早トチリで買った新書で思いがけず科学史のおさらい2018年03月13日

『〈どんでん返し〉の科学史:蘇る錬金術、天動説、自然発生説』(小山慶太/中公新書)
 書店の店頭に次の新刊新書が平積みされていた。

 『〈どんでん返し〉の科学史:蘇る錬金術、天動説、自然発生説』(小山慶太/中公新書)

 まず、タイトルに目を奪われた。オビの「まさか、錬金術が現代によみがえるとは!」にもびっくりした。手に取って目次をパラパラとめくっただけで、すぐに購入してしまった。現代科学の最前線の驚異を報告するビックリ本だと思ったのだ。

 帰宅して「まえがき」読み、早トチリに気づいた。「蘇る錬金術」とは核物理学による元素変換のことであり、「蘇る天動説」とは宇宙の相対座標のことであり、「蘇る自然発生説」とは原始生命は有機高分子から発生しただろうという話である。暗黒エネルギーは21世紀のエーテルに相当するという記述もある。要は科学史の啓蒙書である。

 「どんでん返し」という視点から科学史を振り返っているのが本書のミソであり、最先端のビックリ大発見の本ではなかった。目次を冷静に見れば内容はわかるのだが、本書を店頭で手にした私は妙なかん違いをしていた。トンデモ科学やエセ科学は私が最も警戒するものなのに、いったい何を期待して本書を購入したのだろうか。精神状態がおかしかったのかもしれない。

 おのれの早トチリを呪いつつも本書を読み進めた。科学史関連の本を読むには久しぶりなので、学生時代の遠い記憶がよみがえってくるような新鮮で懐かしい気分になった。

 本書は「蘇る錬金術」「転変をつづける宇宙像」「復活した不可秤物質」「回帰する生命の自然発生説」の4章から成り、それぞれ以下のような科学史のトピックを解説している。

 ・元素論、錬金術、原子構造の発見、太陽の核融合
 ・コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン
 ・カロリック(熱素)、光子、量子力学、フォノン、重力波、ヒッグス場
 ・微生物の発見、進化論、DNA、生命と物質

 まさにコンパクトな科学史の本である。科学史は私の興味分野の一つだ。私にとっての新たな知見もいろいろあり、面白く読了できた。想定外に科学史の本を読んでしまい、もっときちんと科学史を勉強しなければなあ、という気分になった。と言っても、残された人生の時間は限られているからなあ、とも思った。

新書大賞『バッタを倒しにアフリカへ』を読んでハッとした2018年03月04日

『バッタを倒しにアフリカへ』(前野ウルド浩太郎/光文社新書)、『蒼茫の大地、滅ぶ(上)(下)』(西村寿行/講談社文庫)
◎研究者はエライ

 新書大賞受賞の『バッタを倒しにアフリカへ』(前野ウルド浩太郎/光文社新書)を読んだ。昨年5月の刊行直後から新聞や雑誌に取り上げられていた話題の本だ。

 読み始めると一気読みになった。やはり面白い。軽妙な語り口で楽しく読めて、内容は軽くはない。勤務先が限られているポスドク研究者の試練の状況を生々しく報告し、アフリカでのフィールドワークの楽しくも苛酷な様子を臨場感たっぷりに語ってる。

 そして何よりも研究への情熱が伝わってくる。研究者はエライと感心してしまう。日本の研究環境ももう少し何とかならないのかとも感じる。著者がファーブルによって研究者の道を目指したように、本書を読んだ子供たちの中から次代の研究者が育っていくことを願う。研究者生活の厳しさにビビる子供が出てきては逆効果だが…

 私たちの子供の頃に比べて、科学者への憧れのようなものが何となく減少しているように感じるのは私だけだろうか。

 本書で驚いたのはファーブルが母国フランスでは知名度が低いという話だ。「昆虫の研究者でも10人中一人ぐらいしか知らない」そうだ。なぜ、日本とフランスで知名度が違うのだろうか。本書はその原因には言及していない。思いを巡らしているうちに、現代の日本の子供がどのくらいファーブルを知っているのか、少し気になってきた。

◎37年前に中断した読書を想起

 著者の研究テーマは「神の罰」とも呼ばれるバッタの大群「飛蝗」である。本書を読んでいて、ふいに西村寿行の小説『蒼茫の大地、滅ぶ』が出てきてハッとした。飛蝗を扱ったパニック小説である。著者は学生時代に漫画で読んでいて、原作の小説版があるとは知らなかったそうだ。私は漫画化されているとは知らなかった。

 私がハッとしたのは、遠い昔にこの小説を読みかけて中断したままだったことを思い出したからだ。引っ越しのたびに本を処分しているが、書架の奥を探してみると1981年5月発行の講談社文庫版の上下2冊が出てきた。37年前の本だ。上巻の100頁を過ぎたあたりに栞代わりの紙が挟まっていた。その紙の露出部分が色あせてヨレヨレになっていた。

