オランダのハイテク農業の記事を読み日本の出遅れを憂う2017年08月30日

 NATIONAL GEOGRAPHIC 日本語版2017年9月号に「オランダが救う世界の飢餓」という記事が載っていた。狭い国土でハイテク農業を展開しているオランダ農業の紹介記事だ。

 農地が少ないオランダはITなどのハイテクを駆使した植物工場によって、米国に次ぐ世界第2位の農産物輸出国になっている。それをテレビ番組で知ったのは5年程前だ。まさに日本の農業が目指すお手本だと興味をもち、関連記事や関連書籍を読んだ。その後もIT活用の植物工場のニュースには注目しているが、あまり報道されることはない。日本の植物工場の多くはコスト高の課題を考えているらしい。種物工場なら、今般の天候異変のような影響も受けにくいはずなのだが。

 私が植物工場に興味をもったのは、八ヶ岳南麓の山小屋の庭でささやかな素人野菜作りをしていることにも関連する。私は決して土いじりが好きなわけではなく、畑仕事は面倒で大変な作業だと実感している(だから手抜きにもなるのだ)。趣味を超えた産業としての野菜作りには技術革新が必要だと痛感している。

 これからの農業が先端産業になる可能性に着目している人は多く、さまざまな試みが展開されているのは確かだ。農政の制約のせいか否かはわからないが、日本の農業のハイテク化がオランダに匹敵するような状態にまで進展しているとは思えない。残念である。

 農業問題の本質とはズレるが、植物工場ががコスト高なら、家庭菜園用のコンパクトな植物工場キットを売り出してはと思う。元来、家庭菜園は新鮮な野菜を手近に入手できるのが魅力であり、コストは度外視されているケースが多い。手足を土でドロドロに汚すことなく手軽に野菜作りができる「植物工場キット」には需要がありそうに思えるが、どうだろうか。

二つの科学雑誌の特集記事が暗示する困った時代2017年06月06日

 『日経サイエンス 2017年7月号』の特集記事は「トランプvs科学 Post-truthに抗う」だ。科学雑誌らしからぬ政治的な見出しで目を引く。ほぼ同じ時期に発売の『NATIONAL GEOGRAPHIC 2017年6月号』の特集記事は「なぜ人間は嘘をつくか」で、この記事もトランプ大統領に触れている。

 二つの科学雑誌の最新号がトランプ大統領登場に触発されたと推測される特集を組んでいるのに、メディアの敏感さを感じると同時に、21世紀初頭において世界史は転機に晒されているようにも感じられる。

 『NATIONAL GEOGRAPHIC』の特集は、人間は誰でも嘘をつくという事実をふまえて、人の進化や子供の成長にからめて「嘘をつく」という行為を解説したうえで、この行為を社会心理学的に論じている。

 『日経サイエンス』の特集記事は、科学的知見やデータを軽視するトランプ大統領の反科学的な態度を取り上げ、それが今後の米国の科学政策へ及ぼす影響を案じている。

 二つの記事が共通して取り上げているトランプ大統領の「嘘」に関するエピソードが二つある。就任式の観衆の数がオバマ大統領の時より多かったという主張と「ワクチンは自閉症を引きおこす」という主張だ。前者は映像やデータから間違いなのは明らかだし、ワクチンに関する主張は学問的には否定されている。しかし、大統領は主張を変えない。不思議な話であるが、そんな時代に入ってしまったのだと考えるしかない。

 こんな記事を読んでいると、ヒトラーのナチス時代が想起される。アーリア人が最優秀でユダヤ人が劣等人種だという主張には科学的根拠も証拠もない。当時の科学者や知性ある人々の多くはヒトラーの主張が間違っていると分かっていた。にもかかわらず、ヒトラーは合法的に政権を奪取し、大衆は独裁者を支持し、その社会はホロコーストへと突き進んでいく。そんな20世紀の暗い教訓を21世紀になってかみしめなければならないのだから、人類は容易には進歩しないものだと思う。

 二つの記事が共通して指摘しているのは、インターネットの発展によって嘘や偽情報の伝播が容易になり、21世紀特有の社会学的な問題が現出している点である。ヒトラーの時代よりも情況は悪化しつつあるのかもしれない。大変なことである。

『シン・ゴジラ』は面白い。その科学は難しい。2016年12月21日

◎ついに観た『シン・ゴジラ』

 年末になって『シン・ゴジラ』を観た。今年7月の封切り時にはさほど関心がなかったが、『太陽の蓋』に似ているという話を聞き、興味が湧いた。そして、先月発売の『日経サイエンス 2016年12月号』に『シン・ゴジラの科学』という特集記事があったので驚いた。真面目な科学雑誌が特集するほどの科学テーマを内包しているなら、ぜひ観なければと思い、映画を観るまではその特集記事を読むのを封印した。ネタバレになると思ったからだ。

