同時代小説は時代とともに変転する2024年03月26日

『日本の同時代小説』(斎藤美奈子/岩波新書/2018.11)
 『日本の同時代小説』(斎藤美奈子/岩波新書/2018.11)

 6年前に出た新書を読んだ。1960年代から2010年代までの60年間の同時代小説(エンタメ、ノンフィクションも含む)を紹介した「入門書」である。斎藤美奈子の書評やエッセイには、意外な切り口でスルドク対象に迫る面白さがあり、ワクワク気分で本書を読み始めた。

 本書の前半三分の一ぐらいまでは快調に読み進めることができた。だが、後半になって読書速度が急速に低下し、予想外の時間を要して何とか読了した。理由は簡単だ。団塊世代である私が同時代意識で小説を読んだのは1960年代、1970年代までで、それ以降の小説や作家にさほど馴染みがなく、読み進めるのが難儀だったからである。

 作家中心ではなく作品中心に記述を進める本書は、10年ごとに章を区切り、それぞれの年代に次のようなタイトルを付けている。

 1960年代 知識人の凋落
 1970年代 記録文学の時代
 1980年代 遊園地化する純文学
 1990年代 女性作家の台頭
 2000年代 戦争と格差社会
 2010年代 ディストピアを超えて

 こう並べると、ナルホドという気になり、たかだか10年でも時代相は変転し、それを反映した「同時代」小説が次々に生み出されてきたとわかる。団塊世代老人の私は、1960年代・1970年代の同時代意識がすでの時代遅れだと認識せざる得ないが、せわしなく「同時代」を追いかけても仕方ないという気分にもなる。

 斎藤美奈子流のスルドイ指摘は本書にも随所にある。

 村上龍の『希望の国のエクソダス』や丸谷才一の『女ざかり』をオッチョコチョイな小説と評しているのが面白い。これらの小説を面白く読んだ私もオッチョコチョイかもしれない。

 純文学のDNAを「ヘタレな知識人」「ヤワなインテリ」と喝破し、純文学と大衆文学の違いを解説した桑原武夫の『文学入門』を「現役をとうに退いた骨董品」と切り捨てているのもすがすがしい。私は、高校一年の夏休みに読んだ『文学入門』で桑原武夫ファンになったが、斎藤美奈子の言説にも納得させられてしまう。

 斎藤美奈子のガイドブックで、私の知らない「同時代小説」が続々と生み出されている現状に触れることができたのが収穫だった。

戯曲『リア王』を読んで、あらためて悲劇と認識2024年03月15日

『リア王』(シェイクスピア、松岡和子訳/ちくま文庫)
いま、東京芸術劇場で上演中の『リア王』(演出:ショーン・ホームズ、主演:段田安則)を近く観劇予定だ。観劇に先立って戯曲を読んだ。

 『リア王』(シェイクスピア・松岡和子訳/ちくま文庫)

 シェイクスピアの主要戯曲はだいたい読んでいる気がしていた。だが、『リア王』のチケットを手配したとき、四大悲劇のひとつである『リア王』を戯曲で読んでいないと気づいた。だが、私のシェイクスピア初体験は『リア王』である。

 私がジュニア版の『リア王』を読んだのは小学低学年の頃だった。わがささやかな読書体験の最も初期によんだ「お話し」である。幼少期に読んだ本の印象は長く残る。コーディリアという三女の名とケント伯爵の名は記憶に刻まれている。いまでも、「ケント」という名に接すると煙草やスーパーマンではなく『リア王』が思い浮かぶ。不思議なことだ。

 記憶には残っているが、『リア王』を面白いと思ったわけではない。バカな王様が騙されて嵐の中をさすらう姿に強烈な印象を受けた。イヤな話だと思った。読み返したいとも思わなかった。後にラムのシェイクスピア物語で読んだ『ハムレット』『マクベス』『オセロ』は面白いと感じ、戯曲も読んだ。しかし、『リア王』はイヤな話という印象が持続したまま戯曲もスルーしていた。

