吉田喜重監督の『贖罪:ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』は面白い2020年05月15日

『贖罪:ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(吉田喜重/文藝春秋)、朝日新聞1941.5.10夕刊
 ナチス副総統ルドルフ・ヘスを題材にした映画監督の吉田喜重(87歳)の長編小説『贖罪』が刊行された。87歳での長編書き下ろしに脱帽する。ヘスには私も関心があるので早速読んだ。

 『贖罪:ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(吉田喜重/文藝春秋)

 ナチス副総統のヘスは、独ソ戦開始直前の1941年、誰にも告げず単独でメッサ―シュミットを操縦してイギリスに飛ぶ。イギリスとの和平交渉のつもりだったと言われているが、ヒトラーはヘスが狂ったと激怒する。イギリスに収監されたヘスは、戦後のニュルンベルグ裁判で終身刑となる。ベルリンのシュパンダウ刑務所で長い虜囚生活を送り、1987年8月、刑務所内で自殺を遂げる。93歳だった。

 私は中学生の頃(1960年代初め)にヒトラーやナチスに興味をもち、何冊かの本や雑誌記事を読み、副総統のヘスが刑務所でまだ生きていると知って驚いた記憶がある。ナチスの幹部はみんな自殺するか死刑になっていると思っていたが、『我が闘争』を口述筆記したナンバー2の副総統が存命なのに衝撃を受けたのである。

 その後、いろいろな本を読んで、ヘスが死刑にならなかった事情は納得した。イギリスへ飛んだということもあるが、肩書は副総統でも、あまり大きな役割は果たしていなかったようだ。ナチスやヒトラーに関する本は山ほどあるが、ヘスに関する記述はさほど多くない。謎の人物だった。

 『贖罪』のオビには「構想20年、同じ時代に生きあわせた証しとして書き上げた、吉田喜重監督 渾身の長編小説!」とある。吉田監督はヘスに対して並々ならない関心を持ち続けていたようだ。本書は評伝ではなく、あくまで小説だが、事実へ限りなくアプローチしたフィクションだと思う。

 この小説は、作者を彷彿させる「筆者」が子供時代を振り返る回想から始まる。ヘスのイギリス飛行は筆者8歳のときなので、リアルタイムで事件を憶えているわけではないが、少年時代に納戸で年長の従兄が残した新聞記事の切り抜きを発見し、ヘスに興味を抱くのである。読者を引き込む書き出しだ。

 この小説の大半は、真贋不詳のヘスの独白録という体裁になっている。謎の部分を想像力で補った独白録であり、そこに筆者の注釈が挿入されている。

 小説の肝は、ヘスの師である地政学者ハウスホーファの家族とヘスとの交流であり、そこにヒトラーも絡んでくる。どこまでが史実で、どこからが想像かは不明だが、あり得べき話だと思う。

 ハウスホーファ教授の弟子として学問の道を目指していたヘスがヒトラーに惹かれていったのは、「異邦人感覚」と「塹壕の思想」という二つの共通点があったからだ――この小説はそう述べている。二人ともドイツ生まれではない。ヒトラーはオーストリアのブラウナウ生まれ、ヘスはエジプトのアレクサンドリア生まれである。二人とも第一次大戦にドイツの志願兵として参戦し苛酷な戦場体験をする。

 ミュンヘン一揆でヒトラーが入獄している間に有力党員の多くが一時的にヒトラーから離れたとき、出獄したヒトラーがヘスに寂しげに語る。「君以外は誰も信用できない状況になってしまった」と――晩年のヘスが獄中でそれを回想する場面が印象的である。

 この小説のヘスは、ユダヤ人排斥を抑制すべきだと思っているし、世界大戦を避けて和平の道をさぐろうとしている。しかし、そのすべて失敗する。ひとつの見方だと思う。

 ヘスやハウスホーファに関する話は、私の知らなかったことも多くて面白く読めた。ヒトラーやナチスに関する記述は歴史解説に近く、やや退屈で少しくどい。高齢者の文章はくり返しが多く、くどくなる傾向があると感じた。私自身が高齢者なので自戒の認識である。少々くどい所はあっても、この小説は決して読みにくくはない。終盤にはミステリーの醍醐味も用意されていて引き込まれる。

ついに小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を読了したが…2020年05月10日

『黒死館殺人事件(上)(下)』(小栗虫太郎/講談社文庫)
 コロナ籠城を機の「読みかけ放置本退治」で、夢野久作の『ドグラ・マグラ』に続いて小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を読んだ。

