安部公房の『城塞』が半世紀を経て復活2017年04月22日

 今月初旬、新国立劇場中劇場で『葵上・卒塔婆小町』(作:三島由紀夫、演出・美術・主演:美輪明弘)を観たとき、劇場入口付近に『城塞』と大きな文字で印字された看板があった。近日上演の芝居の案内だと分かったが、私には馴染みのない知らない芝居だと思った。その看板を遠目に眺めながら私は次のようなことを考えていた。

 「そういえば、ずいぶん昔に安部公房も『城塞』という戯曲を書いていたなあ。あれと同名の芝居だ。ありふれたタイトルなんだ。」

 看板の前をさほどの興味もなく通り過ぎるとき、ちらりと「作 安部公房」という文字が飛び込んできた。びっくりした。それはまさに安部公房の『城塞』だったのだ。

 私は半世紀近く昔の学生時代には安部公房ファンだったので、彼の小説や戯曲はほぼすべて読んでいる。かつてはヒーローに見えた安部公房も没後20年以上が経過し、忘れられた存在になりつつあると感じている。三島由紀夫や井上ひさしの芝居が没後も継続的に上演されているのに対し、安部公房の芝居が上演されるという話は聞かない。

 そう思っていたので、安部公房の数ある戯曲の中でもあまり知名度のない『城塞』が新国立劇場で上演されるという事態は想像もできなかったのだ。

 さっそく劇場窓口でチケットを手配し、本日(4月22日)、『城塞』(作:安部公房、演出:上村聡史、主催:新国立劇場)を新国立劇場小劇場で観た。

 今回知ったのだが、『城塞』をはじめ安部公房のいくつかの芝居が昨年俳優座で上演されたそうだ。安部公房の芝居が最近は上演されていないというのは私の思い過ごしだろうか。

 『城塞』の初演は1962年、私は地方在住(岡山県玉野市)の中学2年生で、安部公房という作家の名も知らなかった頃だ。戯曲は『文藝 1962年11月号』に掲載されている。私は60年代末にこの雑誌を古書店で探索入手して『城塞』を読んだ。その後、1970年1月発行の『安部公房戯曲全集』(新潮社)にこの戯曲は収録された(「全集」と銘打ったこの単行本は全戯曲を収録しているのではなく、収録されていないアジプロ戯曲もある)。

 戯曲を読んだのは半世紀近く前なので、かすかな印象が残っているだけだ。観劇に先立って戯曲を再読し、『安部公房全集 016 1962.04-1962.11』に収録されている『城塞』に関する安部公房のいくつかのコメントにも目を通した。その抜粋は以下の通りだ。

 「ナンセンス・コメディは、いつの間にやら、深刻きわまる重量級ドラマに変わってしまっていた」
 「この作品もまた、その本質は、同じ喜劇なのだということである」
 「あるブルジョアジーをブルジョアジーとして確立するプロセスを内的に捉えて、それがやはり民族とか国家というものを内的に超えることでブルジョアジーとして確立してくという点を、明瞭に出したかった」
 「階級制をくもらせる、霧のようなイデオロギー、民族だとか、祖国だとかいう、あの危険な思想と対決してみたいというのが、こんどの作品の中心テーマだったのです」

 このように作者のコメント羅列してみると1962年頃の左翼的な気張りがむんむんとしてきて、時代の香りがする。満州で財を成し戦後も軍需で事業を拡大させた資本家の家庭を舞台にした芝居である。劇中で二回出てくる次の科白も印象深い。

 「戦争で負けたくらいで、国が死んだりするものか……国家を殺すことができるのは、革命だけさ」

 と言っても『城塞』は図式的な資本家糾弾プロパガンダ劇ではなく、歴史という現実を紡ぎあげていく人間の姿を演劇的かつ普遍的に描いている。だからこそ、21世紀の現代に若い演出家によって再演されることになったのだろう。

 安部公房の戯曲が再演されることを、その作品が古典に近づいたと寿ぐこともできるかもしれないが、時代のうねりが回帰しているのではないかとも感じられる。それは決して目出度いことではない。

 今回の舞台の美術にはいろいろ工夫があった。最後のシーンで東京タワーを遠望する窓からの俯瞰が、拡大していく日の丸に変容していくさまはクライマックスの効果を盛り上げて効果的だった。現代へのメッセージを感じた。

