半世紀ぶりに「手鎖心中」再読2026年05月07日

『手鎖心中』(井上ひさし/文春文庫)
 先月、歌舞伎座で観た勘九郎の『浮かれ心中』の原作は井上ひさしの『手鎖心中』である。この小説が直木賞を受賞したとき(1972年)、私は雑誌で読んでいるが手元にはない。半世紀以上昔なので内容もウロ憶えだ。で、文庫本を入手して再読した。

 『手鎖心中』(井上ひさし/文春文庫)

 この文庫本は「手鎖心中」と「江戸の夕立」の2編を収録している。後者は初読だ。解説が中村勘三郎なのがうれしい。彼が勘三郎を襲名したのが2005年、没したのが2012年だから、その間に出た文庫本だと思う。オビは昨年の大河ドラマだ。蔦重の余禄が「手鎖心中」にも及んだのだろう。

 『浮かれ心中』を観たとき、どこまでが原作通りでどこからが脚色か判断できなかった。原作を再読し、『浮かれ心中』は思った以上に原作に忠実だと確認した。だが、芝居のラストの「宙乗り」は、もちろん原作にはない。ねずみに乗ったチュウ乗りで昇天する栄次郎のラストシーンは勘三郎の発案だそうだ。

 「江戸の夕立」も面白かった。江戸の裕福な商家の道楽者の若旦那が登場するのは「手鎖心中」に似ている。芸達者な幇間(たいこもち)と若旦那の珍妙でやや哀れな東北遍歴譚である。京や江戸から遠く離れた東北遍歴なのが井上ひさし風だ。艱難辛苦の末に江戸に辿り着けば、いつの間にか江戸は東京に変わっていたというラストがいい。筒井康隆の「ジャズ大名」を想起した。作風はまったく異なるが。

 調べてみると「手鎖心中」の直木賞受賞(1972年上期)は網淵謙錠「斬」と同時受賞で、このとき落選した候補作の一つが筒井康隆「家族八景」だった。井上ひさしは初めての候補、筒井康隆は3回目の候補だった。以前に読んだ『それぞれの芥川賞直木賞』(豊田健次)で、この賞の勧進元・文藝春秋の豊田健次は次のように書いていた。

 「井上ひさしさんの「手鎖心中」。私たち編集部(別冊文藝春秋)としては、お披露目というか、この作品で井上ひさしという存在を委員に印象づけ、二作目で直木賞という算段を立てていたのですが、みごと第一作で受賞されました。しかし、たいていは二作、三作目。」

 遠い昔の話である。

『国盗り物語』は斎藤道三と二人の分身の物語2026年05月05日

『国盗り物語(1)(2)(3)(4)』(司馬遼太郎/新潮文庫)
 司馬遼太郎の長編はかなり読んだ気がするが未読作品も多い。私は戦国モノより幕末維新モノが好みで、代表作『国盗り物語』も読んでいなかった。ふとした気まぐれで『国盗り物語』を古書で入手し、やや厚い文庫本全4冊を4日で読了した。やはり、司馬遼太郎の小説は読みやすくて面白い。

 『国盗り物語(1)(2)(3)(4)』(司馬遼太郎/新潮文庫)

 この長編、前半2冊は「斎藤道三編」、後半2冊は「織田信長編」となっている。信長は道三の娘婿なので戦国二代記かなと思ったが、3冊目の半ばまで道三は存命で、後半の主人公は信長ではなく明智光秀だった。本能寺の変と光秀の最期までを描いている。

 著者の「あとがき」によれば、雑誌連載の際に斎藤道三のみを書くつもりで題を『国盗り物語』とし、編集部から「もっと書け」と言われ、道三の娘婿である織田信長まで書き進めたそうだ。これを読んで得心した。『国盗り物語』は道三の物語であり、道三の死後、道三が自身の後継者と見なしていた二人の若者(信長と光秀)が道三の分身として活躍して相果てる物語である。道三の生涯と見果てぬ夢のてんまつを描いた道三の壮大夢幻な一代記とも言える。

