ギリシア悲劇は神話世界を構成するひとつの要素2019年10月13日

『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫)
 今週、シアターコクーンで海老蔵主演の『オイディプス』観劇予定なので、泥縄気分で次の本を読んだ。

 『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫)

 ギリシア悲劇は今年6月に読んだ『ギリシア悲劇Ⅰ アイスキュロス』に続いて2冊目で、少し慣れてきたせいか意外に面白くスラスラと読了できた。

 ソポクレスはアイスキュロスの約30年後の人でヘロドトスと同時代人である。100編以上の劇を書いたそうだが、完全な形で残っているのは本書に収録されている以下の7編である。

 アイアス
 トラキスの女たち
 アンティゴネ
 エレクトラ
 オイディプス王
 ピロクテテス
 コロノスのオイディプス

 とりあえず「オイディプス王」だけを読めばいいかと思って、最初にこの作品を読んだが、それでは物足りず他の6編も読んでしまった。

 「アンティゴネ」「コロノスのオイディプス」はオイディプス王に関連した話である。「エレクトラ」はアイスキュロスの「オレスティア」に関連している。

 ギリシア悲劇はソポクレスやアイスキュロスなど劇作家によるまったくの創作ではなく、当時の人々が共有していたであろう伝承・伝説・神話を題材にした作家独自の切り口の舞台表現である。だから、ホメロスの叙事詩やギリシア神話などをある程度知っていないと、その演劇世界に入り込むのが難しい。

 私は「イリアス」や「オデッセイ」は子供向けの簡略なものを中学生の頃に読んだだけで、その記憶もおぼろである。それでも本書を楽しめたのは、ネットで手軽に神話や伝説の人物や事件を検索できるからである。

 ギリシア神話に関しては昨年数冊の本を読み、そのゴチャゴチャと込み入った森のような世界にいささか呆然としたことがある。考えてみれば、ギリシア悲劇そのものが神話や伝承を構成する要素のひとつなのである。神話的世界を表現する最適の方法が演劇だったと思う。

 ソポクレスの劇にも女神アテナ、ヘラクレスなどが登場人物の一人として舞台に現れるし、登場人物がさまざまな神の名を口にするシーンが多い。そんな神の中で、しばしば言及されるのがエリニュス(復讐の女神)である。エリニュスの存在感が大きいのが「悲劇」の由縁かもしれない。

古代カルタゴを濃密に描いた小説『サランボオ』2019年09月27日

『サランボオ(上)(下)』(フローベル・神部孝訳/角川文庫)
 最近、続けて読んだ『通商国家カルタゴ』『カルタゴ興亡史』『カルタゴ人の世界』に共通しているのは、3冊いずれもフローベルの小説『サランボオ』に言及していることである。

 私は数年前にカルタゴを題材にしたこの小説の存在を知り、古書で入手したものの、読みにくそうなので未読のまま積んでいた。カルタゴ本がこぞって取り上げているからには読まねばなるまいと思い、ついにこの小説を読んだ。

 『サランボオ(上)(下)』(フローベル・神部孝訳/角川文庫)

 この角川文庫は1989年刊行の4版だが初版は1957年、旧字・旧仮名の小さな活字で、地名の多くは漢字(ギリシア→希臘、ローマ→羅馬、エジプト→埃及など)だ。訳者は1938年に夭折しているから、戦前の訳文である。画数がやたらと多い旧字を小さな活版活字で読むのは老眼には少々つらいが、何とか読了した。

 『ボバリー夫人』で高名なフローベルは、19世紀フランス文学を代表するバルザックとゾラの中間世代の作家だが、この小説から19世紀の雰囲気を読み取るのは難しい。古代カルタゴが舞台の歴史小説に19世紀を求めるのが無理だとしても、「ボバリー夫人は私だ」と述べたフローベルが何ゆえにこの歴史小説を書いたのか、よくわからない。

 『サランボオ』の発表は1862年、日本では幕末だ。発表年を考えれば、古色蒼然たる時代がかった訳文が原作の雰囲気を反映しているようにも思えてくる。

 この小説は、第一次ポエニ戦争直後の紀元前241年にカルタゴで勃発した傭兵戦争(リビア戦争)を扱っている。サランボオは将軍アミルカアル(ハミルカル)の娘である。ということはハンニバルの姉になる。この小説でハンニバルは幼い子供としてチラリと登場するだけである。