チェーホフとシェイクスピア---文豪の2本立て公演2017年04月16日

 明治座で東京乾電池のチェーホフとシェイクスピアの2本立て公演を観た。明治座と東京乾電池という取り合わせが異種格闘技風だ。チェーホフとシェイクスピアという組み合わせは盤石の文豪タッグで世界文学全集の1巻のようである。4月15日の1日だけの特別企画だそうだ。

 第一部はチェーホフの『煙草の害について』で柄本明の一人芝居、第二部はシェイクスピアの『夏の夜の夢』だ。観劇の前に戯曲に目を通した。『夏の夜の夢』は手元の世界文学全集に福田恆存訳が収録されていた。『煙草の害について』は『ちくま文学の森(6) 思いがけない話』に米川正夫訳で収録されていた。どちらも肩の凝らない軽喜劇で、文豪と称される作家もこういうものを書いていたのかと思うとホッとする。

 舞台は第一部の方が第二部より面白かった。第一部『煙草の害について』は戯曲で8頁の短い一人芝居だが、柄本明はこれに独自のギャグを盛り込んで1時間で演じた。上手いものだと思った。

 公演のチラシによれば、『煙草の害について』は「作・チェーホフ、演出・構成・柄本明」となっている。『夏の夜の夢』は「作・シェイクスピア、訳・福田恆存、演出・柄本明」と訳者を明記しているのに『煙草の害について』には訳者が載っていない。柄本明がかなり自由に脚色したからだろう。その分、面白さが倍加している。

 第二部『夏の夜の夢』は一応は福田恆存訳の戯曲の科白を役者たちがそのまましゃべっているのだが、いろいろな工夫が盛り込まれていた。

 『夏の夜の夢』は他愛もないコメディで、祭りの演し物のような目出度い芝居ではあるが16世紀の芝居だ。現代の日本人が当時の英国人の感性で舞台を楽しむのは容易でない。シェイクスピアという名前にひれ伏して教養主義的に古典鑑賞の気分で観劇するのではつまらない。

 柄本明演出は福田恆存訳の戯曲をできる限り楽しく猥雑に演じようとしている。科白にはルー大柴的なジャパニーズ・イングリッシュが入り、昭和歌謡曲を盛り込み、衣装はデタラメだ。柄本明演ずる妖精の王はステテコ、ダボシャツ姿でマントは唐草模様の風呂敷である。古典ではなく笑劇として演じようとする工夫だろう。

 何百年も昔の芝居に当時の人が感じたであろう面白さを現代の観客に追体験させるのは容易でない----『夏の夜の夢』を観劇しながらそんなことを感じた。

那覇市の映画館で『アラビアの女王』を観た2017年04月15日

 今週前半は沖縄・那覇市で過ごした。県庁前の「パレットくもじ」9階の映画館「シネマパレット」で『アラビアの女王』を上映中だった。東京で見逃した映画だ。

 『アラビアのロレンス』の女性版で、実話に基づいた「イラク建国の母」の物語と聞いていたので、欧州・中東の近代史の勉強になりそうで興味があった。その映画を那覇で観ることができた。期待したような歴史物語ではなく恋愛映画に近い作りではあったが、20世紀中東史への関心を喚起する話だった。

 この映画の主人公は、アラビアのロレンスより20歳年長の英国の貴婦人・ガートルード・ベルである。私はこの映画で初めてアラビアで活躍したこの女性のことを知った。

 映画は史実をベースにしたフィクションだが、砂漠のシーンに魅了された。砂漠と言えば『アラビアのロレンス』と『眼には眼を』が印象深いが、そんな過去の映画を彷彿とさせる砂漠の映像だ。

 主演はニコール・キッドマンで、美しき女親分が従者を引き連れて砂漠の部族を歴訪する話だ。その歴訪を観ていると往年のテレビ番組「兼高かおる世界の旅」を連想し、ガートルード・ベルが兼高かおるに重なって見えてきた。

 また、「西のかた陽関を出ずれば故人なからん」という漢詩や「蒙古放浪の唄」などが醸し出す大時代的砂漠ロマンの世界も想起され、砂漠へと旅立つシーンにうっとりした。

 と言っても、この映画の歴史的な背景にはサイクス=ピコ協定などイギリスの二枚舌、三枚舌外交がある。砂漠を旅行く駱駝の隊列にロマンを感じても、この映画に登場するイギリス人たちの活躍に素直に納得するわけにはいかない。『アラビアの女王』はあえてそんな葛藤を避けた内容になっているのだが…

