『三体Ⅱ 黒暗森林』は“大きなSF”2020年07月01日

『三体Ⅱ 黒暗森林(上)(下)』(劉慈欣/大森望、立原透耶・上原かおり・泊功訳/早川書房)
 話題の中国SF『三体』の第2部の翻訳が刊行された。第1部のブッ飛んだ内容に圧倒されたのは昨年12月だった。読み始めたときは完結した物語だと思っていたが、読了してから3部作の第1部だと知った。第1部を読んだ直後には『日経サイエンス』の「『三体』の科学」という特集記事を読んで小説世界を反芻したこともあり、第2部を待ち受ける気分になった。

 第2部刊行を知って本屋に行くと、店頭の最前列に山積みされた『三体Ⅱ』は上下2冊だった。そのボリュームにたじろぎつつ2冊セットで購入した。

 『三体Ⅱ 黒暗森林(上)(下)』(劉慈欣/大森望、立原透耶・上原かおり・泊功訳/早川書房)

 『三体Ⅱ 黒暗森林』には第1部ほどのインパクトは感じなかった。第1部では文化大革命と宇宙の彼方の文明が呼応する奇想とVRの夢幻世界に圧倒されて眩暈がしたが、第2部はいわば普通のSF小説だった。長さを感じさせない面白い展開で、センス・オブ・ワンダーを感じる場面もあるが、奇想に唖然とすることはなかった。第1部ほどにブッ飛んではいない。

 このSFの設定の面白さは、エイリアンが地球侵略・人類せん滅のために地球に向かっていることは明確に判明しているが到着は400年後という点にある。悲劇に見舞われるのは自分ではなく、子・孫・曾孫でもなく、その先の子孫である。それがわかっているとき、われわれはどう対応するのか、思考実験としても面白い。

 また、読了してわかるのだが、第2部のテーマは「フェルミのパラドックス」への回答になっている。「フェルミのパラドックス」とは、地球外文明が存在する可能性は高く、宇宙の年齢を考えれば文明同士が出会う可能性が高いにもかかわらず、なぜ地球に宇宙人がやって来ないのだろう、という話である。これは、私を含めて多くの人が子供時代に抱いた疑問だと思う。そんなマクロなテーマを扱っているのが本書の魅力のひとつだ。

 本書巻末の大森望氏の解説に次の一節があった。

 「《三体》三部作は、クラークやアシモフに代表される黄金時代の英米SFや、小松左京に代表される草創期の日本SFのエッセンスがたっぷり詰め込まれている。こうした古めかしいタイプの本格SFは、とうの昔に時代遅れになり、二一世紀の読者には、もっと洗練された現代的なSFでなければ受け入れられない――と、ぼく個人は勝手に思い込んでいたのだが、『三体』の大ヒットがそんな固定観念を木っ端微塵に吹き飛ばしてくれた。黄金時代のSFが持つある意味で野蛮な力は、現代の読者にも強烈なインパクトを与えうる。それを証明したのが『三体』であり(…)」

 これを読んで、SFといえばクラーク、アシモフ、小松左京が浮かぶ私が時代遅れ存在なのだと、あらためて気づいた。

野尻抱介の『太陽の簒奪者』はリケジョ活躍のハードSF2020年06月28日

『太陽の簒奪者』(野尻抱介/ハヤカワ文庫)
 先月、野尻抱介氏のSF短編集『沈黙のフライバイ』を読み、そのハードSF世界の面白さに感心したので、この作家の代表作であるらしい次の長編も読んだ。

 『太陽の簒奪者』(野尻抱介/ハヤカワ文庫)

 単行本の刊行は2002年、12年前の長編だが、昔のSF(1980年代頃まで)しか知らない私には新鮮な印象のSFだった。

 主人公は冒頭に登場するときは高校の天文部部長の女子高校生で、学園小説を思わせるような軽やかな雰囲気で物語が始まる。文章も展開も軽やかだが、そこで語られる内容はまさにハードSFである。

 テーマはずばり異星人とのファースト・コンタクトで、それをリアルに描いている。2006年の兆候から2041年の実際の遭遇までを描いた未来(発表当時の)物語で、女子高校生だった主人公は当然ながら齢を重ね、重要な役割を担う人物になっていく。とは言っても、第一印象のせいもあり、リケジョが活躍する青春小説の雰囲気が持続する。にもかかわらず内容は科学技術の現状と未来を反映したSFになっている。

