『つげ義春日記』はなぜ面白いのだろうか2020年09月20日

『つげ義春日記』(つげ義春/講談社文芸文庫)
 駅前の書店の店頭に文庫本の『つげ義春日記』が平積みになっていた。この夏、つげワールドに浸る日々を何日か過ごしたが、それは古書をひもとく時間だった。新本の世界でつげ義春に出会い、不意打ちをくらった気分になり、すぐに購入した。

 『つげ義春日記』(つげ義春/講談社文芸文庫)

 この文庫本は2020年3月10日発行で、私が購入したのは6月25日発行の4刷だった。売れているようだ。「小説現代」に連載されたこの「日記」の単行本は1983年12月に出版されている。松田哲夫氏の本書の解説によれば、妻マキに誇張や私事の暴露が非難されたため、今日まで文庫化されなかったらしい(妻・藤原マキは1999年に逝去)。

 『つげ義春日記』は昭和50年(1975年)から昭和55年(1980年)までの日記で、この間に長男が誕生し、妻が癌にかかり、本人は精神病で通院する。基本的には気が滅入るような日々を綴った暗い日記である。読み始めると、暗鬱かつノスタルジックな世界に引きずり込まれ、一気に読んでしまった。

 この日記は私小説ファンのつげ義春が綴った「私小説」である。私は私小説ファンではなく、私小説はほとんど読まない。だが、この日記を読んでいると、私小説も面白いと思わされてしまう。

 この日記のどこが面白いのか、私自身にもよくわからない。有名マンガ家の日常生活を覗き見する面白さがあるのは確かだし、調布市在住の私には馴染みの場所が頻出するうれしさもある。生まれたばかりの子供を抱えた小さな家族の些事に身をつまされ、オロオロする主人公に同情することもある。だが、そんな所だけにこの日記の魅力があるとは思えない。

 私小説全般に言えることかもしれないが、語っている自分と語られている自分の間には微妙で奇妙なズレがあり、それを感得するムズムズした感覚が面白さにつながるのかもしれない。虚実皮膜である。

 この日記の昭和55年(1980年)分は妻・藤原マキが『私の絵日記』(ちくま文庫)で描いた日々と重なり、両者が同日を描いている日記も何日かある。つきあわせて読むと面白さは倍加し、「おかしな二人」との思いもわいてくる。

96歳で逝去した外山滋比古氏は手品師のような文章家2020年08月07日

朝日新聞記事、『伝達の美学:「受け手」の可能性』(外山滋比古/三省堂/1973.3)
 外山滋比古氏が96歳で亡くなった。多くの本を書いた人である。わが書架には外山氏の著書が13冊並んでいる。その多くは四十代の頃(20年以上昔)に続けて読んだもので、読後感はぼやけて融合している。だが、二十代のはじめに読んだ次の本の印象は鮮明に残っている。

 『伝達の美学:「受け手」の可能性』(外山滋比古/三省堂/1973.3)

 これは、私が初めて読んだ外山氏の著作で、私にとっては「思い出の本」である。
 
 当時(1974年)、私は会社員だった。入社2年目の私に「新聞広告に関する20枚の論文を書け」との業務命令があった。業界団体の懸賞論文に若手が順繰りで応募させられるのである。「情報産業」という言葉に眩さがあった時代で、学生気分を多少引きずっていた私は、少し背伸びして俄か仕込みで情報環境論の文献をあさり、それをベースに論文をデッチ上げようとした。しかし、頭の中は混迷を深めるばかりで一向にまとまらない。

 そんな時に出会ったのが『伝達の美学』である。本書を読んで、一気に目の前が開け、私の書きたいことが見えた。おかげで、本書を援用して何とか論文を仕上げることができた。選考結果は「佳作」というギリギリのお情け点だった。

 本書は、情報の「受け手」の創造性に着目し、近代文化が経験するこのなかった受け手社会が出現する可能性を論じている。外山氏の語り口は平明で明快だが、その論旨は易しくはない。私も十全に理解できたわけではない。

 後日、外山氏の初期の著者『近代読者論』『修辞的残像』などを読み、『伝達の美学』の背景にある思想を知ったが、それでもやはり難しい。250万部のベストセラー『思考の整理学』にしても、すらすらと読めるエッセイでありながら、かなり抽象度の高い難解な本に思える。

