最近の小説も読んでみた2017年11月08日

『年刊日本SF傑作選:行き先は特異点』(大森望・日下三蔵編/創元SF文庫)、『あとは野となれ大和撫子』(宮内悠介/角川書店)
 このところ、バルザック、ゾラ、デュマなど19世紀フランスの小説を続けて読んだ。年を取り、未読の古典文学を読んでおかなければという駆け込み意識が出てきたせいかもしれない。

 古典を読むのはある種の自己満足であり、そんなものばかり読んでいると世捨て人になりかねないとも思う。まだ現世を超越する心境にはなれず、同時代の小説も読まねばとも思い、次の本を読んだ。

 『年刊日本SF傑作選:行き先は特異点』(大森望・日下三蔵編/創元SF文庫)

 2016年に発表された短編SFのイヤーズ・ベスト20編(内漫画3編)が収録されている。20人の作家の中で私が知っている(読んだことがある)のは5人(円城塔、眉村卓、北野勇作、谷甲州、上田早夕里)に過ぎない。このアンソロジーには作品ごとに簡単な作者紹介が掲載されていて年齢もわかる。日本SF第1世代の眉村卓以外はみんな私よりかなり若い作家だ。

 頭から順に全作品を読み、確かに新しい小説だと感じつつも、私の感覚が時代からズレつつあるとの認識を新たにした。私にとっては全般的には期待外れで、昔のSFの方が面白かったと感じてしまう。ここ何年かは、若い作家の話題作を読んでも共感できないことが多いのだ。

 とは言ってもいくつかの作品には感心した。『行き先は特異点』(藤井太洋)はグーグルやアマゾンなどの扱いに近未来を感じた。『太陽の側の島』(高山羽根子)は不気味な雰囲気が漂う不条理異世界小説だ。『悪夢はまだ終わらない』(山本弘)はうまいと思った。

 『スモーク・オン・ザ・ウォーター』(宮内悠介)はいかにもSFらしい楽しい小品で、作者紹介によればSF大賞や三島賞も受賞しているベテラン作家だ。たまたまカミサンがこの作家の次の長編を読んでいて、面白いというので読んでみた。

 『あとは野となれ大和撫子』(宮内悠介/角川書店)

 この小説は直近の直木賞候補作(受賞は逸した)だそうだ。読み始めると止まらなくなり、一気に読んでしまった。内容はぶっ飛んでいて展開が早い。ハリウッドのノンストップ・アクション映画のようだ。

 書きっぷりは軽いが舞台と題材は重い。中央アジアのアラルスタンという架空の国で日本人の両親をテロで失った女の子が大活躍する話である。周辺の国々の歴史や政治は現実の情況をふまえた設定になっていて、巻末には中央アジア関連の文献が列挙されている。

 〇〇スタンという国々の多い中央アジアは私の意識の中では地球上で最も遠い場所であり、それ故にロマンを感じる。『見知らぬ明日』(小松左京)、『天山を越えて』(胡桃沢耕史)などの小説がこのあたりを舞台にしていたが「とても遠い所」という強い印象だけが残っている。

 そんな地域の政治経済を題材にしているのだから、料理の仕方によっては重厚で緻密な大冒険小説にも成りえた小説だ。それを女子高生の学園祭のようなノリの小説に仕上げている所が何ともすごい。この軽さは何だろうと考えてしまう。

 面白いのは確かだが、これを新しいというべきかどうかは判断できない。

バルザックに引きずりこまれ『ウジェニー・グランデ』も読んだ2017年11月06日

『ウジェニー・グランデ』(水野亮訳/世界文学全集5/河出書房新社)
 バルザックの『幻滅』を2冊にまたがる「世界文学全集」(河出のグリーン版)で読了し、2冊目の後半に収録されていた『ウジェニー・グランデ』(水野亮訳)を未読のまま放置するのも気持ち悪いので、ついでにそれも読んでしまった。

 2段組みで約200ページだから長編小説と言うべきだろうが、短編小説のような読後感だ。バルザックの濃密な世界に引きずりこまれた状態の頭で読むからそんな気分になるのかもしれない。

 フランスの田舎町(ソーミュール)を舞台に、吝嗇で守銭奴の資産家(元は樽屋の親方)の父親とその娘(ウジェニー・グランデ)を中心にした19世紀前半の約10年間の物語である。比較的シンプルなストーリーで登場人物もさほ多くはなく、途中からおよその展開が見えてくる。それ故に読みやすいし面白い。

 『ウジェニー・グランデ』は恋愛小説の形式をとった経済小説でもある。大多数の登場人物たちが金銭欲にまい進する姿にはあきれてしまう。社会を動かすエネルギーをそこに見出したのはバルザックの慧眼なのだろう。身も蓋もない物語のエネルギーを感じる。

