明日の社会を垣間見た気になる『ユートロニカのこちら側』2020年11月22日

『ユートロニカのこちら側』(小川哲/ハヤカワ文庫/早川書店)
 小川哲氏の『ゲームの王国』に感心したので、この作家のデビュー作も入手して読んだ。

 『ユートロニカのこちら側』(小川哲/ハヤカワ文庫/早川書店)

 この作品は2015年のハヤカワSFコンテスト大賞受賞作で、6話から成る連作長編である。「ユートロニカ」とは「ユートピア」と「エレクトロニカ」を組み合わせた造語だそうだ。

 近未来の奇矯な監視社会を巡る物語である。民間企業とサンフランシスコ市が共同で建設した「アガスティアリゾート」は、入居希望者が殺到する監視エリアである。入居審査があり、希望者が誰でも入居できるわけではない。

 そこの住人になれば働かなくていいのだ。その代償として個人情報を常時提供しなければならない。コンピューターに監視されていることさえ気にしなければ、快適で自由な生活が保証されている。監視社会だからほとんど犯罪はなく安全である。まるで、人々が羨望する高級リゾート地区のようだ。

 そんな「アガスティアリゾート」の内外のさまざまな人々のエピソードを積み重ねながら物語が進行していく。われわれの現実世界のすぐ先の世界を垣間見るような話である。自由に関する考察・議論も興味深く、どのエピソードにも味わいがある。

 この小説の第2話を読み始めてすぐ、読んでいるシーンにデジャブを感じた。その直後の展開もかすかに頭に浮かぶ。先の展開はわからない。内容は憶えていないが既読作品に間違いない。数年前に読んだアンソロジー『年刊日本SF傑作選』に収録されていた作品だろうと思った。読了後、そのアンソロジーを確認すると、小川哲氏の短編は収録されていたが、まったく別の作品である。狐につままれた気になる。

 もしやと思い、先々月に読んだばかりの『2010年代SF傑作選』を開いてみると、この傑作選に収録されていた。読了して2カ月も経っていないのに失念していたのだ。年を取ると昔のことは憶えていても最近のことはすぐ忘れるとは承知しているが、困ったものだ。情けなくなってくる。

 先日読んだ『ゲームの王国』の読後感に「私には未知の作家である」と書いたが、間違いだった。それ以前に少なくとも小川哲氏の作品を2編は読んでいたと判明した。自分を信じないよう心掛けねばと思う。

ポルポト時代をSFに仕立てた『ゲームの王国』は怪作2020年11月19日

『ゲームの王国(上)(下)』(小川哲/早川書店)
 2017年刊行の次の長編を読んだ。日本SF大賞と山本周五郎賞をダブル受賞した作品と知り、読みたくなったのだ。

 『ゲームの王国(上)(下)』(小川哲/早川書店)

 作者は1986年生まれの若手、私には未知の作家である。上下2冊のハードカバーの上巻を読み終えた時点で、予想外の物語に感心すると同時に戸惑いを憶えた。面白いがSF的ではない。

 舞台はカンボジア、時代(上巻)は1956年から1978年までの約20年間、シハヌークやロン・ノル政権下での秘密警察の苛酷な左翼弾圧の時代からポルポト率いるクメール・ルージュの革命と国民虐殺の恐怖政治時代までを点描風に描いている。ヒトラーやスターリンの時代、あるいは文化大革命を連想させるシビアな現代史小説の趣があり、多くの登場人物が理不尽に殺されていく。馴染みのないカンボジアの現代史に引き込まれる。

 ロベーブレソンという農村の歴史にマルケスの『百年の孤独』に似たマジックリアリジムのかすかな匂いを感じるが、この現代史小説がどうSFに展開するのだろうと心配になる。

 心配は杞憂で、下巻はいきなり2023年の近未来から始まる。約50年のタイムワープである。上巻で子供だった人物たちが政治家、脳科学者、ゲーム制作会社の経営者などになっている。ポルポト時代を生き延びた数少ない上巻の人々に新たな世代の人物たちが加わり、SF的な物語が展開される。