 『黒死館殺人事件(上)(下)』(小栗虫太郎/講談社文庫)

 『ドグラ・マグラ』を読了した後、『ドグラ・マグラ』、『虚無への供物』(中井英夫)、『黒死館殺人事件』が三大奇書と呼ばれていたことを思い出した。『虚無への供物』は40年以上昔に引きこまれるように読んで感動した。『黒死館殺人事件』は40年程昔、講談社文庫に収録されたのを機に購入して読みかけたが途中で放り出した。思った以上に読みにくかった記憶がある。

 『ドグラ・マグラ』を読了したので『黒死館殺人事件』も片付けようという気になり、古びた文庫本を読み始めた。

 昔挫折した記憶があるので、今回は気合を入れて冒頭の序編(14頁)を丁寧に2回読んでメモを作成した。序編でこの小説の舞台と登場人物の概要が語られているからである。黒死館という館とその主・降矢木家の歴史年表、登場人物リスト、アイテム一覧などを整理したメモは、そこそこの分量になった。黒死館が建設されたのは明治18年(1885年)、この物語の事件発生が昭和8年(1933年)(登場人物の年齢で推定。この小説が『新青年』に連載されたのは昭和9年)である。黒死館は築48年の古城のような館で、その48年間にもいろいろあり、降矢木家の始祖は天正遣欧使節の一人がメディチ家の隠し子との間にもうけた子という設定なので、400年の歴史を視野に入れなければならない。

 このメモで、物語世界に没入する準備をして読み始めたが、やはりこの小説は難物だった。衒学趣味のミステリーだとは覚悟していたが、その衒学が尋常でない。登場人物たちの会話は偏執狂に近い衒学的な比喩と西欧古典引用の応酬である。その衒学部分が事件のトリックにも絡んでくるので、わけがわからなくなってくる。ギャグかパロディの一歩前のような会話の連続で、芝居がかっている。芝居を観ている気分で読み進めた。

 この衒学部分の大半を理解できれば面白いのだろうが、そうは行かなかった。読了はしたが、堪能できたとは言えない。歯が立たなくて評価不能という気分である。いつの日かこの小説を堪能してみたいという気分にさせられるので、妖しい魅力があるとは思う。確かに奇書である。

ついに夢野久作の『ドグラ・マグラ』を読了2020年05月07日

『ドグラ・マグラ』(夢野久作/夢野久作全集4/三一書房)
 コロナ籠城を機の「読みかけ放置本退治」で、マルケスの『百年の孤独』に続いて夢野久作の『ドグラ・マグラ』を読んだ。

 『ドグラ・マグラ』(夢野久作/夢野久作全集4/三一書房)

 この本を読みかけたのは半世紀近く昔の大学生の頃である。当時、戦前の怪奇幻想小説の再評価がブームだったような気がする。『ドグラ・マグラ』については「探偵小説を超えた文学」「個体発生は系統発生をくり返すということを描いている」などと聞いていたような気がする。ワクワク気分で読み始めたがあえなく挫折した。

 挫折した理由はよくわからない。「胎児よ/胎児よ/何故躍る/母親の心がわかって/おそろしいのか」という巻頭歌や「チャカポコ・チャコポコ…」という奇妙な祭文は印象に残っているが、読み続けることができなかった。根気がなかったのだろう。巻末の解題によれば、発表当時(昭和10年)の探偵文壇でもこの千二百枚の小説を通読した人は多くはなかったらしい。

 今回の籠城読書では2日かけて読了した。脱線気味にも思える蘊蓄話が延々と続きながらも、探偵小説の形になっていて、終盤の怒涛には引きこまれた。と言っても、探偵小説として見れば、かなり怪異なテーマではあるがさほど複雑に入り組んだ話ではない。こけおどしのように見えなくもない。

 この小説の面白さは怪奇探偵小説的な部分にあるのではない。小説の中には「祭文」「論文解説」「談話記事」「遺言書」「寺の縁起文」などの異様な内容の長文の文書が挿入されている。本編部分より挿入文書の方が分量は多いかもしれない。そんなアンバランスな構成になっていて、小説を読みながら別の文書を読まされている気分になり、それが不思議な読書体験になる。作者が乗り移ったと思われる登場人物たちの偏執狂的な執念が伝わってくる。語り口も異様である。そこが、この小説の面白さであり、魅力だと思う。

