ゲーテ初読の『イタリア紀行』でその愛嬌に惹かれた2018年04月25日

『イタリア紀行(上・中・下)』(ゲーテ/相良守峯訳/岩波文庫)
◎シチリア旅行がきっかけ

 来月、シチリア旅行を予定している。その準備の一環としてゲーテの『イタリア紀行(上・中・下)』(相良守峯訳/岩波文庫)を読んだ。

 ゲーテと言えば晩年に至るまで恋愛をし「もっと光を!」という最期の言葉で生涯を終えた向日的な文豪というイメージがある。その作品をまともに読んだことはない。数年前に文庫本で『ファウスト』を購入したものの積んだままだ。その未読の『ファウスト』を差し置いて、ネット古書店で入手した『イタリア紀行』を読むことになってしまった。

 きっかけはシチリア旅行に備えて読んだ『シチリア歴史紀行』(小森谷慶子/白水社)という本で次の一節の接したからだ。

 「やや聞き飽きた感のあるゲーテの名言をもじりたくはないのだが、私もやはり次のように感じずにはいられない。シチリアという世界の鍵を開けることなしには、イタリアのことはもちろん、地中海世界のことなど何も理解できはしないのだ、と。」

 ゲーテの名言は知らないが、この一節でゲーテに『イタリア紀行』なる書があることを思い出し、旅行記なら読みやすかろうと興味がわいたのだ。

◎上巻と中巻が面白い

 ゲーテは25歳で発表した『若きウェルテルの悩み』で有名になり、32歳でヴァイマル公国の宰相になるも、37歳の時に休暇を願い出てイタリアへ旅立つ(1786年9月)。帰国するのは2年後だ。その2年間に故国の知人・友人あてに書いた報告書風の書簡をまとめたのが『イタリア紀行』だ。

 ゲーテが長期滞在したのはローマで、ナポリやシチリアも訪ねている。訳本の上巻は故国を出てからローマに至るまでの報告だ。途中、ヴェネチアには16日間滞在しているがフィレンツエには3時間しか滞在していない。中巻はナポリとシチリアの報告だ。ナポリ滞在中のゲーテはシチリア旅行を逡巡していて、結局行く決断をし、1787年3月29日にナポリ出港、5月17日に帰港している。約1カ月半のシチリア旅行だ。

 この上巻と中巻は初めての風物に触れる新鮮な体験や興味深いエピソードが綴れていて面白い。

 下巻はローマに戻ってからの約10カ月間の滞在記で、美術品鑑賞や自身の創作活動の報告が中心でやや退屈である。

◎イタリアという地域概念

 ゲーテがイタリア旅行をした18世紀。イタリアという統一国家は存在しない。ヴェネチアはヴェネチア共和国、フィレンツエはトスカーナ大公国、ローマは教皇領、ナポリとシチリアはスペイン・ブルボン家の王国だった。

 本書にはそんなややこしい状態を反映した記述も多少はある。しかし、むしろ当時の欧州人にとってイタリアという地域概念はすでに明確だったように感じられた。

 ヨーロッパを把握するには国という概念だけでなく、地域、民族、さらには◎◎家という汎国家的な王家のからみ具合を捉えねばならないと再認識した。ややこしいことである。

◎ゲーテは自然科学が好き

 意外に思ったのはゲーテの関心が芸術作品や遺跡だけでなく岩石や植物などの自然科学の領域に及んでいることだ。後者のウエイトの方が大きいようにさえ感じられる。

 噴火中のヴェスヴィオ火山に登った話には驚いた。ゲーテはポンペイ遺跡よりは熔岩や火口への関心が高い。降り注ぐ噴石の合間を縫って熔岩を観察し火口を覗こうとさえしている。一歩間違えれば遭難していたはずだ。

 シチリア旅行においてはシラクサ訪問をパスした経緯も面白い。パレルモを出発して古代遺跡などを巡りながらメッシーナを目指していたゲーテは、シチリアはイタリアの穀倉といわれているのにそれらしい風景に出会わないのを不思議に思いガイドに質問する。ガイドは「それを得心なさるにはシラクサを通らず、斜にこの国を横切って行かなければなりません。そうすれば小麦のたくさん産する地方を御覧になれましょう」と答える。

 そこでゲーテはシラクサ行きの中止を決める。古代ギリシア・ローマ時代に高名だった町を訪ねるよりは、現代の穀倉地帯を見る方が重要だと判断したわけだ。現世への関心の高さに感心する。さすがゲーテだ。

◎ゲーテに世俗人の愛嬌あり

 ゲーテの旅行は変名を使った「おしのび」の旅行だった。しかし、随所で「ウェルテル」の作者とバレて、それなりの楽しそうに振舞っている。また、故国に送り続けていた報告書によってローマへの憧れを喚起された友人・知人たちが大挙してローマに来ようとしているのを知り、あせってそれを阻止しているのも面白い。せっかくの「人払い」が無駄になってしまうからだ。自業自得だと思うが、愛嬌を感じる。