バルザックの『幻滅』で小説世界を堪能2017年11月03日

『幻滅 ⅠⅡ』(バルザック/生島遼一訳/世界文学全集4、5/河出書房新社)
◎小さい活字の試練

 ついにバルザックの『幻滅』を読んだ。実家を処分するときに引き取った半世紀前の「世界文学全集」(河出書房新のグリーン版)に収録されているこの小説が気にはなっていた。2冊本の長編なので手を出しかねていたが、『谷間の百合』を読了してさらにバルザックを読んでみたいと思ったのだ。

 『幻滅 Ⅰ』(バルザック/生島遼一訳/世界文学全集4/河出書房新社)
 『幻滅 Ⅱ』(バルザック/生島遼一訳/世界文学全集5/河出書房新社)

 古い文学全集なので2段組で字が小さい上に印刷がかすれ気味のページもある。老眼が進行しつつあるわが眼球が若い頃に読んだこの文学全集の活字にまだ耐えられるかどうか試してみようとも思った。そして無事読了できた。2冊本と思って読み始めたが、2冊目の後半には別の小説(『ウジェニー・グランデ』)が収録されていて、実際は1冊半だった。とは言っても濃密な大長編である。

 私はこの長編を堪能できた。今までに読んだバルザックの小説(『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』『谷間の百合』)の中では一番面白かった。

◎多くの人物、多様な呼称

 バルザックも4冊目なので、その「人間喜劇」の世界には少し慣れてきたが、登場人物の多さにはうんざりさせられる。

 このテの小説は登場人物が多いと覚悟はしていて、人物名とその属性をメモしながら読み進めた。そのメモ用紙がすぐにゴチャゴチャになるので、途中でパソコン入力してプリントしたものにさらに手書きで書き足すということを何回かくり返した。普通の小説は半分も進行すれば新たな人物はあまり登場しないが、この小説は後半になってもどんどん新たな人物が出てくる。

 登場人物が多いのも大変だが、一人の人物が場面によって異なる呼称で出てくるので混乱する。例えば主人公には「リュシアン・シャルドン」「リュシアン」「シャルドン」「リュシアン・ド・リュバンプレ」「リュバンプレ」などの呼称があり、場面によって使いわけられている。混乱せずに読み進めるには人物メモが必須だ。

 読了後、メモした人数を数えてみると92人だった。全登場人物をメモしたわけではない。バルザックの「人間喜劇」は複数の小説に同じ人物が登場する仕掛けになっていて、巻末の訳者解説によれば『幻滅』の再登場人物は116人だそうだ。驚くべき人数だ。私がメモした登場人物より多い。私自身が確認できた再登場人物は3人に過ぎない(以前に3作しか読んでいないから当然だが)。

◎登場人物に辛辣な作者

 この小説は野心を抱いた青年の挫折の物語である。『幻滅』というタイトルから推測できるように、ハッピーエンドの話ではなく、勧善懲悪の逆に近い物語である。と言っても、悲惨な目にあう主人公は決して善人ではない。いわゆるバルザック的人物である。

 バルザックは主人公に対しても辛辣だ。登場人物のその後の運命をあらかじめ予告するような表現も多い。物語の興をそぐことになりかねないそんな書き方を押し通していくところに、バルザックのブルドーザーのような迫力がある。この過剰なエネルギーにはかなわない。

◎ウンチクも面白い

 『幻滅』は19世紀フランスの出版業界や新聞業界の裏表を描いた小説であり、その部分だけでも十分に面白い。次のような表現は、メディアの普遍的な課題を指摘している。

 「ジャーナリズムはまだ子供さ。やがて大きくなるよ。十年もたてば、万事が広告に屈服するようになるだろう」

 「新聞はもはや世論の啓蒙のためにではなく、世論にこびるためにつくられているんだ」

 そんな予見的指摘に加えて、19世紀社会の実相を表していると思えるさまざまなウンチクが散りばめらているのもこの小説の魅力だ。たとえば印刷、製紙、手形、訴訟、ファッションなどについて多くの言葉が費やされている。

◎没頭すれば堪能できる

 バルザックの『幻滅』は読者を19世紀フランスの濃密な世界に引きずり込む。この小説を堪能するには、この世界に没入した時間を過ごす必要がある。だからこま切れ読みは難しい。現実世界と小説世界を行き来するにはかなりのエネルギーが必要なので、それを繰り返すのは疲れる。こういう長編を楽しむには、ある程度のまとまった時間の確保が望ましい。

 今回、多少の「こま切れ読み」を余儀なくされ、そんなことを思った。

最初はキツくて最後が鮮やか --- バルザックの『谷間の百合』2017年10月26日

『谷間の百合』(バルザック/石井晴一訳/新潮文庫)
 タイトルのみは昔から知っているバルザックの『谷間の百合』(石井晴一訳/新潮文庫)を読んだ。

 バルザックは、数年前に読んだ『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』に続いて3つめだ。「人間喜劇」の世界にもう少し接してみたいと思ったのだ。