 出口のない迷路を彷徨い続けているような小説である。

 なお、「ドグラ・マグラ」という言葉の意味は、小説中の登場人物が「今では単に手品とか、トリックという意味にしか使われていない一種の廃語同様の言葉だそうです。語源、系統なんぞは、まだ判明しませんが、強いて訳しますれば、今の幻魔術もしくは『堂廻目眩』『戸惑面喰』という字を当てて、おなじように『ドグラ・マグラ』と読ませてもよろしいというお話しですが、(…)」と述べている。

ついにマルケスの『百年の孤独』を読了2020年05月05日

『百年の孤独』(ガルシア・マルケス/堤直訳/新潮社)
 読みかけたまま書架に眠っている本は少なくない。コロナ籠城の機会にそんな本を消化したいと思って手にしたのがマルケスの『百年の孤独』である。

 『百年の孤独』(ガルシア・マルケス/堤直訳/新潮社)

 マルケスがノーベル文学賞を受賞したのは1982年で、その頃に本書を購入して読みかけたのだと思う。マジックリアリズムの傑作と聞いて通勤電車の行き帰りで読み始めたが、あえなく挫折した。つまらなわけでも難解なわけでもないが、読み進めることができなかった。

 今回、気合を入れてこの小説に挑戦し、二日で読了した。面白かったが、かなり疲れた。濃厚な記述なので、サラサラと飛ばし読みができない。硬い飴を舐めるようにジックリ味わいながら読み進めないと、すぐにわけがわからなくなる。まとまった時間のスロー読書向きの本で、細切れの通勤電車で読むのは大変だと思った。数十年前に挫折した自分を弁護したくなった。

 『百年の孤独』は南米のマコンドという架空の町の約百年の歴史であり、その町の創設に携ったブエンディーア一族の始まりから終わりまでの物語である。「〇〇家の人々」といった大河ドラマ的な物語ではなく、多様で奇怪なエピソードを集成した神話・伝説・史書に近い。世界史や日本史の教科書を小説のように一気に読むのが難しいように、『百年の孤独』を一気読みするのは難しい。と言っても、登場人物たちの家系図などの予備知識が頭に入ったうえでの再読ならば、面白く一気に読めるかもしれない。(十分に勉強した後なら歴史の教科書も一気に読めるだろう)

 私は、登場人物を別紙にメモして、それを随時整理しながら、この小説を読み進めた。普通の小説なら全体の三分の一ぐらいで登場人物は出尽くすが、この小説は「史書」に近いから読み進めるごとに登場人物が追加されていく。私の作ったリストでは登場人物は六十数人になった。長編としては特に多いとは言えないかもしれないが、この小説は7世代にわたる話で、親や祖父と同じ名付けが多い。同じ名が次々に出てくるし、展開がめまぐるしいので、わけがわからなくなる。もちろん、作者はきちんと区別できるように書いている。だが、百歳をはるかに超える人物もいるので読者は混乱する。単なる登場人物リストだけなく、家系図も必要である。

 私は家系図までは作らなかったので、読書の途中で、登場人物たちの関係が祖母か曾祖母か高祖母か、あるいは兄弟か従妹か叔父姪かわからくなることが多かった。その都度、人物リストを整理して確認しながら読んだ。読書を中断し、人物リストの整理・確認をしてから読書を再開する――そんな、のんびりした贅沢な読み方も悪くないと思った。

 蛇足ではあるが、この小説を読んでいて、幼少期に惹かれた絵本「ちいさいおうち」を思い出した。

ウイルスで人類滅亡の『復活の日』を再読2020年05月02日

『人類滅亡戦:見えざるCBR兵器』(加藤地三/サラリーマン・ブックス//読売新聞社)、『復活の日』(小松左京/日本SFシリーズ1/早川書房)
 コロナ禍のなか小松左京の『復活の日』が注目され、増刷された角川文庫版が書店に並んでる。私はこの小説を半世紀以上昔の高校1年のときにリアルタイムで読み、非常に感動した。その後も何度か拾い読みしているし、映画は封切で観て、DVDも購入して繰り返し観ている。

 内容はかなり頭に残っているが、この機に再読したくなった。再読するなら『人類滅亡戦』(加藤地三)と併読しようと思った。

 『人類滅亡戦:見えざるCBR兵器』(加藤地三/サラリーマン・ブックス/1963.3.1/読売新聞社)
 『復活の日』(小松左京/日本SFシリーズ1/1964.8.31/早川書房)