 『イタリア紀行』を読んでいると、ゲーテが「文豪」ではなく世俗に生きる等身大の人物に見えてくる。それが収穫だった。

◎ゲーテの名言

 なお、本書を読みながら、『シチリア歴史紀行』で言及されていた「聞き飽きたゲーテの名言」探索も試みた。それは次の一節のようだ。

 「シチリアなしのイタリアというものは、われわれの心中に何らの表象をも作らない。シチリアにこそすべてに対する鍵があるのだ。」

◎蛇足

 『イタリア紀行』を読みながら密かに期待していたのはギボンの『ローマ帝国衰亡史』への言及だ。ギボンはゲーテよリ12歳年長の英国人だ。ゲーテは英語も読解できたので(本書にそれを裏付けるエピソードもある)、刊行時から評判だった『ローマ帝国衰亡史』を読んでいた可能性は高い。しかしギボンへの言及はなかった。古代ローマの遺跡を巡りつつも、文明の滅亡という陰気な物語よりは現世の陽光を楽しんでいたようだ。

『歴史学ってなんだ?』は拾いモノの新書2018年04月14日

『歴史学ってなんだ?』(小田中直樹/PHP新書)
◎私の素朴な疑問に応えてくれた本

 歴史関係の本を読みながら漠然と抱いていた疑問は、歴史書と歴史小説の境目はどこらにあるかということだ。そんな素朴な課題をわかりやすく解説している本に出会った。

 『歴史学ってなんだ?』(小田中直樹/PHP新書)

 コンパクトで読みやすく勉強になった。大学で社会経済史を教える著者が、歴史学の「れ」の字も知らない読者を想定して書いた歴史学の入門書である。

◎ある教授の苛立ち

 年を取ると歴史への興味が増大する。若い頃は同時代や近未来のアレコレへの関心が高く、煩雑膨大な年表の固まりのような歴史は敬遠気味だった。齢を重ねると、人々の現在の営みや行く末を考えるには人類が経験してきた過去の事跡を振り返ねばと思い至り、歴史関連の書籍に手が伸びる。

 学者の書いたものもいいが、司馬遼太郎や塩野七生の歴史小説が読みやすくて面白い。これらの歴史小説は、完全なフィクションというより、歴史の見方のひとつを提示した歴史エッセイとして楽しめる。歴史学者がそんな歴史小説をどう評価しているのかに興味がある。何となく折り合い悪いのではないかという気がする。

 また過日の宴席で私より少し若い歴史哲学の教授がいきまいていた言説も気がかりだった。彼は「歴史も小説も同じだと言う歴史学者がいる。そんなことなら何でもありになってしまう。とんでもない話だ。」と怒っていた。

◎わかった気になった

 本書は「史実はわかるか」「過去を知ることは社会の役にたつか」という問題意識をベースに、歴史学の動向と現状を解説したうえで、「歴史学は、やはり科学であり、社会の役に立つ」という著者の見解を述べている。

 結論は常識的だ。完全に説得されたとは言えないが、そこに至る歴史学の動向が興味深い。「大きな物語の終わり」「マルクス主義歴史学」「経済的基底還元論」「構造主義」「記号論」「史観」「社会史学」などの要領よい解説で、歴史学のかかえる課題がわかった気がする。司馬遼太郎や塩野七生の歴史小説に対する歴史学者の眼差しも推測でき、かの歴史哲学教授の苛立ちも了解できた。

 また、高校の歴史教科書が面白くない理由まで納得できた。拾いモノの新書だ。

私は『馬の首風雲録』でブレヒト世界のイメージを紡いだ2018年04月05日

『肝っ玉おっ母とその子どもたち』(ブレヒト・岩淵達治訳/岩波文庫)、『馬の首風雲録』(筒井康隆/日本SFシリーズ13/早川書房)
 先日、ブレヒトの『肝っ玉おっ母と子供たち』観劇の感想を書いた。この芝居に関しては以前から「あえて観なくても舞台で展開される世界が想像できる気になっていた」と書いた。

 と言っても、この戯曲を昔に読んでいたわけではない。戯曲を読んだのはほんの1カ月ほど前、チケットをゲットした後だ。だが、この戯曲の雰囲気や内容はずいぶん昔から知っているような気がした。初読なのに既視感があった。

 なぜだろうと考えてみた。高名な芝居なので、遠い昔に雑誌や新聞などの紹介記事や劇評、あるいは舞台写真などに接していたせいだろうか。

 そんなことを考えているうちに筒井康隆氏の『馬の首風雲録』に思い当たった。氏の長編2作目で『SFマガジン』の1966年9月号から1967年2月号に連載された。この小説のイメージが『肝っ玉おっ母』に重なっているのだ。

 この小説の連載が始まった1966年は私が高校を卒業した年だ。当時は『SFマガジン』を数カ月遅れの古本で購入していたので(その方がはるかに安い)、数か月遅れのタイムラグで私はこの連載小説を読んだ。

 その後に出た単行本(早川書房の「日本SFシリーズ 13」)も持っているのは、著者による解説風の「あとがき」という付加価値があるからだ。小説そのものは雑誌連載で読んだだけで、その後は読み返していない。

 でも、その印象は強く残っていて、最後のセンテンスも憶えている。遠い未来の宇宙の彼方の星で犬に似た異星人が繰り広げる戦争の話で、地球人は背景としてほんの少ししか登場しない。この小説はベトナム戦争とブレヒトをベースにしていると私は感じた。