 外山氏は、かなり難しい抽象的な事を平明・軽妙に語ることができる手品師のような文章家だったと思う。

『玄宗皇帝』(伴野朗)で大唐の春を偲ぶ2020年08月06日

『玄宗皇帝』(伴野朗/徳間文庫)
 吉備真備や玄昉が留学生として過ごした唐は玄宗皇帝の時代だった。玄宗と言えば楊貴妃を連想するが、同時に中国が魅力的に輝いていた国際都市・長安のイメージも重なる。天平時代に関する本を続けて読んだ流れで、次の歴史小説を読んだ。

 『玄宗皇帝』(伴野朗/徳間文庫)

 この小説は1997年に『長安物語:光と影の皇帝玄宗』の題で刊行され、2000年の文庫化の際に改題したそうだ。

 伴野朗の小説は乱歩賞の『五十万年の死角』しか読んだことがなく、ミステリーや冒険小説の作家とのイメージが強かった。『玄宗皇帝』は楊貴妃との絡みをメインにした波乱万丈のエンタメ物語と思って読み始めたが、予想とは違った。玄宗の生きた中国を語る史談に近く、おびただしい人名と役職名が次々と登場し、随所に漢詩が挿入されていて、すらすらと読み進めるのは難しい。史実のディティールを噛みしめながら味わう、やや歯ごたえのある小説だった。

 この歴史小説は玄宗の生涯を描いているが、玄宗周辺の人物だけでなく、同時代に生きた李白、杜甫、白居易、阿部仲麻呂、鑑真なども登場し、時代の様相を点描していくスタイルになっている。その意味で元のタイトル『長安物語』の方が内容に合っていると思えた。

 玄宗は27歳で即位し、その治世は44年に及び、77歳で没する。本書のプロローグは死の床にある孤独な玄宗が、亡き楊貴妃を想いながら昏睡していく場面である。玄宗が臥せっている宮殿の外は春たけなわである。作者は次のように描いている。

 「――長安の春。それは、彼が築いた絢爛たる大唐の春であった。」

 印象的な表現だ。玄宗の没したとき、すでに唐は衰退期に入っていることを想えば、なおさらである。
 
 本書の前半約三分の一は、玄宗の即位までの話で、この部分の主人公は、かの則天武后(玄宗の祖母)である。あの凄まじい女帝の時代を生き抜いて台頭していく玄宗(当時は李隆基)を描いたこの部分が私には最も面白かった。

 物語の中盤、玄宗が息子の妃だった楊貴妃を自分のものにする際、玄宗が民の声を慮って悩むシーンも面白い。玄宗は唐王朝が遊牧民である鮮卑の血を引くことを意識していて、「子の妻妾を取り上げるとは、いかにも遊牧民だ」と見られるのを気にしているのである。

 小説の終盤は安史の乱で、安禄山がクローズアップされる。安禄山が胡人と突厥の混血であることは明示しているが、乱の動機を安禄山の楊貴妃への思慕としている。近年の学界では、この反乱を中央ユーラシア史の観点で捉え「早すぎた征服王朝」とみなしているらしい。20年前のこの歴史小説にそんな視点が反映されていないのは、いたしかたない。

 いずれ、本書の漢詩紹介の部分だけでもじっくりと読み返してみたい。

岡山文庫の『吉備真備の世界』は読みやすくて面白い2020年08月03日

『吉備真備の世界』(中山薫/岡山文庫/日本文教出版/2001.2)
 私は岡山県出身なので「岡山文庫」は昔から知っている。岡山の出版社(岡山県教職員組合の外郭団体)が刊行している岡山テーマの文庫である。この「岡山文庫」に吉備真備に関する本があると知り、さっさく入手して読んだ。

 『吉備真備の世界』(中山薫/岡山文庫/日本文教出版/2001.2)

 この本がめっぽう面白く、勉強になった。コンパクトだが濃い。私としては吉備真備本の決定版である。

 私は、吉備真備が岡山ゆかりの人物だから関心があるのではない。遣唐使船で玄昉とともに平城京に来た胡人(ソグド人)を描いた松本清張の小説『眩人』を読んだのを契機に、玄昉と行動をともにしていた吉備真備が気がかりな存在になったのである。