 この小説では「意識」への考察があり、昨年読んだ『脳の意識 機械の意識』(渡辺正峰/中公新書)を連想し、作者の先見性に感心した。私の知識が乏しいせいでもあるが、そんなところに本書の現代性を感じた。

『あの本は読まれているか』は地味なスパイ小説2020年06月20日

『あの本は読まれているか』(ラーラ・プレスコット/吉澤康子訳/東京創元社)
 パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』出版を巡る小説を読んだ。

 『あの本は読まれているか』(ラーラ・プレスコット/吉澤康子訳/東京創元社)

 五木寛之の傑作『蒼ざめた馬』のような小説と思って読み始めたが、かなり趣が違った。CIAで働く女性たちやパステルナークの愛人を巡る話だが、派手なスパイ小説ではない。地味な「お仕事」小説に近い。

 私は半世紀以上昔の学生時代、ロシア文学をある程度は読んだが、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』は未読で、映画を観ただけだ。ソ連当局によってノーベル文学賞の辞退を強いられたこの有名作を読んでいないのは、1960年代後半の私の学生時代、この作品への食指が動かなかったからだと思う。古書店で目にする『ドクトル・ジバゴ』は時事通信の記者(原子林二郎)が翻訳して時事通信社が発行したもので、高名な文芸出版社やロシア文学者による翻訳書はなかった。

 日本のロシア文学の世界で『ドクトル・ジバゴ』は冷遇されているように見えるのは、当時、ソ連に対する遠慮があったせいだろうか。パステルナークは19世紀の大作家たちと20世紀のソルジェニツインの狭間に埋没させられているように見え、その評価はよくわからない。1980年代になって江川卓訳の『ドクトル・ジバゴ』が出て新潮文庫にも収録されたらしいが、いまでは入手困難である。

 『あの本は読まれているか』の原題は『The Secret We Kept』(わたしたちが守った秘密)で、「わたしたち」はCIAでタイピストとして採用された女性たち(みな大卒の高学歴者)を指す。本書は全28章にプロローグとエピローグの構成で、プロローグとエピローグは一人称複数「わたしたち=タイピストたち」で書かれた21世紀時点での回想である。本文は1949年から1961年までの東(パステルナーク周辺)と西(CIA周辺)の物語が交互に描かれている。ほとんどの章が女性の一人称で、語り手は章ごとに交代する。パステルナーク視点の章だけが三人称になっている。凝った構成である。

 本書は多くの歴史文書をベースに1950年代のCIAやパステルナークの様子の再現を試みたフィクションであり、魅力的な人物も登場するが、特定の主人公が存在しない現代史物語になっている。

 著者の名「ラーラ」は『ドクトル・ジバゴ』のヒロインと同じで、母親が映画『ドクトル・ジバゴ』を観て名付けたそうだ。著者にとっての運命的な作品である。

 現代日本において「あの本は読まれれているか」と問うなら、ほとんど読まれていないと思われる。本書刊行を機に『ドクトル・ジバゴ』が復刊されれば、私も読むかもしれない。

村上龍の新作『MISSING 失われているもの』は過激な想像力が現実を覆う小説2020年06月15日

『MISSING 失われているもの』(村上龍/新潮社)
 今年(2020年)3月に出た村上龍の新作は、従来の作品とはガラリと作風が変わっていた。

 『MISSING 失われているもの』(村上龍/新潮社)

 オビには「こんな小説を書いたのは初めてで、もう二度と書けないだろう」という作者のコメントと思しき言葉がある。

 この小説の語り手は限りなく作者に近い「成功した小説家」である。私小説風と言えるかもしれないが、全編幻想的な心象風景で、現実の世界が架空の世界に絡み取られていくような内容である。現実の世界を過激にデフォルメしてアクチュアルに提示する小説から一変しているようにも見えるが、やはりこれも村上龍ワールドだ。

 この架空の世界について、次のような記述がある。

 「わたしは、自ら望んで、混乱と不安しかない世界に迷い込んだ。なぜそんなことをしたのか。必要だったのか。なぜ必要だったのか。」

 「わたし」は小説家なので「過激な想像力が現実を覆ってしまう世界」にいる――そのことを端的に想像力豊かに表現したのがこの小説だと思える。

 小説の各章のタイトルは古い日本映画の題名になっている。次のような映画である。

  『浮雲』(監督:成瀬巳喜男、1955年)
  『東京物語』(監督:小津安二郎、1953年)
  『しとやかな獣』(監督:川島雄三、1962年)
  『乱れる』(監督:成瀬巳喜男、1964年)
  『娘・妻・母』(監督:成瀬巳喜男、1960年)
  『女の中にいる他人』(監督:成瀬巳喜男、1966年)
  『放浪記』(監督:成瀬巳喜男、1962年)