 なぜ中断したかは憶えていない。つまらない本や難しい本ではなく私好みのSFっぽいエンタメなので、普通は読み通すはずだ。当時は30代前半、仕事が多忙になり通勤電車で読書する余裕もなくなったのかもしれない。考えてみれば、この文庫本が出た時、『バッタを倒しにアフリカへ』の前野氏は生まれたばかりの1歳だ。小説の存在を知らなくて当然かもしれない。

 …というわけで、37年ぶりに手にした『蒼茫の大地、滅ぶ』(上)(下)を読了した。西村寿行の動物小説ではあるが、ポリティカル・バイオレンス小説である。飛蝗パニック小説から東北独立の政治軍事小説へと移行する展開だった。西村寿行が荒唐無稽なのは当然だが、やはり昔のエンタメを読んでいる気分になる。東北地方の怨念を背景にしたこの小説を書いた西村寿行は、2011年の3.11を見ることなく2007年に76歳で没している。

 若い研究者の新書がきっかけで、遠い昔の忘れ物を拾い上げた気分になった。

『新版 動的平衡』で生命と時間の深淵を覗く2017年09月23日

『新版 動的平衡:生命はなぜそこに宿るのか』(福岡伸一/小学館新書)
◎時の流れの速さを感じながら…

 福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)に大きな刺激を受けたのは数年前のように感じていた。だが、読書メモを確認すると10年前だった。時の流れの速さに驚く。

 その後、新聞や雑誌で福岡伸一氏の文章に何度も接してきたものの著書をひもとく機会がなく10年が経過し、このたび次の本を読んだ。

 『新版 動的平衡:生命はなぜそこに宿るのか』(福岡伸一/小学館新書)

 科学エッセイに近いにも関わらず先端的な見解も開陳されていて、わが干からびかけた脳への大いなる刺激になった。

 第1章では、年を取るとなぜ時間の流れを速く感じるかについての明解な解説もあり、私が『生物と無生物のあいだ』読了からの時間経過を速いと感じた由縁も納得できた。年を取るに従って体内時計の回転速度が徐々に遅くなるからだそうだ。

◎生命現象と時間の絡み

 10年前に読んだ『生物と無生物のあいだ』で最も印象深かったのは、生命を動的平衡と捉え、時間という要素を強調した点だ。生命を時間と絡めて探求する見解に瞠目した。

 『新版 動的平衡』は『生物と無生物のあいだ』で提示した「生命とは何か」をより明確に描出している。もちろんキーワードは動的平衡であり、そこで否定されているのは機械論的な生命像(デカルト主義)である。

 私は人間機械論的な考え方にある程度の共感を感じていたが、本書を読んでいると著者の見解が正しく思えてきた。生命を構成する物質の合成と分解が絶え間なく進行している動的平衡の状態が生命現象だというのは納得しやすい。

 さらに興味深いのは、この動的平衡において分解がわずかに合成を上回っているとすれば、生命の有限性が必然となり、そこに「時間の発生」の概念が生まれるという指摘だ。

 生命現象が時間を生み出したという考えは、橋元淳一郎氏の『時間はどこで生まれるのか』『時間はなぜ取り戻せないのか』『時空と生命』などでも提示されている。福岡伸一氏の考えと同じというわけではなさそうだが、通底するものがあり興味深い。時間論は面白い。

◎不老不死は杞憂か

 福岡伸一氏は動的平衡という生命観に基づいて、ips細胞などのバイオテクノロジーの医療応用には懐疑的である。人間の部品を置き換えるという機械論的な手法は不可能だろうと考えているのだ。 

 先日読んだ『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ)では、バイオテクノロジーの発展によって人類が生物学的に定められた限界を超えて「超ホモ・サピエンス」になっていく未来を、やや暗いトーンで描いていた。だが本書を読むと、そんな未来は杞憂なのかもしれないとも思えてきた。

オランダのハイテク農業の記事を読み日本の出遅れを憂う2017年08月30日

 NATIONAL GEOGRAPHIC 日本語版2017年9月号に「オランダが救う世界の飢餓」という記事が載っていた。狭い国土でハイテク農業を展開しているオランダ農業の紹介記事だ。

 農地が少ないオランダはITなどのハイテクを駆使した植物工場によって、米国に次ぐ世界第2位の農産物輸出国になっている。それをテレビ番組で知ったのは5年程前だ。まさに日本の農業が目指すお手本だと興味をもち、関連記事や関連書籍を読んだ。その後もIT活用の植物工場のニュースには注目しているが、あまり報道されることはない。日本の植物工場の多くはコスト高の課題を考えているらしい。種物工場なら、今般の天候異変のような影響も受けにくいはずなのだが。

