テント芝居のエネルギーを継ぐ劇団唐組2026年03月02日

 一昨日(2026年2月28日)、BS12で「カリスマ亡きあとの僕たちは ~劇団唐組・テント芝居の日々~」という番組が放映された。録画予約し、追っかけ再生で視聴した。その後、もう一度観た。

 唐十郎が亡くなったのは2年前の2024年5月4日だ。私はその翌々日、花園神社境内で劇団唐組の『泥人魚』を観た。上演後のテントに流れた往年の唐十郎の歌声が胸に沁みた。

 この番組は、唐十郎が亡くなった後の劇団唐組の現況レポートである。昨年上演した『盲導犬』の稽古から本番までの取材がベースだ。

 半世紀以上昔(1960年代末~70年代)状況劇場ファンだった私は、番組を観ながら時の流れの脈動を感じた。想起したのは19年前の映画『シアトリカル:唐十郎と劇団唐組の記録』だ。唐十郎率いる劇団唐組を描いた大島新監督の虚実皮膜ドキュメンタリー映画である。今回の番組も『シアトリカル』のシーンを何か所か挿入していた。

 あの映画で、唐十郎が状況劇場解散後の1989年に立ち上げた劇団唐組を知り、テント芝居が世代交代している姿に感慨をおぼえた。

 私が劇団唐組の芝居を初めて観たのは映画を観て10年以上経った2018年の『吸血姫』である。かなり後期だ。それ以降、劇団唐組の芝居を観るようになり、稲荷卓央、藤井由紀という看板俳優を認識した。この二人は『シアトリカル』に出ていた筈だと思い出し、映画のDVDを購入した。

 十数年ぶりに観た『シアトリカル』で、若き稲荷卓央、藤井由紀らが唐十郎にシゴかれつつ役作りをしている姿を確認し、劇団員という特異な集団によって形作られるテント芝居のエネルギーにあらためて惹かれた。状況劇場という奇蹟的な怪優集団が消滅しても、新たな若手を育成しながら自身の芝居宇宙を紡ぎ続ける唐十郎に感服した。

 今回の番組で『シアトリカル』で抱いた感慨に似た世代交代の再生産を感じた。だが、状況は大きく異なっている。唐十郎の不在である。唐十郎が残した膨大な戯曲を上演する劇団唐組が今後どのように展開するかは不明だ。ヴェテランの稲荷卓央、藤井由紀らに続く中堅役者の層が薄く、客演頼りの上演が多いそうだ。だが、若い入団希望者は少なくない。

 劇団唐組を率いる久保井研は番組のラスト近くで次のように述懐している。

 「いま、闘ったことのない人ばかりで作っている何か不思議な芝居作りの現場になっています。物語の力を借りて、闘うってことを感じながらいけると、いまの人たちにもいいんじゃないですかね。」

 「物語の力」とは戯曲の読み解きのことだと思う。唐十郎亡き後、テント芝居というエネルギーを再生産させながら持続してほしいと思う。それは、新たな古典への道かもしれない。

南米に逃亡したナチスの医師メンゲレを描いた小説2026年03月04日

『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』(オリヴィエ・ゲーズ/高橋啓訳/創元ライブラリ/東京創元社)
 『死の天使 ヨーゼフ・メンゲレ』という映画が先週公開された。映画公開に合わせて原作単行本が文庫になった。映画を観たいと思っているが、その前に新刊文庫を購入して読んだ。

 『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』(オリヴィエ・ゲーズ/高橋啓訳/創元ライブラリ/東京創元社)

 ヨーゼフ・メンゲレはアウシュヴィッツで残虐な人体実験を行った医師である。ナチス親衛隊の大尉だった。戦後、南米に逃亡し、西ドイツやモサドなどの探索から逃れ続ける。1979年、ブラジルで海水浴中に脳卒中で溺死。67歳だった。

 メンゲレの逃亡生活を描いた本書は事実をベースにした小説である。本書のどこまでがノンフクションで、どこからが作者の想像なのか、私に判断はできない。事実関係の大半はノンフィクションに思えるが、メンゲレの心理や感情に立ち入って描写は創作だろう。