 私は『東京物語』以外は観ていないので、映画タイトルを章のタイトルにした意味を十分には把握できていない。小説の中で映画タイトルに具体的に言及しているのは『浮雲』だけだが、映画の内容を想起させる表現はいつかある。

 この小説を読んでいて、観客が一人だけの映画館で、くり返し上演される古い映画をぼんやりと眺めながら、自分の頭の中に架空の世界が紡ぎ出されていく感じがした。映画のストーリーを追っているのではなく、脈略のない多様な場面をパノラマ視している気分である。

 なお「MISSING 失われているもの」とは、作家の頭の中に堆積されているさまざまな「記憶」を指しているようだ。

半世紀前の『スウィフト考』(中野好夫)を読んだ2020年06月13日

『スウィフト考』(中野好夫/岩波新書)
 半世紀前の1969年6月に刊行された次の新書を読んだ。

 『スウィフト考』(中野好夫/岩波新書)

 『ガリバー旅行記』の作者スウィフトに関する評伝風エッセイである。古い新書を手にしたのは、朝日新聞夕刊で昨日(2020年6月12日)から、柴田元幸氏の新訳『ガリバー旅行記』の連載が始まったからである。新聞全面の毎週金曜連載で、完結には1年半ぐらいかかると思われる。いま、何故ガリバーなのかはわからないが、18世紀の風刺小説の新訳を21世紀の新聞が連載するのは面白い企画だ。

 私がガリバーの完訳(中野好夫訳)を読んだのは、ガリバー来日300年記念の2009年だった。これが面白かったので古本で『スウィフト考』を入手したものの、未読のままだった。新聞連載予告の記事で未読を思い出し、あわてて古い新書を読んだ。

 私たち団塊世代にとって中野好夫はスキンヘッドの行動する文化人で、印象深い存在だった。『スウィフト考』は岩波の『図書』に連載した軽いコラム風の記事をまとめたもので、とても読みやすい。

 随所に刊行当時(1969年)の世相を反映した表現があり、その時代を大学生として過ごした私には、そんな些細な箇所を面白く感じた。中野節とも言える闊達な表現も楽しい。

 本書を読んで、スウィフトとアイルランドの興味深い関係を知った。スウィフトはアイルランドのダブリンで生まれ、その地で没している。しかし、アイルランド人ではなくイングランド人である。青年時代はロンドンで過ごしており、その地での立身出世を志していたが果たせず、47歳で俗界での栄達の望みを絶たれ、ダブリンの主席司祭がついの椅子になる。著者は、当時のアイルランドを日本占領下の朝鮮や戦後の沖縄になぞらえている。わかりやすい例えだ。

 スウィフトはアイルランド人が好きではなかったが、アイルランド在住のイングランド人としての言論活動によって「アイルランドの愛国者」という皮肉な存在になる。面白い話である。

 また、本書によって、スウィフトがニュートン嫌いになった由縁が分かったし、あの幼児人肉食を提案する奇怪な短篇の背景を知ることもできた。

 中野好夫の語るスウィフトは謎多き風刺作家、老残の人であるが、著者がスウィフトに惹かれているのはわかる。「厄介な爺さん」「アクの強いおいぼれ坊主」などの表現は著者の姿に重なってくる。

感染症と文明には切っても切れない関係がある2020年06月11日

『感染症と文明:共生への道』(山本太郎/岩波新書)
感染症と文明には切っても切れない関係がある

コロナ禍で増刷された次の新書を読んだ。

 『感染症と文明:共生への道』(山本太郎/岩波新書)

 発行は東日本大震災直後の2011年6月、私が読んだのは2020年4月28日発行の第6刷である。

 コロナ禍になって『感染症の世界史』(石弘之)、『疫病と世界史』(マクニール)、『ペスト大流行』(村上陽一郎)などを読んだ流れで本書にも手を伸ばした。一連の読書で人類史における感染症の位置づけを把握できればと思った。

 本書の前半にはマクニールの『疫病と世界史』やジャレド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』などからの引用もあり、マクロな視点で感染症が人類の文明にどのように関わってきたかを説明している。だが、著者は歴史家ではなく国際的な感染症対策に従事してきた医師である。後半になると医師らしい視点の叙述が増えてくる。