 私が植物工場に興味をもったのは、八ヶ岳南麓の山小屋の庭でささやかな素人野菜作りをしていることにも関連する。私は決して土いじりが好きなわけではなく、畑仕事は面倒で大変な作業だと実感している(だから手抜きにもなるのだ)。趣味を超えた産業としての野菜作りには技術革新が必要だと痛感している。

 これからの農業が先端産業になる可能性に着目している人は多く、さまざまな試みが展開されているのは確かだ。農政の制約のせいか否かはわからないが、日本の農業のハイテク化がオランダに匹敵するような状態にまで進展しているとは思えない。残念である。

 農業問題の本質とはズレるが、植物工場ががコスト高なら、家庭菜園用のコンパクトな植物工場キットを売り出してはと思う。元来、家庭菜園は新鮮な野菜を手近に入手できるのが魅力であり、コストは度外視されているケースが多い。手足を土でドロドロに汚すことなく手軽に野菜作りができる「植物工場キット」には需要がありそうに思えるが、どうだろうか。

二つの科学雑誌の特集記事が暗示する困った時代2017年06月06日

 『日経サイエンス 2017年7月号』の特集記事は「トランプvs科学 Post-truthに抗う」だ。科学雑誌らしからぬ政治的な見出しで目を引く。ほぼ同じ時期に発売の『NATIONAL GEOGRAPHIC 2017年6月号』の特集記事は「なぜ人間は嘘をつくか」で、この記事もトランプ大統領に触れている。

 二つの科学雑誌の最新号がトランプ大統領登場に触発されたと推測される特集を組んでいるのに、メディアの敏感さを感じると同時に、21世紀初頭において世界史は転機に晒されているようにも感じられる。

 『NATIONAL GEOGRAPHIC』の特集は、人間は誰でも嘘をつくという事実をふまえて、人の進化や子供の成長にからめて「嘘をつく」という行為を解説したうえで、この行為を社会心理学的に論じている。

 『日経サイエンス』の特集記事は、科学的知見やデータを軽視するトランプ大統領の反科学的な態度を取り上げ、それが今後の米国の科学政策へ及ぼす影響を案じている。

 二つの記事が共通して取り上げているトランプ大統領の「嘘」に関するエピソードが二つある。就任式の観衆の数がオバマ大統領の時より多かったという主張と「ワクチンは自閉症を引きおこす」という主張だ。前者は映像やデータから間違いなのは明らかだし、ワクチンに関する主張は学問的には否定されている。しかし、大統領は主張を変えない。不思議な話であるが、そんな時代に入ってしまったのだと考えるしかない。

 こんな記事を読んでいると、ヒトラーのナチス時代が想起される。アーリア人が最優秀でユダヤ人が劣等人種だという主張には科学的根拠も証拠もない。当時の科学者や知性ある人々の多くはヒトラーの主張が間違っていると分かっていた。にもかかわらず、ヒトラーは合法的に政権を奪取し、大衆は独裁者を支持し、その社会はホロコーストへと突き進んでいく。そんな20世紀の暗い教訓を21世紀になってかみしめなければならないのだから、人類は容易には進歩しないものだと思う。

 二つの記事が共通して指摘しているのは、インターネットの発展によって嘘や偽情報の伝播が容易になり、21世紀特有の社会学的な問題が現出している点である。ヒトラーの時代よりも情況は悪化しつつあるのかもしれない。大変なことである。

『シン・ゴジラ』は面白い。その科学は難しい。2016年12月21日

◎ついに観た『シン・ゴジラ』

 年末になって『シン・ゴジラ』を観た。今年7月の封切り時にはさほど関心がなかったが、『太陽の蓋』に似ているという話を聞き、興味が湧いた。そして、先月発売の『日経サイエンス 2016年12月号』に『シン・ゴジラの科学』という特集記事があったので驚いた。真面目な科学雑誌が特集するほどの科学テーマを内包しているなら、ぜひ観なければと思い、映画を観るまではその特集記事を読むのを封印した。ネタバレになると思ったからだ。

◎『太陽の蓋』と『シン・ゴジラ』

 封切りから半年経って観た『シン・ゴジラ』は従来の怪獣映画とは一線を画す面白さで十分に楽しめた。首相官邸の対応を中心にしたリアルっぽい政治エンターテインメントで、原発事故を連想させる仕掛けになっているのが現代的だ。

 確かに3.11の原発事故をテーマにした『太陽の蓋』に似ている。「ジャーナリスティック・エンターテインメント」と銘打った『太陽の蓋』は今年7月の封切り時に渋谷ユーロスペースで観た。管内閣の官房副長官・福山哲郎氏の『原発危機 官邸からの証言』(ちくま書房)などを元にしたドキュメンタリータッチの劇映画だ。俳優たちが福山官房副長官をはじめ管首相、枝野官房長官らを実名で演じるのがミソで、仮名で登場する学者や東電関係者の頼りなさが浮き彫りになる警世の映画だった。よりえげつないほどにジャーナリスティックで、もっとエンタメ性を高めれば、単館上映ではなく広範な観客を動員できたのではと思った。

