フォン・ノイマンの頭脳の優秀さに驚いたが…2021年03月07日

『フォン・ノイマンの哲学:人間のフリをした悪魔』(高橋昌一郎/講談社現代新書)
 半世紀以上昔、世の中に姿を現し始めたコンピュータの勉強を始め、ノイマンの名を知った。プログラム記憶方式というコンピュータの基本思想の創始者である。と言っても、その詳しい業績を知らないまま今日まできた。新刊書広告の「人間のフリをした悪魔」というサブタイトルが気になり、次の新書を読んだ。

『フォン・ノイマンの哲学:人間のフリをした悪魔』(高橋昌一郎/講談社現代新書)

 ノイマンの頭脳の優秀さに驚いた。残した論文の分野は論理学・数学・物理学・化学・計算機科学・情報工学・生物学・気象学・経済学・心理学・社会学・政治学に及ぶ。理系の人に見えるが、8歳にして『世界史』全44巻を読破、ディケンズの『二都物語』を暗唱できたそうだ。

 ハンガリー生まれの天才で、ヒトラー台頭の頃に米国に移住、1957年に53歳で亡くなっている。数学者ゆえにノーベル賞を逸したのではなく、早逝しなければ物理学賞はもちろん経済学賞も受賞したと言われている。

 本書にはノイマン周辺の多くの学者が登場し、その多くがノーベル賞受賞者だが、彼らはノイマンの頭脳は別格だと証言している。並のノーベル賞受賞者を超えた頭脳の人だったようだ。私の凡庸な頭脳では、その凄さは理解できず、学者たちの証言で間接的に想像できるだけだ。

 ノイマンの生涯を辿る本書は、原爆開発とコンピュータ黎明期の物語でもあり、科学技術史としても面白い。ノイマンはこの二つに大きく関わっていた。20世紀後半の歴史変動の要ともいえる二つのプロジェクトは同時並行的に進行していたのだ。

 コンピュータ開発に関しては、サイバネティクスのウィーナー(ノイマンより9歳上)がノイマンの獲得に失敗し、ノイマンがチューリング(ノイマンより9歳下)との共同研究を望みながら果たせなかった話が興味深い。仮にこの三巨人の協働が実現していたら、現在の電脳世界の姿は変わっていただろうか。

 本書のサブタイトル「人間のフリをした悪魔」には二重の意味がある。一つは人間離れした頭脳の優秀さであり、もう一つは原爆の開発・投下にためらいを見せない冷徹な超合理主義である。最小のコストで最大の利益をあげるのが人類全体の幸福につながるという考え方とも言える。

 著者は本書において「ノイマンの哲学」を非難・否定も肯定もしていない。提示しているだけだ。冷徹な超合理主義を否定するのは容易ではない。優秀過ぎる頭脳はニヒリズムに近いのかもしれないが……

『ジャックポット』(筒井康隆)は現世から彼岸に至る短篇集2021年03月05日

『ジャックポット』(筒井康隆/新潮社/2021.2)
 筒井康隆氏の最新短篇集が出たので、早速入手して読んだ。

 『ジャックポット』(筒井康隆/新潮社/2021.2)

 前の短篇集 『世界はゴ冗談』 が出たのが2015年だから6年ぶりの刊行で、14篇が収録されている。86歳の現役作家の最新短篇集である。

 収録作の半分ぐらいは雑誌発表時に読んでいるが、単行本になったのを機にあらためて全作品を通読した。奔放な妄想が留まる所を知らない暴走老人文学とも言える奇怪な短篇のオンパレードで、読みながら脳内マッサージを受けている気分になる。

 この短篇集の配列は、巻頭の「漸然山脈」(「文學界」2017.7)から巻末の「川のほとり」(「新潮」2021.2)まで発表年月順になっている。単純な配列に見えるが、この配列が絶妙だ。

 2017年から2021年の間には二つの大きな事象があった。一つは言わずと知れた2020年来のコロナ禍である。もう一つは筒井康隆氏の一人息子・伸輔氏の逝去である。画家・筒井伸輔氏は2020年2月、食道癌で亡くなった。享年51歳、両親や妻子を残した早逝だった。親の悲しみは察して余りある。

 本書巻頭の「漸然山脈」は南の極から北の極に至る狂騒の彷徨を歌いあげる世界破滅の序曲のようであり、続く短篇群は世界の終わりに人生をパノラマ視するかのごとく想念が時空をかけめぐる。そして、終末の具体的な形としてコロナがせり上がってきて、息子の死が影を落とす。フィナーレは、静謐な彼岸での息子との対話になる。――『ジャックポット』はそんな短篇集である。