 本書にはアイヒマンも登場する。メンゲレは南米でアイヒマンと接触している。アイヒマンはモサドに拘束されるが、メンゲレは逃げおおせる。小心で用心深かったからである。

 本書の肝は、メンゲレの小心な卑小さと傲慢な無反省という二点の描出にある。それが人間の本性の典型のようにも感じられるのが怖い。

 親衛隊大尉の医師はさほど大物とは言えないが、アウシュヴィッツ生還者の証言などから悪魔性が伝わり、逃亡を続ける身になる。本書が描くメンゲレは、人類学・優生学者としての自身の行動を肯定し、何の後悔もしていない。追われる身になった不運を自身で憐れんでいるだけである。

 本書によって、戦後の南米に存在した旧ナチス擁護・支援ネットワークの一端を知ることができた。また、メンゲレの実家が小財閥とも言える実業家で、メンゲレの逃亡資金などを援助していたことも知った。

 この文庫版には「訳者あとがき(2018年9月)」の他に「独仏の人間観ギャップを超える傑作セミドキュメンタリー小説!(2026年1月)」と題する解説が載っている。この文章がとても面白い。

 この小説の作者はフランス人、描写対象はドイツ人である。その微妙なギャップを「ドイツ的」という視点で論じている。本書と同様にフランス人作家がナチスのドイツ人を描いて映画化された『HHhH』(映画は『ナチス第三の男』)やハンガリー系ドイツ移民2世が書いた『帰ってきたヒトラー』を比較対象に取り上げているのが興味深い。また、ハンナ・アーレントの言う「悪の凡庸さ」の意味の解説も勉強になった。

 解説の筆者はマライ・メントライン。私には未知な人なのでネットで調べた。1983年ドイツ生まれ、日本在住の翻訳家・エッセイストで、『テレビでドイツ語』のキャスターも務めた女性である。「職業はドイツ人」と自称しているそうだ。

歴史学と歴史小説のちがいから「史観」へ2026年03月06日

『歴史小説のウソ』(佐藤賢一/ちくまプライマリー新書/筑摩書房)
 佐藤賢一氏の『カペー朝』『ヴァロア朝』を読み、この作家への関心が高まり、昨年末に出た次の新書を読んだ。

『歴史小説のウソ』(佐藤賢一/ちくまプライマリー新書/筑摩書房)

 著者は西洋史研究者から歴史作家へ転身した人である。本書の「はじめに」では、小説を書き始めた経緯から大学院へ退学届けを出すまでの自身の体験を語っている。

 15世紀フランス史研究の合間に小説を書いた著者は、小説と論文の両方を書き続けるのは難しいと気づき、どちらを選ぶか悩む。小説を選んで大学院を退学、その翌年に『王妃の離婚』で直木賞を受賞する。

 そんな体験をふまえて歴史小説と歴史学のちがいを解説しているので臨場感がある。記述が具体的でわかりやすい。

 人間を書くのが歴史小説、時代を書くのが歴史学、どちらも過去の事実=ファクトを押させている。そのうえで、ファクトから人間の真実=トゥルースを引き出すのが歴史小説、時代の真実=トゥルースを引き出すのが歴史学――それが著者の見解だ。

 本書で面白いと思ったのは、歴史小説家は現地取材に熱心だが、インドア作業の文書学である歴史学の研究者にとって現地取材は必ずしも重要でないという指摘だ。両者の心構えのちがいの一端を覗えた気がする。

 歴史小説はSF(サイエンス・フィクション)との指摘には驚いた。著者は歴史学をサイエンスと捉えている。歴史学という文系の科学を土台にしたフィクションだから歴史小説はSFなのだ。ナルホドと思わされてしまう。

 本書の最終章は史観に関する議論である。とても興味深い話題だ。結論はやや常識的だが、そうなるしかないかなとも思える。

 著者は、俗に言う「司馬史観」を話題にしたうえで、「ジャコバン史観」「唯物史観」「アーリア史観」「皇国史観」などをイデオロギー史観としてしりぞける。そして、史観を打ち出すという行為は主観的なものだから、歴史学というサイエンスの役割ではないと結論する。

 史観が不要なわけではない。歴史小説は史観を語ることができる。だが、歴史小説や歴史書に接するそれぞれの個人こそが、自分が生きている時代を評価したうえで歴史(過去)との比較検討をふまえて、自分の史観をもたねばならない――それが著者の主張である。

