石垣島の空港で新聞を買う --- 八重山諸島観光(3)2017年02月16日

 大都市圏に住んでいると新聞と言えば朝日、毎日、読売、日経などの全国紙がメインに見えるが、地方都市に行けばブロック紙や県紙など地方紙の方が普及率が高く全国紙は従属的な存在になる。

 それでも、全国紙は「全国」紙というぐらいだから、地方でも購読できる。だが、離島だと配達が困難になる。だから、那覇市のコンビ二では朝日、毎日、読売は入手できない。2008年から現地印刷している日経は置いてある。

 沖縄のメインは沖縄タイムスと琉球新報だ。この2紙は部数もほぼ同じ沖縄の二大紙で、私は那覇に行ったときはこの2紙を毎朝交互にコンビニで購入する。朝、新聞に目を通すという習慣が身についた世代の性だ。

 今回、石垣島を訪れ、ホテルのロビーに沖縄タイムスも琉球新報もないことに気づいた。置いてあるのは八重山毎日新聞と八重山日報の二紙だった。石垣島が沖縄本島からはるかに離れた離島(離島の離島)であることを再認識した。石垣島に住んでいる人(約48,000人)にとっては朝日、毎日、読売などの全国紙はおろか沖縄タイムス、琉球新報などの地方紙も入手が難しく、購読できるのは地域紙と呼ばれる現地印刷の新聞だけなのだ。

 歌人の俵万智さんは東日本大震災の後、息子と二人で石垣島に移住し昨年まで石垣島で暮らしていた。以前、俵万智さんが日経新聞に石垣島の生活に関するエッセイを連載しているのを読み、日経なら沖縄の人も読んでいるだろうと感じていた。だが、俵さんの周囲の石垣島に住んでいる人たちは日経新聞も読むことができなかったのだと、いまになって気づいた。

 石垣島を出発するとき、空港の売店で八重山毎日新聞を購入した。八重山日報は置いていなかった。八重山日報は沖縄で唯一とも言われる保守系論調の新聞だ。ネットで調べると八重山毎日新聞(全国紙の毎日新聞とは無関係)の発行部数は16,000部、八重山日報は6,000部だそうだ。

 八重山毎日新聞には地元ニュースだけが載っているのではない。通信社から配信を受けているであろう海外や全国のニュースも載っているし、テレビ・ラジオの番組表も載っている。

 もちろん離島でもテレビは映るのでニュースは入手できる。離島を訪れて、あらためて電波メディアと紙媒体の大きな違いについて考えさせられた。

竹富島は美しい観光地だが --- 八重山諸島観光(2)2017年02月16日

 八重山諸島観光で最も楽しみにしていたのは竹富島だった。私がこの島の名を知ったのは1973年、社会人になったばかりの頃だ。その頃担当したPR紙の仕事の関係で、編集スタッフがモデル撮影してきた竹富島のビーチの写真を見て、なんと綺麗な海だろうと息をのんだ。

 当時は沖縄返還の直後で、まだ海外旅行も経験していなかった私にとって、沖縄のさらに果てにある竹富島は、はるか彼方の遠い島だった。いつかは行ってみたいと憧れた。

 その後も竹富島の写真を見る機会は何度かあり、そのたびにその美しさに魅了され、いつしか私の頭の中で理想郷のような存在になっていた。行きたいと夢想してから40年以上の時間が経過し、ついに竹富島に足を踏み入れた。

 実は今回、竹富島を訪問するにあたり、楽しみにしつつも竹富島の実景は私の頭の中のイメージとは異なっていて期待外れになるのではとの予感もあった。この島が頭の中に住みついてからあまりにも時間が経ちすぎているからだ。その予感は的中した。上陸した島は私が夢想していた憧れの世界とは異なる単なる観光地だった。竹富島が美しくないわけではないが、私がこの40年間に観てきた数多の光景と比べて特別に美しいとは言い難い。

 若い頃に夢見たものの実態がさほどのものでなかった、というありふれた体験を確認する訪問であった。

西表島でベトナム戦争映画を想起 --- 八重山諸島観光(1)2017年02月16日

 八重山諸島の石垣島、西表島(いりおもてじま)、竹富島を駆け足で巡る観光旅行に行った。沖縄本島には何度も行っているが離島は初めてだ。

 今回の訪問地では西表島が最も印象深かった。沖縄県では本島に次ぐ面積の島だが、その大半はジャングルなので人口は2千人ほど。石垣島から高速船で40分で行ける。

 西表島の大原港から観光バスに乗ると、運転手兼ガイドが「手前に見えますのが信号機です」と言った。何かの冗談かと思ったが、それは日本最南端の信号機だった。西表島で唯一の信号機で、本来はなくてもかまわないが、子供の教育のために設置しているとのことだ。真偽のほどは定かでないが、特別な信号機に見えてきた。