 カルタゴ本を何冊か読んだばかりの私は、傭兵戦争について多少の知識が残っていて、この歴史小説を興味深く読むことができた。何の予備知識もないと、この小説世界に入り込むのは難しいかもしれない。

 歴史小説には歴史書にないイメージ喚起力がある。濃密な描写によって古代カルタゴの世界を体験している気分になる。それは小説家が紡ぎ出した世界であって歴史の実相とは言えない。歴史小説は史実をネタにしたフィクションである。だが、小説を読むような疑似体験なしに歴史を把むのは難しい。歴史を知るには、さまざまなイメージを積み重ねていくしかないのである。

 この小説には通商で蓄財したアミルカアル(ハミルカル)が、自身の財を細かく点検して回るシーンがある。歴史書で得た彼のイメージと違い、意外に感じた。だが、よく考えれば有りうるシーンだと気づいた。

 宗教儀式のシーンも多い。問題の「幼児犠牲」も出てくる。だが、全般的にはカルタゴが特殊な世界とは感じられない。古代世界における神への接し方や宗教儀式は、カルタゴもローマも似たり寄ったりだと思える。それを描く小説家は、やはり近代人の目で眺めている。そこに、かすかに19世紀を感じた。

 『サランボオ』読了後、ネット検索をしていて、来月(2019年10月)、岩波文庫で『サラムボー(上)』刊行予定との情報を得た。新訳のようだ。古書でしか入手できない忘れられた小説だと思っていたが、そうでもなさそうである。

池澤夏樹氏の『科学する心』は文学的科学エッセイ2019年06月07日

『科学する心』(池澤夏樹/集英社インターナショナル)
 作家で詩人の池澤夏樹氏の次の本を読んだ。

 『科学する心』(池澤夏樹/集英社インターナショナル)

 文学書ではなく科学エッセイである。考えてみれば、彼の単著を読むのはこれが初めてである。新聞や雑誌で池澤夏樹氏の文章を読むことは多いし、彼が編纂した沖縄関連の本を読んだことはある。だが、小説や詩は読んでいない。避けていたのではなく機会がなかったに過ぎない。

 池澤夏樹氏のイメージは文学への造詣が深い「いかにも文学者らしい文学者」である。父親は福永武彦(加田怜太郎)だし、個人で世界文学全集や日本文学全集を編集している。『世界文学を読みほどく』なんていう著書もある。そんな池澤氏が大学では物理学を専攻していたと聞いたことはある。

 本書を読むと池澤氏が科学への造詣も深い科学好きだとわかる。理系出身の小説家は少なくないし、科学と文学は対立するものではない。一人の人間のなかに「科学する心」と「文学する心」の両方がある方が自然だと思う。私自身も「理系」「文系」という言葉や区分けを使うことがあるが、それを人間の分類に使うのは間違いだと思う。

 閑話休題。『科学する心』はまことに文学的な科学エッセイだった。自身の「科学する体験」が語られているだけでなく、自分が書いた小説や詩への言及や引用も多い。科学をテーマに自身の身体を通して人間や人類のありようを考察するというスタイルが科学好き文学者的である。

 12編のエッセイの中で私好みだったのは「進化と絶滅と愛惜」「体験の物理、日常の科学」「『昆虫記』の文学性」の3編である。進化は進歩ではなく人類が今あるのは運がよかっただけという話は歴史の見方に役立つ。科学は知識ではなく五感をもって自然に向き合う姿勢という考えには納得できる。ファーブル vs ダーウィンは興味深い科学史話である。

 本書では多くの科学書が紹介されていて、著者の語り口に乗せられてつい読んでみたくなる。世の中はワクワクさせてくれる本にあふれていそうだが、わが人生にそのすべてを読む時間は与えられていない。

『大名絵師写楽』は寛政期の奇妙で洒落た雰囲気を感得できる小説2019年05月08日

『大名絵師写楽』(野口卓/新潮社)
 写楽好きの友人から薦められて次の小説を読んだ。

 『大名絵師写楽』(野口卓/新潮社)

 18世紀末(寛政)の江戸に突如として登場して10カ月だけ活躍して姿を消した謎の絵師「写楽」を巡る物語である。私は写楽に関してはまったくの門外漢だが、その正体についていろいろな説があることは聞いている。

 この小説はタイトルが示しているように写楽を「ある大名(正確には隠居した元大名)」としている。フィクションではあるが、それなりの説得力のある仮説である。小説で言及される絵を画集で確認しながら興味深く読了できた。