『<木挽町>のあだ討ち』は面白かった2026年03月10日

『木挽町のあだ討ち』(永井紗耶子/新潮文庫)
 2023年に山本周五郎賞と直木賞をW受賞した『木挽町のあだ討ち』が映画化され、話題になっている。映画評を読んで原作を読みたくなった。

 『木挽町のあだ討ち』(永井紗耶子/新潮文庫)

 江戸時代のあだ討ちの物語である。登場人物の大半は架空の人物で、戯作者の篠田金治だけは実在の人物をモデルに脚色しているようだ。先日、『歴史小説のウソ』を読んだばかりなので、歴史小説の実例をニヤニヤしながら検証している気分になった。よくできたエンタメである。面白かった。

 この小説にはミステリーの要素があり、以下はネタバレの読後感になる。

 あだ討ちの2年後、若い武士があだ討ちの目撃者たちを訪ねて、2年前の事件の目撃談を聞いて回るという趣向の小説である。ミステリーとしては半ばあたりで仕掛けが見えてくるが、面白さは減衰しない。5人の興味深い「歌舞いた」人物たちの語りという構成に引き込まれる。この世は舞台、人はみな役者という趣がいい。

 この小説のタイトルを聞いたとき、実在の事件を題材にしているのかと思い「木挽町であだ討ちがあったかなあ」と思った。現在、木挽町はないが、歌舞伎座のあたりが江戸時代には木挽町と呼ばれていた。私は、歌舞伎座のある東銀座周辺には多少の土地勘がある。若い頃には彼の地の「こびき」とい小料理屋によく行き、店名の由来から木挽町を知ったのだ。

 「木挽町であだ討ちがあったかなあ」と思ったとき、思考がその先に進まなかったのはウカツだった。己れの凡庸を自覚する。現在の歌舞伎座があったあたりに、江戸時代には森田座という芝居小屋があった。あだ討ちは、森田座の前で実施される。だから「木挽町のあだ討ち」なのである。なぜそんな場所でと考えれば、タイトルから物語の仕掛けを推測できてもよかったのに――そう思ったのは読了後である。

67年ぶりに『さいごの授業』を再読した2026年03月12日

 ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をチビチビと再読している。すでに終盤、11世紀の十字軍のあたりだ。そこで気になる表現に出会った。民衆十字軍の6万人の大衆が「フランスとロレーヌの国境」から集まってきたとある。

 ロレーヌと言えば「アルザス=ロレーヌ」、独仏の葛藤の場だ。現在はフランス領だが、ギボンが生きた18世紀はドイツ領だったのかと思って調べた。18世紀もフランス領だった。十字軍の頃は神聖ローマ帝国(ドイツ)の一部だったので、ギボンの言う「国境」は11世紀の話だろう。ギボンの頭の中には、ロレーヌはフランスではないという意識があったのでは、と思わなくもない。

 あらためて、歴史概説書やネット情報でアルザス=ロレーヌの歴史を調べ、独仏の間で領有が目まぐるしく変わってきたさまを再認識した。

 この地は、もともとドイツ系住民の地で、アルザス語はドイツ語の方言である。17世紀半ばまでは神聖ローマ帝国の傘下だったが、三十年戦争で神聖ローマ帝国が敗北し、フランス領になる(1648年)。それから、第二次世界大戦で自由フランスがナチス・ドイツからこの地を奪還(1944年)するまでの約300年の間、領有は何度も入れ替わる。

 アルザスと言えばドーデの『最後の授業』を想起する。普仏戦争でフランスが敗北、アルザスとロレーヌの東半分がプロイセン領となる(1871年)。そのときの「悲劇」をフランス視点で描いた短編である。かつて読んだ『世界史との対話』(小川幸司)がこの小説を論じていた。

 『最後の授業』は、祖国愛や国語愛うたった作品として日本の国語教科書にも採用された。だが近年、この作品の虚構性とイデオロギー性が指摘され、教科書から姿を消した。

 私は小学生のとき、講談社の『少年少女世界文学全集』で読んだ。それ以来読んでいないが、内容のあらましと印象は残っている。この大昔の全集は、いまも納戸の奥に積んである。それを引っ張り出して再読した。1959年刊行だから、小学5年のときに読んだのだと思う。67年ぶりの再読である。

