日本最西端の与那国島で「海の道」を感じた2017年10月05日

航空機から見た与那国島の祖納、久部良を眺望できる「日本国最西端の地」、『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(奥野修司/文春文庫)
◎与那国島への関心の動機

 日本の最西端、与那国島に行った。那覇から約500㎞、プロペラ機で約1時間30分だ。台湾までは111㎞、那覇よりは遙かに近い。だが、与那国島と台湾の間の定期的な航路は現在はない。

 与那国島に行きたいと考えた動機は二つある。一つは今年4月に初めて台湾を訪れ、台湾への関心が高まり、日本で一番台湾に近い与那国島への興味が湧いたからだ。台湾は私の亡母が生まれた地である(ちなみに私の妻の亡母はサイパン生まれだ。私たちの親はそんな世代だったのだ)。もう一つの動機は『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(奥野修司/文春文庫)という本を読んだことだ。終戦直後の台湾・香港と沖縄・本土にまたがる密貿易時代を活写したノンフィクションで、その中では与那国島が大きなウエイトを占めている。

 この二つの動機は台湾絡みという点では同じだ。与那国島はさいはての国境の島だが、海洋進出の最前線の島にも見える。

◎レンタカーなら1日で何周もできる人口1700人の島

 与那国島には1泊し、レンタカーを25時間借りて島のあちこちを巡った。1周約25㎞で主要な道路は舗装されている。車なら1日に何周もできる。私は全周した後、縦断道を使った西半周と東半周を1回ずつし、その間に部分的な往復を何度かした。それだけで島の全体的な様子はわかった気がした。

 この島には祖納、久部良、比川の3つの集落がある。町役場のある祖納に宿泊し、夕食前と朝食後に町内を散策した。それだけで路地の入り組んだこの町がわが庭のように感じられるようになった。

 与那国島の現在の人口は1,700人、戦前は5,000人以上いたそうだ。近年、人口は減少し続け1,500人台になったが、1年前に自衛隊の駐屯地(100人)ができて少し上向いた。自衛隊駐屯に関しては島を二分する論議になり、住民投票で受け入れ派が上回った。

 それはともかく、そんな与那国島にかつては人口2万人の時代があった。終戦後の1948年頃から約3年間の密貿易の時代である。物資不足の時代だったので密貿易が大きな利益を生み出し、その主な舞台になったのは台湾に最も近い港町、久部良だ。与那国島の久部良の狂騒の様子を『ナツコ 沖縄密貿易の女王』で知り、この港町に強く惹かれた。

 レンタカーで訪れた久部良で人口2万人時代の痕跡を確認することはできなかった。だが、想像していた以上に立派な漁港だった。「日本最西端の地」の碑がある展望台からは久部良の全体を一望できる。コンパクトにまとまったいい町に見えた。

◎昔はおしゃれな島だった

 かつて台湾が日本の植民地だった頃、与那国島にとって台湾は身近な存在で多くの島民は台湾と行き来していた。日本は殖民地・台湾にかなりの規模の投資をしていたから、ある意味で内地以上に近代化された場所だった。

 那覇の書店で入手した『与那国台湾往来記』(松田良孝/南山舎)という本に戦前の面白いエピソードが載っていた。与那国島から那覇の高等女学校に進学した女学生は台湾経由で入手した物品を持参していたので、那覇の同級生から「おしゃれだから与那国はいいね」とうらやまれたそうだ。

 いまの与那国島はひなびた田舎で、那覇は中国からの観光客があふれるオシャレな都会に発展している。だが、かつては与那国島が那覇からうらやまれる時代もあったのだ。今回の与那国島訪問で、与那国島の栄華のよすがを偲べればと思っていたが、短い滞在だったのでそんな探索は果たせなかった。

◎海洋は道であると再認識

 与那国島の集落や墓地は石垣島や沖縄本島と似ている。同じ沖縄県であり、かつては琉球王国のテリトリーだったのだから当然かもしれない。だが、不思議でもある。沖縄本島と与那国島は500㎞も離れている。端から橋までの距離がこんなに遠い都道府県は他にはない。

 そんなに離れていても共通のローカル文化をもっているのは、遠い昔から人が交流していたからだ。対岸など見えるはずもない水平線だけの大海を果敢に航海する人々が昔からいたのだ。ある種の人間にとって海路は陸路以上に近い道だったのかもしれない。