 今回、初めて戯曲を読んで、その展開の速さに驚いた。開幕早々にリア王はコーディリアに対して癇癪を起し、戯曲半ばで、すでに道化と共に嵐の中をさまよっている。私の記憶にあるリア王はこのシーンで終わっているのだ。

 そもそも、小学生時代に読んだジュニア版の記憶を頼りにするのが無理筋で、虚心に戯曲を読み進めねばならない。読み終えて、こんな結末だったのかと少し驚いた。かなり強烈で極端で理不尽な悲劇である。愚かさが招く悲劇とは言え、誰もが多かれ少なかれ愚かなのだから身につまされる。

『君が手にするはずだった黄金について』は小説家に関する連作集2024年03月13日

『君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)
 『君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)

 5カ月前に出た小川哲氏の新作を面白く読んだ。まとまりのいい連作短篇集で、6篇でひとつの世界を構築している。私小説を装って、小説家とは何者かを追究した「小説家小説」である。

 冒頭の短篇のタイトルは『プロローグ』、末尾の短篇のタイトルが『受賞エッセイ』、長編小説の「プロローグ」と「あとがき」とかん違いしそうになる構成だ。内容も、『プロローグ』が小説を書く生活を選んだ決意表明、『受賞エッセイ』が小説を書き続けることの持続表明に思える。

 私は数年前に小川氏の『ゲームの王国』を読んで虚実混在世界構築の筆力に感心し、その後、『ユートロニカのこちら側』『地図と拳』『君のクイズ』なども面白く読んだ。これらの作品を生み出してきた小説家の生活と内面を垣間見た気分になる連作短篇集である。

 冒頭の短篇には「『ムーン・パレス』を読んでいる人に幻滅するような男なら、そもそも付き合わない方がいい」「谷崎の初版本を渡されて喜ばない人とは付き合う価値がないよ」などの気障でシャレた台詞が出てくる。私は『ムーン・パレス』を読んでいないし、もちろん谷崎の初版本も持っていない。でも、こんな台詞がある小説を面白いと感じてしまう。

 フィクションを紡ぐ現場の心境には、現代社会に生きる人々の心象が投影されているという当然のことをあらためて感じた。

『聖書物語』(木崎さと子)は神へのツッコミが面白い2024年02月29日

『ビジュアル版 聖書物語』(木崎さと子/講談社)
 先日、『ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか』を読み、自分が旧約聖書について無知だと認識し、かなり以前に入手したまま未読だった次の本を読んだ。

 『ビジュアル版 聖書物語』(木崎さと子/講談社)

 文学者の視点で聖書の内容を物語風に紹介した本である。前半の約三分の二が旧約聖書、後半の約三分の一が新約聖書だ。著者は1939年生まれの芥川賞作家、43歳でカトリックの受洗をしている。

 聖書は超有名本だから目を通しておかねばと若い頃から思っていた。旧約の『創世記』『出エジプト記』、新約の『マタイ伝』だけは読んでいるはずだが、内容をよくおぼえていない。齢を重ね、いまさら聖書に取り組もうという気力は失せ、木崎氏の『聖書物語』が手頃と思って入手したのが数年前。それをやっと読了したのである。

 私にとって旧約聖書のイメージは、小学生の頃に観た映画『十戒』のモーゼである。だが、あれは旧約のほんの一部に過ぎず、旧約の大半はおよそ千年にわたるイスラエル人の歴史を延々と語っているようだ。

 本書を読んでいて、旧約のどこが「聖書」なのだろうという気がした。ありがたい教えを説いている書とは思えないのである。そこに面白さがあるのかもしれない。

 旧約は史書ではなく伝説の集成に近く、人類の愚行を言い伝える書のように思える。その愚行はかなりゴチャゴチャしていて、頭に入りにくい。ざっくり言えば、人間は神への信仰と裏切りを繰り返し、神はそんな人間を懲らしめることを繰り返しているのである。