◎『太陽の蓋』と『シン・ゴジラ』

 封切りから半年経って観た『シン・ゴジラ』は従来の怪獣映画とは一線を画す面白さで十分に楽しめた。首相官邸の対応を中心にしたリアルっぽい政治エンターテインメントで、原発事故を連想させる仕掛けになっているのが現代的だ。

 確かに3.11の原発事故をテーマにした『太陽の蓋』に似ている。「ジャーナリスティック・エンターテインメント」と銘打った『太陽の蓋』は今年7月の封切り時に渋谷ユーロスペースで観た。管内閣の官房副長官・福山哲郎氏の『原発危機 官邸からの証言』(ちくま書房)などを元にしたドキュメンタリータッチの劇映画だ。俳優たちが福山官房副長官をはじめ管首相、枝野官房長官らを実名で演じるのがミソで、仮名で登場する学者や東電関係者の頼りなさが浮き彫りになる警世の映画だった。よりえげつないほどにジャーナリスティックで、もっとエンタメ性を高めれば、単館上映ではなく広範な観客を動員できたのではと思った。

 今回『シン・ゴジラ』を観て、『太陽の蓋』が目指した「ジャーナリスティック・エンターテインメント」がここに実現されているようにも感じた。どちらも、官房副長官を中心に展開する点に工夫を感じる。ほぼ同時期に封切られたこの二つの映画を二本立て上映すれば、虚構と現実の相互浸透的面白さが出るのではと夢想した。

◎荒唐無稽を支える科学は難解だ

 映画を観たので満を持して『日経サイエンス』の『シン・ゴジラの科学』を読んだ。20ページの特集記事だ。かなり難しい内容で、残念ながら私の頭では十分には理解できなかった。

 この特集記事は大きく二つに分かれていて、前半はゴジラの発生と進化に関する生物学的探求で、後半はゴジラを封じる鍵の一つになった「折り紙」の科学の解説だ。いずれも。専門の学者への取材をまとめたものだ。

 ゴジラは日本が生み出した伝統芸能的な壮大な存在だから、いかに超越的能力をもっていても、それが存在することを前提に「科学的」説明がなされなければならない。今回のゴジラは、深海に投棄された放射性廃棄物を餌にした未知の生物が体内に原子炉や核融合炉をもつ生物へと驚異の進化を遂げる。短時間での進化がSFの発想だ。

 このフィクションを支える科学的キーワードは「エネルギー」「未知の新元素」「混合栄養」「血液凝固剤」「極限環境微生物」「無性生殖」「群体」などだそうだ。解説記事だけではその先端科学の内容は雰囲気しかわからない。しかし、次の記述は印象に残った。

 「将来、そうした地球外生命探求の最前線で、今回の『シン・ゴジラ』を子ども時代に熱心に見て育った若手研究者がリーダーシップをとることになるかもしれない。」

 荒唐無稽な設定を何とか「科学的」に説明しようとするSFが、子どもの好奇心を刺激して科学にいざなう効用をもっているのは確かだと思う。

◎蛇足

 エンドロールの出演者リストの最後に野村萬斎の名があった。映画を思い返しても、どのシーンに出ていたのかわからない。購入したパンフレットをめくってもわからない。ネット検索してやっと判明した。野村萬斎はゴジラだった。ゴジラはCGだから、着ぐるみに野村萬斎が入っていたわけではない。CGのゴリラの動きを振り付けたそうだ。

 壮大なフィクションに科学や伝統芸能のリアルを注入しようとする果敢なこだわりは大切だ。

地球温暖化問題はやっかいだ2016年01月23日

『気候変動とエネルギー問題:CO2温暖化論争を超えて』(深井有/中公新書)、『地球はもう温暖化していない:科学と政治の大転換へ』(深井有/平凡社新書)
 人為的CO2排出が地球温暖化を招いているのでないと主張する物理学者の次の2冊の新書本を続けて読んだ。

『地球はもう温暖化していない:科学と政治の大転換へ』(深井有/平凡社新書/2015.10.15)
『気候変動とエネルギー問題:CO2温暖化論争を超えて』(深井有/中公新書/2011.7.25)

 『地球はもう温暖化していない』は、昨年末『週刊朝日』(2015年11月27日号)の書評欄で斉藤美奈子が「数年後にはこっちが正論になるにちがいないと私は確信しちゃったよ」と紹介していたので興味をもった。文芸評論の斎藤美奈子が科学に強いとは思わないが、多岐にわたる本を読破しているであろう評者に「確信」とまで言わせた本書を読みたくなった。

 同じ著者の『気候変動とエネルギー問題』は東日本大震災の年に出た本で、その折にパラパラと読んではいたが、『地球はもう温暖化していない』を読んだのを機に再読した。著者も書いているように後者は前者を全面的に更新したもので、その論旨はほぼ共通している。

