ペンジケント遺跡に立つ……タジキスタン紀行記(3)2019年08月23日

 ソグド商人への関心から「ソグディアナ」という言葉に惹かれてツアーに参加した私にとって、メインの訪問地はペンジケント遺跡である。ただし事前に「ほとんど何も残っていない場所ですよ」と聞いていたので、現場の雰囲気を感じるだけでいいと覚悟していた。

 ペンジケントは5~8世紀のソグド人の都市遺跡である。ここをマーイムルグ(米国)と比定する吉田豊説が有力だそうだ(森安孝夫『シルクロードと唐帝国』による。吉田豊氏はソグド語が解読できる日本でただ一人の学者)。シルクロードの支配者とされるソグド商人の故地ソグディアナは、多くのオアシス都市で構成されていた。それは都市国家の緩やかな連合体であり、ソグド人は統一国家を作ることはなかった。ペンジケントはそんな都市国家の一つである。

 ペンジケント遺跡は中央アジアで発掘が最も進んでいる遺跡である。歴史学者ドゥ・ラ・ヴェシエールは「最盛期におけるソグディアナの経済的・社会的情報は、ザラフシャン川の渓谷に深く入りくんだまちであるペンジケントにおいてのみ知られている」と『ソグド商人の歴史』で述べている。中央アジアの歴史概説書のいくつかには、ペンジケント遺跡の図面や発掘された壁画の写真が載っている。

 日本から約6000Km、はるばるたどり着いたペンジケント遺跡の入口付近には案内板が3つ立っていた。それだけで、門や囲いはなく管理人などもいない。丘陵への階段を登っていくと踏み跡のような道につながり、周囲に日干しレンガの構築物の残骸らしきものが見えてくる。住居や寺院の跡のようだがよくわからない。廃墟というより荒野に近い。われわれ以外には誰もいない。

 この遺跡に立って千数百年前のオアシス都市の姿を偲ぶには心の眼で眺めるしかない。現場に立ったという昂揚感で、時間の彼方から吹いてくるシルクロードの風をかすかに感じた気がした。

 遺跡内に説明看板は一つもない。来場者に対してもう少し親切に整備するべきではと思った。だが、空気を感じるには何もない方がいいのかもしれない。

 この遺跡は住居跡から多くの壁画が発掘されたことで有名である。ソ連時代に発掘された壁画の多くはエルミタージュ美術館に運ばれた。ドゥシャンベの国立古代博物館に展示されている壁画もあり、それは昨日観てきた。

 壁画で有名なペンジケント遺跡だが、現場は抜け殻である。それは仕方のないことではあるが、遺跡のどこにどんな壁画があったのかは知りたいと思った。

タジキスタンは山岳の国……タジキスタン紀行記(2)2019年08月22日

 紀元前4世紀のアレクサンダー大遠征の最遠地『アレクサンドリア・エスカテ(最果てのアレクサンドリア)』が現在のホジャンド(タジキスタン第2の町)である。国境を越えた最初の訪問地がホジャンドで、ここから首都ドゥシャンベまでは二つの山脈(トルキスタン山脈とヒッサール山脈)を越える山岳道路である。峠の標高は3000メートルを越える。

 事前に旅行会社から配布された書類には次の記述があった。

 「ホジャンド~ドゥシャンベ、ドゥシャンベ~ペンジケントなどは険しい山岳道路です。小型バスまたはバンに分乗してのご案内となり、添乗員が同乗しない車両がございます」

 13年前に刊行された『週刊シルクロード紀行』という雑誌には、この山岳道路を「尻が5センチも浮き上がる衝撃が続く悪路」と綴った紀行文があった。だから覚悟はしていた。

 しかし、この山岳道路は思いのほか快適で、窓外に広がる息をのむ山岳風景を満喫できた。道路はすべて舗装されてる。ガードレールはほとんどない。総勢13人(参加者9人、添乗員、ガイド2人、運転手)には贅沢すぎる普通のバスで走行でき、小型バスに分乗することはなかった。