 沖縄の地でこの映画を観ていると、20世紀の中東と21世紀の沖縄に通底するものがあるように思えてきた。

ミュシャの巨大連作『スラヴ叙事詩』の前に立ちすくんで…2017年04月07日

 国立新美術館で開催中の『ミュシャ展』に行った。ミュシャと言えばあのシャレた装飾的なポスターを想起する。私もミュシャのポスターは好きだ。

 だが『ミュシャ展』のメインは華麗なポスターではなく『スラヴ叙事詩』と題する20点の巨大絵画だ。パリでポスター画家として成功したミュシャが祖国チェコに戻ってこんな絵画を制作していたとは、今回の『ミュシャ展』の報道に接するまでは知らなかった。

 フライヤーで紹介されている『原故郷スラヴ民族』をはじめとする20点の大きさに圧倒された。『原故郷スラヴ民族』は610×810cm、他の作品も似たようなサイズだ。これだけ大きいと会場が多少混雑していても鑑賞にさほどの支障がないのが有難い。

 この巨大絵画をチェコからどうやって運んで来たのか気になった。610×810cmの板を船に載せるのは可能かもしれないが、都会の道路をトラックで運搬できるとは思えない。帰宅後ネットで調べて、絵画をクルクル巻いて運んだと判明した。痛まないのか心配だが、専門家の仕事だから大丈夫なのだろう。

 『ミュシャ展』で感激したのは、一部ではあるが写真撮影が可能になっていることだ。海外の美術館では写真撮影OKの所があるが、日本では珍しいと思う。なぜ全部ではなく一部なのだろうと思った。混雑時の写真撮影が鑑賞の妨げになるかの実験的試みかもしれない。

 それはさておき『スラヴ叙事詩』という連作を眺めながら、スラヴ民族とは何だろうという基本的な疑問がわいた。ヨーロッパにはラテン民族、ゲルマン民族、スラヴ民族がいると習ったのは中学生の頃だが、歴史を学ぶにつれてそんなに単純ではなさそうな気がしてきた。ヨーロッパに住む人々の〇△民族、□◇人というアイデンティティは複雑すぎて理解不能だ。

 最近読んだティモシー・スナイダーの『ブラッドランド』『ブラックアース』もヨーロッパの国民国家、民族自決を背景にした歴史書で、人種や民族とは何かを考えざるを得ない内容だった。

 私自身の中に日本人という意識があるのは確かだが、島国育ちのせいか、ことさらに人種・民族を意識せずに生きてきた。そんな呑気な人間だから、ミュシャが巨大絵画群にぶつけたスラヴ人意識とは何であったか、孤高なのか連帯なのか反発なのか郷愁なのかイマイチ理解できない。

美輪明弘、演出・美術・主演の『近代能楽集』を観劇2017年04月05日

 初台の新国立劇場中劇場で三島由紀夫の『葵上・卒塔婆小町』(『近代能楽集』より)を観た。演出・美術・主演は美輪明弘だ。

 戯曲集『近代能楽集』を読んだのは約半世紀前の大学生時代だ。当時すでに新劇の魅力は色あせ、紅テントや黒テントなどのアングラに魅かれていた。そんな時代だったが、『近代能楽集』収録の8編の一幕劇は超現実的な秀逸な現代的戯曲に思えた。あの頃、私たちの同時代文学は安部公房、大江健三郎、三島由紀夫に代表されているという感覚があった。

 半世紀が経過し『近代能楽集』の内容は忘却の彼方にある。何篇かは舞台でも観ているが記憶は朧だ。しかし、戯曲や舞台から受けた摩訶不思議な印象だけは残っている。

 私は芝居を観る前には戯曲を目に通すことが多い。役者たちが舞台に立ち上げる時空間を堪能するのが観劇の醍醐味であり、筋の展開を追うのは二の次だから戯曲を読んでいても観劇の興をそぐことはないと思うからだ。

 だが、今回の『葵上・卒塔婆小町』では失念している戯曲を再読せずに観劇した。観劇の過程で記憶のよみがえりを楽しむというワクワク体験を期待したのだ。

 美輪明弘は主演・演出だけでなく美術も担当している。ダリをモチーフにした『葵上』の舞台も新宿の都庁舎を遠景にした『卒塔婆小町』の舞台も異世界的で十分に魅力的だった。そして、この舞台で展開される三島由紀夫の世界に昭和レトロを感じてしまった。