 読み始めてしばらくは苦痛だった。段落の少ない書簡体の小説で、一人称の過剰な表現の感情吐露と風景描写が延々と続く。この書簡がナタリーという伯爵夫人宛てなのは冒頭の記述でわかるが、筆者のフェリックスとこの夫人の関係が一向にわからない。

 途中で投げ出そうかなと思いつつ読み進め、全540ページの100ページを過ぎたあたりからやっと面白くなってきた。

 ほぼ全編が一つの書簡という体裁の恋愛小説で、そこにはかなり長い年月におよぶあれこれが書き込まれている。毎度のことながら、バルザックの世界とわれわれの世界の恋愛のモラルの違いにはあきれてしまう。過剰な感情にもついていけない。ほとばしる言葉のエネルギーにうんざりさせられもする。にもかかわらず、読者を引き込む魅力はある。

 また、当時の経済のディティールが書き込まれているのも興味深い。領地経営に苦闘する田舎貴族の姿や貴族とブルジョアとの交流に19世紀フランス社会の実相を垣間見た気がする。フランス人のイギリス観やカソリックのプロテスタント観も露呈されていて面白い。物語の背後の「社会」を感得できるのが「人間喜劇」の魅力のひとつだ。

 『谷間の百合』には自己批評的とも言える鮮やかで面白い結末が用意されていて、大いに感心した。いつの日か再読してもいいなと思った。

『筒井康隆入門』(佐々木敦)を読んで走馬燈がよぎる2017年10月22日

『筒井康隆入門』(佐々木敦/星海社新書)
 『筒井康隆入門』(佐々木敦/星海社新書)を半日で一気読みし、頭がクラクラしてきた。わが人生の最近50年(高校生時代から68歳まで)を半日の時間旅行で駆け抜けた気分になり、走馬燈がチラチラしている。

 著者は「はじめに」で次のように書いている。

 「本書は、筒井康隆の作品を、デビュー作から最新作に至るまで、小説を中心として、ほぼ発表順に読んでいくことで、この稀代の大作家の肖像を、出来るだけ総体的に描き出すことを目的としています」

 著者の佐々木敦氏は3年前に『あなたは今この文章を読んでいる:パラフィクションの誕生』を上梓した批評家で、私はこの本にかなりの刺激を受けた。筒井康隆氏が同書に共鳴して「メタパラの七・五人」という短編を書いたことも承知している。

 『筒井康隆入門』のオビには筒井康隆氏自身の推薦文もあり、筒井康隆ファンとしては読まないわけにはいかない。佐々木敦氏はこの新書を執筆するにあたって筒井康隆氏の全作品を読み返したそうだ。何とも羨ましい難行苦行だ。

 私は高校1年だった1964年以来の筒井康隆ファンであり、最初の短編集『東海道戦争』刊行(1965年10月)の前から、雑誌(『SFマガジン』『別冊宝石』)に載った筒井作品に惹かれていた。それから半世紀余り、ほぼすべての筒井作品を読んでいると思う。だから、本書を読んでいると、個々の筒井作品を読んだ時点のあれこれがよみがえってきてしまうのだ。

 佐々木敦氏は、私が初めて筒井作品に接した1964年生まれで、私より16歳若い。つまらない自慢ではあるが、読み始めたのは著者より早い。本書の「はじめに」でチラリと触れているように、デビュー時からのファンは当然ながらいまや「高齢者」なのである。そんな高齢者の目で見て、本書に些細な間違いも発見した。それは文末の蛇足に書く。

 閑話休題。一冊の新書本で筒井康隆氏が半世紀にわたって持続的に生み出してきた膨大な作品群を概観すると、あらためてこの作家の凄さがわかる。20代の初期作品から80代の最新作品に至るまで、その面白さは変わらないのに作風は千変万化、自己模倣に陥ることなく読者を驚かし続けている。

 本書を読むと、これまでに漠然としか把握できていなかった筒井ワールドの全貌が整理された形で見えてくる。その世界に「愛妻もの」というジャンルがあることも本書ではじめて認識し、言われてみればその通りだと得心した。

 本書の圧巻は2008年以降を対象にした最終章「GODの時代」である。次の指摘が面白い。

 「彼は自分が「後期高齢者」であるという紛れもない事実を受け入れる/演じてみせることで、ある意味ではそれを利用して、今なお、これまでやったことのない小説のあり方を模索しているのだと筆者には思えるのです。ここには、決して挑戦することをやめない全身実験小説家、生涯前衛作家の姿があります。」