 小説連載時はベトナム戦争の真っ最中であり、小説のラストセンテンス「戦争はまだまだ」終わりそうもなく、それは今や泥沼の様相を呈しはじめていた」は当時のベトナム戦争そのものだ。ベトナム戦争の影を感じるのは当然として、読んだこともないブレヒトの世界を『馬の首風雲録』に感じたのは何故だろうか。おそらく、同じ時期に接した『肝っ玉おっ母と子供たち』の情報と共鳴したのだろう。

 単行本の「あとがき」で筒井康隆氏は次のように書いている。

 『これは『戦争』というテーマの、一種のコラージュです。(…)この長編の中には過去のさまざまな文学作品、芸術作品がデフォルメした形で貼りあわせてあります。田河水泡『のらくろ』、ブレヒトの戦争テーマの一連の戯曲、その他ヘミングウェイ、岡本喜八の戦争喜劇映画、野間宏、メイラー、カフカ。大岡昇平まで出てきます。』

 事後に読んだこの「あとがき」が記憶に何らかの作用をしている可能性もある。いずれにしても『馬の首風雲録』を読んでから約半世紀の間、私の頭の中にあったブレヒトの『肝っ玉おっ母と子供たち』のイメージの内実は『馬の首風雲録』のイメージだったのだ。

 そう気づいて、『肝っ玉おっ母と子供たち』観劇後、半世紀ぶりに『馬の首風雲録』を再読した。そして、私が『馬の首風雲録』によってブレヒトをイメージしていたのは的外れではなかったことを確認した。本体を読まずしてイメージを紡げた不思議を感じる。

ヘロドトスに取り組まねばとの気分が高まる本2018年04月01日

『アジアの原像:歴史はヘロドトスとともに』(前田耕作/NHKブックス)
 中公版『世界の名著 5』のヘロドトスの『歴史(抄)』が意外に読みやすくて面白かったのでヘロドトスへの興味が高まり、次の本を読んだ。

 『アジアの原像:歴史はヘロドトスとともに』(前田耕作/NHKブックス)

 サブタイトルに「歴史はヘロドトスとともに」とあるのに惹かれたのだ。一般向けの歴史紀行的な啓蒙書だと思って読み始めたが、やや専門的で予備知識のない門外漢には少し難しい。だが、『歴史(抄)』を読んだ直後だったので何とかついて行けて、興味深く読了した。

 本書はヘロドトスを手掛かりにリュディア王国の形成から滅亡までを描いている。と言っても、そもそもリュディア王国って何だ? 高校の世界史には出てこない。ヘロドトスの『歴史(抄)』の前半にリュディアという地名やリュディア王という人物が出てきて、私は初めてこの王国の名を知った(他の本にも出てきたかもしれないが失念している)。本書によって、これまでぼんやりしたイメージしかなかったリュディアが多少明確になった。

 リュディア王国とは紀元前7世紀から前6世紀まで小アジア西端にあった王国で、紀元前547年にアケメネス朝ペルシアに滅ぼされる。リュディアというのは元来は地名のようで、王国滅亡後もリュディアという地名は使われている。

 ギリシアとペルシアの戦争を描いた史書だと思って読んだヘロドトスの『歴史(抄)』は、ペルシア戦役の記述は後半だけで前半はペルシアやエジプトの話だった。この前半部分に関して、私にはほとんど予備知識がなかったのだが、本書によって事後的に多少の知識を得ることができた。

 『歴史(抄)』の冒頭は、妻の容色が自慢の王が側近の部下に妻の裸体を盗み見させ、盗み見されたことを察知した妻は、その部下に王の殺害をそそのかすという印象深い物語だった。面白いけれどヘンテコな話だなあと思ったが、本書によってこれが王朝交代の重要な史実にまつわる話だと認識した。やはり、周辺知識や解説は重要だ。

 本書には、ヘロドトスの『歴史』に関する興味深い知見が散りばめれていて、抄録ではなく全編に取り組まねばという気分が高まった。それにはもう少し準備(地図、人名表、年表)も必要で、当面の読書計画には入れていないが…。

200年前の奴隷の逃亡劇が遠未来に重なる『地下鉄道』2018年03月27日

『地下鉄道』(コルソン・ホワイトヘッド/谷崎由衣訳/早川書房)
◎『地下鉄道』はどんなSFか

 『地下鉄道』という翻訳小説を読んだ。2016年刊行の米国の小説で、ピュリッツア賞、全米図書賞など数多くの文学賞を受賞、日本語版の刊行は昨年(2017年)12月だ。

 『地下鉄道』(コルソン・ホワイトヘッド/谷崎由衣訳/早川書房)

 南北戦争以前の米国の奴隷を描いた小説と知り、現代小説にしては変わった題材だと思った。この小説を読もうと思ったきっかけはアーサー・C・クラーク賞も受賞していると知ったからだ。あの高名なSF作家の名を冠した賞があるとは知らなかったが、調べてみると「イギリスで最も名誉あるSF賞」だそうだ。『地下鉄道』という小説がどんなSFなのか興味がわいた。