 近年、この道路は中国によって舗装され、トンネルも掘られたそうだ。タジキスタンと中国は国境を接している。この道路整備も「シルクロード経済ベルト」を目指す一帯一路構想の一環だろうか。世界各地で増大する中国の存在感が不気味でもある。

 標高3000メートルを越えるこの山岳道路は冬季も通行可能だそうだ。驚きである。ガイドは「有料道路なので冬も整備しています」と言っていた。

 タジキスタンは山岳の国である。地形図を見れば明らかなように、われわれが旅行した国の西側はまだ標高が低い地域で、東側は7000メートルを越える高山が連なるパミール高原になる。その山岳地域にもかなりの数の人々が暮らしているそうだ。

 ドゥシャンベのホテルの部屋には「MOUNTAINS ARE CALLING」と書いたチラシや冊子を置いてあった。パミールの山岳地帯を目指すワイルドないで立ちの宿泊客も見かけた。

 ガイドの話によれば、パミールに行くツアーも多くあり、パミールから国境を越えてアフガニスタンに入ることもできるそうだ。そこはアフガニスタンでも比較的安全な地域で、日本人観光客も何人か案内したと言っていた。これにはびっくりした。日本の外務省はアフガニスタンを危険レベル最高のレベル4(退避してください。渡航は止めてください)に指定している。

 なお、日本のパミール中央アジア研究会は、日本の地図帳の「パミール高原」という記載を「パミール」に訂正すべきだと提言している。この地域は「高原」という言葉で連想されるのどかな場所ではない。険しい大山岳地帯なのである。

中央アジアに残るトルコ系とイラン系……タジキスタン紀行記(1)2019年08月21日

 8月中旬、「幻のソグディアナ タジキスタン紀行8日間」というツァーに参加した。最近のわが関心事が「ソグド商人」で、「ソグディアナ」という言葉に反応して参加を決めた。

 タジキスタンがメインのツァーだが、日本からの往復にはタシケント空港(ウズベキスタン)を利用する。だから、ウズベキスタンも少し周遊できた。ウズベキスタンもタジキスタンも以前はソ連の一部で、ソ連崩壊によって独立した国である。これら中央アジアの国への旅行は私には初体験である。

 ウズベキスタンはトルコ系のウズベク人の国、タジキスタンはイラン系のタジク人の国である。だが、ウズベキスタンのサマルカンドやブハラにはタジク人も多く住んでいる。そんな事前知識はあったが、現地を訪れて国、民族、言語が絡んだ状況を少し実感できた。

 民族の定義は難しい。タジク語を話す人がタジク人、ウズベキ語を話す人がウズベク人と見なすのがわかりやすい。タジク語は印欧語系、ウズベキ語はアルタイ語系で、まったく異なる言語である。

 現地での日本語ガイドは日本留学の経験があるウズベキスタン人だった。彼はウズベキスタンに住むタジク人で、ウズベク語もタジク語も話せる。学校ではウズベク語、家庭ではタジク語という環境で育ち、どちらも同等に話せる完全なバイリンガルである。かつてはソ連の一部だったのでロシア語もわかるし、もちろん日本語も堪能である。

 その日本語ガイドは全行程に同道したが、タジキスタンではタジキスタン人の英語ガイド(米国留学経験者)が加わった。タジキスタン各地では彼がタジク語で説明し、それを聞いたウズベキスタン人のガイドが日本語に翻訳する。タジキスタンには日本語ガイドが少ないのでこんな形になったのだと思う。ウズベキスタンのタジク人はタジキスタン人のタジク語を完全に理解できるわけではなく、一部意味不明のこともあるそうだ。