 謎を追及するミステリー仕立てではなく、謎の絵師を作り上げていく仕掛け人(蔦屋重三郎ら)たちの話になっているのが楽しい。

 写楽の謎を巡る話も面白いが、むしろ寛政期の芝居小屋や版元の周辺に集う町人や武士たちの闊達な世界にこの小説の面白さを感じた。松平正信の寛政の改革による風紀取締まりの世における面従腹背世界の雰囲気が伝わってくる。戯作者と武士という二つの顔をもつ人物が象徴する奇妙で洒落た世界である。

 また、江戸の芝居小屋の事情や様子をつかめたのも収穫だった。江戸の芝居小屋における「櫓(やぐら)を許される」「櫓をあげる」という言葉がいまひとつよくわからなかったが、この小説によって「櫓」のイメージと意味を感得できた。

『峠の群像』は「忠臣蔵」を相対化した忠臣蔵2019年02月20日

『峠の群像(上)(中)(下)』(堺屋太一/日本放送出版協会)
◎塩田つながりで手を出した

 堺屋太一氏の告別式を報じるTVニュースを観ていて、本棚の奥で未読のまま眠っている『峠の群像』を思い出し、つい読み始めて、全3巻を一気に読んでしまった。予感していた以上に面白かった。

 『峠の群像(上)(中)(下)』(堺屋太一/日本放送出版協会)

 『峠の群像』は忠臣蔵の物語で1982年(37年前!)のNHK大河ドラマの原作である。私はこのドラマを見ていない。松の廊下の刃傷の原因を製塩業をめぐる確執としていると聞いたことはあった。

 「松の廊下の刃傷は原因不明」が歴史学者の共通認識のようだが、製塩が刃傷の原因にはなり得ないという見解(赤穂と吉良の製塩は競合しない)を読んで納得したことがある。そんなこともあり『峠の群像』に食指が動かなかった。

 それを読む気になったのは、つい最近読んだ『始祖鳥記』(飯嶋和一)で江戸時代の製塩業の世界に接し、塩田つながりで頭のアンテナが反応したのかもしれない。

◎元禄の転換期を描出した経済小説

 『始祖鳥記』の舞台でもある岡山県の塩田は私の原風景のひとつである。私が小学校(玉野市の第二日比小学校)に入学した頃(1954年)、校庭の先は入浜式の塩田だった。それが流下式の塩田に替わり、いつの間にか塩田はなくなり埋め立て地になった。「入浜式」から「硫下式」への外形的な変化は子供の目に印象的だった。

 だから『峠の群像』で次の記述に出会って、遠い昔の風景がよみがえった。

 「入浜塩田の最初のものは、正保三年浅野長直によって造成された赤穂御崎新浜であったとされている。(…)それ以降三百年間、昭和二十年代末に流下式が普及するまで日本の塩田は基本的に変わっていない。」

 『峠の群像』は忠臣蔵物語ではあるが、製塩業に焦点をあてた江戸経済小説でもある。

 全3巻の小説で、松の廊下の刃傷が発生するのは3巻目になってからで、1、2巻では松の廊下に至る8年間の元禄の社会を政治と経済の目で描いている。芭蕉、其角、近松門左衛門なども登場する。江戸と赤穂だけでなく大阪も主要な舞台になっている。

 幕藩体制の基本である米の経済が崩れ、藩の財政は悪化し、困窮する武士が増加する一方で、貨幣経済への移行・商業景気によって富裕な商人が台頭してくる。そんな転換期の社会を多様な登場人物によって描き出している。

◎クライマックスを盛り上げない忠臣蔵

 この小説では吉良上野介も大野九郎兵衛も悪意の人物ではなく、それぞれが自分が正しいと思う行動をしている。塩田に関する話が大きなウエイトを占めているが、刃傷の原因を製塩に関する競合とはしていない。思惑のすれ違いや誤解のエスカレートが刃傷という悲劇を招いたという話にしている。

 元来、忠臣蔵物語の面白さは「刃傷」「討ち入り」という二つのクライマックスに話を盛り上げていくところにあるが、この小説はそういう構造にはなっていない。

 「刃傷」や「討ち入り」を坦々と描いている。それでも面白いのは、商人や劇作家(近松)を含めた多様な視点を取り入れたうえで、作者が時代を俯瞰しているからである。

◎「不義士」たちの運命

 また、この小説の面白さは、討ち入りに参加しなかった「不義士」たちの運命を描くことによって「忠臣蔵」を相対化している点にもある。井上ひさしの『不忠臣蔵』に通じる苦さでもあるが、産業振興にまい進して失業武士の救済を図ったテクノクラートが「不義士」として斥けられる皮肉は堺屋太一氏ならではだ。

