オリーブとナツメヤシの国……チュニジア紀行記(3)2019年12月05日

◎チュニジアは農業国

 ローマ帝国時代の北アフリカは現在よりも緑豊かで、ローマへの食糧供給源だった。現在もチュニジアは農業国である。バスの車窓からは延々と続くオリーブ畑を観察できた。ナツメヤシも多い。この時期、オリーブもナツメヤシも収穫期だった。 

◎ナツメヤシの町

 サハラ砂漠に近いオアシス都市トズールはナツメヤシ栽培で開けた町である。収穫前のナツメヤシは袋をかぶせていて、そんなナツメヤシの森をいくつも見た。いちいち袋をかぶせるのは、かなりの手間だろうと思った。

 収穫期なのでトズールの市場には店頭にナツメヤシを吊るしている店がたくさんあった。かなり安いので、つい2Kgも買ってしまった(2Kgで約540円)。

◎オリーブが豊作

 ナツメヤシ以上に目に入るのオリーブ畑である。チュニジアの人口は約1千万人で、オリーブの木はその6倍、約6千万本だそうだ。

 世界のオリーブ生産量のランキングは、ネットで検索した2017年のデータによれば、スペインが第1位で、ギリシア、イタリアと続きチュニジアは第7位である。 

 チュニジアのオリーブは今年は豊作で質もいいそうだ。現地ガイドの話では、今年の生産量はスペインを抜いたそうだ。もしそうならば、生産量世界一になったのかもしれない。

◎搾りたてのオリーブ・オイル

 オリーブの大半はオリーブ・オイルになって輸出される。だが、収穫期の現地でなければ入手できないオリーブ・オイルがある。搾りたてのオリーブ・オイルである。精製前の加熱していないオイルで、バター代わりにパンにつけたり、スプーンでそのまま飲んだりする。色はグリーンだ。

 そんなオリーブ・オイルを売る露店が道端にいくつも出ていて、購入者は自前のボトルを持って買いに行く。

 今回のツアーでは、臨時にオリーブ・オイル工場に停車し、工場見学をした。大規模な機械が稼働していたが、要は大量のオリーブを擦りつぶして液体を抽出しているだけの機械に見えた。

 この工場でも搾りたてのオリーブ・オイルを販売していて、バスの運転手やガイドがペットボトルで購入した。私も自前のペットボトルの水を捨てて空にし、500ml購入した(約150円)。

 ツアー客には購入をためらう人が多かった。ペットボトルの液体は航空機の預け入れ荷物でなければ持ち帰れないので、スーツケース内での液体漏れを心配したのである。私はホテルに到着してから、日本から持参した水のペットボトルに詰め替え、ビニールテープ、ビニール袋、輪ゴムなどを駆使して厳重に梱包した。だから、緑色のオリーブ・オイルを無事日本に持ち帰ることができた。

復活途上の観光地……チュニジア紀行記(2)2019年12月04日

◎「アラブの春」以降、観光客は激減

 チュニジアは遺跡があるだけではなく、地中海のリゾート地でもある。また、南部はサハラ砂漠で、映画『スターウォーズ』のロケ地としても有名である。観光地として魅力的で、国も観光に力を入れている。

 しかし、2011年のジャスミン革命(「アラブの春」のきっかけ)とその後の混乱によって観光客は激減した。ジャスミン革命と呼ばれる民主化運動はベン・アリ独裁政権を倒したが、その後の国の運営は必ずしもうまく行っていない。

 ヨーロッパへの出稼ぎ労働者が送還されたこともあり失業率は高い。現在の国民の平均年収はベン・アリ時代より低いそうだ。治安はさほど悪くなく、観光客の数は戻りつつあるらしい。

◎さびれた観光地?