 著者の深井有氏は1934年生まれの金属物理学専攻の物理学者で気候学の専門家ではない。とは言え、元々は東大地球物理学科で気象学を学んでいて大学院の頃に金属物理学に移ったそうだ。若い頃からの関心領域である気象学の現状に口を挟まざるを得ない止むにやまれぬ気持ちから本書2冊を執筆したようだ。

 著者はIPCCに批判的だが、以下についてはIPCCの見解との相違はあまりない。

 ・最近約300年の間、地球の平均気温は上昇してきた。
 ・人為的CO2排出により地球の大気に占めるCO2の割合は上昇している。
 ・CO2は温室効果ガスの一つであり、CO2増加は温暖化の要因になる。

 上記3点を認めるなら、CO2排出を削減することで地球温暖化を抑制する蓋然性があるように素人目には思える。だが、地球の平均気温上昇の主因はCO2増加ではなく、CO2排出の抑制は資源節約の意味はあっても温暖化抑制にはならないというのが著者の見解だ。

 『地球はもう温暖化していない』の主旨を私なりにまとめると以下の通りだ。

 ・地球は温暖化と寒冷化をくり返してきた。その原因は解明途上だ。
 ・最近20年はCO2が増えているにも関わらず温暖化は止まっている。
 ・地球温暖化の主因は太陽活動と宇宙線の可能性が高い。
 ・最近の太陽活動の観測から推測すると、今後は寒冷化すると思われる。
 ・IPCCはCO2排出による温暖化を前提とした組織で、科学的解明には適合せず、政治化している。
 ・CO2排出削減に温暖化抑制の効果は期待できず、莫大なコストをかけるのは無駄だ。
 ・CO2が増えるのはさほど問題ではなく、植物育成などにプラスの効果がある。

 地球温暖化の主因が温室効果ガスではなく太陽活動と宇宙線だという主張が科学的に妥当か否かは、門外漢である私には判断できない。2014年からは再び地球の平均気温が上昇し始めたと聞いたこともある。だが、本書にはある程度の説得力を感じ、いわゆるトンデモ本とは思えなかった。現在、大多数の人が地球温暖化を抑止するためのCO2削減を当然の施策と考え、それを地球環境保全のための崇高な使命とすら捉えている。そんな風潮の中で、本書はおかしな学者が書いたヘンな本と見なされるだけなのだろうか。

 『地球はもう温暖化していない』がどのように評価されているか知りたくてネットを検索してみたが、あまり有用な情報は得られなかった。環境科学の学者が「素人が書く誤りだらけの扇動本」と批判している文章があったが、この学者が他の人から福島の子供たちの放射線リスクを過小に評価するトンドモナイ人と批判されていて「CO2排出抑制論=原発推進論」が連想され、よくわからなくなる。

 地球物理学や気候学の専門家が純粋にサイエンスの目で『地球はもう温暖化していない』の深井氏の議論をどう評価しているのかを知りたいと思ったのだが、そのような記事は発見できなかった。専門家にとっては論評に値しない無視するべき見解なのだろうか。あるいは、深井氏が主張するように多くの専門家は「温暖化ムラ」に取り込まれているのだろうか。

 この世には専門家である科学者の他に、その世界を追っている科学ジャーナリストも多いはずだ。彼らにとってはCO2起因の地球温暖化懐疑論を追うのは邪道なのだろか。私が知らないだけで、この分野で目配りのいい立派な仕事をしている人もいるかもしれないが、よくわからない。

 そもそも地球温暖化問題は科学に政治や経済がからまざるを得ないところがやっかいなのだ。純粋に科学の問題として解明できればいいのだが、事象の解明と対策案がからみあい、政治や経済から純粋なサイエンスを切り離すのが難しい。

 また、純粋なサイエンスと言っても、「真実」に辿り着くには長い道のりがある。もちろん、サイエンスは多数決で決まるものではない。少数意見が正しいわけでもない。最初は異端であってもいずれは大多数の人が認知する「真実」になる見解も多い。それがサイエンスだと思うが、その過程にはかなりの紆余曲折があり得る。

 それは、まさにわれれの歴史と同じだ。尊王攘夷の嵐が吹き荒れた幕末、ナチス台頭期のドイツ、鬼畜米英・八紘一宇の時代の日本、はたまた1960年代の熱気に包まれたわが青春時代などを思い起こすと、大勢という流れの中で「真実」を得ることの困難をあらてめて感じる。地球温暖化問題にも同様のやっかいさを感じる。

科学の世界と芸術の世界の清々しさ2015年11月09日

『獨歩靑天』(入江観/形文社)、『大村智:2億人を病魔から守った化学者』(馬場錬成/中央公論新社)
 何の関連もないと思って読んだ2冊の本の間に思いがけない接点を発見すると、ちょっと得した気分になる。そんな体験をしたのが、ほぼ同時期に読んだ次の2冊だ。

