『歴史学ってなんだ?』は拾いモノの新書2018年04月14日

『歴史学ってなんだ?』(小田中直樹/PHP新書)
◎私の素朴な疑問に応えてくれた本

 歴史関係の本を読みながら漠然と抱いていた疑問は、歴史書と歴史小説の境目はどこらにあるかということだ。そんな素朴な課題をわかりやすく解説している本に出会った。

 『歴史学ってなんだ?』(小田中直樹/PHP新書)

 コンパクトで読みやすく勉強になった。大学で社会経済史を教える著者が、歴史学の「れ」の字も知らない読者を想定して書いた歴史学の入門書である。

◎ある教授の苛立ち

 年を取ると歴史への興味が増大する。若い頃は同時代や近未来のアレコレへの関心が高く、煩雑膨大な年表の固まりのような歴史は敬遠気味だった。齢を重ねると、人々の現在の営みや行く末を考えるには人類が経験してきた過去の事跡を振り返ねばと思い至り、歴史関連の書籍に手が伸びる。

 学者の書いたものもいいが、司馬遼太郎や塩野七生の歴史小説が読みやすくて面白い。これらの歴史小説は、完全なフィクションというより、歴史の見方のひとつを提示した歴史エッセイとして楽しめる。歴史学者がそんな歴史小説をどう評価しているのかに興味がある。何となく折り合い悪いのではないかという気がする。

 また過日の宴席で私より少し若い歴史哲学の教授がいきまいていた言説も気がかりだった。彼は「歴史も小説も同じだと言う歴史学者がいる。そんなことなら何でもありになってしまう。とんでもない話だ。」と怒っていた。

◎わかった気になった

 本書は「史実はわかるか」「過去を知ることは社会の役にたつか」という問題意識をベースに、歴史学の動向と現状を解説したうえで、「歴史学は、やはり科学であり、社会の役に立つ」という著者の見解を述べている。

 結論は常識的だ。完全に説得されたとは言えないが、そこに至る歴史学の動向が興味深い。「大きな物語の終わり」「マルクス主義歴史学」「経済的基底還元論」「構造主義」「記号論」「史観」「社会史学」などの要領よい解説で、歴史学のかかえる課題がわかった気がする。司馬遼太郎や塩野七生の歴史小説に対する歴史学者の眼差しも推測でき、かの歴史哲学教授の苛立ちも了解できた。

 また、高校の歴史教科書が面白くない理由まで納得できた。拾いモノの新書だ。

ヘロドトスに取り組まねばとの気分が高まる本2018年04月01日

『アジアの原像:歴史はヘロドトスとともに』(前田耕作/NHKブックス)
 中公版『世界の名著 5』のヘロドトスの『歴史(抄)』が意外に読みやすくて面白かったのでヘロドトスへの興味が高まり、次の本を読んだ。

 『アジアの原像:歴史はヘロドトスとともに』(前田耕作/NHKブックス)

 サブタイトルに「歴史はヘロドトスとともに」とあるのに惹かれたのだ。一般向けの歴史紀行的な啓蒙書だと思って読み始めたが、やや専門的で予備知識のない門外漢には少し難しい。だが、『歴史(抄)』を読んだ直後だったので何とかついて行けて、興味深く読了した。

 本書はヘロドトスを手掛かりにリュディア王国の形成から滅亡までを描いている。と言っても、そもそもリュディア王国って何だ? 高校の世界史には出てこない。ヘロドトスの『歴史(抄)』の前半にリュディアという地名やリュディア王という人物が出てきて、私は初めてこの王国の名を知った(他の本にも出てきたかもしれないが失念している)。本書によって、これまでぼんやりしたイメージしかなかったリュディアが多少明確になった。

 リュディア王国とは紀元前7世紀から前6世紀まで小アジア西端にあった王国で、紀元前547年にアケメネス朝ペルシアに滅ぼされる。リュディアというのは元来は地名のようで、王国滅亡後もリュディアという地名は使われている。

 ギリシアとペルシアの戦争を描いた史書だと思って読んだヘロドトスの『歴史(抄)』は、ペルシア戦役の記述は後半だけで前半はペルシアやエジプトの話だった。この前半部分に関して、私にはほとんど予備知識がなかったのだが、本書によって事後的に多少の知識を得ることができた。

 『歴史(抄)』の冒頭は、妻の容色が自慢の王が側近の部下に妻の裸体を盗み見させ、盗み見されたことを察知した妻は、その部下に王の殺害をそそのかすという印象深い物語だった。面白いけれどヘンテコな話だなあと思ったが、本書によってこれが王朝交代の重要な史実にまつわる話だと認識した。やはり、周辺知識や解説は重要だ。

 本書には、ヘロドトスの『歴史』に関する興味深い知見が散りばめれていて、抄録ではなく全編に取り組まねばという気分が高まった。それにはもう少し準備(地図、人名表、年表)も必要で、当面の読書計画には入れていないが…。

ヘロドトスもトゥキディデスも意外に読みやすくて面白い2018年03月25日

『世界の名著⑤ へロドトス、トゥキディデス』(責任編集:村川堅太郎/中央公論社)
◎古代の歴史家への関心

 へロドトス、トゥキディデスという古代の歴史家は、高校の世界史で名前を暗記しただけの存在だった。「ヘロドトスは歴史の父」と憶えて終わりだった。

 それが少し変わったのは、2年前に『世界の歴史⑤ ギリシアとローマ』(本村凌二・桜井万里子/中央公論社)を読んだ時だ。この概説書で桜井万里子氏が述べているヘロドトスとトゥキディデスの比較が面白かった。