 バス観光の後、日本最大のマングローブの川を遡る観光船に乗った。その船の操縦士兼ガイドがバスの運転手兼ガイドと同じ人だったのには驚いた。一人で四役をこなしているのだ。

 沖縄返還以前のベトナム戦争の頃、米軍はこの地で大規模な演習をしていたそうだ。西表島がベトナムの地形に似ているからだ。そう言われてみると、西表島の風景が映画『プラトーン』や『地獄の黙示録』の光景と重なり、遠い地に来た気分になった。

山田方谷ゆかりの地を歩く(3) --- 備中松山城2016年02月14日

備中松山城、方谷ゆべし、山田方谷を大河ドラマにする署名簿
◎天空の城・松山城に登城

 方谷記念館と方谷園を訪れた翌日の帰京日、備中高梁駅で途中下車し、備中松山城に行った。城の登り口までは事前予約制の乗合タクシー(往復860円)を利用した。車を降りてから徒歩20分と聞いていたが、この20分の登山はかなりきつかった。寒い冬の日だが、汗だくになり途中でコートを脱いだ。

 備中松山城は現存天守12城の一つで天空の城としても有名な観光地だ。訪問者もそこそこに多い。とは言え、20分の登山をしなければたどり着けない場所なので、人がひしめきあう状態ではなく、ほどよい混み具合だ。天守閣のある山頂から見下ろす高梁川沿いの城下町の景観もすばらしい。

◎昔の藩士たちはこの山道を毎日登ったのか?

 それにしても、山田方谷ら備中松山藩の藩士たちはこの山道を毎日登り下りしていたのだろうかと疑問に思った。足腰の鍛錬にはなりそうだが、現代の満員電車での通勤以上に消耗するようにも思える。その疑問は帰京の新幹線車中での読書で解消した。山田方谷記念館で買った本の中に「江戸時代とはいえ、毎日山の頂上までは登っていなかった。天守閣に行くのは祭事など特別な場合のみである」という記述があった。藩主が日常的に住んでいたのは平地の御殿で、藩政はそこで行われていたそうだ。

◎山田方谷は大河ドラマになるか?

 備中松山城内の展示室に、山田方谷をNHK大河ドラマへという運動の署名簿があった。この運動があることは数年前から知っていた。百万人署名を目指しているらしい。方谷園まで往復してもらったタクシーの運転手は「山田方谷を大河ドラマにしようという運動がありましたが、戦闘シーンがないのでダメになったんです」と過去形で語っていたが、まだ、署名運動は続いているようだ。山田方谷を主人公にした大河ドラマが成り立つか否か、かなりビミョーだ。私は大河ドラマのファンではないが、じっくり検討してみるのも面白そうだ。

◎土産は方谷ゆべし

 乗合タクシーの乗降場である駅前観光案内所で「備中国銘菓 方谷ゆべし」という土産を売っていたので、迷わず購入した。山田方谷関連の書籍を読んでいて、方谷が藩政改革の一環としてゆべし作りを奨励したという記述が印象に残っていたからだ。ゆべし作りがどれほどの産業規模だったかは知らないが、方谷が実施した大規模な財政再建に占めるゆべしのウエイトがさほど大きかったとは思えない。ゆべしの話が言い伝えられているのは、単に方谷がゆべしを好きだったのではなかろうかと勝手に想像してしまったのだ。私はゆべしが好きなので「方谷ゆべし」という表記を見てすぐに手が伸びた。

山田方谷ゆかりの地を歩く(2) --- 高梁市中井の方谷園2016年02月14日

山田方谷の墓、方谷園、方谷駅
◎車でしか行けない方谷園

 方谷園は山田方谷が生まれた高梁市中井西方にあり、方谷の墓も園内にある。最寄り駅は伯備線の方谷駅で、そこから車で10分かかる。周辺には何もない無人駅で、もちろんタクシー乗り場などない。

 方谷園に行くとすれば、新見駅か備中高梁駅からタクシーで行くしかなさそうだ。かなりの費用になりそうだが、エイヤと決断し、新見からタクシーで往復することにした。事前に東京からタクシー会社に電話した。「方谷園」と言えばすぐ通じると思っていたが、なかなか伝わらない。ガイドブックにある住所を言って何とか伝わった。地元で山田方谷を知らない人は少ないが方谷園はあまり一般的でないようだ。