 『獨歩靑天』(入江観/形文社)
 『大村智:2億人を病魔から守った化学者』(馬場錬成/中央公論新社)

 後者はノーベル医学・生理学賞受賞が決まった大村智氏の3年前に出版された伝記で、増刷されて本屋の店頭に積まれている。私はノーベル賞のニュースに接するまで大村智氏を知らなかったが、報道内容でこの学者の生き方に大きな興味を抱いたので本書を購入した。

 前者の著者・入江観氏は春陽会の重鎮の洋画家で、女子美短大の教授を長く勤めた人だ。『獨歩靑天』は入江観氏が新聞・雑誌に発表した文章をまとめた画文集で、出版は7年前だ。

 実は私は高校時代(半世紀ほど昔だ)に入江観氏の美術の授業を受けたことがある。フランス留学から帰ったばかりの若い画家は1年足らずの期間、高校の非常勤教師をやっていたのだ。そんな縁もあり、近年になって入江観氏の絵画を数点購入し『獨歩靑天』も入手した。

 『獨歩靑天』は時おり拾い読みしていたのだが、先日、ちょっと確認したいことがあり、頭から通読した。昔、朝日新聞日曜版で現代画家たちが「おんな」という共通テーマで毎週作品を発表する企画があった。入江観氏がそのときの自作に言及している文章を読んだ記憶があり、その文章を確認したくて『獨歩靑天』をパラパラめくった。しかし、なかなか見つからない。ついに最初のページから最後まで通読してしまった。結局、私のさがしていた文章は見つからなかった。別の媒体で読んだのか、わが記憶の捏造なのか不明だ。年を取るとこういうことはよくある。

 それはさておき、『獨歩靑天』を通読することで新たな発見も多かった。その一つが女子美の理事長で世界的な微生物学者である大村智氏への言及だ。「エカキ校長退任の弁」という文章に出てくる。ノーベル賞受賞のニュースに接した直後にこの言及に遭遇したので、その偶然に驚いた。ただし、「エカキ校長退任の弁」を以前にも読んだのは確かで、今回は再読だった。前回読んだはずの大村智氏に関する件りは完全に失念していたのだ。だから、ノーベル賞受賞のニュースで「大村智ってだれ?」と思ったのだ。悲しいかな、この程度の記憶欠落はもはや日常茶飯事だ。

 『獨歩靑天』の通読とほぼ並行して『大村智:2億人を病魔から守った化学者』を読んだ。科学上の業績や研究室運営の奮闘を描いた伝記だが、最後の方に「科学と芸術の共通性から女子美術大学の理事長へ」という章があり、大村智氏の美術への関わりも述べられている。入江観氏への言及はないが、大村智氏と入江観氏がいっしょに写っている写真が掲載されていて、何の関連もないと思っていた二つの本が呼応しているように感じられた。

 まったく別の世界を扱った二つの本だが、思いがけない接点を発見したせいか、読後感に共通するものがある。大村智氏も入江観氏も同じ1935年生まれで、10歳で終戦をむかえ、同じ時代を生きてきた同世代だ。科学と美術、分野は異なるが若くして海外留学を体験し、日本の戦後復興、高度成長期に独自の世界を切り開いてきた生き方は共通していて、清々しさを感じる。科学者と芸術家は似た存在だとも思える。

 「人まねをしていてはダメだ」という大村智氏の持論や「いかに感動の時間を多く持つかが人生の大事」という入江観氏の指摘には率直に納得できる。若い人に聞かせたいなどとも思ってしまうが、もちろん高齢者にとっても意義深い。

半世紀前、『理科実験観察事典』は私の宝物だった2015年08月23日

『理科実験観察事典』(保育社/1958年3月15日発行)、夏休みの自由研究「ブザーのしくみ」
 夏休みも終わりに近づき、新聞には「まだ間に合う! 夏休みの自由研究」という記事が載ったりしている。当方は夏休みに関係のない自由人だが、この夏、娘に頼まれて小学4年の孫の自由研究の手ほどきをした。

 そんなときに役立つのが『理科実験観察事典』(保育社/1958年3月15日発行)である。57年前、私が小学4年のときに親に買ってもらった本で、いまでもわが書架に保存されている。わたしが現在持っている書籍の中の最古参だ。

 小学4年のときに入手した本を半世紀以上も手放さずにきたのは、『理科実験観察事典』は小学生時代の私の宝物で、特別の思い入れがあったからだ。子供の頃、わたしは「この本には何でも載っている」と感嘆した。ドラえもんの秘密道具ほどではないにしても、「何でも…」という万能感に子供心が圧倒されたのである。

 『理科実験観察事典』は748ページのハードカバーで250の項目が載っている。その項目例をいくつか挙げてみる。

  「アサガオのそだてかた」
  「カイコの飼いかた」
  「肺活量のはかりかた」
  「のみ水のこしかた」
  「とうふの作りかた」
  「電じしゃくの作りかた」
  「電気メッキのしかた」
  「せん望鏡の作りかた」
  「北極星の見つけかた」
  「気圧のはかりかた」
  「化石の採集のしかた」
  「ハンダづけのしかた」