◎これは米国の「時代小説」か

 この小説は農園から逃亡した奴隷とそれを追跡する奴隷狩りの話だった。緊迫感のある展開で息をつかせない。歴史的事実に基づいたフィクションの趣があり、米国の歴史に不案内な私には、どこからが虚構なのかはよくわからない。日本でいえば江戸末期を描いた時代小説だ。

 多くの黒人の死体が木に吊るされているシーンはビリー・ホリデイの『奇妙な果実』を思い出させる。奇妙な謎の地下鉄道を逃亡に利用するシーンでは、さすがにこれは虚構だと思った。この地下鉄道が出てくるから「広義のSF」と見なされたようだ。

 地下鉄道に関しては「訳者あとがき」に説明があった。当時、奴隷州から自由州への奴隷の逃亡を援助する組織があり、その暗号名が「地下鉄道」だったそうだ。逃亡奴隷を匿う小屋は「駅」、逃亡奴隷の輸送を援助する人を「車掌」と呼んだそうだ。

 作家はこの符牒をそのままの実体として小説にしている。面白い発想だ。実際の地下鉄道が登場することによって、その象徴的な存在に多様なものが反映され、奥行きのある不思議な物語になっている。

 登場人物の人名(コーラ、シーザーなど)も何らかの意味を反映しているのかなと感じたが、私にはよくわからない。

◎『都市と星』と重なる

 アーサー・C・クラーク賞の受賞理由は知らないが、この小説を読んでクラークの『銀河帝国の崩壊』『都市と星』を連想した。この二つはほぼ同じ内容で、前者を改稿したのが後者だ。私はかなり昔に二つとも読んだ。内容の詳細は失念したが、今でも印象深く残っているのは、遠い未来の喪われた都市の地下に眠っていた地下鉄が動き出すシーンだ。主人公はこの地下鉄に乗って未知の世界への旅を始める。

 19世紀初頭の野蛮な米国南部の逃亡奴隷の姿と遠い未来のSF世界が、謎の地下鉄という鮮烈なイメージによって重なって見える。不思議な感覚だ。アーサー・C・クラーク賞の選考者も『地下鉄道』に『都市と星』と共通するものを感じ、通常のSFとは言い難いこの小説をSFと見なしたのではと妄想した。

 それにしても、19世紀初頭の苛酷な黒人差別を扱った『地下鉄道』が21世紀の米国で注目を浴びていることに、いささか暗然とする。人類は進歩していないとの思いがわく。

ヘロドトスもトゥキディデスも意外に読みやすくて面白い2018年03月25日

『世界の名著⑤ へロドトス、トゥキディデス』(責任編集:村川堅太郎/中央公論社)
◎古代の歴史家への関心

 へロドトス、トゥキディデスという古代の歴史家は、高校の世界史で名前を暗記しただけの存在だった。「ヘロドトスは歴史の父」と憶えて終わりだった。

 それが少し変わったのは、2年前に『世界の歴史⑤ ギリシアとローマ』(本村凌二・桜井万里子/中央公論社)を読んだ時だ。この概説書で桜井万里子氏が述べているヘロドトスとトゥキディデスの比較が面白かった。

 ヘロドトスは神話や伝承を取り込んで奇想天外、トゥキュディデスは厳密で真摯。歴史研究者としてはトゥキディデスに敬意を抱く。だが、歴史の実相に迫るには伝説や神話の援用も有効で、その意味ではヘロドトスの方が重要になる。そんな主旨の比較論で、歴史研究の場でのこの二人評価の違いを知り興味をもった。

 そして最近、『ギリシア人の物語』(塩野七生)、『世界の歴史4 ギリシア』(村田数之亮) などを読んで古代ギリシアが少し身近になり、これらの本で言及されているへロドトスとトゥキディデスへの関心が高まった。へロドトスはペルシア戦役を叙述し、トゥキディデスはペロポネソス戦役を叙述した。そのおかげで後世の史家はギリシア史を語れるのだ。

◎『世界の名著』版は手ごろ

 へロドトスとトゥキディデスへの興味はわいたが、その大部の著書を読もうという気にまではなれなかった。そんな時に次の本の存在を知った。

 『世界の名著⑤ へロドトス、トゥキディデス』(責任編集:村川堅太郎/中央公論社)

 これは1冊にへロドトスの『歴史』、トゥキディデスの『戦史』の二つが収録されている。両方とも抄録だ(全編だとどちらも岩波文庫で3冊)。抄録なら何とか読めるかなと思いネットで入手した。1970年刊行の古書だ。

 2段組で500ページ強、抄録でもコンパクトとは言い難い。冒頭60ページは『歴史叙述の誕生』と題する村川堅太郎の解説で、へロドトスとトゥキディデスの違いの説明が勉強になった。半世紀近く昔のこの解説にも「ヘロドトスについての評価は近年高まった」とある。

◎ヘロドトスは自由奔放

 『歴史(抄)』(ヘロドトス/松平千秋訳)

 ヘロドトスを読み始めて、意外に読みやすいのに驚いた。訳者のおかげだろうが、紀元前の古典という感じがしない。内容も面白い。村川堅太郎が「素朴で話し好きな老人の筆」と表現しているのも了解できた。