 私は本書によって初めて「帝国医療」「植民地医学」という言葉を知った。列強の帝国主義による植民地支配には感染症の研究が必須であり、その「帝国医療」「植民地医学」が近代医学の礎になっているのである。そう言えば「厚生省」という役所も戦時中に軍部の要請によって設立されたと聞いたことがある。

 また、戦後のWHOによる天然痘根絶計画の実態に関する記述も興味深い。紀元前から存在した天然痘は1979年に根絶が宣言されたとは知っていたが、本書によって、その背後に日本人医師団のアフリカにおける壮絶な活躍があったことを知った。

 そんな活躍を紹介しながらも、著者は次のように述べている。

 「例えば天然痘根絶計画についても、この計画の成功が病原体と宿主を含む生態系にどのような影響を与え、長期的に人類の健康にどのような影響をもたらすことになるのか、現時点では誰にもわからない。」

 本書のサブタイトルが「共生への道」となっているように、著者は病原体根絶の危険性を指摘し、次のように述べている、

 「感染症のない社会を作ろうとする努力は、努力すればするほど、破滅的な悲劇の幕開けを準備することになるのかもしれない。大惨事を保全しないためは、「共生」の考え方が必要になる。」

戦前のナチス賞賛本『ヒトラー・ユーゲント』を入手2020年06月02日

『ヒトラー・ユーゲント』(ヤーコプ・ザール/高橋健二/新潮社)
 ヘッセやケストナーの翻訳・紹介で高名な高橋健二が戦前・戦中はナチス本の翻訳に 勤しんでいたと知り(『文学部をめぐる病い』高田里惠子/松籟社)、どんな本を翻訳していたのだろうと「日本の古本屋」を検索してみた。そして、次の1冊を見つけて購入した。

 『ヒトラー・ユーゲント』(ヤーコプ・ザール/高橋健二/新潮社)

 発行日は1941年(昭和16年)5月14日、真珠湾攻撃の半年前、ヨーロッパでは第2次大戦の真っ最中でパリはドイツ占領下、独ソ戦開始の1ヵ月前である。

 ヒトラー・ユーゲントの解説書と思って注文したが、写真中心の本だった。全210頁のうち本文は約60頁だけで、大半はキャプション付きの写真頁だ。写真の総数は180枚である。

 驚いたことに、本書は翻訳書ではなかった。ドイツから提供された写真を日本で精選して編集した本である。著者はヤーコプ・ザール(ナチス前東京支部長)と高橋健二の連名になっているが、本文も写真のキャプションも高橋健二が書いたように思われる。文章が日本人目線なのだ。

 ヒトラー・ユーゲントの少年少女たちの「健全な」活動を紹介する写真が満載で、当然ながら紹介文はその活動を讃えている。ちょっと面白く感じたのは、柔道をする少年たちの写真に付けられた次の紹介文である。

 「柔術はドイツ人の間に人氣のある新しいスポーツである。従つてヒトラー・ユーゲントでも盛んに行はれる。しかしドイツ人は柔術を單に護身術のやうに考へてゐるかたむきがある。柔道は一つの道であることを教へる必要がある。」

   本書の終章の表題は「總統のもとへの行進」――ニュルンベルク党大会に向けての行進である。私はレニ・リーフェンシュタールが1934年の党大会を撮った記録映画『意思の勝利』を2回見ていて、党大会という大イベントにおけるヒトラー・ユーゲントの存在感は印象に残っている。だが、彼らがドイツの各所から何日もかけて徒歩で来ていることを本書で初めて知った。大会が終わると、彼らはかつてヒトラーが監禁されていたランツベルク要塞監獄に赴き、そこで『我が闘争』を1冊ずつもらって帰郷するそうだ。

 終章の最後から2番目の写真には、ヒトラーと並んで少年たちを謁見する副総統ヘスが写っている。本文には「總統は嵐のやうな歡呼に答へて熱辯を揮ひ、ユーゲントはヘッス副總統の聲に合はして總統への忠誠を誓ふ」とある。

 この記述に接して、先日読んだ『贖罪:ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(吉田喜重)を想起し、ヘスのイギリス飛行は本書刊行の頃ではないかと思い至った。調べてみると、ヘスの謎のイギリス飛行を1面トップで報じた朝日新聞夕刊の日付は昭和16年5月14日だった。奇しくも本書の発行日である。驚いた。

