさらにバルザックを読んでみたいと思ったのだ。

 『幻滅 Ⅰ』(バルザック/生島遼一訳/世界文学全集4/河出書房新社)
 『幻滅 Ⅱ』(バルザック/生島遼一訳/世界文学全集5/河出書房新社)

 古い文学全集なので2段組で字が小さい上に印刷がかすれ気味のページもある。老眼が進行しつつあるわが眼球が若い頃に読んだこの文学全集の活字にまだ耐えられるかどうか試してみようとも思った。そして無事読了できた。2冊本と思って読み始めたが、2冊目の後半には別の小説(『ウジェニー・グランデ』)が収録されていて、実際は1冊半だった。とは言っても濃密な大長編である。

 私はこの長編を堪能できた。今までに読んだバルザックの小説(『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』『谷間の百合』)の中では一番面白かった。

◎多くの人物、多様な呼称

 バルザックも4冊目なので、その「人間喜劇」の世界には少し慣れてきたが、登場人物の多さにはうんざりさせられる。

 このテの小説は登場人物が多いと覚悟はしていて、人物名とその属性をメモしながら読み進めた。そのメモ用紙がすぐにゴチャゴチャになるので、途中でパソコン入力してプリントしたものにさらに手書きで書き足すということを何回かくり返した。普通の小説は半分も進行すれば新たな人物はあまり登場しないが、この小説は後半になってもどんどん新たな人物が出てくる。

 登場人物が多いのも大変だが、一人の人物が場面によって異なる呼称で出てくるので混乱する。例えば主人公には「リュシアン・シャルドン」「リュシアン」「シャルドン」「リュシアン・ド・リュバンプレ」「リュバンプレ」などの呼称があり、場面によって使いわけられている。混乱せずに読み進めるには人物メモが必須だ。

 読了後、メモした人数を数えてみると92人だった。全登場人物をメモしたわけではない。バルザックの「人間喜劇」は複数の小説に同じ人物が登場する仕掛けになっていて、巻末の訳者解説によれば『幻滅』の再登場人物は116人だそうだ。驚くべき人数だ。私がメモした登場人物より多い。私自身が確認できた再登場人物は3人に過ぎない(以前に3作しか読んでいないから当然だが)。

◎登場人物に辛辣な作者

 この小説は野心を抱いた青年の挫折の物語である。『幻滅』というタイトルから推測できるように、ハッピーエンドの話ではなく、勧善懲悪の逆に近い物語である。と言っても、悲惨な目にあう主人公は決して善人ではない。いわゆるバルザック的人物である。

 バルザックは主人公に対しても辛辣だ。登場人物のその後の運命をあらかじめ予告するような表現も多い。物語の興をそぐことになりかねないそんな書き方を押し通していくところに、バルザックのブルドーザーのような迫力がある。この過剰なエネルギーにはかなわない。

◎ウンチクも面白い

 『幻滅』は19世紀フランスの出版業界や新聞業界の裏表を描いた小説であり、その部分だけでも十分に面白い。次のような表現は、メディアの普遍的な課題を指摘している。

 「ジャーナリズムはまだ子供さ。やがて大きくなるよ。十年もたてば、万事が広告に屈服するようになるだろう」

 「新聞はもはや世論の啓蒙のためにではなく、世論にこびるためにつくられているんだ」

 そんな予見的指摘に加えて、19世紀社会の実相を表していると思えるさまざまなウンチクが散りばめらているのもこの小説の魅力だ。たとえば印刷、製紙、手形、訴訟、ファッションなどについて多くの言葉が費やされている。

◎没頭すれば堪能できる

 バルザックの『幻滅』は読者を19世紀フランスの濃密な世界に引きずり込む。この小説を堪能するには、この世界に没入した時間を過ごす必要がある。だからこま切れ読みは難しい。現実世界と小説世界を行き来するにはかなりのエネルギーが必要なので、それを繰り返すのは疲れる。こういう長編を楽しむには、ある程度のまとまった時間の確保が望ましい。