 と言っても、未知の地名や人名が頻出すると興味が削がれる。ペルシア戦役に関しては関連本を読んだばかりだし、『ギリシア・ローマ歴史地図』(原書房)という地図帳も座右にある。ところが、本書ではなかなかペルシア戦役が始まらない。前半はペルシアやエジプトの歴史や地誌である。紀元前5世紀の本だから、当然ながら遠い昔の中近東の話であり、私にとっては白紙の世界だ。それでも、地名や人名をネットで検索しながら何とか読み進めた。

 後年、アリストテレスから「たわ言」と評されたトンデモ逸話(ライオンの分娩の話。訳注でアリストテレスの言説を紹介)なども挿入されていて、大昔の人がもっと昔の人の著作を批判する姿をほほえましく感じたりもした。

 後半のテルモピュライの戦いやサラミス海戦のくだりは当然ながら興味深く読んだ。そして、この「抄録」を読了してヘロドトスの自由奔放な書きっぷりに惹かれ、やはり全編を読みたいと思った。

◎トゥキディデスは謹厳実直

 『戦史(抄)』(トゥキディデス/久保正彰訳)

 トゥキディデスはヘロドトスに較べると謹厳実直で記述も手堅い。しかし、思ったほど読みにくくはない。自らも参戦した同時代のペロポネソス戦役の記録なのに、歴史を見る視点が感じられる。事象の原因を分析し、人々の言動を批判的にとらえている。

 シチリア遠征において、ニキアスが月蝕によって撤退を延期して時期を逸した件でも「かれは神託予言などの類をやや偏重すしすぎる性質であった」と書いている。その後何世紀経っても神託予言を偏重する人は後を絶たないが、紀元前5世紀の時点にこんな冷静な記述があったことに驚いた。人類はさほど進歩したわけではないと思えてくる。

 トゥキディデスの圧巻は演説の紹介である。演説の正確な記録は困難なので著者は事前に次のように述べている。

 「政見の記録は、事実表明された政見の全体としての主旨を、できうるかぎり忠実に、筆者の目でたどりながら、おのおのの発言者がその場で直面した事態について、もっとも適切と判断して述べたにちがいない、と思われる論旨をもってこれをつづった。」

 そんな方法で、論争の場での政治家たちの演説や、戦闘を前にした将軍たちの演説がつづられている。いずれも長大であり、壮大な舞台の歴史劇を観ている気分になる。

◎古典の力

 ペルシア戦役は紀元前500年~前449年、ペロポネス戦役は紀元前431年~前404年、いずれも遠い昔の出来事だ。それを同時代の歴史家がつづった著作を読み、2500年をタイムスリップして古代の情景を目の当たりにしている気分になれた。古典の力だろう。
 
 へロドトスやトゥキディデスがこんなに面白いなら、もっと早く読んでおけばよかったと思う。こういう古典は若いうちに読んでおいて、年取ってからは再読を楽しむ読み方がいい。もちろん、抄録ではなく全編を楽しむべきだ。悲しいかな、私は若いときに関心を抱けなかったので、そんな楽しみは享受できない。仕方ないことである。

 だが、いつの日か全編をのんびり読んでみたいとは思う。そのときには、それなりに詳細な地図、人名表、年表の準備が必要だ。その準備だけでも大変そうだ。

ゾロアスター教の面白さを発見2018年03月18日

『宗祖ゾロアスター』(前田耕作/ちくま学芸文庫)
◎ゾロアスター教に関わる二つの気がかり

 『ギリシア人の物語』(塩野七生)、『世界の歴史4 ギリシア』(村田数之亮) など古代ギリシアの本を読んでいて、ギリシアのライバルだったペルシアがゾロアスター教の国だという記述に出会い、ゾロアスター教が少し気になった。

 遠い昔のゾロアスター教という宗教について知っていることがあまりに少ないことに気づいたのだ。拝火教という妖しげな呼び名を知っているだけだ。だが、気がかりなことが二つある。

 一つはニーチェの『ツァラトゥストラ』である。遠い昔の学生時代に途中まで読んで挫折し、いつかは読まねばと気になっている「世界の名著」だ。ツァラトゥストラがゾロアスターだとの知識はあるが、何故ゾロアスターを描いたのかが理解できない。

 もう一つは東芝のマツダランプである。LED時代の今は生産されていないが、かつて東芝の白熱電球はマツダランプというブランド名だった。その「マツダ」は「松田」ではなくゾロアスター教の神様の名だということは小学生の頃に知った。だが、なぜ東芝の電球がそんな神様の名なのかの謎をかかえたまま69歳の高齢者になってしまった。

◎『宗祖ゾロアスター』は単なる解説本ではなかった

 「拝火教」「ツァラトゥストラ」「マツダランプ」という単語以外は白紙のゾロアスター教を少しは知りたいと思い次の本を読んだ。

 『宗祖ゾロアスター』(前田耕作/ちくま学芸文庫)