 ヘロドトスは神話や伝承を取り込んで奇想天外、トゥキュディデスは厳密で真摯。歴史研究者としてはトゥキディデスに敬意を抱く。だが、歴史の実相に迫るには伝説や神話の援用も有効で、その意味ではヘロドトスの方が重要になる。そんな主旨の比較論で、歴史研究の場でのこの二人評価の違いを知り興味をもった。

 そして最近、『ギリシア人の物語』(塩野七生)、『世界の歴史4 ギリシア』(村田数之亮) などを読んで古代ギリシアが少し身近になり、これらの本で言及されているへロドトスとトゥキディデスへの関心が高まった。へロドトスはペルシア戦役を叙述し、トゥキディデスはペロポネソス戦役を叙述した。そのおかげで後世の史家はギリシア史を語れるのだ。

◎『世界の名著』版は手ごろ

 へロドトスとトゥキディデスへの興味はわいたが、その大部の著書を読もうという気にまではなれなかった。そんな時に次の本の存在を知った。

 『世界の名著⑤ へロドトス、トゥキディデス』(責任編集:村川堅太郎/中央公論社)

 これは1冊にへロドトスの『歴史』、トゥキディデスの『戦史』の二つが収録されている。両方とも抄録だ(全編だとどちらも岩波文庫で3冊)。抄録なら何とか読めるかなと思いネットで入手した。1970年刊行の古書だ。

 2段組で500ページ強、抄録でもコンパクトとは言い難い。冒頭60ページは『歴史叙述の誕生』と題する村川堅太郎の解説で、へロドトスとトゥキディデスの違いの説明が勉強になった。半世紀近く昔のこの解説にも「ヘロドトスについての評価は近年高まった」とある。

◎ヘロドトスは自由奔放

 『歴史(抄)』(ヘロドトス/松平千秋訳)

 ヘロドトスを読み始めて、意外に読みやすいのに驚いた。訳者のおかげだろうが、紀元前の古典という感じがしない。内容も面白い。村川堅太郎が「素朴で話し好きな老人の筆」と表現しているのも了解できた。

 と言っても、未知の地名や人名が頻出すると興味が削がれる。ペルシア戦役に関しては関連本を読んだばかりだし、『ギリシア・ローマ歴史地図』(原書房)という地図帳も座右にある。ところが、本書ではなかなかペルシア戦役が始まらない。前半はペルシアやエジプトの歴史や地誌である。紀元前5世紀の本だから、当然ながら遠い昔の中近東の話であり、私にとっては白紙の世界だ。それでも、地名や人名をネットで検索しながら何とか読み進めた。

 後年、アリストテレスから「たわ言」と評されたトンデモ逸話(ライオンの分娩の話。訳注でアリストテレスの言説を紹介)なども挿入されていて、大昔の人がもっと昔の人の著作を批判する姿をほほえましく感じたりもした。

 後半のテルモピュライの戦いやサラミス海戦のくだりは当然ながら興味深く読んだ。そして、この「抄録」を読了してヘロドトスの自由奔放な書きっぷりに惹かれ、やはり全編を読みたいと思った。

◎トゥキディデスは謹厳実直

 『戦史(抄)』(トゥキディデス/久保正彰訳)

 トゥキディデスはヘロドトスに較べると謹厳実直で記述も手堅い。しかし、思ったほど読みにくくはない。自らも参戦した同時代のペロポネソス戦役の記録なのに、歴史を見る視点が感じられる。事象の原因を分析し、人々の言動を批判的にとらえている。

 シチリア遠征において、ニキアスが月蝕によって撤退を延期して時期を逸した件でも「かれは神託予言などの類をやや偏重すしすぎる性質であった」と書いている。その後何世紀経っても神託予言を偏重する人は後を絶たないが、紀元前5世紀の時点にこんな冷静な記述があったことに驚いた。人類はさほど進歩したわけではないと思えてくる。

 トゥキディデスの圧巻は演説の紹介である。演説の正確な記録は困難なので著者は事前に次のように述べている。

 「政見の記録は、事実表明された政見の全体としての主旨を、できうるかぎり忠実に、筆者の目でたどりながら、おのおのの発言者がその場で直面した事態について、もっとも適切と判断して述べたにちがいない、と思われる論旨をもってこれをつづった。」

 そんな方法で、論争の場での政治家たちの演説や、戦闘を前にした将軍たちの演説がつづられている。いずれも長大であり、壮大な舞台の歴史劇を観ている気分になる。

◎古典の力

 ペルシア戦役は紀元前500年~前449年、ペロポネス戦役は紀元前431年~前404年、いずれも遠い昔の出来事だ。それを同時代の歴史家がつづった著作を読み、2500年をタイムスリップして古代の情景を目の当たりにしている気分になれた。古典の力だろう。
 
 へロドトスやトゥキディデスがこんなに面白いなら、もっと早く読んでおけばよかったと思う。こういう古典は若いうちに読んでおいて、年取ってからは再読を楽しむ読み方がいい。もちろん、抄録ではなく全編を楽しむべきだ。悲しいかな、私は若いときに関心を抱けなかったので、そんな楽しみは享受できない。仕方ないことである。