 今回、多少の「こま切れ読み」を余儀なくされ、そんなことを思った。

最初はキツくて最後が鮮やか --- バルザックの『谷間の百合』2017年10月26日

『谷間の百合』(バルザック/石井晴一訳/新潮文庫)
 タイトルのみは昔から知っているバルザックの『谷間の百合』(石井晴一訳/新潮文庫)を読んだ。

 バルザックは、数年前に読んだ『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』に続いて3つめだ。「人間喜劇」の世界にもう少し接してみたいと思ったのだ。

 読み始めてしばらくは苦痛だった。段落の少ない書簡体の小説で、一人称の過剰な表現の感情吐露と風景描写が延々と続く。この書簡がナタリーという伯爵夫人宛てなのは冒頭の記述でわかるが、筆者のフェリックスとこの夫人の関係が一向にわからない。

 途中で投げ出そうかなと思いつつ読み進め、全540ページの100ページを過ぎたあたりからやっと面白くなってきた。

 ほぼ全編が一つの書簡という体裁の恋愛小説で、そこにはかなり長い年月におよぶあれこれが書き込まれている。毎度のことながら、バルザックの世界とわれわれの世界の恋愛のモラルの違いにはあきれてしまう。過剰な感情にもついていけない。ほとばしる言葉のエネルギーにうんざりさせられもする。にもかかわらず、読者を引き込む魅力はある。

 また、当時の経済のディティールが書き込まれているのも興味深い。領地経営に苦闘する田舎貴族の姿や貴族とブルジョアとの交流に19世紀フランス社会の実相を垣間見た気がする。フランス人のイギリス観やカソリックのプロテスタント観も露呈されていて面白い。物語の背後の「社会」を感得できるのが「人間喜劇」の魅力のひとつだ。

 『谷間の百合』には自己批評的とも言える鮮やかで面白い結末が用意されていて、大いに感心した。いつの日か再読してもいいなと思った。

『筒井康隆入門』(佐々木敦)を読んで走馬燈がよぎる2017年10月22日

『筒井康隆入門』(佐々木敦/星海社新書)
 『筒井康隆入門』(佐々木敦/星海社新書)を半日で一気読みし、頭がクラクラしてきた。わが人生の最近50年(高校生時代から68歳まで)を半日の時間旅行で駆け抜けた気分になり、走馬燈がチラチラしている。

 著者は「はじめに」で次のように書いている。

 「本書は、筒井康隆の作品を、デビュー作から最新作に至るまで、小説を中心として、ほぼ発表順に読んでいくことで、この稀代の大作家の肖像を、出来るだけ総体的に描き出すことを目的としています」

 著者の佐々木敦氏は3年前に『あなたは今この文章を読んでいる:パラフィクションの誕生』を上梓した批評家で、私はこの本にかなりの刺激を受けた。筒井康隆氏が同書に共鳴して「メタパラの七・五人」という短編を書いたことも承知している。

 『筒井康隆入門』のオビには筒井康隆氏自身の推薦文もあり、筒井康隆ファンとしては読まないわけにはいかない。佐々木敦氏はこの新書を執筆するにあたって筒井康隆氏の全作品を読み返したそうだ。何とも羨ましい難行苦行だ。

 私は高校1年だった1964年以来の筒井康隆ファンであり、最初の短編集『東海道戦争』刊行(1965年10月)の前から、雑誌(『SFマガジン』『別冊宝石』)に載った筒井作品に惹かれていた。それから半世紀余り、ほぼすべての筒井作品を読んでいると思う。だから、本書を読んでいると、個々の筒井作品を読んだ時点のあれこれがよみがえってきてしまうのだ。

 佐々木敦氏は、私が初めて筒井作品に接した1964年生まれで、私より16歳若い。つまらない自慢ではあるが、読み始めたのは著者より早い。本書の「はじめに」でチラリと触れているように、デビュー時からのファンは当然ながらいまや「高齢者」なのである。そんな高齢者の目で見て、本書に些細な間違いも発見した。それは文末の蛇足に書く。

 閑話休題。一冊の新書本で筒井康隆氏が半世紀にわたって持続的に生み出してきた膨大な作品群を概観すると、あらためてこの作家の凄さがわかる。20代の初期作品から80代の最新作品に至るまで、その面白さは変わらないのに作風は千変万化、自己模倣に陥ることなく読者を驚かし続けている。