 さらに驚いたことに、方谷駅から方谷園のある高梁市中井までの道路は通行止めなっていて、すぐに復旧する見込みはないそうだ。多少大回りになるが別ルートで行けるとのことなので、タクシーを予約した。

◎方谷園は閑静な墓地だった

 途中下車した刑部駅から姫新線に乗り新見駅に到着したのが14時26分、駅前には予約したタクシーが待っていた。方谷園までは約50分、途中かなり細い山道を登って行った。山奥の日影の道端には残雪もある。年配の運転手も方谷園へ行くのは初めてのようで、途中2回ほど車を止めて地元の人にルートを確認していた。

 方谷園は川沿いの山裾にある山田家の墓地で、その前方に小さな庭園が作られている。閑静でひなびた場所で、浮世から隔離された心地良いひとときを過ごした。

◎方谷資料展示室も見学

 方谷園の近所の中井地域市民センターという施設の中には方谷資料展示室がある。入口にたたずんでいると、どこからか職員の女性が現れ展示室の照明を点けてくれた。親切にも「説明員を呼べますが…」と言ってくれたが、時間の余裕もないのでそれは断わった。方谷の筆跡やパネル展示などを一通り眺めて、タクシーで新見へ戻った。見学時間を含めて往復で約2時間、タクシー代は16,000円ほどだった。

◎方谷駅は車窓から眺めるだけ

 タクシーで方谷園へ往復しようと決意した時、方谷駅で途中下車して周辺を散策したいと思った。かつて山田方谷が居住していた場所が方谷駅のあたりなのだ。方谷駅経由のルートが通行止めだったため、その散策の目論見はかなわなかった。で、翌日、新見から備中高梁へ行く途中に車中から駅の看板を撮影した。小学生時代から知っている駅だが、その時から現在に至るまでいつも通過するだけだ。いつか、下車してみたい。

山田方谷ゆかりの地を歩く(1) --- 刑部の方谷記念館2016年02月14日

方谷記念館、刑部駅
◎山田方谷ゆかりの地は三カ所

 岡山県新見市にある父母の墓参りに行くのを機に山田方谷ゆかりの地を訪ねることにした。

 山田方谷は備中松山藩の藩政改革に活躍した幕末の陽明学者で、JR伯備線には「方谷(ほうこく)」という駅がある。人名が駅名になったのは異例だそうだ。小学生の頃、私は夏休みのたびに祖父母の住む新見へ伯備線で行っていた。だから「方谷」という駅名は子供の頃から耳になじんでいた。しかし、方谷が地名ではなく人名だと知ったのは約10年前、50代後半になってからだ。

 その頃、司馬遼太郎の『峠』に山田方谷が登場すると知り、この小説を読んだ。それ以来、山田方谷についてもう少し知りたいと思いつつ月日が過ぎた。今回、久々に岡山へ行くのをきっかけに、山田方谷に関する本を何冊か読み、『おかやま歴史の旅百選』というガイドブックで山田方谷ゆかりの地を調べた。そこに紹介されている「ゆかりの地」は次の三つだ。

 ・備中松山城(JR伯備線備中高梁駅から車15分下車徒歩20分)
 ・方谷園(JR伯備線方谷駅から車10分)
 ・方谷庵・方谷記念館(JR姫新線刑部駅から徒歩15分)

 この三つはかなり離れた位置にある。ドライブ旅行ではなく汽車の旅でこれらを巡るのは大変そうだが、2泊3日の旅行で墓参りの他にこの三つのすべてに行くことにした。

◎山村にたたずむ山田方谷記念館

 最初に訪ねたのは姫新線の刑部(おさかべ)駅から徒歩15分の方谷記念館である。ネットに月火休館とあり、訪問予定日は水曜日なので大丈夫だとは思ったが、念のために事前に電話で確認した。「休館は月曜と火曜ですが、事前に連絡いただければ、休館日でもなるべく開けるようにしています」という親切な対応だった。

 姫新線は姫路と新見をつなぐ鉄道で、刑部は新見の三つ手前の駅だが、姫路から新見まで行く列車はない。新幹線で岡山まで行き、津山線で津山まで行って一泊、津山発新見行きの姫新線に乗り、刑部駅で途中下車した。11時22分に下車し、次の14時2分に乗車した。1日8本のローカル線なので、乗り遅れると次は17時17分になってしまう。