 そんなことを考えると、9年前に客船で太平洋を横断したときの思いがよみがえってきた。約4000㎞も離れたイースター島とタヒチ島が同じポリネシア文化圏に含まれいることに驚き、遠い昔から広大な大洋を航行する人々がいたことに感動した。

 水平線しか見えない海が「道」に見えるということが人類の探求心の証であり人類進化の源泉のように思えてくる。与那国島を訪れて大海への船出の魅力を再認識し、そんなことを考えた。

ロシアにはロシア文学の名残があった2017年06月15日

左上:プーシキン像、右上:ドストエフスキー像、左中:プーシキン、右中:ゴーゴリー、左下:ドストエフスキー、右下:トルストイ
 モスクワ2泊、サンクトペテルブルグ3泊のロシア観光ツアーに参加、あわただしくアッという間に終わり、足が疲れた。初めてのロシア旅行で特に自分に課したテーマはなく、知らない寒い国の様子を垣間見たいと思った。

 モスクワもサンクトペテルブルグも予想したほどに寒くはなかった。1週間前は雪だったそうだが、半袖でもOKの気候で、準備したダウンジャケットの出番はなかった。帰国した6月13日の東京はロシア以上に寒く、ロシアで不要だったダウンを着るはめになった。

 見学したのは主に旧宮殿とロシア正教の教会だ。クレムリンもエルミタージュ美術館も元は宮殿だし、トレチャコフ美術館は商人の元邸宅とは言え教会を併設している。

 豪壮な宮殿を観て回ると、あらためて帝政時代のロシア皇帝への富の偏在が実感される。また、教会を観て回ると、社会主義時代にも生き延びたロシア正教の根深さを感じる。

 そんな感想とは別に、ロシアにはやはりロシア文学の名残が色濃く残っているのが意外だった。私も大学時代にはロシア文学に魅かれた時期があり、人並みにロシア文学には関心があるが、今回のツアーとロシア文学つなげて考えてはいなかった。一般の観光旅行のつもりだった。それでも、行く先々で文学者の銅像(ドストエフスキー、プーシキンなど)や肖像画(プーシキン、ゴーゴリー、ドストエフスキー、トルストイなど)に遭遇し、軽い感動を憶えた。

 サンクトペテルブルグ市内をバスで観光しているとき、日本語ガイドのロシア人女性が「ここから見える通りが『罪と罰』のラスコリーニコフが住んでいた場所です」と案内してくれた。もちろん、ラスコリーニコフは実在の人物ではない。だが、かつての住人として人々の記憶に定着しているのかもしれない。

 しばらく行くと「左手に見えるのがゴーゴリのハナの家です」と案内してくれた。「ハナ」が「花」に聞こえ、ゴーゴリーに「花」という作品があったかなあと考えているうちにバスは現場を通過し、ハッとした。その家のドアの上には立派な「鼻」のオブジェが飾られていた。それを見て、ゴーゴリーに『鼻』という珍妙な短篇があったと思い出した。自分の体から分離した鼻が上司になる話だったと思う。もちろん、実話である筈がない。でも、その家は実在していた。

 ラスコリーニコフの家も「鼻」の家もバスの車窓か眺めただけで、写真も撮れなかった。いつの日か、ロシア文学をテーマにロシアの街歩きをするのも一興だと思えた。と言っても、かつて読んだロシア文学の大半は忘れてしまっているし、あの重厚長大な作品群を読み返す元気はない…今のところ。

 ロシアで着なかったダウンを東京で着るはめになったように、忘却していた宿題を持ち帰ってしまったような気分だ。

アウシュヴィッツ強制収容所に行った2017年05月27日

(上)第1収容所入口、(下)第収容所入口
 先週、約1週間のポーランド観光ツアーに参加した。20人余りの団体の大半は私と同じ高齢者で、男性より女性の方が多い。ポーランドはヨーロッパのやや外れにあり、他の国々は見尽くしてポーランドを選んだというツアー・リピーターが多いように思われた。

 このツアーにはオプショナルで「アウシュヴィッツ強制収容所見学」が含まれいて、私の目当てはこれだった。アウシュヴィッツに関しては様々な本や映像で一通りのことは知っているつもりだが、現場の雰囲気を体感しながら歴史の暗部を振り返ってみたいと思ったのだ。