 半世紀前に同時代的だと共感していた世界に昭和レトロを感じる自分自身に少し驚いた。三島由紀夫がすでに古びてしまったのか、私が年老いてしまったのかはよくわからない。

 この芝居で「俗悪」という単語が何度か出てくるのも気になった。この単語に久々に触れた気がした。現実世界を唾棄する言葉として「俗悪」が使われているようでありながら、演劇空間は「俗悪」を彼方に夢想しているようにも思える。

 「俗悪」という単語にこんな反応をするのは、この世が俗悪から遥かに遠ざかってしまったのか、あるいは俗悪の中に埋没してしまったのか、それもよくわからない。

ホロコーストを掘り下げた『ブラックアース』は啓蒙の書だ2017年04月04日

『ブラックアース:ホロコーストの歴史と警告(上)(下)』(ティモシー・スナイダー/池田年穂訳/慶應義塾大学出版会)
 米国の歴史家ティモシー・スナイダーの『ブラッドランド:ヒトラーとスターリン大虐殺の真実(上)(下)』を読んだので、その続編的な位置づけの次の本を半ば義理のような気分で読んだ。

 『ブラックアース:ホロコーストの歴史と警告(上)(下)』(ティモシー・スナイダー/池田年穂訳/慶應義塾大学出版会)

 著者は1969年生まれ、原著は2015年9月、翻訳版は2016年7月刊行。比較的若い学者の最近の著作で、従来の観方を更新する新たな見解の本に思える。

 『ブラッドランド』と『ブラックアース』、タイトルも翻訳版の表紙の雰囲気もよく似ている(出版社は異なる)。扱っている時代も地域もほぼ同じだ。前者は、1933年から1945年の間にドイツとソ連に挟まれた地域で発生した約1,400万人にのぼる「大量殺人」の史実を描いている。その1,400万人の内の540万人がホロコーストで殺されたユダヤ人だった。後者はこのホロコーストの内実を描いている。

 ホロコーストの歴史は『ブラッドランド』においてもかなり語られている。ホロコーストについて新たに大部の著作を書くのは材料の二重売りではないか、正直言って読む前にはそんな気もした。続けて読むと多少の重複感があるのは確かだ。しかし『ブラックアース』は『ブラッドランド』とは切り口の異なる本で、著者があえて本書を世に問う動機が了解できた。

 本書はホロコーストの実態とその由縁を丁寧に掘り起こし、21世紀の世界においてもホロコーストに似た事態が発生する可能性を警告している。

 ナチス時代にドイツのユダヤ人がドイツ人に大量に殺されたのがホロコーストではない、というのが本書の一つの指摘だ。殺されたユダヤ人の大半はドイツ以外の地域に在住していた人々であり、ドイツ以外の場所で殺されている。その殺害にはドイツ人以外の多くの人々が関わっている。

 大量殺害を可能にした大きな要因が「国家の破壊」にあるという見解が本書の眼目だ。大規模なホロコーストはナチスやソ連によって国家が破壊された地域で発生している。傀儡政権であってもまがりなりにも国家の形が存続していた地域のユダヤ人の生存率は、国家が破壊された地域の生存率よりかなり高かったそうだ。

 本書には「アウシュヴィッツの逆説」という章がある。アウシュヴィッツだけを観ていてはホロコースト全体を見誤るというのが著者の指摘だ。アウシュヴィッツで殺されたユダヤ人は約100万人で、収容者の生存率は約10パーセントだ。ホロコースト全体で540万人が殺されている。アウシュヴィッツはホロコースト後期の一部を担っているに過ぎず、アウシュヴィッツ以前にすでに大量のユダヤ人が殺害されていた。

 アウシュヴィッツのガス室という秘密めいた場所にホロコーストを押し込めると「そんなことになっているとは知らなかった」という主張の裏付けになる。だが、ガス室以前に大量のユダヤ人が銃殺されており、多くの一般の人々がそれを感知していたらしい。アウシュヴィッツだけに注目すると、国家の破壊による無法地域の発生というホロコーストの前提条件が観えにくくなるとも著者は指摘している。

