イランのアラグチ外相の歴史概説書が緊急出版された2026年05月14日

『歴史の歩みにおけるイランと日本:サーサーン朝ペルシアから現代まで』(アラグチ、モヘブ/井波誉弘訳/PAO)
 ニュースによく登場するイランのアラグチ外相は日本大使も務めた親日家だ。そのアラグチ外相の書が緊急出版された。

 『歴史の歩みにおけるイランと日本:サーサーン朝ペルシアから現代まで』(アラグチ、モヘブ/井波誉弘訳/PAO)

 アラグチ外相と女性外務省書記官の共著である。本書は、日本語訳の他にイラン語原文、英訳も収録している。日本語訳は約60頁、シルクロードの時代から現代までのイランと日本との交流史を概説している。

 現役の政治家による緊急出版だから日本に対する政治的意図が込められているのは当然だ。本書の末尾近くで、日本を以下のように位置付けている。

 「日本は、西側陣営の中でイランと良好な外交関係を維持している唯一のアメリカの同盟国である。それゆえ、日本には現実的かつ中立的、そして平和を追求する仲介者として、イランと協力しながら中東地域の政治的安定と永続的な平和体制の構築に寄与するポテンシャルがある。」

 これが本書のメッセージだと思う。政治的パンフレットに近いとは言え、外交史の概説書であり、私の知らない事柄の解説も多く、興味深く読了した。私は、昨年末に出た『イラン現代史』を読んでいるが、イランと日本の外交史に関してはあの本よりも詳しい。

 明治時代から第二次大戦に至るまでの話が私には新鮮だった。知らない日本人が多く登場するが、私の関心対象である榎本武揚の名も出てくる。榎本はサンクトペテルグルクでシャーや皇太子らと会談しているそうだ。明治の外交官・吉田正春も登場する。この人の『波斯之旅』はいずれ読みたいと思っている。

 本書であらためて認識したのは日露戦争の影響力である。日露戦争の衝撃がイランの立憲革命につながったそうだ。『シャー・ナーメ(王書)』ならぬ『ミカド・ナーメ(天皇の書)』なる明治天皇と日露戦争を詠った詩集まで出版されたという。

 第二次大戦後のイベントで大きいのは、やはり日章丸だ。IJPC(イラン・ジャパン石油化学)への言及もあるが、やや歯切れが悪い。石油危機やイラン・イラク戦争などの困難に直面して清算されたとしている。間違いではないかもしれないが、最大の要因はイラン・イスラム革命だろう。

 当然ながら本書は、現在のイラン体制の立場で書かれている。この体制が将来どうなっていくかは不明だが、体制側のなかにも多様な人々がいるのだと思う。

『十字軍という聖戦』はやや学術的な概説書2026年05月11日

『十字軍という聖戦:キリスト教世界の解放のための戦い』(八塚春児/NHKブックス/2008.2)
 十字軍に関する次の本を古書で入手して読んだ。

 『十字軍という聖戦:キリスト教世界の解放のための戦い』(八塚春児/NHKブックス/2008.2)

 著者は1951年生まれの西洋中世史研究者、18年前に出たNHKブックスである。一般向け概説書のつもりで読み始めたが、少し勝手が違う。十字軍研究の歴史や史料批判などから始まり、大学の講義のようでもある。十字軍に関する一応の知識がある読者を想定していると思える。

 本書の「はじめに」では、少年十字軍がどのように語られてきたかを話題にしている。少年十字軍が奴隷商人に騙されてエジプトに売られたという話は虚構らしい。著者は、史料で確認できることと伝説との峻別を説き、1960年代に出た中公版『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』(堀米庸三)の少年十字軍に関する記述を「一般的な伝説を無批判に踏襲するだけ」と批判している。

 大学講義風は冒頭の3章「第1回十字軍の招集」「教皇の意図」「十字軍思想の形成」までで、それ以降は解説風で読みやすい。

 著者が冒頭で史料批判に基づいて論じているのは、クレルモン会議で教皇ウルバヌスは何を語ったか、会議でのウルバヌス演説にどれほどの影響力があったか、ウルバヌスはエルサレム解放を意図していたか、教皇特使アデマールの実際の役割はどの程度だったか……などなどである。一般読者の私から見れば些細な議論にも感じられるが、研究者の関心のありようが窺えて興味深い。