 そして著者が提唱するパラフィクション論をふまえて「メタパラの七・五人」や『モナドの領域』を解説する部分は迫力があって引き込まれる。筒井康隆氏自身が「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長篇」とオビに記した『モナドの領域』の読み解きには感心した。

 私自身、膨大な筒井作品の中のどれが最高傑作か、にわかに判断することはできない。記憶鮮明な作品も多いが、よく憶えていない作品もある。『筒井康隆入門』を読みながら遠い記憶がよみがえることもあった。いつか、筒井作品をすべて読み返してみたいとも思った。老後の楽しみである……すでに老後ではあるのだが。

【蛇足】

・P40の『幻想の未来・アフリカの血』の収録作品は間違い。1968年8月発行の南北社版の『幻想の未来・アフリカの血』と1971年8月発行の角川文庫『幻想の未来』を混同しているようだ。

・P41の覆面座談会の件りで、槍玉に挙げられた作家に星新一も入っているが、この座談会で星新一は非難されていない(ほめられている)。

・P45に「晋金太郎」を単行本収録作品でないとしているが、1969年4月発行の『筒井順慶』(講談社)に収録されている。

・P165でBBSの内容を『電脳筒井線』という題名で1冊の本にまとめたとしているが『電脳筒井線』は全3冊。

 重箱のスミをつつく小言幸兵衛だと思う。

デュマの『三銃士』の完訳版は面白かったが…2017年10月21日

『三銃士(上)(下)』(デュマ/生島遼一訳/岩波文庫)
 デュマの『三銃士(上)(下)』(生島遼一訳/岩波文庫)を読んだ。完訳版である。

 先月、『レ・ミゼラブル』の完訳版を読んだのを機に小学生時代に読んだ『ああ無情』を読み返し、ついでに同じ『少年少女世界文学全集26』に収録されていた『三銃士』を読み返した。その『三銃士』が駆け足のあらすじ紹介のような内容で楽しめなかったので、やはり完訳版を読まねばという気分になったのだ。

 さすがデュマはストーリーテラーである。背景が把握できず辻褄が納得できない物語であっても、いろいろ書き込んであるので面白く読ませてしまう。雑で乱暴なところもあるが十分に楽しめた。

 読了後、この話のあらすじを1ページ程度にまとめることを想像してみた。わけのわからない話になりそうな気がする。ディティールの情景を捨象してしまうと面白さが消えてしまうのだ。あらすじを読むだけではヘンテコな話だとの印象しか残らない歌舞伎に似ている。そんな歌舞伎も舞台を観ると十分に楽しめるのだ。

 『三銃士』は19世紀の新聞連載小説で舞台は17世紀初頭、当時の時代小説である。主人公のダルタニャンは宮本武蔵とほぼ同じ時代の人だ。19世紀のフランスの人々は、大正・昭和の日本人が吉川英治の『鳴門秘帖』や『宮本武蔵』(二つとも私は未読)の新聞連載を読むのと似た気分で『三銃士』を読んだのかもしれない。

 デュマの19世紀の読者に向けた次のような述懐が面白い。

 「(…)こんなことをするのは悪趣味である。今日の我々の道義心から見れば。唾棄すべき行為でもあろう。だが、その当時は今日ほど、行いを慎まなかったのだ。」

 「ある時代の人間の行動を別の時代の尺度ではかるのは少々無理であろう。今日でなら体面を重んじる人に恥辱と考えられることでも、その当時には何でもない普通のことであったので、(…)」

 現代の私から見れば19世紀の人々の考えや行動にも理解しがたいところがある。そんな19世紀のフランス人でも違和感をいだく部分が『三銃士』にはあるのだ。だから、フランスの歴史にも詳しくない私が納得できない部分があって当然だろう。

 『三銃士』はフィクションだが主人公にはモデルがあり、ルイ13世、リシュリユー枢機官(宰相)、アンヌ王妃など実在の人物も登場する。この実在の3人(国王、宰相、王妃)の関係がわかりにくい。対立しながら協調もしていて、歴史を知らない身には把握しにくい。だが、そこに歴史背景のリアルがあるのだと思う。その認識は『三銃士』を読んだ収穫のひとつだった。

 なお、私は『三銃士』の「全訳版」を読んだつもりだったが、そうではなかった。デュマはこの物語の続編を書いていて、『三銃士』は全3部からなる長大な『ダルタニャン物語』の第1部にすぎないそうだ。第1部の「完訳版」を読了したいま、続編を読む気力はない。デュマを読むなら『モンテクリスト伯』を再読したい。