 生存率10パーセントをどう観るかも微妙だ。著者は次のように述べている。

 「アウシュヴィッツに送られるとされていたドイツ支配下のユダヤ人の方が、アウシュヴィッツに送られるとされていなかったドイツ支配下のユダヤ人たちより生き延びる可能性が高かった。これが「アウシュヴィッツの逆説」であるし、国家がどのように破壊されたか、ないし破壊されなかったかを考慮して、はじめてその逆説を解明できる。」

 啓蒙的で興味深い見解である。

雪の畑にジャガイモを植える2017年03月27日

 八ヶ岳南麓の山小屋のささやかな畑では毎年ジャガイモを植えている。種イモの植え付け時期は、手引書によれば東京などでは2月下旬から3月下旬だが、寒冷地の八ヶ岳では4月上旬から5月上旬だ。時期の後半になるとホームセンターなどで種イモの入手が困難になる。

 今年はいろいろ予定があり4月に八ヶ岳に行けるか否か不明なので、3月26、27日(つまり昨日と今日の一泊)、ジャガイモを植えるために山小屋へ行ってきた。やや早いかもしれないが仕方ない。

 天気予報が雨または雪なのに出発したのは、八ヶ岳南麓は寒冷地であっても積雪は少ないので何とかなるだろうと楽観したからだ。実際にはこの2日で関東甲信越地方に例年にない積雪があり、那須では雪崩被害が発生した。八ヶ岳南麓も雪だった。積雪はさほどではなかったが。

 26日昼、山小屋に到着すると畑は雪で覆われ、雪が舞っていた。雪の中で作業する気になれないので、27日に植え付け作業をすることにした。夕方には雪がみぞれになり、畑の雪も溶け始めたので、翌朝には何とかなると推測した。ところが、夜中に再びかなりの雪が降ったらしく、27日の朝は一面の雪景色になっていた。

 雪の畑にジャガイモを植えていいものか否かよくわからない。手元に3冊の野菜作りの手引書があるが、どの本にも積雪の畑に関する注意書きなどはない。ままよと、雪の畑を耕して畝作りを始めた。この作業で体は汗ばんでくるのに手足の指先は凍えてくる。凍傷になりそうに思えたので、途中休憩で手足をお湯につけて人心地つけて作業を再開した。

 そんな苦労のすえ、雪の畑でのジャガイモの植え付けが完了し、夕刻には帰京した。天気予報によれば明日もまた彼の地は雪のようだ。この先は植物の生命力に頼るしかない。うまく育つだろうか。

空疎で空虚な首相に暗然とする『安倍三代』2017年03月25日

『安倍三代』(青木理/朝日新聞出版)
 3月23日の森友学園・籠池理事長の証人喚問は、平日の昼間にもかかわらず多くの人がテレビの国会中継を観たようだ。朝日新聞には「今日だけは惜しくなかった受信料」という川柳が載っていた。

 私はこのテレビ中継を観ていない。11時から21時前まで歌舞伎座の昼の部と夜の部を連続で観劇していた。仁左衛門の「大物浦」、海老蔵の「助六」などが目当てでそれなりに満足したが、籠池劇場のテレビ中継を見損ねたのは少々残念だ。

 と言っても、今回の森友学園問題にはハラハラ・ワクワクするスケール感がない。役者も事件もチャチに見える。かなりいいかげんな人物が経営する学園に首相夫妻が共感を表明し、そのことを忖度した財務官僚や大阪府が一丸となって小学校設立支援に動いた。しかし、国有地払下げ価格や学園経営者のいかがわしさが指摘され始めると、支援者たちが蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。そこに違法性があるか否かはわからないが、小さな人物たちのコメディであって巨悪の物語には見えない。

 そんな索漠とした思いを喚起させるのが、安倍晋三首相のルーツを描いた次の本だ。

 『安倍三代』(青木理/朝日新聞出版)

 安倍三代とは、安倍晋三、父の安倍晋太郎、祖父の安倍寛の三人であり、「第1部:寛、第2部:晋太郎、第3部:晋三」という構成になっている。安倍晋三と言えば母方の祖父・岸信介が有名だが、本書の「三代」に岸信介は含まれていない。それがミソだとも言える。

 私の世代(1948年生まれ)にとって安倍晋太郎は馴染み深い政治家だが、本書を読むまで安倍寛は知らなかった。1937年からの衆議院議員で、反戦・反東条の非翼賛会議員だったそうだ。地元(山口県日置村)で非常に敬愛され人望を集めた人物だったが、病弱で終戦後の1946年に早世している。
 