 刑部駅は無人駅で、駅の周辺に店などはない。人通りのない道を約15分歩き、方谷記念館にたどり着いた。私の他に客はいないだろうと思っていたが、記念館の前に三重ナンバーの車が止まっていて、4人の先客がいた。先客は私と入れ違いで出て行ったので、一人でゆっくり見学できた。

 管理人らしき老夫婦がいて、まず最初にビデオ上映があり、お茶とお菓子が出た。2本立てのそこそこに長いビデオだったので、それを観ながら持参したコンビニ握り飯で昼食をとった。ビデオの後、管理人らしき亭主の展示説明もあり、いろいろお話しもできた。

 その亭主は元JR職員だそうだ。「私はJRに長い間勤めていましたが、方谷駅が人名だと知ったのは60歳を過ぎてからです。地元に立派な人がいたんですねえ」と語るのが、私と似たような体験なので面白かった。

 この記念館のオープンは12年前の2004年で、当初の来館者は年間数百人だったが、最近は増加して年間千人を超えたとのことだ。ということは1日平均5人前後か。のんびり見学できるのは間違いない。

◎方谷山田先生遺蹟碑の見学は断念

 記念館の少し先に方谷庵があり、それは外から見学した。刑部には方谷山田先生遺蹟碑というオベリスクもある。勝海舟が題字を揮毫した石碑で、これも記念館の近所にあるのだろうと思っていたが、駅の反対側のかなり遠い所にある。そこにも行こうと思っていたが、のんびりし過ぎて時間がなくなった。徒歩でオベリスクを目指したがなかなかたどり着かず、汽車の時刻が気になり途中で引き返した。乗り過ごすと次の汽車まで3時間以上待つことになってしまうのだ。

サイパン訪問記(2):北マリアナ諸島博物館の不思議な魅力2014年04月03日

北マリアナ諸島博物館、松江春次の銅像、博物館ドアの掲示
◎博物館に期待

 今回のサイパン旅行では北マリアナ諸島博物館にはぜひ行きたいと考えていた。この博物館に行った人がネットに書いている情報などで、日本統治時代のガラパン市街の様子を伝える資料が展示されていると知ったからだ。ネットに掲示されている館内の写真から、義母の父親の商店が載っていそうな地図も展示されていると思われた。

◎博物館の開館日は何曜日か

 北マリアナ諸島博物館に行こうと決めたのはいいが、開館日がなかなか確認できなかった。

 最新のガイドブック(『地球の歩き方:サイパン '13~'14』)では「土・日曜・祝祭日休館」となっている。3泊の短い旅行なので休館日に当たらないように日程を組まなければならない。当初、金曜日に博物館に行く計画にした。

 念の為にネットで調べると、この博物館の休館日に関する情報は錯綜していた。  YouTubeに投稿されている宣伝動画(https://www.youtube.com/watch?v=jf9WG3LZTpo)では月曜から日曜まで毎日開館しているとうたっている。2007年の投稿なので、その後変更になったのだと判断した。
 日曜・祝祭日休館で土曜は開館しているとの情報もあったが、これも古い情報だろうと推察した。

 その後、開館は月曜から木曜という情報を発見した。金曜日も休館だとすれば、日程を組み変えなければならない。

 こういう時は博物館のホームページで直接確認するべきだ。しかし、そのホームページがなかなか見つからない。この博物館の正式名称は Northern Mariana Islands Museum of History and Culture (北マリアナ諸島歴史文化博物館)のようなので、それで検索しているうちに、やっとホームページらしきものに遭遇した。しかし、それは仕掛中のぺージで開館日などの基本情報すら載っていなかった。

 しかたがないので現地に電話することにした。電話番号はガイドブックやネットの情報で「664-2160」と確認できた。英語力に自信はないが、日本から「010-1-670-664-2160」とダイヤルすると、なにやらアナウンスが流れて切れてしまった。「あなたのかけた電話番号は一時的に使われていません」と言っているようだ。

 この博物館はすでに閉館になっているのではなかろうかとの疑念がわいた。現地のツアー会社にメールで問い合わせてみると「最近は金曜日も休みのようです。弊社から連絡を取ろうとしたところ、電話がつながらなくなっていました」というメールが返ってきた。

 様子がよくわからないまま、博物館行きを月曜に変更した計画を作り、出発した。出発の直前に再度電話を入れてみたが、以前と同じメッセージが流れるだけだった。

◎博物館は開館していた

 サイパン旅行三日目の月曜日、午前中はサブマリンツアーに参加し、海中の珊瑚礁や沈没船の残骸などを見た。午後、いよいよ北マリアナ諸島博物館に赴いた。

 この博物館は旧日本病院の建物を改装したもので、ホテルから徒歩15分ぐらいの場所にあり、サイパン開発に貢献した砂糖王・松江春次の銅像が建つ砂糖王公園に隣接している。