 本書の著者は県立高校に38年間勤務したのち、岡山大学の非常勤講師を務めた研究者である。吉備真備ゆかりの真備町在住で、真備町教育委員長も務めたそうだ。本書は偏狭な郷土贔屓目線の偉人伝などではない。全国区レベルあるいは世界史レベルで冷静に吉備真備を描いている。

 一般向けの本なので読みやすくてわかりやすい。しかも、かなり深い。読みやすいのは、引用史料を現代文に読み下しているからである。その点について、著者は「あとがき」で次のように述べている。

 「読み下しには、筆者の独断的解釈を避けるように努めたが、読み下し自体、筆者の解釈が入るものである。出来れば原典に当たり、筆者の読み下し文そのものも批判的にお読みいただければ筆者にとって、この上ない幸いである。」

 好感のもてる述懐で、「原典に当たり」という語句に著者の思いが感じられる。著者は本書において、研究者たちが「原典に当たる」ことを怠って孫引きなどで「誤り」を拡散させている状況を憂いているからである。

 本書の直前に人物叢書の『吉備真備』(宮田俊彦)を読んでいたのは正解だった。著者・中山薫氏は『吉備真備』(宮田俊彦)を「現在、吉備真備研究では最も権威ある著作」として、宮田氏の見解を随所で紹介している。だが全般的には、中山氏は宮田氏に批判的である(宮田氏は本書刊行以前に没している)。宮田氏の記述の誤りをいくつか指摘し、宮田氏の見解への異論も展開している。そんな箇所を興味深く読めたのは、宮田氏と中山氏の著作を続けて読んだからである。

 宮田氏の見解への中山氏の異論の一つは、大宰府に左遷された真備が遣唐副使に任命された理由である。宮田氏は、高齢の真備が船旅で発病することを期する藤原仲麻呂の下心があったのでは、と推測している。中山氏は、この遣唐使には重要な任務があったため、仲麻呂は余人をもって代えがたい真備を「しぶしぶ追加任命した」のでは、と推測している。

 また、大宰府の真備が70歳にして造東大寺長官として都に復帰(復権)した件について、この人事を決めた人物を、宮田氏は孝謙天皇とし、中山氏は藤原仲麻呂としている。宮田氏の見解は常識的で理解しやすい。中山氏の見解は、仲麻呂が真備を取り込もうとして都に呼び戻したが、上洛した真備は政界の底流を見て仲麻呂に与することの危険を察した、というものである。

 私は門外漢なので研究者たちの見解を評価することはできない。だが、本書を読む限りでは著者・中山氏の見解に説得力を感じた。

 本書は史料をベースに真備の生涯を検討しているだけでなく、史実とは別物の説話や伝説も史料として紹介し、後世、真備がどう見られてきたかを辿っていて、この部分も面白い。著者自身は真備の人物評には控えめだが、折々の真備の心情を推測した表現があり、おのずと真備の人物像が浮かび上がってくる。

 本書の「はしがき」では、真備が留学した時代の長安にはキリスト教(ネストリウス派)、ゾロアスター教、マニ教などが存在したと紹介し、真備は国際都市・長安で政治、経済、文化、人間の多様性を学んだはずだと推測している。非常に興味深い話で、この推測に呼応した本文の展開を期待したが、残念ながら、それはなかった。直接史料が存在しないからだろう。

吉備真備は直接史料のない人物2020年07月31日

『吉備真備』(宮田俊彦/人物叢書/吉川弘文館)
 ‫いま、吉備真備が小さなマイブームなのだが、歴史概説書、小説、テレビドラマ、漫画では吉備真備の全体像を把めた気がしない。で、次の本を読んだ

 『吉備真備』(宮田俊彦/人物叢書/吉川弘文館)

 日本歴史学会編集の「人物叢書」の1冊である。新本で入手したが、1961年刊行のかなり古い本の新装版で、研究者の専門的著作に近い。

 本書の「はしがき」で著者は次のように述べている。

 「吉備真備については、不思議なことに直接史料が殆どない。(…)高名天下に轟く真備であるにも拘わらず、この人に関する研究が余りない。単行本も研究論文も、その数が多くない理由であろう。」