 チュニジアのいくつかの観光地では、かつてのブームが過ぎたさびれた観光地に迷い込んだ気分になった。観光シーズンではない11月に訪れたせいかもしれない。

 今回のツアーの訪問先には『スターウォーズ』ロケ地が二つあった。一つ目は第1作のロケ地で、砂漠の中にハリボテの住居が残っている。小さな売店も出ている。それなりの趣があり雰囲気は悪くない。だが、セットの近くに作られた共同トイレは悲惨な状態になっていた。誰かが「これなら、砂漠の中でする方がましだ」と言った。同感である。

 二つ目の『スターウォーズ』ロケ地は、第1作と第5作に使われた洞窟住居である。ガイドブックには、この洞窟住居はホテルになっていて、スターウォーズ・ファンの聖地だと書いていた。だが、そのホテルはすでに営業していない。ドミトリー式の小さなホテルだったが客が減ったため、現在は地元住民のバーになっているそうだ。
  
◎バルドー国立博物館の銃痕

 チュニスのバルドー国立博物館には立派なモザイク画が大量に展示されている。その壮観に圧倒されたが、ここには別の不思議なモニュメントがある。

 2015年3月、この博物館で銃乱射事件が発生し、日本人3名を含む22名の観光客が死亡した。博物館の前庭には犠牲者の肖像を描いた大きなモザイク画があり、入口付近には犠牲者の氏名と国籍を刻んだ慰霊碑がある。その脇には犠牲者の国の国旗10本が立っている。

 それだけではない。博物館の随所には銃痕がいまだにある。柱や扉の穴やガラスケースの亀裂の一部を修復せず、そのまま残しているのである。かなり生々しい。歴史的遺物なのかテロ抑止効果をねらっているのか、よくわからない。このような措置が観光客回復にプラスの効果があるかマイナスの効果があるかも、よくわからない。

歴史の地層を感じる国……チュニジア紀行記(1)2019年12月03日

◎カルタゴがあった国

 この11月下旬、チュニジアの世界遺産を巡るツアーに参加した。私の目当てはカルタゴやローマの遺跡見学である。かつてはローマ帝国領だった北アフリカにはローマ時代の遺跡が多く残っていると聞いていたので、いつかは訪問したいと思っていた。また、古代ローマへの関心から、ローマに滅亡させられた通商国家カルタゴも私には興味深い存在である。

◎巨大建築物を残したローマ

 ローマ時代の遺跡としては「ザグーアンの水道橋」「エルジェムの円形闘技場」「アントニヌス帝の共同浴場」「ドゥッガの遺跡」などの巨大建築物を見学し、その威容を堪能した。多くの石材が後世のイスラムのモスク建築のために持ち去られたそうだが、それでも往年を偲べる姿は残っている。

◎カルタゴ遺跡とローマ遺跡の向き

 事前にわかっていたことではあるが、カルタゴの遺跡は少ない。ローマによって紀元前146年に徹底的に破壊し尽くされたからである。それでも、ピュルサの丘にはローマ時代の遺跡の合間にカルタゴ時代の遺跡が残っている。

 この遺跡で興味深かったのは、二つの遺跡の向きがズレている点である。カルタゴ人は海に向かって(適当に?)建てたのに対し、ローマ人は東西南北にこだわって建てている。ローマ人らしさを感じた。

◎意外に小さく感じたカルタゴ軍港

 古代カルタゴの軍港と商業港の跡も残っている。この二つの港を上空から眺めた写真を事前に読んだ本で見たことがあり、期待していた。だが、軍港跡は想像していたよりは小さな池のような場所だった。上空から展望する場所があると思っていたのだが、あの写真は航空写真だったようだ。

◎現代のカルタゴは高級住宅街

 私たちは「カルタゴ」という言葉でポエニ戦争で敗れた都市国家を思い浮かべる。だが、かつて都市国家があった場所は現在もカルタゴという地名であり、カルタゴはチュニス郊外の高級住宅街である。

 だから「カルタゴの遺跡」という言葉はカルタゴ地区にある遺跡という意味になり、その大部分はローマ時代の遺跡になる。ハンニバルらが活躍した頃の遺跡を示すには「古代カルタゴの遺跡」「カルタゴ人の遺跡」「ポエニ人の遺跡」などと言わなければならない。

