昭和天皇の末弟・三笠宮の生涯は興味深い ― 2026年10月06日

『三笠宮:昭和天皇末弟の近現代史』(舟橋正真/中公新書)
 2016年に100歳で亡くなった三笠宮を描いた新書が出たので、入手して読んだ。

 『三笠宮:昭和天皇末弟の近現代史』(舟橋正真/中公新書)

 三笠宮はオリエント史の研究者でもあった。ある先生から三笠宮と居酒屋で歓談した話を聞いたことがある。居酒屋の外にはSPが立っていたそうだ。

 私は59年前の十代の頃、三笠宮の講演を聞いたことがある。1967年に文藝春秋が刊行開始した『大世界史』(全26巻)の第1巻のタイトルは「ここに歴史はじまる」、執筆者は三笠宮崇仁だった。この歴史叢書刊行を記念して文藝春秋は三笠宮の講演会を開催した。十代の私は古代オリエントに関心はなかったが、天皇の弟が喋る姿を見たいというミーハー気分で聞きに行った。

 半世紀以上前に出た「ここに歴史はじまる」を読んだのは11年前、六十代になってからである。その後、多少は古代史の本も読むようになり、オリエント史への関心もわいてきた。本書を読んだ動機の一つは、オリエント史研究者としての三笠宮の活動や位置づけを知りたいと思ったことにある。

 その点に関して、本書は期待はずれだった。皇族としての三笠宮の活動や発言の記録がメインで、学者としての三笠宮については簡単に触れているだけだ。中近東文化センターの設立やトルコでの遺跡発掘に関して、三笠宮が資金調達に尽力したと聞いたことがあるが、本書はそんな事情には言及していない。学問の世界で三笠宮がどう評価されているかの記述もない。

 と言っても、かなり興味深い伝記である。特に前半の1960年(三笠宮45歳)頃までが面白い。私の知らなかった三笠宮の人物像が描かれている。

 昭和天皇の皇弟たちは陸軍か海軍に入ることになっていて、末弟の三笠宮は乗馬が好きだったので陸軍を選ぶ。陸軍士官学校、陸軍大学で学び、陸軍参謀として南京に派遣され、「皇軍」の残虐行為を知り、聖戦に対する信念を喪失する。三笠宮が軍に提出した「支那事変に対する日本人としての内省」という文書は「危険文書」として回収・廃棄される。

 戦後の三笠宮は皇室の民主化を願い、かなり自由に発言する。「アカハタ」にインタビュー記事が載ったこともあるそうだ。天皇制廃止論者の色川大吉氏などとも交流している。「紀元節」復活(建国記念日の制定)には歴史学者の立場から反対を表明する。

 昭和天皇はそんな三笠宮に批判的で、両者の間には確執があった。昭和天皇の次のような見解が面白い。

 《「動機に余り結果を考えられぬ傾向」のある三笠宮の性質や行いについて、天皇は「陸軍風」と称し、「自然行われぬとき、結果を構わず、誰にでも発表するくせ」があると厳しく断じる。つまり、三笠宮の行動について、独断専行を是とする陸軍教育の悪影響と見ていたのである。》

 不思議な見方である。立場によってはそのように見えるのかと妙に感心した。

『ヴェネツィアの冒険家マルコポーロ伝』を野次馬読書 ― 2026年09月23日

『ヴェネツィアの冒険家マルコポーロ伝』(ヘンリー・H・ハート/幸田礼雅訳/新評論)
 32年前の1994年に出たマルコ・ポーロ評伝の翻訳書を古書で入手して読んだ。

 『ヴェネツィアの冒険家マルコポーロ伝』(ヘンリー・H・ハート/幸田礼雅訳/新評論)

 マルコ・ポーロに関しては、『東方見聞録』や『マルコ・ポーロ』(海老澤哲雄/世界史リブレット)で多少の知識は得ている。モンゴル史家の杉山正明はマルコ・ポーロの実在を疑っており(『モンゴルが世界史を覆す』)、私はその見解に説得力を感じている。杉山正明は「マルコ・ポーロと呼ばれる誰か」が存在したとは考え、それは「元朝において異なるポジションにいた複数の西洋人」だろうと推定している。彼らの見聞に基づいた『東方見聞録』の史料価値は認めている。