 アウシュヴィッツはポーランド第2の都市クラクフ(かつてのポーランド王国の首都)からバスで2時間ばかりの場所にある。オプショナルなので、アウシュヴィッツに行かない人はクラクフで自由行動となっていたが、ツアー参加者の全員がアウシュヴィッツ行きを選択した。ちょっと意外だった。

 アウシュヴィッツには公式のガイドがいる。そこには唯一の日本語公式ガイド・中谷剛氏がいる。中谷氏は『アウシュヴィッツ博物館案内』(凱風社)という著書もあり、私も事前にその本を読んでいた。その本には次のような一節がある。

 「アジアからの訪問者も年々増えている。特に韓国からの訪問者が多く、2011年は4万3000人に上った。日本からの見学者は年間1万300人に増えた。ヨーロッパの見学者の74%が14歳から25歳までの若年層であるのに対し、遠距離のせいもあってか、アジア----特に日本----からの訪問者はお年を召した方が中心であるのは、ある意味で残念なことだ。」
 
 アウシュヴィッツでのわれわれのガイドは中谷剛氏だった。上記の本が書かれた2011年には日本からの来訪者は1万人程度だったが、その後も来訪者は増加し、昨年は3万人を超えたそうだ。中谷氏がガイドできるのは1日に2回なので、すべての日本人のガイドはできなくなっているそうだ。日本人来訪者の大半が高齢者なのは変わらない。

 中谷氏のガイドはユダヤ人迫害のかつてのドイツの状況を現代の排外主義風潮、ヘイトスピーチ、ポピュリズムなどと重ね合わせて解説する部分もあり、含蓄に富んでいた。中谷氏ならずとも、高齢者ではなくい日本の若い人々もここを見学しやすくなればと思った。

 1948年生まれの私にとってアウシュヴィッツ強制収容所は生まれる数年前まで存在した同時代の事象という感覚がある。しかし、21世紀の若者にとっては、遠い過去の歴史上の出来事だろう。だからこそ、歴史に学ぶ場としてのアウシュヴィッツの現代的意義は増大する。

 アウシュヴィッツの現場に立って、あの有名な「ARBEIT MACHT FREI」の文字がある門は意外と小さく感じた。第一収容所全体も思ったほど広くはない。陳列されている犠牲者の様々な遺品や頭髪の山には息を飲むしかない。第二収容所のビルケナウは広大だった。

 われわれのグループに10年ほど前にもアウシュヴィッツに来たという無口な高齢者がいて、ビルケナウをもっとゆっくり見学できないだろうかと要望したが、それはかなわなかった、私が彼に「なぜ、2回も来たのですか」と尋ねると「何度でも来たい」という答が帰ってきた。そもそもの来訪のきっかけはフランクルの『夜と霧』を読んだことだそうだ。そんな人もいるのだ。

 ポーランド政府観光局が制作した日本語の冊子があり、アウシュヴィッツを含めて13の世界遺産を紹介している。アウシュヴィッツ以外の世界遺産は見開きか4頁で紹介しているのに、アウシュヴィッツだけは1頁だ。ドイツ人が作った強制収容所を観光地として宣伝したくないという観光局の気持ちはわかる。景勝地や歴史的建造物など他の世界遺産と異質なのは確かだ。

 だが、アピールの方法が難しくても、重要な遺跡であるアウシュヴィッツへの多くの人々の来訪を促すべきだ。現地を訪れて強くそう思った。

台湾一周観光旅行で感じたこと2017年04月30日

上:太魯閣渓谷へ続く道、下:「台北101」前の広場
◎台湾は世界史の縮図のような島かもしれない

 4泊5日の台湾一周観光をしてきた。短期間の観光旅行で国の実態をつかめるとは思わないが、それでも、本を読んだだけでは得られない現地の雰囲気を多少は感得できた気がする。

 一番の収穫は、台湾の大雑把な地誌が頭に入ったことだ。中国大陸に対峙した西側は日本の東海道だと了解した。北の台北は東京、南の高雄は大阪で、その間には新幹線が走っている。沿線の台中は名古屋、台南は京都だ。西側は高速道路も整備されている。

 太平洋沿岸の東側は田舎である。台風襲来が多いせいか苫屋風であってもコンクリート造りの家が多い。かつて生蛮とか高砂族と呼ばれた原住民族(約70万人)の多くはこの地域に住んでいるそうだ。