 この小説、前半が面白い。寺をとびだして還俗した乞食坊主・庄九郎(後の道三)が「国主」になりたいとの大望をいだいて成り上がっていく権謀術数のサクセス・ストーリーである。庄九郎は国盗りの足がかりとして、まず、京都の大店である油屋の婿におさまる。油屋の亭主として商売を拡張させながら、その財力を活用して美濃の国(岐阜)の乗っ取りを企て、実現させてしまう。

 シュリーマンを連想させる話だ。だが、油屋の次に国主になるのではなく、油屋と並行の二重生活で成り上がっていくのである。どこまで史実をベースにしているのか知らないが、スーパーマン庄九郎を描いた面白いストーリーである。時たま美濃から京都に戻って油屋の亭主になった際、庄九郎は油屋の女房に「いずれ将軍として京に戻る」と語る。だが、美濃の国主になったとき「美濃取りに時間がかかり過ぎた。将軍として京に戻るのは難しそうだ」と嘆く。道三が期待をかけた次世代が、姻戚の優秀な若者・明智光秀と娘(濃姫)婿の織田信長である。光秀は濃姫のイトコにあたる。

 当初、道三は娘の婿を光秀と考えており、光秀も密かにそれを期待していた。しかし、織田家から縁談話が来たとき、道三は政治的判断でその縁談を受ける。史実か否かは知らないが、よくできた光秀・信長の因縁の端緒だ。

 司馬遼太郎の小説はエッセイ風の語りが随所に織り込まれる。道三とほぼ同時代のマキャベリの言説で道三を解説するのが面白い。油の原料が荏胡麻(えごま)から菜種へと技術革新していくさまで時代の変転を語っているのも興味深い。

あり得たかもしれない別の人生を描く『傾いた地平線』2026年04月28日

『傾いた地平線』(眉村卓/P+D BOOKS/小学館)
 日経の土曜夕刊終面の「文学周遊」に眉村卓の『傾いた地平線』が載っていた(2026年1月31日)。未読の長編なので、いずれこの小説を入手して読もうと思い、記事を切り抜いた。ネット古書店で容易に入手できると思ったが、記事が引用している角川文庫版は入手できず、小学館の P+D BOOKS を購入した。

 『傾いた地平線』(眉村卓/P+D BOOKS/小学館)

 眉村卓46歳の時の自分語りSF小説である。人は自分の人生をふり返って過去の分岐点のアレコレを考えたとき、別の道を歩んだ別の人生に思いを馳せることがある。そんな思いを並行世界というSFに仕立て、眉村フシギ・ワールドを展開した小説だ。

 46歳のSF作家の「ぼく」が大阪のH橋のA新聞ビルのエレベーターから降りた時、異変が始まる。そこはA新聞ビルではなくUビル、ぼくはSF作家ではなく、関西耐熱材という会社の次長になっている。それは人生のある時点で分岐した自分の「あり得たかもしれない」別世界である。

 眉村卓は阪大経済学部卒業後、大阪窯業耐火煉瓦(現ヨータイ)に入社(1957年)、岡山県備前市日生(ひなせ)町の日生工場に赴任し、翌年には大阪本社に転勤している。会社勤めのかたわらSF小説を書いており、1958年には退社して専業作家になる(エッセイ集『歳月パラパラ』など)。この小説は、そんな眉村卓の実人生を反映しているので、妙なリアリティがある。

 この小説で、主人公は次々と「別のぼく」に転生していく。最初は大阪本社の次長になっている「ぼく」だが、次は最初の赴任先のH町に居ついて現地の女性と結婚している「ぼく」である。晩年の短編『峠』には、老いた作家がH町を訪れ、そこに住みついた分身に遭遇するシーンがあった。

 会社勤めを継続していた世界までは「あり得たかもしれない」の蓋然性が高い心境小説の趣がある。その先は、「本来のぼく」の世界からかなりかけ離れたやや奇怪な異世界巡りへと飛躍して行く。

 生まれてから今日までの人生の無数の分岐から「別の人生」が発生すると夢想すれば、この世界のほとんど全ての人間が自分の分身にも思えてくる。そんな妄想がわいてくる小説だった。