 そんな事情だと初めて知った。ネット検索しても一般向けの手頃な本が見つからなかったわけだ。本書は、数少ない間接史料を紹介しながら、先行研究者の説を検討しつつ著者の見解を述べている。史料が少ないせいで、吉備真備の生涯をたどる評伝とは言い難い。真備に関連する史料を収集整理した生涯の点描に近い。

 本書は以下の5つの章で構成されている。

  第1 真備の出自
  第2 虚往盈帰
  第3 広嗣の乱
  第4 再度の入唐
  第5 大宰府の真備
  第6 右大臣吉備真備

 第6の分量が全体の4割に近いのは史料の多寡の反映だろう。第2の「虚往盈帰(きょおうえいき)」は難しい言葉だ。広辞苑にはないし、ググっても出てこない。この章は留学生として唐に渡った真備を扱っていて、「入唐する前はカラッポで、唐に行ってよく学んで頭一杯学問を充実させて帰って来た」ということを表す言葉が虚往盈帰なのである。

 本書に引用されている史料の文章は私には難しく、十分に理解できたわけではないが、著者が描く真備像はなんとなく把めた。著者は本書の末尾で真備の生涯を5期にわけて整理している。略述すれば以下のようになる。

 第1期 誕生(695年)~22歳
  下級武官の子に生まれる。成績優秀で入唐を命ぜられる。
 第2期 23歳~41歳 留学期間
  学習は多方面に及び、帰国に際して多くの漢籍を持ち帰る。
 第3期 41歳~55歳
  官位の昇進、目覚ましい限り。
 第4期 56歳~70歳
  大宰府に左遷。57歳で遣唐副使として再び入唐、60歳で帰国。
  平城京に戻るも、すぐに大宰府。主に軍事方面に才能を発揮。
 第5期 70歳~81歳で死去(775年)
  造東大寺長官として帰京。恵美押勝の乱で軍学用兵の妙を発揮。
  参議を経て右大臣(72歳)。77歳で辞め、81歳で死去。

 真備が留学を終えて帰国してから逝去までの40年は、権力者の浮沈がくり返される激動の時代だった。権勢にあった藤原家の四子が天然痘で死去、代って橘諸兄が勢力を伸ばし、藤原広嗣が乱を起こすも敗死、やがて藤原仲麻呂が台頭し橘諸兄は力を失い、諸兄の子・奈良麻呂が仲麻呂を除こうとするも失敗、その仲麻呂(恵美押勝)も道鏡の台頭で力を失い、乱を起こして敗死、だが道鏡も没落する。そんな転変の40年間、真備は権力の中枢に近い場所で無事に生き延び、天寿をまっとうしたのである。

 真備は儒学者だが、主に軍学の才で評価されたようだ。その軍学の内容は、私にはよくわからない。詩歌の才はなかったらしい。この時代の史料として、要人が万葉集や懐風録に残した詩歌が引用されることが多い。だが、万葉集にも懐風録にも真備の作品はない。

 著者は真備の人物像を次のように推測している。

 「真面目な、文字通り穏健な人であった(…)政治家としては極めて地味であって、華々しい活動をしない。(…)功績がない、というのでは断じてなく、改革や変動には不向きな人であった(…)詩文の方にではなく、いわば実学の方に力を注いだと思われる。(…)生涯を通じての謙遜な努力家であった」

 こんな地味そうな人物は歴史小説の主人公には不向きに思える。テレビドラマ『大仏開眼』が吉備真備を主人公にしたのは、なかなかのチャレンジだったと思う。

吉備真備に関する昨年末のビッグニュース2020年07月29日

 吉備真備に関して、昨年(2019年)12月に新発見の新聞報道があったと人から聞いた。図書館に行き、新聞縮刷版の該当記事をコピーした。2019年12月26日の朝日新聞朝刊の記事で、見出しに「吉備真備の書か 中国に墓誌」とある。

 奈良時代に遣唐使船で留学生として唐に渡った吉備真備が、唐で書いた墓誌が発見されたという記事である。唐の中級官僚の墓誌で、文章を考案したのは中国人で、筆をとったのは吉備真備らしい。末尾に「日本国朝臣備書」とあるそうだ。734年の墓誌なので、留学生・真備39歳の時の書である。

 吉備真備は歴史上の人物としてそこそこの知名度はあると思うが、彼が書いた文書は一つも残っていないそうだ。だから、この1285年前の墓誌が真備の書とすれば、初めて真備の書いたモノが確認されたことになる。確かにビッグニュースである。

