私は『馬の首風雲録』でブレヒト世界のイメージを紡いだ2018年04月05日

『肝っ玉おっ母とその子どもたち』(ブレヒト・岩淵達治訳/岩波文庫)、『馬の首風雲録』(筒井康隆/日本SFシリーズ13/早川書房)
 先日、ブレヒトの『肝っ玉おっ母と子供たち』観劇の感想を書いた。この芝居に関しては以前から「あえて観なくても舞台で展開される世界が想像できる気になっていた」と書いた。

 と言っても、この戯曲を昔に読んでいたわけではない。戯曲を読んだのはほんの1カ月ほど前、チケットをゲットした後だ。だが、この戯曲の雰囲気や内容はずいぶん昔から知っているような気がした。初読なのに既視感があった。

 なぜだろうと考えてみた。高名な芝居なので、遠い昔に雑誌や新聞などの紹介記事や劇評、あるいは舞台写真などに接していたせいだろうか。

 そんなことを考えているうちに筒井康隆氏の『馬の首風雲録』に思い当たった。氏の長編2作目で『SFマガジン』の1966年9月号から1967年2月号に連載された。この小説のイメージが『肝っ玉おっ母』に重なっているのだ。

 この小説の連載が始まった1966年は私が高校を卒業した年だ。当時は『SFマガジン』を数カ月遅れの古本で購入していたので(その方がはるかに安い)、数か月遅れのタイムラグで私はこの連載小説を読んだ。

 その後に出た単行本(早川書房の「日本SFシリーズ 13」)も持っているのは、著者による解説風の「あとがき」という付加価値があるからだ。小説そのものは雑誌連載で読んだだけで、その後は読み返していない。

 でも、その印象は強く残っていて、最後のセンテンスも憶えている。遠い未来の宇宙の彼方の星で犬に似た異星人が繰り広げる戦争の話で、地球人は背景としてほんの少ししか登場しない。この小説はベトナム戦争とブレヒトをベースにしていると私は感じた。

 小説連載時はベトナム戦争の真っ最中であり、小説のラストセンテンス「戦争はまだまだ」終わりそうもなく、それは今や泥沼の様相を呈しはじめていた」は当時のベトナム戦争そのものだ。ベトナム戦争の影を感じるのは当然として、読んだこともないブレヒトの世界を『馬の首風雲録』に感じたのは何故だろうか。おそらく、同じ時期に接した『肝っ玉おっ母と子供たち』の情報と共鳴したのだろう。

 単行本の「あとがき」で筒井康隆氏は次のように書いている。

 『これは『戦争』というテーマの、一種のコラージュです。(…)この長編の中には過去のさまざまな文学作品、芸術作品がデフォルメした形で貼りあわせてあります。田河水泡『のらくろ』、ブレヒトの戦争テーマの一連の戯曲、その他ヘミングウェイ、岡本喜八の戦争喜劇映画、野間宏、メイラー、カフカ。大岡昇平まで出てきます。』

 事後に読んだこの「あとがき」が記憶に何らかの作用をしている可能性もある。いずれにしても『馬の首風雲録』を読んでから約半世紀の間、私の頭の中にあったブレヒトの『肝っ玉おっ母と子供たち』のイメージの内実は『馬の首風雲録』のイメージだったのだ。

 そう気づいて、『肝っ玉おっ母と子供たち』観劇後、半世紀ぶりに『馬の首風雲録』を再読した。そして、私が『馬の首風雲録』によってブレヒトをイメージしていたのは的外れではなかったことを確認した。本体を読まずしてイメージを紡げた不思議を感じる。

200年前の奴隷の逃亡劇が遠未来に重なる『地下鉄道』2018年03月27日

『地下鉄道』(コルソン・ホワイトヘッド/谷崎由衣訳/早川書房)
◎『地下鉄道』はどんなSFか

 『地下鉄道』という翻訳小説を読んだ。2016年刊行の米国の小説で、ピュリッツア賞、全米図書賞など数多くの文学賞を受賞、日本語版の刊行は昨年(2017年)12月だ。

 『地下鉄道』(コルソン・ホワイトヘッド/谷崎由衣訳/早川書房)