 発行日にこの写真集を入手した読者は、謁見するヘスの写真を見ると同時に、新聞1面トップの3行大見出し「ヘス獨副總理謎の飛行 突如蘇格蘭(スコットランド)に着陸す 黨本部、精神錯亂と發表」に接したことになる。

知らない業界を覗き見した気分になる『文学部をめぐる病い』2020年05月26日

『文学部をめぐる病い:教養主義・ナチス・旧制高校』(高田里惠子/松籟社)
 昨年夏に読んだ『ヒトラーの時代』(池内紀/中公新書/本書刊行直後、著者逝去。多数の誤記があり、増刷されていない。残念)に次のような指摘があった。

 (ナチスの時代のキワ物本の多くが日本で翻訳出版されていたのは)「戦後は民主的文化人として知られたドイツ文学者たちが、戦中はナチス・ドイツに入れあげて、せっせと訳していたからである」

 このドイツ文学者が誰を指しているの気になって調べ、発見したのが2001年刊行の次の本だった。

 『文学部をめぐる病い:教養主義・ナチス・旧制高校』(高田里惠子/松籟社)

  著者は1958年生まれ、東大大学院でドイツ文学を専攻した桃山学院大学助教授(当時)、独文学者の学術レポートに近い内容の本である。

 サブタイトルの「教養主義・ナチス・旧制高校」が本書のテーマである。各章の冒頭付記が面白いので、それを【 】にして目次を紹介する。

 文学部をめぐる病い【カルテ】
 【自覚症状】まず、何が問題なのか
 【病歴】大政翼賛会文化部と第一高等学校
 【病原】さらば、東京帝国大学
 【自己診断】高学歴者の悲哀
 【症例】学校小説としての『ビルマの竪琴』
 【伝染】『車輪の下』、あるいは男の証明
 【余病】中野孝次、カフカから清貧へ

 この目次を見ると本書のおよその雰囲気がわかると思う。本書全体の主役は高橋健二であり、東大独文科出身の研究者(翻訳家)たちである。目次にある竹山道雄(『ビルマの竪琴』の著者、一高教授)や中野孝次は脇役である。池内紀が『ヒトラーの時代』で指摘した「戦後は民主的文化人として知られたドイツ文学者」は高橋健二を指しているように思える。

 高橋健二はヘッセやケストナーを翻訳・紹介したドイツ文学者で、リベラルな戦後民主主義者のイメージがあるが、戦前・戦中はナチス関連の本を翻訳しナチス賞賛の論説も書いていたそうだ。大政翼賛会文化部長を務め、戦後は一時公職追放になっている。大学教授に復帰してからは日本ペンクラブ会長も務めている。
 
 この人物は、ファシズム礼賛者が戦後になって民主主義者に「転向」したわけではなく、戦前から自由主義者の教師で、ナチスが忌避したヘッセとは戦前から親交があり、戦前も戦後も一貫してヘッセの翻訳・紹介者だったのである。著者はその「柔軟性」「いい加減さ」の由縁をエリート校の「文学部をめぐる病い」として剔出しようとしている。

 私には少々わかりにくい論考ではあるが、随所に諧謔的表現がおりこまれていて楽しく読めた。門外漢の私には無縁のドイツ文学研究者業界の様子を覗き見した気分になり、面白い世界だと思った。

『沈黙のフライバイ』(野尻抱介)はハードSFの傑作短篇集2020年05月24日

『沈黙のフライバイ』(野尻抱介/ハヤカワ文庫/早川書店)
 私はオールドSFファンなので、日本人SF作家は第2世代(掘晃、かんべむさし…)あたりまでしかフォローできてなくて、最近のSFの状況はよく知らない。

 最近の作家とは言えないが、野尻抱介氏についても、その名のみを知っていて、作品を読んだことはなかった。名を知っているのは、天文の野尻抱影と酷似した名前が印象に残り、倅か孫かなと思ったからである。彗星に関する物語を検索していて引っかかった次の短篇集を読み、その面白さに感心した。

 『沈黙のフライバイ』(野尻抱介/ハヤカワ文庫/早川書店)

 2007年に出た短篇集で5篇収録されている。どれもが、現代に近い時代設定の宇宙ハードSFで、リアルでありながら夢が広がる話になっている。JAXAなどを舞台にした理系の科学技術テーマの面白い物語である。