 タジキスタンもウズベキスタンも旧ソ連である。ソ連時代には主要な町の中央にレーニン像が建っていたが、独立後レーニン像は撤去された。それに替わって建てられたのはウズベキスタンではティムール(トルコ系)像、タジキスタンではサーマーニー(イラン系)像である。現在のウズベキスタンにレーニン像はないそうだ。タジキスタンでは町の中央から郊外に移設されたレーニン像が残っている所もあり、観光資源になっている。

 独立後に返り咲いたティムールもサーマーニーもかなり昔の人物だ。14、15世紀に栄えたティムール帝国はトルコ化したモンゴル人のイスラム王朝である。サーマーニーが創始者とされるサーマーン朝は9、10世紀のイラン系イスラム王朝で、首都はブハラ(現在はウズベキスタン)だった。

 中央アジアに残るトルコ系、イラン系の姿が少し見えてくるような気がした。

シチリアの古跡巡りをした2018年05月24日

 8泊10日のシチリアの旅から帰国した。「異文化研究家 前田耕作先生同行 シチリア島の古跡を極める旅」という10人ほどのツアーで、充実した歴史紀行だった。

 事前に読んだ入門書でこの島の複雑な歴史をある程度は把握していたが、現地を訪れてヨーロッパ史の多層をあらためて認識した。

 紀元前1300年頃からこの島にはシクリ族と呼ばれる人たちが住んでいた。紀元前8世紀からギリシア人の植民が始まり、ギリシアの植民都市が建設される。続いてカルタゴがこの地に進出し島を支配するが、ポエニ戦争でカルタゴに勝利したローマの属州になる。ローマ帝国衰亡期にはゲルマン人支配となり、ビザンチン領を経てイスラムの支配となる。そのイスラムをノルマン人が破りノルマン朝のシチリア王国となる。以上が古代から中世までだ。その後も支配者は多様に変遷し、イタリアに併合されたのは150年ほど前になる。

 要はゴチャゴチャと多様な文化が混合した島なのだ。そんなシチリアには古代ギリシア・ローマの遺跡が多い。その遺跡を巡るのが今回の旅行の主旨だ。

 世界遺産に指定され観光客の多い遺跡もあれば、訪れる人がほとんどいないひっそりとした遺跡もある。バスが入れない道をひたすら歩き続けなければたどり着けない遺跡もある。そんな多様な遺跡を巡りながら、人間は歴代の遺跡の積み重ねの上で暮らしてきたのだという当然のことに気づいた。

 古代ギリシアの遺跡がそのまま残っている所の多くは巨石の瓦礫になっている。瓦礫を復元している遺跡もあるが、それらしい趣を残している所には、ギリシア人が造った神殿や劇場をローマ人が改造して活用し、さらに中世の人々が自分たちに合わせて改変したものが多い。

 昔の建造物を「遺跡」として保存しようという考えがいつごろから生まれたのかは知らないが、古い建造物を自分たちの活用に適合するように改造するのは当然の発想だ。だから、ギリシア・ローマの神殿の柱を保持したキリスト教会もあれば、ギリシア→ローマ→中世と改造されてきた劇場もある。

 ギリシア時代に作られた劇場の遺跡が現代のイベントに活用されているのにも感動した。遺跡劇場の舞台にイベント用の現代的オブジェが置かれている所もあったし、山頂の遺跡劇場でギリシア劇の扮装をした高校生がリハーサルをやっている光景も観た。ヨーロッパの歴史のふところの深さを感じた。

 また、遺跡を巡りながら地中海やイオニア海を望み、人間の歴史にとって海が大きな役割を果たしてきたことを実感した。海の向こうからは植民者や交易者がやって来るし敵も来襲する。

 ギリシア人が初期に建設した海岸の植民都市ナキソスの遺跡からイオニア海を臨み、古代から海こそが道だったのだとの感を強くした。同時に、ナキソスの人々がその後に建設した後背の山岳都市の残滓(現在はリゾートの町タオルミーナ)を観て、生き延びる道を垂直方向にも見出す人類の強靭さも感じた。