 南北戦争以前の米国の奴隷を描いた小説と知り、現代小説にしては変わった題材だと思った。この小説を読もうと思ったきっかけはアーサー・C・クラーク賞も受賞していると知ったからだ。あの高名なSF作家の名を冠した賞があるとは知らなかったが、調べてみると「イギリスで最も名誉あるSF賞」だそうだ。『地下鉄道』という小説がどんなSFなのか興味がわいた。

◎これは米国の「時代小説」か

 この小説は農園から逃亡した奴隷とそれを追跡する奴隷狩りの話だった。緊迫感のある展開で息をつかせない。歴史的事実に基づいたフィクションの趣があり、米国の歴史に不案内な私には、どこからが虚構なのかはよくわからない。日本でいえば江戸末期を描いた時代小説だ。

 多くの黒人の死体が木に吊るされているシーンはビリー・ホリデイの『奇妙な果実』を思い出させる。奇妙な謎の地下鉄道を逃亡に利用するシーンでは、さすがにこれは虚構だと思った。この地下鉄道が出てくるから「広義のSF」と見なされたようだ。

 地下鉄道に関しては「訳者あとがき」に説明があった。当時、奴隷州から自由州への奴隷の逃亡を援助する組織があり、その暗号名が「地下鉄道」だったそうだ。逃亡奴隷を匿う小屋は「駅」、逃亡奴隷の輸送を援助する人を「車掌」と呼んだそうだ。

 作家はこの符牒をそのままの実体として小説にしている。面白い発想だ。実際の地下鉄道が登場することによって、その象徴的な存在に多様なものが反映され、奥行きのある不思議な物語になっている。

 登場人物の人名(コーラ、シーザーなど)も何らかの意味を反映しているのかなと感じたが、私にはよくわからない。

◎『都市と星』と重なる

 アーサー・C・クラーク賞の受賞理由は知らないが、この小説を読んでクラークの『銀河帝国の崩壊』『都市と星』を連想した。この二つはほぼ同じ内容で、前者を改稿したのが後者だ。私はかなり昔に二つとも読んだ。内容の詳細は失念したが、今でも印象深く残っているのは、遠い未来の喪われた都市の地下に眠っていた地下鉄が動き出すシーンだ。主人公はこの地下鉄に乗って未知の世界への旅を始める。

 19世紀初頭の野蛮な米国南部の逃亡奴隷の姿と遠い未来のSF世界が、謎の地下鉄という鮮烈なイメージによって重なって見える。不思議な感覚だ。アーサー・C・クラーク賞の選考者も『地下鉄道』に『都市と星』と共通するものを感じ、通常のSFとは言い難いこの小説をSFと見なしたのではと妄想した。

 それにしても、19世紀初頭の苛酷な黒人差別を扱った『地下鉄道』が21世紀の米国で注目を浴びていることに、いささか暗然とする。人類は進歩していないとの思いがわく。

来年の大河を機に『翔ぶが如く』を読んだが…2017年12月24日

『翔ぶが如く』(司馬遼太郎/文春文庫)
◎西郷隆盛は苦手

 私は日本史では幕末維新に関心があるが、西郷隆盛は苦手である。評価が難しい人物なので、遠ざかりたいという気分がある。だから、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』は、いつかは読まねばと思いつつ敬遠していた。文庫本で10冊と長大なうえに題材が西郷隆盛だから手を出しかねていた。

 その『翔ぶが如く』(文春文庫)全10冊をこの年末に古書で入手し、半月足らずで読み終えた。きっかけもちろん来年の大河ドラマだ。私は大河のファンではなく大半は観ていない。だが、年末になって来年の大河関連本が書店の店頭に並ぶと多少は気になる。

 来年の大河ドラマ『西郷どん』の原作は林真理子で、『翔ぶが如く』は何年か前にすでに大河ドラマになったそうだ。でも、年末の本屋の店頭には『翔ぶが如く』も平積みになっている。いつかは読むなら、いまがチャンスだと思った。『西郷どん』を観るか否かはわからない。主人公の鈴木亮平はいい役者なので多少は観るかもしれない。