 著者はキリスト教徒ではあるが、本書では神に対するかなり辛辣なツッコミが随所にある。聖者や預言者たちの言動に現代人の感覚から違和感を表明している箇所もある。私には、そんなところが面白かった。

 後半の新約聖書はイエスの伝記という体裁で、かなりすっきりしていて読みやすい。個別の福音書それぞれを解説するのではなく、「マタイ」「マルコ」「ルカ」および「ヨハネ」による福音書をベースに、イエスの生誕から復活までの言動を解説し、それぞれの福音書における表現の違いを指摘している。初心者に親切な解説だ。

 新約聖書はイエスの復活で終わるのではなく、その後のパウロによる宣教の旅があり、さらにはヨハネの黙示録もある。これらも簡潔に解説していて、なるほどと思った。

 本書を読んで、私が何となく知っている故事や格言の多くが聖書由来だと知った。西欧キリスト教文化圏の人々の思考のベースを把握するには、旧約聖書・新約聖書の基本的な知識が必須だとあらためて認識した。

今年は安部公房生誕100年2024年02月25日

 『芸術新潮 2024年3月号』は安部公房特集である。表紙に「生誕100年記念特集 わたしたちには安部公房が必要だ」とある。私は安部公房ファンだった。全集も購入した。だから、この雑誌をすぐに購入した。

 安部公房の作品はほぼすべて読んでいるはずだが、この10年、再読はしていないと思う。だから、現在も安部公房ファンかは微妙である。一昨年出た『壁とともに生きる:わたしと「安部公房」』(ヤマザキマリ)などは面白く読んだ。私にとって気がかりな作家であり続けているのは確かだ。

 『芸術新潮』の安部公房特集は約60ページ、雑誌の半分を占めている。解説記事の他に安部公房のエッセイ6編を収録、関連写真も多数載っている。安部公房自身が撮影した『都市を盗る』と題する写真もある。どれも私には懐かしい写真ばかりで、久々に安部公房世界に浸った。

 この特集に接して、都市という状況への安部公房のこだわりをあらためて認識した。先日、『箱男』映画化の新聞記事を読んだ。この特集には、その映画の石井岳龍監督のインタビュー記事も載っている。すでに映画は完成し、公開準備中のようだ。

 10年前、山口果林の『安部公房とわたし』を読んだとき、『箱男』を再読せねばと思った。だが、果たしていない。映画を観る前には再読したい。生誕100年をむかえ、安部公房への注目が集まればうれしい。いずれ、再挑戦したい作家である。

父を語る娘たちの物語は面白かった2024年01月21日

『この父ありて:娘たちの歳月』(梯久美子/文藝春秋)
 女性の著名人たちが父をどのように語っているかを語った本を読んだ。

 『この父ありて:娘たちの歳月』(梯久美子/文藝春秋)

 日経新聞読書欄の連載記事をまとめたものだ。私は連載中に何篇かに目を通したかもしれないが、ほとんどスルーしていた。男性の私にとって、娘が語る父親像は何となく敬遠したくなる話題だった。本書はカミさんに薦められて仕方なく手にしたが、読み始めると面白く、短時間で読了した。月並みでアホな感想だが、人生いろいろ父娘もいろいろの感を深くした。

 本書が取り上げた9人の娘は以下の通りである。娘が語る父親には著名人もいれば無名の人もいる。家族模様も様々だ。

 娘・渡辺和子(修道女 1927-2016)――――――父・渡辺錠太郎
 娘・斎藤史(歌人 1909-2002)――――――――父・斎藤瀏
 娘・島尾ミホ(作家 1919-2007)―――――――父・大平文一郎
 娘・石垣りん(歌人 1920-2004)―――――――父・石垣仁
 娘・茨木のり子(詩人 1926-2006)――――――父・宮崎洪
 娘・田辺聖子(小説家 1928-2019)――――――父・田辺寛一
 娘・辺見じゅん(歌人・作家 1939-2011)―――父・角川源義
 娘・萩原葉子(小説家・随筆家 1920-2005)――父・萩原朔太郎
 娘・石牟礼道子(作家・詩人 1927-2018)―――父・白石亀太郎