 この地の紀元前からの歴史を振り返ると、「原住民(ベルベル人)」→「カルタゴ」→「ローマ」→「ヴァンダル人」→「ビザンチン」→「アラブ(イスラム)」と変遷している。アラブの時代になってからもオスマン・トルコの支配下に入ったりフランスの植民地になったりしている。

 ひとつの場所の歴史の地層は複雑である。この地にはいろいろな時代の記憶が堆積している。現地を訪れて、そんな感慨を抱いた。

ペンジケント遺跡に立つ……タジキスタン紀行記(3)2019年08月23日

 ソグド商人への関心から「ソグディアナ」という言葉に惹かれてツアーに参加した私にとって、メインの訪問地はペンジケント遺跡である。ただし事前に「ほとんど何も残っていない場所ですよ」と聞いていたので、現場の雰囲気を感じるだけでいいと覚悟していた。

 ペンジケントは5~8世紀のソグド人の都市遺跡である。ここをマーイムルグ(米国)と比定する吉田豊説が有力だそうだ(森安孝夫『シルクロードと唐帝国』による。吉田豊氏はソグド語が解読できる日本でただ一人の学者)。シルクロードの支配者とされるソグド商人の故地ソグディアナは、多くのオアシス都市で構成されていた。それは都市国家の緩やかな連合体であり、ソグド人は統一国家を作ることはなかった。ペンジケントはそんな都市国家の一つである。

 ペンジケント遺跡は中央アジアで発掘が最も進んでいる遺跡である。歴史学者ドゥ・ラ・ヴェシエールは「最盛期におけるソグディアナの経済的・社会的情報は、ザラフシャン川の渓谷に深く入りくんだまちであるペンジケントにおいてのみ知られている」と『ソグド商人の歴史』で述べている。中央アジアの歴史概説書のいくつかには、ペンジケント遺跡の図面や発掘された壁画の写真が載っている。

 日本から約6000Km、はるばるたどり着いたペンジケント遺跡の入口付近には案内板が3つ立っていた。それだけで、門や囲いはなく管理人などもいない。丘陵への階段を登っていくと踏み跡のような道につながり、周囲に日干しレンガの構築物の残骸らしきものが見えてくる。住居や寺院の跡のようだがよくわからない。廃墟というより荒野に近い。われわれ以外には誰もいない。

 この遺跡に立って千数百年前のオアシス都市の姿を偲ぶには心の眼で眺めるしかない。現場に立ったという昂揚感で、時間の彼方から吹いてくるシルクロードの風をかすかに感じた気がした。

 遺跡内に説明看板は一つもない。来場者に対してもう少し親切に整備するべきではと思った。だが、空気を感じるには何もない方がいいのかもしれない。

 この遺跡は住居跡から多くの壁画が発掘されたことで有名である。ソ連時代に発掘された壁画の多くはエルミタージュ美術館に運ばれた。ドゥシャンベの国立古代博物館に展示されている壁画もあり、それは昨日観てきた。

 壁画で有名なペンジケント遺跡だが、現場は抜け殻である。それは仕方のないことではあるが、遺跡のどこにどんな壁画があったのかは知りたいと思った。

タジキスタンは山岳の国……タジキスタン紀行記(2)2019年08月22日

 紀元前4世紀のアレクサンダー大遠征の最遠地『アレクサンドリア・エスカテ(最果てのアレクサンドリア)』が現在のホジャンド(タジキスタン第2の町)である。国境を越えた最初の訪問地がホジャンドで、ここから首都ドゥシャンベまでは二つの山脈(トルキスタン山脈とヒッサール山脈)を越える山岳道路である。峠の標高は3000メートルを越える。

 事前に旅行会社から配布された書類には次の記述があった。

 「ホジャンド~ドゥシャンベ、ドゥシャンベ~ペンジケントなどは険しい山岳道路です。小型バスまたはバンに分乗してのご案内となり、添乗員が同乗しない車両がございます」

 13年前に刊行された『週刊シルクロード紀行』という雑誌には、この山岳道路を「尻が5センチも浮き上がる衝撃が続く悪路」と綴った紀行文があった。だから覚悟はしていた。