◎西郷隆盛とは何者か

 『翔ぶが如く』は歴史エッセイに近いので、読了しても大長編を読んだという気分ではなく、司馬遼太郎の蘊蓄に富んだ長時間の座談につきあったという気分になる。毎日新聞に4年にわたって連載された作品で、同じような話や見解の繰り返しもあるが、それがさほど気にならないのも座談だからであり、それによって当方の理解が多少は定着する。

 読後感は『坂の上の雲』に近い。扱っている時代の前後関係から『坂の上の雲』の前に発表した作品かと思ったが、調べてみると『翔ぶが如く』の方が後だった。明治時代に誕生した軍隊が昭和の硬直した軍閥へと変貌するさまへの苦い見解は二つの作品に共通している。

 『翔ぶが如く』は明治5年頃から西南戦争終結の明治10年までを扱っていて、西郷隆盛が最も活躍した幕末は遠景になっている。だから、西郷の伝記ではない。

 本書を読んで、薩摩の国柄、征韓論、明治の太政官政府の様子、台湾出兵などについての理解が深まり、西南戦争の詳細を知ることができた。その意味では有益だった。しかし、西郷隆盛とは何者であるかは依然としてよくわからない。

◎把えがたい人物

 本書の始めの方で作者は西郷隆盛とは何者か、なぜ人気があるのかと自問し「会ってみなけらばわかない」という不思議な述懐をしている。それは、この小説は「西郷隆盛に会う」ことを目指しているという宣言にも思えた。

 しかし、終盤になっても次のように書かれている。

 「要するに西郷という人は、後世の者が小説をもってしても評論をもってしても把えがたい箇所がある(…)。西郷は、西郷に会う以外にわかる方法がなく、できれば数日接してみなければその重大な部分がわからない」

 そう述べる作者は西郷隆盛をもてあましているようにも思える。カリスマのカリスマ性を信者でない人間が論理の言葉で説明するのは難しい。わかりやすさとわかりにくさが混在しているのでややこしい。

 かつて半藤一利氏が「西郷隆盛は毛沢東のような人」と述べているのを読んで、ナルホドと感じたことがある。だが、それは幕末までの西郷隆盛であって、明治以降には当てはまりにくい。

 坂本竜馬が西郷隆盛を評した「釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。」という言葉がある。この例えで言えば、私は西郷を大きく叩くことができないようだ。

 そんなことを考えていると来年の大河ドラマが心配になってきた。「後世の者が小説をもってしても評論をもってしても把えがたい箇所」をドラマで表現できるだろうか。

市川中車と坂東玉三郎の『瞼の母』を観ながら思い出したこと2017年12月13日

 歌舞伎座の「十二月大歌舞伎」は3部制で、その第3部を観た。長谷川伸の『瞼の母』と舞踊劇『楊貴妃』の2本で、どちらも市川中車と坂東玉三郎がメインだ。

 『楊貴妃』は夢枕獏が玉三郎のために書き下ろした作品だと知り、レパートリーの広い作家だと驚いた。

 「瞼の母」という言葉や「番場の忠太郎」という名前はずいぶん昔から知っているが、舞台を観るのは初めてだ。初めてにも関わらず観劇しながら既視感がわき出す。有名な話だから子供の頃からインプットされたいろいろな情報が記憶の底に沈んでいるのだろう。カズオ・イシグロの小説を読んでから、つい記憶の不思議を考えてしまう。

 『瞼の母』を観ていて、ふいに『瞼のチャット』という小説が頭によみがえってきた。これは明確な記憶だ。清水義範が1989年10月号の『小説現代』に発表した短編で、当時はまだ珍しかったパソコン通信で肉親が出会う横書きの小説である。当時、私はパソコン通信をやっていて、この小説を読んだ知人から「あなたの書いたメッセージがパスティーシュされている」とのメールをもらった。本屋に行って確認するとその通りで、清水義範ファンだった私は何か誇らしい気分になった。