日本最西端の与那国島で「海の道」を感じた2017年10月05日

航空機から見た与那国島の祖納、久部良を眺望できる「日本国最西端の地」、『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(奥野修司/文春文庫)
◎与那国島への関心の動機

 日本の最西端、与那国島に行った。那覇から約500㎞、プロペラ機で約1時間30分だ。台湾までは111㎞、那覇よりは遙かに近い。だが、与那国島と台湾の間の定期的な航路は現在はない。

 与那国島に行きたいと考えた動機は二つある。一つは今年4月に初めて台湾を訪れ、台湾への関心が高まり、日本で一番台湾に近い与那国島への興味が湧いたからだ。台湾は私の亡母が生まれた地である(ちなみに私の妻の亡母はサイパン生まれだ。私たちの親はそんな世代だったのだ)。もう一つの動機は『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(奥野修司/文春文庫)という本を読んだことだ。終戦直後の台湾・香港と沖縄・本土にまたがる密貿易時代を活写したノンフィクションで、その中では与那国島が大きなウエイトを占めている。

 この二つの動機は台湾絡みという点では同じだ。与那国島はさいはての国境の島だが、海洋進出の最前線の島にも見える。

◎レンタカーなら1日で何周もできる人口1700人の島

 与那国島には1泊し、レンタカーを25時間借りて島のあちこちを巡った。1周約25㎞で主要な道路は舗装されている。車なら1日に何周もできる。私は全周した後、縦断道を使った西半周と東半周を1回ずつし、その間に部分的な往復を何度かした。それだけで島の全体的な様子はわかった気がした。

 この島には祖納、久部良、比川の3つの集落がある。町役場のある祖納に宿泊し、夕食前と朝食後に町内を散策した。それだけで路地の入り組んだこの町がわが庭のように感じられるようになった。

 与那国島の現在の人口は1,700人、戦前は5,000人以上いたそうだ。近年、人口は減少し続け1,500人台になったが、1年前に自衛隊の駐屯地(100人)ができて少し上向いた。自衛隊駐屯に関しては島を二分する論議になり、住民投票で受け入れ派が上回った。

 それはともかく、そんな与那国島にかつては人口2万人の時代があった。終戦後の1948年頃から約3年間の密貿易の時代である。物資不足の時代だったので密貿易が大きな利益を生み出し、その主な舞台になったのは台湾に最も近い港町、久部良だ。与那国島の久部良の狂騒の様子を『ナツコ 沖縄密貿易の女王』で知り、この港町に強く惹かれた。

 レンタカーで訪れた久部良で人口2万人時代の痕跡を確認することはできなかった。だが、想像していた以上に立派な漁港だった。「日本最西端の地」の碑がある展望台からは久部良の全体を一望できる。コンパクトにまとまったいい町に見えた。

◎昔はおしゃれな島だった

 かつて台湾が日本の植民地だった頃、与那国島にとって台湾は身近な存在で多くの島民は台湾と行き来していた。日本は殖民地・台湾にかなりの規模の投資をしていたから、ある意味で内地以上に近代化された場所だった。

 那覇の書店で入手した『与那国台湾往来記』(松田良孝/南山舎)という本に戦前の面白いエピソードが載っていた。与那国島から那覇の高等女学校に進学した女学生は台湾経由で入手した物品を持参していたので、那覇の同級生から「おしゃれだから与那国はいいね」とうらやまれたそうだ。

 いまの与那国島はひなびた田舎で、那覇は中国からの観光客があふれるオシャレな都会に発展している。だが、かつては与那国島が那覇からうらやまれる時代もあったのだ。今回の与那国島訪問で、与那国島の栄華のよすがを偲べればと思っていたが、短い滞在だったのでそんな探索は果たせなかった。