 しかし、この山岳道路は思いのほか快適で、窓外に広がる息をのむ山岳風景を満喫できた。道路はすべて舗装されてる。ガードレールはほとんどない。総勢13人(参加者9人、添乗員、ガイド2人、運転手)には贅沢すぎる普通のバスで走行でき、小型バスに分乗することはなかった。

 近年、この道路は中国によって舗装され、トンネルも掘られたそうだ。タジキスタンと中国は国境を接している。この道路整備も「シルクロード経済ベルト」を目指す一帯一路構想の一環だろうか。世界各地で増大する中国の存在感が不気味でもある。

 標高3000メートルを越えるこの山岳道路は冬季も通行可能だそうだ。驚きである。ガイドは「有料道路なので冬も整備しています」と言っていた。

 タジキスタンは山岳の国である。地形図を見れば明らかなように、われわれが旅行した国の西側はまだ標高が低い地域で、東側は7000メートルを越える高山が連なるパミール高原になる。その山岳地域にもかなりの数の人々が暮らしているそうだ。

 ドゥシャンベのホテルの部屋には「MOUNTAINS ARE CALLING」と書いたチラシや冊子を置いてあった。パミールの山岳地帯を目指すワイルドないで立ちの宿泊客も見かけた。

 ガイドの話によれば、パミールに行くツアーも多くあり、パミールから国境を越えてアフガニスタンに入ることもできるそうだ。そこはアフガニスタンでも比較的安全な地域で、日本人観光客も何人か案内したと言っていた。これにはびっくりした。日本の外務省はアフガニスタンを危険レベル最高のレベル4(退避してください。渡航は止めてください)に指定している。

 なお、日本のパミール中央アジア研究会は、日本の地図帳の「パミール高原」という記載を「パミール」に訂正すべきだと提言している。この地域は「高原」という言葉で連想されるのどかな場所ではない。険しい大山岳地帯なのである。

中央アジアに残るトルコ系とイラン系……タジキスタン紀行記(1)2019年08月21日

 8月中旬、「幻のソグディアナ タジキスタン紀行8日間」というツァーに参加した。最近のわが関心事が「ソグド商人」で、「ソグディアナ」という言葉に反応して参加を決めた。

 タジキスタンがメインのツァーだが、日本からの往復にはタシケント空港(ウズベキスタン)を利用する。だから、ウズベキスタンも少し周遊できた。ウズベキスタンもタジキスタンも以前はソ連の一部で、ソ連崩壊によって独立した国である。これら中央アジアの国への旅行は私には初体験である。

 ウズベキスタンはトルコ系のウズベク人の国、タジキスタンはイラン系のタジク人の国である。だが、ウズベキスタンのサマルカンドやブハラにはタジク人も多く住んでいる。そんな事前知識はあったが、現地を訪れて国、民族、言語が絡んだ状況を少し実感できた。

 民族の定義は難しい。タジク語を話す人がタジク人、ウズベキ語を話す人がウズベク人と見なすのがわかりやすい。タジク語は印欧語系、ウズベキ語はアルタイ語系で、まったく異なる言語である。

 現地での日本語ガイドは日本留学の経験があるウズベキスタン人だった。彼はウズベキスタンに住むタジク人で、ウズベク語もタジク語も話せる。学校ではウズベク語、家庭ではタジク語という環境で育ち、どちらも同等に話せる完全なバイリンガルである。かつてはソ連の一部だったのでロシア語もわかるし、もちろん日本語も堪能である。

 その日本語ガイドは全行程に同道したが、タジキスタンではタジキスタン人の英語ガイド(米国留学経験者)が加わった。タジキスタン各地では彼がタジク語で説明し、それを聞いたウズベキスタン人のガイドが日本語に翻訳する。タジキスタンには日本語ガイドが少ないのでこんな形になったのだと思う。ウズベキスタンのタジク人はタジキスタン人のタジク語を完全に理解できるわけではなく、一部意味不明のこともあるそうだ。