 今回の旅行で台湾は山が多い国だと実感した。新高山(今は玉山)が富士山より高いとは承知していたが、九州ほどの大きさの台湾の背骨は三千メートル級の山岳地帯だ。日本と同じように海岸線近くまで山が迫っていて平野は少ない。

 そんな国土に住む人々は主に4つに分けられる。閩南(みんなん)人、客家、外省人、原住民族(16族から成る)の4つだ。ツアーガイド(台湾人)は4つの民族と説明したが、これを民族と呼ぶのが適切か否かはわからない。

 この島国に言語も異なる多様な人々が居住するに至った経緯をたどれば、そこにはマクロな人類史が圧縮されているようにも感じられる。同じ島国でも日本とはかなり事情が異なっている。世界史の縮図として台湾を観るのは、あらためて考えてみたい面白いテーマだ。

◎ちらりと見た二つの光景

 台北の街角では二つの「政治的」な光景を目撃した。

 一つは、観光客が集まる「台北101」という高層ビルの前の広場で目撃した一団だ。中華人民共和国の五星紅旗を振り回しながら示唆行動をしていた。ツアーガイドは「よく事件を起こす人たちです」と苦々しげにつぶやいた。

 台南市郊外にある有名な八田與一(日本統治時代、ダム建設による農業水利事業に貢献をした技術者)像の首が切り取られる事件が日本でも報道された直後であり、あの事件と関連のある団体ではなかろうかと思った。ヤレヤレという気分だ。

 もう一つの光景は総統府前のデモ準備光景で、バスの車窓からほんの一瞬だけ見えた。ツアーガイドの説明では「年金デモ」の準備だそうだ。

 台湾では一般人の年金はかなり低額だと聞いていたので、その改善を訴えるデモだと思ったがそうではなかった。

 台湾では公務員だけに破格の18%という預け入れ金利が適用され、それが実質的には公務員の高額な年金になっている。蔡英文総統はこの公務員優遇制度を見直す年金改革を進めようとしている。それに反対して既得権益を守ろうとしているのが公務員たちによる「年金デモ」なのだ。ナンダカナーという気分だ。

 ちらりと見ただけの二つの光景に、経済発展を遂げた近代国家・台湾の抱える内憂外患の一端が垣間見えた気がした。日本を含めどの国もいろいろな課題をかかえている。

石垣島の空港で新聞を買う --- 八重山諸島観光(3)2017年02月16日

 大都市圏に住んでいると新聞と言えば朝日、毎日、読売、日経などの全国紙がメインに見えるが、地方都市に行けばブロック紙や県紙など地方紙の方が普及率が高く全国紙は従属的な存在になる。

 それでも、全国紙は「全国」紙というぐらいだから、地方でも購読できる。だが、離島だと配達が困難になる。だから、那覇市のコンビ二では朝日、毎日、読売は入手できない。2008年から現地印刷している日経は置いてある。

 沖縄のメインは沖縄タイムスと琉球新報だ。この2紙は部数もほぼ同じ沖縄の二大紙で、私は那覇に行ったときはこの2紙を毎朝交互にコンビニで購入する。朝、新聞に目を通すという習慣が身についた世代の性だ。

 今回、石垣島を訪れ、ホテルのロビーに沖縄タイムスも琉球新報もないことに気づいた。置いてあるのは八重山毎日新聞と八重山日報の二紙だった。石垣島が沖縄本島からはるかに離れた離島(離島の離島)であることを再認識した。石垣島に住んでいる人(約48,000人)にとっては朝日、毎日、読売などの全国紙はおろか沖縄タイムス、琉球新報などの地方紙も入手が難しく、購読できるのは地域紙と呼ばれる現地印刷の新聞だけなのだ。

 歌人の俵万智さんは東日本大震災の後、息子と二人で石垣島に移住し昨年まで石垣島で暮らしていた。以前、俵万智さんが日経新聞に石垣島の生活に関するエッセイを連載しているのを読み、日経なら沖縄の人も読んでいるだろうと感じていた。だが、俵さんの周囲の石垣島に住んでいる人たちは日経新聞も読むことができなかったのだと、いまになって気づいた。

 石垣島を出発するとき、空港の売店で八重山毎日新聞を購入した。八重山日報は置いていなかった。八重山日報は沖縄で唯一とも言われる保守系論調の新聞だ。ネットで調べると八重山毎日新聞(全国紙の毎日新聞とは無関係)の発行部数は16,000部、八重山日報は6,000部だそうだ。