 安倍晋太郎は常々「オレは岸信介の女婿じゃない。安倍寛の息子なんだ」と語っていたそうだ。だが、安倍晋三が父方の祖父・安倍寛を語ることは少なく、岸信介の孫という意識が強い。安倍晋三が生まれた時、すでに安倍寛は他界していたのに対し、岸信介はあの1960年安保の頃から幼児の晋三を可愛がっていたのだから、必然的にそうなったのだろう。

 本書で私が一番面白く読めたのは「第2部:晋太郎」だ。新聞記者出身のこの政治家については通り一遍のことしか知らなかったが、本書でその生い立ちや内面に触れ、いろいろな屈折を抱えた興味深い人物に思えてきた。総理を目前に早世したのが惜しまれる政治家だったようだ。

 それに比べて三代目は・・・というのが本書の眼目だ。「売り家と唐様で書く三代目」とは多少異なるが、起業家的な一代目から三代を経ると人物も精神も劣化・空疎化し薄っぺらになり、無知と無恥がはびこるようだ。北朝鮮の金王朝とわが総理を比較するのは失礼の極みだろうが、似たような三代目の不気味さを感じる。

 本書の「第3部:晋三」は面白いというより、むしろ不気味だ。著者の青木理氏の次の述懐が印象深い。

 「悲しいまでに凡庸で、何の変哲もない。(…)正直言って「ノンフィクションの華」とされる人物評伝にふさわしい取材対象、題材ではまったくなかった。/しかし、それが同時に不気味さを感じさせもする。なぜこのような人物が為政者として政治の頂点に君臨し、戦後営々と積み重ねてきた“この国のかたち”を変えようとしているのか。これほど空疎で空虚な男が宰相となっている背景には、戦後70年を経たこの国の政治システムに大きな欠陥があるからではないのか。」

 薄っぺらい首相とスピリチャル・オカルトの首相夫人を巡る安手の籠池劇場を観劇するよりは、仁左衛門や海老蔵の大芝居を観ている方が楽しい・・・と言いたいが、そうもいかないだろう。

『ブラッドランド』で20世紀前半の「大量殺人」に暗然とする2017年03月15日

『ブラッドランド:ヒトラーとスターリン大虐殺の真実(上)(下)』(ティモシー・スナイダー/布施由紀子訳/筑摩書房)
 本日(2017年3月15日)投票のオランダ下院選挙では「イスラムはナチスより悪質」と主張する極右政党がどこまで伸びるか注目されている。選挙結果はまだわからないが、そんな日に、ヒトラーとスターリンの怖ろしさが伝わってくる次の本を読了した。

 『ブラッドランド:ヒトラーとスターリン大虐殺の真実(上)(下)』(ティモシー・スナイダー/布施由紀子訳/筑摩書房)

 ドイツとソ連に挟まれたポーランドとその周辺地域において、1933年から1945年の間に発生したヒトラーとスターリンによる「大量殺人」を描いた本である。現在のポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国にまたがるこの地域を著者はブラッドランド(流血地帯)と名付けている。

 この地域における大量殺人はドイツがポーランドに侵攻した第二次世界大戦勃発によって始まったのではない。ロシア革命の後、スターリンが権力の座につき、工業国家建設のためにウクライナの農地と農民を活用しようとしたときから始まったのである。それは人為的に飢餓を発生させる政策になり、ウクライナでは330万人の餓死者が出た。

 330万人という死者数は実感しにくいし、想像の範囲を超える。大量殺人という言葉でイメージできるのは数十人程度からせいぜい数百人までで、それを超えると個々の死の積み重ねを想像しにくくなる。新聞の死亡者リスト掲載も難しくなる。

 大災害になると犠牲者の規模は大きくなる。東日本大震災の死者は2万人弱、関東大震災の死者は10万人余りで、この数字でも途方に暮れる。戦争の犠牲者で見ても、広島原爆が約20万人、長崎原爆が約14万人。それと桁が違う330万人の餓死者はとんでもない数字である。石碑に名簿を刻むのも困難な数字だ。

 だが、330万人はブラッドランドにおける大量殺人のはじまりに過ぎず、その後1945年までの間に総計1,400万人が殺されたのだ。これは戦死を含まない数字で、人為的餓死、銃殺、ガス殺などの犠牲者の数だ。人間の文明がこれだけの数の人を殺したという事実に暗然とするしかない。