 タジキスタンもウズベキスタンも旧ソ連である。ソ連時代には主要な町の中央にレーニン像が建っていたが、独立後レーニン像は撤去された。それに替わって建てられたのはウズベキスタンではティムール(トルコ系)像、タジキスタンではサーマーニー(イラン系)像である。現在のウズベキスタンにレーニン像はないそうだ。タジキスタンでは町の中央から郊外に移設されたレーニン像が残っている所もあり、観光資源になっている。

 独立後に返り咲いたティムールもサーマーニーもかなり昔の人物だ。14、15世紀に栄えたティムール帝国はトルコ化したモンゴル人のイスラム王朝である。サーマーニーが創始者とされるサーマーン朝は9、10世紀のイラン系イスラム王朝で、首都はブハラ(現在はウズベキスタン)だった。

 中央アジアに残るトルコ系、イラン系の姿が少し見えてくるような気がした。

シチリアの古跡巡りをした2018年05月24日

 8泊10日のシチリアの旅から帰国した。「異文化研究家 前田耕作先生同行 シチリア島の古跡を極める旅」という10人ほどのツアーで、充実した歴史紀行だった。

 事前に読んだ入門書でこの島の複雑な歴史をある程度は把握していたが、現地を訪れてヨーロッパ史の多層をあらためて認識した。

 紀元前1300年頃からこの島にはシクリ族と呼ばれる人たちが住んでいた。紀元前8世紀からギリシア人の植民が始まり、ギリシアの植民都市が建設される。続いてカルタゴがこの地に進出し島を支配するが、ポエニ戦争でカルタゴに勝利したローマの属州になる。ローマ帝国衰亡期にはゲルマン人支配となり、ビザンチン領を経てイスラムの支配となる。そのイスラムをノルマン人が破りノルマン朝のシチリア王国となる。以上が古代から中世までだ。その後も支配者は多様に変遷し、イタリアに併合されたのは150年ほど前になる。

 要はゴチャゴチャと多様な文化が混合した島なのだ。そんなシチリアには古代ギリシア・ローマの遺跡が多い。その遺跡を巡るのが今回の旅行の主旨だ。

 世界遺産に指定され観光客の多い遺跡もあれば、訪れる人がほとんどいないひっそりとした遺跡もある。バスが入れない道をひたすら歩き続けなければたどり着けない遺跡もある。そんな多様な遺跡を巡りながら、人間は歴代の遺跡の積み重ねの上で暮らしてきたのだという当然のことに気づいた。

 古代ギリシアの遺跡がそのまま残っている所の多くは巨石の瓦礫になっている。瓦礫を復元している遺跡もあるが、それらしい趣を残している所には、ギリシア人が造った神殿や劇場をローマ人が改造して活用し、さらに中世の人々が自分たちに合わせて改変したものが多い。

 昔の建造物を「遺跡」として保存しようという考えがいつごろから生まれたのかは知らないが、古い建造物を自分たちの活用に適合するように改造するのは当然の発想だ。だから、ギリシア・ローマの神殿の柱を保持したキリスト教会もあれば、ギリシア→ローマ→中世と改造されてきた劇場もある。

 ギリシア時代に作られた劇場の遺跡が現代のイベントに活用されているのにも感動した。遺跡劇場の舞台にイベント用の現代的オブジェが置かれている所もあったし、山頂の遺跡劇場でギリシア劇の扮装をした高校生がリハーサルをやっている光景も観た。ヨーロッパの歴史のふところの深さを感じた。

 また、遺跡を巡りながら地中海やイオニア海を望み、人間の歴史にとって海が大きな役割を果たしてきたことを実感した。海の向こうからは植民者や交易者がやって来るし敵も来襲する。

 ギリシア人が初期に建設した海岸の植民都市ナキソスの遺跡からイオニア海を臨み、古代から海こそが道だったのだとの感を強くした。同時に、ナキソスの人々がその後に建設した後背の山岳都市の残滓(現在はリゾートの町タオルミーナ)を観て、生き延びる道を垂直方向にも見出す人類の強靭さも感じた。