 この記事には、吉備真備の簡単な紹介がある。その一部は以下の通りだ。

 「(吉備真備は)下級役人の家に生まれ、のちに唐で官僚になった阿部仲麻呂らと一緒に717年に留学生として唐に渡った。帰国後は政権内で活躍したが、左遷され、遣唐副使に任命され、再び唐に渡った。帰国後に政権中枢の右大臣まで出世し、81歳で死去した。」

 1回目の入唐は22歳、18年間の留学生暮らし、40歳で帰国して異例の出世を遂げるも左遷され、2回目の入唐は58歳から60歳、帰国後も大宰府勤めだったが、70歳で都に復帰して出世、そして81歳で没する。生還率6割の遣唐使船で2回生還、上昇下降また上昇――なかなかの人生である。

吉備真備はネズミ男だった2020年07月27日

『火の鳥:鳳凰編』(手塚治虫/COM名作コミックス/虫プロ商事)
 テレビドラマ『大仏開眼』をオンデマンドで観て、吉備真備が気がかりな人物になったとき、遠い昔に吉備真備が登場するマンガを読んだ記憶が甦ってきた。手塚治虫の『火の鳥』である。本棚の奥を探索し、それが『鳳凰編』だと判明した。1970年12月刊行のB5判コミッックである。半世紀ぶりに再読した。

 『火の鳥:鳳凰編』(手塚治虫/COM名作コミックス/虫プロ商事)

 大仏建立の天平時代の仏師の物語で、橘諸兄、吉備真備、良弁などの実在の人物も登場する。久々に手塚マンガを再読し、巨匠に対しては失礼な言い方になるが、やはり巧いなと感心した。

 手塚マンガは構成やストーリーがキッチリしていても、本筋とは無関係にヒョウタンツギやベレー帽の作者などが出現するアソビが挿入されるのが楽しい。1970年刊行のこの漫画にも大阪万博やサイケデリックを反映したコマがある。時代を感じさせるそんなシーンも、いま見れば貴重に思える。

 このマンガに登場する吉備真備は偉ぶった高級官僚の爺さんで、時の権力者・橘諸兄に対抗する人物で、終盤には左遷させられる。橘諸兄は真備を「なり上がりのくせに唐にいったのをハナにかけて出しゃばるからだ」などと詰る。唐から帰国した吉備真備は橘諸兄に重用されたというイメージがあるので、手塚治虫の真備像はやや意外である。

 私が面白く思ったのは、真備をネズミ男として描いているコマがあることだ。アソビのギャグ・コマだが、1970年の時点で手塚治虫が水木しげるのキャラクターを借用しているのに驚いた。かなり意識していたのだろうか。『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』(文藝春秋)という座談会本で手塚治虫の娘が「親子二代にわたる水木漫画への嫉妬心ですよー」と語っているのを思い出した。

 ギャグとは言え、吉備真備をネズミ男に見立てるのは秀逸で辛辣である。海外帰りの知識を武器に権力に取り入って出世し、左遷の憂き目にあってもしぶとく復活するというイメージに重なって面白い。さすが、手塚治虫である。

井上靖の『天平の甍』を初読2020年07月26日

『天平の甍』(井上靖/新潮文庫)
 天平時代や遣唐使への関心が高まり、テレビドラマ『大仏開眼』をオンデマンドで観ていて、ふと気づいた。井上靖の高名な『天平の甍』を未読だと。

 井上靖の小説は、中学時代に『あすなろ物語』で甘酸っぱく感動し、高校時代には古典の教師に『異域の人』を勧められて読み、同時に『蒼き狼』も読んだ。その頃、『天平の甍』も読まねばと思ったが、未読のまま時は流れ、いつしか井上靖は私の関心外の作家になった。

 久々に『天平の甍』を思い出し、駅前の書店へ行くと、この小説は文庫本の棚に健在だった。さっそく購入して読んだ。

 『天平の甍』(井上靖/新潮文庫)