 本書を読むと、これまでに漠然としか把握できていなかった筒井ワールドの全貌が整理された形で見えてくる。その世界に「愛妻もの」というジャンルがあることも本書ではじめて認識し、言われてみればその通りだと得心した。

 本書の圧巻は2008年以降を対象にした最終章「GODの時代」である。次の指摘が面白い。

 「彼は自分が「後期高齢者」であるという紛れもない事実を受け入れる/演じてみせることで、ある意味ではそれを利用して、今なお、これまでやったことのない小説のあり方を模索しているのだと筆者には思えるのです。ここには、決して挑戦することをやめない全身実験小説家、生涯前衛作家の姿があります。」

 そして著者が提唱するパラフィクション論をふまえて「メタパラの七・五人」や『モナドの領域』を解説する部分は迫力があって引き込まれる。筒井康隆氏自身が「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長篇」とオビに記した『モナドの領域』の読み解きには感心した。

 私自身、膨大な筒井作品の中のどれが最高傑作か、にわかに判断することはできない。記憶鮮明な作品も多いが、よく憶えていない作品もある。『筒井康隆入門』を読みながら遠い記憶がよみがえることもあった。いつか、筒井作品をすべて読み返してみたいとも思った。老後の楽しみである……すでに老後ではあるのだが。

【蛇足】

・P40の『幻想の未来・アフリカの血』の収録作品は間違い。1968年8月発行の南北社版の『幻想の未来・アフリカの血』と1971年8月発行の角川文庫『幻想の未来』を混同しているようだ。

・P41の覆面座談会の件りで、槍玉に挙げられた作家に星新一も入っているが、この座談会で星新一は非難されていない(ほめられている)。

・P45に「晋金太郎」を単行本収録作品でないとしているが、1969年4月発行の『筒井順慶』(講談社)に収録されている。

・P165でBBSの内容を『電脳筒井線』という題名で1冊の本にまとめたとしているが『電脳筒井線』は全3冊。

 重箱のスミをつつく小言幸兵衛だと思う。

デュマの『三銃士』の完訳版は面白かったが…2017年10月21日

『三銃士(上)(下)』(デュマ/生島遼一訳/岩波文庫)
 デュマの『三銃士(上)(下)』(生島遼一訳/岩波文庫)を読んだ。完訳版である。

 先月、『レ・ミゼラブル』の完訳版を読んだのを機に小学生時代に読んだ『ああ無情』を読み返し、ついでに同じ『少年少女世界文学全集26』に収録されていた『三銃士』を読み返した。その『三銃士』が駆け足のあらすじ紹介のような内容で楽しめなかったので、やはり完訳版を読まねばという気分になったのだ。

 さすがデュマはストーリーテラーである。背景が把握できず辻褄が納得できない物語であっても、いろいろ書き込んであるので面白く読ませてしまう。雑で乱暴なところもあるが十分に楽しめた。

 読了後、この話のあらすじを1ページ程度にまとめることを想像してみた。わけのわからない話になりそうな気がする。ディティールの情景を捨象してしまうと面白さが消えてしまうのだ。あらすじを読むだけではヘンテコな話だとの印象しか残らない歌舞伎に似ている。そんな歌舞伎も舞台を観ると十分に楽しめるのだ。

 『三銃士』は19世紀の新聞連載小説で舞台は17世紀初頭、当時の時代小説である。主人公のダルタニャンは宮本武蔵とほぼ同じ時代の人だ。19世紀のフランスの人々は、大正・昭和の日本人が吉川英治の『鳴門秘帖』や『宮本武蔵』(二つとも私は未読)の新聞連載を読むのと似た気分で『三銃士』を読んだのかもしれない。

 デュマの19世紀の読者に向けた次のような述懐が面白い。

 「(…)こんなことをするのは悪趣味である。今日の我々の道義心から見れば。唾棄すべき行為でもあろう。だが、その当時は今日ほど、行いを慎まなかったのだ。」

 「ある時代の人間の行動を別の時代の尺度ではかるのは少々無理であろう。今日でなら体面を重んじる人に恥辱と考えられることでも、その当時には何でもない普通のことであったので、(…)」