 今回『シン・ゴジラ』を観て、『太陽の蓋』が目指した「ジャーナリスティック・エンターテインメント」がここに実現されているようにも感じた。どちらも、官房副長官を中心に展開する点に工夫を感じる。ほぼ同時期に封切られたこの二つの映画を二本立て上映すれば、虚構と現実の相互浸透的面白さが出るのではと夢想した。

◎荒唐無稽を支える科学は難解だ

 映画を観たので満を持して『日経サイエンス』の『シン・ゴジラの科学』を読んだ。20ページの特集記事だ。かなり難しい内容で、残念ながら私の頭では十分には理解できなかった。

 この特集記事は大きく二つに分かれていて、前半はゴジラの発生と進化に関する生物学的探求で、後半はゴジラを封じる鍵の一つになった「折り紙」の科学の解説だ。いずれも。専門の学者への取材をまとめたものだ。

 ゴジラは日本が生み出した伝統芸能的な壮大な存在だから、いかに超越的能力をもっていても、それが存在することを前提に「科学的」説明がなされなければならない。今回のゴジラは、深海に投棄された放射性廃棄物を餌にした未知の生物が体内に原子炉や核融合炉をもつ生物へと驚異の進化を遂げる。短時間での進化がSFの発想だ。

 このフィクションを支える科学的キーワードは「エネルギー」「未知の新元素」「混合栄養」「血液凝固剤」「極限環境微生物」「無性生殖」「群体」などだそうだ。解説記事だけではその先端科学の内容は雰囲気しかわからない。しかし、次の記述は印象に残った。

 「将来、そうした地球外生命探求の最前線で、今回の『シン・ゴジラ』を子ども時代に熱心に見て育った若手研究者がリーダーシップをとることになるかもしれない。」

 荒唐無稽な設定を何とか「科学的」に説明しようとするSFが、子どもの好奇心を刺激して科学にいざなう効用をもっているのは確かだと思う。

◎蛇足

 エンドロールの出演者リストの最後に野村萬斎の名があった。映画を思い返しても、どのシーンに出ていたのかわからない。購入したパンフレットをめくってもわからない。ネット検索してやっと判明した。野村萬斎はゴジラだった。ゴジラはCGだから、着ぐるみに野村萬斎が入っていたわけではない。CGのゴリラの動きを振り付けたそうだ。

 壮大なフィクションに科学や伝統芸能のリアルを注入しようとする果敢なこだわりは大切だ。

地球温暖化問題はやっかいだ2016年01月23日

『気候変動とエネルギー問題:CO2温暖化論争を超えて』(深井有/中公新書)、『地球はもう温暖化していない:科学と政治の大転換へ』(深井有/平凡社新書)
 人為的CO2排出が地球温暖化を招いているのでないと主張する物理学者の次の2冊の新書本を続けて読んだ。

『地球はもう温暖化していない:科学と政治の大転換へ』(深井有/平凡社新書/2015.10.15)
『気候変動とエネルギー問題:CO2温暖化論争を超えて』(深井有/中公新書/2011.7.25)

 『地球はもう温暖化していない』は、昨年末『週刊朝日』(2015年11月27日号)の書評欄で斉藤美奈子が「数年後にはこっちが正論になるにちがいないと私は確信しちゃったよ」と紹介していたので興味をもった。文芸評論の斎藤美奈子が科学に強いとは思わないが、多岐にわたる本を読破しているであろう評者に「確信」とまで言わせた本書を読みたくなった。

 同じ著者の『気候変動とエネルギー問題』は東日本大震災の年に出た本で、その折にパラパラと読んではいたが、『地球はもう温暖化していない』を読んだのを機に再読した。著者も書いているように後者は前者を全面的に更新したもので、その論旨はほぼ共通している。

 著者の深井有氏は1934年生まれの金属物理学専攻の物理学者で気候学の専門家ではない。とは言え、元々は東大地球物理学科で気象学を学んでいて大学院の頃に金属物理学に移ったそうだ。若い頃からの関心領域である気象学の現状に口を挟まざるを得ない止むにやまれぬ気持ちから本書2冊を執筆したようだ。

 著者はIPCCに批判的だが、以下についてはIPCCの見解との相違はあまりない。

 ・最近約300年の間、地球の平均気温は上昇してきた。
 ・人為的CO2排出により地球の大気に占めるCO2の割合は上昇している。
 ・CO2は温室効果ガスの一つであり、CO2増加は温暖化の要因になる。

 上記3点を認めるなら、CO2排出を削減することで地球温暖化を抑制する蓋然性があるように素人目には思える。だが、地球の平均気温上昇の主因はCO2増加ではなく、CO2排出の抑制は資源節約の意味はあっても温暖化抑制にはならないというのが著者の見解だ。