日本最西端の与那国島で「海の道」を感じた2017年10月05日

航空機から見た与那国島の祖納、久部良を眺望できる「日本国最西端の地」、『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(奥野修司/文春文庫)
◎与那国島への関心の動機

 日本の最西端、与那国島に行った。那覇から約500㎞、プロペラ機で約1時間30分だ。台湾までは111㎞、那覇よりは遙かに近い。だが、与那国島と台湾の間の定期的な航路は現在はない。

 与那国島に行きたいと考えた動機は二つある。一つは今年4月に初めて台湾を訪れ、台湾への関心が高まり、日本で一番台湾に近い与那国島への興味が湧いたからだ。台湾は私の亡母が生まれた地である(ちなみに私の妻の亡母はサイパン生まれだ。私たちの親はそんな世代だったのだ)。もう一つの動機は『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(奥野修司/文春文庫)という本を読んだことだ。終戦直後の台湾・香港と沖縄・本土にまたがる密貿易時代を活写したノンフィクションで、その中では与那国島が大きなウエイトを占めている。

 この二つの動機は台湾絡みという点では同じだ。与那国島はさいはての国境の島だが、海洋進出の最前線の島にも見える。

◎レンタカーなら1日で何周もできる人口1700人の島

 与那国島には1泊し、レンタカーを25時間借りて島のあちこちを巡った。1周約25㎞で主要な道路は舗装されている。車なら1日に何周もできる。私は全周した後、縦断道を使った西半周と東半周を1回ずつし、その間に部分的な往復を何度かした。それだけで島の全体的な様子はわかった気がした。

 この島には祖納、久部良、比川の3つの集落がある。町役場のある祖納に宿泊し、夕食前と朝食後に町内を散策した。それだけで路地の入り組んだこの町がわが庭のように感じられるようになった。

 与那国島の現在の人口は1,700人、戦前は5,000人以上いたそうだ。近年、人口は減少し続け1,500人台になったが、1年前に自衛隊の駐屯地(100人)ができて少し上向いた。自衛隊駐屯に関しては島を二分する論議になり、住民投票で受け入れ派が上回った。

 それはともかく、そんな与那国島にかつては人口2万人の時代があった。終戦後の1948年頃から約3年間の密貿易の時代である。物資不足の時代だったので密貿易が大きな利益を生み出し、その主な舞台になったのは台湾に最も近い港町、久部良だ。与那国島の久部良の狂騒の様子を『ナツコ 沖縄密貿易の女王』で知り、この港町に強く惹かれた。

 レンタカーで訪れた久部良で人口2万人時代の痕跡を確認することはできなかった。だが、想像していた以上に立派な漁港だった。「日本最西端の地」の碑がある展望台からは久部良の全体を一望できる。コンパクトにまとまったいい町に見えた。

◎昔はおしゃれな島だった

 かつて台湾が日本の植民地だった頃、与那国島にとって台湾は身近な存在で多くの島民は台湾と行き来していた。日本は殖民地・台湾にかなりの規模の投資をしていたから、ある意味で内地以上に近代化された場所だった。

 那覇の書店で入手した『与那国台湾往来記』(松田良孝/南山舎)という本に戦前の面白いエピソードが載っていた。与那国島から那覇の高等女学校に進学した女学生は台湾経由で入手した物品を持参していたので、那覇の同級生から「おしゃれだから与那国はいいね」とうらやまれたそうだ。

 いまの与那国島はひなびた田舎で、那覇は中国からの観光客があふれるオシャレな都会に発展している。だが、かつては与那国島が那覇からうらやまれる時代もあったのだ。今回の与那国島訪問で、与那国島の栄華のよすがを偲べればと思っていたが、短い滞在だったのでそんな探索は果たせなかった。

◎海洋は道であると再認識

 与那国島の集落や墓地は石垣島や沖縄本島と似ている。同じ沖縄県であり、かつては琉球王国のテリトリーだったのだから当然かもしれない。だが、不思議でもある。沖縄本島と与那国島は500㎞も離れている。端から橋までの距離がこんなに遠い都道府県は他にはない。