 だが、いつの日か全編をのんびり読んでみたいとは思う。そのときには、それなりに詳細な地図、人名表、年表の準備が必要だ。その準備だけでも大変そうだ。

ゾロアスター教の面白さを発見2018年03月18日

『宗祖ゾロアスター』(前田耕作/ちくま学芸文庫)
◎ゾロアスター教に関わる二つの気がかり

 『ギリシア人の物語』(塩野七生)、『世界の歴史4 ギリシア』(村田数之亮) など古代ギリシアの本を読んでいて、ギリシアのライバルだったペルシアがゾロアスター教の国だという記述に出会い、ゾロアスター教が少し気になった。

 遠い昔のゾロアスター教という宗教について知っていることがあまりに少ないことに気づいたのだ。拝火教という妖しげな呼び名を知っているだけだ。だが、気がかりなことが二つある。

 一つはニーチェの『ツァラトゥストラ』である。遠い昔の学生時代に途中まで読んで挫折し、いつかは読まねばと気になっている「世界の名著」だ。ツァラトゥストラがゾロアスターだとの知識はあるが、何故ゾロアスターを描いたのかが理解できない。

 もう一つは東芝のマツダランプである。LED時代の今は生産されていないが、かつて東芝の白熱電球はマツダランプというブランド名だった。その「マツダ」は「松田」ではなくゾロアスター教の神様の名だということは小学生の頃に知った。だが、なぜ東芝の電球がそんな神様の名なのかの謎をかかえたまま69歳の高齢者になってしまった。

◎『宗祖ゾロアスター』は単なる解説本ではなかった

 「拝火教」「ツァラトゥストラ」「マツダランプ」という単語以外は白紙のゾロアスター教を少しは知りたいと思い次の本を読んだ。

 『宗祖ゾロアスター』(前田耕作/ちくま学芸文庫)

 入門的な啓蒙書ではなくやや学術的な内容の本で、門外漢の私には難しい部分があったにもかかわらず興味深く読み進めることができた。

 ゾロアスター教はユダヤ教や仏教よりも古い宗教で、宗祖ゾロアスターの生年は紀元前1000年から紀元前600年の間のどこかだそうだ。かなり大きな幅だ。ゾロアスター教の神はアフラー・マズダーで、この神による奇蹟でゾロアスターが誕生する。当初、ゾロアスターの教えは既存の宗教と対立し迫害されるが、一人の国王がゾロアスターの教えに帰依したのを契機に拡がっていく。キリストの物語に似ている。

 アケメネス朝ペルシア、ササン朝ペルシアはゾロアスター教の国だったが、その後、この地域はイスラム教になりゾロアスター教は衰退する。だが、消滅したわけではなく、現在もムンバイやカラチでパールシー教という名で生き延びている。

 本書はそんなゾロアスター教の歴史や教義の単なる解説書ではなかった。ヨーロッパが、遠い昔に中央アジアえ生まれたこの宗教をどうとらえ、どう影響を受けてきたか、それを解明しているのが本書の眼目である。

◎ヨーロッパにとっては「東洋の叡智」

 ヨーロッパ文化がゾロアスター教に影響を受けているとは思いもよらなかったので、本書によって蒙を啓かれた。

 まずは、プラトンやアリストテレスがゾロアスター教をいにしえの東方の叡智としてとらえ、それを蘇らせ発展させて新たな思想を紡いだ。ヨーロッパ文化の基盤であるギリシア哲学の古層にゾロアスター教があったのだ。

 キリスト教もゾロアスター教の影響を色濃く受けている。著者は「東方の三博士はゾロアスターをキリスト教と結びつける蝶番の役割を果たしたと述べている。

 ゾロアスターは「叡智の人」「魔術者」「占星術者」というさまざまな姿でとらえられ、ヨーロッパの人々はかなり自由なイメージでゾロアスター像を作り上げていった。遠い昔のアジアの人物に関する史料は少なく、ゾロアスター教も時代とともに変わっていったので、その姿はかなり漠然としたものになったようだ。

 ルネサンス時代にもゾロアスターへの関心は高まり、その後も18世紀のヴォルテールはローマ・カトリック批判にゾロアスターを援用し、モーツァルトはゾロアスターが登場する『魔笛』を作曲する。19世紀になるとバルザックやニーチェがゾロアスターに着目した著作を刊行する。

◎デュペロンの波乱万丈

 本書の中で特に面白かったのは18世紀の香料商の息子デュペロンの波乱万丈の物語だ。デュペロンはゾロアスター教の聖典を探索するため、言語を学んだうえでインドに旅立ち、艱難辛苦の末についに聖典を入手し、それを翻訳して発表する。その様子を著者は次のように記述している。

 「デュペロンの大冊刊行はヨーロッパに大きな反響を捲き起こした。誰も読むことのできなかった「ゾロアスターの著作」が初めて人びとの手に渡されたのである。大いなる驚きの次に深い失望と激しい反発、そして小さな称賛がやってきた。」

