荒唐無稽な終末論を説く福音派が政治勢力に…2026年05月01日

『福音派:終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(加藤善之/中公新書/2025.9)
 いまのトランプ政権は福音派に支えられていると聞くことがある。中絶に反対し、進化論を否定する特異なキリスト教原理主義の一派とのイメージがあるが、福音派については何も知らない。で、次の新書を読んだ。

 『福音派:終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(加藤善之/中公新書/2025.9)

 本書を読み終えても福音派がわかった気がしない。その複雑さと危うさはわかったが、実態は捉え難い。福音派という一つの宗派があるわけではなく、プロテスタント系の各宗派を超えて存在する宗教集団であり、運動であり、強力な政治的勢力だそうだ。政治的勢力として台頭してきたのは1970年代後半からで、現在は米国の人口の25パーセントが福音派だという。米国人の四分の一が福音派とは驚きだ。

 本書には、私の知らない多数の宗教家(牧師など)が頻出し、彼らの主張は多様だ。人種隔離政策への賛成も反対もいるし、反カトリックが基本なのに親カトリックもいる。福音派右派、福音派左派という言葉もあるらしい。驚いたことに、福音派が注目を集めた契機は民主党のカーター大統領の「ボーン・アゲイン」という告白だそうだ。

 福音派と言えば保守派で共和党支持と思っていたが、そう単純ではない。共和党も民主党もベースにキリスト教がある。団塊世代の民主党大統領クリントンのスピーチは聖書の引用に満ちていて、ブッシュよりも頻繁に「キリスト」という言葉を発したそうだ。

 宗教に無縁な私にはわかりかねるが、米国人にとってのキリスト教は私がイメージする「倫理」のようなものだろうかとも思う。しかし、「倫理」が政治勢力になると、抑圧的なおかしな社会になる可能性が高い。困ったことだ。巨大な会場やテレビ放送による伝道のさまは大衆を動員したナチスの集会の姿に重なる。

 福音派は荒唐無稽な終末論を信じているらしい。この世が滅亡に向かっているという単なる終末論なら、ひとつの考え方として理解できる。だが、「救われる人」と「救われない人」を峻別する終末論は荒唐無稽であり、はた迷惑だ。そんな迷惑な考えを信じている人が影響力を発揮する社会が住みやすいとは言えない。本書は、福音派の活動によって米国社会の分断や分極化が深まっていると警鐘を鳴らしている。

 人類の歴史を心性の歴史として捉えるのは興味深いが、心性とは理性や知性によって捉えるものだと思う。肥大した心性の独走は怖い。理性や知性が心性にかなわない場面があるとしても、それが永続するだろうか。心性の基盤には理性や知性があると思いたいが…。

『国盗り物語』は斎藤道三と二人の分身の物語2026年05月05日

『国盗り物語(1)(2)(3)(4)』(司馬遼太郎/新潮文庫)
 司馬遼太郎の長編はかなり読んだ気がするが未読作品も多い。私は戦国モノより幕末維新モノが好みで、代表作『国盗り物語』も読んでいなかった。ふとした気まぐれで『国盗り物語』を古書で入手し、やや厚い文庫本全4冊を4日で読了した。やはり、司馬遼太郎の小説は読みやすくて面白い。

 『国盗り物語(1)(2)(3)(4)』(司馬遼太郎/新潮文庫)

 この長編、前半2冊は「斎藤道三編」、後半2冊は「織田信長編」となっている。信長は道三の娘婿なので戦国二代記かなと思ったが、3冊目の半ばまで道三は存命で、後半の主人公は信長ではなく明智光秀だった。本能寺の変と光秀の最期までを描いている。

 著者の「あとがき」によれば、雑誌連載の際に斎藤道三のみを書くつもりで題を『国盗り物語』とし、編集部から「もっと書け」と言われ、道三の娘婿である織田信長まで書き進めたそうだ。これを読んで得心した。『国盗り物語』は道三の物語であり、道三の死後、道三が自身の後継者と見なしていた二人の若者(信長と光秀)が道三の分身として活躍して相果てる物語である。道三の生涯と見果てぬ夢のてんまつを描いた道三の壮大夢幻な一代記とも言える。