 下巻では奇怪なゲーム世界が出現する。そこで大きな位置を占めるのがプレイヤーたちの脳内の記憶であり、上巻の現代史物語全体が下巻で「記憶」の源泉になる。見事な構図である。記憶のメカニズムという先端的な脳科学をふまえた物語に感嘆する。干からびた私の脳ではついて行けない展開も多く、得心できたとは言い難い。と言っても、この小説が「近現代史」「呪術世界」「脳科学」「オンラインゲーム」を強引に撹拌した怪作・傑作なのは確かである。

アルトーの『ヘリオガバルス』は奇行の愚帝礼賛の奇書2020年11月14日

『ヘリオガバルス:または戴冠せるアナーキスト』(アントナン・アルトー/多田智満子訳/白水社)
 ローマ史にはあまたの愚帝が登場する。なかでも印象深いのが、少年奇人皇帝エラガバルス(ヘリオガバルス)である。シリア生まれの太陽神の祭司が14歳で皇帝になり、東方(オリエント)の宗教・習俗をローマに持ち込み、奇行の果てに18歳で暗殺される。そのエラガバルスを描いた文学作品があると知り、ネット古書店で入手した。

 『ヘリオガバルス:または戴冠せるアナーキスト』(アントナン・アルトー/多田智満子訳/白水社)

 著者アルトーは1896年生まれの演劇家で1948年に51歳で没している。日本風に言えば大正から昭和前期にかけて活躍した人だ。私は本書で初めてこの著者を知った。てっきり戯曲と思って入手したら、「小説のシュルレアリスム」と銘打った小説だった。

 読み始めてすぐに面食らた。歴史小説というよりは評論で、その論旨が奔放奇怪なのである。超論理的、幻術的で衒学的でもある。論旨を追おうとしても頭がついて行けない。途中で投げ出したくなったが、齢を重ねた多少の忍耐力で読み進めているうちに少し面白くなってきた。論を弁ずる著者の特異な曲芸を鑑賞する気分になったのである。

 さほど厚くない本書の約半分を過ぎてから評伝風になり、やや読みやすくなる。読み終えて、ヘンテコなモノを読んだという感慨を抱くと同時に、著者がヘリオガバラスに託した熱い思いも感得した。著者は無軌道(アナーキー)な奇人求道者・叛逆者を礼賛しているのであり、そこには東方(オリエント)に仮託した西欧批判の側面もある。

 巻末の訳者の文章によれば、著者アルトーは「狂気と紙一重のところにいた(そして最後にはその紙一重を破ってしまった)人」だそうだ。訳者はヘリオガバルスについて「政治的にはろくな業績も残さず、死後直ちに元老院によって永遠の汚辱の烙印を押されたこの若すぎる皇帝は、ふしぎに或る種の人々の空想をかきたてるなにものかをもっているようだ。」と述べている。

 先月(2020.10.29)の日経新聞夕刊に掲載された麿赤児のエッセイもヘリオガバラスに言及していた。一目惚れした美貌の青年ダンサー(フランス人)のなかに皇帝ヘリオガバルスを幻視したそうだ。

ギリシア文明はオリエントの強い影響下に生まれた2020年11月08日

『東地中海世界のなかの古代ギリシア』(岡田泰介/世界史リブレット/山川出版社)
 書店の棚に並んだ山川出版の「世界史リブレット」を漫然と物色、立ち読みしていて、次の冊子の冒頭見出しが目に飛び込んだ。「『黒いアテナ』の衝撃」とある。

 『東地中海世界のなかの古代ギリシア』(岡田泰介/世界史リブレット/山川出版社)

 バナールの『黒いアテナ』という歴史書を書店でパラパラと立ち読みしたことがある。興味を抱いたが、あまりに大部かつトリビアルで、私には手に負えないと判断した。「世界史リブレット」なら手頃なので、本書を購入した。

 著者は冒頭で、約30年前に刊行された『黒いアテナ』を次のように要約している。

 「古代ギリシア文明は(…)、エジプト・フェニキア文化の強い影響のもとに、紀元前2000年紀の前半に形成された。その歴史は伝承として記憶され、古典期のギリシア人自身もそれを知っていた。ところが、18世紀以後に高まってきたヨーロパ中心主義、人種的偏見、反ユダヤ主義のため、そうした事実は20世紀にいたるまで欧米学界の「正統派」によって黙殺・隠蔽され、かわりに、ギリシア文明は「アーリア系」白人たるギリシアによって独自に生み出されたものだという虚構が流布してきた。」