 当時の知識人にとって、その内容が期待外れだったのでニセモノだとの批判が起きたのだ。その批判が的外れだとされるのは60年以上後になってからである。

 聖典といってもその表現はかなり漠たるもので、解読・解釈は容易でないのだ。

◎ツァラトゥストラとマツダランプ

 本書は『ツァラトゥストラ』にも踏み込んで言及していて、ニーチェのゾロアスターへの関心が了解できた。

 マツダランプへの言及は本書にはない。だが、東芝のホームページに以下の説明があった、

 〔「マツダ」の名称は、ゾロアスター教の光の神である「アウラ・マツダ」に由来している。これは、1910年GE社をはじめ世界各国の代表的な電球会社がタングステン・フィラメントの改良研究を目的に会合した際、今後各国で製作する一流のタングステン電球には「マツダランプ」としようと決められたからであった。〕

 GEをはじめとする世界の電球会社が「マツダ」を選んだのは、ヨーロッパ文明の背景にゾロアスター教があることの証だろう。本書を読むとよくわかる。

 ゾロアスター教は古代の中国にも伝わっているし、仏教にも影響を与えている。東芝が「マツダ」を受け容れるのは当然だったのだろう。

半世紀前の概説書でギリシア史の復習2018年03月10日

『世界の歴史 4 ギリシア』(村田数之亮/河出書房新社)
◎昔も今も

 先月、塩野七生の『ギリシア人の物語』全3巻を読んだ。その印象が残っている内にと思い、次のギリシア史の本を読んだ。以前から書架に眠っていた叢書の1冊だ。

 『世界の歴史 4 ギリシア』(村田数之亮/河出書房新社)

 『ギリシア人の物語』全3巻を読んだと言っても、その内容が時間とともにどんどん消えていくのは仕方ない。関連書を続けて読めば多少なりとも定着するものがあるのではと期待した。無駄な抵抗のような気がするが。

 本書が刊行されたのは1968年、ちょうど半世紀前だ。手ごろな最近の啓蒙書もあると思うが、2000年以上昔の話なのだから50年ぐらいはたいしたことはないと考えた。

 それでも、書き出しの「現代のアテネ」の記述で面食らった。「現代のアテネは、かつてのアッテカの都としてあるのではない。(…)ギリシア王国の首都であり(…)」とある。そうか、当時のギリシアは王国だったのか。調べてみると、1967年に軍事クーデターがあって反クーデターの国王は亡命、1968年から1974年までは軍事独裁政権、その後は共和政になっている。ギリシア史といえば古代のアレコレが思い浮かぶが最近半世紀もいろいろあったのだ。
 
◎今も昔も

 本書は歴史学者による古代ギリシア史の啓蒙書で図版も多い。読みやすくてわかりやすかった。

 前半の三分の一がエーゲ文明から大植民時代の話でアテネやスパルタはまだ主役ではない。

 真ん中の三分の一がペルシア戦争とペロポネソス戦争の話でアテネとスパルタが主役に躍り出る。

 後半の三分の一で語られるのは、ポリス社会の衰亡、アレクサンドロスの世界帝国とヘレニズム時代、そして世界帝国の解体からプトレマイオス朝エジプトの滅亡(クレオパトラの死)までである。

 ここで語られているのは二千数百年に及ぶギリシア文明の勃興から衰亡に至る波乱万丈の歴史である。並行して、同じ時代に存在したアケメネス朝ペルシアの興亡も語られている。さまざまな事象が発生したダイナミックな時間の流れと空間の広がりを感じた。

 紀元前の遠い昔の歴史ではあるが、それを読んでいると近現代の事象と同じだと感じることが多い。外交、同盟、国家、帝国、公共、個人、コスモポリタンなどなど人間とその集団が抱える課題は今も昔もほとんど同じに見えてきた。

 もちろん、現代の目で歴史で叙述すれば、そこに現代的課題が反映されざるを得ないということはあるだろうが。

◎パウサニアスの評価は…

 同じ事象であっても、塩野七生の『ギリシア人の物語』の描き方と異なる箇所がある。当然のことであり、それらをひとつ一つ確認するのも読書の楽しみである。

 ただ、塩野七生がかなり力を入れて好漢として描いたスパルタの将軍パウサニアスの扱いが大きく異なっているのには驚いた。

 パウサニアスはツキディディスが『戦史』で悪く描いたために評価が低いと、塩野七生がツキディディスを非難することになった人物である。塩野七生によれば、20世紀に入ってドイツの学者たちが、パウサニアス批判の根拠とされた文書(彼を裏切者であるとする文書)が偽物だと実証したそうだ。

 村田数之亮は本書でパウサニアスを「ペルシアと通じて私利をむさぼった」残念な人としている。ドイツの学者たちの実証は本書刊行の後だったのかもしれないと思い、ネット検索してみたがよくわからない。ウィキペディア(日本語)でもパウサニアスは裏切者とされていて再評価の記述はない。なぜだろうか。もう少し調べてみたい。

シチリアの歴史を手軽に勉強したいと思ったが…2018年03月07日

『シチリアの歴史』(ジャン・ユレ/幸田礼雅訳/文庫クセジュ/白水社)、『中世シチリア王国』(高山博/講談社現代新書)
◎「文庫クセジュ」はクセモノ

 ふとしたきっかけでシチリア旅行をすることになった。出発は 5月(2カ月先)、主にギリシア・ローマ時代の古跡をめぐる1週間ほどの旅行だ。シチリアは九州より小さく四国よりは大きい島だ。いまはイタリアの一部だが、かつては王国だったこともある。