 大半の項目は見開き2ページの説明で、ぶ厚い本に「…のしかた」「…の作りかた」がびっしり詰め込まれているのだ。もちろん、本当に「何でも」載っているわけではないが、半世紀前の小学生にとって250の項目は、自分の身近な世界を超える膨大な量だった。目次を眺めるだけでこの世界の森羅万象の大きさを感じたものだ。

 この本の「日食、月食の調べかた」の項目には、日本で見られる日食の一覧表があり、そこには1957年4月29日から2002年6月22日までの21回の日食が載っている。1958年(昭和33年)当時の感覚では2002年はるかな未来だ。この表には未来予言を見るような感動を覚えた。この表を見て、この本は21世紀までは使えるから、それまでは保存しなければならないと思ったような気もする。

 当時のはるかな未来だった2002年もすでに過去となり、奇しくもわが孫は、わたしが『理科実験観察事典』を手にしたときと同じ小学4年生である。本書を孫に見せても反応はイマイチだ。おまえにはこの本のスゴさがわからないのかと、がっかりさせられるが、無理に押し付けることもできない。

 だが、孫の自由研究は私が本書から選んだ「ブザーや電れいの作りかた」を元に「ブザーのしくみ」という表題の代物を製作した。いまでも、じゅうぶんに役立つ本なのだ。

 本来の自由研究は、独創的で自由な発想をきっかけにするべきだろう。だが、そんな立派な自由研究に挑戦できる子供は限られていて、書籍や雑誌やネットなどに載っている指南をトレースするケースが多いようだ。それなら、わが『理科実験観察事典』をベースにすれば、ちょっと変わったレトロな自由研究ができるのではと自負している。

<山極進化論>で壮大な時間旅行2015年02月26日

『「サル化」する人間社会』(山極寿一/集英社インターナショナル/2014年7月)、『家族進化論』(山極寿一/東京大学出版会/2012年6月)
◎進化論への関心から…

 『家族進化論』(山極寿一/東京大学出版会/2012年6月)をタイトルと著者の経歴に惹かれて購入したのは半年以上前だ。

 進化論は私の関心領域テーマのひとつだ。進化論というマクロな科学的探究にはロマンがあり、進化論の歴史には科学史の面白さがある。と言っても通俗書ばかりを読んでいる素人だから、きちんと勉強しているわけではない。進化論への釈然としない気分が消えることはなく、いつまで経っても進化論を理解したという気にはなれない。

 進化論への関心の何割かは今西錦司というユニークな学者への関心によるものだ。学生時代(40年以上昔)に今西錦司の『生物の世界』に取り組み、その後、中公新書の『ダーウィン論』『主体性の進化論』、吉本隆明を聞き手にした『ダーウィンを超えて:今西進化論講義』なども興味深く読んだ筈だ。しかし、その内容は忘却の彼方だ。

 山極寿一氏はゴリラ研究の第一人者で、今西錦司を始祖とする京都大学の霊長類研究を受け継ぐ1952年生まれの学者だ。作年10月には京都大学総長に就任している。『家族進化論』は、今西錦司の流れを汲む学者の進化論に関する本だから食指が動いたのだ。

◎挫折のあとで再挑戦

 『家族進化論』を読み始めてすぐ、これは難儀な本だと気付いた。シンプルなタイトルと絵本のように楽しげな表紙には一般人向け解説書の雰囲気があるが、やや専門書に近い本だった。霊長類学に全く不案内な私には歯ごたえがありすぎて、冒頭の部分を読んだだけで止まってしまった。

 その後、新聞の書評で『「サル化」する人間社会』(山極寿一/集英社インターナショナル/2014年7月)を知り、こちらの方が読みやすそうに思えたので購入した。『「サル化」する人間社会』は話し言葉で書かれた小ぶりな本で読みやすく、一気に読了できた。著者のフィールドワークの体験談をふまえながら霊長類(主にゴリラ)の社会を解説した興味深い内容だった。

 『「サル化」する人間社会』を読了すると、霊長類学の基礎知識を身につけた気分になり、『家族進化論』への関心がよみがえった。『家族進化論』に再挑戦すると、今度は興味深く読み進められた。

 『「サル化」する人間社会』は『家族進化論』の2年後に刊行されていて、この2冊の内容はかなり重複している。前者は門外漢にわかりやすく語りかけるスタイル、後者は一定の知識のある読者に対して最近の研究成果と著者の見解を紹介するスタイルになっている。不案内な分野に関しては、入門的な本を読んでから専門的な本に取り組むのがいいという当たり前のことを再認識した。