 この主張は賛否両論を引き起こし、バナールの史料解釈の難点なども指摘されたが、「少なくとも問題提起としての方向性は容認しよう」という動きも出てきたそうだ。

 著者は『黒いアテナ』の紹介をふまえて、古代ギリシアがオリエントから受けた大きな影響を検証している。私にはとても面白く、目から鱗の読書体験だった。西欧文明の源流はエーゲ文明に始まるギリシア文明とのイメージがある。だがその「源流」は、古代オリエント文明から大きな影響を受けて生まれた「支流」とも言えるのだ。

 エーゲ文明がオリエントの影響を受けているとは教科書にも書いてあるが、やはりギリシア・ローマ文明とオリエント文明は別物とのイメージがある。それは間違いのようだ。ホメロスやヘシオドスの作品にもオリエント文学の強い影響がみられるそうだ。考えてみれば、新興文明が先行する文明から大きな影響を受けるのはあたりまえである。

 ギリシア人は先進文明をもつエジプトやメソポタミアに畏敬の念を抱いていた。それが転換する契機はペルシア戦争の勝利である。ギリシア勝利の自信がオリエント諸民族に対する偏見・蔑視を生んだ。日本と大陸との関係を連想する。

マニ教はなぜ衰退したのか?2020年11月05日

『マニ教とゾロアスター教』(山本由美子/世界史リブレット/山川出版社)
  先日読んだ 『シルクロード世界史』(森安孝夫) で、21世紀になって多数のマニ教絵画が日本で発見されたことを知り、マニ教への関心がわき、書店の棚で見つけた次の小冊子を読んだ。

 『マニ教とゾロアスター教』(山本由美子/世界史リブレット/山川出版社)

 2017年発行の11刷だが1刷は1998年4月、20年以上前の冊子である。マニ教については、いろいろな宗教をごった混ぜにした宗教という大雑把なイメージしかなかったが、本書によってその概要が少しわかった。

 本書は、マニ教の母体であるゾロアスター教から書き起こしている。二元論であるゾロアスター教は、世界を「善の力」と「悪の力」の闘争状態と見なし、善をすすめ悪を否定している。そして、最後には救世主があらわれて「悪の力」が滅ぼされるとしている。このように単純化すると明解である。この救世主思想はその後の他の宗教(ユダヤ教、キリスト教など)に大きな影響を与えたそうだ。

 ゾロアスター教が国教であるサーサーン朝ペルシアで3世紀に生まれたのがマニ教で、創始者はマーニーである。マーニーはシャープフル一世に寵愛されるが、この王の死後、サーサーン朝帝国全域に拡大していたマニ教は迫害され、マーニーは獄死する。

 マニ教はゾロアスター教をベースにキリスト教や仏教の要素を取り入れた宗教であり、西方へも東方へも広がっていく。キリスト教の高名な教父アウグスティヌスも元はマニ教徒だった。地中海世界でのマニ教の隆盛について、著者は次のように述べている。

 「ローマ帝国がキリスト教を国教としなかったとしたら、マニ教が国教となっただろうといわれるほどであった。」

 東に広がったマニ教はウイグルの国教となり、唐の時代には長安や洛陽にマニ教寺院が建てられる。

 マニ教の特徴は他の宗教を取り込んで混淆していく点にある。宗教とは人間の思想的営為のひとつの形態であり、それが時代とともに変容し他の思想と混淆していくのは当然のことに思える。

 とは言え、その後マニ教は衰退し消滅する。著者は次のように述べている。

 「本来折衷主義的であったところから、自由な翻訳と翻案が許されたため、あまりに複雑になりすぎたことが、衰退の要因の一つだったのかもしれない。」

 むつかしいものである。

『もう一つ上の日本史』(近代~現代篇)の後半が面白いが…2020年11月03日

『もう一つ上の日本史 近代~現代篇:『日本国紀』読書ノート』(浮世博史/幻戯書房)
 『もう一つ上の日本史』の2巻目を読んだ。

 『もう一つ上の日本史 近代~現代篇:『日本国紀』読書ノート』(浮世博史/幻戯書房)

 2巻目は明治維新から現代までの近現代史で、それ以前を扱った1巻目より頁数が多い。だが、こちらの方が短時間で読了できた。身近な近現代史なので頭に入りやすく、比較的スラスラ読める。後半の戦後以降は、歴史書の趣が少し変化し、百田氏のトンデモ本的な陰謀論や戦後思潮批判の批判的検証になる。この部分が面白いのだが、私は『日本国紀』未読なので感想は控える。