阿刀田高氏の短編集4冊をまとめ読み2026年04月09日

 阿刀田高氏の『90歳、男のひとり暮らし』を読んだのを機に阿刀田氏の短編集4冊をまとめ読みした。

 『ナポレオン狂』(阿刀田高/講談社文庫)
 『一ダースなら怖くなる』(阿刀田高/文春文庫)
 『冷蔵庫より愛をこめて』(阿刀田高/講談社文庫)
 『おいしい命:阿刀田高傑作短編集』(阿刀田高/集英社文庫)

 前2冊はかなり以前に読んだ文庫本の再読、後2冊は新たに入手した。4冊で短編54編になる。以前に読んでいても内容を忘れている話が多く、新鮮な気分で読んだ。大半が私好みのブラック・ユーモアである。面白かった。

 実は、私は阿刀田氏の「いい読者」とは言えない。『ギリシア神話を知っていますか』などの古典解説本は何冊か読んだし、長編の『新トロイア物語』『獅子王アレクサンドロス』も読んだ。だが、阿刀田氏の本領である短編小説(何十冊もある)は文庫本2冊を昔読んだだけで、その内容もほとんど失念している。

 阿刀田氏は『90歳、男のひとり暮らし』のなかで「昨今は長編小説は読まない」「短編を偏愛している」と述べている。そして「自惚れの本棚から――仕事」という章では、編集者に乞われて自身が書いた900編を越える短編から好きな15編を選び、自作を語っている。

 自選15編はすべて私の知らない作品だった。で、私は阿刀田氏の「いい読者」ではなかったと自覚したのである。そして、この機会に阿刀田氏お気に入りの何編かを読んでみようと思った。

 今回私が読んだ54編には、阿刀田氏が挙げた15編の内の7編が含まれている。私が面白いと思ったのは『結婚嫌い』『閉じた窓』『来訪者』『サン・ジェルアマン伯爵考』『ゴルフ事始め』『狂暴なライオン』『幸福通信』『ギャンブル狂夫人』『掌の哲学』『独りぼっち』である。作者の自選と重なるのは4編だった。

 4冊読むと、阿刀田氏の作風とその独自性が少し見えた気がしてくる。機知に富んだブラック・ユーモアや恐怖小説がベースで、ニヤリと笑わせる艶笑譚の要素も大きい。『掌の哲学』のサルトルや『サン・ジェルアマン伯爵考』のように蘊蓄や知性を忍び込ませる技もある。日常生活を超越したシャレた世界のようでいて、世相・風俗や人間の生理などのやや下世話で辛辣な要素も取り込んでいる。その結果、奇妙な味の小説世界が紡ぎ出される。

観劇前に戯曲『マリア・ストゥアルト』を読んだ2026年04月07日

『悲劇 マリア・ストゥアルト』(シラー/相良守峯訳/岩波文庫)
 今月中旬、舞台『メアリー・スチュアート』(出演:宮沢りえ、若村麻由美、他)を観劇予定だ。スコットランド女王メアリー・スチュアートとイングランド女王エリザベス1世の話らしいが、どんな内容かよく知らない。観劇前にシラーの戯曲を読もうと思い、「メアリー・スチュアート」でネット検索すると次の本が出てきた。

 『悲劇 マリア・ストゥアルト』(シラー/相良守峯訳/岩波文庫)

 タイトルが違うと思ったが、マリア・ストゥアルトはメアリー・スチュアートのドイツ語表記だった。ドイツ人シラーが書いた戯曲だからマリア・ストゥアルトなのだ。と言っても、イギリス王室の話のドイツ語表記には違和感がある。

 舞台『メアリー・スチュアート』を観たいと思ったのは、出演者に惹かれたのに 加え、先日『ヴァロア朝』(佐藤賢一)を読んだからである。生後6日でスコットランド女王になったメアリー・スチュアートは、未来のフランス王妃として6歳からフランス王宮で育てられた。だが、夫のフランス王は早世する。フランス読みだとマリー・ステュアールの彼女について、佐藤氏は次のように述べている。