 『地球はもう温暖化していない』の主旨を私なりにまとめると以下の通りだ。

 ・地球は温暖化と寒冷化をくり返してきた。その原因は解明途上だ。
 ・最近20年はCO2が増えているにも関わらず温暖化は止まっている。
 ・地球温暖化の主因は太陽活動と宇宙線の可能性が高い。
 ・最近の太陽活動の観測から推測すると、今後は寒冷化すると思われる。
 ・IPCCはCO2排出による温暖化を前提とした組織で、科学的解明には適合せず、政治化している。
 ・CO2排出削減に温暖化抑制の効果は期待できず、莫大なコストをかけるのは無駄だ。
 ・CO2が増えるのはさほど問題ではなく、植物育成などにプラスの効果がある。

 地球温暖化の主因が温室効果ガスではなく太陽活動と宇宙線だという主張が科学的に妥当か否かは、門外漢である私には判断できない。2014年からは再び地球の平均気温が上昇し始めたと聞いたこともある。だが、本書にはある程度の説得力を感じ、いわゆるトンデモ本とは思えなかった。現在、大多数の人が地球温暖化を抑止するためのCO2削減を当然の施策と考え、それを地球環境保全のための崇高な使命とすら捉えている。そんな風潮の中で、本書はおかしな学者が書いたヘンな本と見なされるだけなのだろうか。

 『地球はもう温暖化していない』がどのように評価されているか知りたくてネットを検索してみたが、あまり有用な情報は得られなかった。環境科学の学者が「素人が書く誤りだらけの扇動本」と批判している文章があったが、この学者が他の人から福島の子供たちの放射線リスクを過小に評価するトンドモナイ人と批判されていて「CO2排出抑制論=原発推進論」が連想され、よくわからなくなる。

 地球物理学や気候学の専門家が純粋にサイエンスの目で『地球はもう温暖化していない』の深井氏の議論をどう評価しているのかを知りたいと思ったのだが、そのような記事は発見できなかった。専門家にとっては論評に値しない無視するべき見解なのだろうか。あるいは、深井氏が主張するように多くの専門家は「温暖化ムラ」に取り込まれているのだろうか。

 この世には専門家である科学者の他に、その世界を追っている科学ジャーナリストも多いはずだ。彼らにとってはCO2起因の地球温暖化懐疑論を追うのは邪道なのだろか。私が知らないだけで、この分野で目配りのいい立派な仕事をしている人もいるかもしれないが、よくわからない。

 そもそも地球温暖化問題は科学に政治や経済がからまざるを得ないところがやっかいなのだ。純粋に科学の問題として解明できればいいのだが、事象の解明と対策案がからみあい、政治や経済から純粋なサイエンスを切り離すのが難しい。

 また、純粋なサイエンスと言っても、「真実」に辿り着くには長い道のりがある。もちろん、サイエンスは多数決で決まるものではない。少数意見が正しいわけでもない。最初は異端であってもいずれは大多数の人が認知する「真実」になる見解も多い。それがサイエンスだと思うが、その過程にはかなりの紆余曲折があり得る。

 それは、まさにわれれの歴史と同じだ。尊王攘夷の嵐が吹き荒れた幕末、ナチス台頭期のドイツ、鬼畜米英・八紘一宇の時代の日本、はたまた1960年代の熱気に包まれたわが青春時代などを思い起こすと、大勢という流れの中で「真実」を得ることの困難をあらてめて感じる。地球温暖化問題にも同様のやっかいさを感じる。

科学の世界と芸術の世界の清々しさ2015年11月09日

『獨歩靑天』(入江観/形文社)、『大村智:2億人を病魔から守った化学者』(馬場錬成/中央公論新社)
 何の関連もないと思って読んだ2冊の本の間に思いがけない接点を発見すると、ちょっと得した気分になる。そんな体験をしたのが、ほぼ同時期に読んだ次の2冊だ。

 『獨歩靑天』(入江観/形文社)
 『大村智:2億人を病魔から守った化学者』(馬場錬成/中央公論新社)

 後者はノーベル医学・生理学賞受賞が決まった大村智氏の3年前に出版された伝記で、増刷されて本屋の店頭に積まれている。私はノーベル賞のニュースに接するまで大村智氏を知らなかったが、報道内容でこの学者の生き方に大きな興味を抱いたので本書を購入した。

 前者の著者・入江観氏は春陽会の重鎮の洋画家で、女子美短大の教授を長く勤めた人だ。『獨歩靑天』は入江観氏が新聞・雑誌に発表した文章をまとめた画文集で、出版は7年前だ。

 実は私は高校時代(半世紀ほど昔だ)に入江観氏の美術の授業を受けたことがある。フランス留学から帰ったばかりの若い画家は1年足らずの期間、高校の非常勤教師をやっていたのだ。そんな縁もあり、近年になって入江観氏の絵画を数点購入し『獨歩靑天』も入手した。