 そんな遠い記憶をなつかしみながら中車と玉三郎の舞台を堪能した。

クセになるカズオ・イシグロの世界2017年12月10日

『遠い山なみの光』(カズオ・イシグロ/小野寺健訳/ハヤカワepi文庫)、『浮世の画家』(カズオ・イシグロ/飛田茂雄訳/ハヤカワepi文庫)、『日の名残り』(カズオ・イシグロ/土屋政雄訳/ハヤカワepi文庫)、『充たされざる者』(カズオ・イシグロ/古賀林幸訳/ハヤカワepi文庫)、『わたしたちが孤児だったころ』(カズオ・イシグロ/入江真佐子訳/ハヤカワepi文庫)、『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ/土屋政雄訳/ハヤカワepi文庫)
◎付和雷同でイシグロの本を買う

 本日(12月10日)はノーベル賞授賞式だ。カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞のニュースの接したときは少し驚いた。名前や評判を知っているだけで作品を読んだことはなかった。比較的若い作家と思っていたが、私より若いというだけで、単に当方が年を取ったにすぎないと気づいた。

 受賞ニュースの翌日、都心の大型書店に立ち寄ったがイシグロの本は品切だった。11月下旬になると、わが駅前の本屋の店頭にもイシグロの本が平積みになった。すべて早川書店(日本語版翻訳権を独占しているようだ)の文庫本で全8点。それがうず高く積まれているのは壮観だ。

 自分が付和雷同の俗人だと自覚しつつ代表作と報道されている次の2点を購入した。

 『わたしを離さないで』(土屋政雄訳/ハヤカワepi文庫)
 『日の名残り』(土屋政雄訳/ハヤカワepi文庫)

◎SF仕立ての記憶語り小説『わたしを離さないで』

 まず『わたしを離さないで』を読んだ。臓器提供のために育成されているクローン人間が主役のSF仕立てだとは聞いていた。坦々とした語り口の端正な小説だった。事前知識なしに読むと衝撃を受けるかもしれないが、状況を明に告発する内容ではなく、主人公たちは運命を受け容れながら日々を生きているように見える。それを記憶語りの形で描出した不思議な世界だ。数年前に読んだ清冽な小説『火山のふもとで』(松家仁之)を連想した。

◎『日の名残り』は繊細な懐旧談…

 続いて『日の名残り』を読んだ。ナチス台頭の時代から現代までのヨーロッパ史を背景にした繊細な懐旧談で、過ぎ去った時代への郷愁と感慨がわき出てくる。

 『わたしを離さないで』も『日の名残り』も静謐な一人称小説で、語りの大半は回想である。語っている「今」と回想の往復に妙味があり、その回想が本当の記憶かねつ造された記憶かが不分明だ。私たちが感得している世界とはこのようにあいまいで異形であり、それこそが人間社会だと感じさせられる。

◎小津映画のような『浮世の画家』

 代表作2つを読めば十分だろうと思っていたが、2作を読み終えると、やはり日本を扱った作品も読んでみたくなった。日本が舞台の小説は次の2作だ。

 『浮世の画家』(飛田茂雄訳/ハヤカワepi文庫)
 『遠い山なみの光』(小野寺健訳/ハヤカワepi文庫)

 少し迷った末、カバー裏の紹介文から『浮世の画家』を選択した。戦時中の画業のせいで戦後には批判の対象になった画家の話とのことで、もしかして藤田嗣治がモデルかなとの興味がわき、この小説に手が伸びたのだ。読んでみると、老画家の一人称の小津安二郎の映画のような話で、フジタとの関連は感じなかった。

 『浮世の画家』に、ないものねだりの多少の期待外れも感じ、読了前には『遠い山なみの光』の方も読まなねばという気分になり、駅前に行ったついでに『遠い山なみの光』も購入した。この時にはイシグロの一人称世界に中毒になりかかっていたようだ。

◎『遠い山なみの光』はシュール

 長崎出身でイギリス在住の日本人女性が長崎で過ごした遠い過去を回想する『遠い山なみの光』はかなり異様で面白かった。人生の回想のようでありながら肝心な所をサラリと省略し、断片だけで全体を想像させる手法に感心した。

 語り手の女性とその回想に登場する友人の女性がオーバラップしていて、実はこの二人は同一人物だというシュールな話にも思えてくる。記憶にはそのような不思議な作用もありそうな気がする。