◎長大な時間の物語

 山極氏の2冊を読み終えた私の頭の中は、この2冊の内容が混然一体となり、人類の起源、社会性の起源、家族の起源をたどる長大な時間の旅から帰還した気分だ。

 これらの本で扱っている主な事象と時間を整理すると以下のようになる。
 
 ◆ヒト科(類人猿と人類)の歴史
  1200万年~1500万年前:ヒト科の共通祖先からオランウータンが分離
  900万年~1200万年前:ヒト科の共通祖先からゴリラが分離
  700万年~900万年前:ヒト科の共通祖先からヒト(直立二足歩行)が分離
  250万年~100万年前:ヒト科の共通祖先からチンパージーとボノボが分離

 ◆ヒト族の歴史(ホモ・サピエンス以外は絶滅)
  440万年前 アルディピテクス・ラミダス(最古の化石人類の一つ)の性差は現代人並みだったと推測されている。
  200万年前 人類の脳が大きくなり始める。ホモ・ハビリスの脳が600ccを超える。
  60万年前 ホモ・ハイデルベルゲンシスの脳は1400ccになる。
  30万年前 ネアンデルタール人登場。3万年前まで生存。脳は現代人をしのぐ1800cc(現代人は1500cc)。
   20万年前  ホモ・サピエンスがアフリカに登場。
  10万年前 ホモ・サピエンス、アフリカを出て中東に進出。
  5万~6万年前 ホモ・サピエンス、中央アジアやオーストラリアに進出。
  4万年前 ホモ・サピエンス、ヨーロッパに進出。
  1万8000年前 最終氷期終わる。
  1万5000年前 世界の気候が温暖で湿潤になり安定する。
  1万4000年前 ホモ・サピエンス、アメリカ大陸に進出。
  1万年余り前 食料生産(農耕の萌芽)始まる
  7500年前 首長を備える数千人規模の社会が出現(西南アジア)。

 このような年表にまとめると人類史の本のように見えるが、この2冊の主な内容はゴリラ研究に基づいた類人猿の社会性の考察であリ、主にゴリラの社会に関する知見からヒトの家族の起源を探究している。

◎ワイルドなフールドワークに仰天

 『「サル化」する人間社会』を読んでいて驚いたのは、アフリカにおける野生ゴリラ研究の様子だ。壮絶でワイルドなフィールドワークの報告に「そこまでやるのか」と感心しつつ、学問研究の厳しさをあらためて認識した。

 この本のタイトルにある「サル」はニホンザルなどの真猿類を指していて、類人猿のことではない。本書の大半は真猿類ではなく類人猿のゴリラの話なのだが、最終章で、現代社会への警鐘として、サル(類人猿ではなく真猿類)の社会と人間社会の比較を展開している。

 この最終章は本書全体のトーンと少し異質である。ゴリラの世界の社会性を探究してきた著者には、人間本来の社会性が希薄になるように見える現代の人間社会が危ういものに見えているのだ。ここで述べられている「サル社会」とは、絶対的な序列社会であり、全体のルールに従うことで個人の利益を最大化する効率的なシステムであり、そこに家族というコミュニティはない。
 
◎『2001年宇宙の旅』は間違っていた?

 『家族進化論』には映画『2001年宇宙の旅』への言及がある。1968年に公開されたこの映画を、私は封切り館で観て以来、再上映やLD、DVDなどでたびたび観ている。私にとってオールタイム・ベストワンの映画だ。

 この映画には「狩猟仮説」を反映したシーンがある。狩猟仮説とは、人類は初期の時代(400万年前~200万年前の猿人の時代)から狩猟によって生計を立て、狩猟に適したさまざまな特徴を発達させて現代に至ったという考えである。この考えは現在では否定されているそうだ。初期の人類は「狩る者」ではなく、肉食獣などに「狩られる者」であり、その捕食圧によって進化したらしい。

 問題のシーンは、謎の物体「モノリス」に手を触れた猿人が進化を開始する印象的なシーンである。骨を武器として使うことを憶えた猿人は、それを使って獲物を倒し、対立する猿人集団を攻撃して勝利し、その骨を高く空に抛り上げる。その骨は宇宙空間を行く宇宙船に変貌する。今も目にやきついている名シーンだ。

 約半世紀前に感動した名シーンが誤った仮説に基づくものだと知り、長生きはするものだと思った。

 人類が狩猟能力を発揮するのは、200万年前という遠い昔ではなく、比較的最近のことだそうだ。それは10万年前のホモ・サピエンスの出アフリカ以降だ。その狩猟技術はすさまじいもので、ホモ・サピエンスが進出したユーラシア大陸やアメリカ大陸ではまたたく間に大型野生動物を絶滅に追いやった。マンモスもその一例だ。

 本書のそんな記述に接すると、武器という道具のまたたく間の進歩をシンボリックに描いた『2001年宇宙の旅』のあのシーンは、科学的な時代考証に間違いがあるにしても、やはり名シーンだと思う。 