 タイトルは仮名で『さいごの授業』だった。子供向けのリライト版か否かは不明だ。アメル先生が黒板に「フランス ばんざい」!」と書いて泣いている挿絵を見て、なつかしさが甦った。記憶に残る情景の挿絵だ。

 小学生だった私が何を思ったのかは定かでない。勉強をサボっていると後悔するぞという教訓めいたイヤな話だと感じた気がする。学校を追われるアメル先生を可哀そうに思ったのは確かだ。プロシアという聞きなれない国への悪感情を植え付けられたかもしれない。

 この小説の問題点を認識してから再読し、おかしな点を確認できた。フランス語の最後の授業に際して「ぼくは、まだろくに書くこともできなかったのだ」とあり、小学生の私は、主人公はずいぶんサボってたのだと思った。教室の奥のベンチで大人たちが受講している姿に、この大人たちは文盲だったのかと感じた気がする。彼らの母語がアルザス語(ドイツ語の方言)であり、フランス語がエリートのための公用語だったとは、小学生の私はまったく知らなかった。

 アメル先生は、アルザス語を母語とするアルザス人に対し、フランス語を「国語」として押しつける立場にあったのだ。この作品からは見えてこない背景である。

 『最後の授業』批判の根底には、国民を構成する要素は言語や人種だというドイツ的な考え方があるそうだ。それに対してフランスでは、国民の観念を「国家がかかげる基本原理を共有しようとする意志」に求める考え方が有力だそうだ(谷川稔『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』より)。『世界史との対話』における小川幸司氏の『最後の授業』評価はフランス的な考えに近い。

 第一次世界大戦でドイツが敗北したとき、この地は『アルザス=ロレーヌ共和国』として独立を宣言した。だが、独立を認めないフランスに占領され、10日足らずで共和国は消滅した。この地に住む人々には、ドイツでもフランスでもない独自の存在だとの意識があるようだ。

 『最後の授業』の舞台はアルザスだが、ロレーヌはアルザスと同じような情況だったのだろうか。私にはよくわからない。国語や民族、「国民国家」をどう捉えるか、わかりにくいことばかりである。わかりにくいからこそ、探究しなければならないのだが。

『鹿鳴館異聞』はハイカラ結婚のてんまつ譚2026年03月14日

 東京芸術劇場シアターウエストで名取事務所公演『鹿鳴館異聞』(作:堤春恵、演出:扇田拓也、出演:松本紀保、千賀功嗣、平体まひろ、他)を観た。森有礼と前妻・常をめぐるミステリー仕立ての面白い舞台だった。

 初代文部大臣・森有礼は、英国や米国への留学経験があり、英国公使も務めた政治家・外交官である。帝国憲法発布の日に国粋主義者に刺され、翌日死去した。一夫一婦制と夫婦対等を主張する啓蒙思想家でもあり、幕臣の娘広瀬常との結婚に際して、福澤諭吉を証人とした婚姻契約書に双方が署名し、契約結婚のはしりと言われた。

 『朝日新聞100年の記事にみる結婚と恋愛』という本には「当時の新聞ではハイカラ結婚として報じられた。明治19年11月夫人の素行上のことで双方納得の上、離婚、森は翌年6月岩倉右大臣の娘寛子を夫人に迎える。」とある。

 この芝居の舞台は、築地の外国人居留地に建つ洋館の一室である。この館には森有礼と離婚した常が看護婦と共に暮らしている。帝国憲法発布の前夜、森有礼がこの館を訪ねる場面から物語が始まる。

 森有礼が去った後、男爵夫妻を名乗る二人が訪ねて来る。この夫妻とやり取りをしているうちに、森有礼が引き返してきて、話はどんどんエスカレートしていく。

 森有礼と常の離婚に際して何があったのかが明らかになっていくなかで、日本の「文明開化」をめぐる悲喜劇も浮かび上がってくる。

 この芝居が面白いのは、歌舞伎役者や曲芸師がからんでくる所だ。訪ねてきた男爵夫妻は、実は新聞記者と歌舞伎の女形役者の変装であり、常の面倒をみている看護婦は、実は明治初期に欧州興行をした曲芸師である。実ハ、実ハの展開に引き込まれた。