 本書は、現代の研究者たちが従来の見解とは異なる見方をしている事例をいろいろ紹介している。民衆十字軍のユダヤ人迫害の背景解説は、先日読んだ『ユダヤ人の歴史』に重なり、ナルホドと思った。十字軍は回を重ねるごとに本来の姿から逸脱していったという見方の誤りなども得心できた。

 交渉によってエルサレムを無血奪回したフリードリヒ2世については「寛容と平和主義の精神による紛争解決の例として高く評価する論者も多い。しかし、実際はあまり過大に評価すべきではない」とし、その論拠をいくつか挙げている。フリードリヒ2世ファンの私としては少々残念だが、史料批判に基づく研究者の見解には重みがある。

半世紀ぶりに「手鎖心中」再読2026年05月07日

『手鎖心中』(井上ひさし/文春文庫)
 先月、歌舞伎座で観た勘九郎の『浮かれ心中』の原作は井上ひさしの『手鎖心中』である。この小説が直木賞を受賞したとき(1972年)、私は雑誌で読んでいるが手元にはない。半世紀以上昔なので内容もウロ憶えだ。で、文庫本を入手して再読した。

 『手鎖心中』(井上ひさし/文春文庫)

 この文庫本は「手鎖心中」と「江戸の夕立」の2編を収録している。後者は初読だ。解説が中村勘三郎なのがうれしい。彼が勘三郎を襲名したのが2005年、没したのが2012年だから、その間に出た文庫本だと思う。オビは昨年の大河ドラマだ。蔦重の余禄が「手鎖心中」にも及んだのだろう。

 『浮かれ心中』を観たとき、どこまでが原作通りでどこからが脚色か判断できなかった。原作を再読し、『浮かれ心中』は思った以上に原作に忠実だと確認した。だが、芝居のラストの「宙乗り」は、もちろん原作にはない。ねずみに乗ったチュウ乗りで昇天する栄次郎のラストシーンは勘三郎の発案だそうだ。

 「江戸の夕立」も面白かった。江戸の裕福な商家の道楽者の若旦那が登場するのは「手鎖心中」に似ている。芸達者な幇間(たいこもち)と若旦那の珍妙でやや哀れな東北遍歴譚である。京や江戸から遠く離れた東北遍歴なのが井上ひさし風だ。艱難辛苦の末に江戸に辿り着けば、いつの間にか江戸は東京に変わっていたというラストがいい。筒井康隆の「ジャズ大名」を想起した。作風はまったく異なるが。

 調べてみると「手鎖心中」の直木賞受賞(1972年上期)は網淵謙錠「斬」と同時受賞で、このとき落選した候補作の一つが筒井康隆「家族八景」だった。井上ひさしは初めての候補、筒井康隆は3回目の候補だった。以前に読んだ『それぞれの芥川賞直木賞』(豊田健次)で、この賞の勧進元・文藝春秋の豊田健次は次のように書いていた。

 「井上ひさしさんの「手鎖心中」。私たち編集部(別冊文藝春秋)としては、お披露目というか、この作品で井上ひさしという存在を委員に印象づけ、二作目で直木賞という算段を立てていたのですが、みごと第一作で受賞されました。しかし、たいていは二作、三作目。」

 遠い昔の話である。

『国盗り物語』は斎藤道三と二人の分身の物語2026年05月05日

『国盗り物語(1)(2)(3)(4)』(司馬遼太郎/新潮文庫)
 司馬遼太郎の長編はかなり読んだ気がするが未読作品も多い。私は戦国モノより幕末維新モノが好みで、代表作『国盗り物語』も読んでいなかった。ふとした気まぐれで『国盗り物語』を古書で入手し、やや厚い文庫本全4冊を4日で読了した。やはり、司馬遼太郎の小説は読みやすくて面白い。

 『国盗り物語(1)(2)(3)(4)』(司馬遼太郎/新潮文庫)

 この長編、前半2冊は「斎藤道三編」、後半2冊は「織田信長編」となっている。信長は道三の娘婿なので戦国二代記かなと思ったが、3冊目の半ばまで道三は存命で、後半の主人公は信長ではなく明智光秀だった。本能寺の変と光秀の最期までを描いている。

 著者の「あとがき」によれば、雑誌連載の際に斎藤道三のみを書くつもりで題を『国盗り物語』とし、編集部から「もっと書け」と言われ、道三の娘婿である織田信長まで書き進めたそうだ。これを読んで得心した。『国盗り物語』は道三の物語であり、道三の死後、道三が自身の後継者と見なしていた二人の若者(信長と光秀)が道三の分身として活躍して相果てる物語である。道三の生涯と見果てぬ夢のてんまつを描いた道三の壮大夢幻な一代記とも言える。