◎蛇足だが――

 『家族進化論』のオビに「家族はどのようにして生まれ、どこへ向かうのか―― 人類がアフリカから旅立って180万年、悠久の時間のなかにその起源と進化のストーリーをたどる」とある。ホモ・サピエンスの出アフリカは10万年前なので、180万年という数字は誤植だと思った。

 気になって調べてみると、これは誤植ではなさそうだ。10万年前の出アフリカは、われわれの直接の祖先であるホモ・サピエンスに関する事象で、本書が扱っている時間から見ればかなり最近の出来事であり、本書全体の記述の最終段階の話である。

 ホモ・サピエンスの出アフリカより遥か昔の180万年前、ホモ・エレクトス(原人)の出アフリカがあったらしい。『家族進化論』はホモ・サピエンスだけを論じているのではなく、類人猿から人類にいたる進化を扱っている。だから、アフリカの熱帯雨林から草原に進出した人類の祖先に焦点をあてれば、180万年という時間の方が本書にふさわしい。

 10万年前を「最近」と感じることができるのは希有な経験である。

人力ヘリと宇宙エレベーターにワクワク気分甦る2015年01月30日

『日経サイエンス 2015年2月号』目次頁、Eテレ『サイエンスゼロ』の画面、『軌道エレベアーター』(石原藤夫、金子隆一/早川書房)
 『日経サイエンス 2015年2月号』の「人力ヘリを飛ばした現代のライト兄弟」という記事が刺激的だった。人力飛行機コンテストはテレビで目にすることがあるが、人力ヘリコプターについては知らなかった。

 米国ヘリコプター協会は、人力で1分以上ホバーリングするヘリコプターへ賞金25万ドルを提供するとしていたが、この30年間だれも成功しなかった。2007年には、そんな人力ヘリは不可能だという航空工学の論文も出たそうだ。確かに、人力による回転運動で自分自身を垂直に浮遊させるのは難しそうに思われる。

 しかし2013年6月、カナダの二人の若い航空工学者(ライヘルトとロバートソン)が、3メートル以上の高度で1分以上浮遊する人工ヘリを完成した。写真を見ると、グライダーの主翼を4セット吊り下げたような巨大なローターになっている。これを分10回という低速で回転させて浮遊するそうだ。もちろん、設計には緻密な計算があったのだが、写真を眺めるだけでも、いかにも浮遊しそうに思えてくる。コロンブスの卵だ。

 この二人が「人力ヘリは不可能」という専門家の論文を知ったのは、飛行に成功して賞金を獲得した後だったそうだ。痛快な話である。

 この記事の末尾で紹介されているロバートソンの「無茶な目標を設定する必要がある」というコメントが素晴らしい。自動車の燃費を88%改善させようなどという「平凡な目標設定」ではダメで、例えば「1000%の燃費改善の義務化」などがあれば、新たな自動車が誕生するだろうというのだ。「不可能に挑むほうが容易だとは限らないが、平凡なことに挑むよりも満足感が大きく、やる気をそそられ、そして結局のところ、より重要だ」という見解は楽天的にも聞こえるが、頼もしい。

 この記事と似た感慨を抱いたのは「宇宙エレベーター」の話題だ。年初にEテレの「サイエンスゼロ」でも、この壮大なプロジェクト(?)を採り上げ、早ければ2050年に完成と紹介していた。宇宙エレベーター(SFの世界では「軌道エレベーター」と呼ぶことも多い)は、静止軌道の衛星と地球をつなぐエレベーターだ。私は50年前に「SFマガジン」に連載された小松左京の『果しなき流れの果に』でこのエレベーターのアイディアを知って以来、興味を抱いていた。

 宇宙エレベーターを扱ったSFや解説本をいくつか読んできたが、フィクションではなくリアルの世界で宇宙エレベーターが語られる時代が到来したことに少し驚いている。もちろん、解決するべき技術的課題や経済的課題は山積しているだろうが「無茶な目標設定」が掲げられていることに感動する。

 経済成長や技術革新が過ぎ去った時代のもののように感じられる停滞的な風潮の中で、あえて技術革新の夢を語るのは意味深い。社会学者の分析によれば、私たち団塊世代の若い頃は「理想や夢を信じることができる時代」だったが、現在はそんな時代ではなくなっているそうだ。そうは言われても、「人工ヘリ」や「宇宙エレベーター」の話題に接すると、若い頃に抱いた素朴なワクワク感が甦ってきて、これからの世の中も捨てたものではないと思えてくる。古典的な初夢気分だろうか。

フィールドワークの話は面白い2014年12月29日

『たけしのグレートジャーニー』(ビートたけし/新潮社)
 ある科学者についてネットで検索していて、『たけしのグレートジャーニー』(新潮社)という本を見つけた。ビートたけしと11人の科学者たちとの対談集で、その中に私が関心を抱いている科学者が複数いたので購入した。