 八重山毎日新聞には地元ニュースだけが載っているのではない。通信社から配信を受けているであろう海外や全国のニュースも載っているし、テレビ・ラジオの番組表も載っている。

 もちろん離島でもテレビは映るのでニュースは入手できる。離島を訪れて、あらためて電波メディアと紙媒体の大きな違いについて考えさせられた。

竹富島は美しい観光地だが --- 八重山諸島観光(2)2017年02月16日

 八重山諸島観光で最も楽しみにしていたのは竹富島だった。私がこの島の名を知ったのは1973年、社会人になったばかりの頃だ。その頃担当したPR紙の仕事の関係で、編集スタッフがモデル撮影してきた竹富島のビーチの写真を見て、なんと綺麗な海だろうと息をのんだ。

 当時は沖縄返還の直後で、まだ海外旅行も経験していなかった私にとって、沖縄のさらに果てにある竹富島は、はるか彼方の遠い島だった。いつかは行ってみたいと憧れた。

 その後も竹富島の写真を見る機会は何度かあり、そのたびにその美しさに魅了され、いつしか私の頭の中で理想郷のような存在になっていた。行きたいと夢想してから40年以上の時間が経過し、ついに竹富島に足を踏み入れた。

 実は今回、竹富島を訪問するにあたり、楽しみにしつつも竹富島の実景は私の頭の中のイメージとは異なっていて期待外れになるのではとの予感もあった。この島が頭の中に住みついてからあまりにも時間が経ちすぎているからだ。その予感は的中した。上陸した島は私が夢想していた憧れの世界とは異なる単なる観光地だった。竹富島が美しくないわけではないが、私がこの40年間に観てきた数多の光景と比べて特別に美しいとは言い難い。

 若い頃に夢見たものの実態がさほどのものでなかった、というありふれた体験を確認する訪問であった。

西表島でベトナム戦争映画を想起 --- 八重山諸島観光(1)2017年02月16日

 八重山諸島の石垣島、西表島(いりおもてじま)、竹富島を駆け足で巡る観光旅行に行った。沖縄本島には何度も行っているが離島は初めてだ。

 今回の訪問地では西表島が最も印象深かった。沖縄県では本島に次ぐ面積の島だが、その大半はジャングルなので人口は2千人ほど。石垣島から高速船で40分で行ける。

 西表島の大原港から観光バスに乗ると、運転手兼ガイドが「手前に見えますのが信号機です」と言った。何かの冗談かと思ったが、それは日本最南端の信号機だった。西表島で唯一の信号機で、本来はなくてもかまわないが、子供の教育のために設置しているとのことだ。真偽のほどは定かでないが、特別な信号機に見えてきた。

 バス観光の後、日本最大のマングローブの川を遡る観光船に乗った。その船の操縦士兼ガイドがバスの運転手兼ガイドと同じ人だったのには驚いた。一人で四役をこなしているのだ。

 沖縄返還以前のベトナム戦争の頃、米軍はこの地で大規模な演習をしていたそうだ。西表島がベトナムの地形に似ているからだ。そう言われてみると、西表島の風景が映画『プラトーン』や『地獄の黙示録』の光景と重なり、遠い地に来た気分になった。

山田方谷ゆかりの地を歩く(3) --- 備中松山城2016年02月14日

備中松山城、方谷ゆべし、山田方谷を大河ドラマにする署名簿
◎天空の城・松山城に登城

 方谷記念館と方谷園を訪れた翌日の帰京日、備中高梁駅で途中下車し、備中松山城に行った。城の登り口までは事前予約制の乗合タクシー(往復860円)を利用した。車を降りてから徒歩20分と聞いていたが、この20分の登山はかなりきつかった。寒い冬の日だが、汗だくになり途中でコートを脱いだ。

 備中松山城は現存天守12城の一つで天空の城としても有名な観光地だ。訪問者もそこそこに多い。とは言え、20分の登山をしなければたどり着けない場所なので、人がひしめきあう状態ではなく、ほどよい混み具合だ。天守閣のある山頂から見下ろす高梁川沿いの城下町の景観もすばらしい。

◎昔の藩士たちはこの山道を毎日登ったのか?