 まず前者を読み、続けて後者を読んだ。『復活の日』の「あとがき」は次の一節で結ばれている。

 「なお、細菌戦の知識に関しては、読売新聞社加藤地三氏の著書「人類絶滅戦――見えざるCBR兵器」(サラリーマンブックス)を参考にさせていただく所が大きかった。――むしろ、同書にあらわれた、氏の情熱につき動かされた点も多い。執筆中、のぞみながらついに拝顔の機会にめぐまれなかったが、同氏とその著書に、心からの謝意を表しておきたい。」

 この「あとがき」が記憶にあったので、『復活の日』を読んだ後に古本屋で『人類滅亡戦』を見つけて購入し、拾い読みした。半世紀以上昔のことである。『復活の日』再読にあたり、『人類滅亡戦』が小説にどう影響しているか検証してみるのも一興と思った(小松左京は『人類滅亡戦』を『人類絶滅戦』と誤記していて、最新の角川文庫版もそのまま)。

 1964年8月刊行の『復活の日』は小松左京33歳のときの長編第2作(第1作は同じ1964年の3月刊行の『日本アパッチ族』)である。『人類滅亡戦』の著者である加藤地三は読売新聞の科学記者で小松左京より8歳年上だ。私が確認できた範囲では、小松左京の加藤地三への言及はこの「あとがき」だけなので、小説刊行後、小松左京が加藤地三と面談したかどうかはわからない。

 1960年代の冷戦期に書かれた『人類滅亡戦』は化学兵器(C)、生物兵器(B)、放射線兵器(R)の歴史と現状を解説し、その危険性を警告した本で、科学技術の解説書ではない。日本の731部隊の細菌兵器開発や朝鮮戦争における米軍の細菌兵器使用などに言及し、科学者たちが生物化学兵器開発の禁止を呼び掛けたパグウォッシュ会議などの活動も取り上げている。

 『復活の日』のなかの記述には『人類滅亡戦』によるものだと推察できる箇所がいくつかあった。それは、米軍の細菌兵器使用やパグウォッシュ会議などに関する部分である。

 高校生のときに『復活の日』を読んで感じたのは、細菌やウイルスに関する話がゴチャゴチャと難解だということであり、小松左京は何でこんなに詳しいのだろうと思った。『人類滅亡戦』には小説のヒントになるような生物学的詳細情報はない。再読のときも、あの蘊蓄部分について行くのは大変だった。

 この小説の設定は現代の科学者からも次のように高く評価されている。

 「物語のカギとなる生物兵器の詳細が実に正確な科学考証に基づき設定されている(…)1964年にはまだ発見されていなかった生物学的特性までもが、すでに予見されて描きこまれている場合すらあり驚かされる。現代の科学者にとっても必読の書である。」(「『復活の日』から読み解くバイオロジー」下村健寿・オックスフォード大学生物学研究室研究員・医学博士/小松左京マガジン33号 2009.4)

 『小松左京自伝』によれば、アメリカ文化センター・京都府立医大の図書館・近所の図書館などで、海外の科学雑誌の論文や医学書や百科事典などを読んで勉強したそうだ。当時、小松左京はまだ海外へ行ったことはなく、ネットもなかった。たいしたものだ。

 初読のとき、この小説のプロローグとエピローグに惹かれた。プロローグはカッコいいハードボイルドの雰囲気だと記憶していたが、再読してみて晦渋な考察が述べられているのが意外だった。高校生には、それもカッコよく感じられたのだろうか。この小説には宇宙・生物・人類などをやや哲学的に語る箇所も多い。いま読み返すと、長編2作目の33歳の時点で「小松左京の思想」がほとんど形づくられていたと思える。

 東日本震災の直後には『日本沈没』を再読し、コロナ禍で『復活の日』を再読した。次は――などとは考えたくない。

日中戦争の頃の『キング』を入手した2020年04月30日

『キング 昭和12年12月號』(大日本雄辯會講談社
 2週間ほど前に『『キング』の時代:国民大衆雑誌の公共性』(佐藤卓己/岩波現代文庫)を読み、1冊だけでも『キング』の実物を見たいと思い、ネット古書店を検索した。戦前発行のものはどれも安くない。一番安いのを注文すると「倉庫を探したのですが、いくら探しても見つからず、調べたら大分前に売れてました」との返事がきた。仕方なく、その次に安いのを注文し、次の1冊を入手した。