 5編のどれもが面白い。太陽系を通過していく地球外文明の構築物と思しき物体を観測する「沈黙のフライバイ」、2001年の小惑星探査から軌道エレベーターが建設された時代(2020年代!)の小惑星旅行までを描く「轍の先にあるもの」、夫婦2組4人のチームで火星を目指す「片道切符」、完全自給自足スーツ開発の「ゆりかごから墓場まで」、リケジョの学生(工学部)が気球と凧で宇宙(の一歩手前)を目指す「大風呂敷と蜘蛛の糸」、どれも印象深い。

 仕掛けを荒唐無稽でなく極力リアルに検討・描写していて、しかも物語が巧みだ。この人の作品をもっと読みたくなった。

 野尻抱介氏は野尻抱影の縁者ではなく野尻抱影ファンで、こんなペンネームしたそうだ。

デフォーの『ペスト』は迫真の実録風小説2020年05月22日

『ペスト』(ダニエル・デフォー/平井正穂訳/中公文庫
 デフォーの『ロビンソン・クルーソー』完訳版(平井正穂訳)を読んだのは11年前――その時は、将来デフォーの別の作品を読むだろうとは想像しなかったが、このたび、デフォーの『ペスト』を読んだ。コロナ禍がなければ手に取ることはなかった本である。

 『ペスト』(ダニエル・デフォー/平井正穂訳/中公文庫)

 コロナ禍で増刷された文庫本である。最近の新聞記事に「カミュの『ペスト』は架空の話だが、デフォーの『ペスト』はロンドンで発生したペストの実録なので迫力が違う」といったこと書いているのを読んで(切り抜いてないので正確な内容は確認できない)、本書を読む気になった。

 原題は「A Journal of the Plague Year」である(平井氏によれば『ペスト年代記』)。そのペストの年(Plague Year)とは1665年、日本だと4代目の将軍家綱の時代、元禄時代の前、赤穂浪士討ち入りの38年前である。この年、ロンドンではペストが発生し多くの死者(ロンドンの人口の四分の一と言われている)が出た。その記録が本書である。

 オランダでペストがはやりだしたとのうわさを聞く話から始まり、それがロンドンにも伝播し、ロンドンの街を席巻し、1年余の後に終息するまでの見聞録である。統計数字が随所に折り込まれていて、筆者が実見した話に加えて人から聞いた話もたくさん折り込まれている。確かに迫真のレポートである。

 私は本書をノンフクションと思って読み初め、そう思ったまま最後まで読んだ。ロンドンの地図のコピーを脇に置き、マーカーで地名をチェックしながら読んだのである。読了してから、本書は小説だと気づいた。

 冒頭に、筆者が馬具商人とあったので、デフォーは商売のかたわら『ロビンソン・クルーソー』を書いたのかと思った。読書途中、ネットでデフォーの生年を調べると1660年になっていて、「ペストの年=1965年」にはまだ5歳なのでヘンだと感じたが、昔の人の生年記録はいいかげんで、ネットの記述が間違っているのだろうと思った。読了後にきちんと調べようと考えた。本書の末尾には、著者の短い詩が載っていて、そこには「H.F.」と署名してある。なぜ、「D.D.(ダニエル・デフォー)」でないのか、いぶかしく思った。

 本編を読み終えて、巻末の訳者解説を読んで本書がフィクションだと知った。解説には「デフォーは、この惨事の生じた年には、わずか5歳であり、どれほどの印象をもっていたかは明らかではないが、少年ないし青年のころ、体験者からその状況を委細にわたって聞いてことは間違いない。」とある。

 ノンフィクションの体裁のフィクションは山ほどあるが、これまでの読書体験で、フィクションをノンフィクションと思って読了したのは初めてだと思う。先の新聞記事の印象で、はなからノンフィクションと勘違いしてしまったのだ。早トチリである。作者が事実を詳細に調べあげて書いていて、実録と見まがう仕上がりになっているので、最後までダマされたとも言える。

 本書を読んでいて引き込まれたのは、ペストが蔓延していく中でのあれやこれやの描写がことごとく今日のコロナの状況に重なるからである。仮にコロナ禍の前に本書を読んでいたら、目の前に展開されていく状況はデフォーが『ペスト』で描いたことをなぞっているように感じたかもしれない。

 デフォーは自分の5歳の時の出来事をタネに、後年に取材を重ねてこの傑作フィクションを書いた。これをフィクションと知った私には、この小説は、現在のコロナ禍を体験した人が1665年の出来事に仮託して書いたもののようにも見えてくる。