 この小説、前半が面白い。寺をとびだして還俗した乞食坊主・庄九郎(後の道三)が「国主」になりたいとの大望をいだいて成り上がっていく権謀術数のサクセス・ストーリーである。庄九郎は国盗りの足がかりとして、まず、京都の大店である油屋の婿におさまる。油屋の亭主として商売を拡張させながら、その財力を活用して美濃の国(岐阜)の乗っ取りを企て、実現させてしまう。

 シュリーマンを連想させる話だ。だが、油屋の次に国主になるのではなく、油屋と並行の二重生活で成り上がっていくのである。どこまで史実をベースにしているのか知らないが、スーパーマン庄九郎を描いた面白いストーリーである。時たま美濃から京都に戻って油屋の亭主になった際、庄九郎は油屋の女房に「いずれ将軍として京に戻る」と語る。だが、美濃の国主になったとき「美濃取りに時間がかかり過ぎた。将軍として京に戻るのは難しそうだ」と嘆く。道三が期待をかけた次世代が、姻戚の優秀な若者・明智光秀と娘(濃姫)婿の織田信長である。光秀は濃姫のイトコにあたる。

 当初、道三は娘の婿を光秀と考えており、光秀も密かにそれを期待していた。しかし、織田家から縁談話が来たとき、道三は政治的判断でその縁談を受ける。史実か否かは知らないが、よくできた光秀・信長の因縁の端緒だ。

 司馬遼太郎の小説はエッセイ風の語りが随所に織り込まれる。道三とほぼ同時代のマキャベリの言説で道三を解説するのが面白い。油の原料が荏胡麻(えごま)から菜種へと技術革新していくさまで時代の変転を語っているのも興味深い。

荒唐無稽な終末論を説く福音派が政治勢力に…2026年05月01日

『福音派:終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(加藤善之/中公新書/2025.9)
 いまのトランプ政権は福音派に支えられていると聞くことがある。中絶に反対し、進化論を否定する特異なキリスト教原理主義の一派とのイメージがあるが、福音派については何も知らない。で、次の新書を読んだ。

 『福音派:終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(加藤善之/中公新書/2025.9)

 本書を読み終えても福音派がわかった気がしない。その複雑さと危うさはわかったが、実態は捉え難い。福音派という一つの宗派があるわけではなく、プロテスタント系の各宗派を超えて存在する宗教集団であり、運動であり、強力な政治的勢力だそうだ。政治的勢力として台頭してきたのは1970年代後半からで、現在は米国の人口の25パーセントが福音派だという。米国人の四分の一が福音派とは驚きだ。

 本書には、私の知らない多数の宗教家(牧師など)が頻出し、彼らの主張は多様だ。人種隔離政策への賛成も反対もいるし、反カトリックが基本なのに親カトリックもいる。福音派右派、福音派左派という言葉もあるらしい。驚いたことに、福音派が注目を集めた契機は民主党のカーター大統領の「ボーン・アゲイン」という告白だそうだ。

 福音派と言えば保守派で共和党支持と思っていたが、そう単純ではない。共和党も民主党もベースにキリスト教がある。団塊世代の民主党大統領クリントンのスピーチは聖書の引用に満ちていて、ブッシュよりも頻繁に「キリスト」という言葉を発したそうだ。

 宗教に無縁な私にはわかりかねるが、米国人にとってのキリスト教は私がイメージする「倫理」のようなものだろうかとも思う。しかし、「倫理」が政治勢力になると、抑圧的なおかしな社会になる可能性が高い。困ったことだ。巨大な会場やテレビ放送による伝道のさまは大衆を動員したナチスの集会の姿に重なる。

 福音派は荒唐無稽な終末論を信じているらしい。この世が滅亡に向かっているという単なる終末論なら、ひとつの考え方として理解できる。だが、「救われる人」と「救われない人」を峻別する終末論は荒唐無稽であり、はた迷惑だ。そんな迷惑な考えを信じている人が影響力を発揮する社会が住みやすいとは言えない。本書は、福音派の活動によって米国社会の分断や分極化が深まっていると警鐘を鳴らしている。

 人類の歴史を心性の歴史として捉えるのは興味深いが、心性とは理性や知性によって捉えるものだと思う。肥大した心性の独走は怖い。理性や知性が心性にかなわない場面があるとしても、それが永続するだろうか。心性の基盤には理性や知性があると思いたいが…。