◎溶融と可塑の『充たされざる者』

 当初は2冊のつもりが4冊になり、これで十分のはずだったが、4冊読了すると、当初から気がかりだった『充たされざる者』(古賀林幸訳/ハヤカワepi文庫)を購入してしまった。ノーベル賞のテレビニュースで一人の評論家が「不条理小説『充たされざる者』が一番いい」と語っていたのが記憶に残り、当初はこの1作だけを読もうとも思っていた。だが、本屋の店頭でその厚さに圧倒され敬遠していたのだ。

 『充たされざる者』は900ページ以上あり、他の長編の3倍ほどの長さだ。確かにカフカ世界か夢日記のようだが、この大長編はほんの数日の話で読みにくくはない。長さも感じなかった。

 他の長編と同様に回想の多い一人称だが、これはかなり不思議な一人称だ。語り手ではなく語られる人間の記憶や心象までが一人称で語られているのだ。登場人物の多くは語り手の分身に近く人々の心象や記憶や溶融している。さらに時間や空間も溶融していて、世界の不思議な可塑性を描いているように思える。

◎探偵登場の『わたしたちが孤児だったころ』

 分厚い『充たされざる者』で打ち止めにしようと思いつつ、それでは終わらず、続いて『わたしたちが孤児だったころ』(入江真佐子訳/ハヤカワepi文庫)も読んでしまった。

 『わたしたちが孤児だったころ』は上海で少年期を過ごしたイギリス人の一人称で、主人公の両親は太平洋戦争前夜の上海で行方不明になっている。両親の失踪後、主人公はイギリスで教育を受け「探偵」になる。坦々とした一人称にかかわらずホームズを彷彿とさせる社交界の名士の探偵という設定はかなりシュールだ。ミステリー仕立ての終盤には引き込まれた。

◎全体で一つの世界

 私が読んだ6つの長編を発表順に並べると次のようになる。

  1982年『遠い山なみの光』
  1986年『浮世の画家』
  1989年『日の名残り』
  1995年『充たされざる者』
  2000年『わたしたちが孤児だったころ』
  2005年『わたしを離さないで』

 私はイシグロが23年にわたって発表してきた6作品を1カ月足らずの間に読んだわけだ。作家のデビュー当時から作家と足並みをそろえて読み継いできた読者にとっては、イシグロは多彩な変貌を遂げてきた作家に見えるかもしれない。舞台は多様に広がり、作風も郷愁譚から不条理世界、探偵小説、SFと様々だ。

 だが、短時間でまとめ読みすると、これらの小説が独立した別々の小説ではなく全体で一つのイシグロ・ワールドを語った一つの壮大な小説に見えてくる。それは、主人公が一人称で坦々と語る静謐で切ない記憶の世界である。

 本屋の店頭に積まれている未読のイシグロ本は『忘れられた巨人』(2015年)と『夜想曲集』(短編集)の2冊だ。クセになる中毒性のある作家なので、いずれこの2冊も読みそうな予感はある。だが年内は別の本に移ろうと思っている。

『騙し絵の牙』は出版という構造不況業種の業界小説2017年11月22日

『騙し絵の牙』(塩田武士/KADOKAWA)
 現代を反映した面白い小説を読んだ。

 『騙し絵の牙』(塩田武士/KADOKAWA)

 著者は1979年生まれ。山田風太郎賞を受賞しているそうだ。私にとっては初読の作家だ。

 表紙や扉に俳優・大泉洋の写真が掲載されていて、オビには『唯一無二の俳優を「あてがき」した社会派長編』とある。俳優を「あてがき」した戯曲や脚本はあるが小説は珍しい。この小説は現在のところ映像化されているわけではなく、小説の売り出し方の新たな試みのようだ。本文内にも挿絵替わりに大泉洋の写真が何枚も挿入されている。

 そのような「よくわからない」新機軸を打ち出しているところに、この小説の内容に連動した仕掛けが潜んでいる。この小説は「本や雑誌が売れない時代にどうやって小説を売るか」を題材にした出版業界小説なのだ。