ゾラの『制作』(岩波文庫)の表紙絵に違和感があったが…2017年10月15日

『制作(上)(下)』(エミール・ゾラ/清水正和訳/岩波文庫)
 ゾラの『制作(上)(下)』(清水正和訳/岩波文庫)を読んだ。ゾラの長編は5年前に代表作『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』を読み、それで十分と思っていたが新たな長編に手を出したのは、先月、映画『セザンヌと過ごした時間』を観たからだ。ゾラとセザンヌの友情を描いたこの映画の感想は以前のブログに書いた。

 映画『セザンヌと過ごした時間』によって、ゾラが少年時代からの親友だったセザンヌとの交友を題材にした小説を書き、それがきっかけでセザンヌと疎遠になったという話を知った。その小説が『制作』だ。

 『制作』の主人公は必ずしもセザンヌだけをモデルにしているのではなくマネなど同時代の画家も反映されているという事前知識があった。だから、入手した岩波文庫版のカバーを見て多少の違和感を抱いた。『制作』は上下2冊に分かれていて、上巻の表紙はセザンヌの絵、下巻の表紙はモローの絵だ。上巻の表紙は妥当だが、下巻のモローがよくわからない。ここはマネの絵だろうと思った。

 マネの『青年ゾラの肖像』は上巻の口絵に載っているのでマネが無視されているわけではない。読む進めていくと、この翻訳版には随所に挿絵のような形で物語の情景に対応したマネ、セザンヌ、モネなどの風景画の写真が掲載されていてなかなか楽しい。物語のシーンを描いた版画も挿入されていて、これは原書の挿絵をそのまま掲載したと推測される。

 さて、問題のモローの絵である。私の違和感は小説読了後に訳者の「解説」を読んで解消された。清水正和氏の「解説」は読み応えのある力作だ。ゾラの生涯と作品の時代背景を要領よく解説すると同時に立派な「小説『制作』論」になっている。

 清水正和氏によれば、主人公のクロードにセザンヌやマネが反映されているのは小説の前半までで、後半のクロードは「全くゾラの自由な創造人物と化している」そうだ。後半の主人公については次のように述べている。

 「七〇年代の印象派全盛期すらも素通りして、むしろ八〇年代の美術界における象徴的神秘的傾向の台頭を反映しており、クロードがあのギュスターヴ・モローのような一種の幻想的寓意画家に変貌している」。

 ユニークな指摘だ。時代に反逆した若者たちが十数年の時間を経て挫折していくという普遍的な青春の物語を超える視点でもある。苦い結末で終わる青春小説という単純な読み方しかできなかった私には刺激的で勉強になった。この解説を読んで下巻の表紙にモローの絵を採用した理由がわかり、あらためて大胆な起用だと感心した。

小学生時代に読んだ『少年少女世界文学全集』を読み返す2017年09月21日

『少年少女世界文学全集26 フランス編(2) ああ無情、三銃士、マテオ・ファルコーネ』(講談社/1958.9)
◎59年前の講談社版『少年少女世界文学全集』

 『レ・ミゼラブル』の完訳本を読了すると、子供の頃に読んだ『ああ無情』を読み返したくなった。子供時代の本を還暦過ぎまで保管している人は珍しい。私もそんな本は散失しているが、例外的に講談社版『少年少女世界文学全集』(全50巻)だけは八ヶ岳の山小屋の物置に保管している。そんな場所に置いているのは、わが家の書架に余裕がないからだ。先日、山小屋に行った際に次の1巻を持ち帰った。

 『少年少女世界文学全集26 フランス編(2) ああ無情、三銃士、マテオ・ファルコーネ』(講談社/1958.9)

 『ああ無情』収録の巻は全50巻の26巻目となっているが、この全集の第1回配本である。私には印象深い1冊だ。奥付によれば発行は59年前の1958年9月。私がこの本を手にしたのは小学4年の時のようだ。箱入りハードカバーの立派な造本の手触りの記憶は今も残っている。収録されている全作品を読んだはずだ。

 この『少年少女世界文学全集』は1958年9月から毎月1冊ずつ書店から届けられた。私は小学4年から中学2年までの5年間、毎月この全集の新刊に接していた。全巻を読破したわけではないし、最終巻配本の頃には子供っぽい本だと感じるようになっていたようにも思うが、わが少年時代の読書のメインだったのは間違いない。この全集を私と弟に与えてくれた亡き両親に感謝する。

 わが団塊世代のかなりの人数がこの全集を愛読したと推測される。ある同世代の著名人がこの全集に言及した新聞記事を読んだことがある。34年前に結婚するとき、わが実家に『少年少女世界文学全集』が保管されていることを知った同世代の家内が、ぜひそれを1DKの新居に搬入したいと所望した。子供時代に読んだ懐かしい全集を身近に置きたいと考えたようだ。そんな経緯から『少年少女世界文学全集』全50巻はたびたびの引っ越しを耐えて、いまは山小屋の物置に収まっている。