 忠臣蔵とは歴史上の事件をタネに際限なく膨れ上がる共同幻想の世界であり、それをどう摑まえるかは千差万別で、そこに忠臣蔵の面白さがある。

『始祖鳥記』の空飛ぶ表具屋は、わが故郷の人だった2019年02月14日

『始祖鳥記』(飯嶋和一/小学館文庫)
 私が岡山県出身と知っている友人から次の小説を紹介された。

 『始祖鳥記』(飯嶋和一/小学館文庫)

 鳥人幸吉の話だという。江戸時代の岡山に羽根をつけて橋の上から飛んだ幸吉という人物がいたと子供の頃に聞いたことはある。詳しいことは知らない。筒井康隆氏に『空飛ぶ表具屋』という短編があるが、羽根をつけて橋から飛んだ男の話が長編になるのだろうかといぶかしく思いながら読み始めた。

 読み始めてびっくりした。私が生まれ育った地域のマイナーな地名が次々に出てくるのだ。

 私は岡山県玉野市の日比という地区で生まれ、中学卒業までそこで過ごした。玉野市は造船所と精錬所の企業城下町で、父は後者に勤務していて、わが家は社宅住まいだった。私が中学卒業の頃に父が東京に転勤になり、玉野市は遠い存在になった。

 本書には八浜、宇野、日比、田井、金甲山などの地名が出てくる。いずれも私が子供の頃になれ親しんでいた玉野市内の地名である。成人してからはほとんど耳にすることがなかった地名に小説の中で遭遇し、遠い記憶が蘇る不思議な気分になった。本書の重要人物である船頭が、わが日比を拠点に活躍しているのがうれしくなり、幸吉が身近な人物に思えてきた。

 飯嶋和一氏の小説はかなり以前に『出星前夜』を読んでいるが、私にはあまり馴染みのない小説家である。『始祖鳥記』は2000年に書き下ろし単行本で出たそうだ。

 飯嶋氏はディティールを濃厚に書き込む作風でやや重い。細かなエピソードを重ねた分厚い織物のようでありながら、話はあちこちに飛躍する。表具屋が空を飛ぶ話が急に行徳の塩問屋の情景になり、塩の製法や流通に関する話が続いて面くらう。さらには兵庫の港に停泊している弁財船の場面に移り、鳥人幸吉はどこに行ったのだと気にかかる。

 作者は悠々と輻輳した物語を展開させ、登場人物たちを絡めて、大飢饉で有名な天明から寛政の世の経済と社会を描出する。その中で「おれはこんな所でこんなことをしていていいのだろうか」という普遍的な血の騒ぎの物語を奏でている。

 出生地が玉野市日比でなくても面白く読める小説である。

 この小説を読み終えたとき、ふと加藤登紀子の「この空を飛べたら…」と「時代遅れの酒場」のメロディーと歌詞が浮かんだ。歌と小説のテイストはまったく違うのだが…

半世紀ぶりに安部公房の『榎本武揚』を再読して気づいたこと2019年02月03日

『榎本武揚』(安部公房/中央公論社)、『戯曲 友達・榎本武揚』(安部公房/河出書房新社)
 この3カ月ほどで榎本武揚に関する小説や評伝を10冊ほど読んだ。私が初めて読んだ榎本関連本は安部公房の小説『榎本武揚』で、約半世紀前の学生時代だ。榎本武揚関連本を続けて読んだのを機に安部公房の小説『榎本武揚』と戯曲『榎本武揚』を再読した。

 『榎本武揚』(安部公房/中央公論社)
 『戯曲 友達・榎本武揚』(安部公房/河出書房新社)

 私は安部公房ファンで、その著作をほとんど読んでいる。榎本武揚が気がかりな存在になったのは、安部公房の小説を読んだせいかもしれない。とは言え、『榎本武揚』は安部作品としては異色である。今回、小説と戯曲を再読して、位置づけの難しい宙ぶらりんな作品だと再確認した。