 『キング 昭和12年12月號』(大日本雄辯會講談社)

 1937年(昭和12年)は日中戦争勃発の年で、『キング』の発行部数は110万部を超えている。『昭和12年12月號』は、この雑誌の最盛期の1冊と言っていいと思う。残念ながら挟込附録「上海南京地方明細地圖」は失われているが、綴込附録「國民精神總動員大特輯」88頁+本文634頁で、かなり分厚い。カラー写真4頁、モノクロのグラビア30頁、2色刷漫画が16頁、本文のほとんどの頁に挿絵やカットあるいは写真が入っている。漢字にはすべてルビを振っている。読みやすそうな雑誌である。

 時局記事と連載小説が中心で、漫画、小話、豆知識なども多く散りばめられている。少し以前の『文藝春秋』と『オール讀物』を足したよう雑誌だなと思ったが、この2誌は『キング』より古いので、当時の2誌がどんな雑誌だったのかはよくわからない。

 『キング 昭和12年12月號』めくって感じたのは、戦時色一色だということだ。太平洋戦争開戦の4年前ではあるが、1937年(昭和12年)7月には盧溝橋事件で日中戦争が始まり、この雑誌が出た時期は戦線がどんどん拡大している。

 冒頭のカラー頁は、赤ん坊をおぶった母親が出征する若い夫を見送る写真で、キャプションンには「行く先は朔風骨に沁む北支か、それとも迫撃砲の吠ゆる上海か、やがて此の勇士の名も新聞に出ることであろう」とある。グラビア頁はすべて「支那事變大畫報」という特集で、戦闘や兵士の写真が満載、本文記事も「支那事變大特輯」が65頁、漫画も「支那事變」を題材にしたものが多い。

 綴込附録「國民精神總動員大特輯」(88頁)は近衛首相はじめ大臣や政務次官などのメッセージ集である。近衛首相は冒頭で「吾々の不擴大方針が支那政府の不誠意に依りまして顧られず、北支事變が遂に支那事變となり、支那の排日分子に對して茲に全面的且積極的なる膺懲を必要とするに至りましたることは諸君己に御承知の通りであります」と述べている。この特集でメッセージを発してる要人には、戦後の政界で活躍した賀屋興宣(大蔵大臣)、灘尾弘吉(内務省課長)、清瀬一郎(衆議院議員)などもいる。戦前と戦後の連続性を感じた。

 戦争の勇ましい記事が多いが、この雑誌のメインは連載小説である。錚々たる執筆陣による連載が12本、他に読み切りが7本ある。大衆雑誌とは言え700頁以上のこの雑誌を毎月読むとすれば、それなりの読書時間を要するだろう。あまり本を読まなくなったと言われる現代の若者よりは、戦前の「大衆」の方が活字に親しんでいたと思える。

『ちくま文学の森16・とっておきの話』はやや期待外れか2020年04月28日

『とっておきの話』(ちくま文学の森15/筑摩書房)
 『ちくま文学の森6・思いがけない話』に続いて次の第15巻を読んだ。

 『とっておきの話』(ちくま文学の森15/筑摩書房)

 巻頭詩(アポリネールの「ミラボー橋」)に続いて20編の短篇(内6編が翻訳物)、私が面白いと思ったのは「名人伝(中島敦)」「月の距離(カルヴィーノ)」「にごりえ(樋口一葉)」「わら椅子直しの女(モーパッサン)」などである。

 全16巻の「ちくま文学の森」の16巻目は別巻なので、15巻目の本書が事実上の最終巻で、その表題が「とっておきの話」である。そもそも、短篇アンソロジーの本叢書全16巻の収録作すべてが、編者たちの「とっておきの話」のはずだが、その最終巻をあえて「とっておきの話」とするのだから、よりすぐりの傑作選だろうと期待した。期待値が高かっただけに多少の期待外れだった。どれも面白いが、私にとって格別に面白いとまでは言えない作品が多い。上記の中島敦、樋口一葉の作品は再読の名作で、名作と認めないわけにはいかない。

 「ちくま文学の森」全16巻の内の4巻を続けて読んで、編者たちと私との好みの共有点と違いがおぼろに見えてきた気がした。「違い」は世代の違いかもしれないと考え、編者4人を生年順に並べてみた。