 鑑真(本書では「鑒真」と表記)を招聘した遣唐使の僧たちの苦闘物語である。頭が天平モードなので面白く読了できた。読んだばかりの『遣唐使』(東野治之/岩波新書)とは、些細な史実の食い違いがある。この小説の刊行は1957年(私は小学3年だ)だから、その後、歴史研究が進展したのかもしれない。単なる解釈の違いとも考えられる。小説だから、どうでもいいのだが……。

 この小説は、大雑把い言えば、天平5年(733年)の遣唐使として唐に渡った僧・普照が、天平勝宝4年(752年)の遣唐使の帰国船で鑑真を連れて帰国するまでの約20年間の物語である。遣唐使は十数年ごとにしか派遣されないので、天平5年(733年)の次が天平勝宝4年(752年)である。

 遣唐使で派遣された人々の生還率は6割ぐらいだそうだ。遭難が多かったからである。滞在十数年になる留学生や留学僧には客死する人や帰国を断念する者も少なくなかった。

 この小説は、天平5年(733年)の遣唐使船に乗った4人の留学僧を巡る話で、次の遣唐使船で帰国できたのは一人(普照)だけである。留学僧たちの要請に応えて訪日を決断した鑑真は次の遣唐使を待っていたのではない。自ら手配した船で何度かの渡海を試みるがすべて失敗し、最終的には次回の遣唐使船で訪日を果たすのである。

 私が興味深く思ったのは、天平5年(733年)と天平勝宝4年(752年)の遣唐使の両方に吉備真備が関わっている点である。養老元年(717年)の遣唐使船で唐に渡った吉備真備や玄昉は、16年間の留学生活を終えて天平5年(733年)の遣唐使船で帰国する。普照たちとはすれ違いである。入国した普照は帰国する真備に会う。その場面描写は以下の通りだ。

 「普照には、真備は背の低い、穏やかな風貌を持った平凡な人物に見えた。」

 19年後、吉備真備は遣唐使副使として再び入唐する。橘諸兄のブレーンとして栄達したものの、台頭した藤原仲麻呂に疎んじられ、都から遠ざけられたのである。

 普照は19年ぶりに真備に再開するが、真備は普照を憶えていない。この場面の描写は以下の通り。

 「どこか傲岸なとことのある自尊心の強そうな気難しい老人でしかなかった。」

 普照が、高僧鑑真とともに何度も渡海を試みるも失敗した苦労話をしても、真備はまったく感動せず、嘲笑を込めて次のように語る。

 「渡れるように準備してかかれば、自然に船は海を渡るだろう。月、星、風、波、あらゆるものの力を、船が日本へ向かうように働かせなけらばならぬ。若し反対の働き方をさせていれば、いつまで経っても、船は日本へは近寄らぬだろう。」

 井上靖の描いた吉備真備はインテリ風を吹かせるイヤな奴である。

NHKドラマ『大仏開眼』をオンデマンドで観た2020年07月24日

松本清張の『眩人』を読んだのを機に天平時代や遣唐使への興味がわき、次のテレビドラマをオンデマンドで観た。

 『大仏開眼』(作:池端俊策)

 10年前にNHKで放映されたドラマで、前編・後編合わせて3時間だった。吉備真備を主人公にした話で、主な出演者は以下の通りだ。

 下道真備→吉備真備:吉岡秀隆
 阿倍内親王→孝謙天皇:石原さとみ
 藤原仲麻呂:高橋克典
 玄昉:市川亀治郎(現在の猿之助)
 葛城王→橘諸兄:草刈正雄
 聖武天皇:國村隼
 光明皇后:浅野温子
 行基:笈田ヨシ

 活字で名前のみ認識している歴史上の人物が、俳優の演じる映像で目の前に現れるのは、かなり楽しい体験である。おぼろだった人物像が映像によって鮮明になったりもする。もちろん、自分のイメージとは違うと感じることもある。このドラマでは、ヒーローとヒロインの下道真備と阿倍内親王は「違うな」と感じた。ヒーロー・ヒロインは美化しなければならないので仕方ないとも思う。藤原仲麻呂、聖武天皇、光明皇后などは「なるほど」というイメージで、玄昉はピッタリだと思った。

 このドラマで私が惹かれたのは、朱雀門などの平城京や造営中の大仏、大仏開眼会などを迫力あるリアルな映像で表現している点である。貴族たちの衣装や館、疲弊した庶民のさまも絵になっている。タイムマシンで平城京を訪問した気分になり、それだけで十分に満足した。このドラマの時代考証は、岩波新書『遣唐使』の著者・東野治之氏である。