 実在が疑わしいマルコ・ポーロという人物の評伝をなぜ読もうと思ったのか。シルクロード学の泰斗・岩村忍(1905-1988)の著書『マルコ・ポーロ』(岩波新書)について、ウィキペディアに次の記述があったからである。

 「没後もロングセラーとして版を重ねていた『マルコ・ポーロ』(岩波新書)は、アメリカの東洋学者ヘンリー・H・ハートの著書"MARCO POLO"(原著1942年刊)の剽窃の疑いが濃いことが当該書の日本語訳『ヴェネツィアの冒険家:マルコ・ポーロ伝』刊行時に訳者の幸田礼雅によって判明し、以後は重版されていない。」

 ヘェーと思い、その訳書と岩波新書を読み比べたくなった。単なる野次馬読書である。まず、ハートの『ヴェネツィアの冒険家マルコポーロ伝』を読んだ。

 原著の初版は1942年、本書は1967年の改訂版の訳書である。一般向け解説書で、多くの史料を引用している。メインの史料はもちろん『東方見聞録』であり、多様な異本をふまえてマルコの生い立ち、中国への旅行、ヴェネツィアへの帰国を描いている。

 期待したほどにユニークな評伝ではなかったが、期待に無理があったのだと思う。フィクションに走らずにマルコの人物像を描くのは難しい。

 『東方見聞録』に基づいた記述は評伝としては単調になる。『東方見聞録』はマルコからの聞き書きの書であり、マルコは自身の人生や身辺の出来事は語っていない。見解や感想も吐露しない。そんな『東方見聞録』だけがマルコ自身にアプローチする手がかりだから、誠実にマルコ像を描こうとすれば、多少の推測を交えてもぼんやりした人物像しか描出できない。

 著者は同時代を描いたさまざまな史料によって、マルコが生きた時代やマルコが訪れた地域を描き、評伝をふくらませている。解説書としては面白いが、補足史料でマルコの姿が鮮明に浮かび上がるわけでない。

 マルコが実在したことを前提に『東方見聞録』の内容を信頼するなら、こんな評伝になるだろうと思う。著者は、マルコが「話を盛った」可能性については検討していない。

 本書で面白いのは、『東方見聞録』に基づかないヴェネツィア帰国後のマルコの後半生の話である。同時代の人々から『東方見聞録』はフィクションと見なされ、誰もマルコの話を信用しない。マルコは頑固な吝嗇家の老人になる。著者は「晩年の厳しく頑固なマルコと、著作に現れた若い彼とをどう一致させるかは難しい問題だ」と述懐している。

 ヴェネツィアの公文書館には1324年に他界したマルコ・ポーロという人物の記録があり、マルコの後半生は、それらの史料に基づいて描かれている。杉山正明は、記録が残っているこの人物と『東方見聞録』の語り手が同一人物である保証はないとしている。だが、マルコが実在したと考えるなら、同一人物と見なさざるを得ず、後半生の変貌を描くしかないようだ。

『しづ子:娼婦と呼ばれた俳人を追って』には謎解きの面白さがある ― 2026年09月20日

『しづ子:娼婦と呼ばれた俳人を追って』(川村蘭太/新潮社/2011.1)
 俳人・西東三鬼が主人公の小説『三鬼』(小林恭二)を読み、俳句への関心が多少よみがえり、未読棚の次の評伝に手がのびた。

 『しづ子:娼婦と呼ばれた俳人を追って』(川村蘭太/新潮社/2011.1)

 大胆な句を残して消息不明になった俳人・鈴木しづ子(1919-没年不詳)の評伝である。15年前に新刊で購入したまま積んでいた。次のような句を詠んだ人だ。

  ダンサーになろか凍夜の駅間歩く
  黒人と踊る手さきやさくら散る
  娼婦またよきか熟れたる柿食うぶ
  コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ
  夏みかん酸つぱしいまさら純潔など

 こんな句に接すると、作者はどんな人物だろうと興味をそそられる。私が鈴木しづ子の人物像に触れたのは、24年前のNHK教育テレビ「人間講座 女性俳人の系譜」という番組だった。講師は宇多喜代子、放映は2002年8月~9月だった。テキストを購入・保存している。全9回の番組の「第7回 境涯俳句」で、しず子にかなりの時間を割いていた。