 『獨歩靑天』は時おり拾い読みしていたのだが、先日、ちょっと確認したいことがあり、頭から通読した。昔、朝日新聞日曜版で現代画家たちが「おんな」という共通テーマで毎週作品を発表する企画があった。入江観氏がそのときの自作に言及している文章を読んだ記憶があり、その文章を確認したくて『獨歩靑天』をパラパラめくった。しかし、なかなか見つからない。ついに最初のページから最後まで通読してしまった。結局、私のさがしていた文章は見つからなかった。別の媒体で読んだのか、わが記憶の捏造なのか不明だ。年を取るとこういうことはよくある。

 それはさておき、『獨歩靑天』を通読することで新たな発見も多かった。その一つが女子美の理事長で世界的な微生物学者である大村智氏への言及だ。「エカキ校長退任の弁」という文章に出てくる。ノーベル賞受賞のニュースに接した直後にこの言及に遭遇したので、その偶然に驚いた。ただし、「エカキ校長退任の弁」を以前にも読んだのは確かで、今回は再読だった。前回読んだはずの大村智氏に関する件りは完全に失念していたのだ。だから、ノーベル賞受賞のニュースで「大村智ってだれ?」と思ったのだ。悲しいかな、この程度の記憶欠落はもはや日常茶飯事だ。

 『獨歩靑天』の通読とほぼ並行して『大村智:2億人を病魔から守った化学者』を読んだ。科学上の業績や研究室運営の奮闘を描いた伝記だが、最後の方に「科学と芸術の共通性から女子美術大学の理事長へ」という章があり、大村智氏の美術への関わりも述べられている。入江観氏への言及はないが、大村智氏と入江観氏がいっしょに写っている写真が掲載されていて、何の関連もないと思っていた二つの本が呼応しているように感じられた。

 まったく別の世界を扱った二つの本だが、思いがけない接点を発見したせいか、読後感に共通するものがある。大村智氏も入江観氏も同じ1935年生まれで、10歳で終戦をむかえ、同じ時代を生きてきた同世代だ。科学と美術、分野は異なるが若くして海外留学を体験し、日本の戦後復興、高度成長期に独自の世界を切り開いてきた生き方は共通していて、清々しさを感じる。科学者と芸術家は似た存在だとも思える。

 「人まねをしていてはダメだ」という大村智氏の持論や「いかに感動の時間を多く持つかが人生の大事」という入江観氏の指摘には率直に納得できる。若い人に聞かせたいなどとも思ってしまうが、もちろん高齢者にとっても意義深い。

半世紀前、『理科実験観察事典』は私の宝物だった2015年08月23日

『理科実験観察事典』(保育社/1958年3月15日発行)、夏休みの自由研究「ブザーのしくみ」
 夏休みも終わりに近づき、新聞には「まだ間に合う! 夏休みの自由研究」という記事が載ったりしている。当方は夏休みに関係のない自由人だが、この夏、娘に頼まれて小学4年の孫の自由研究の手ほどきをした。

 そんなときに役立つのが『理科実験観察事典』(保育社/1958年3月15日発行)である。57年前、私が小学4年のときに親に買ってもらった本で、いまでもわが書架に保存されている。わたしが現在持っている書籍の中の最古参だ。

 小学4年のときに入手した本を半世紀以上も手放さずにきたのは、『理科実験観察事典』は小学生時代の私の宝物で、特別の思い入れがあったからだ。子供の頃、わたしは「この本には何でも載っている」と感嘆した。ドラえもんの秘密道具ほどではないにしても、「何でも…」という万能感に子供心が圧倒されたのである。

 『理科実験観察事典』は748ページのハードカバーで250の項目が載っている。その項目例をいくつか挙げてみる。

  「アサガオのそだてかた」
  「カイコの飼いかた」
  「肺活量のはかりかた」
  「のみ水のこしかた」
  「とうふの作りかた」
  「電じしゃくの作りかた」
  「電気メッキのしかた」
  「せん望鏡の作りかた」
  「北極星の見つけかた」
  「気圧のはかりかた」
  「化石の採集のしかた」
  「ハンダづけのしかた」

 大半の項目は見開き2ページの説明で、ぶ厚い本に「…のしかた」「…の作りかた」がびっしり詰め込まれているのだ。もちろん、本当に「何でも」載っているわけではないが、半世紀前の小学生にとって250の項目は、自分の身近な世界を超える膨大な量だった。目次を眺めるだけでこの世界の森羅万象の大きさを感じたものだ。

 この本の「日食、月食の調べかた」の項目には、日本で見られる日食の一覧表があり、そこには1957年4月29日から2002年6月22日までの21回の日食が載っている。1958年(昭和33年)当時の感覚では2002年はるかな未来だ。この表には未来予言を見るような感動を覚えた。この表を見て、この本は21世紀までは使えるから、それまでは保存しなければならないと思ったような気もする。