 そんなに離れていても共通のローカル文化をもっているのは、遠い昔から人が交流していたからだ。対岸など見えるはずもない水平線だけの大海を果敢に航海する人々が昔からいたのだ。ある種の人間にとって海路は陸路以上に近い道だったのかもしれない。

 そんなことを考えると、9年前に客船で太平洋を横断したときの思いがよみがえってきた。約4000㎞も離れたイースター島とタヒチ島が同じポリネシア文化圏に含まれいることに驚き、遠い昔から広大な大洋を航行する人々がいたことに感動した。

 水平線しか見えない海が「道」に見えるということが人類の探求心の証であり人類進化の源泉のように思えてくる。与那国島を訪れて大海への船出の魅力を再認識し、そんなことを考えた。

ロシアにはロシア文学の名残があった2017年06月15日

左上:プーシキン像、右上:ドストエフスキー像、左中:プーシキン、右中:ゴーゴリー、左下:ドストエフスキー、右下:トルストイ
 モスクワ2泊、サンクトペテルブルグ3泊のロシア観光ツアーに参加、あわただしくアッという間に終わり、足が疲れた。初めてのロシア旅行で特に自分に課したテーマはなく、知らない寒い国の様子を垣間見たいと思った。

 モスクワもサンクトペテルブルグも予想したほどに寒くはなかった。1週間前は雪だったそうだが、半袖でもOKの気候で、準備したダウンジャケットの出番はなかった。帰国した6月13日の東京はロシア以上に寒く、ロシアで不要だったダウンを着るはめになった。

 見学したのは主に旧宮殿とロシア正教の教会だ。クレムリンもエルミタージュ美術館も元は宮殿だし、トレチャコフ美術館は商人の元邸宅とは言え教会を併設している。

 豪壮な宮殿を観て回ると、あらためて帝政時代のロシア皇帝への富の偏在が実感される。また、教会を観て回ると、社会主義時代にも生き延びたロシア正教の根深さを感じる。

 そんな感想とは別に、ロシアにはやはりロシア文学の名残が色濃く残っているのが意外だった。私も大学時代にはロシア文学に魅かれた時期があり、人並みにロシア文学には関心があるが、今回のツアーとロシア文学つなげて考えてはいなかった。一般の観光旅行のつもりだった。それでも、行く先々で文学者の銅像(ドストエフスキー、プーシキンなど)や肖像画(プーシキン、ゴーゴリー、ドストエフスキー、トルストイなど)に遭遇し、軽い感動を憶えた。

 サンクトペテルブルグ市内をバスで観光しているとき、日本語ガイドのロシア人女性が「ここから見える通りが『罪と罰』のラスコリーニコフが住んでいた場所です」と案内してくれた。もちろん、ラスコリーニコフは実在の人物ではない。だが、かつての住人として人々の記憶に定着しているのかもしれない。

 しばらく行くと「左手に見えるのがゴーゴリのハナの家です」と案内してくれた。「ハナ」が「花」に聞こえ、ゴーゴリーに「花」という作品があったかなあと考えているうちにバスは現場を通過し、ハッとした。その家のドアの上には立派な「鼻」のオブジェが飾られていた。それを見て、ゴーゴリーに『鼻』という珍妙な短篇があったと思い出した。自分の体から分離した鼻が上司になる話だったと思う。もちろん、実話である筈がない。でも、その家は実在していた。

 ラスコリーニコフの家も「鼻」の家もバスの車窓か眺めただけで、写真も撮れなかった。いつの日か、ロシア文学をテーマにロシアの街歩きをするのも一興だと思えた。と言っても、かつて読んだロシア文学の大半は忘れてしまっているし、あの重厚長大な作品群を読み返す元気はない…今のところ。