 宇多喜代子は、しづ子が失踪前に住んでいた岐阜県各務原に何度も足を運び、関係者(家主、キャバレー経営者など)から消息を探ったが、途中で断念する。「今後、鈴木しづ子に関して知ったことは一切聞かなかったこと、読まなかったことにしようと決めました」との心境に至る。印象に残る番組だった。

 あの番組から9年後に出た本書の著者・川村蘭太は映画プロデューサーで、俳人・俳句研究家でもある。しづ子に惹かれた著者は、彼女を映画にしたいとの意図で何年にもわたって取材を重ねる。映画化はかなわなかったが、取材の成果は本書に結実した。「人間講座 女性俳人の系譜」にも言及している。

 本書は想定外に面白い評伝だった。謎解きドキュメントであり、ある種の告発書でもある。告発されているのは、インサイダーにしか見えない結社や師弟関係が絡み合った俳句界の奇矯な姿である。

 多くの人への取材に基づいたノンフクションだが、著者の大胆な想像も盛り込んでいる。一般に広がっているしづ子のイメージに異を唱え、著者自身によるしづ子像を提示した評伝である。

 鈴木しづ子は神田生まれ、女学校卒業後、女子大への進学をめざすが失敗、専門学校で技術を修得して製図工として就職する(20歳)。職場の俳句会で俳句を始め、松村巨湫という俳人の弟子となり結社「樹海」に入る(23歳)。27歳で処女句集『春雷』を刊行、注目を集める。この間に、許嫁が戦死している。その後、大学生と交際、職場の同僚と結婚、すぐに離婚する。恋多き女とも言われる。

 離婚後、岐阜県各務原に転居、米兵相手のダンスホールのダンサーとなり、黒人兵ケリーと同棲する。ケリーは朝鮮戦争で負傷し、精神を病む(麻薬中毒?)。ケリーは米国に帰国し、すぐに病死、遺族から訃報が届く。その頃、師・松村巨湫らの尽力で第二句集『指環』が出版され、しづ子は上京して出版記念会に出席する。そして、岐阜に帰った後に失踪する。「自殺したらしい」「渡米したのでは」などと取りざたされた。

 以上がしづ子の略歴である。娼婦に堕ちた女とも囁かれ、性を謳う「娼婦俳句」とも言われる。本書のサブタイトルは「娼婦と呼ばれた俳人を追って」である。

 著者は、緻密な検討を経て、しづ子はダンサーだったが娼婦ではないとしている。同棲した黒人兵(軍曹)ケリーは知的で穏やかな人物だったらしい。

 しづ子のスキャンダラスなイメージは、師・松村巨湫らが『樹海』の知名度を俳句界で上げる戦略として造りあげたもので、松村巨湫はしづ子伝説のプロデューサーだった。二人の師弟関係は良好であり、しづ子自身もこのプロデュースを受け容れていた。やや異様な師弟関係とも言える――著者は、そのように見なしている。しづ子には演技癖もあり、自身の年齢を6歳若く語っていたそうだ。

 そして、自分の役割を終えたという虚脱感、師と俳句への訣別の意思が失踪につながり、かつては「句は私の命でございます」とまで言った俳句を棄てたとしている。著者は、しづ子は仏門に入ったのだろうと推測している。著者のしづ子への愛のひとつの結論だろう。

加藤九祚の人柄が浮かび上がる中村敦夫の『コーカサスの風』 ― 2026年08月14日

『コーカサスの風:My Silk Road』(中村敦夫/テレビ朝日/1989.11)
 37年前にテレビ朝日が出版した中村敦夫の紀行文を古書で入手して読んだ。

 『コーカサスの風:My Silk Road』(中村敦夫/テレビ朝日/1989.11)

 この紀行文は、先日読んだ『シルクロード文明の旅』(加藤九祚)の冒頭に載っている旅の別バージョン記録である。

 黒海北西岸のオデッサ(ウクライナ、当時はソ連)からカスピ海西岸のバクー(アゼルバイジャン、当時はソ連)までの旅は、ユネスコの学術調査だった。日本、ソ連、英国、米国の人々から成る50人が10台の四駆を連ねて、1989年5月から6月まで約40日かけて旅した。

 テレビ朝日や朝日新聞などもこの学術調査に参加している。学術調査団の団長は英国人の学者だが、車10台のうち4台はテレビ朝日の取材班が占めている。事情は不明だが、テレビ朝日がかなり出資した学術調査だったのかもしれない。テレビ撮影をしながらの旅なのだ。途中、団長は「私たちはテレビの奴隷になっています」とぼやいている。