あり得たかもしれない別の人生を描く『傾いた地平線』2026年04月28日

『傾いた地平線』(眉村卓/P+D BOOKS/小学館)
 日経の土曜夕刊終面の「文学周遊」に眉村卓の『傾いた地平線』が載っていた(2026年1月31日)。未読の長編なので、いずれこの小説を入手して読もうと思い、記事を切り抜いた。ネット古書店で容易に入手できると思ったが、記事が引用している角川文庫版は入手できず、小学館の P+D BOOKS を購入した。

 『傾いた地平線』(眉村卓/P+D BOOKS/小学館)

 眉村卓46歳の時の自分語りSF小説である。人は自分の人生をふり返って過去の分岐点のアレコレを考えたとき、別の道を歩んだ別の人生に思いを馳せることがある。そんな思いを並行世界というSFに仕立て、眉村フシギ・ワールドを展開した小説だ。

 46歳のSF作家の「ぼく」が大阪のH橋のA新聞ビルのエレベーターから降りた時、異変が始まる。そこはA新聞ビルではなくUビル、ぼくはSF作家ではなく、関西耐熱材という会社の次長になっている。それは人生のある時点で分岐した自分の「あり得たかもしれない」別世界である。

 眉村卓は阪大経済学部卒業後、大阪窯業耐火煉瓦(現ヨータイ)に入社(1957年)、岡山県備前市日生(ひなせ)町の日生工場に赴任し、翌年には大阪本社に転勤している。会社勤めのかたわらSF小説を書いており、1958年には退社して専業作家になる(エッセイ集『歳月パラパラ』など)。この小説は、そんな眉村卓の実人生を反映しているので、妙なリアリティがある。

 この小説で、主人公は次々と「別のぼく」に転生していく。最初は大阪本社の次長になっている「ぼく」だが、次は最初の赴任先のH町に居ついて現地の女性と結婚している「ぼく」である。晩年の短編『峠』には、老いた作家がH町を訪れ、そこに住みついた分身に遭遇するシーンがあった。

 会社勤めを継続していた世界までは「あり得たかもしれない」の蓋然性が高い心境小説の趣がある。その先は、「本来のぼく」の世界からかなりかけ離れたやや奇怪な異世界巡りへと飛躍して行く。

 生まれてから今日までの人生の無数の分岐から「別の人生」が発生すると夢想すれば、この世界のほとんど全ての人間が自分の分身にも思えてくる。そんな妄想がわいてくる小説だった。

ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の翻訳比較と試訳2026年04月25日

 ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を、ささやかな輪読会でチビチビと読み進めている。私たちが読んでいるのはちくま学芸文庫版である。全10巻の4巻途中までは中野好夫訳、訳業半ばで中野好夫が逝き、朱牟田夏雄が継いだが彼も訳業半ばで逝く。6巻半ば以降は中野好夫の倅・中野好之が訳し通した。

 その『衰亡史』は終盤にさしかかり、第1回十字軍の件りに突入した。ギボンは、十字軍に参加した諸侯の筆頭にゴドフロア・ド・ブイヨンを挙げている。その紹介文にわかりにくい箇所があった。

【中野好之訳(ちくま学芸文庫版)】
「彼の父親はブーロニュー伯の高貴な血筋に当り、一方でロレーヌの低部属州に当るブラバントは彼の母方の家産であった。さらに彼は皇帝の恩情により彼自身も公爵の称号を許されたが、後にこれは不当にもアルデンヌのブイヨン家に移ってしまった。」

 この訳文の後半が意味不明なのだ。「後にこれは不当にも」がよくわからない。ロレーヌはややこしい土地であり、ゴドフロアが下ロレーヌを母親から相続する際にゴタゴタした。だが、そのゴタゴタを述べているとも思えない。

 ネット公開されている原文は以下の通りだ。

【原文】
His father was of the noble race of the counts of Boulogne: Brabant, the lower province of Lorraine, was the inheritance of his mother; and by the emperor’s bounty he was himself invested with that ducal title, which has been improperly transferred to his lordship of Bouillon in the Ardennes.