 著者が推計した1,400万人の内訳は以下の通りだ。

  ・ソ連の政策で餓死させられたウクライナにのソ連国民 330万人
  ・ソ連で政策的に処刑された70万人の内、西部のソ連国民 30万人
  ・独ソの軍隊に射殺されたポーランド国民(主に指導層) 20万人
  ・ドイツ占領下で餓死させられたソ連国民 420万人
  ・ドイツにガス殺または射殺されたユダヤ人 540万人
  ・ベラルーシ、ワルシャワでドイツに殺害された民間人 70万人

 その詳細は本書で詳しく語られている。ヒトラーが主にユダヤ人や敵国民を殺害しているのに対してスターリンは自国民も大量に殺害している。この地帯に住む人々の民族意識・政治信条・国籍はさまざまでアイデンティティも複雑だから、大量殺人の実相は多様だ。著者はこの大量殺人を「数」に還元するのではなく個々の人々の死であることを繰り返し強調している。

 ホロコーストと言えばアウシュヴィッツを連想するが、アウシュヴィッツは生き残った人々の証言が多いために有名になったのであり、ブラッドランドにおける大量殺人の一部に過ぎない。そのことをあらためて認識した。

 本書を読めば、ヒトラーもスターリンも悪魔的に怖い人物に思えてくるが、ほんの数十年前に発生した大量殺人の責任をこの二人だけに負わせるわけにはいかない。人類は犠牲者ではなく加害者だとの視点が必要だ。歴史から学ぶべきことは多い。

『台湾海峡一九四九』は読み応えのある歴史ルポ2017年03月08日

 『台湾海峡一九四九』(龍應台/天野健太郎訳/白水社)
 最近、私的に台湾への関心が高まり、関連本を何冊か立て続けに読み、『非情城市』『湾生回家』などの映画も観た。先月末の2月28日は白色テロ二・二八事件から70周年の節目で新聞でも関連記事が掲載されていて、興味深く読んだ。

 そんなマイブームの中で読んだ『台湾海峡一九四九』(龍應台/天野健太郎訳/白水社)は読み応えがあった。タイトルを見るとハードボイルド小説にも見えるが、台湾と中国の現代史を扱ったルポルタージュだ。原題は『大江大海一九四九』、2009年に発行され台湾と香港で大ベストセラーになり、中国では禁書扱いだが海賊版が売れているそうだ。私は、そんなことを最近まで知らなかった。

 著者は1952年生まれの女性作家・評論家で、台湾の文化省の初代大臣、夫はドイツ人で息子はドイツで暮らしているそうだ。19歳になるその息子から「家族の歴史を知りたい」と言われたのをきっかけに執筆したのが『台湾海峡一九四九』だ。

 1949年とは蒋介石の国民党が台湾に撤退した年であり、中華人民共和国ができた年でもある。著者はこの年に焦点を当て、1945年の日本敗戦から国共内戦を経て1949年に至る歴史変動に翻弄されたさまざまな人の物語をレポートしている。

 私より4歳若い1952年生まれの著者が1949年を体験しているわけではないので、自分の親も含めた多くの年長者への取材や記録をベースにいろいろな物語を紡ぎだしている。著者の家族の話ではなく、台湾と中国の地に生きた多様な人々の歴史物語になっている。

 本書で私が初めて知った歴史事象も多い。日中戦争さなかの学生の大規模な集団疎開の話には驚いた。教師に引率された学生たちは広大な大陸を集団で放浪しながら時に勉強するという生活を続け、その中で多くの学生や教師の命が失われていくのだ。また、国共内戦における長春包囲戦の凄惨さにも驚く。中国で禁書扱いになっている理由も分かる。

 著者は台湾の外省人だ。国共内戦の敗者でありながら台湾の支配層となった人々の末裔である。そのせいか、視点が複眼的で柔軟だ。日本敗戦のとき、台湾の人々は自分たちが勝者なのか敗者なのか判然としなかった、つまり、世代によって感じ方が違っていたという話も面白い。

 そもそも、歴史事象には勝者と敗者を容易には判定できないケースも多そうだ。視座によって見え方が違ってくることもある。そう思うと同時に、本書を読みながら勝者と敗者のパラドックスのようなものも感じた。勝者の歴史認識は硬直化し貧困になり、敗者の歴史認識は柔軟になり豊かになるように思える。