◎短編の方が記憶に残っている

 閑話休題。『ああ無情』を読み返したついでに『少年少女世界文学全集26』収録の全作品を59年ぶりに読み返した。

 「フランス編(2)」の表題があるこの巻には次の作品が収録されている。

 長編
  『ああ無情』(ユーゴー)
  『三銃士』(デュマ)
 短編
  『マテオ・ファルコーネ』(メリメ)
  『ジュールおじさん』(モーパッサン)
  『小さい町で』(シャルル・ルイ・フィリップ)
  『朝のおはなし』(シャルル・ルイ・フィリップ)

 再読するまでもなく59年前の読書記憶が鮮明に残っているのは、長編ではなく短編である。特に『マテオ・ファルコーネ』の印象は強烈で、小学4年の時に受けた衝撃は半世紀以上を経ても薄れていない。『ジュールおじさん』『小さい町で』も話の内容はよく覚えている。『朝のおはなし』は再読しながら記憶がよみがえってきた。

 その後、数知れね小説を読んだとは思うがその大半の記憶がおぼろになっている。なのに、小学4年の時に読んだ短編の記憶は鮮明なのだ。記憶の機構の不思議を感じるとともに、営々と積み重ねてきた年月はいったい何だったのかという虚しさも感じてしまう。

◎『ああ無情』の冒頭は面白いのだが…

 短編の記憶が鮮明なのに対して長編の『ああ無情』と『三銃士』の記憶は不鮮明だ。『ああ無情』に関してはジャン・バルッジャンが司教の館から銀の食器を盗み出して赦される冒頭部分の記憶が残っているだけで、その後の展開はよく覚えていなかった。『三銃士』に至っては、主人公たちの名前以外は何も覚えていない。

 『ああ無情』は那須辰造訳、さしえは向井潤吉だ。私の概算計算では、この『ああ無情』は『レ・ミゼラブル』を10分の1以下の約9%に圧縮している。完訳版を読了した視点から、どんな形に圧縮したのか興味があった。

 ユゴーの「演説」部分を割愛しているのは当然として、冒頭部分のジャン・バルジャンがディーニュの町を去るまでの物語が意外と元版に忠実なのに驚いた。この調子で10分の1以下に圧縮できるのだろうかと懸念していると、後半は駆け足のあらすじ紹介のような形になってきた。

 子供向きに改変されている箇所があるのは仕方ないとしても、コゼットとマリユスの恋愛に関してはかなり省略され、この二人に対するジャンバルジャンの心理的葛藤は割愛されている。ジャベールの人物像も単純化されている。バリケードや地下水道の脱出シーンなどもあるが、「物語」ではなく「あらすじ紹介」だ。だから、読者にとって後半は意味をつかみにくい展開になり、あまり興が乗らない。

◎『三銃士』も駆け足のあらすじ紹介

 デュマの『三銃士』は、いまだに完訳版を読んでいない。だから、どんな物語だったかを確認する興味もあって59年ぶりに読み返した。これも駆け足のあらすじ紹介のような内容で、何を書いてあるかはわかっても、物語の楽しさに浸る気分にはなれなかった。表面的な面白さが多少はあるとしても、わけがわからない話になっているのだ。

◎抄訳は難しい

 ほぼ完訳に近いと思われる短編が記憶に残っているのに、抄訳の長編が記憶に残っていないのは、それがあらすじ紹介になっていて、物語世界に引き込まれにくかったからだと思われる。あらためて、抄訳の難しさを認識した。

『レ・ミゼラブル』を読んだ2017年09月17日

『「レ・ミゼラブル」の世界』(西永良成/岩波新書)、『レ・ミゼラブル (1)(2)(3)(4)(5)』(西永良成/ちくま文庫)、『「レ・ミゼラブル」百六景』(鹿島茂/文春文庫)
◎あの長い小説を読んだわけ

 小学生の頃、『がんくつ王』を読み、その元が『モンテクリスト伯』という長大な物語だと知り、いつかはそれを読んでみたいと思った。同じ頃、『ああ無情』を読み、その元が『レ・ミゼラブル』という長大な物語だと知ったが、それを読みたいとは思わなかった。『がんくつ王』も『ああ無情』も面白かったが、前者が文句なしに面白いのに対し、後者には美談仕立ての説教くささを感じたからだと思う。

 『モンテクリスト伯』の完訳版は、還暦を迎えた8年前に読んだ。そして先日、『レ・ミゼラブル』を次の完訳版で読んだ。

  『レ・ミゼラブル (1)(2)(3)(4)(5)』(西永良成/ちくま文庫)

 さほど意欲が湧かなかった『レ・ミゼラブル』を読む気になったのにはいくつかの動機がある。一つはピケティなどの「21世紀は19世紀の再現になるかもしれない」という言説に接し、19世紀の小説を読んで19世紀の様相を断片的にでも把握したいと考えたからだ。その関心から次の新書を手にした。