 大泉洋が扮する主人公・速水輝也は大手出版社のカルチャー誌の編集長で、廃刊の瀬戸際にある雑誌の立て直しに苦闘している。私は出版の現状をよく知っているわけではないが、構造不況業種と言われる出版業界の実情を描き出していると思えた。アマゾンを思わせる企業も出てくる。

 本書にはパチンコ業界も出てくる。小説やアニメが版権収入を得る先としてパチンコが大きなウエイトを占めつつあることを初めて知った。確かに世の中は変わりつつある。

 デジタル化の大波に晒されている出版業界を描いた『騙し絵の牙』の読みながら、先日読んだバルザックの大作『幻滅』を想起した。新聞・広告などのジャーナリズの勃興期にうごめく人々を描いた『幻滅』の現代版が活字メディアの衰退期にうごめく人々を描いた『騙し絵の牙』と言えなくもない。そう思うと登場人物たちもバルザック的人物のように見えてきた。彼我の重量感の違いは19世紀と21世紀の違い。いたしかたない。

 (蛇足)
 本書を読み終えて、この小説の版元が「角川書店」でなく「株式会社KADOKAWA」だと気づいた。手元の角川文庫の発行も「株式会社KADOKAWA」になっている。いつの間にか「角川書店」は「株式会社KADOKAWA」に変わっていたのだ。本書の内容を反映していると感じた。

最近の小説も読んでみた2017年11月08日

『年刊日本SF傑作選:行き先は特異点』(大森望・日下三蔵編/創元SF文庫)、『あとは野となれ大和撫子』(宮内悠介/角川書店)
 このところ、バルザック、ゾラ、デュマなど19世紀フランスの小説を続けて読んだ。年を取り、未読の古典文学を読んでおかなければという駆け込み意識が出てきたせいかもしれない。

 古典を読むのはある種の自己満足であり、そんなものばかり読んでいると世捨て人になりかねないとも思う。まだ現世を超越する心境にはなれず、同時代の小説も読まねばとも思い、次の本を読んだ。

 『年刊日本SF傑作選:行き先は特異点』(大森望・日下三蔵編/創元SF文庫)

 2016年に発表された短編SFのイヤーズ・ベスト20編(内漫画3編)が収録されている。20人の作家の中で私が知っている(読んだことがある)のは5人(円城塔、眉村卓、北野勇作、谷甲州、上田早夕里)に過ぎない。このアンソロジーには作品ごとに簡単な作者紹介が掲載されていて年齢もわかる。日本SF第1世代の眉村卓以外はみんな私よりかなり若い作家だ。

 頭から順に全作品を読み、確かに新しい小説だと感じつつも、私の感覚が時代からズレつつあるとの認識を新たにした。私にとっては全般的には期待外れで、昔のSFの方が面白かったと感じてしまう。ここ何年かは、若い作家の話題作を読んでも共感できないことが多いのだ。

 とは言ってもいくつかの作品には感心した。『行き先は特異点』(藤井太洋)はグーグルやアマゾンなどの扱いに近未来を感じた。『太陽の側の島』(高山羽根子)は不気味な雰囲気が漂う不条理異世界小説だ。『悪夢はまだ終わらない』(山本弘)はうまいと思った。

 『スモーク・オン・ザ・ウォーター』(宮内悠介)はいかにもSFらしい楽しい小品で、作者紹介によればSF大賞や三島賞も受賞しているベテラン作家だ。たまたまカミサンがこの作家の次の長編を読んでいて、面白いというので読んでみた。

 『あとは野となれ大和撫子』(宮内悠介/角川書店)

 この小説は直近の直木賞候補作(受賞は逸した)だそうだ。読み始めると止まらなくなり、一気に読んでしまった。内容はぶっ飛んでいて展開が早い。ハリウッドのノンストップ・アクション映画のようだ。

 書きっぷりは軽いが舞台と題材は重い。中央アジアのアラルスタンという架空の国で日本人の両親をテロで失った女の子が大活躍する話である。周辺の国々の歴史や政治は現実の情況をふまえた設定になっていて、巻末には中央アジア関連の文献が列挙されている。