 ドラマは吉備真備と玄昉が唐から帰国する場面から始まり、仲麻呂の乱で終わる。史実をベースにしているとは言え「吉備真備 vs 藤原仲麻呂」という構成に単純化したドラマに仕立てている。ヒーロー・ヒロインを際立たせるためか、道鏡は登場しない。

 3時間のドラマとしては、かなりの事項を盛り込んでいて、省略は仕方ないにしても、これでいいかと思う。ただ、このドラマで美化されている吉備真備像がどこまで史実を反映しているか、少し気になった。フィクションと割り切ればいいのだが、吉備真備が気がかりな人物になってしまった。

『物語イタリアの歴史』の藤沢道郎氏のグラムシ入門書を読んだ2020年02月15日

『アントニオ・グラムシ:イタリア共産党の思想的源流』(藤沢道郎/すくらむ社/1979.5)
 中公新書の『物語イタリアの歴史』『物語イタリアの歴史Ⅱ』が思いのほか面白く、著者・藤沢道郎氏の略歴を調べ、若い頃はグラムシを研究していたと知った。

 グラムシは懐かしい名前だ。と言っても名前を知っているだけで、その内実はほとんど知らない。『物語イタリアの歴史』を読んだ縁で、この本の著者の手によるグラムシ入門書を読んでみたくなり、ネット古書店で次の本を入手した。

 『アントニオ・グラムシ:イタリア共産党の思想的源流』(藤沢道郎/すくらむ社/1979.5)

 読みやすい平易な本だった。「すくらむ社」とは聞いたことのない出版社である。本書のあとがきによれば「若い労働者向けの月刊誌『すくらむ』」に連載した記事をまとめたものだそうだ。ネットで検索してもこの雑誌や出版社に関する情報はない。すでに存在しない雑誌、出版社だと思われる。

 グラムシという名を目にしたのは大学入学(1968年)直後だった。部室の窓に「グラムシ研究会」と大書したサークルがあった。何を研究するサークルなのか意味不明だったが、やがてグラムシは虫ではなく人名で、そのサークルはフロント派の拠点だとわかった。

 フロントは構造改革派の一派で、緑のヘルメットにキリル文字の「Ф」が印象的だった。私の大学では全共闘を主導するセクトの一つで、それなりの存在感があった。

 ちなみに、民主党政権時の官房長官・仙谷由人、経済産業大臣・海江田万里や『噂の真相』の編集長・発行人・岡留安則などは元フロントらしい。

 閑話休題。本書が出版されたのは1979年で、1960年代末の全共闘などの熱い時代からは約10年が経過している。当時の時代状況をはっきりとは思い出せないが、団塊世代より下の白け世代が社会人になり始めた頃だろう。いまはなきイタリア共産党やソ連が存在していた時代である。

 本書刊行の1979年時点で著者の藤沢道郎氏は46歳(2001年、68歳で逝去)、それまでにグラムシに関する研究書や訳書を多く手掛けている。本書が1979年当時にどう受け取られたかは不明である。

 本書はグラムシの生涯と思想を簡略に紹介している。著者も述べているように、本書でグラムシの思想をつかめるわけではない。それでも、半世紀以上も私の頭の中で名前だけだった存在が具体的な人物像として紡ぎ出され、少しすっきりした。全共闘の時代に彼に一定の人気があった理由も多少はわかった。

 本書を読もうと思った動機のひとつに、先月、ムッソリーニやダンヌンツイオに関する本を何冊か読み、このままでは片手落ちの気分になったこともある。バランスを取るにはグラムシがちょうどいいと思えた。

 本書を読んで、第一次大戦から第二次大戦に至るイタリア現代史の様相への理解が少し深まった。著者は次のように述べている。

 「1920年代の前半と言えば、全ヨーロッパで広くファシズムの革命性が信じられていた時期です。行きづまった資本主義体制を根本的に変えていくとすれば、レーニンの示す道を進むか、それともムッソリーニの示す道を行くか、どちらかであると、多くのまじめな青年が信じていたのです。」

 自分の目の前で起きている事象を歴史の目でとらえるのは容易ではない。本書を読みながら、そんなことをつくづく考えた。