『愛の渇き』(三島由紀夫)は怖い話2021年03月03日

『愛の渇き』(三島由紀夫/新潮文庫)
 半世紀以上前の学生時代に古書で購入し黄ばんでいた三島由紀夫の文庫本2冊(『沈める瀧』『獣の戯れ』)を続けて読んだ余勢で、駅前の本屋で新たな文庫本を購入して読んだ。三島の小説には中毒性があるかもしれない。

 『愛の渇き』(三島由紀夫/新潮文庫)

 三島由紀夫の新潮文庫はカバーを刷新した新版が増えているが、本書は半世紀前と同じデザインのカバーだ。本文の活字が大きくなっているのが、私にはありがたい。

 奥野健男が『三島由紀夫伝説』で本書を強く推していたので、いずれ読まねばと思っていた小説である。1950年、三島25歳のときの書き下ろし作品で、1952年には新潮文庫になっている。私が購入したのは2017年4月の122刷、ロングセラーだ。

 評伝などで取り上げられることの多い小説なので粗筋を承知のうえで読んだが、引き込まれた。主人公・悦子の感性は私には了解しがたい不自然さがあり、感情移入は難しい。装飾的とも言える比喩の連発には目がくらみそうになる。悦子が思いを寄せる若い使用人・三郎のイメージは不明瞭だ。にもかかわらず引き込まれるのは、郊外の農園に暮らすこの大家族が織りなす世界の不思議な魅力、いや魔力のせいである。

 小説の進行にともなって悦子の魔性が亢進していく怖い話である。奥野健男も指摘していたが、この主人公は女性である必要はない。作者の分身とも見なせる。殺人事件の後の「恩寵のように襲った眠り」を描いたラストシーンが秀逸だ。本当に怖い。

『獣の戯れ』(三島由紀夫)は観念と叙情の不可思議小説2021年03月01日

『獣の戯れ』(三島由紀夫/新潮文庫)
 『沈める瀧』と同様、学生時代に古書で入手したまま本棚で塩漬けになって黄ばんだ次の三島由紀夫の小説を読んだ。

 『獣の戯れ』(三島由紀夫/新潮文庫)

 作者の筆力で読まされてしまうが、わかりにくい小説である。

 三人の男女、西洋陶器商(高踏的な評論や訳書のあるインテリ)の夫と美しい妻、そして若い男、この三人のもつれた恋愛感情の物語で、序章にひとつの結末が明示されている。仲のいい3人の記念写真、そして三つ並んだ墓、ただし妻の碑銘は朱色だ。男二人が死に女が生き残っているとわかる。

 物語は刑務所から出所した若い男が、身元引受人であるかつての雇用主夫妻をおとなう場面から始まる。若い男の犯した犯罪とは夫への暴行で、夫は半身不随の失語症になり、微笑をたたえるだけの存在に変貌している。夫婦は西洋陶器店をたたみ、西伊豆の漁村で園芸業を始めている。若い男は夫婦と生活を共にしながら、そこで働き始める。

 このように梗概を紹介すると規矩がしっかりした物語に見えるが、3人の心理関係が観念的で不可解なのである。私はこの観念を十分に読み解くことができず、不可解なままに物語が結末を迎えてしまった。読後感は不気味かつ清澄で、何とも不思議な気分だ。

 観念論の論理は奇怪で、微笑の失語症の精神は不気味だ。にもかかわらず叙情的でもあり、華麗な文章が紡ぎ出す別世界を体験した。

ダム建設現場が舞台の『沈める瀧』(三島由紀夫)に思わぬ贈り物2021年02月27日

沈める瀧』(三島由紀夫/新潮文庫)
 私は三島由紀夫の書いたモノより三島由紀夫について書いたモノに惹かれやすい。主要な代表作は読んでいるが未読の小説も多い。三島に関する本のみを読んで、彼の小説をなおざりにしておくのも気が引け、学生時代に古書で入手したまま本棚で黄ばんだ次の小説を読んだ。

 『沈める瀧』(三島由紀夫/新潮文庫)

 ダムの建設現場を舞台にした不感症の男女の話ということは読む前から承知していた。さほど長くない長編で、読みだすと小説世界に引き込まれ、一気に読了した。やや奇怪な論理展開とストーリー進行がほどよくミックスした面白い話だ。