 北マリアナ諸島博物館はひっそりとしたたたずまいで、入口のドアには「OPEN」の表示があった。ホッとした。ドアに料金表を掲示しているのに、ドアを開けてもチケット売場らしきものはない。そのまま展示室に入ると「Donation」と書かれた箱があったので、入場料相当の紙幣を入れた。どうやら、無人運営の博物館のようだ。われわれの他に人はいない。

 展示はそれなりに充実していて、興味深かった。古いガラパン市街の地図で義母の父親の商店の場所も確認できた。
 この博物館は日本統治時代の資料だけを展示しているのではない。それ以前のスペイン統治時代の資料も多いが、やはり、私たちにとっては日本統治時代のものに興味を引かれる。

◎時間が止まったような空間

 無人の博物館にもかかわらず、入口の脇には小さな売店があった。わずかばかりの商品や書籍が並んでいて、呼び鈴を置いてある。購入したいときにはこれを鳴らすようだ。無人ではなかったのだ。そう言えば、入口の開館時間の表示に、ランチタイムは閉館と表示されていた。

 ガヤガヤと商品を眺めていると、奥から髭面の若い男性が出てきた。日本語が通じない人だったが、カミさんが義母の昔の写真を見せながら身ぶりとカタコトで義母のことを伝えた。彼は「ナイス! ナイス!」と愛想をふりまいた。入場料について聞くと「フリー」と言っていた。入口に料金表を貼り出しているのに、なかなかアバウトである。

 この売店で書籍を2冊購入した。「サイパン燃ゆ:1944年6月の侵攻」「サイパン:マリアナ諸島写真集」の2冊で、いずれも20年前の1994年に発行されたものだ。博物館の展示品を紹介する冊子が欲しかったが、そんなものは置いてなかった。

 博物館を出るとき、あらためて建物を眺めた。この建物は日本統治時代の昔の病院だから、遺跡か廃墟のように見える。入口には「CNMI MUSEUM」という色あせた地味な看板があるだけだ(CNMIはCommonwealth of the Northern Mariana Islands:北マリアナ諸島連邦)。
 ネットで見た写真には、もっと目立つ大きな看板(布製か?)が掲げられていたが、いまでは取り払われている。

 2007年頃には毎日開館していたこの博物館は、やがて日曜閉館になり、さらに土・日曜閉館になり、現在では金・土・日曜閉館になっている。これも、戦跡に関心をもつ観光客が減り、過疎化がすすんできた現れなのだろう。

 訪れる人が少なく、静かにたたずんでいるこの博物館には独特の魅力がある。20年前の写真集を売店に並べている北マリアナ諸島博物館は、時間が止まったような空間だった。。

◎往時の繁栄を偲び、現状を考えるが…

 北マリアナ諸島博物館の日本統治時代の展示からは、往時のサイパンの繁栄が偲ばれる。現在のサイパンの産業は観光だが、当時のサイパンは日本の軍事基地であると同時に製糖業の一大拠点だった。

 松江春次の尽力で創業した国策会社・南洋興発は海の満鉄と呼ばれ、製糖業を中心にさまざまな事業を展開し、軽便鉄道も敷設した。当時の地図を見ると、サイパン島のいたる所までに鉄道が走っているのにおどろかされる。現在ではまともな道路もなくジャングルになっているカラベラ地区も、当時は日本人の集落があり鉄道が走っていたのだ。

 現在のサイパンには製糖工場も鉄道もない。サイパンに上陸した米軍がこれらの施設を破壊し、その一部は現在ではジャングルに戻っている。

 昨日のツアーの日本人ガイドは「サイパンの人は今でも、日本統治時代が一番よかったと言っています」と語っていた。日本人の話だから割り引いて聞くとしても、軍国時代の日本人の開拓者魂は評価しなければと思う。

 ただし、現在のサイパンに何が必要なのか、何をするべきなのか、海外資本の力で観光開発を続けるのか、別の道も探すべきなのか、私にはわからない。

◎ホームページがあった

 帰国後、ネットを検索していると北マリアナ諸島博物館のホームページ(http://cnmimuseum.wix.com/welcome#! )を発見した。以前に見つけた仕掛中のページが完成したのだろうか。記憶があいまいで、はっきりしないが、キツネにつままれた気分だ。
 このページに掲載されいる開館日や開館時間は博物館の入口に掲示されているものとは微妙に違っている。
 メールでの問い合わせもできるようになっている。旅行前にこのぺージにアクセスしていれば活用できたのにと思った。
 ホームページには電話番号も掲載されている。その番号は670-664-2164だ。私がかけた番号と下ひとケタが違っている。ガイドブックをはじめネットのいろいろなページに掲示されていた番号は間違いだったのだろうか。あるいは何かの事情で電話番号を変更したのだろうか。