 テレビ朝日取材班のレポーターが中村敦夫(当時49歳)、学問上のコンサルタントが加藤九祚(当時67歳)だった。中村敦夫による本書を知り、加藤九祚への言及があるだろうと期待して入手したのだ。期待通りだった。

 本書はテレビ取材班の奮闘をやや諧謔的に綴っていて読みやすい。中村敦夫は、自身が歴史に不案内だとしたうえで「この本の中で、少しでも歴史学的叙述が出てくるとすれば、すべて加藤氏からの受け売りと思っていただきたい」とことわっている。また、次のように述べている。

 「積極的になれば、歴史というのは結構面白そうだ。だが、他人のやらぬ研究に没頭している加藤氏の人柄は、それ以上に面白い。」

 「原宿のニイちゃんみたいな格好をしている。(…)おまけに、カウボーイ・ハットをかぶり、半ぱな色のサングラスをかけている。それがシュールにならず、なんとなく似合うから不思議である。(…)教授というより、チョビ髭先生とでも呼ぶ方が似合っている。」

 野原に咲いているアザミの花を見たとき、チョビ髭先生は、頼みもしないのに「アザミの歌」を歌い出す。その歌を中村敦夫は次のように評している。

 「老人の歌は、たとえ下手でも、ある種の味が出るものである。だが、チョビ髭先生の歌は、驚いたことに、ただひどいだけなのだ。私がその場を外れようと歩き出すと、歌いながら追いかけてくる。」

 加藤九祚の愛嬌がうかがえて楽しい。

 本書には「オセチアの祟り」という面白い章がある。「祟り」にはいくつかの意味が込められている。歓迎の酒の強要も「祟り」のようだ。酒に弱くはない中村敦夫もダウンする。そのときの様子は以下の通りだ。

「地元の男たちは、まるで水でも飲むような調子だが、客たちは次第にダウンしてくる。笑っているのは、酒好きのチョビ髭先生だけである。(…)一日に酒を25杯も飲むなんて、人生の新記録だ……。そんなことを思っているうちに、私は意識を失ってしまった。」

 加藤九祚は『シルクロード文明の旅』で、この宴会を次のように描いている。

 「(…)しきたりにのっとって殺した羊と自家製トウモロコシ酒で大宴会になった。乾杯の連続で中村氏はついにダウンした。ヴォロジャが乾杯の音頭をとるたびにみんながアーメフサウドと叫んだ。「アーメン」という言葉にも似ている。」

 坦々とした描写である。やはり、加藤九祚は酒に強かったようだ。

『完本 天の蛇』は身がひきしまる伝記 ― 2026年08月13日

『完本 天の蛇:ニコライ・ネフスキーの生涯』(加藤九祚/河出書房新社/2011.4)
 加藤九祚の『ユーラシア文明史』、『シルクロード文明史』に続いて『天の蛇』を読んだ。

 『完本 天の蛇:ニコライ・ネフスキーの生涯』(加藤九祚/河出書房新社/2011.4)

 ネフスキー(1892-1937)はロシアの東洋学者である。1915年、ロシア帝国の官費留学生として日本に留学し、23歳から37歳までの14年間を日本で暮らし、1929年にソ連に帰国する。日本では柳田国男、折口信夫ら多くの研究者と親交を深め、日本人女性(イソ)と結婚し、女児(ネリ)をもうけた。イソとネリはネフスキー帰国4年後の1933年にソ連に渡る。ソ連で研究者として活躍を続けていたネフスキーは、スターリン時代の1937年に逮捕される。イソも同様に逮捕され、二人とも処刑された。名誉回復が成ったのは1957年である。

 ネフスキーの伝記『天の蛇』は1976年に出版され、大佛次郎賞を受賞した。その35年後、新たな資料などを増補して出版したのが本書『完本 天の蛇』である。タイトルは、ネフスキーの宮古島での取材に基づいた論文「天の蛇としての虹の観念」に由来している。

 本書を読んで驚いたのは、ネフスキーの民俗学、言語学、音声学への学識の深さである。柳田国男も折口信夫もスルーした門外漢の私は、本書が紹介する彼の業績を咀嚼できたわけではないが、学者の凄みを感じることはできた。日本語の論文も書いたネフスキーは、日本の民俗学に浅からぬ貢献をしていると知った。