 安野光雅 (1926年3月~ )
 森毅   (1928年1月~2010年7月)
 井上ひさし(1934年11月~2010年4月)
 池内紀  (1940年11月~2019年8月)

 最年長の安野光雅氏のみが存命で他の3人は物故者である。この4人、同世代かと思っていたら、意外と年齢差があり、安野氏と池内氏は14歳違う。私は1948年生まれなので、編者たちとの年齢差は22~8歳になる。これだけ幅があると世代論でかたづけるには無理がある。それは承知だが、私の仮説は、人は十代後半までに読んだ小説に強く刻印されるということである。

 このアンソロジーは、編者たちが二十歳以前に読んで強い印象を受けた小説がメインのような気がする。それは、私が二十歳以前に読んで強い印象を受けた小説と重複する部分もあり、ずれる部分もある。そんな気がする。

「ちくま文学の森」の4巻をたて続けに読んだが、残りの12巻は折を見てボチボチ読んでいこうと思う。こういうアンソロジーはガツガツ読むものではなく、心豊かに味読するものである。

『ちくま文学の森6・思いがけない話』の表題は読書に妨げか?2020年04月26日

『思いがけない話』(ちくま文学の森6/筑摩書房)
 『ちくま文学の森5・おかしい話』に続いて次の第6巻を読んだ。

 『思いがけない話』(ちくま文学の森6/筑摩書房)

 巻頭詩(室生犀星の「夜までは」)に続いて19編の短篇(内13編が翻訳物)を収録していて、その中の5~6編は読んだ記憶がある。と言っても、内容をほとんど失念しているものが多い。

 本書も傑作が多い。私が面白いと思ったのは「改心(O・ヘンリー)」「外套(ゴーゴリ)」「魔術(芥川龍之介)」「押絵と旅する男(江戸川乱歩)」「親切な恋人(A・アレー)」「砂男(ホフマン)」などである。

 アンソロジーの表題が「思いがけない話」で冒頭第1編がO・ヘンリーなので、「意外な結末」の話を期待してしまう。O・ヘンリーの「改心」は途中で既読だと気づき、結末も思い出した。それでも面白く読了できた。2編目以降も「意外な結末」の話が続くかと思ったがそうでもなかった。当然ながら「意外な結末」がなくても面白い小説は面白い。

 巻末の解説で本叢書の編者の一人である森毅が次のように書いている。

 「「思いがけない話」というのは、いささか余分な修飾のような気がしないでもない。思いがけないからこそ、物語であるのだ。/しかしながら、そのことに惑わされて、なにか「思いがけない」展開があろうと期待するのも、つまらない話である。」

 この見解には全面的に賛成であり、それならこんな表題をつけなくもいいのにとも思ってしまう。私は表題に引きずられて「思いがけない」展開を期待して読み進めてしまった。「思いがけなさ」を気にかけすぎていると、読み終えたあと「面白かったけど、思いがけないというほど意外ではなかった」など思ってしまう。

 ゴーゴリの「外套」は印象深い有名作なので、半世紀以上昔に読んだ私でも、その内容の大筋は記憶にあり、結末もわかっていた。それでも、興味深く再読できた。この作品の展開が「思いがけない」か否かはおくとして、内容を記憶している「思いがけない話」を再読しても楽しめるのが不思議でもあり面白くもある。初読と再読では脳の働きが少し異なるのだと思う。

『ちくま文学の森・おかしい話』は「変・滑稽・奇想」の傑作集2020年04月24日

『おかしい話』(ちくま文学の森5/筑摩書房)
 『ちくま文学の森7・恐ろしい話』に続いて次の第5巻を読んだ。

 『おかしい話』(ちくま文学の森5/筑摩書房)

 この叢書の特徴は各巻のユニークなタイトルにあり、「第1巻 美しい恋の物語」「第2巻 心洗われる話」「第3巻 幼かりし日々」……と続くのだが、第1巻からの順番ではなく自分が惹かれるタイトルの巻を読みたくなるのは当然で、『恐ろしい話』の次に『おかしい話』に手が伸びた。

 『おかしい話』は巻頭が長谷川四郎の「おかしい男の歌」という詩で、それに続いて18編の短篇(内11編が翻訳)が収録されている。巻末の井上ひさしの解説も一つのおかしい短篇小説と言える。