 謎の多い、不思議な博物館である。

サイパン訪問記(1): 二つの敗戦を感じた観光旅行2014年04月02日

旧日本軍の戦跡(サイパン)
◎義母の生まれ育った地へ

 昨年90歳で亡くなった義母(カミさんの母親)はサイパン生まれだった。当時のサイパンは日本の委任統治領で、義母の父親はサイパンで手広く商売をやっていたそうだ。
 何不自由なくサイパンで育った義母は、晩年になってもサイパンを懐かしんでいた。しかし、戦後のサイパンを訪れることはなかった。サイパン旅行をした姉から「いまのサイパンはすっかり変わってしまい、昔の面影は残っていない」と聞き、再訪の意欲がわかなかったようだ。

 義母が亡くなり、カミさんが自分の母親が生まれ育った土地を見たいと言い出した。カミさんが計画を作り、夫婦に娘と孫(小学生二人)の5人でサイパンに行ってきた。3泊の短い旅だったが、戦跡など往時を偲ぶ場所をいろいろ巡った。

◎サイパンは米国の自治領

 100年前の第一次世界大戦で日本の委任統治領になったサイパンは、1944年に米軍に占領され、ここから日本本土を空襲するB29が飛び立った。終戦後は国連の信託統治領になり、1981年から米国の自治領になっている。
 成田からサイパンに行く直行便はデルタ航空しかない。

◎到着初日、サイパンの過疎化におどろく

 いまのサイパンはマリンスポーツの観光地になっていて、戦跡を訪れる人は多くはない。市販のガイドブックを見ても、楽しそうなマリンスポーツの記事が中心だ。
 だから、南国のリゾート地に行く気分で足を踏み入れた。しかし、予想はかなりはずれた。確かにリゾート地ではあるが、さほど賑やかではない…と言うか、過疎化しているのだ。

 私たちが宿泊したのはハファダイビーチホテルだ。1977年に日本からの戦没者慰霊団の宿泊施設としてオープンし、その後、クリスタルタワー(14階)、タガタワー(18階)を増設した大規模ホテルである。
 ネットの口コミ情報には「古い本館はカビ臭い」という投稿が多かった。私たちが予約しているのは比較的新しいタガタワーの部屋だったので大丈夫だろうと思っていた。しかし、残念なことに、やはりカビ臭かった。しばらくの時間、窓を開けっ放しにしておいて、何とか過ごすことができた。

 小さな子連れだったので、念の為に到着日の夕食だけはホテルの展望レストランを日本から予約しておいた。予約した18時にレストランに行くと他に客はいなかった。海に沈む夕日が眺望できる大きなレストランだったが、私たちが席を立つ19時過ぎまで他の客は来なかった。

 ホテルはサイパンで一番の繁華街であるガラパン地区にある。義母の父親の店もかつてはこの地区のどかにあったそうだ。街を歩いてみると、シャッターを下ろした店が目立つ。営業中であっても、古びた商品がホコリを被っている店もある。

 ホテルや街の様子から、サイパンは盛りを過ぎた観光地なのだと気付いた。清里や熱海に似ているのかもしれない。

 ホテルの窓からは別棟を望める。夜になっても灯り消えている部屋が多い。空室のままの期間が長いので部屋がカビ臭くなっていくようだ。ホテルのサービスに特に問題は感じなかったが、スタッフは少なそうだった。空室の管理にまでは手が回らないのだと思われる。

◎中国人と韓国人の多さにおどろく

 二日目、日本人ガイドの案内で戦跡をメインにサイパンの各地をドライブした。面積が淡路島の五分の一程度の小さな島なので、半日でほぼ全域を回れる。

 朝一番に行ったのは、最高峰のタポチョ山(標高473m)である。出発の時、日本人ガイドが「まず、朝一番でタポチョ山に行きます。9時を過ぎると中国人観光客が大勢来てうるさくなるからです」と言った。こんな所にまで中国人が押し寄せているのかとおどろいた。

 タポチョ山に行くには、舗装されていない難路を激しく揺られながら登らなければならない。本来は四駆でなければ危ないそうだ。私たちの車(シボレーのSUV)は四駆ではなかったが無事に登りきり、山頂に一番乗りできた。