 冒頭の2編は対になっている。渡辺和子の父・渡辺錠太郎は二・二六事件の際に和子の眼前で青年将校に射殺された教育総監である。斎藤史の父・斎藤瀏は歌人将軍と言われた軍人で、二・二六事件で叛乱軍を幇助したとして禁固刑に服している。被害者と加害者の娘二人はともに父を敬愛し、その思いは緊張感をはらんでいる。昭和史を色濃く反映した二つの家族の物語である。

 以下、7人の娘が描いた父親と家族の物語もそれぞれに面白い。娘が父を語る文章が面白いのは、敬愛と辛辣がないまぜになっていて、父親を描くことによって自身に父親像が反映されてくるからだろうと思う。

 先日読んだばかりの『隆明だもの』も娘が辛辣に父親を描いていて面白かった。かなり以前に読んだ『安部公房伝』も娘視点の伝記としての独特の面白さがあった。

古典文学を通して世界史散策2024年01月09日

『20の古典で読み解く世界史』(本村凌二/PHP研究所)
 『20の古典で読み解く世界史』(本村凌二/PHP研究所)

 ローマ史家・本村凌二氏による本書は、数年前に同じ出版社から出た『教養としてのローマ史/世界史』と同じ造本、テイストも似ている。読みやすい歴史エッセイだ。

 20の古典の概要を紹介し、歴史家の眼でコメントしている。結末の紹介は避け、原典を読むよう促すが、やはり、すでに読んだ作品に関する話の方が興味深く読める。

 本書が取り上げる20の古典のうち、私が読んでいるのは次の12点だ(冒頭数字は本書目次にある番号)。

 『05 神曲』
 『07 ドン・キホーテ』
 『09 ハムレット』
 『10 ロビンソン・クルーソー』
 『11 ファウスト』
 『12 ゴリオ爺さん』
 『14 戦争と平和』
 『15 カラマーゾフの兄弟』
 『16 夜明け前』
 『18 阿Q正伝』
 『19 武器よさらば』
 『20 ペスト』

 古典とは若いうちの読むものだと思っていたが、この12点のうち青字の9点は60歳を過ぎて読んだ(『ハムレット』『カラマーゾフの兄弟』は再読or再々読)。若い頃にさほど古典に親しまなかったということである。私は61歳になった2010年以降は読了本の記録をExcelに残しているので、この十数年に読んだ本は検索できるのだ。

 実は、本書を購入したのは昨年夏である。それ以降に読んだ数冊は本書を機に読んだ。本書を読む前に、かねてから気がかりだった名作を読もうと思ったのだ。

 いずれにしても、本書によって、ささやかなわが読書体験のたな卸しをした気分になった。読書体験も時々反芻しないと忘却の沼底に沈んでしまう。

 未読本は次の8点だ。

 『01 イリアス/オデュセイア』
 『02 史記列伝』
 『03 英雄伝』
 『04 三国志演義』
 『06 デカメロン』
 『08 アラビアンナイト』
 『13 大いなる遺産』
 『17 山猫』

 「01」は『イリアス』だけ読んでいる。本書の紹介を読んで『オデュセイア』も読みたくなったが、この叙事詩は耳で訊きたい。著者は学生に英語版CDを訊かせているそうだ。いのつ日か、日本語オーディオ版が出るのを期待したい。