 ギリシア史やローマ史の本にシチリアという地名は散見する。先日読んだ『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』(塩野七生)にもでてきたが、私はこの島の歴史は断片的にしか知らない。

 旅行の前にシチリアの歴史を手っ取り早く勉強しておこうと思い、次の本を読んだ。

 『シチリアの歴史』(ジャン・ユレ/幸田礼雅訳/文庫クセジュ/白水社)

 薄い(175頁)の新書版で手ごろな入門書と思って読み始めた。冒頭の十数頁までは普通に読み進んだが、次第にわけがわからなくなってきた。知らない地名や人名が頻出するのだ。巻頭にシチリアの地図は掲載されているが、そこにない地名もどんどん出てくる。シチリア以外の地名もたくさん出てくる。都市名か地域名か国名か判然としないことも多い。

 登場人物も多い。約170頁で旧石器時代からギリシア・ローマの時代を経てムッソリーニの時代、マフィアが活動する戦後までを概説しているのだから、しかたない。

 本書はフランスで刊行されている百科全書的な叢書「文庫クセジュ」の翻訳である。その点に感じた一抹の不安は的中した。ヨーロッパの地理や歴史の基本素養がある読者を前提にした、フランス教養人向けの歴史エッセイ風の通史なのだ。私のような断片的知識もおぼつかない日本人がついていくのは難しい。

 それでも、何とか読み通した。何やらぼんやりとした印象が残り、周辺の基本知識を習得、整理したうえで本書を再読すれば、そのウイットを楽しみながら面白く読めるだろうと感じた。

◎シチリア王国の実態にびっくり

 消化不良の読書だったので、続けて次の新書も入手して読んだ。

 『中世シチリア王国』(高山博/講談社現代新書)

 これは日本人研究者が書いた啓蒙書なので読みやすい。通史ではなく中世を扱った本だが、最初の章で古代から中世に至るまでを概説しているので、13世紀頃までのシチリア史の入門書にもなっている。

 そして、本書のメインテーマ「シチリア王国」の説明が抜群に面白い。ひとことで言えば、北フランスのノルマンジーからやって来たノルマン人が作ったこの王国は、ローマ・カソリック文化、ビザンチン(ギリシア)文化、イスラム文化の三つがモザイクのように共存した不思議な王国であり、後のヨーロッパ世界の文化に多大な影響を及ぼしているのだ。私にとっては目から鱗のびっくり読書だった。

 中世に生きた近代人と言われるフリードリッヒ二世(神聖ローマ帝国皇帝&シチリア王)は本書のエピローグに少しだけ登場する。あの皇帝の前身にこの王国があったのかと納得した。

◎周辺世界抜きには把握できないシチリア史

 『シチリアの歴史』と『中世シチリア王国』を読んで、この島の歴史にはヨーロッパの歴史の多様な要素が詰まっていると認識した。九州より狭い島なのに決して一枚岩ではなく、島内の都市は多様である。それは周辺世界の反映でもある。

 地理的条件から地中海周辺のいろろな国や民族の影響下にあるので、この島の歴史は周辺の事情抜きに語ることはできない。その周辺とはヨーロッパ、小アジア、北アフリカである。

 ということは、シチリアの歴史を把握するには西欧史全体を把握しなけらばならない、ということになってしまう。これはタイヘンなことだ。あらためて西欧の国々の歴史はゴチャゴチャと絡み合っていることを認識した。

『ギリシア人の物語』を面白く読んだ2018年03月01日

『ギリシア人の物語Ⅰ:民主政のはじまり』『ギリシア人の物語Ⅱ:民主政の成熟と崩壊』『ギリシア人の物語Ⅲ:新しき力』(塩野七生/新潮社)
◎塩野七生の歴史エッセイはリーダー論

 塩野七生の『ギリシア人の物語』全3巻が昨年末に完結した。『ローマ人の物語』と同様に年1冊ペースの刊行で、以前から気がかりな本だった。完結を機に3冊まとめて購入し、面白く読了した。

 『ギリシア人の物語Ⅰ:民主政のはじまり』(塩野七生/新潮社)
 『ギリシア人の物語Ⅱ:民主政の成熟と崩壊』(塩野七生/新潮社)
 『ギリシア人の物語Ⅲ:新しき力』(塩野七生/新潮社)

 第1巻はペルシア戦役、第2巻はペロポネソス戦役、第3巻はアレクサンドロス(アレキサンダー大王)を描いている。全3巻で古代ギリシアの歴史を描いているが、塩野七生の関心はあくまで人物であり、スパルタやアテネ以前のミノア文明、ミケーネ文明、線形文字解読など考古学的な話題は割愛されている。気持ちのいい割り切りである。

 全3巻を読んで「小説のように面白い」と感じた。塩野七生の歴史エッセイは歴史小説とも呼ばれているからこの感想は変だ。一般的な歴史概説書よりワクワクした気分でスラスラと読めたということだ。

 塩野七生の歴史エッセイは卓越した政治家や軍の司令官に焦点をあてた人物論であり、リーダー論である。それが現代にも通じる文明論にもなっているから面白い。

 ペルシア戦役を扱った第1巻では、都市国家連合のギリシアのペルシアへの勝因を、ペルシアの「量」で圧倒するやり方に、ギリシアは総合的な「質」を結集して対応したこととしている。そして、次のように総括している。