『ローマ帝国衰亡史』は岩波文庫版もあり、その訳文は以下の通りだ。

【村井勇三訳(岩波文庫版)】
「彼の父は代々ブーローニューを領した貴族の出であった。……ローレーヌの下半分であるブラバント公国は彼の母親の遺産であった、そして彼はゲルマン皇帝の恩賜によってそこの公号を付与されたが、彼自身の本領はアルデンヌのブイヨンであった。」

 戦前の翻訳である村井訳は、かなり思い切った意訳である。それに較べて中野訳は直訳に近いが、わかりにくい。

 原文の improperly の含意をつかみにくいが、私にはギボンの揶揄的な諧謔の表現に思える。ギボン節である。で、多少は意味が通りやすいよう補足して訳してみた。解釈が間違っているかもしれないが。

【試訳(超訳)】
「彼(ゴドフロア)の父はブローニュー伯爵の高貴な家系であり、下ロレーヌのブラバントは彼の母の相続地だった。その相続地を巡る紆余曲折の末、神聖ローマ皇帝の恩賞によって彼自身も公爵(下ロレーヌ公)の称号を授かり、下ロレーヌ公の称号は、それにふさわしいとは言い難いアルデンヌのブイヨン領主である彼のものとなった。」

『ユダヤ人の歴史』でユダヤ人集団の多様性を認識2026年04月11日

 『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(鶴見太郎/中公新書)
 2026年新書大賞第2位の『ユダヤ人の歴史』を読んだ。刊行は昨年(2025年)1月だ。

 『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(鶴見太郎/中公新書)

 旧約聖書からナチスに至るまで、世界史関連の本にはユダヤ人が随所に登場する。以前読んだ『ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか』(長谷川修一)はバビロン捕囚の史実を解説していた。ローマ史の本にもユダヤ戦争などの記述がある。『ヒトラー:ナチズムの誕生』(村瀬興雄)は、ナチス登場の背景となった近代反ユダヤ主義詳述していた。何となく、ことさらにユダヤ人の歴史を勉強しなくもいいかという気がして、書店で本書を見かけてもスルーしていた。

 だが、新たなカバーを装着した本書の平積みを店頭で見て気が変わった。本書を読了し、これまでの自分の理解が浅かったと自覚した。本書を読んで認識を新たにしたのはユダヤ人の複雑な多様性である。考えてみれば、マルクスもフロイトもカフカもプルーストもユダヤ人だから多様なのは当然だ。

 本書は、多様なユダヤ人集団がそれぞれの環境に「カスタマイズ」しつつ生き延びてきたさまを「主体と構造」「組み合わせ」というキーワードで解説している。多様なユダヤ人集団が、時代や地域によって繁栄したり迫害されたりしてきた事情を明快に解説している。

 国を持たないユダヤ人が二千年間、その居住地の人々に同化・溶解することこなく「ユダヤ人という意識」を持続したのは驚異だと思う。それを可能にしたユダヤ人のアイデンティティが不思議だ。本書を読み終えても「ユダヤ人とは何か」の疑問は残る。「民族とは何か」「国民とは何か」以上の難問に思える。

 本書によれば、英語のJewをはじめ諸言語(ヘブライ語も含む)は「ユダヤ人」「ユダヤ教徒」両方の意味を兼ねているそうだ。「ユダヤ人」と「ユダヤ教徒」を区別して表記する日本語が例外らしい。驚いた。ローマのハドリアヌス帝の時代、第二次ユダヤ戦争によってユダヤ人はエルサレムから追放され、最終的な離散(ディアスポラ)となる。このとき追放されたのはユダヤ教徒だけだったと読んで納得した記憶がある。だが、「ユダヤ教徒でないユダヤ人」という概念がないとすると、ユダヤ人全員が追放されたのだろうか。

 おそらく、日本語の「ユダヤ教徒」という概念の問題だろう。キリスト教やイスラム教に改宗したユダヤ人は少なくない。ヴェニスの商人のシャイロックも最終段階でキリスト教への改宗を余儀なくされる(架空の人物だが)。改宗したユダヤ人がユダヤ人でなくなるわけではない。自分をユダヤ人だと意識している限り、改宗者であっても心の奥底に「ユダヤ教徒である意識」が残っている――そういうことだと思う。

 本書でナルホドと思ったのは、ユダヤ人にとっては近代になって住みにくい過酷な時代になったという指摘だ。国民国家という平準化圧力が異質な集団を圧迫するからである。

 また本書は、ロシアや東欧で発生したポグロム(ユダヤ人迫害)について「世界史級の出来事であるのは間違いない」として詳述している。その大きな原因が「想像の民族対立」だったとの指摘も興味深い。いつの時代も人の抱く幻想が歴史を動かしてしまうことが多い。

 あらためて熟読したい書である。