 山頂には大きなキリスト像があり、サイパン島全体を一望できる。映画『太平洋の奇跡:フォックスと呼ばれた男』で有名になった大場大尉の部隊が潜んでいた場所も眼下に見ることができる。米軍基地からこんなに近い場所に潜んで17カ月間も抵抗し続けたのかとおどろかされた。

 私たちが下山する頃には、ガイドの言ったとおり、中国人観光客が数名現れた。下り道では登って来る何台もの車とすれ違った。

 タポチョ山に限らず、旧日本軍野戦病院跡の聖母マリアの祠、バードアイランド、スーサードクリフ、バンザイクリフなどにも多くの中国人や韓国人が来ていた。これらの戦跡では日本人をほとんど見かけなかった。
 もちろん、ビーチや街中には多くの日本人がいるが、中国人や韓国人の方がはるかに多い。
 
◎敗戦の索漠たる情景

 なぜ、サイパンは過疎化しつつあるのか。なぜ、日本人観光客が減っているのか。にもかかわらず、なぜ、中国人や韓国人の観光客が多いのか。それらの疑問はガイドの話で氷解した。

 かつては、日本の企業がサイパンの観光開発の担い手だった。しかし、その多くが破綻して撤退し、日本資本に代わって中国資本や韓国資本が進出してきているのだ。
 サイパンのホテルの多くは日本企業が建てたものだ。しかし、いまではその大半が中国や韓国の企業に売却されている。それを象徴するのがJALの撤退だ。

 かつてサイパンへの定期便を運航していたJALは、1988年に大規模なホテル・ニッコー・サイパンを開業した。今の天皇夫妻がサイパン訪問したときに宿泊したホテルだ。しかし、天皇夫妻宿泊の4カ月後の2005年10月、JALのサイパン便は廃止された。その後、ホテル・ニッコー・サイパンは中国資本に売却され、パームス・リゾート・サイパンという名に変わった。そのホテルも数年前から休業したままになっている。ドライブの車中からその巨大な建物を眺め、索漠たる気持になった。

 日本のバブル崩壊に連動したサイパンの観光事情は、ちょっと調べればわかることだったが、うかつにもサイパンを訪れるまでは知らなかった。

 サイパンは太平洋戦争の犠牲者が多い島で、戦没者慰霊に訪れる日本人は多かったはずだ。遺族や戦争経験者の高齢化にしたがって戦跡を訪れる日本人が減少しているだろうとは容易に想像できる。それを補って、マリンスポーツを楽しむ若者やゴルフをやるオジサンなどの観光客が多いのだろうと思っていた。
 しかし、この目で見たサイパンは、太平洋戦争での日本敗北の残骸に経済戦争で敗退した日本資本の残滓が重なっている姿だった。

 サイパンでは思った以上に日本語が通じるのがうれしかった。看板やレストランのメニューも日本語が多い。しかし、それに加えて中国語やハングルもあふれている。日本語が通じる時代がいつまで続くのか心もとない限りである。
 かつてサイパンでマリンスポーツを楽しんだ日本の若者たちが、年を経て、生前の義母と同じように「いまのサイパンはすっかり変わってしまい、昔の面影は残っていない」という時代に入りつつあるように思える。

「謎に満ちたモアイ」を読み、わが頭の硬さを再認識2012年07月22日

『ナショナルジオグラフィックス日本版 2012年7月号』表紙、上空に雲をいだくイースター島(ラパヌイ)全景
 『ナショナルジオグラフィックス日本版 2012年7月号』の巻頭記事は「謎に満ちたモアイ」だ。イースター島(現地名:ラパヌイ)へは4年前に行き、モアイもたっぷり見ているので、興味をもって読んだ。そして、びっくりした。

 イースター島を訪れる前に簡単な解説本に目を通していたし、現地での説明も受けたので、この島の歴史について多少は知っているつもりだった。とは言っても、イースター島の歴史は実はよくわかってはいない。

 イースター島は、ポリネシア人が移植してくる以前はヤシの木が繁る緑豊かな島だった。イースター島の緑が失われたのは人口増加による乱開発と部族間の抗争(モアイ倒し戦争)だった。それが、私の乏しい知識のあらましだった。

 『ナショナルジオグラフィックス』は、その通説(?)に対抗する新たな説を紹介している。イースターの森林破壊は人間によるものではなく、人間がもちこんだネズミによるものであり、文明破壊的な部族抗争はなかった、とするのが新設だそうだ。この記事だけでは詳しいことはわからないし、もちろん真実は不明だが、安易に通説(?)を信じていた自身の頭を反省した。