 「この、持てる力すべての活用を重要視する精神(スピリッツ)がペルシア戦役を機にギリシア人の心に生れ、ギリシア文明が後のヨーロッパの母胎になっていく道程を経て、ヨーロッパ精神を形成する重要な一要素になったのではないだろうか。」

 ヘェーと思いつつ、何となく納得してしまう。

◎テミトクレス、アルキビアデスと悪役たち

 本書には多くの人物が登場するが、著者が焦点を当てているのは第1巻ではテミトクレス、第2巻ではアルキビアデスである。前者はアテネ海軍を増強しサラミス海戦を勝利に導いた人物、後者は奔放な美貌の青年政治家で、二人ともかなり魅力的に描かれている。

 そんな魅力的な人物とは対照的な悪役も登場する。スパルタの5人のエフォロス(監督官)やアテネの扇動政治家たちだ。この悪役たちの視野が狭く洞察力のない小人物ぶりに読者は苛立つしかなく、それが物語を面白くもしている。

 また、名脇役のような形で歴史家のツキディディス、悲劇作家のソフォクレス、哲学者のソクラテスなどが登場するのも興味深い。彼らは軍の指揮官あるいは重装歩兵として戦役に参加しながら著作や哲学にも打ち込んでいる。そんな「文化人」たちへの著者の視線はやや醒めているように感じられる。

 第1巻ではスパルタ軍を率いて活躍したパウサニアス(少年王の後見人)も魅力的に描かれている。ペルシア戦役で大勝をあげながらもエフォロス(監督官)によって死に追いやらた人物である。パウサニアスはペルシアに内通した裏切者と見なされたのだ。その冤罪が晴れて再評価されたのは、なんと20世紀になってからだそうだ。驚くしかない。パウサニアスが長期間にわたって評価されなかったのは、パウサニアスが好きでなかったツキディディスが『戦史』で中傷に近いエピソードを紹介したからだそうだ。塩野七生はツキディディスをそう非難している。

 作家の学者への苛立ちのとばっちりに見えなくもない。

◎真打はアレクサンダー大王

 以上、第1巻と第2巻の登場人物たちは前座で、一番ぶ厚い第3巻のアレクサンドロスが本書の真打である。

 口絵には「アレクサンドロスの東征」の地図が載っている。マケドニアを出発し、現在のトルコ、シリア、エジプト、イラク、イラン、アフガニスタン、ウズベキスタンを経てインダス川の東までを覆う「東征」を太線で辿った地図である。教科書などで見ることも多い歴史地図だが、本書の地図には、アレクサンドロスがその地に到達したときの年齢が載っている。

 海峡を越えて小アジアに入ってすぐのグラニコスの会戦が21歳、大勢が決したイッソスの会戦が23歳、エジプトに赴き彼の地のアレクサンドリア建設に着手したのが24歳、バビロン入城が25歳、そこからさらに東へ北へと向かい、サマルカンドが28歳、インダス川上流が29歳、河口に下って30歳、海沿いに西に引き返しバビロンに戻り、そこで病没したのが32歳。東方世界制覇の大遠征の11年間が一望できる地図だ。

 アレクサンドロスの大帝国は一代で消滅する。つまりは一代記である。塩野七生は次のように述べている。

 「地勢から社会形態から困難多き中央アジアの制覇を成し遂げたヨーロッパ人は、先にも後にもこのアレクサンドロス一人になるのだ。(…)近現代になると、イギリス、ロシア、アメリカと、試みはしたのだが結局は撤退している。これに成功したアレクサンドロスの苦労を真に理解し、評価できるのは、あの地方に足を踏み入れたこともない歴史学者よりも、アフガニスタンやパキスタンで闘った経験のある、イギリスやロシアやアメリアの前線部隊長ではないか、と思ったりする。」

 歴史学者を挑発しているように見えなくもない。この地は今も混迷しているが。

 第3巻には不愉快な悪役は登場しない。もちろん敵役は存在するが、アレクサンドロスと愉快な仲間たちの武勇伝という趣の物語である。アレクサンドロス一行を大学探検部に例えている箇所もある。おもしろくて明るい見立てだ。

 『ギリシア人の物語』で塩野七生が述べようとしたことは、都市国家がせめぎあうギリシア世界はアレクサンドロスを生み出し、他民族を取り入れていく大帝国をめざしたアレクサンドロスこそは『ローマ人の物語』の魁だった、ということだ。それは明るいビジョンとして語られている。

歴史を理系の視点で考察した板倉聖宣氏が逝去2018年02月10日

訃報記事、『日本史再発見:理系の視点から』(板倉聖宣/朝日新聞社/1993年)、同書掲載の図表
 本日(2018年2月10日)の朝日新聞朝刊に科学教育の板倉聖宣氏の訃報が載っていた。87歳の老衰死とある。扱いがちょっと小さいなと思った。

 仮説実験授業法の提唱者で『ぼくらはガリレオ』をはじめ多くの著作がある人だ。私は教育とは無縁だが板倉聖宣氏のファンだった。約30年前、偶然に京王線の電車内で板倉聖宣氏と言葉を交わしたこともあり、その経緯は4年前のブログに書いた。