 本書は雑誌『新潮45』に連載された対談をまとめたもので、次の11人が登場する。

  1 関野吉晴(探検の達人)
 2 西江雅之(文化人類学の達人)
 3 荻巣樹徳(植物探検の達人)
  4 山崎寿一(ゴリラの達人)
  5 松浦健二(シロアリの達人)
  6 塚本勝巳(ウナギの達人)
  7 長沼毅(辺境生物学の達人)
 8 佐藤克文(海洋動物の達人)
 9 窪寺恒己(ダイオウイカの達人)
 10 鎌田浩毅(地球の達人)
 11 村山斉(宇宙の達人)

 肩書がすべて「…の達人」となっているのは、雑誌連載のタイトルが「達人対談」だったからだろう。それにしても、何とも大らかな肩書だ。それが楽しい。読みやすくて刺激的で面白い対談集だ。うかつにも、ビートたけしがディスカバリー・チャンネルばかり見ている科学愛好者だとは知らなかった。

 ここに登場する大半の「達人」はフィールドワークをベースに研究をしている。だから、科学者であると同時に探検家だ。抽象的な知の探検ではなく体を張った具体的な探検である。10、11の「地球の達人」「宇宙の達人」はフィールドが広大過ぎるので、さすがに具体的な現地報告とはいかないが、他の人々の対談は人外魔境に赴いた探検家の冒険譚を聞く趣がある。

 私の子供時代には、アフリカ探検や南極探検の物語に心がときめいたものだ。昔は地球上に「秘境」がたくさんあったが、いまやその多くが秘境でなくなり、探検に憧れる心も失せてしまったように思える。

 本書を読んで、自分の中で色あせていた探検への憧れがかすかに甦り、探検家たちの物語に抱いた遠い昔のワクワク感を思い出した。

 科学の最前線には興味深い話題がたくさんあり、どれもが刺激的だ。頭だけで探究する分野も魅力的で好奇心を刺激されるが、つかみ所のないもどかしさも感じる。こちらの頭がついて行けないのだから仕方ない。やはり、頭と体の両方を使わなければ探究できない分野の方が感情移入しやすくて面白い。

 頭も体も衰えはじめている身で本書に接し、そんな感想を抱いた。そして、あらためて頭も体も鍛えなければと思った。やれやれ。

『日経サイエンス』の特集は「超能力」!?2014年09月08日

『日経サイエンス』(2014/10)
 『日経サイエンス』の最新号(2014/10)の表紙に大きく「ESP」と書かれている。超常現象を科学的に追究しようとする本を読んだばかりなので、この雑誌も超常現象に注目しているのかと、少しギョッとした。だが、そんな内容ではなく、少し安心し、少しガッカリした。そして、驚いた。

 ESP(Extra Sensory Percerption: 超感覚的知覚)と言えば超能力であり、SFのエスパー(超能力者)を連想する。要はテレパシー、透視、予知などである。『日経サイエンス』の特集記事は、ESPの存在を科学的に解明しようという内容ではなく、現在の科学技術を使って「超能力」を作り出してしまおうという内容だ。こういう着眼点があったのかと驚き、興味深く読んだ。

 インターネットの黎明期、次のようなことが言わていた。

 「蒸気機関が人間の筋肉の力を拡張し、コンピュータが人間の計算能力を拡張したように、ネットは人間のコミュニケーション能力を拡張する」

 かつて、私もネット事業に関わっていた。20年程昔、そのようなことを語ったり書いたりした記憶がある。しかし、その先に「超能力の実現」があるとは思い及ばなかった。自分の想像力の貧困を嘆くしかない。

 『日経サイエンス』の特集は「センサー網が実現するESP」「代替現実で時間をワープ」の2本で構成されている。

 前者は、世界中に張り巡らされたさまざまなセンサーを総合的に利用することによって見えてくる新たな「知覚」を論じている。それは「透視」や「遠隔移動」に似ているが、われわれには未知の「知覚」でもある。

 後者は、パノラマカメラで撮影した映像をヘッドマウントディスプレイ(頭の上半分を覆う装置)を通して見る実験のレポートだ。頭の動きに合わせて映像も動くので、撮影した映像を現実のように感じることができるそうだ。タイトルにある「時間ワープ」は未来ではなく過去へのワープであり、パラマウントカメラで撮影しておけば、その情景をいつでも追体験できるというわけだ。

 特集記事が2本だけなのは少しモノ足りない。科学技術によって作り出すことができそうな「超能力」は他にもいろいろありそうな気がする。

 そんなことを考えていると、われわれが体験している「現実」とは何かという問題が浮かび上がってくる。『「超常現象」を本気で科学する』(石川幹人/新潮新書)でも、生物にとっての「現実」とは「認識」の問題だといった言及があった。超能力を作るということは、脳科学の課題と考えるべきのように思える。脳科学恐るべしとの考えを新たにした。