◎海洋は道であると再認識

 与那国島の集落や墓地は石垣島や沖縄本島と似ている。同じ沖縄県であり、かつては琉球王国のテリトリーだったのだから当然かもしれない。だが、不思議でもある。沖縄本島と与那国島は500㎞も離れている。端から橋までの距離がこんなに遠い都道府県は他にはない。

 そんなに離れていても共通のローカル文化をもっているのは、遠い昔から人が交流していたからだ。対岸など見えるはずもない水平線だけの大海を果敢に航海する人々が昔からいたのだ。ある種の人間にとって海路は陸路以上に近い道だったのかもしれない。

 そんなことを考えると、9年前に客船で太平洋を横断したときの思いがよみがえってきた。約4000㎞も離れたイースター島とタヒチ島が同じポリネシア文化圏に含まれいることに驚き、遠い昔から広大な大洋を航行する人々がいたことに感動した。

 水平線しか見えない海が「道」に見えるということが人類の探求心の証であり人類進化の源泉のように思えてくる。与那国島を訪れて大海への船出の魅力を再認識し、そんなことを考えた。

ロシアにはロシア文学の名残があった2017年06月15日

左上:プーシキン像、右上:ドストエフスキー像、左中:プーシキン、右中:ゴーゴリー、左下:ドストエフスキー、右下:トルストイ
 モスクワ2泊、サンクトペテルブルグ3泊のロシア観光ツアーに参加、あわただしくアッという間に終わり、足が疲れた。初めてのロシア旅行で特に自分に課したテーマはなく、知らない寒い国の様子を垣間見たいと思った。

 モスクワもサンクトペテルブルグも予想したほどに寒くはなかった。1週間前は雪だったそうだが、半袖でもOKの気候で、準備したダウンジャケットの出番はなかった。帰国した6月13日の東京はロシア以上に寒く、ロシアで不要だったダウンを着るはめになった。

 見学したのは主に旧宮殿とロシア正教の教会だ。クレムリンもエルミタージュ美術館も元は宮殿だし、トレチャコフ美術館は商人の元邸宅とは言え教会を併設している。

 豪壮な宮殿を観て回ると、あらためて帝政時代のロシア皇帝への富の偏在が実感される。また、教会を観て回ると、社会主義時代にも生き延びたロシア正教の根深さを感じる。

 そんな感想とは別に、ロシアにはやはりロシア文学の名残が色濃く残っているのが意外だった。私も大学時代にはロシア文学に魅かれた時期があり、人並みにロシア文学には関心があるが、今回のツアーとロシア文学つなげて考えてはいなかった。一般の観光旅行のつもりだった。それでも、行く先々で文学者の銅像(ドストエフスキー、プーシキンなど)や肖像画(プーシキン、ゴーゴリー、ドストエフスキー、トルストイなど)に遭遇し、軽い感動を憶えた。

 サンクトペテルブルグ市内をバスで観光しているとき、日本語ガイドのロシア人女性が「ここから見える通りが『罪と罰』のラスコリーニコフが住んでいた場所です」と案内してくれた。もちろん、ラスコリーニコフは実在の人物ではない。だが、かつての住人として人々の記憶に定着しているのかもしれない。

 しばらく行くと「左手に見えるのがゴーゴリのハナの家です」と案内してくれた。「ハナ」が「花」に聞こえ、ゴーゴリーに「花」という作品があったかなあと考えているうちにバスは現場を通過し、ハッとした。その家のドアの上には立派な「鼻」のオブジェが飾られていた。それを見て、ゴーゴリーに『鼻』という珍妙な短篇があったと思い出した。自分の体から分離した鼻が上司になる話だったと思う。もちろん、実話である筈がない。でも、その家は実在していた。

 ラスコリーニコフの家も「鼻」の家もバスの車窓か眺めただけで、写真も撮れなかった。いつの日か、ロシア文学をテーマにロシアの街歩きをするのも一興だと思えた。と言っても、かつて読んだロシア文学の大半は忘れてしまっているし、あの重厚長大な作品群を読み返す元気はない…今のところ。