 「02」の史記は入門書のダイジェストを読んだので、とりあえずそれ満足している。原典に挑戦する意欲はない。

 「03」の『プルタルコス 英雄伝』は何篇かを拾い読みした。いずれ、ちくま学芸文庫版(全3冊)を読むつもりだが、いつになるかわからない。

 「04」の三国志に関しては、十数年前に吉川英治版と北方謙三版を読んだので、『三国志演義』にまで手を伸ばす元気はない。

 『06 デカメロン』は、2020年のコロナ禍の蟄居時代に読もうと思ったことがあるが、すでに機を逸っしてしまった。

 『08 アラビアンナイト』に関しては、半世紀以上昔の学生時代に河出書房から出たバートン版『千夜一夜物語』(全10巻)を入手して拾い読みした。全巻読破はしていない。本書によって、西洋人編纂の『千夜一夜物語』が「好色にして残虐」を強調しているのは植民地支配正当化の反映だと知った。いつの日か読み返すことがあれば、留意すべきだ。

 『13 大いなる遺産』は、本書の紹介に惹かれ、読みたくなった。

 『17 山猫』は映画を観たので、それでいいかと思う。

 これらの名作のなかで著者にとってのナンバーワンは『カラマーゾフの兄弟』だそうだ。私も同意見だ。

 バルザックに関しては『21世紀の資本』の著者・ピケティの見解も紹介し、「人間喜劇」で19世紀の社会を丸ごと描いたのが歴史家にとって魅力だと述べている。ロンドンで資本論を執筆中のマルクスにとって、バルザックの小説は実社会の報告書だったと聞いたこともある。フィクションの力はあなどれない――本書全体を通して、あらためてそう感じる。

四方田犬彦氏の思い出話で文系アカデミズムの世界を垣間見た2023年12月12日

『先生とわたし』(四方田犬彦/新潮社/2007.6)
 ふとしたきっかけで四方田犬彦氏の次の本を読んだ。

 『先生とわたし』(四方田犬彦/新潮社/2007.6)

 私は四方田犬彦氏についてよく知らない。かなり以前に『ハイスクール1968』を読んだが、内容は失念している。本書を読もうと思ったのは、故・前田耕作先生がらみである。

 私はカルチャーセンターで前田先生の講座をいくつか受講し、先生が同行するシチリア古跡巡りのツアーに参加したこともある。知人から、かなり前に四方田氏が前田耕作先生について書いた文章が面白かったと聞き、それを確認したくなった。

 知人の話では、前田先生の師・丸山静と四方田氏の師・由良君美に交流があり、その縁で四方田氏が前田先生に言及したらしい。ネット検索すると、四方田氏には膨大な著作があり、どの本に前田先生への言及があるか判然としない。だが、四方田氏が師・由良君美を語った『先生とわたし』という本を見つけ、これを読めば何かわかるかもしれないと思ったのである。

 「前田耕作」という単語を探す流し読みのつもりで読み始めた本書、意外に面白くて引きこまれ、一気に読了した。前田先生の名は一箇所だけ出てくるが、特に論評しているわけではなく、私の目論見は果たせなかった。だが、当初の目的を離れて、四方田氏の「思い出ボロボロ話」を堪能した。

 四方田犬彦という人はサブカルチャー批評の人と思っていたが、アカデミズムの人だった。当然ながら、サブカルチャーも立派な研究分野なのだ。本書を読むまで由良君美という英文学者を知らなかった。仏文の澁澤龍彦、独文の種村季弘、英文の由良君美と言われたそうだ。何となく学風の雰囲気が想像できる。

 本書は文系アカデミズムの世界のアレコレを描いている。学問の厳しさと学者たちのドロドロした生態がないまぜになった魔訶不思議な世界である。批判と悪口が蔓延している。以前に読んだ『文学部をめぐる病い』や筒井康隆氏の『文学部唯野教授』を連想した。アカデミズムとは無縁の門外漢が野次馬席から眺めるには面白いが、近づきたくない世界である。

 四方田氏が師・由良君美の思い出を語った本書は、師の学業を高く評価すると同時に師の醜態(酔態)も語っている。その件りは面白く読めるのだが、やや索漠とする。一家を成した弟子が師を語る物語はスタンスが難しい。