 この小説、前半が面白い。寺をとびだして還俗した乞食坊主・庄九郎(後の道三)が「国主」になりたいとの大望をいだいて成り上がっていく権謀術数のサクセス・ストーリーである。庄九郎は国盗りの足がかりとして、まず、京都の大店である油屋の婿におさまる。油屋の亭主として商売を拡張させながら、その財力を活用して美濃の国(岐阜)の乗っ取りを企て、実現させてしまう。

 シュリーマンを連想させる話だ。だが、油屋の次に国主になるのではなく、油屋と並行の二重生活で成り上がっていくのである。どこまで史実をベースにしているのか知らないが、スーパーマン庄九郎を描いた面白いストーリーである。時たま美濃から京都に戻って油屋の亭主になった際、庄九郎は油屋の女房に「いずれ将軍として京に戻る」と語る。だが、美濃の国主になったとき「美濃取りに時間がかかり過ぎた。将軍として京に戻るのは難しそうだ」と嘆く。道三が期待をかけた次世代が、姻戚の優秀な若者・明智光秀と娘(濃姫)婿の織田信長である。光秀は濃姫のイトコにあたる。

 当初、道三は娘の婿を光秀と考えており、光秀も密かにそれを期待していた。しかし、織田家から縁談話が来たとき、道三は政治的判断でその縁談を受ける。史実か否かは知らないが、よくできた光秀・信長の因縁の端緒だ。

 司馬遼太郎の小説はエッセイ風の語りが随所に織り込まれる。道三とほぼ同時代のマキャベリの言説で道三を解説するのが面白い。油の原料が荏胡麻(えごま)から菜種へと技術革新していくさまで時代の変転を語っているのも興味深い。

半世紀ぶりに「手鎖心中」再読2026年05月07日

『手鎖心中』(井上ひさし/文春文庫)
 先月、歌舞伎座で観た勘九郎の『浮かれ心中』の原作は井上ひさしの『手鎖心中』である。この小説が直木賞を受賞したとき(1972年)、私は雑誌で読んでいるが手元にはない。半世紀以上昔なので内容もウロ憶えだ。で、文庫本を入手して再読した。

 『手鎖心中』(井上ひさし/文春文庫)

 この文庫本は「手鎖心中」と「江戸の夕立」の2編を収録している。後者は初読だ。解説が中村勘三郎なのがうれしい。彼が勘三郎を襲名したのが2005年、没したのが2012年だから、その間に出た文庫本だと思う。オビは昨年の大河ドラマだ。蔦重の余禄が「手鎖心中」にも及んだのだろう。

 『浮かれ心中』を観たとき、どこまでが原作通りでどこからが脚色か判断できなかった。原作を再読し、『浮かれ心中』は思った以上に原作に忠実だと確認した。だが、芝居のラストの「宙乗り」は、もちろん原作にはない。ねずみに乗ったチュウ乗りで昇天する栄次郎のラストシーンは勘三郎の発案だそうだ。

 「江戸の夕立」も面白かった。江戸の裕福な商家の道楽者の若旦那が登場するのは「手鎖心中」に似ている。芸達者な幇間(たいこもち)と若旦那の珍妙でやや哀れな東北遍歴譚である。京や江戸から遠く離れた東北遍歴なのが井上ひさし風だ。艱難辛苦の末に江戸に辿り着けば、いつの間にか江戸は東京に変わっていたというラストがいい。筒井康隆の「ジャズ大名」を想起した。作風はまったく異なるが。

 調べてみると「手鎖心中」の直木賞受賞(1972年上期)は網淵謙錠「斬」と同時受賞で、このとき落選した候補作の一つが筒井康隆「家族八景」だった。井上ひさしは初めての候補、筒井康隆は3回目の候補だった。以前に読んだ『それぞれの芥川賞直木賞』(豊田健次)で、この賞の勧進元・文藝春秋の豊田健次は次のように書いていた。

 「井上ひさしさんの「手鎖心中」。私たち編集部(別冊文藝春秋)としては、お披露目というか、この作品で井上ひさしという存在を委員に印象づけ、二作目で直木賞という算段を立てていたのですが、みごと第一作で受賞されました。しかし、たいていは二作、三作目。」