 現代の私から見れば19世紀の人々の考えや行動にも理解しがたいところがある。そんな19世紀のフランス人でも違和感をいだく部分が『三銃士』にはあるのだ。だから、フランスの歴史にも詳しくない私が納得できない部分があって当然だろう。

 『三銃士』はフィクションだが主人公にはモデルがあり、ルイ13世、リシュリユー枢機官(宰相)、アンヌ王妃など実在の人物も登場する。この実在の3人(国王、宰相、王妃)の関係がわかりにくい。対立しながら協調もしていて、歴史を知らない身には把握しにくい。だが、そこに歴史背景のリアルがあるのだと思う。その認識は『三銃士』を読んだ収穫のひとつだった。

 なお、私は『三銃士』の「全訳版」を読んだつもりだったが、そうではなかった。デュマはこの物語の続編を書いていて、『三銃士』は全3部からなる長大な『ダルタニャン物語』の第1部にすぎないそうだ。第1部の「完訳版」を読了したいま、続編を読む気力はない。デュマを読むなら『モンテクリスト伯』を再読したい。

白石加代子女優生活50周年記念公演を観て懐旧2017年10月18日

 池袋の「あうるすぽっと」で「白石加代子女優生活50周年記念公演」と銘打った『笑った分だけ怖くなる vol.2』を観た。白石加代子と佐野史郎による朗読劇で、演目は『乗越駅の刑罰』(作・筒井康隆)と『ベーコン』(作・井上荒野)の2作。

 この公演に食指が動いたのは白石加代子と筒井康隆という怖ろし気な取り合わせに惹かれたからだ。白石加代子の舞台を観るのは学生時代に「早稲田小劇場」の『劇的なるのをめぐって 2』以来だと思う。だとすれば約半世紀ぶりだ。

 1960年代末から1970年代初頭の時代、白石加代子はアングラの女王的な怪女優だった。当時の彼女が何歳だったか知らないが、最近たまたまちらりと朝ドラで観た彼女の印象は昔とさほど変わらない。

 約半世紀ぶりに舞台で観た白石加代子は昔の「化け物」的な印象が残ってはいるものの洗練された大女優のようでもあった。

 『乗越駅の刑罰』も『ベーコン』も観ているうちに異世界に引き込まれていくような舞台だった。カーテンコールの際に、白石加代子と佐野史郎の短いトークがあり、その内容が私の遠い記憶をゆさぶった。

 白石加代子と佐野史郎の接点に関するトークだった。白石加代子は「早稲田小劇場」時代に『少女仮面』に主演している。『少女仮面』は「状況劇場」の唐十郎が「早稲田小劇場」のために書いた戯曲で、岸田戯曲賞を受賞した。「劇壇の芥川賞」と言われる岸田戯曲賞を怪しげなアングラが受賞したのは大きな話題になった(その後、唐十郎がホンモノの芥川賞まで受賞するとは予測できなかった)。佐野史郎は唐十郎の「状況劇場」の出身であり、そこに白石加代子と佐野史郎の接点がある。そんな昔話のトークだった。

 私は白石加代子の『少女仮面』を観ていない。伝説の舞台との噂は聞いていた。戯曲は単行本刊行時に読んだ。後に上演された状況劇場版(主演:李礼仙)や西武劇場版(主演:渡辺えり子)の『少女仮面』を観た記憶はある。

 「あうるすぽっと」から帰宅し、書棚の奥から『少女仮面:唐十郎作品集』(学藝書林/1970.3.5)を引っ張り出した。口絵には白石加代子の『少女仮面』舞台写真が載っている。パラパラと戯曲を読み返すと、懐かしくも印象深い挿入歌に遭遇した。

  時はゆくゆく乙女は婆アに、
  それでも時がゆくならば
  婆アは乙女になるかしら

 メロディも鮮明によみがえってくる。昔、「唐十郎:四角いジャングルで歌う」というLPレコードで繰り返し聞いたからかもしれない。

 この歌詞、女優生活50周年の白石加代子に重なってくる。