 ロシアで着なかったダウンを東京で着るはめになったように、忘却していた宿題を持ち帰ってしまったような気分だ。

アウシュヴィッツ強制収容所に行った2017年05月27日

(上)第1収容所入口、(下)第収容所入口
 先週、約1週間のポーランド観光ツアーに参加した。20人余りの団体の大半は私と同じ高齢者で、男性より女性の方が多い。ポーランドはヨーロッパのやや外れにあり、他の国々は見尽くしてポーランドを選んだというツアー・リピーターが多いように思われた。

 このツアーにはオプショナルで「アウシュヴィッツ強制収容所見学」が含まれいて、私の目当てはこれだった。アウシュヴィッツに関しては様々な本や映像で一通りのことは知っているつもりだが、現場の雰囲気を体感しながら歴史の暗部を振り返ってみたいと思ったのだ。

 アウシュヴィッツはポーランド第2の都市クラクフ(かつてのポーランド王国の首都)からバスで2時間ばかりの場所にある。オプショナルなので、アウシュヴィッツに行かない人はクラクフで自由行動となっていたが、ツアー参加者の全員がアウシュヴィッツ行きを選択した。ちょっと意外だった。

 アウシュヴィッツには公式のガイドがいる。そこには唯一の日本語公式ガイド・中谷剛氏がいる。中谷氏は『アウシュヴィッツ博物館案内』(凱風社)という著書もあり、私も事前にその本を読んでいた。その本には次のような一節がある。

 「アジアからの訪問者も年々増えている。特に韓国からの訪問者が多く、2011年は4万3000人に上った。日本からの見学者は年間1万300人に増えた。ヨーロッパの見学者の74%が14歳から25歳までの若年層であるのに対し、遠距離のせいもあってか、アジア----特に日本----からの訪問者はお年を召した方が中心であるのは、ある意味で残念なことだ。」
 
 アウシュヴィッツでのわれわれのガイドは中谷剛氏だった。上記の本が書かれた2011年には日本からの来訪者は1万人程度だったが、その後も来訪者は増加し、昨年は3万人を超えたそうだ。中谷氏がガイドできるのは1日に2回なので、すべての日本人のガイドはできなくなっているそうだ。日本人来訪者の大半が高齢者なのは変わらない。

 中谷氏のガイドはユダヤ人迫害のかつてのドイツの状況を現代の排外主義風潮、ヘイトスピーチ、ポピュリズムなどと重ね合わせて解説する部分もあり、含蓄に富んでいた。中谷氏ならずとも、高齢者ではなくい日本の若い人々もここを見学しやすくなればと思った。

 1948年生まれの私にとってアウシュヴィッツ強制収容所は生まれる数年前まで存在した同時代の事象という感覚がある。しかし、21世紀の若者にとっては、遠い過去の歴史上の出来事だろう。だからこそ、歴史に学ぶ場としてのアウシュヴィッツの現代的意義は増大する。

 アウシュヴィッツの現場に立って、あの有名な「ARBEIT MACHT FREI」の文字がある門は意外と小さく感じた。第一収容所全体も思ったほど広くはない。陳列されている犠牲者の様々な遺品や頭髪の山には息を飲むしかない。第二収容所のビルケナウは広大だった。

 われわれのグループに10年ほど前にもアウシュヴィッツに来たという無口な高齢者がいて、ビルケナウをもっとゆっくり見学できないだろうかと要望したが、それはかなわなかった、私が彼に「なぜ、2回も来たのですか」と尋ねると「何度でも来たい」という答が帰ってきた。そもそもの来訪のきっかけはフランクルの『夜と霧』を読んだことだそうだ。そんな人もいるのだ。

 ポーランド政府観光局が制作した日本語の冊子があり、アウシュヴィッツを含めて13の世界遺産を紹介している。アウシュヴィッツ以外の世界遺産は見開きか4頁で紹介しているのに、アウシュヴィッツだけは1頁だ。ドイツ人が作った強制収容所を観光地として宣伝したくないという観光局の気持ちはわかる。景勝地や歴史的建造物など他の世界遺産と異質なのは確かだ。

 だが、アピールの方法が難しくても、重要な遺跡であるアウシュヴィッツへの多くの人々の来訪を促すべきだ。現地を訪れて強くそう思った。