 訃報に接して驚いたのは、ほんの2週間ほど前、板倉聖宣氏の消息が気になってネット検索し、Wikipediaで氏のご存命を確認したばかりだったからだ。

 なぜ気になったのか。それは大河ドラマ『西郷どん!』のせいである。第1回と2回は全部観たが、それ以降は録画したものを早送りで観ただけだ。陳腐な作りが目につき、いまのところあまり興味がわかない。

 その『西郷どん!』の中で、百姓たちは白米など食べたことがないという表現があり、引っかかった。板倉聖宣氏が『歴史の見方考え方』(仮説社/1986年)で、統計データに基づいて「江戸時代の農民がもっとも多く食べていたのは米」と指摘していたからだ。同様の指摘を示す図表が『日本史再発見:理系の視点から』(朝日新聞社/1993年)にも掲載されている。

 単純化して言えば、当時の主食物生産量の約6割は米であり、人口比の少ない武士と町人だけで食べきれる量ではなく、多くの農民は主に米を食べていたと考えざるを得ない、ということである。

 わかりやすい説なので納得できた。そんな記憶があったので『西郷どん!』の「白米を食べたことがない百姓たち」が気になったのだ。武士が食べきれなかった米を薩摩ではすべて焼酎にしたとも思えない。大河ドラマはフィクションとは言え学者が時代考証をしていると考えられる。歴史学者たちが板倉聖宣氏の説をどう評価しているのかが気になり、ネットを検索してみた。私の調べ方が悪いのか、何もわからなっかた。詳しい方にご教示いただければうれしい。

 そんなわけで板倉聖宣氏の消息を検索し、その直後に訃報に接した。合掌。

『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』で塩野七生ワールドの愉楽を味わう2018年02月08日

『皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上)(下)』(塩野七生/新潮社)
◎中世モノと言えばこの本もあった

 昨年末から中世の本をいくつか読んでいて、未読本に積んであったこの本を思い出した。

 『皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上)(下)』(塩野七生/新潮社)

 刊行時(2013年12月)に購入し、いずれ読もうと思いつつ放置していた。最近読んだ『中世の風景(上)(下)』(中公新書)の終盤で樺山紘一がフリードリッヒ二世に言及していたので本書を想起した。

 読み始めると引き込まれ、ハードカバーの上下2巻を二日で一気読みした。やはり、塩野七生の歴史エッセイは面白い。『ローマ人の物語』(文庫本で43冊)、『海の都の物語』(文庫本で6冊)を読了したのは7年前で、久々に塩野七生ワールドの愉楽を味わった。

 塩野七生は女・司馬遼太郎のようでありながら別種の魅力もある。女性目線の歯切れのいい人物論・男性論・リーダー論は妙に説得的で教訓的だ。小説仕立てではないのに歴史上の人物が生き生きと身近に感じられ、塩野七生の眼鏡にかなったイイ男(主人公)に読者も感情移入されてしまう。

 フリードリッヒ二世はヨーロッパ中世後期に活躍した神聖ローマ帝国皇帝で、1194年に生まれて1250年に没している。日本なら鎌倉時代の人で、3代将軍源実朝より2歳若い。ヒトラーが敬愛した18世紀プロセンのフリードリッヒ二世(大王)とは別人で、高校世界史の教科書にはあまり登場しない。だが、歴史上の重要人物なのは間違いない。

 私がフリードリッヒ二世を知ったのは、かなり前に『神聖ローマ帝国』(菊池良生/講談社現代新書)を読んだときで、とても印象深い魅力的人物だと思った。今回、『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』読み、あらためてこの開明的人物に惹かれた。

◎「笑うしかない」が伝染する歴史エッセイ

 塩野七生はフリードリッヒ二世を「中世に生きながらも200年後のルネサンスに向かう扉を開いた人」と位置付けている。早熟の天才で、中世に生きた近代人だったのだ。早く生まれすぎたにもかかわらず、時代とのおりあいをつけることもでき、ローマ法王との対立を繰り返しながらヨーロッパ随一の皇帝として生涯を全うしている。たいしたものだ。

 本書が面白いのは、主人公に対抗するローマ法王たちがいかにも悪役らしい悪役になっている点だ。塩野七生の「聖職者嫌い」「学者嫌い」が反映されているというより、史料をベースに歴史を組み立ててみると、こんな見方にならざるを得ないと述べているように見える。

 ローマ法王の「法王が太陽で、皇帝は月」という考えに対してフリードリッヒ二世は「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」というイエスの教えで対抗したという見立ては簡明でわかりやすい。フリードリッヒ二世の目指していたものは「政教分離」「法治国家」だという整理も明解だ。こんな歯切れのよさが塩野七生の歴史エッセイの魅力の一つだ。

 それと、今回気づいたのは「笑うしかない」「笑ってしまう」というフレーズが多いことだ。「呆れ返るしかない」も目についた。フリードリッヒ二世や法王たちの言動をたどりながら、著者は笑ったり呆れたりして歴史を楽しんでいる。それが読者に伝染してくるから塩野七生の歴史エッセイは面白い。

 菊池良生の『神聖ローマ帝国』もフリードリッヒ二世を魅力的に描いていて、その中に「当代随一のニヒリスト」と形容している箇所がある。だが、塩野七生はフリードリッヒ二世をニヒリストとは見ていないようだ。死の床で「死ねば何もない」と言ったという年代記作者の説を否定し、「死ねば何もない」などとは思っていなかったのではないか、と述べている。作者の主人公への愛情を感じた。