 「マリー・ステュアールというのは、その美貌ゆえに波乱の人生を余儀なくされ、最後はイングランド女王エリザベス1世に斬首されて果てたという、あの伝説のスコットランド女王メアリー・スチュアートのことなのだ。(…)王妃(マリー・ステュアール)自身は政治家という玉ではなかった。この方面に才覚があれば、あんな支離滅裂な人生を送るわけがない。」

 この一節を読んで、どんな支離滅裂な人生を送ったのだろうと興味がわいた。で、芝居のチケットを手配し、戯曲を読んだのである。

 『悲劇 マリア・ストゥアルト』はメアリー・スチュアートの支離滅裂な人生そのものは描いていない。その果ての最期の3日間を描いている。

 スコットランドからエリザベスを頼って逃れて来たメアリーは、イングランドの王宮に幽閉され軟禁生活を送っている。エリザベスにとって彼女は、色仕掛けなどの手練手管でイングランド王位を狙う危険人物である。そして、ある証言をもとに彼女への死刑が宣告され、エリザベスの意に反して刑が執行されてしまう――という戯曲である。面従腹背の登場人物たちの右往左往の展開も面白い。

 戯曲の軸はメアリーとエリザベスという二人の女王である。この二人、芝居が始まった時点(処刑の3日前)では顔を合わせたことがない。前段はメアリーが軸、中盤で二人の面会、後段はエリザベスが軸、という構成がわかりやすい。

 冒頭近くでメアリーの乳母がメアリーに「あなた様の罪といえば、軽はずみということだけでございます」と語る。佐藤氏の言う「支離滅裂な人生」を想起し、ニヤリとしてしまった。二人の女王が背負った人生を3日に反映させた戯曲だ。

芥川受賞作2編は面白いとは思うが…2026年03月27日

 今年もまた、『文藝春秋 芥川賞発表号』を購入して受賞作を読んだ。2025年下期の受賞作は次の二つだ。

 『時の家』(鳥山まこと)
 『叫び』(畠山丑雄)

 二作ともそれなりに面白いが、私の波長には合わなかった。昨年の受賞作のようなビックリする小説ではなかった。

 『時の家』は空家の追憶譚である。坦々として緻密な空家の描写が続き「まさか、この調子でずーっと行くのか?」と懸念したら、最後まで「この調子」が続いた。いっそ、空家の一人称の物語にすればと思った。だが、そんな話はすでにありそうだ。

 『時の家』は銅鐸と万博が絡んだ奇怪な小説である。語り口は面白い。話が時々ぶっ飛ぶ。迫力と熱気は感じたが、私にはよくわからない所がある小説だった。

 芥川賞発表号を読む楽しみの一つは「選評」にある。当代の作家たちによる新人作家の作品の評価は、それがバラけることが多いので面白い。全員一致で高く評価する作品は滅多にない。受賞作を評価しない選考委員も、受賞に至らなかった作品を推している選考委員もいる。小説とはそういういうものだろう。今回は5編の候補作から2編が選ばれたが、さほどの差はなかったようだ。

 選考委員の吉田修一氏は「五作品とも〇? 候補作を読み終えて少し焦るほどの豊作で、やっぱり純文の新人って面白いなーと率直に感心してしまった。」と述べている。豊作はご同慶の至りだが、純文学って何だろうと考えてしまった。何だが特殊な領域の洗練された芸事のようにも感じられてしまう。もちろん、そんなものではない「何か」のはずだが。

舞台『砂の女』は男女の年齢を含めて原作に忠実2026年03月23日

 紀伊國屋ホールで『砂の女』(原作:安部公房、脚本・演出:山西竜矢、出演:森田剛、藤間爽子、他)を観た。

 安部公房は戯曲も書く小説家で、舞台演出も手掛けた。自身の小説のいくつかも戯曲化している。代表作『砂の女』に関しては、映画化やラジオ化の際に自らシナリオを書いているが、戯曲化はしていない。

 安部公房自身が『砂の女』を舞台化したいと思ったかどうか、私は知らない。おそらく、舞台化の構想はなかったと思う。小説の完成度が高く、映画(監督:勅使河原宏)も高く評価された傑作だった。小説や映画を超える舞台を創るのは難しいと考えたかもしれない。