筒井康隆氏の新刊『カーテンコール』は掌篇集2023年11月05日

『カーテンコール』(筒井康隆/新潮社/2023.10)
 筒井康隆氏の新刊が出た。2021年2月の『ジャックポット』から2年8カ月、この新刊は短篇集ではなく掌篇集である。オビには「これがわが最後の作品集になるだろう」とあり、吹き出しがついている。そこには――「信じていません!」担当編集者――とある。読者も同感である。

 『カーテンコール』(筒井康隆/新潮社/2023.10)

 筒井康隆氏は現在89歳、本書は2020年末から執筆した掌篇小説25篇を収録している。『ジャックポット』に収録した2つの掌篇(「花魁櫛」「川のほとり」)を再録しているので、この2篇は再読だ。それ以外の多くの作品も雑誌掲載時に読んでいる。はっきり憶えている作品もあれば、記憶が朧な作品もある。

 あらためて25篇をまとめて読み、醒めたまま見る夢のような筒井ワールドの芳醇な香気を堪能した。最新掌篇の大半には明快なオチがなく、宙ぶらりん状態で異空間に取り残された気分になる。読者は、さらなる彷徨に誘われる。

 私には「お時さん」「宵興行」「手を振る娘」が面白かった。最も印象深いのは「プレイバック」だ。検査入院中の「おれ」を次々に訪れる見舞客は筒井作品の主人公たちである。芳山和子(『時をかける少女』)、唯野仁(『文学部唯野教授』、神戸大助(『富豪刑事』)、千葉敦子(『パプリカ』)、穂高小四郎(『美藝公』)らと「おれ」の会話は文学論議を秘めていて興味深い。

 本書の装丁はSFに造詣が深い漫画家とり・みき氏である。この装丁が凝っている。表紙のカバーを外すと、閉じていた幕が開くのだ。カーテンコールである。

表現の自由を弾圧する近未来を描いた『日没』は恐ろしい2023年11月03日

『日没』(桐野夏生/岩波現代文庫)
 桐野夏生氏が、国家の意に沿わない小説家を収容所に監禁する近未来小説を書いたと知り、以前から気になっていた。その小説が文庫になったの機に入手、一気に読了した。

 『日没』(桐野夏生/岩波現代文庫)

 オビに「足下に拡がるディストピアを描き日本を震撼させた衝撃作」とある。想像した通りの悪夢世界を描いた小説だ。想像した通りの内容なのに引き込まれ、読み終えると暗澹たる気分になる。突飛な異世界の話のように見えて、私たちが生きている現実世界と地続きに見えてしまう。

 主人公はエンタメ系の女性作家、ある日、総務省文化局文化文芸倫理向上委員会なる未知の政府機関から召喚状を受け取る。出頭して連れて行かれた先は、海に面した断崖に立つ「療養所」と称する収容所だった。

 召喚された理由は、主人公の書く小説が青少年に悪影響を及ぼすと告発されたからであり、この施設での更正を強要される。ヘイトスピーチを禁止する法律と共にそんな更正を強いる法律も施行されていたのだ。当初は多少の面従腹背で解放されると考えていたが、この「療養所」はそんな生易しい所ではなかった――という話である。

 この小説で面白く感じたのは、政府機関に狙われるのは主にエンタメ系の小説家で、ノーベル賞作家などが除外されている点である。これらの作家を文学的に分別するのは容易でないと思うが、非文学的なポピュリズム的で恣意的な分別基準に妙なリアリティを感じた。

 政府の意向に沿わないエンタメ作家を弾圧するというのは、あまりに極端な設定に思えるかもしれない。しかし、現代の世の中をよくよく眺めると、そんな不寛容な状況の萌芽があちこちに感じられる。

 小説家は「炭鉱のカナリア」と言われることがある。カナリアは有毒ガスのかすかな前兆を察知する。『日没』が炭鉱のカナリアのような小説だとすれば、恐ろしい。