 入門的な啓蒙書ではなくやや学術的な内容の本で、門外漢の私には難しい部分があったにもかかわらず興味深く読み進めることができた。

 ゾロアスター教はユダヤ教や仏教よりも古い宗教で、宗祖ゾロアスターの生年は紀元前1000年から紀元前600年の間のどこかだそうだ。かなり大きな幅だ。ゾロアスター教の神はアフラー・マズダーで、この神による奇蹟でゾロアスターが誕生する。当初、ゾロアスターの教えは既存の宗教と対立し迫害されるが、一人の国王がゾロアスターの教えに帰依したのを契機に拡がっていく。キリストの物語に似ている。

 アケメネス朝ペルシア、ササン朝ペルシアはゾロアスター教の国だったが、その後、この地域はイスラム教になりゾロアスター教は衰退する。だが、消滅したわけではなく、現在もムンバイやカラチでパールシー教という名で生き延びている。

 本書はそんなゾロアスター教の歴史や教義の単なる解説書ではなかった。ヨーロッパが、遠い昔に中央アジアえ生まれたこの宗教をどうとらえ、どう影響を受けてきたか、それを解明しているのが本書の眼目である。

◎ヨーロッパにとっては「東洋の叡智」

 ヨーロッパ文化がゾロアスター教に影響を受けているとは思いもよらなかったので、本書によって蒙を啓かれた。

 まずは、プラトンやアリストテレスがゾロアスター教をいにしえの東方の叡智としてとらえ、それを蘇らせ発展させて新たな思想を紡いだ。ヨーロッパ文化の基盤であるギリシア哲学の古層にゾロアスター教があったのだ。

 キリスト教もゾロアスター教の影響を色濃く受けている。著者は「東方の三博士はゾロアスターをキリスト教と結びつける蝶番の役割を果たしたと述べている。

 ゾロアスターは「叡智の人」「魔術者」「占星術者」というさまざまな姿でとらえられ、ヨーロッパの人々はかなり自由なイメージでゾロアスター像を作り上げていった。遠い昔のアジアの人物に関する史料は少なく、ゾロアスター教も時代とともに変わっていったので、その姿はかなり漠然としたものになったようだ。

 ルネサンス時代にもゾロアスターへの関心は高まり、その後も18世紀のヴォルテールはローマ・カトリック批判にゾロアスターを援用し、モーツァルトはゾロアスターが登場する『魔笛』を作曲する。19世紀になるとバルザックやニーチェがゾロアスターに着目した著作を刊行する。

◎デュペロンの波乱万丈

 本書の中で特に面白かったのは18世紀の香料商の息子デュペロンの波乱万丈の物語だ。デュペロンはゾロアスター教の聖典を探索するため、言語を学んだうえでインドに旅立ち、艱難辛苦の末についに聖典を入手し、それを翻訳して発表する。その様子を著者は次のように記述している。

 「デュペロンの大冊刊行はヨーロッパに大きな反響を捲き起こした。誰も読むことのできなかった「ゾロアスターの著作」が初めて人びとの手に渡されたのである。大いなる驚きの次に深い失望と激しい反発、そして小さな称賛がやってきた。」

 当時の知識人にとって、その内容が期待外れだったのでニセモノだとの批判が起きたのだ。その批判が的外れだとされるのは60年以上後になってからである。

 聖典といってもその表現はかなり漠たるもので、解読・解釈は容易でないのだ。

◎ツァラトゥストラとマツダランプ

 本書は『ツァラトゥストラ』にも踏み込んで言及していて、ニーチェのゾロアスターへの関心が了解できた。

 マツダランプへの言及は本書にはない。だが、東芝のホームページに以下の説明があった、

 〔「マツダ」の名称は、ゾロアスター教の光の神である「アウラ・マツダ」に由来している。これは、1910年GE社をはじめ世界各国の代表的な電球会社がタングステン・フィラメントの改良研究を目的に会合した際、今後各国で製作する一流のタングステン電球には「マツダランプ」としようと決められたからであった。〕

 GEをはじめとする世界の電球会社が「マツダ」を選んだのは、ヨーロッパ文明の背景にゾロアスター教があることの証だろう。本書を読むとよくわかる。

 ゾロアスター教は古代の中国にも伝わっているし、仏教にも影響を与えている。東芝が「マツダ」を受け容れるのは当然だったのだろう。

半世紀前の概説書でギリシア史の復習2018年03月10日

『世界の歴史 4 ギリシア』(村田数之亮/河出書房新社)
◎昔も今も

 先月、塩野七生の『ギリシア人の物語』全3巻を読んだ。その印象が残っている内にと思い、次のギリシア史の本を読んだ。以前から書架に眠っていた叢書の1冊だ。

 『世界の歴史 4 ギリシア』(村田数之亮/河出書房新社)

 『ギリシア人の物語』全3巻を読んだと言っても、その内容が時間とともにどんどん消えていくのは仕方ない。関連書を続けて読めば多少なりとも定着するものがあるのではと期待した。無駄な抵抗のような気がするが。