 小説『榎本武揚』は評伝ではない。現代の人間が史料(その一部は作者の創作と思われる)を元に榎本武揚とは何者だったを探る少々入り組んだ構造になってる。

 榎本武揚が箱館戦争に踏み切った動機は何か、明治政府高官への転身は変節か、自分の生きた時代への忠誠を裁く基準はあるのか、などを追求する内容で、作者自身はこの小説に関連して「忠誠でもなく、裏切りでもない、第三の道というものはありえないのだろうか」と語っている。

 そんな作者の意図に沿って考察するなら、変遷する時代の風圧にさらされる個人の生き方を素材に転向論を追求した小説ということになり、戦後日本の知識人の思想と行動の軌跡の幾ばくかが反映されているようにも思えてくる。

 だが、そんな図解的な読み方はつまらない。その図解からはみ出る部分にこの小説の面白さがあると思える。単純に言えば、安部公房が榎本武揚のどこに魅かれているかを読み解ければいいのである。

 また、再読で気づいたのだが、小説『榎本武揚』もまた失踪小説である。失踪する福地旅館の主人は『砂の女』の主人公に重なる。さらに言えば、榎本武揚も「内なる辺境」に亡命した失踪者の一人にも思えてくる。

中薗英助『榎本武揚シベリア外伝』は大風呂敷のミステリー小説2019年01月19日

『榎本武揚シベリア外伝』(中薗英助/文藝春秋)
 『榎本武揚シベリア日記』(講談社学術文庫)を読んだ後、ネット検索をしていて、次の小説の存在を知った。

 『榎本武揚シベリア外伝』(中薗英助/文藝春秋)

 中薗英助が榎本武揚を書いていると興味を抱き、ネット古書店で注文した。届いた本は2000年5月刊行の単行本で、意外と最近の本なので驚いた。私にとって中薗英助は遠い過去の作家のイメージだった。調べてみると、本書刊行時に著者は79歳、2年後2002年に81歳で亡くなっている。

 『榎本武揚シベリア外伝』は榎本武揚の『シベリア日記』を題材にしたミステリーで、史伝ではなく大風呂敷のフィクションである。

 この小説が出た当時、講談社学術文庫版『榎本武揚 シベリア日記』(2008.6)は刊行されていない。本書巻末の参考文献にある『シベリア日記』は昭和14年満鉄編の「非売品」であり、小説の登場人物が接するのもこの非売品や国会図書館所蔵の原本である。『榎本武揚 シベリア日記』読了直後の興味でこの小説を読み進めることができた私は、小説発行当時の読者にくらべてラッキーだと思う。

 小説の主要登場人物・鹿見は榎本の『シベリア日記』に関する論文で賞を受けたトラベル・ライターである。彼は『シベリア日記』の旅を辿るテレビ番組制作に協力するためシベリアへ赴くが消息不明になる。1980年代初頭、ゴルバチョウフ登場以前の話である。

 現代(1999年~2000年)、私(ソ連通の作家)は通信社外信部長が入手した鹿見の手記の真贋の検討を依頼される。その手記はソ連崩壊後のKGBから流出したものだった。

 『榎本武揚シベリア外伝』は二つの時間(「私」の時間と「鹿見の手記」の時間)が並行的に進行し、「鹿見の手記」の中では明治11年の榎本のシベリア横断だけでなくその後の日本人によるシベリア探査も語られている。時間が何層にも入り組んだ構造のミステリーになっている。

 この壮大なフィクションが、なぜ『シベリア日記』は公開されなかったのか、福沢諭吉の『痩我慢の説』の背景に何があったのか、などの謎解き仕立てているのに感心した。複雑で無理スジの展開もあり、万人向けエンタテインメントとは言い難いのが少々残念である。西徳二郎、大庭柯公、ムラヴィヨフ・アムールスキーなど私にとって未知だった人物に関する知見を得たのは収穫だった。

社会学者の小説『平成くん、さようなら』で旧石器捏造事件を想起2019年01月15日

『平成くん、さようなら』(古市憲寿/文藝春秋)
 若手社会学者・古市憲寿氏が書いた小説が芥川賞候補になっている。タイトルに誘われて読んだ。

 『平成くん、さようなら』(古市憲寿/文藝春秋)

 古市氏は9年前の大学院生時代にピースボート体験題材の修士論文をベースにした『希望難民ご一行様』(光文社新書)を刊行している。当時ピースボートに関心があった私はすぐに読み、読後感をブログに書いた。その後、古市氏はテレビ出演も多い売れっ子学者になったが、彼の著作を読むのは9年ぶりの2冊目である。