 以下、私の抱いていた歴史像が本書によって転換させられた事柄をいくつか羅列する。

 明治4年の岩倉使節団の目的の一つは、不平等条約改正の交渉ではなく「不平等条約改正交渉の延期」を取り付けることだったそうだ。米国で条約改正交渉に失敗しているのは、現地に到着してから方針変更をした森有礼、伊藤博文の「勇み足」によるものだった。

 そもそも、不平等条約は幕府が締結したものと思われているが、幕府の締結した条約はさほど不平等ではなく、その後に長州が引き起こした下関事件や新政府の失態で不平等になったそうだ。自分たちの尻ぬぐいを幕府のせいだと喧伝したようだ。

 征韓論に関して、「西郷・板垣vs木戸・大久保」の構図で考えるのは単純すぎ、西郷と板垣、木戸と大久保の間にも考えの違いがあったそうだ。板垣は日本の居留民保護を名目にした軍派遣を主張し、西郷は旧幕府時代の外交に則った交渉を主張した。西郷が「自分が殺されたら、それを大義名分に朝鮮を攻めろ」と言ったのは俗説だそうだ。

 日露戦争に関しては司馬遼太郎の『坂の上の雲』によるイメ―ジが強いが、あれはやはり小説で、俗説に基づいた史実離れの部分も多いらしい。軍事力や経済力で圧倒的に優るロシアに辛勝したというイメージは、国民に「不利な講和」を納得させるための日本政府のイメージ戦略だったようだ。要検証ではあるが…

 1938年のミュンヘン会談でチェコのズデーテン地方のドイツへの割譲が決まったとき、ヒトラーは「これが最後の領土的要求である」と述べた――と『日本国紀』に書いてあるそうだ。ヒトラーのこの科白は私もどこかで読んだ記憶があり、印象に残っている。だが、ヒトラーがこんな発言をしたという記録はないそうだ。著者は、チャーチルが回顧録『第二次世界大戦』で「盛った話」とにおわしている。

 ……などなど、書いていけばキリがない。

 本書の後半で江藤惇が言い出したGHQによる「WGIP:ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム=戦争についての罪悪感を日本人に植え付けるための宣伝計画」の過大評価を批判した著者の見解は明解で説得的だった。

『もう一つ上の日本史』は読了に時間を要する2020年11月01日

『もう一つ上の日本史 古代~近世篇:『日本国紀』読書ノート』(浮世博史/幻戯書房)
 『もう一つ上の日本史』という2巻本の1巻目を読んだ。今年(2020年)6月の朝日新聞の書評で呉座勇一氏が「旧説・俗説の問題点、丁寧に指摘」と紹介していたので興味がわき、入手した。

 『もう一つ上の日本史 古代~近世篇:『日本国紀』読書ノート』(浮世博史/幻戯書房)

 本書は、作家の百田尚樹氏が2018年に刊行したベストセラー『日本国紀』の誤りを、社会科の教師が細かく指摘したブログをまとめたものである。指摘は全時代にわたり、その分量は元の『日本国紀』の2.5倍、ぶ厚い2冊の「もう一つの通史」になっている。

 私は『日本国紀』を読んでいないし読む予定もない。百田氏の言動や新聞記事などで『日本国紀』のトーンは推測できる。ヘンな考えの人が、歴史をダシに自身の見解を述べた「床屋史談」に近く、まっとうな歴史書ではないと仄聞している。

 批判対象を読まずして批判本を読んだのは、呉座氏の書評に「本書は一般人が陥りやすい誤解・俗説を正す内容になっている」とあったからだ。私自身、高校で日本史を学んで以降の50数年間、歴史小説や雑多で断片的歴史書を多少は読んできたが、まともな通史は読んでいない。日本史を把握しているという自信はなく、頭の中のまだら模様の歴史像は誤解・俗説にまみれている可能性が高いと思われる。

 そんな私にとって、本書は『日本国紀』絡みの言説を棚上げにしても大いに勉強になった。著者は社会科教師だから教科書に基づいた説明が多い。それは、教科書の簡潔な記述の背後にある歴史学の最近の見解紹介につながり「へぇー」と思わされる。教科書に書かれていない細かな事項の紹介も多い。私にとっては「誤解・俗説を正す」以前の新規の知見である。多様で詳細な通史なので読了に時間を要した。