 遠い昔の話である。

花園神社で唐十郎の『黒いチューリップ』を観た2026年05月09日

 新宿花園神社境内の紫テントで新宿梁山泊公演『黒いチューリプ』(作:唐十郎、演出:金守珍、出演:水嶋カンナ、荒澤守、二條正士、鴨鈴女、他)を観た。

 1983年に唐十郎が蜷川幸雄に書き下ろした芝居で、初演は西部劇場(パルコ劇場の前身)、李礼仙や柄本明が出演したそうだ。今回の演出の金守珍は蜷川幸雄と唐十郎の二人を師匠とする演劇人である。公演パンフレットには、初演時のチラシ・チケット・舞台写真などが載っている。当然ながら李礼仙も柄本明も若い。

 私は今回が初見で、戯曲も未読だ。デュマに『黒いチューリプ』という小説があり、芝居のなかでデュマに言及しているが、その小説も私は読んでいない。

 この芝居では、おかしな姉妹が栽培している「黒いチューリップ」という存在しえない花に、パチンコ台のチューリップを重ねている。パチプロと姉妹が絡んだ哀切で不思議な世界が展開する。チューリップ→パチンコの連想に共感した。

 唐十郎は「刑務所志願の女」という新聞記事からこの芝居を発想し、その女を乗せたタクシー運転手にも取材したそうだ。そんな現実世界で得た素材は妄想世界に溶解し、怪異な別世界を紡ぎ出す建材に変換されている。

 幕開きで怪しげな天魔が「時はゆくゆく 乙女は婆アに…」と歌いながら登場する。『少女仮面』冒頭の「老婆の歌」だ。あの歌に続く印象的な台詞「…錬肉術は誰にしよう」「何よりも、肉体を!」も語る。また、中盤では『ジョン・シルバー』の「74人で船出をしたが、帰ってきたのはただ一人」の歌も飛び出す。戯曲を読んでいないので、戯曲に組み込まれているのか演出の工夫なのかはわからない。テント内に唐十郎世界が立ち上がってくる楽しい仕掛けだ。オールド・ファンは感激。

 一粒300メートルのグリコの看板を背負った狂言回しの「少年グリコ」が昭和の懐かしさを体現している。この芝居は『ロミオとジュリエット』を借用したシーンもあり、「小田島雄志訳」を持ち上げる台詞もある。1983年当時の空気を感じるが、21世紀の上演なら唐十郎ファンの松岡和子訳への挨拶があってもいいのではと思った。

 ラストの屋台崩しは、端正で壮大なチューリップ畑が広がる。屋台崩しの先にまた舞台がある感じに意外性があり、こんな仕掛けもいいなと思った。初演の西部劇場でも、蜷川幸雄は屋台崩しもどきの工夫をしたのかもしれない。

『十字軍という聖戦』はやや学術的な概説書2026年05月11日

『十字軍という聖戦:キリスト教世界の解放のための戦い』(八塚春児/NHKブックス/2008.2)
 十字軍に関する次の本を古書で入手して読んだ。

 『十字軍という聖戦:キリスト教世界の解放のための戦い』(八塚春児/NHKブックス/2008.2)

 著者は1951年生まれの西洋中世史研究者、18年前に出たNHKブックスである。一般向け概説書のつもりで読み始めたが、少し勝手が違う。十字軍研究の歴史や史料批判などから始まり、大学の講義のようでもある。十字軍に関する一応の知識がある読者を想定していると思える。

 本書の「はじめに」では、少年十字軍がどのように語られてきたかを話題にしている。少年十字軍が奴隷商人に騙されてエジプトに売られたという話は虚構らしい。著者は、史料で確認できることと伝説との峻別を説き、1960年代に出た中公版『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』(堀米庸三)の少年十字軍に関する記述を「一般的な伝説を無批判に踏襲するだけ」と批判している。