 イースター島に関しては、訪問直前に得たヘイエルダールに関する最近の知見に驚いた体験もある。
 ヘイエルダールの『コン・ティキ号探検記』に接したのは小学生の頃だと思う。昔の筏を復元したコン・ティキ号で大陸からどこかの島までの航海を敢行し、大陸から島への文明伝播をついに証明した……そんな感動的な冒険成功航海記という記憶があった。
 イースター島訪問直前に、コン・ティキ号が目指したのはイースター島だったと知った。ヘイエルダールはポリネシア文明の起源をインカ文明とする説を証明するため、南米からイースター島に航海したのだ。航海は成功したが、ポリネシア文明の起源を南米とする説は現在では否定されている。DNA調査などによりアジア起源とされている。
 このことを知り、学説のはかなさを感じた。にもかかわらず、別の学説は疑うことなく受け容れていたのだ。頭を柔らかくするのは難しい。

 『ナショナルジオグラフィックス』の記事で衝撃を受けたのには、そんな背景もある。

 それはともかく、この記事を読んで、4年前のイースター島訪問の記憶がよみがえり、船の甲板から眺めた島の全景がまぶたに浮かんできた。

 離島のとき、後部甲板からイースター島を眺めた。大海に浮かぶ島の上空だけが雲に覆われていた(写真参照)。湿った空気が山にぶつかると上昇気流によって雲が発生する。そんなことは頭では知っていたが、実景でその様を眺めると感動した。
 イースター島に高い山はない(せいぜい海抜500メートル程度)。しかし、絶海の孤島である。360度の大海原に浮かぶ低いイースター島の上空だけに雲が密集している光景に、大自然の摂理の顕れを感じた。

 遠い昔のポリネシアの人々が、カヌーのような船でどのようにして何千キロメートルもの大航海していたかは知らない。島の上空に発生する雲がひとつの道標になったのかもしれないと想像した。

63歳にして念願のダイビングを初体験2012年07月11日

 先日、63歳にして初めてスキューバダイビングをした。以前からやってみたいと思っていたことが、やっと実現した。

 ダイビングをしたいと思ったのは、ずいぶん昔だ。20代か30代の頃だろう。ダイビングをやってみたいなあと思っていたその頃、たまたまテレビでダイビング講座の番組があった。書店でテキストを購入し、そのテレビ講座を視聴した。
 しかし、テレビ講座を視たからといって、実際にダイビングをすることはなく、いたずらに齢を重ねてしまった。あの時のテキストは紛失しているし、テレビ講座の内容もほとんど憶えていない。

 テキストを紛失しても、ダイビングをしたいという気持が失せたわけではなく、いつかやってみたいという気分は頭の片隅に残り続けていた。気分が残っていても行動に移すことがないまま、またたく間に数十年が経った。
 今回、ついに尻を上げたのは、友人の娘が沖縄在住でダイビングに入れ込んでいると知ったからだ。その娘の手をわずらわせて体験ダイビングをすることができた。

 人生には、「やろうやろう」と思いつつ実施できないままにうかうかと時間が経っている課題が多い。私にはダイビングもそんな課題の一つだった。このような「そのうちやろう課題」の多くは、結局は未達成のままに終わってしまいそうだ。「ダイビング」をかろうじて実施できたのは、上記のようなちょっとしたきっかけがあったからだ。

 「そのうちやろう課題」が実施できるか否かは、意欲や計画性によるのではなく、単にちょっとしたきっかけによるのだと思う。いいかげんに聞こえるかもしれないが、周到な計画に基づく予定表をこなしていくのが人生だとは思えない。計画は必要だろうが、さほど有効ではない。

 で、きっかけに恵まれて人生初のダイビングをした場所は、沖縄恩納村の真栄田岬だった。好天に恵まれ、サンゴ礁の海にはたくさんの魚がいた。40分弱の体験ダイビングだったが十分に楽しめた。

 30年来の夢がかなったのだから満足はしている。しかし、体験してしまうと、やや物寂しいあっけなさも感じる。

 ダイビングごときで大袈裟に考える必要はないが、人間にとっては、物事を達成した喜びより達成するまでのワクワク感の方が重要なのかもしれない。
 「そのうちやろう課題」をあれこれ練り上げていくのと、「未達成リスト」をひとつひとつこなして行くのと、どちらが楽しくてどとらが空しいのだろうか。ケースバイケースだからゴチャゴチャ考えても無意味か。