 ネフスキーは日本研究だけをしたのではない。西夏(タングート)語の研究でも多大な業績をあげている。旺盛な知的好奇心に感服する。

 学問のことがよくわからなくても、この伝記は面白い。交遊録や家族の話が興味深いし、何よりも悲劇的な最期に暗然となる。ソ連に帰国せず日本に残っていればと考えても、その後の歴史を考えれば何とも言えない。人の運命は生きた時代や場所によって大きく左右される――そんな運命論めいた諦観におそわれる。

 先日読んだ『ユーラシア文明史』には、著者が1972年(名誉回復後)にレニングラードでネフスキーの娘(当時44歳。医師)に会った話が載っていた。本書はその1972年の訪問記も収録している。

 増補版には、それからさらに20年後の1992年(ソ連崩壊の翌年)にネフスキーの娘が発表した「両親について」という文章が載っている。両親が処刑され「人民の敵の娘」となった筆者の追憶は興味深い。1991年になってKGBの捜査資料が公開され、両親の死の記録を読むくだりは心ふるえる。二人は逮捕から約1カ月後の1937年11月24日に銃殺されていた。1976年版『天の蛇』は、当時の当局発表に基づいてネフスキーの死亡を1945年2月としていた。それは虚偽だったのだ。

 この娘の文章の次の一節が心に残った。

 「両親の名誉回復後は気分的にずっと楽になったが、明日はまた何か起こるか、という心配は絶えなかった。」

旅行準備で『シルクロードの大旅行者たち』を読んだ ― 2026年07月07日

『シルクロードの大旅行者たち』(加藤九祚/岩波ジュニア新書/1999.3)
 カザフ・キルギス旅行の出発直前に次の新書を読んだ。

 『シルクロードの大旅行者たち』(加藤九祚/岩波ジュニア新書/1999.3)

 7人の旅行家を紹介した岩波ジュニア新書である。その7人のなかにプルジェワリスキーがいると知って、この新書を古書で入手した。

 今回の旅行の訪問先のひとつに、キリギスのイシククル湖の東南岸にあるプルジェワリスキーの墓と記念博物館がある。このロシア人探検家の名に聞き覚えはあるが、よく知らない人物である。手頃な解説書がないかとネット検索していて本書を見つけたのだ。

 著者が加藤九祚(1922-2016)なので躊躇なく購入した。94歳でウズベキスタンで客死した興味深い研究者である。『シベリア記』など何冊かの著書を読んだが、もう少し追究したいと思っている人物のひとりだ。

 この新書は次の7人の簡潔な伝記集である。

 張騫(BC175?~BC114)
 玄奘(602~664)
 ルブリュック(1215-1220頃~1270頃)
 マルコ・ポーロ(1254頃~1324年)
 イブン・バットゥータ(1304~1368/69)
 プルジェワリスキー(1839~1888)
 オーレル・スタイン(1862~1943)

 件のプルジェワリスキー以外の6人は私には馴染みのある人物だ。ルブリュックはモンゴル史や十字軍史でよく目にする。彼とカルピニの旅行記を収めた『中央アジア・蒙古旅行記』(講談社学術文庫)は入手済である――未読棚に積んだままだが。他の5人(プルジェワリスキー以外)は、概説書や著作を読んだことがある。

 この7人の旅行者の選出は概ね妥当だと思う。モロッコ出身のイブン・バットゥータが中国まで足を伸ばしたかは不明だが、中央アジアへは行っているので「シルクロードの旅行者」に含めていいだろう。

 シルクロードの命名者リヒトホーフェンの弟子のヘディンが入っていないのが気がかりだが、同時代のスタインの方を選んだのだろう。ヘディンはプルジェワリスキーに憧れて探検家になった。ブルジェワリスキーの章で「ヘディンの中央アジア探検は、プルジェワリスキーのそれの延長であった」と言及していて、プルジェワリスキーで代替した形になっている。

 本書の表紙写真はプルジェワリスキーの記念碑である。私は今回の旅先でこの記念碑を実見するはずだ。楽しみである。プルジェワリスキーの功績は、19世紀から20世紀にかけての中央アジア探検の端緒を開いたことにあるようだ。「グレートゲーム」の号砲を鳴らした人とも言える。