 本書が刊行されたのは1968年、ちょうど半世紀前だ。手ごろな最近の啓蒙書もあると思うが、2000年以上昔の話なのだから50年ぐらいはたいしたことはないと考えた。

 それでも、書き出しの「現代のアテネ」の記述で面食らった。「現代のアテネは、かつてのアッテカの都としてあるのではない。(…)ギリシア王国の首都であり(…)」とある。そうか、当時のギリシアは王国だったのか。調べてみると、1967年に軍事クーデターがあって反クーデターの国王は亡命、1968年から1974年までは軍事独裁政権、その後は共和政になっている。ギリシア史といえば古代のアレコレが思い浮かぶが最近半世紀もいろいろあったのだ。
 
◎今も昔も

 本書は歴史学者による古代ギリシア史の啓蒙書で図版も多い。読みやすくてわかりやすかった。

 前半の三分の一がエーゲ文明から大植民時代の話でアテネやスパルタはまだ主役ではない。

 真ん中の三分の一がペルシア戦争とペロポネソス戦争の話でアテネとスパルタが主役に躍り出る。

 後半の三分の一で語られるのは、ポリス社会の衰亡、アレクサンドロスの世界帝国とヘレニズム時代、そして世界帝国の解体からプトレマイオス朝エジプトの滅亡(クレオパトラの死)までである。

 ここで語られているのは二千数百年に及ぶギリシア文明の勃興から衰亡に至る波乱万丈の歴史である。並行して、同じ時代に存在したアケメネス朝ペルシアの興亡も語られている。さまざまな事象が発生したダイナミックな時間の流れと空間の広がりを感じた。

 紀元前の遠い昔の歴史ではあるが、それを読んでいると近現代の事象と同じだと感じることが多い。外交、同盟、国家、帝国、公共、個人、コスモポリタンなどなど人間とその集団が抱える課題は今も昔もほとんど同じに見えてきた。

 もちろん、現代の目で歴史で叙述すれば、そこに現代的課題が反映されざるを得ないということはあるだろうが。

◎パウサニアスの評価は…

 同じ事象であっても、塩野七生の『ギリシア人の物語』の描き方と異なる箇所がある。当然のことであり、それらをひとつ一つ確認するのも読書の楽しみである。

 ただ、塩野七生がかなり力を入れて好漢として描いたスパルタの将軍パウサニアスの扱いが大きく異なっているのには驚いた。

 パウサニアスはツキディディスが『戦史』で悪く描いたために評価が低いと、塩野七生がツキディディスを非難することになった人物である。塩野七生によれば、20世紀に入ってドイツの学者たちが、パウサニアス批判の根拠とされた文書(彼を裏切者であるとする文書)が偽物だと実証したそうだ。

 村田数之亮は本書でパウサニアスを「ペルシアと通じて私利をむさぼった」残念な人としている。ドイツの学者たちの実証は本書刊行の後だったのかもしれないと思い、ネット検索してみたがよくわからない。ウィキペディア(日本語)でもパウサニアスは裏切者とされていて再評価の記述はない。なぜだろうか。もう少し調べてみたい。

シチリアの歴史を手軽に勉強したいと思ったが…2018年03月07日

『シチリアの歴史』(ジャン・ユレ/幸田礼雅訳/文庫クセジュ/白水社)、『中世シチリア王国』(高山博/講談社現代新書)
◎「文庫クセジュ」はクセモノ

 ふとしたきっかけでシチリア旅行をすることになった。出発は 5月(2カ月先)、主にギリシア・ローマ時代の古跡をめぐる1週間ほどの旅行だ。シチリアは九州より小さく四国よりは大きい島だ。いまはイタリアの一部だが、かつては王国だったこともある。

 ギリシア史やローマ史の本にシチリアという地名は散見する。先日読んだ『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』(塩野七生)にもでてきたが、私はこの島の歴史は断片的にしか知らない。

 旅行の前にシチリアの歴史を手っ取り早く勉強しておこうと思い、次の本を読んだ。

 『シチリアの歴史』(ジャン・ユレ/幸田礼雅訳/文庫クセジュ/白水社)

 薄い(175頁)の新書版で手ごろな入門書と思って読み始めた。冒頭の十数頁までは普通に読み進んだが、次第にわけがわからなくなってきた。知らない地名や人名が頻出するのだ。巻頭にシチリアの地図は掲載されているが、そこにない地名もどんどん出てくる。シチリア以外の地名もたくさん出てくる。都市名か地域名か国名か判然としないことも多い。

 登場人物も多い。約170頁で旧石器時代からギリシア・ローマの時代を経てムッソリーニの時代、マフィアが活動する戦後までを概説しているのだから、しかたない。

 本書はフランスで刊行されている百科全書的な叢書「文庫クセジュ」の翻訳である。その点に感じた一抹の不安は的中した。ヨーロッパの地理や歴史の基本素養がある読者を前提にした、フランス教養人向けの歴史エッセイ風の通史なのだ。私のような断片的知識もおぼつかない日本人がついていくのは難しい。

 それでも、何とか読み通した。何やらぼんやりとした印象が残り、周辺の基本知識を習得、整理したうえで本書を再読すれば、そのウイットを楽しみながら面白く読めるだろうと感じた。

◎シチリア王国の実態にびっくり

 消化不良の読書だったので、続けて次の新書も入手して読んだ。

 『中世シチリア王国』(高山博/講談社現代新書)