 以下、私の知識が本書によって転換させられた事柄をいくつか羅列してみる。

 本書では、漢書や魏志倭人伝にある「倭」に侮蔑的な意味はないとしている。「倭」が「小さい」「従順な」を意味すると考えるのは「矮」との混同で、漢の時代の漢字字典にそんな意味はないそうだ。私は「匈奴」「鮮卑」と同様に蔑称だと思っていた。山川出版社の『日本語用語集』には「倭は自称の我から来たという説、矮小の意とする説などがあるが、東方夷狄の蔑称」とある。

 参勤交代には、大名の経済力を弱めるという幕府の意図はなかった。幕府は参勤交代にカネをかけるなと命じていたが、諸大名は見栄でカネをかけていたそうだ。『超高速!参勤交代』という映画があったが、あれも俗説ベースか。

 綱吉はイヌ好きではなかったらしい。「生類憐みの令」による綱吉の悪政イメージは、次代の新井白石による前政権批判の日記や信憑性のない当時のゴシップ集によってつくられたそうだ。

 幕末にフランスが幕府支援、イギリスが薩長支援というのは誤解。この時代、イギリスとフランスは共同歩調で、日本に対しては内政不干渉が基本原則だった。

 孝明天皇暗殺説は現在では否定されている。孝明天皇の崩御で討幕派が有利になったわけではなく、むしろ幕府の主導権が強まった。

 幕末の小御所会議の際、西郷隆盛が「短刀一つあれば済む」と言って山内豊信らを脅したというのはフィクション。

 私にとっての新たな知見は他にも数多いがキリがない。

眉村卓が死の直前に脱稿した老境小説『その果てを知らず』2020年10月28日

『その果てを知らず』(眉村卓/講談社)
 昨年11月、眉村卓が85歳で亡くなった。訃報記事に「晩年も執筆を続け、遺作となった長編の結末を記したのは亡くなる数日前だった」とあった。逝去から約1年経った今月(2020年10月)、その遺作が出版された。早速入手して読んだ。

 『その果てを知らず』(眉村卓/講談社)

 回想と幻想が交錯する老境小説である。84歳の老作家・浦上映生が抗癌剤治療で入院しているシーンから始まる。この老作家のモデルはもちろん眉村卓である。小説では浦上映生の作家像を次のように描写している。

 「大相撲の番付で言うと、関取前後、幕下上位と十両を行き来している感じである。もっとも、書いてきたのが世間的には傍流扱いされがちなSF・ファンタジーの類の(変な言い方だが)フシギ系物語であり、それも近年は内心の欲求が変わってきたせいでSF的要素も希薄になっているから、ろくに評価されなくてもやむを得ないかもしれない。」

 やや謙遜した最晩年の自己規定である。この小説は、そんな作家が書き下ろした最後の「フシギ系物語」だ。

 眉村卓の半自伝的フシギ系物語には、30年以上前に発表した『夕焼けの回転木馬』があり、あの小説にはデビュー直前の作者の姿が投影されていた。『その果てを知らず』にはデビュー前後の作者の様子がかなり詳しく描かれている。人名、作品名、出版社名、雑誌名などは実名ではないが、オールドSFファンにすべてが容易に推測でき、回顧録を読む気分で楽しめた。と言っても、事実めかした記述にも虚構が入り込んでいそうだ。老境の回想の赴く先がデビュー前後の切迫した濃密な時間になるのはよくわかる。

 この小説には、浦上映生の現況と回想に加えて、浦上映生が現在進行形で書き上げた掌編小説が織り込まれている。その全体が渾然一体となってフシギ系の異世界になっていく。幻想譚とは言え、体の自由が利かなくなった老いの様子は身につまされるし、死が近いと自覚する老境は推し量りがたい。しかし、小説のトーンは暗くない。自身の現況を突き放し、突き抜けたような清々しさがある。

 死の数日前にこんな小説を脱稿した作者は、おのれの人生に満足して旅立ったと思う。先の新聞記事によれば、この長編の結末を記したとき、作家は「これでええ」とつぶやいたそうだ。