 当時のはるかな未来だった2002年もすでに過去となり、奇しくもわが孫は、わたしが『理科実験観察事典』を手にしたときと同じ小学4年生である。本書を孫に見せても反応はイマイチだ。おまえにはこの本のスゴさがわからないのかと、がっかりさせられるが、無理に押し付けることもできない。

 だが、孫の自由研究は私が本書から選んだ「ブザーや電れいの作りかた」を元に「ブザーのしくみ」という表題の代物を製作した。いまでも、じゅうぶんに役立つ本なのだ。

 本来の自由研究は、独創的で自由な発想をきっかけにするべきだろう。だが、そんな立派な自由研究に挑戦できる子供は限られていて、書籍や雑誌やネットなどに載っている指南をトレースするケースが多いようだ。それなら、わが『理科実験観察事典』をベースにすれば、ちょっと変わったレトロな自由研究ができるのではと自負している。

<山極進化論>で壮大な時間旅行2015年02月26日

『「サル化」する人間社会』(山極寿一/集英社インターナショナル/2014年7月)、『家族進化論』(山極寿一/東京大学出版会/2012年6月)
◎進化論への関心から…

 『家族進化論』(山極寿一/東京大学出版会/2012年6月)をタイトルと著者の経歴に惹かれて購入したのは半年以上前だ。

 進化論は私の関心領域テーマのひとつだ。進化論というマクロな科学的探究にはロマンがあり、進化論の歴史には科学史の面白さがある。と言っても通俗書ばかりを読んでいる素人だから、きちんと勉強しているわけではない。進化論への釈然としない気分が消えることはなく、いつまで経っても進化論を理解したという気にはなれない。

 進化論への関心の何割かは今西錦司というユニークな学者への関心によるものだ。学生時代(40年以上昔)に今西錦司の『生物の世界』に取り組み、その後、中公新書の『ダーウィン論』『主体性の進化論』、吉本隆明を聞き手にした『ダーウィンを超えて:今西進化論講義』なども興味深く読んだ筈だ。しかし、その内容は忘却の彼方だ。

 山極寿一氏はゴリラ研究の第一人者で、今西錦司を始祖とする京都大学の霊長類研究を受け継ぐ1952年生まれの学者だ。作年10月には京都大学総長に就任している。『家族進化論』は、今西錦司の流れを汲む学者の進化論に関する本だから食指が動いたのだ。

◎挫折のあとで再挑戦

 『家族進化論』を読み始めてすぐ、これは難儀な本だと気付いた。シンプルなタイトルと絵本のように楽しげな表紙には一般人向け解説書の雰囲気があるが、やや専門書に近い本だった。霊長類学に全く不案内な私には歯ごたえがありすぎて、冒頭の部分を読んだだけで止まってしまった。

 その後、新聞の書評で『「サル化」する人間社会』(山極寿一/集英社インターナショナル/2014年7月)を知り、こちらの方が読みやすそうに思えたので購入した。『「サル化」する人間社会』は話し言葉で書かれた小ぶりな本で読みやすく、一気に読了できた。著者のフィールドワークの体験談をふまえながら霊長類(主にゴリラ)の社会を解説した興味深い内容だった。

 『「サル化」する人間社会』を読了すると、霊長類学の基礎知識を身につけた気分になり、『家族進化論』への関心がよみがえった。『家族進化論』に再挑戦すると、今度は興味深く読み進められた。

 『「サル化」する人間社会』は『家族進化論』の2年後に刊行されていて、この2冊の内容はかなり重複している。前者は門外漢にわかりやすく語りかけるスタイル、後者は一定の知識のある読者に対して最近の研究成果と著者の見解を紹介するスタイルになっている。不案内な分野に関しては、入門的な本を読んでから専門的な本に取り組むのがいいという当たり前のことを再認識した。

◎長大な時間の物語

 山極氏の2冊を読み終えた私の頭の中は、この2冊の内容が混然一体となり、人類の起源、社会性の起源、家族の起源をたどる長大な時間の旅から帰還した気分だ。

 これらの本で扱っている主な事象と時間を整理すると以下のようになる。
 
 ◆ヒト科(類人猿と人類)の歴史
  1200万年~1500万年前:ヒト科の共通祖先からオランウータンが分離
  900万年~1200万年前:ヒト科の共通祖先からゴリラが分離
  700万年~900万年前:ヒト科の共通祖先からヒト(直立二足歩行)が分離
  250万年~100万年前:ヒト科の共通祖先からチンパージーとボノボが分離