 大学講義風は冒頭の3章「第1回十字軍の招集」「教皇の意図」「十字軍思想の形成」までで、それ以降は解説風で読みやすい。

 著者が冒頭で史料批判に基づいて論じているのは、クレルモン会議で教皇ウルバヌスは何を語ったか、会議でのウルバヌス演説にどれほどの影響力があったか、ウルバヌスはエルサレム解放を意図していたか、教皇特使アデマールの実際の役割はどの程度だったか……などなどである。一般読者の私から見れば些細な議論にも感じられるが、研究者の関心のありようが窺えて興味深い。

 本書は、現代の研究者たちが従来の見解とは異なる見方をしている事例をいろいろ紹介している。民衆十字軍のユダヤ人迫害の背景解説は、先日読んだ『ユダヤ人の歴史』に重なり、ナルホドと思った。十字軍は回を重ねるごとに本来の姿から逸脱していったという見方の誤りなども得心できた。

 交渉によってエルサレムを無血奪回したフリードリヒ2世については「寛容と平和主義の精神による紛争解決の例として高く評価する論者も多い。しかし、実際はあまり過大に評価すべきではない」とし、その論拠をいくつか挙げている。フリードリヒ2世ファンの私としては少々残念だが、史料批判に基づく研究者の見解には重みがある。

團十郎の助六と辰之助の牛若丸を観た2026年05月13日

 歌舞伎座で「團菊祭五月大歌舞伎」の夜の部を観た。演目は以下の二つだ。

 《夜の部》
  鬼一法眼三略巻 菊畑
  助六由縁江戸桜

 團十郎の助六が目当てである。「歌舞伎と言えば團十郎の助六」のイメージがある。まだ、團十郎の助六を観たことがないと思い至り、歌舞伎座に足を運んだ。

 私は9年前、團十郎が海老蔵だったときに彼の助六を観ている。それが、助六初観劇だった。8年前には仁左衛門の助六も観た。いずれの舞台も記憶の彼方で、あまり憶えていない。だから、今回は新鮮な気持ちで観劇できた。

 「助六由縁江戸桜」は上演時間約2時間と比較的長いが、入り組んだストーリー展開はない。揚巻たちの華やかな花魁道中、助六の伊達男ぶり、ユーモラスな股くぐりなど「見せ場」の連続を愉しむ舞台である。やはり、歌舞伎らしい歌舞伎だ。

 開幕早々、新之助(13歳)が裃姿で堂々と口上を語る。子供はアッと言う間に大きくなっていくのだなあと、老人らしい凡庸な感慨をおぼえた。

 人間国宝の梅玉のコミカルな演技(白酒売)に、この人はこんな演技もするのかと感心した。先代の團十郎のときから同じ役を演じているそうだ。

 「鬼一法眼三略巻 菊畑」は初めて観る演目である。この芝居は「三代目尾上辰之助襲名披露狂言」と銘打っている。義経(牛若丸)が虎蔵という若者に身をやつしていて、「実は…」という展開の話だった。虎蔵を演じるのが辰之助(20歳)である。芝居の途中に襲名口上がある。芝居を中断し、役者たちがあらたまって口上を述べ、その後に芝居を再開するという流れだった。

 歌舞伎の口上は面白い趣向だと思う。役者が素に戻るのではなく別の役に転じて演じているようにも見えて、早替わりの舞台の趣がある。

イランのアラグチ外相の歴史概説書が緊急出版された2026年05月14日

『歴史の歩みにおけるイランと日本:サーサーン朝ペルシアから現代まで』(アラグチ、モヘブ/井波誉弘訳/PAO)
 ニュースによく登場するイランのアラグチ外相は日本大使も務めた親日家だ。そのアラグチ外相の書が緊急出版された。

 『歴史の歩みにおけるイランと日本:サーサーン朝ペルシアから現代まで』(アラグチ、モヘブ/井波誉弘訳/PAO)

 アラグチ外相と女性外務省書記官の共著である。本書は、日本語訳の他にイラン語原文、英訳も収録している。日本語訳は約60頁、シルクロードの時代から現代までのイランと日本との交流史を概説している。

 現役の政治家による緊急出版だから日本に対する政治的意図が込められているのは当然だ。本書の末尾近くで、日本を以下のように位置付けている。

 「日本は、西側陣営の中でイランと良好な外交関係を維持している唯一のアメリカの同盟国である。それゆえ、日本には現実的かつ中立的、そして平和を追求する仲介者として、イランと協力しながら中東地域の政治的安定と永続的な平和体制の構築に寄与するポテンシャルがある。」