 石と鉄を玩具として育った感性の歪んだ頭脳明晰な男と冷感症の女が出会うという図式的な展開は明快とも言える。エリート社員の男は自ら望んで技師としてダム建設現場に赴任する。この舞台設定が秀逸だ。小説には魅力的な舞台すなわち世界の構築が肝要である。

 小説を読み始めて、この舞台は奥只見ダムに思えてきた。調べてみるとその通りで、K町は小出町のようだ。私は1968年の夏、大学のワンゲルで会津朝日岳に登り、奥只見ダムや銀山湖を訪れている。半世紀以上昔のことなので全く失念していたが、この小説を読んでいるうちに、奥只見ダムの記憶のアレコレが徐々に蘇ってきた。

 個人的な体験に重ねて小説の面白さを味わえるのは格別の読書体験である。三島由紀夫から思わぬ贈り物をもらった気分になった。

 『沈める瀧』の発表は1955年、奥只見ダム完成は1961年だから、小説の終章のダム完成後の場面は全くの小説世界(別世界)の話になる。前世紀に書かれた、やや論理オチにも思えるこの小説は、昭和生まれの私にとって、昭和の小説というよりは、19世紀文学の香りが漂う世界に感じられた。

中世ヨーロッパと中近東の事情を活写した『十字軍物語』(塩野七生)2021年02月25日

『十字軍物語(1)(2)(3)(4)』(塩野七生/新潮文庫)
 先月(2021年1月)、イスラム史の概説書を何冊か読み、イスラム世界に蛮族のごとく襲来してきた十字軍が印象に残ったので、塩野七生の『十字軍物語』を読んだ。

 『十字軍物語(1)(2)(3)(4)』(塩野七生/新潮文庫)

 1096年にローマ法王が十字軍を提唱してから、1291年に中近東の十字軍国家が消滅するまでの約200年を綴った歴史エッセイである。この間に8回の十字軍遠征があった。第1次十字軍が中近東に4つの十字軍国家を樹立したのが成功と言えるだけで、その後の遠征にもかかわらず十字軍国家は縮小し、最終的にイスラム世界が勝利する。

 この200年間の事情を語る塩野七生は相変わらず明快で面白い。主な人物たちに焦点をあて、人物評を交えながらその行動と思考を追い、戦闘場面になると一段と筆が冴える。同時に政治・経済・外交をくっきりと鳥瞰する。独断的な見解や推測もあるが、この時代の様子がありありと浮かんでくる気がする。

 本書は、第1次から第8次の十字軍遠征を語るだけではなく、遠征の合間の期間にも着目している。中近東において周辺のイスラムと共生せざるを得ない十字軍国家の様子や事情は興味深い。彼らにとって有難迷惑な十字軍あったようだ。

 十字軍の時代を活写した物語ではあるが、少年十字軍への言及はあっさりしている。社会史的な事象であって政治・経済・外交とは無縁だからかもしれない。やはり、塩野七生は人物論の人である。彼女は自身の著作の人物について次のように語っている。

 《書くからには、絶対にその人間を愛します。といってそれは美点だけを愛するという類の愛ではありません》

 その通りだろうとは思うが、登場人物は好印象の人物、悪印象の人物、どちらとも言えない人物にわかれる。

 本書では頑迷固陋な宗教者たち(法王、法王代理)は悪役であり、悪賢く己れの領土拡大だけを目論むフランス王も悪役だ。著者の肯定的な愛が感じられるのは獅子心王リチャードや皇帝フリードリヒ2世であり、イスラムの英雄サラディンである。これらはみな柔軟性のある勇者だ。

 十字軍には壮大な愚行というイメージがある。本書を読み終えても、やはり愚行だったと思える。それだけではなく不条理でもある。2度にわたる遠征に失敗したルイ9世が「聖人」とされ、大きな活躍をしたテンプル騎士団(ルイ9世の身代金も立て替えるた)が帰国後に大弾圧を受けるのは不条理としか言いようがない。

 考えてみれば、愚行と不条理の積み重ねが歴史の常の姿かもしれない。その愚行と不条理から、世の中の変化をうながす力が湧き出てくるのだろうと思えてくる。

『三島由紀夫おぼえがき』(澁澤龍彦)の蟹の話が面白い2021年02月23日

『三島由紀夫おぼえがき』(澁澤龍彦/中公文庫)
 ユルスナールの『三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン』を翻訳した澁澤龍彦の次の文庫本を読んだ。