 ロシアで着なかったダウンを東京で着るはめになったように、忘却していた宿題を持ち帰ってしまったような気分だ。

アウシュヴィッツ強制収容所に行った2017年05月27日

(上)第1収容所入口、(下)第収容所入口
 先週、約1週間のポーランド観光ツアーに参加した。20人余りの団体の大半は私と同じ高齢者で、男性より女性の方が多い。ポーランドはヨーロッパのやや外れにあり、他の国々は見尽くしてポーランドを選んだというツアー・リピーターが多いように思われた。

 このツアーにはオプショナルで「アウシュヴィッツ強制収容所見学」が含まれいて、私の目当てはこれだった。アウシュヴィッツに関しては様々な本や映像で一通りのことは知っているつもりだが、現場の雰囲気を体感しながら歴史の暗部を振り返ってみたいと思ったのだ。

 アウシュヴィッツはポーランド第2の都市クラクフ(かつてのポーランド王国の首都)からバスで2時間ばかりの場所にある。オプショナルなので、アウシュヴィッツに行かない人はクラクフで自由行動となっていたが、ツアー参加者の全員がアウシュヴィッツ行きを選択した。ちょっと意外だった。

 アウシュヴィッツには公式のガイドがいる。そこには唯一の日本語公式ガイド・中谷剛氏がいる。中谷氏は『アウシュヴィッツ博物館案内』(凱風社)という著書もあり、私も事前にその本を読んでいた。その本には次のような一節がある。

 「アジアからの訪問者も年々増えている。特に韓国からの訪問者が多く、2011年は4万3000人に上った。日本からの見学者は年間1万300人に増えた。ヨーロッパの見学者の74%が14歳から25歳までの若年層であるのに対し、遠距離のせいもあってか、アジア----特に日本----からの訪問者はお年を召した方が中心であるのは、ある意味で残念なことだ。」
 
 アウシュヴィッツでのわれわれのガイドは中谷剛氏だった。上記の本が書かれた2011年には日本からの来訪者は1万人程度だったが、その後も来訪者は増加し、昨年は3万人を超えたそうだ。中谷氏がガイドできるのは1日に2回なので、すべての日本人のガイドはできなくなっているそうだ。日本人来訪者の大半が高齢者なのは変わらない。

 中谷氏のガイドはユダヤ人迫害のかつてのドイツの状況を現代の排外主義風潮、ヘイトスピーチ、ポピュリズムなどと重ね合わせて解説する部分もあり、含蓄に富んでいた。中谷氏ならずとも、高齢者ではなくい日本の若い人々もここを見学しやすくなればと思った。

 1948年生まれの私にとってアウシュヴィッツ強制収容所は生まれる数年前まで存在した同時代の事象という感覚がある。しかし、21世紀の若者にとっては、遠い過去の歴史上の出来事だろう。だからこそ、歴史に学ぶ場としてのアウシュヴィッツの現代的意義は増大する。

 アウシュヴィッツの現場に立って、あの有名な「ARBEIT MACHT FREI」の文字がある門は意外と小さく感じた。第一収容所全体も思ったほど広くはない。陳列されている犠牲者の様々な遺品や頭髪の山には息を飲むしかない。第二収容所のビルケナウは広大だった。

 われわれのグループに10年ほど前にもアウシュヴィッツに来たという無口な高齢者がいて、ビルケナウをもっとゆっくり見学できないだろうかと要望したが、それはかなわなかった、私が彼に「なぜ、2回も来たのですか」と尋ねると「何度でも来たい」という答が帰ってきた。そもそもの来訪のきっかけはフランクルの『夜と霧』を読んだことだそうだ。そんな人もいるのだ。