『仕事としての学問 仕事としての政治』を読んだが…2020年10月26日

『仕事としての学問 仕事としての政治』(マックス・ウェーバー/野口雅弘訳/講談社学術文庫)
 マックス・ウェーバーに関する新書本2冊を読んだ機会に次の本も読んだ。

 『仕事としての学問 仕事としての政治』(マックス・ウェーバー/野口雅弘訳/講談社学術文庫)

 従来、『職業としての学問』『職業としての政治』のタイトルで知られていた講演録の新訳(2018年7月刊)である。

 表題のBerufを「職業」でなく「仕事」と訳したのは、「職業」だと原語が含む「天職」の意味合いが消えるからである。本文ではBerufを次のように訳しわけている。

 ・基本的には「仕事」
 ・生計を立てるための業務を指す場合は「職業」
 ・天職や召命という意味合いが強いところでは「使命」ないし「使命を受けた仕事」

 言葉は多義的で、一対一の単純な対応づけで他国の言語に変換するのは難しい、ということがよくわかる。翻訳書がわかりにくくなる由縁もわかる。

 講演録だからわかりやすかろうと思って本書を読んだが、やはり難しい。翻訳のせいだけではなく、ウェーバーのゴチャゴチャした思考に私の頭がついて行けない箇所が多々ある。講演が行われた時代の空気をつかめていないので、何を言ってるのかわかりにくいということもある。

 本書を難しいと感じる理由はそれだけではない。71歳の私は、これから学問の道に進もうという意欲はないし、政治家を目指しているわけでもない。本書を理解しようという切実な動機がないのである。だから、読み方がいいかげんになってしまうのだと思う。

 私には「仕事としての学問」よりは「仕事としての政治」の方が面白かった。冒頭で、国家を「物理的な暴力行使を独占する共同体」と述べているのが明解だ。政治家には「熱い情熱とクールな目測能力」が必要という指摘も、その通りだとう思う。

 「仕事としての政治」の後半のキーワードは「信条倫理(従来訳は心情倫理)」と「責任倫理」のようだ。この二つは両立できないと言いつつ、次のようにも述べている。

 「(…)そのかぎりで、信条倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく相補関係にあります。これらが合わさって、本物の人間を生み出す。「政治への使命」をもつことができるのは、こうした人たちなのです。」

 やはり、難解である。

つげ義春の弟・つげ忠男のマンガ集を読んで…2020年10月21日

『きなこ屋のばあさん:つげ忠男漫画集』(晶文社)
 つげ義春が弟のつげ忠男のことを書いているエッセイを読んで、つげ忠男のマンガを読んでみたくなり、ネット古書店で次の一冊を入手した。

 『きなこ屋のばあさん:つげ忠男漫画集』(晶文社/1985.3.20初版 1992.7.10 六刷)

 マンガ8編に加えて、つげ忠男のあとがき風の文章とつげ義春の解説風の文章が載っている。
 
 収録マンガ8編のうち7編は『ガロ』掲載のものだ。私は半世紀以上昔の学生時代に『ガロ』でつげ忠男のマンガを読んだ気がするが内容は失念している。本書収録のマンガはすべて初読に思えた。だが、半世紀以上昔に『ガロ』でつげ忠男のマンガに接したとき、兄の七光りで掲載された、兄と似た作風のマンガだと感じた――そんな昔の感覚がよみがえってきた。

 本書巻末の「つげ忠男の暗さ」というつげ義春の文章は、先日読んだ『苦節十年記/旅籠の思い出』に収録されていたもので、次のように締めくくっている。

 「このような生活環境の影響を受けているつげ忠男の作品の暗さがウケないのは、もうしようがないことなのだろうか。でもやっぱり読んで貰いたいと、切に願わずにはいられない。」

 私が入手した本書は六刷だからそこそこに売れたとは思うが、つげ忠男は兄とは違って、今や忘れられたマンガ家だろう。彼の不幸は暗さにあるだけではなく、「つげ忠男」という名前にあったように思える。つげ義春はまことにユニークなマンガ家であり、それ故に「もう一人」は成り立たず、二人は要らないのである。

 つげ忠男がつげ義春に似ていると言っても、それは表面的かつ部分的なところであって、当然ながら違いも大きい。つげ忠男が別のペンネームでスタートすれば、別の発展があったかもしれない。