 それにしても、山田方谷ら備中松山藩の藩士たちはこの山道を毎日登り下りしていたのだろうかと疑問に思った。足腰の鍛錬にはなりそうだが、現代の満員電車での通勤以上に消耗するようにも思える。その疑問は帰京の新幹線車中での読書で解消した。山田方谷記念館で買った本の中に「江戸時代とはいえ、毎日山の頂上までは登っていなかった。天守閣に行くのは祭事など特別な場合のみである」という記述があった。藩主が日常的に住んでいたのは平地の御殿で、藩政はそこで行われていたそうだ。

◎山田方谷は大河ドラマになるか?

 備中松山城内の展示室に、山田方谷をNHK大河ドラマへという運動の署名簿があった。この運動があることは数年前から知っていた。百万人署名を目指しているらしい。方谷園まで往復してもらったタクシーの運転手は「山田方谷を大河ドラマにしようという運動がありましたが、戦闘シーンがないのでダメになったんです」と過去形で語っていたが、まだ、署名運動は続いているようだ。山田方谷を主人公にした大河ドラマが成り立つか否か、かなりビミョーだ。私は大河ドラマのファンではないが、じっくり検討してみるのも面白そうだ。

◎土産は方谷ゆべし

 乗合タクシーの乗降場である駅前観光案内所で「備中国銘菓 方谷ゆべし」という土産を売っていたので、迷わず購入した。山田方谷関連の書籍を読んでいて、方谷が藩政改革の一環としてゆべし作りを奨励したという記述が印象に残っていたからだ。ゆべし作りがどれほどの産業規模だったかは知らないが、方谷が実施した大規模な財政再建に占めるゆべしのウエイトがさほど大きかったとは思えない。ゆべしの話が言い伝えられているのは、単に方谷がゆべしを好きだったのではなかろうかと勝手に想像してしまったのだ。私はゆべしが好きなので「方谷ゆべし」という表記を見てすぐに手が伸びた。

山田方谷ゆかりの地を歩く(2) --- 高梁市中井の方谷園2016年02月14日

山田方谷の墓、方谷園、方谷駅
◎車でしか行けない方谷園

 方谷園は山田方谷が生まれた高梁市中井西方にあり、方谷の墓も園内にある。最寄り駅は伯備線の方谷駅で、そこから車で10分かかる。周辺には何もない無人駅で、もちろんタクシー乗り場などない。

 方谷園に行くとすれば、新見駅か備中高梁駅からタクシーで行くしかなさそうだ。かなりの費用になりそうだが、エイヤと決断し、新見からタクシーで往復することにした。事前に東京からタクシー会社に電話した。「方谷園」と言えばすぐ通じると思っていたが、なかなか伝わらない。ガイドブックにある住所を言って何とか伝わった。地元で山田方谷を知らない人は少ないが方谷園はあまり一般的でないようだ。

 さらに驚いたことに、方谷駅から方谷園のある高梁市中井までの道路は通行止めなっていて、すぐに復旧する見込みはないそうだ。多少大回りになるが別ルートで行けるとのことなので、タクシーを予約した。

◎方谷園は閑静な墓地だった

 途中下車した刑部駅から姫新線に乗り新見駅に到着したのが14時26分、駅前には予約したタクシーが待っていた。方谷園までは約50分、途中かなり細い山道を登って行った。山奥の日影の道端には残雪もある。年配の運転手も方谷園へ行くのは初めてのようで、途中2回ほど車を止めて地元の人にルートを確認していた。

 方谷園は川沿いの山裾にある山田家の墓地で、その前方に小さな庭園が作られている。閑静でひなびた場所で、浮世から隔離された心地良いひとときを過ごした。

◎方谷資料展示室も見学

 方谷園の近所の中井地域市民センターという施設の中には方谷資料展示室がある。入口にたたずんでいると、どこからか職員の女性が現れ展示室の照明を点けてくれた。親切にも「説明員を呼べますが…」と言ってくれたが、時間の余裕もないのでそれは断わった。方谷の筆跡やパネル展示などを一通り眺めて、タクシーで新見へ戻った。見学時間を含めて往復で約2時間、タクシー代は16,000円ほどだった。

◎方谷駅は車窓から眺めるだけ

 タクシーで方谷園へ往復しようと決意した時、方谷駅で途中下車して周辺を散策したいと思った。かつて山田方谷が居住していた場所が方谷駅のあたりなのだ。方谷駅経由のルートが通行止めだったため、その散策の目論見はかなわなかった。で、翌日、新見から備中高梁へ行く途中に車中から駅の看板を撮影した。小学生時代から知っている駅だが、その時から現在に至るまでいつも通過するだけだ。いつか、下車してみたい。

