67年前の清水正二郎作品を読んだ ― 2025年06月09日
胡桃沢耕史の『天山を越えて』を再読したのを機に、数年前にネット古書店で入手した清水正二郎の次の小説を読んだ。
『肉の砂漠』(清水正二郎/日本週報社/1958.4.25発行、1958.6.1 7版)
半世紀以上昔の私が高校生の頃、古本屋の棚の片隅には清水正二郎のエッチな本が並んでいた。高校生には手を伸ばし難いタイトルの本ばかりだが、男子生徒の間で回し読みしたこともある。その後、清水正二郎は胡桃沢耕史に改名して直木賞作家になる。
67年前の古書を購入したのは、胡桃沢耕史名義でもおかしくない小説との評判を聞いたからである。入手してぱらぱらめくり、そのまま未読棚に積んでいた。
清水正二郎名義の本を繙くと何となくドキドキするが、本書はポルノではない。巻頭に「清水君について」と題する海音寺潮五郎の序跋がある。そこに描かれた著者の姿に驚いた。肉ばかりを食べて野菜を食べない人だそうだ。肉がなければラードを実にうまそうに食べるので「ラードさん」と呼ばれると紹介している。
本書はそんな「肉食獣」作家の体験をもとにした記録風の小説である。著者を思わせる「私」の手記の体裁になっている。冒頭の章題は「肉しか食べぬ子」だ。主人公は野菜類を口に入れると痙攣して吐き出すという体質で、肉しか食べない。5歳にして日本の食事を呪い、日本では生きていけないと悟り、蒙古に行って蒙古人になりたいと思う。蒙古人は肉しか食べないと知ったからである。
海音寺潮五郎の序跋があるので、この設定は実話だろうと思った。主人公は蒙古語を独習し、中央アジアの情報を収集し、大学の予科に進んだ17歳のとき、日本を脱出して蒙古に向かう。まず満州に渡り、中国へ密入国し、ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠を彷徨い、チベットに近い青海湖までにも足を伸ばす。タシケントで終戦を迎えたとき20歳になっていた。約3年間の放浪生活では蒙古人やキリギス人としてふるまっていたが、最終的に日本人とバレて捕虜収容所送りになる。
本書のエピグラフは「蒙古放浪歌」の一節「星の示せるむきだに行かば やがて越えなん蒙古の砂漠」である。だが、主人公に「胸に秘めたる大願」はなく、肉を食べて暮らしたいとの思いがあるだけだ。そこが面白い。砂漠のオアシス都市を巡りながら、居心地のいい都市では「このままここで暮らそう」と思ったりもする。だが、さまざまな事情で彷徨い続けることになる。
放浪生活を記録した体験談に見えるが、かなりフィクションが入っていると思う。取材に基づいているとしても大半がフィクションだろう。
タイトルにある「肉」は一義的には食べる肉であり、肉欲の意も秘めている。主人公は自身の性豪ぶりをやや遠慮気味に開陳し、日本と肉食中心のモンゴルでは基準が違うと語っている。次のような記述もある。
「ここの人々が、もし誰かからカサノヴァの物語を聞かされても、あまりに当たり前すぎて、どこが面白いのか、理解に苦しむに違いない。」
驚いたことに、この小説には二十数年後に発表する『天山を越えて』のモチーフがすでに盛り込まれている。盛世才、楊増進、金樹仁、馬仲英などの実在の人物への言及があり、設定は異なるが由利という同じ名の日本人女性も登場する。
砂漠の光景は、異民族に嫁いだ劉細君(烏孫公主)や王昭君の物語にマッチする。著者は、そんな遠い昔の物語を現代に甦らせたいと思い、構想を温めていたのかもしれない。
この小説は東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の独立というテーマも秘めていて興味深い。
『肉の砂漠』(清水正二郎/日本週報社/1958.4.25発行、1958.6.1 7版)
半世紀以上昔の私が高校生の頃、古本屋の棚の片隅には清水正二郎のエッチな本が並んでいた。高校生には手を伸ばし難いタイトルの本ばかりだが、男子生徒の間で回し読みしたこともある。その後、清水正二郎は胡桃沢耕史に改名して直木賞作家になる。
67年前の古書を購入したのは、胡桃沢耕史名義でもおかしくない小説との評判を聞いたからである。入手してぱらぱらめくり、そのまま未読棚に積んでいた。
清水正二郎名義の本を繙くと何となくドキドキするが、本書はポルノではない。巻頭に「清水君について」と題する海音寺潮五郎の序跋がある。そこに描かれた著者の姿に驚いた。肉ばかりを食べて野菜を食べない人だそうだ。肉がなければラードを実にうまそうに食べるので「ラードさん」と呼ばれると紹介している。
本書はそんな「肉食獣」作家の体験をもとにした記録風の小説である。著者を思わせる「私」の手記の体裁になっている。冒頭の章題は「肉しか食べぬ子」だ。主人公は野菜類を口に入れると痙攣して吐き出すという体質で、肉しか食べない。5歳にして日本の食事を呪い、日本では生きていけないと悟り、蒙古に行って蒙古人になりたいと思う。蒙古人は肉しか食べないと知ったからである。
海音寺潮五郎の序跋があるので、この設定は実話だろうと思った。主人公は蒙古語を独習し、中央アジアの情報を収集し、大学の予科に進んだ17歳のとき、日本を脱出して蒙古に向かう。まず満州に渡り、中国へ密入国し、ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠を彷徨い、チベットに近い青海湖までにも足を伸ばす。タシケントで終戦を迎えたとき20歳になっていた。約3年間の放浪生活では蒙古人やキリギス人としてふるまっていたが、最終的に日本人とバレて捕虜収容所送りになる。
本書のエピグラフは「蒙古放浪歌」の一節「星の示せるむきだに行かば やがて越えなん蒙古の砂漠」である。だが、主人公に「胸に秘めたる大願」はなく、肉を食べて暮らしたいとの思いがあるだけだ。そこが面白い。砂漠のオアシス都市を巡りながら、居心地のいい都市では「このままここで暮らそう」と思ったりもする。だが、さまざまな事情で彷徨い続けることになる。
放浪生活を記録した体験談に見えるが、かなりフィクションが入っていると思う。取材に基づいているとしても大半がフィクションだろう。
タイトルにある「肉」は一義的には食べる肉であり、肉欲の意も秘めている。主人公は自身の性豪ぶりをやや遠慮気味に開陳し、日本と肉食中心のモンゴルでは基準が違うと語っている。次のような記述もある。
「ここの人々が、もし誰かからカサノヴァの物語を聞かされても、あまりに当たり前すぎて、どこが面白いのか、理解に苦しむに違いない。」
驚いたことに、この小説には二十数年後に発表する『天山を越えて』のモチーフがすでに盛り込まれている。盛世才、楊増進、金樹仁、馬仲英などの実在の人物への言及があり、設定は異なるが由利という同じ名の日本人女性も登場する。
砂漠の光景は、異民族に嫁いだ劉細君(烏孫公主)や王昭君の物語にマッチする。著者は、そんな遠い昔の物語を現代に甦らせたいと思い、構想を温めていたのかもしれない。
この小説は東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の独立というテーマも秘めていて興味深い。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://dark.asablo.jp/blog/2025/06/09/9781238/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。