 ポーランド政府観光局が制作した日本語の冊子があり、アウシュヴィッツを含めて13の世界遺産を紹介している。アウシュヴィッツ以外の世界遺産は見開きか4頁で紹介しているのに、アウシュヴィッツだけは1頁だ。ドイツ人が作った強制収容所を観光地として宣伝したくないという観光局の気持ちはわかる。景勝地や歴史的建造物など他の世界遺産と異質なのは確かだ。

 だが、アピールの方法が難しくても、重要な遺跡であるアウシュヴィッツへの多くの人々の来訪を促すべきだ。現地を訪れて強くそう思った。

台湾一周観光旅行で感じたこと2017年04月30日

上:太魯閣渓谷へ続く道、下:「台北101」前の広場
◎台湾は世界史の縮図のような島かもしれない

 4泊5日の台湾一周観光をしてきた。短期間の観光旅行で国の実態をつかめるとは思わないが、それでも、本を読んだだけでは得られない現地の雰囲気を多少は感得できた気がする。

 一番の収穫は、台湾の大雑把な地誌が頭に入ったことだ。中国大陸に対峙した西側は日本の東海道だと了解した。北の台北は東京、南の高雄は大阪で、その間には新幹線が走っている。沿線の台中は名古屋、台南は京都だ。西側は高速道路も整備されている。

 太平洋沿岸の東側は田舎である。台風襲来が多いせいか苫屋風であってもコンクリート造りの家が多い。かつて生蛮とか高砂族と呼ばれた原住民族(約70万人)の多くはこの地域に住んでいるそうだ。

 今回の旅行で台湾は山が多い国だと実感した。新高山(今は玉山)が富士山より高いとは承知していたが、九州ほどの大きさの台湾の背骨は三千メートル級の山岳地帯だ。日本と同じように海岸線近くまで山が迫っていて平野は少ない。

 そんな国土に住む人々は主に4つに分けられる。閩南(みんなん)人、客家、外省人、原住民族(16族から成る)の4つだ。ツアーガイド(台湾人)は4つの民族と説明したが、これを民族と呼ぶのが適切か否かはわからない。

 この島国に言語も異なる多様な人々が居住するに至った経緯をたどれば、そこにはマクロな人類史が圧縮されているようにも感じられる。同じ島国でも日本とはかなり事情が異なっている。世界史の縮図として台湾を観るのは、あらためて考えてみたい面白いテーマだ。

◎ちらりと見た二つの光景

 台北の街角では二つの「政治的」な光景を目撃した。

 一つは、観光客が集まる「台北101」という高層ビルの前の広場で目撃した一団だ。中華人民共和国の五星紅旗を振り回しながら示唆行動をしていた。ツアーガイドは「よく事件を起こす人たちです」と苦々しげにつぶやいた。

 台南市郊外にある有名な八田與一(日本統治時代、ダム建設による農業水利事業に貢献をした技術者)像の首が切り取られる事件が日本でも報道された直後であり、あの事件と関連のある団体ではなかろうかと思った。ヤレヤレという気分だ。

 もう一つの光景は総統府前のデモ準備光景で、バスの車窓からほんの一瞬だけ見えた。ツアーガイドの説明では「年金デモ」の準備だそうだ。

 台湾では一般人の年金はかなり低額だと聞いていたので、その改善を訴えるデモだと思ったがそうではなかった。

 台湾では公務員だけに破格の18%という預け入れ金利が適用され、それが実質的には公務員の高額な年金になっている。蔡英文総統はこの公務員優遇制度を見直す年金改革を進めようとしている。それに反対して既得権益を守ろうとしているのが公務員たちによる「年金デモ」なのだ。ナンダカナーという気分だ。

 ちらりと見ただけの二つの光景に、経済発展を遂げた近代国家・台湾の抱える内憂外患の一端が垣間見えた気がした。日本を含めどの国もいろいろな課題をかかえている。

石垣島の空港で新聞を買う --- 八重山諸島観光(3)2017年02月16日

 大都市圏に住んでいると新聞と言えば朝日、毎日、読売、日経などの全国紙がメインに見えるが、地方都市に行けばブロック紙や県紙など地方紙の方が普及率が高く全国紙は従属的な存在になる。