 『「レ・ミゼラブル」の世界』(西永良成/岩波新書)

 これを読んだのが完訳版を読む直接のきっかけになった。新聞記事で「『レ・ミゼラブル』は途中で投げ出す人が多く、通読した人が少ない」という一節を目にしたのも挑戦意欲をそそった。

◎デザート本で余韻を楽しむ

 『「レ・ミゼラブル」の世界』による事前知識で、「哲学的部分」(作者の脱線気味の演説)が多い小説だと覚悟していたおかげで、さほど面食らうこともなく読了できた。大長編にもかかわらずあまり長さを感じなかった。読了後、食後のデザート気分で次の本も読んだ。

 『「レ・ミゼラブル」百六景』(鹿島茂/文春文庫)

 この本は原版の挿絵紹介の本で、230葉の挿絵が掲載されている。全ページの半分が挿絵で残りの半分はその挿絵の解説を交えた『レ・ミゼラブル』の要約の文章である。大長編読了後に物語を反芻して余韻を楽しむにはうってつけの本で、堪能できた。

◎覚悟を決めれば読みやすい 

 読んでいる途中では、あざといストーリー展開のメロドラマと感じることも多かったが、読み終えたときには、19世紀の文豪の圧倒的な力業に屈したような爽快感を覚えた。やはり、面白いのだ。『レ・ミゼラブル』は、ユゴーの蘊蓄長口舌につきあう覚悟と度量さえあれば、ディティールを楽しめる古典の味わいがあるエンタメ長編である。

 この小説には、本編の展開とはあまり関連のない演説が延々と続く場面が随所にある。ハラハラドキドキの物語を小出しにしながら作者のおしゃべりを繰り返すのは、「私の演説を聞かなければ、このお話しの続きは教えないよ」という老獪な戦術にも見えるが、そこに可愛げもある。

 作者の長口舌に読者がうんざりしているだろうと作者自身が自覚しているふしもあり、それでもおしゃべりを続けるのだから、そのエネルギーと執念に読者は屈服するしかない。ゆったりした気分で聞くなら、その長口舌にも味わいがありそうだ。

 ということは、『レ・ミゼラブル』を十分に堪能するには2度読むのがいいのである。どんな小説でも再読した方が堪能できるのは当然だが、『レ・ミゼラブル』の場合は1度目は物語の展開を楽しみ、2度目はユゴーの演説をじっくり拝聴するという読み方になるだろう。と言っても、私は当面、再読する元気はない。

◎パリの貫禄

 『レ・ミゼラブル』は1862年に60歳のユゴーが発表した小説で、その内容は主に1815年から1833年までの物語である。発表時の近過去を舞台にしたフィクションにはユゴーが生きた同時代のさまざまな事象が反映されている。

 この小説は、次の二つと重ねて読むと一層興味深く読み進めることができる。
  
  (1)18世紀から19世紀のフランスの歴史
  (2)その時代を生きたユゴーの生涯

 私自身はこの2点に不案内だったが、事前に新書の『「レ・ミゼラブル」の世界』を読んでいたので、ある程度は興味深い重ね読みができた。

 今回の読書で、パリという町が「恋と革命」という盤石で永遠の青春テーマの背景にふさわしい町だと、あらためて気づいた。1789年の大革命から1960年代の5月革命まで、パリには繰り返しバリケードが築かれ市街戦が展開された。歴史が作られる町なのだ。私は行ったことはないが…。

 『レ・ミゼラブル』はバリケード蜂起小説でもあり、この小説によって年季の入ったパリの貫禄を感じさせられた。

十数年前に買った『青春の終焉』をついに読了2017年08月08日

『青春の終焉』(三浦雅士/講談社)、朝日新聞夕刊(2017年7月26日)
◎新聞記事がきっかけで…

 十数年前に購入して書架の片隅で眠っていた『青春の終焉』(三浦雅士/講談社)を読んだ。

 きっかけは先月(2017年7月26日)の朝日新聞夕刊に載っていた「時代のしるし」という記事だ。三浦雅士氏が2001年刊行の『青春の終焉』について語ったインタビュー記事で、『「若さ」を軸に解いた社会と文学』という見出しがついている。

 この記事を読み、未読で気がかりのまま十数年が経過していたた本書に取り組む気になった。読み始めてみると、想定したほどに固い内容ではなく、比較的短時間で面白く読了できた。

◎サブタイトルは「1960年代試論」

 本書には「1960年代試論」というサブタイトルが付されている。しかし、表紙や扉にサブタイトルの表記はなく、目次の前のページに表記されているだけだ。冒頭の「はしがき --- 1960年代か?」で、サブタイトルへの言及がある。要は、本書の背景には「1960年代試論」という必然的目論見があるが、本書全体は1960年代論ではない、そういうことのようだ。