 〇〇スタンという国々の多い中央アジアは私の意識の中では地球上で最も遠い場所であり、それ故にロマンを感じる。『見知らぬ明日』(小松左京)、『天山を越えて』(胡桃沢耕史)などの小説がこのあたりを舞台にしていたが「とても遠い所」という強い印象だけが残っている。

 そんな地域の政治経済を題材にしているのだから、料理の仕方によっては重厚で緻密な大冒険小説にも成りえた小説だ。それを女子高生の学園祭のようなノリの小説に仕上げている所が何ともすごい。この軽さは何だろうと考えてしまう。

 面白いのは確かだが、これを新しいというべきかどうかは判断できない。

バルザックに引きずりこまれ『ウジェニー・グランデ』も読んだ2017年11月06日

『ウジェニー・グランデ』(水野亮訳/世界文学全集5/河出書房新社)
 バルザックの『幻滅』を2冊にまたがる「世界文学全集」(河出のグリーン版)で読了し、2冊目の後半に収録されていた『ウジェニー・グランデ』(水野亮訳)を未読のまま放置するのも気持ち悪いので、ついでにそれも読んでしまった。

 2段組みで約200ページだから長編小説と言うべきだろうが、短編小説のような読後感だ。バルザックの濃密な世界に引きずりこまれた状態の頭で読むからそんな気分になるのかもしれない。

 フランスの田舎町(ソーミュール)を舞台に、吝嗇で守銭奴の資産家(元は樽屋の親方)の父親とその娘(ウジェニー・グランデ)を中心にした19世紀前半の約10年間の物語である。比較的シンプルなストーリーで登場人物もさほ多くはなく、途中からおよその展開が見えてくる。それ故に読みやすいし面白い。

 『ウジェニー・グランデ』は恋愛小説の形式をとった経済小説でもある。大多数の登場人物たちが金銭欲にまい進する姿にはあきれてしまう。社会を動かすエネルギーをそこに見出したのはバルザックの慧眼なのだろう。身も蓋もない物語のエネルギーを感じる。

バルザックの『幻滅』で小説世界を堪能2017年11月03日

『幻滅 ⅠⅡ』(バルザック/生島遼一訳/世界文学全集4、5/河出書房新社)
◎小さい活字の試練

 ついにバルザックの『幻滅』を読んだ。実家を処分するときに引き取った半世紀前の「世界文学全集」(河出書房のグリーン版)に収録されているこの小説が気にはなっていた。2冊本の長編なので手を出しかねていたが、『谷間の百合』を読了してさらにバルザックを読んでみたいと思ったのだ。

 『幻滅 Ⅰ』(バルザック/生島遼一訳/世界文学全集4/河出書房新社)
 『幻滅 Ⅱ』(バルザック/生島遼一訳/世界文学全集5/河出書房新社)

 古い文学全集なので2段組で字が小さい上に印刷がかすれ気味のページもある。老眼が進行しつつあるわが眼球が若い頃に読んだこの文学全集の活字にまだ耐えられるかどうか試してみようとも思った。そして無事読了できた。2冊本と思って読み始めたが、2冊目の後半には別の小説(『ウジェニー・グランデ』)が収録されていて、実際は1冊半だった。とは言っても濃密な大長編である。

 私はこの長編を堪能できた。今までに読んだバルザックの小説(『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』『谷間の百合』)の中では一番面白かった。

◎多くの人物、多様な呼称

 バルザックも4冊目なので、その「人間喜劇」の世界には少し慣れてきたが、登場人物の多さにはうんざりさせられる。

 このテの小説は登場人物が多いと覚悟はしていて、人物名とその属性をメモしながら読み進めた。そのメモ用紙がすぐにゴチャゴチャになるので、途中でパソコン入力してプリントしたものにさらに手書きで書き足すということを何回かくり返した。普通の小説は半分も進行すれば新たな人物はあまり登場しないが、この小説は後半になってもどんどん新たな人物が出てくる。

 登場人物が多いのも大変だが、一人の人物が場面によって異なる呼称で出てくるので混乱する。例えば主人公には「リュシアン・シャルドン」「リュシアン」「シャルドン」「リュシアン・ド・リュバンプレ」「リュバンプレ」などの呼称があり、場面によって使いわけられている。混乱せずに読み進めるには人物メモが必須だ。