◎19世紀になって評価され始めた人物

 本書を読了して、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』でフリードリッヒ二世への言及があったかどうか気になった。かなり以前に読んでいるが記憶にない。

 あの長大な史書の後半は、西ローマ帝国滅亡の後、東ローマ帝国が滅亡する15世紀までのヨーロッパ・中東の歴史を描いている。その中にフリードリッヒ二世の時代も含まれる。18世紀啓蒙思想の人だったギボンはキリスト教にも辛辣だった。ギボンが法王と皇帝との対立をどう描いているのだろうかとページを繰ってみた。フリードリッヒ二世という人名が一カ所だけ出てくるが事績への言及はなく、無視に近い。

 調べてみると、法王と対立したフリードリッヒ二世は、後世の教会史研究者たちに「専制的で放縦な無信仰者」と批判されたせいか、あまり評価されてこなかったようだ。19世紀になって歴史家ブルクハルトがフリードリッヒ二世を「王座上の最初の近代人」と評してから注目されはじめたのだ。18世紀のギボンがフリードリッヒ二世に着目しなかった事情がわかった。

 歴史上の人物の評価の変遷は面白い。

座談会『中世の風景(上)(下)』は手ごわかった2018年02月04日

『中世の風景(上)(下)』(阿部謹也・網野善彦・石井進・樺山紘一/中公新書)
 蒙古襲来前後の日本の中世の本を数冊読んだのを機に、この時代の概説書をもう少し読んでみようと思い、次の新書を古書で入手した。

 『中世の風景(上)(下)』(阿部謹也・網野善彦・石井進・樺山紘一/中公新書)

 30年以上前の1981年刊行の新書である。ある記事で本書が著名な日本中世の研究者(網野善彦、石井進)と西洋中世研究者(阿部謹也、樺山紘一)の座談会をまとめたものと知り、興味をもった。阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』は数年前に面白く読んだ。網野善彦の『無縁・公界・楽』『蒙古襲来』は先月読んだばかりだ。石井進、樺山紘一の著書を読んだことはないが、よく目にする名で記事をいくつか読んでいる。

 門外漢の私でも知っているこの4人の名を見て「豪華メンバー」どだと思った。あまりに専門的な本は敬遠だが、座談会なら読みやすそうだ。『中世の風景』というタイトルも親しみやすくていい。私には手ごろな新書に思えた。

 読み始めてすぐ、大きな勘違いをしていたことに気づいた。難しいのだ。座談会なので「歴史よもやま話」とか「碩学に聞く」といった雰囲気を想定していたが、そんな一般人向けの啓蒙概説書ではなかった。

 考えてみれば、啓蒙的な座談会や対談は、その分野の専門家でない司会者や対談相手(形式的には一般読者に近い立場の人)が専門家からその研究分野の話を聞き出すという形になる。ところが、本書の座談会の参加者は全員が第一線の研究者であり、素人の司会者はいない。その研究分野は日本中世史、西洋中世史と微妙に異なっている。ということは、研究者同士がそれぞれの研究成果をもちよって侃々諤々の議論を展開することになるのは当然だ。研究者や史学科の学生には興味深い内容だろうが、門外漢の素人がこの豪華メンバーの議論についていくのは大変である。

 ついていくのが難しい内容だと気づきギブアップしようとも思ったが、理解できなくて当然と居直って読み進めた。中身をきちんと理解できなくても興味深い話題もあり、議論の雰囲気がなんとなくわかればよしとした。話し言葉の節々に研究者たちの本音に近い事情を垣間見た気にもなった。

 本書は上下2巻で10のテーマが取り上げられ、それぞれのテーマごとに一人が研究報告的な問題提起をし、それを4人で議論する形になっている。テーマと冒頭の発言者は次の通りだ。

 1. 海・山・川(石井進)
 2. 職人(網野善彦)
 3. 馬(阿部謹也)
 4. 都市(樺山紘一)
 5. 音と時(阿部謹也)
 6. 農業(樺山紘一)
 7. 売買・所有と法・裁判(石井進)
 8. 家(網野善彦)
 9. 自由(網野善彦)
 10. 異端(樺山紘一)

 歴史の本にしてはやや異様にも感じられる内容だが、「社会史」という方法の研究テーマはこんな具合になるようだ。興味深い切り口ではある。

 座談会の中で研究者たちが面白がっていても、その面白さが素人の読者にはわからないという場面も多かった。だが、馬の鐙、鞍、蹄鉄がもたらした社会変化の話などはわかりやすくて面白かった。網野善彦の水田中心史観批判や樺山紘一の異端論なども興味深かった。

 本書の何か所かで『無縁・公界・楽』が論議の材料となっていて、そのインパクトを見たように思えた。

 日本の中世と西洋の中世に意外に多くの共通点があり、その時代に社会の大きな変革があったことを知ったのは収穫だった。だが、その社会変革の内容を十分には理解できたわけではない。

 研究者たちの侃々諤々を聞いていると、その該博とディティールへのこだわりに感心し、敬して遠ざかりたいと思ってしまう。同時に、自分も多少は勉強せねばという気分にもなる。本書を読み返して中世の社会変革の内容を勉強すべきか…