『国語事件殺人辞典』は熱気が伝わってくる芝居2026年03月16日

 紀伊國屋サザンシアターでこまつ座公演『国語事件殺人辞典』(作:井上ひさし/演出:大河内直子/出演:筧利夫、諏訪珠理、他)を観た。

 1982年、小沢昭一の劇団・しゃぼん玉座の旗揚げ公演のために井上ひさし書いた作品である。1982年の初演以降上演がなく、44年ぶりの上演だそうだ。観劇前に戯曲を読みたいと思ったが入手できなかった。

 全2幕、上演時間2時間30分(休憩時間除く)の迫力ある舞台だった。言葉をテーマにした芝居で、1幕と2幕で趣が転換するのが面白い。

 主人公・花見万太郎(筧利夫)は無名の国語学者である。正しくて美しい日本語にこだわって独力で国語辞典の原稿を書き上げている。6万枚のカードから成る6万語の辞典原稿はトランク(鞄)に詰まっている。そのトランクを抱えて万太郎に付き従っているのは弟子の山田青年(諏訪珠理)である。

 チラシに「井上ひさし版ドン・キホーテ」とあるように一種の遍歴譚である。万太郎と山田青年は、国語辞典の出版に関わる大物国語学者や出版社の策謀・欺瞞から逃れて、言葉のアレコレをめぐる遍歴を始める。言葉や国語辞典へのこだわりが強い井上ひさしらしい着眼点だと思った。

 言葉に取り憑かれた人間を主人公にした言葉氾濫蘊蓄コメディーかと思いながら1幕目を観ていたが、2幕目になると管理社会や抑圧者を糾弾するメッセージ性の強い芝居へと展開して行った。

 2幕目に言葉を預かる質屋が登場する。質草になるのは否定語である。生活に窮して否定語を預けて金に替えると、「いいえ」や「ノー」と言えなくなる。お伽話のような設定が不気味な世界に転回し、芝居の熱量が上がる。44年前の熱気がよみがえってくるような気がした。

世界史をサカナの対談本を読んだ2026年03月18日

『世界史のミカタ』(井上章一・佐藤賢一/祥伝社新書/2019.11)
 ネット検索で井上章一氏と佐藤賢一氏の対談新書を見つけた。2年前に読んだ井上章一氏の『日本に古代はあったのか』はとても面白かった。佐藤賢一氏の著作は『歴史小説のウソ』を読んだばかりだ。この二人の対談なら面白そうだと思い、古書を入手した。

 『世界史のミカタ』(井上章一・佐藤賢一/祥伝社新書/2019.11)

 7年前に出た本である。世界史の見方に関する対談のテーマは多岐にわたるが、「世界史を作ったのは遊牧民」という話題が柱に思える。私はこの「見方」にすでに何度も接しているので、それを再確認する気分で読み進めた。

 井上氏の「おわりに――中央アジアから物を言う」で、井上氏の関心領域が私のささやかな関心領域に重なる部分が多いと確認でき、少し嬉しくなった。梅棹忠夫の『文明の生態史観』に圧倒的感銘を受けた井上氏は、それにあおられて、後藤明杉山正明林俊雄森安孝夫らの本によく目を通すそうだ。私もその一部を読んでいるが、内容の記憶はあやふやだ。彼らの著作をあらためて読み返したたくなった。

 フランス革命と明治維新が似ているという指摘に、ナルホドと思った。日本で「朝廷」という古めかしい権威を引っ張り出してきたのと、フランスで「三部会」という中世の仕組みを引っ張り出してきたのが似ているとの議論には驚いた。そんな見方があるのかと感心した。

 日露戦争は英国がしかけたという見方や、英仏にとって第一次大戦のインパクトが非常に大きかったとの見方も興味深い。英仏の第一次大戦の死者数は第二次大戦の死者数よりはるかに多かったと、本書で初めて知った。日本は第一次大戦で被害がなかった。それが、後の判断の誤まりの一因かもしれない。

 本書はロシアのウクライナ侵攻やコロナ禍以前の対談である。最終章「国民国家の次に来るもの」は決して楽観的ではないが、現在の視点で読み返すと、やや気楽な見通しに見えたりもする。この7年で世界はずいぶん変わったように思える。