 それでも、全国紙は「全国」紙というぐらいだから、地方でも購読できる。だが、離島だと配達が困難になる。だから、那覇市のコンビ二では朝日、毎日、読売は入手できない。2008年から現地印刷している日経は置いてある。

 沖縄のメインは沖縄タイムスと琉球新報だ。この2紙は部数もほぼ同じ沖縄の二大紙で、私は那覇に行ったときはこの2紙を毎朝交互にコンビニで購入する。朝、新聞に目を通すという習慣が身についた世代の性だ。

 今回、石垣島を訪れ、ホテルのロビーに沖縄タイムスも琉球新報もないことに気づいた。置いてあるのは八重山毎日新聞と八重山日報の二紙だった。石垣島が沖縄本島からはるかに離れた離島(離島の離島)であることを再認識した。石垣島に住んでいる人(約48,000人)にとっては朝日、毎日、読売などの全国紙はおろか沖縄タイムス、琉球新報などの地方紙も入手が難しく、購読できるのは地域紙と呼ばれる現地印刷の新聞だけなのだ。

 歌人の俵万智さんは東日本大震災の後、息子と二人で石垣島に移住し昨年まで石垣島で暮らしていた。以前、俵万智さんが日経新聞に石垣島の生活に関するエッセイを連載しているのを読み、日経なら沖縄の人も読んでいるだろうと感じていた。だが、俵さんの周囲の石垣島に住んでいる人たちは日経新聞も読むことができなかったのだと、いまになって気づいた。

 石垣島を出発するとき、空港の売店で八重山毎日新聞を購入した。八重山日報は置いていなかった。八重山日報は沖縄で唯一とも言われる保守系論調の新聞だ。ネットで調べると八重山毎日新聞(全国紙の毎日新聞とは無関係)の発行部数は16,000部、八重山日報は6,000部だそうだ。

 八重山毎日新聞には地元ニュースだけが載っているのではない。通信社から配信を受けているであろう海外や全国のニュースも載っているし、テレビ・ラジオの番組表も載っている。

 もちろん離島でもテレビは映るのでニュースは入手できる。離島を訪れて、あらためて電波メディアと紙媒体の大きな違いについて考えさせられた。

竹富島は美しい観光地だが --- 八重山諸島観光(2)2017年02月16日

 八重山諸島観光で最も楽しみにしていたのは竹富島だった。私がこの島の名を知ったのは1973年、社会人になったばかりの頃だ。その頃担当したPR紙の仕事の関係で、編集スタッフがモデル撮影してきた竹富島のビーチの写真を見て、なんと綺麗な海だろうと息をのんだ。

 当時は沖縄返還の直後で、まだ海外旅行も経験していなかった私にとって、沖縄のさらに果てにある竹富島は、はるか彼方の遠い島だった。いつかは行ってみたいと憧れた。

 その後も竹富島の写真を見る機会は何度かあり、そのたびにその美しさに魅了され、いつしか私の頭の中で理想郷のような存在になっていた。行きたいと夢想してから40年以上の時間が経過し、ついに竹富島に足を踏み入れた。

 実は今回、竹富島を訪問するにあたり、楽しみにしつつも竹富島の実景は私の頭の中のイメージとは異なっていて期待外れになるのではとの予感もあった。この島が頭の中に住みついてからあまりにも時間が経ちすぎているからだ。その予感は的中した。上陸した島は私が夢想していた憧れの世界とは異なる単なる観光地だった。竹富島が美しくないわけではないが、私がこの40年間に観てきた数多の光景と比べて特別に美しいとは言い難い。

 若い頃に夢見たものの実態がさほどのものでなかった、というありふれた体験を確認する訪問であった。