 これが本書のメッセージだと思う。政治的パンフレットに近いとは言え、外交史の概説書であり、私の知らない事柄の解説も多く、興味深く読了した。私は、昨年末に出た『イラン現代史』を読んでいるが、イランと日本の外交史に関してはあの本よりも詳しい。

 明治時代から第二次大戦に至るまでの話が私には新鮮だった。知らない日本人が多く登場するが、私の関心対象である榎本武揚の名も出てくる。榎本はサンクトペテルグルクでシャーや皇太子らと会談しているそうだ。明治の外交官・吉田正春も登場する。この人の『波斯之旅』はいずれ読みたいと思っている。

 本書であらためて認識したのは日露戦争の影響力である。日露戦争の衝撃がイランの立憲革命につながったそうだ。『シャー・ナーメ(王書)』ならぬ『ミカド・ナーメ(天皇の書)』なる明治天皇と日露戦争を詠った詩集まで出版されたという。

 第二次大戦後のイベントで大きいのは、やはり日章丸だ。IJPC(イラン・ジャパン石油化学)への言及もあるが、やや歯切れが悪い。石油危機やイラン・イラク戦争などの困難に直面して清算されたとしている。間違いではないかもしれないが、最大の要因はイラン・イスラム革命だろう。

 当然ながら本書は、現在のイラン体制の立場で書かれている。この体制が将来どうなっていくかは不明だが、体制側のなかにも多様な人々がいるのだと思う。

紅テントの『鉛の兵隊』はイラク戦争への自衛隊派遣が種2026年05月16日

 新宿花園神社境内の紅テントで劇団唐組公演『鉛の兵隊』(作:唐十郎、演出:久保井研+唐十郎、出演:久保井研、藤井由紀、加藤野奈、大鶴美仁音、福本雄樹、友寄有司、影山翔一、他)を観た。

 この芝居、初演は2005年の唐組公演で、その後も再演されているそうだが、私は今回が初見である。テントの売店で文庫本サイズの戯曲を売っていたので購入し、観劇後に目を通した。

 かなり入り組んだ芝居である。舞台を一回観て、おおまかな雰囲気を楽しんだ気分にはなるが、いま一つ内容をつかみきれない。観劇後に戯曲に目を通し、『唐十郎のせりふ』(新井高子)の『鉛の兵隊』に関する論評を読み返し、「そういうことだったのか」と事後に得心するシーンがいくつもあった。

 唐十郎の芝居は夢幻的異世界に見えて、現実世界に根差した材料が散りばめられている。現実社会の取材で得た情報と唐十郎の脳内に蓄積されたアレコレが溶融して「もうひとつの世界」が立ち上がってくる。

 『鉛の兵隊』のメイン素材はイラク戦争でイラク南部のムサンナ州に派遣された自衛隊員であり、第二次大戦時に旭川からガダルカナルに派遣された陸軍第七師団である。それに、アンデルセン童話「鉛の兵隊(実は「錫の兵隊」)を絡めている。主人公の二風谷やヒロイン(?)の小谷にアイヌの血が流れているとは、うかつにも観劇中には気づかなかった。聞きなれない「シチカップ(鷹)」「ホルケウ(狼)」という言葉を受け取り損ねていたのだ。

 全2幕の芝居である。1幕目の舞台は「スタント店ドタンバ」、2幕目は下水口がある半地下の不思議な空間で、「渦屋」という資源回収業風の<指紋屋>がある。スタントとは要は「身代わり」業であり、戦場に赴く自衛隊員の「身代わり」が発端だ。乱暴に単純化すれば、戦場の事故で失った指紋を巡る物語である。何故か中勘助の『銀の匙』が絡んでくる。

 アンデルセンの「錫の兵隊」は子供の時に読んだかすかな記憶があるもののほとんど失念している。観劇後にネットの青空文庫で「しっかり者のすずの兵隊」を読んだ。かなりヘンな話だと再認識した。