 作家自身が戯曲を残さなかった『砂の女』だが、私は5年前に二つの舞台を観た。うずめ劇場の『砂女』とケラリーノ・サンドロヴィッチ演出・上演台本の『砂の女』である。今回が三つ目の舞台だ。5年前に観た二つの舞台は、原作を多少アレンジしていた。今回の舞台は原作に非常に忠実に作られている。原作を読み込んだうえで、巧みに舞台化していると感じた。

 変な言い方になるが、原作を読んでいなくても、この芝居を観れば原作の内容を十分に把握できると思った。私にとっては、芝居を観ながら原作の内容を次々に思い出していく観劇体験だった。緊張が持続する至福の2時間だった。

 主人公の男と女が若く感じられたのは、私が年を取ったせいだと思う。特に「女」の藤間爽子が原作のイメージ以上に若く見えた。だが、私の錯覚だった。観劇後、原作を確認すると「まだ三十前後の、いかにも人の好さそうな小柄な女だった」と書いていた。

 男(仁木順平)の年齢は、小説末尾の「審判」の書類で正確にわかる。生まれたのは昭和2年3月7日(月日は安部公房と同じ。年齢は3つ下)、昆虫採集に出発したのは昭和30年8月18日だから、28歳である。そんなに若かったのかと驚いた。私がこの小説を最初に読んだのは十代だったので、男をオジサンと感じたようだ。

 小説は、男を失踪者と宣告する簡潔な「審判」書類で終わる。三島由紀夫が「砂のように簡潔で無味乾燥な突然のオチ」と称賛した結末である。舞台は、この書類をプロジェクターで投影して終わる。このシーンは、投影した書類を朗々と無味乾燥に読み上げてほしかった。

 私は原作を3回ぐらい読んでいる。原作に忠実な舞台『砂の女』の読後感ならぬ「観後感」は、初めてこの小説を読んだときの感慨とは微妙に異なる。以前は、世界という情況や桎梏と格闘する話に思えた。だが今回は、脱出が空しい家庭劇のようにも見えた。これは、小説と芝居の違いではなく、私の年齢や時代の違いのせいだろう。

『<木挽町>のあだ討ち』は面白かった2026年03月10日

『木挽町のあだ討ち』(永井紗耶子/新潮文庫)
 2023年に山本周五郎賞と直木賞をW受賞した『木挽町のあだ討ち』が映画化され、話題になっている。映画評を読んで原作を読みたくなった。

 『木挽町のあだ討ち』(永井紗耶子/新潮文庫)

 江戸時代のあだ討ちの物語である。登場人物の大半は架空の人物で、戯作者の篠田金治だけは実在の人物をモデルに脚色しているようだ。先日、『歴史小説のウソ』を読んだばかりなので、歴史小説の実例をニヤニヤしながら検証している気分になった。よくできたエンタメである。面白かった。

 この小説にはミステリーの要素があり、以下はネタバレの読後感になる。

 あだ討ちの2年後、若い武士があだ討ちの目撃者たちを訪ねて、2年前の事件の目撃談を聞いて回るという趣向の小説である。ミステリーとしては半ばあたりで仕掛けが見えてくるが、面白さは減衰しない。5人の興味深い「歌舞いた」人物たちの語りという構成に引き込まれる。この世は舞台、人はみな役者という趣がいい。

 この小説のタイトルを聞いたとき、実在の事件を題材にしているのかと思い「木挽町であだ討ちがあったかなあ」と思った。現在、木挽町はないが、歌舞伎座のあたりが江戸時代には木挽町と呼ばれていた。私は、歌舞伎座のある東銀座周辺には多少の土地勘がある。若い頃には彼の地の「こびき」とい小料理屋によく行き、店名の由来から木挽町を知ったのだ。

 「木挽町であだ討ちがあったかなあ」と思ったとき、思考がその先に進まなかったのはウカツだった。己れの凡庸を自覚する。現在の歌舞伎座があったあたりに、江戸時代には森田座という芝居小屋があった。あだ討ちは、森田座の前で実施される。だから「木挽町のあだ討ち」なのである。なぜそんな場所でと考えれば、タイトルから物語の仕掛けを推測できてもよかったのに――そう思ったのは読了後である。