 『平成くん、さようなら』の主人公は平成元年生まれの「平成(ひとなり)」という名をもつ若手文化人で、語り手は彼と同棲している女性である。

 この小説を読んでいると、田中康夫の『なんとなくクリスタル』が想起され、蓮實重彦の『伯爵夫人』と似た印象もわいてくる。過剰な同時代セレブ風俗とネット・ジャーゴンで読者を辟易させ、かつ達者なあざとさを感じてしまうのである。先入観のせいもあるだろうが、社会学者の頭脳が生み出した小説との印象が強く残る。

 主人公が29歳になった平成30年から平成が終わり新元号になる平成31年5月までの話だが、そこに描かれている日本は現実とは少しズレた異世界で、安楽死が公認されている。年間死者137万人のうちの一割強の15万人が安楽死で、かつては3万人を超えていた自殺者は数千人に激減した…そんな世界である。興味深い舞台設定だと思う。

 退位という形で自らの終焉を決めた平成という時代を安楽死とからめているのがこの小説のミソである。視力が失われていく病気や、瀕死の病をかかえた「ミライ」という名の猫も登場する。手がかりの多い小説である。

 社会学者とは、この世界のさまざまに事象や表現を解読して社会の姿や変容を明解な形で提示する人だと思う。読み解く立場の人が、読み解かれるべきテキストを提示しているのが『平成くん、さようなら』である。

 この小説を読んでいると、かつての旧石器捏造事件を思い出した。発掘調査に携わっていた研究家が事前に石器を埋設していた事件である。

 この小説は面白いとは思うが、見え見えの仕掛けを楽しめるか否かが評価の分かれるところだ。芥川賞の選考会は明日(2019年1月16日)である。他の候補作を読んでいないので何とも言えないが、本作が「平成最後の」受賞作になる可能性は50パーセント以下だと私は思う。

ひとつの榎本武揚像を提示した『かまさん』2019年01月09日

『かまさん:榎本武揚と箱館共和国』(門井慶喜/祥伝社文庫)
 榎本武揚を描いた『航』(綱淵謙錠)、『小説榎本武揚』(童門冬二)に続いて次の歴史小説を読んだ。

 『かまさん:榎本武揚と箱館共和国』(門井慶喜/祥伝社文庫)

 文庫本のオビに「祝 直木賞受賞」とあるが本書が受賞したのではない(『銀河鉄道の父』で2017年下半期の直木賞受賞)。この作家の小説を読むのは初めてで、本書の「あとがき」で知ったのだが、作者の「慶喜」という名は歴史好きの父がつけた本名だそうだ。悪く言われることも多い最後の将軍の名を背負ったことに同情したくなる。本書にも作者の名が影を落としている。

 『かまさん』はコミックかテレビドラマのような軽快な展開で読みやすい。榎本武揚が開陽丸を回航して帰国し横浜に入港するシーンから始まり、箱館戦争で降伏するシーンで終わる小説である。榎本武揚の生涯でもっとも派手な時期を扱っていて、主人公の「かまさん(釜次郎=武揚)」はやたらと元気で威勢がいい。勝海舟ともジャレあうように仲がよく、佐々木譲の『武揚伝』などとはかなりテイストが違う。

 史実を材料にかなりデフォルメしたフィクションだなと思いつつ読み進めたが、中盤を過ぎたあたりから、これも一つの歴史解釈を提示した小説だと気づいた。

 この小説の面白いのは、「共和国」を目指していた榎本軍に比べて、封建制を引きずっていると思えた新政府軍の方がより近代化されていると榎本が気づき、それが降伏を受け容れた根本の理由だと見なしている点だ。新政府軍が藩を超えた日本という共通の理念の下に動いているなら、それと別に独立国を建てる意義はないと考えるのである。

 明治政府に都合のいい後付け論理にも見えるが、そんな解釈もあり得なくなないだろう。

 徳川慶喜が大阪城から脱出して開陽丸で江戸に向かったとき、大阪に取り残された開陽丸艦長の榎本武揚は呆然として「俺たちは、見すてられたんだなあ」とつぶやく。その榎本武揚が箱館戦争の終結時には、自身の心境と徳川慶喜の姿を重ね、心の中で「慶喜さんは、えらい人だ」と感じるのが本書のミソである。