 『三島由紀夫おぼえがき』(澁澤龍彦/中公文庫)

 三島に関するエッセイの集成で、三島生前のモノも死後のモノもあり、三島事件当日に執筆した追悼文やユルスナール本の訳者あとがきも収録されている。三島より3歳下の澁澤龍彦も、奥野健男と似た同世代意識で三島と親しく交わった文学者で、三島への共感も強かったようだ。

 著者が紹介している話で面白いのは、寺田透の意地悪な三島観である。蟹の話が特に面白い。三島は蟹嫌いで有名だった。三島と同席した座談会の席に小さな蟹のから揚げが出たとき、寺田透は三島の皿の分も含めてすべての蟹を食べてしまい、後に次のように書いている。

 「僕が食べちゃったのは気を利かしたからではなく、蟹を見るのがいやだとか好きだとか、愚にもつかない煩瑣なことで時間が失われるのを嫌ったまでである。大体蟹という字を見るさえぞっとするという三島氏の蟹ぎらいはどの位深刻なものだったのか。(中略)父君もいうように、見えなければそれですむ視覚の問題だったのだ。」

 この話の紹介に続いて、澁澤龍彦は次のような見解を述べている。

 《たぶん、三島氏は現実を総括的に正確に眺めようなどとは、一度として考えたことがなかったにちがいないのである。いわば蟹を通してしか、彼は現実と係り合おうとしなかった。(…)というのは、彼は死ぬまで、自分が現実に存在しているとは感じられず、自分の肉体的存在感を目ざめさせてくれるもののみを、ひたすら求めたらしいからである。》

 精神病学者の内藤健氏が 『金閣を焼かねばならぬ』 で、三島の宿痾は「離隔」だとしていたのに通じる指摘に思えた。

フランスの女流作家ユルスナールの三島由紀夫論を読んだ2021年02月16日

『三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン』(マルグリッド・ユルスナール/澁澤龍彦訳/河出文庫)
 村松剛の『三島由紀夫の世界』でフランスの高名な女流作家ユルスナールが三島由紀夫を論じた本があると知り、ネット検索して古書で入手し、読んでみた。

 『三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン』(マルグリッド・ユルスナール/澁澤龍彦訳/河出文庫)

 160頁ほどの薄い文庫本なので一気に読めた。原著は三島没後10年の1980年刊行、翻訳が出たのが1982年、河出文庫になったのが1995年である。ユルスナールは三島由紀夫の母親にあたる世代で、本書刊行時は77歳、1987年に84歳で亡くなっている。

 私が本書を読みたいと思ったのは、5年前にに読んだ彼女の 『ハドリアヌス帝の回想』に感服し、この作家が三島をいかに描いたのか興味がわいたからだ。

 本書は、一気に読める面白さがあるものの、やや期待はずれだった。三島に関する本を何冊も読んでいる日本人にとっては目新しくない常識的な分析が多く、西洋人らしい誤解と思える部分もある。

 彼女は英訳と仏訳で読める三島の作品をほとんど読んでいるらしいので、私よりは多くの三島作品を読んでいると思われる。面白いのは、奥野健男が高く評価した『鏡子の家』と『美しい星』は読んでいないそうだ(訳されてないのだと思う)。

 彼女は三島作品の多くはヨーロッパ的手法で書かれているとし、『仮面の告白』にカミュの『異邦人』を重ねている。『潮騒』を「透明な傑作」として高く評価しているのが印象に残った。

 『豊穣の海』についても多くに頁を費やしているが、輪廻転生にとまどい、少々てこずっているように思える。本書のタイトルにある「空虚」は『豊穣の海』のラストに照応しているようだ。

 小説および映画の『憂国』に注目し、三島の自死とも重ねて切腹に大きな関心を示しているのは、当然だとは思うが、やはり西洋人っぽい。

奥野健男の『三島由紀夫伝説』は強烈な同世代意識に裏打ちされている2021年02月14日

『三島由紀夫伝説』(奥野健男/新潮社/1993.2)
 村松剛の『三島由紀夫の世界』に続いて次の三島本を読んだ。

 『三島由紀夫伝説』(奥野健男/新潮社/1993.2)

 奥野健男も村松剛と同じように三島由紀夫と親交のあった評論家である。本書は三島の死から20年以上が経過して刊行された約千四百枚の分厚い評伝だ。

 奥野健男は東工大生時代に『太宰治論』を発表し、卒業後は東芝の研究所でトランジスタ開発に携わりながら文芸評論家として活躍した人で、三島由紀夫とは1歳下(2学年下)の同世代である。三島から「君は工科出身、ぼくは法科出身、おたがいに文壇とはエトランジェの立場を堅持して、書生同士の付き合いをしたい」と言われ、1954年から三島事件の前年(1969年)までの15年間、ほぼ毎月会っていたそうだ。