 このアンソロジーは『恐ろしい話』より面白かった。私が面白いと思ったのは「死んでいる時間(ボンテンぺㇽリ)」「結婚申込み(チェーオフ)」「勉強記(坂口安吾)」「あたま山(八代目林家正蔵演)」「運命(ヘルタイ)」「海草と郭公時計(T.F.ポイス)」「美食倶楽部(谷崎潤一郎)」「本当の話 抄(ルキアノス)」などである。

 おかしい話とは「変な話、滑稽な話、奇想の話」であり、「恐ろしい話」より幅が広くなり、その面白さは「恐ろしい話」より風雪に耐えて普遍的になりやすいと思える。

 本書収録の「幸福の塩化物」(ピチグリッチ)という翻訳小説は戦前の訳文で、当時の検閲による「伏字」はそのままである。エロチックな場面で「三十五字伏字」「四行伏字」などの表記になっている。新たな訳文がないという事情もあるかもしれないが、伏字がもたらす効果を狙っているように思える。確かにその効果はある。

 このアンソロジーは19世紀から20世紀前半の短篇がメインである。だが、本書には2世紀のルキアノスの作品「本当の話 抄」が収録されている。ルキアノスは『自省録』で有名な最後の「五賢帝」マルクス・アウレリウスと同時代のギリシア人である。この「本当の話 抄」の奔放な内容には驚いた。ほら男爵の冒険の古代版に近いが、ジブラルタル海峡を越えて大西洋に出た船は宇宙にまで飛び出し月世界と太陽世界の戦争に巻き込まれ、さらには不可思議な国を巡って行く。その奇想はガリバー旅行記を超えている。この作品は「史上最古のSF」と見なされているそうだ。首肯できる。

『ちくま文学の森・恐ろしい話』はどの程度恐ろしいか?2020年04月22日

『恐ろしい話』(ちくま文学の森7/筑摩書房)
 1988年から1989年にかけて筑摩書房から「ちくま文学の森」という叢書が出た。全15巻+別巻のアンソロジーで、編者は安野光雅、池内紀、井上ひさし、森毅の四氏だった。わが家の書架にはこの全16巻がある。私が入手したのではなく、家人が刊行時に購入したものである。パラパラと何編かは拾い読みしたが、30年以上書架の奥に眠っていた。二度の引っ越しの際にも処分しなかったのは、読みやすそうな短篇の選集なので老後の消閑に手頃と思ったからだが、考えてみればすでに私は71歳、立派な老後である。まずは次の1冊を読んだ。

 『恐ろしい話』(ちくま文学の森7/筑摩書房)

 この巻には24編が収録されている。実は消閑気分になって本書を読んだわけではなく、たまたま『幾たびもDIARY』(筒井康隆)を拾い読みしていて、筒井氏の1988年7月11日の日記の次の一節が目に入ったからである。

 「上京。ひかり車中で今評判の『ちくま文学の森・恐ろしい話』(筑摩書房)を読むが、ほとんど前に読んだ作品ばかりであった。編集した人たちが優秀であるだけに、間違いのないアンソロジイになっているが、それだけに驚きがない。アンソロジイの限界というべきか」

 これを読んで、『恐ろしい話』を引っ張り出してきて、私の既読作品があるかどうか確認してみると、「ひかりごけ」(武田泰淳)以外は読んだ記憶のない作品だった。で、本書を引っ張り出したのを機に、全24編を読んだ。24編中の7編は日本の作品(田中貢太郎、志賀直哉、菊池寛、岡本綺堂、夢野久作、木々高太郎、武田泰淳)で他は翻訳である。19世紀の作品が多い。

 全24編を読み終えて、「それほど恐ろしくはなかったな」と思った。私の感性が鈍いということもあるが、「恐ろしい話」というタイトルに身構えて、恐ろしさへの期待値が高まったせいだと思う。多くの作品にクラシックの風情があり、それなりの味わいがあり、そこにある「恐ろしさ」もクラシックな気分で鑑賞できてしまう――それは心底からの恐怖とは少し違う。初読にもかかわらず、筒井氏が言う「間違いのない(…)それだけに驚きがない」がわかる気がした。

 とは言っても、このアンソロジーによって至福の読書時間をもてたのは確かであり、古今東西の短篇のよりすぐりを集成したこの叢書の他の巻も読みたくなった。

 この巻で私が面白いと思ったのは「詩人のナプキン」(アポリネール)、「断頭台の秘密」(リラダン)、「三浦右衛門の最後」(菊池寛)、「ひかりごけ」(武田泰淳)である。