 1948年生まれの私にとって、学生として生きた1960年代の記憶は鮮明で、思い入れのある時代だ。著者の三浦雅士氏は私より2歳上の1946年生まれ、若くして異能の編集者と呼ばれ、30代に『私という現象』でデビューした評論家である。30年以上前に『私という現象』を読んで感心した記憶があり、ほぼ同世代の三浦雅士氏が1960年代を語るなら面白くなりそうだと期待して読み始めた。

◎「当たり前」を否定する奇説

 どんな人にも青春はあり、齢を重ねれば終わる --- それはいつの時代にも繰り返されてきた当たり前のことに思える。その「当たり前」を否定し、「青春」とは18世紀に発生し1960年代に終焉した特殊な現象だとするのが本書の主張である。驚くべき奇説だ。読む前からそんな主旨の本だとは了解してたが、どんな論理展開で読者を説得するのか興味があった。

 本書は全15章に「はしがき」と「あとがき」がついて484ページの長編評論である。やや厚い本ではあるが、冒頭の「はしがき」と最初の章「青春の終焉」を読めば主張のあらましは把握できる。後の章は材料を変えた変奏曲で、繰り返し感がある。しかし、退屈はしない。多様な作家や思想家の作品を援用しながら手を変え品を変えの知的力業には感心する。名人芸を観ているようだ。

 「青春という現象」とはブルジョア階級の勃興によって18世紀ヨーロッパに発生した。それは「青春という病」とも言えるもので、伝染病のようにロシア、日本、中国に伝播し、19世紀から20世紀の思想・文学を席巻し、1960年代に終焉した.。そんな主張を裏付けるために動員された小説・評論家の数はおびただしい。

 本書に登場する主な作家・評論家・思想家の一部を羅列すると、小林秀雄、三島由紀夫、中村光夫、大岡昇平、江藤淳、平野謙、夏目漱石、柳田国男、本多秋五、ドストエフスキイ、バフチン、太宰治、吉本隆明、花田清輝、山崎正和、小田切秀雄、色川大吉、吉田健一、丸谷才一、石川淳、坪内逍遥、滝沢馬琴、大田南畝、吉川英治、唐木順三、和辻哲郎、ニーチェ、ヘーゲル、マルクス、サルトル、フーコー、レヴィストロース、川端康成、石原慎太郎、村上龍、村上春樹、ルカーチ、ベルジャーエフ、大江健三郎、廣松渉、谷川俊太郎、ベンヤミン、手塚治虫などなどで、言及されている固有名詞はこれに倍する。

 もちろん私は本書で言及されている作品の大半を読んでいないし、人生の残りも少ないのでそれらに手を伸ばすことはないだろう。

◎文学史+思想史+出版業史

 『青春の終焉』におびただしい固有名詞が登場するのは、著者が編集者的手腕で18世紀以降の文学史・思想史の一種の整理・総括を試みているからである。それが文学史・思想史にとどまらず出版業史にもなっているところが興味深い。『朝日ジャーナル』の変遷、講談社と岩波書店の役割分担、かつて流行した文学全集各巻への作家の割り当ての変遷、文学全集の編集に誰が関わっていたかなど、面白い視点だ。

◎馬琴に一章

 また、本書で少々異様に感じたのは滝沢馬琴が大きく取り上げられていることだ。分量としてはドストエフスキイと同格だ。

 作者は「馬琴の影」という一章を費やして『南総里見八犬伝』が青春の書である論証を試みている。そして、江戸と明治の文学に断絶を観るのではなく連続を観るべきだと主張している。私は、政治や文化に関しては同様のことを感じていながら、近代文学は明治に始まったと思い込んでいたので、蒙を啓かれた気がした。

◎私の青春が終わっているのは確かだが…

 本書を読了して、18世紀に発生した「青春」が1960年代の終わったという著者の主張を十分に理解・納得できたわけではなく、強引な展開に思えるところもあった。

 しかし、現代の状況をあらためて把握できた気分にもなった。1948年生まれの私は、私たちが若い頃(1960年代だ!)に熱中したアレヤコレヤ(本、etc)に21世紀の若い人たちが無関心なことに軽い苛立ちを覚えていた。それは、古代から現代に至るいつの時代にも繰り返されてきた「いまの若者は…」という嘆き、ありふれた世代間確執に思えていた。だが、本書の主張が正しければ、そんなに普遍的なものではなく、1960年代に青春とその終焉を体験した私たち世代だけが感じる大きな段差ということになる。本当だろうか。自分だけが特殊だと思い込むのはまさに「青春という病」の症例だと思われるが…。