 晩年の1年間が疎遠だったのは、奥野健男が『英霊の声』などを評価せず、「盾の会」の活動にも理解を示さなかったせいだと思われる。と言っても、本書全般は三島由紀夫への深い共感と尊敬に満ちている。奥野健男の三島作品評価が、世間一般の評価と少し異なっているのが興味深い。『金閣寺』や『潮騒』をさほど評価せず、『鏡子の家』や『美しい星』を高く評価している。

 村松剛の『三島由紀夫の世界』が身内・家族視点で、やや防衛・擁護的なのに対して、本書は強烈な同世代意識(アプレゲール)による同世代視点で三島作品読み解いている。辛辣な指摘もある。私には村松剛のものより奥野健男の評伝の方が面白かった。

 奥野健男の言う同世代とは、終戦時に二十歳前後だった三島由紀夫、吉本隆明、安部公房、吉行淳之介、井上光晴などである。戦争で死ぬのを当然と一度は自覚した世代とも言える。その敗戦体験は、戦後いち早く活躍を開始した第一次戦後派とは大きく異なる。奥野健男は、この同世代の内面の複雑さを熱く語っている。

 また、本書の巻末近くには次のような述懐がある。

 《三島由紀夫は生涯、この世に存在しようとしても存在することができない自分に悩んでいた。どうしてもこの世に本当に生きているという実感を持つことができない自分に焦っていた。》

 この分厚い評伝を読んで、三島由紀夫の最高傑作は、自ら演出・主演した精神と肉体の悲喜劇「三島由紀夫の生涯」だと思えてきた。

『三島由紀夫の世界』(村松剛)は身内視点の評伝2021年02月10日

『三島由紀夫の世界』(村松剛)は身内視点の評伝
 三島由紀夫に関する本をいくつか読んで頭が三島世界に慣れているうちに、未読放置の三島本をかたづけようという気になり、まず次の評伝を読んだ。

 『三島由紀夫の世界』(村松剛/新潮文庫)

 三島由紀夫と親交が深かった村松剛(三島より4歳下)が、死後17年経って『新潮』に連載した900枚を超える評伝である。村松剛と三島由紀夫は母親同士が古くからの友人で、村松剛の 妹・英子 は三島由紀夫が関連した劇団の有名女優だった。

 私が三島作品を初めて読んだのは中学卒業の頃の『金閣寺』だが、村松剛の『ナチズムとユダヤ人』はそれ以前の中学3年の時に読んでいる。このアイヒマン裁判傍聴記の著者紹介に「アルジェリア独立戦争に従軍」とあるのに驚き、「行動する知識人」のカッコよさに惹かれ、彼の『女性的時代を排す』『ユダヤ人』も入手して読んだ。

 少年時代の一時期、私には村松剛は三島由紀夫より大きい存在だった。大学生になり、大学闘争の嵐が吹き荒れた時代、立教大の教授だった村松剛が大衆団交を人民裁判だと非難して辞職したと聞き、敵ながらあっぱれという気分になった。

 閑話休題。『三島由紀夫の世界』は、三島由紀夫の小説やエッセイの分析をベースに小説家の内面史を辿っていく流れがメインである。しかし、興味深く読めるのは、著者と三島由紀夫やその家族との交流に関わるエピソード部分だ。

 著者が三島由紀夫を客観的に捉えようとしているのは確かだが、どうしても身内・家族の視点になっている。三島由紀夫に引きずられているとも言える。初恋の影響を大きく見過ぎ、同性愛者ではないと強調しすぎているように思える。

 ノーベル賞に関して「賞をもらっていたとしても、三島のその後の行動にさほどの変化はなかったのではないか」としているのは炯眼だ。私は以前、ノーベル賞を受賞していれば三島事件はなかったと思っていたが、それは間違いだといまは思っている。

 本書の圧巻は三島事件を描いた終章である。身内の側からの驚愕・放心、そして「やっぱり」――事件直後の家族の混乱した様が伝わってくる。「やっぱり」に、あらためて三島由紀夫という作家の宿命を感じた。

 村松剛は1994年に65歳で亡くなっている。この文庫版は逝去後の1996年刊行である。