 読了後、メモした人数を数えてみると92人だった。全登場人物をメモしたわけではない。バルザックの「人間喜劇」は複数の小説に同じ人物が登場する仕掛けになっていて、巻末の訳者解説によれば『幻滅』の再登場人物は116人だそうだ。驚くべき人数だ。私がメモした登場人物より多い。私自身が確認できた再登場人物は3人に過ぎない(以前に3作しか読んでいないから当然だが)。

◎登場人物に辛辣な作者

 この小説は野心を抱いた青年の挫折の物語である。『幻滅』というタイトルから推測できるように、ハッピーエンドの話ではなく、勧善懲悪の逆に近い物語である。と言っても、悲惨な目にあう主人公は決して善人ではない。いわゆるバルザック的人物である。

 バルザックは主人公に対しても辛辣だ。登場人物のその後の運命をあらかじめ予告するような表現も多い。物語の興をそぐことになりかねないそんな書き方を押し通していくところに、バルザックのブルドーザーのような迫力がある。この過剰なエネルギーにはかなわない。

◎ウンチクも面白い

 『幻滅』は19世紀フランスの出版業界や新聞業界の裏表を描いた小説であり、その部分だけでも十分に面白い。次のような表現は、メディアの普遍的な課題を指摘している。

 「ジャーナリズムはまだ子供さ。やがて大きくなるよ。十年もたてば、万事が広告に屈服するようになるだろう」

 「新聞はもはや世論の啓蒙のためにではなく、世論にこびるためにつくられているんだ」

 そんな予見的指摘に加えて、19世紀社会の実相を表していると思えるさまざまなウンチクが散りばめらているのもこの小説の魅力だ。たとえば印刷、製紙、手形、訴訟、ファッションなどについて多くの言葉が費やされている。

◎没頭すれば堪能できる

 バルザックの『幻滅』は読者を19世紀フランスの濃密な世界に引きずり込む。この小説を堪能するには、この世界に没入した時間を過ごす必要がある。だからこま切れ読みは難しい。現実世界と小説世界を行き来するにはかなりのエネルギーが必要なので、それを繰り返すのは疲れる。こういう長編を楽しむには、ある程度のまとまった時間の確保が望ましい。

 今回、多少の「こま切れ読み」を余儀なくされ、そんなことを思った。

最初はキツくて最後が鮮やか --- バルザックの『谷間の百合』2017年10月26日

『谷間の百合』(バルザック/石井晴一訳/新潮文庫)
 タイトルのみは昔から知っているバルザックの『谷間の百合』(石井晴一訳/新潮文庫)を読んだ。

 バルザックは、数年前に読んだ『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』に続いて3つめだ。「人間喜劇」の世界にもう少し接してみたいと思ったのだ。

 読み始めてしばらくは苦痛だった。段落の少ない書簡体の小説で、一人称の過剰な表現の感情吐露と風景描写が延々と続く。この書簡がナタリーという伯爵夫人宛てなのは冒頭の記述でわかるが、筆者のフェリックスとこの夫人の関係が一向にわからない。

 途中で投げ出そうかなと思いつつ読み進め、全540ページの100ページを過ぎたあたりからやっと面白くなってきた。

 ほぼ全編が一つの書簡という体裁の恋愛小説で、そこにはかなり長い年月におよぶあれこれが書き込まれている。毎度のことながら、バルザックの世界とわれわれの世界の恋愛のモラルの違いにはあきれてしまう。過剰な感情にもついていけない。ほとばしる言葉のエネルギーにうんざりさせられもする。にもかかわらず、読者を引き込む魅力はある。

 また、当時の経済のディティールが書き込まれているのも興味深い。領地経営に苦闘する田舎貴族の姿や貴族とブルジョアとの交流に19世紀フランス社会の実相を垣間見た気がする。フランス人のイギリス観やカソリックのプロテスタント観も露呈されていて面白い。物語の背後の「社会」を感得できるのが「人間喜劇」の魅力のひとつだ。

 『谷間の百合』には自己批評的とも言える鮮やかで面白い結末が用意されていて、大いに感心した。いつの日か再読してもいいなと思った。