 これは日本人研究者が書いた啓蒙書なので読みやすい。通史ではなく中世を扱った本だが、最初の章で古代から中世に至るまでを概説しているので、13世紀頃までのシチリア史の入門書にもなっている。

 そして、本書のメインテーマ「シチリア王国」の説明が抜群に面白い。ひとことで言えば、北フランスのノルマンジーからやって来たノルマン人が作ったこの王国は、ローマ・カソリック文化、ビザンチン(ギリシア)文化、イスラム文化の三つがモザイクのように共存した不思議な王国であり、後のヨーロッパ世界の文化に多大な影響を及ぼしているのだ。私にとっては目から鱗のびっくり読書だった。

 中世に生きた近代人と言われるフリードリッヒ二世(神聖ローマ帝国皇帝&シチリア王)は本書のエピローグに少しだけ登場する。あの皇帝の前身にこの王国があったのかと納得した。

◎周辺世界抜きには把握できないシチリア史

 『シチリアの歴史』と『中世シチリア王国』を読んで、この島の歴史にはヨーロッパの歴史の多様な要素が詰まっていると認識した。九州より狭い島なのに決して一枚岩ではなく、島内の都市は多様である。それは周辺世界の反映でもある。

 地理的条件から地中海周辺のいろろな国や民族の影響下にあるので、この島の歴史は周辺の事情抜きに語ることはできない。その周辺とはヨーロッパ、小アジア、北アフリカである。

 ということは、シチリアの歴史を把握するには西欧史全体を把握しなけらばならない、ということになってしまう。これはタイヘンなことだ。あらためて西欧の国々の歴史はゴチャゴチャと絡み合っていることを認識した。

新書大賞『バッタを倒しにアフリカへ』を読んでハッとした2018年03月04日

『バッタを倒しにアフリカへ』(前野ウルド浩太郎/光文社新書)、『蒼茫の大地、滅ぶ(上)(下)』(西村寿行/講談社文庫)
◎研究者はエライ

 新書大賞受賞の『バッタを倒しにアフリカへ』(前野ウルド浩太郎/光文社新書)を読んだ。昨年5月の刊行直後から新聞や雑誌に取り上げられていた話題の本だ。

 読み始めると一気読みになった。やはり面白い。軽妙な語り口で楽しく読めて、内容は軽くはない。勤務先が限られているポスドク研究者の試練の状況を生々しく報告し、アフリカでのフィールドワークの楽しくも苛酷な様子を臨場感たっぷりに語ってる。

 そして何よりも研究への情熱が伝わってくる。研究者はエライと感心してしまう。日本の研究環境ももう少し何とかならないのかとも感じる。著者がファーブルによって研究者の道を目指したように、本書を読んだ子供たちの中から次代の研究者が育っていくことを願う。研究者生活の厳しさにビビる子供が出てきては逆効果だが…

 私たちの子供の頃に比べて、科学者への憧れのようなものが何となく減少しているように感じるのは私だけだろうか。

 本書で驚いたのはファーブルが母国フランスでは知名度が低いという話だ。「昆虫の研究者でも10人中一人ぐらいしか知らない」そうだ。なぜ、日本とフランスで知名度が違うのだろうか。本書はその原因には言及していない。思いを巡らしているうちに、現代の日本の子供がどのくらいファーブルを知っているのか、少し気になってきた。

◎37年前に中断した読書を想起

 著者の研究テーマは「神の罰」とも呼ばれるバッタの大群「飛蝗」である。本書を読んでいて、ふいに西村寿行の小説『蒼茫の大地、滅ぶ』が出てきてハッとした。飛蝗を扱ったパニック小説である。著者は学生時代に漫画で読んでいて、原作の小説版があるとは知らなかったそうだ。私は漫画化されているとは知らなかった。

 私がハッとしたのは、遠い昔にこの小説を読みかけて中断したままだったことを思い出したからだ。引っ越しのたびに本を処分しているが、書架の奥を探してみると1981年5月発行の講談社文庫版の上下2冊が出てきた。37年前の本だ。上巻の100頁を過ぎたあたりに栞代わりの紙が挟まっていた。その紙の露出部分が色あせてヨレヨレになっていた。

 なぜ中断したかは憶えていない。つまらない本や難しい本ではなく私好みのSFっぽいエンタメなので、普通は読み通すはずだ。当時は30代前半、仕事が多忙になり通勤電車で読書する余裕もなくなったのかもしれない。考えてみれば、この文庫本が出た時、『バッタを倒しにアフリカへ』の前野氏は生まれたばかりの1歳だ。小説の存在を知らなくて当然かもしれない。

 …というわけで、37年ぶりに手にした『蒼茫の大地、滅ぶ』(上)(下)を読了した。西村寿行の動物小説ではあるが、ポリティカル・バイオレンス小説である。飛蝗パニック小説から東北独立の政治軍事小説へと移行する展開だった。西村寿行が荒唐無稽なのは当然だが、やはり昔のエンタメを読んでいる気分になる。東北地方の怨念を背景にしたこの小説を書いた西村寿行は、2011年の3.11を見ることなく2007年に76歳で没している。

 若い研究者の新書がきっかけで、遠い昔の忘れ物を拾い上げた気分になった。