 ◆ヒト族の歴史(ホモ・サピエンス以外は絶滅)
  440万年前 アルディピテクス・ラミダス(最古の化石人類の一つ)の性差は現代人並みだったと推測されている。
  200万年前 人類の脳が大きくなり始める。ホモ・ハビリスの脳が600ccを超える。
  60万年前 ホモ・ハイデルベルゲンシスの脳は1400ccになる。
  30万年前 ネアンデルタール人登場。3万年前まで生存。脳は現代人をしのぐ1800cc(現代人は1500cc)。
   20万年前  ホモ・サピエンスがアフリカに登場。
  10万年前 ホモ・サピエンス、アフリカを出て中東に進出。
  5万~6万年前 ホモ・サピエンス、中央アジアやオーストラリアに進出。
  4万年前 ホモ・サピエンス、ヨーロッパに進出。
  1万8000年前 最終氷期終わる。
  1万5000年前 世界の気候が温暖で湿潤になり安定する。
  1万4000年前 ホモ・サピエンス、アメリカ大陸に進出。
  1万年余り前 食料生産(農耕の萌芽)始まる
  7500年前 首長を備える数千人規模の社会が出現(西南アジア)。

 このような年表にまとめると人類史の本のように見えるが、この2冊の主な内容はゴリラ研究に基づいた類人猿の社会性の考察であリ、主にゴリラの社会に関する知見からヒトの家族の起源を探究している。

◎ワイルドなフールドワークに仰天

 『「サル化」する人間社会』を読んでいて驚いたのは、アフリカにおける野生ゴリラ研究の様子だ。壮絶でワイルドなフィールドワークの報告に「そこまでやるのか」と感心しつつ、学問研究の厳しさをあらためて認識した。

 この本のタイトルにある「サル」はニホンザルなどの真猿類を指していて、類人猿のことではない。本書の大半は真猿類ではなく類人猿のゴリラの話なのだが、最終章で、現代社会への警鐘として、サル(類人猿ではなく真猿類)の社会と人間社会の比較を展開している。

 この最終章は本書全体のトーンと少し異質である。ゴリラの世界の社会性を探究してきた著者には、人間本来の社会性が希薄になるように見える現代の人間社会が危ういものに見えているのだ。ここで述べられている「サル社会」とは、絶対的な序列社会であり、全体のルールに従うことで個人の利益を最大化する効率的なシステムであり、そこに家族というコミュニティはない。
 
◎『2001年宇宙の旅』は間違っていた?

 『家族進化論』には映画『2001年宇宙の旅』への言及がある。1968年に公開されたこの映画を、私は封切り館で観て以来、再上映やLD、DVDなどでたびたび観ている。私にとってオールタイム・ベストワンの映画だ。

 この映画には「狩猟仮説」を反映したシーンがある。狩猟仮説とは、人類は初期の時代(400万年前~200万年前の猿人の時代)から狩猟によって生計を立て、狩猟に適したさまざまな特徴を発達させて現代に至ったという考えである。この考えは現在では否定されているそうだ。初期の人類は「狩る者」ではなく、肉食獣などに「狩られる者」であり、その捕食圧によって進化したらしい。

 問題のシーンは、謎の物体「モノリス」に手を触れた猿人が進化を開始する印象的なシーンである。骨を武器として使うことを憶えた猿人は、それを使って獲物を倒し、対立する猿人集団を攻撃して勝利し、その骨を高く空に抛り上げる。その骨は宇宙空間を行く宇宙船に変貌する。今も目にやきついている名シーンだ。

 約半世紀前に感動した名シーンが誤った仮説に基づくものだと知り、長生きはするものだと思った。

 人類が狩猟能力を発揮するのは、200万年前という遠い昔ではなく、比較的最近のことだそうだ。それは10万年前のホモ・サピエンスの出アフリカ以降だ。その狩猟技術はすさまじいもので、ホモ・サピエンスが進出したユーラシア大陸やアメリカ大陸ではまたたく間に大型野生動物を絶滅に追いやった。マンモスもその一例だ。

 本書のそんな記述に接すると、武器という道具のまたたく間の進歩をシンボリックに描いた『2001年宇宙の旅』のあのシーンは、科学的な時代考証に間違いがあるにしても、やはり名シーンだと思う。 

◎蛇足だが――

 『家族進化論』のオビに「家族はどのようにして生まれ、どこへ向かうのか―― 人類がアフリカから旅立って180万年、悠久の時間のなかにその起源と進化のストーリーをたどる」とある。ホモ・サピエンスの出アフリカは10万年前なので、180万年という数字は誤植だと思った。

 気になって調べてみると、これは誤植ではなさそうだ。10万年前の出アフリカは、われわれの直接の祖先であるホモ・サピエンスに関する事象で、本書が扱っている時間から見ればかなり最近の出来事であり、本書全体の記述の最終段階の話である。

 ホモ・サピエンスの出アフリカより遥か昔の180万年前、ホモ・エレクトス(原人)の出アフリカがあったらしい。『家族進化論』はホモ・サピエンスだけを論じているのではなく、類人猿から人類にいたる進化を扱っている。だから、アフリカの熱帯雨林から草原に進出した人類の祖先に焦点をあてれば、180万年という時間の方が本書にふさわしい。

 10万年前を「最近」と感じることができるのは希有な経験である。