山田方谷ゆかりの地を歩く(1) --- 刑部の方谷記念館2016年02月14日

方谷記念館、刑部駅
◎山田方谷ゆかりの地は三カ所

 岡山県新見市にある父母の墓参りに行くのを機に山田方谷ゆかりの地を訪ねることにした。

 山田方谷は備中松山藩の藩政改革に活躍した幕末の陽明学者で、JR伯備線には「方谷(ほうこく)」という駅がある。人名が駅名になったのは異例だそうだ。小学生の頃、私は夏休みのたびに祖父母の住む新見へ伯備線で行っていた。だから「方谷」という駅名は子供の頃から耳になじんでいた。しかし、方谷が地名ではなく人名だと知ったのは約10年前、50代後半になってからだ。

 その頃、司馬遼太郎の『峠』に山田方谷が登場すると知り、この小説を読んだ。それ以来、山田方谷についてもう少し知りたいと思いつつ月日が過ぎた。今回、久々に岡山へ行くのをきっかけに、山田方谷に関する本を何冊か読み、『おかやま歴史の旅百選』というガイドブックで山田方谷ゆかりの地を調べた。そこに紹介されている「ゆかりの地」は次の三つだ。

 ・備中松山城(JR伯備線備中高梁駅から車15分下車徒歩20分)
 ・方谷園(JR伯備線方谷駅から車10分)
 ・方谷庵・方谷記念館(JR姫新線刑部駅から徒歩15分)

 この三つはかなり離れた位置にある。ドライブ旅行ではなく汽車の旅でこれらを巡るのは大変そうだが、2泊3日の旅行で墓参りの他にこの三つのすべてに行くことにした。

◎山村にたたずむ山田方谷記念館

 最初に訪ねたのは姫新線の刑部(おさかべ)駅から徒歩15分の方谷記念館である。ネットに月火休館とあり、訪問予定日は水曜日なので大丈夫だとは思ったが、念のために事前に電話で確認した。「休館は月曜と火曜ですが、事前に連絡いただければ、休館日でもなるべく開けるようにしています」という親切な対応だった。

 姫新線は姫路と新見をつなぐ鉄道で、刑部は新見の三つ手前の駅だが、姫路から新見まで行く列車はない。新幹線で岡山まで行き、津山線で津山まで行って一泊、津山発新見行きの姫新線に乗り、刑部駅で途中下車した。11時22分に下車し、次の14時2分に乗車した。1日8本のローカル線なので、乗り遅れると次は17時17分になってしまう。

 刑部駅は無人駅で、駅の周辺に店などはない。人通りのない道を約15分歩き、方谷記念館にたどり着いた。私の他に客はいないだろうと思っていたが、記念館の前に三重ナンバーの車が止まっていて、4人の先客がいた。先客は私と入れ違いで出て行ったので、一人でゆっくり見学できた。

 管理人らしき老夫婦がいて、まず最初にビデオ上映があり、お茶とお菓子が出た。2本立てのそこそこに長いビデオだったので、それを観ながら持参したコンビニ握り飯で昼食をとった。ビデオの後、管理人らしき亭主の展示説明もあり、いろいろお話しもできた。

 その亭主は元JR職員だそうだ。「私はJRに長い間勤めていましたが、方谷駅が人名だと知ったのは60歳を過ぎてからです。地元に立派な人がいたんですねえ」と語るのが、私と似たような体験なので面白かった。

 この記念館のオープンは12年前の2004年で、当初の来館者は年間数百人だったが、最近は増加して年間千人を超えたとのことだ。ということは1日平均5人前後か。のんびり見学できるのは間違いない。

◎方谷山田先生遺蹟碑の見学は断念

 記念館の少し先に方谷庵があり、それは外から見学した。刑部には方谷山田先生遺蹟碑というオベリスクもある。勝海舟が題字を揮毫した石碑で、これも記念館の近所にあるのだろうと思っていたが、駅の反対側のかなり遠い所にある。そこにも行こうと思っていたが、のんびりし過ぎて時間がなくなった。徒歩でオベリスクを目指したがなかなかたどり着かず、汽車の時刻が気になり途中で引き返した。乗り過ごすと次の汽車まで3時間以上待つことになってしまうのだ。