 最終章のスタインを読んでいて、著者・加藤九祚とスタインが重なって見えてきた。スタインは、かねてからの願望だったアフガニスタンの考古学的調査が80歳になってかない、現地におもむく。だが、到着から数日後にカーブルで病死する。生前に「死ぬなら旅先で死にたい」と述べていたそうだ。加藤九祚はウズベキスタンで発掘調査中に倒れ、現地の病院で死去した。享年94だった。

 スタインはハンガリー出身の英国の研究者だった。加藤九祚は朝鮮出身である。そんな出自も二人は重なっている。

追悼・つげ義春 ― 2026年03月28日

 つげ義春の訃報がニュースで流れた。3月3日に入院先の病院で亡くなり、親族のみの葬儀を終えたそうだ。

 調布市文化会館の「つげ義春のいるところ展」(1月29日~3月22日)の開催中に逝ったことになる。つげ義春は調布市在住だった。ニュースには昨年から体調を崩していたとあるから、この展覧会に出向くことはなかったと思う。体調にかかわらず来なかったかもしれないが。

 私はこの無料の展覧会に3回行った。会場まで電車を使って30分弱、徒歩で40分弱、同じ市内だから行きやすいのである。

 1回目に観たときの感想をブログに書いた。2回目に行ったのは、調布を舞台にしたマンガのシーンを再確認するためだった。

 3回目はTシャツを買うためである。1回目に行ったとき、『ねじ式』のTシャツに食指が動いたが売り切れだった。2回目に行ったとき、陳列しているこのTシャツに「土日のみ販売」の札が下がっていた。私が行ったのは平日である。他のTシャツやグッズは普通に販売しているのに、何故かこのTシャツのみ販売日を限定しているのだ。で、数日後の日曜日に出向き、無事ゲットできた。

 つげ義春の訃報に接し、頑張って入手したTシャツをあらためて広げてみた。まだ寒いので着ていないが、今年の夏には何度か着用すると思う。その頃までに全集をゆっくりと読み返したい。

「つげ義春のいるところ展」を観て散歩したくなった ― 2026年02月22日

 調布市文化会館たづくり展示室で開催中の「つげ義春のいるところ展」に行った。入場無料だ。つげ義春は調布市に縁の深いマンガである。調布市在住の水木しげるのアシスタントになるのを機に調布市に転居した(1966年)。水木プロで働いたのは短期間だったが、88歳の現在も調布市在住だそうだ。

 私が初めてつげ義春作品に接したのは学生時代の1968年だった。書店の店頭で『ガロ 増刊号 つげ義春特集』をパラパラとめくって惹きつけられ、すぐに購入した。この増刊号の巻頭に載っていたのが『ねじ式』である。それ以降、彼の主要作品は読んできた。

 あらためてつげ義春ワールドにハマったのは6年前、2020年夏である。ふとしたきっかけで読んだ『貧困旅行記』に始まり、マンガや日記やエッセイを読みあさり、DVDを観て、関連本も読んだ。あの時期に、手元の本との重複が多いのを承知で、ちくま文庫の「つげ義春コレクション(全9冊の全集)」も入手してしまった。

 「つげ義春のいるところ展」は、マンガの原画、古い貸本マンガ、昔の写真、識者や関係者のコメントパネルなどを展示している。つげ義春の現在(だと思う)を撮影したビデオも流している。

 『海辺の叙景』全ページの複製原画に魅了された。「複製」とあるが原画そのものに見えた。あの有名なラストの見開き「いい感じよ」は迫力があり、やや不気味でもある。

 『李さん一家』の李さんのフィギュアなども展示している。物販コーナーもあり、『ねじ式』のキーホルダーを買った。『ねじ式』のTシャツにも食指が動いたがS以外は売り切れだった。

 今回の展示で興味深かったのは、調布風景である。つげ義春のマンガには調布市内と思しきシーンがいくつもある。それらを拾い出したコマと、実景写真をパネルで並べて展示している。わが家の近所と思しき情景もある。

 帰宅後、『近所の景色』『散歩の日々』などを読み返し、調布風景らしきコマを確認した。いずれ、もう一度「つげ義春のいるところ展」に足を運び、それぞれのシーンをよく確認したうえで、マンガ本を携えた市内散歩を試みたくなった。