映画『家に帰ろう』で人それぞれの70年を考えた2018年12月26日

 シネスイッチ銀座でアルゼンチン映画『家へ帰ろう』を観た。広い意味でナチス・ヒトラー関連の映画だが、シンプルな作りの好感の持てる映画だった。

 アルゼンチン在住の仕立屋の爺さんが主人公で、この爺さんは1945年にポーランドから逃げて来たユダヤ人である。昨年、私はポーランド旅行をしアウシュヴィッツにも行ったが、第二次大戦を体験したユダヤ人にとってドイツやポーランドが特殊な場所だということを再認識させられる映画だ。

 主人公の爺さんは少年時代にナチス支配下のポーランドで迫害され、父や妹を失いながらも、ポーランド人の友人に助けられてアルゼンチンに亡命する。それから70年、娘や孫に囲まれた生活から老人ホームへの入居をひかえた爺さんは、突如ポーランド目指して旅立つ。70年前の1945年に分かれた友人に自分が仕立てたスーツを届けに行くのである。

 つまりはアルゼンチンからポーランドまでのロードムービーであり、娘たちに裏切られてさまようリア王の要素も入っている。

 フィクションではあるが、70年間会っていない旧友に会いに行くという設定に感動した。私は現在70歳であり、10年~50年ぶりの旧友との再会は想像できるが70年はあまりに長い。でも、それもありと思えてくる。

 ナチスの時代以前のポーランドには多くのユダヤ人が住んでいたが、現在は非常に減少している。そんな近代史の実情もこの映画から伝わってくる。

映画『マルクス・エンゲルス』『ウィンストン・チャーチル』を観た2018年07月25日

 下高井戸シネマで『マルクス・エンゲルス』と『ウィンストン・チャーチル』の2本を続けて観た。入れ替え制の小さな映画館だが、往年の2本立て映画館に行った気分だ。

 2本とも歴史上の有名人を扱った映画で面白く鑑賞できた。事実がベースでも映画的脚色が施されているだろうと思いつつも、書籍では感得しにくいナマの人物像や時代の雰囲気に引き込まれた。映像の力だ。

 『マルクス・エンゲルス』は2017年に制作されたフランス・ドイツ・ベルギー合作の映画で原題は「THE YOUNG KARL MARX」。ソ連崩壊後の21世紀になって、マルクスの映画が西欧で制作されたことに驚いた。マルクスは復活しつつあるのだろうか。

 この映画は若きマルクスの「森林伐採法」批判を象徴するシーンで始まり、マルクス30歳の時にエンゲルスと共に『共産党宣言』を執筆する時点で終わる。マルクス夫妻とエンゲルスの青春を描いた映画だ。『ヘーゲル法哲学批判』や『哲学の貧困』も登場する。

 私は『資本論』を読んだことはなく共産主義には懐疑的だが、学生時代には初期マルクスの何編かを読み、読書会などに参加したこともある。この映画を観ていて、初期マルクスの著作と格闘した頃の記憶がよみがえり妙な気分になった。あの「マルクス」がナマイキな青年の姿で画面で動き回る姿に新鮮な感動をおぼえた。

 『ウィンストン・チャーチル』はチャーチルが首相に就任してからダンケルクまでの1カ月足らずの時期を描いている。評伝とは言い難いが、チャーチルの人物像が十全に伝わってくる映画だ。

 この映画がどこまで史実を反映しているかわからないが、英国議会の雰囲気はあんな風だったのだろうと思える。

 私はチャーチルの著作も評伝も読んだことがなく、通り一遍の知識しかない。だが、彼が首相に就任していなければ、第2次世界大戦の様相は変わっていただろうとは思う。

 歴史を学ぶには歴史書を読むしかない。当該時代の文書や後代の史書によってアプローチするのが王道だろう。それによって自らイメージを紡ぎだせればそれに越したことはない。だが、歴史への関心を喚起するには映画という映像の力は大きい。

 『マルクス・エンゲルス』を観て、E・Hカーの『カール・マルクス』を再読したいと感じ、『ウィンストン・チャーチル』を観てチャーチルの『第2次世界大戦回顧録』に挑戦したいという気分になった。

映画『オリエント急行殺人事件』を観て数十年ぶりに原作再読2018年01月10日

 公開中の映画『オリエント急行殺人事件』を観た。

 原作を読んだのは数十年前だ。高名な推理小説なので犯人を知っている人も多いだろうが、私は何も知らずに読み、犯人解明のシーンで大きな衝撃を受けた。中学生の頃からシャーロック・ホームズのファンだったが、この小説によって本格ミステリーの醍醐味を知った。無垢な状態で本作の謎解きの快感を味わえたのは稀有な体験だった。

 映画『オリエント急行殺人事件』を観ようと思ったのは、イスタンブールからフランスのカレーに向かう列車の旅への憧れがあり、犯人がわかっていても謎解きの面白さを十分に味わえると思ったからだ。

 映画は私の期待に応える映像だった。驀進する列車は迫力があるし、列車の内部の雰囲気もいい。いつの日かこんな列車の旅をしてみたいと夢想する。原作では積雪で停車する列車が映画では脱線してしまうのには驚いた。

 映画向けに脚色していると思われるシーンもあったが、おおむね原作に忠実な内容だと思え、十分に楽しめた。ただし、終盤のポアロの印象が重すぎて多少の違和感があった。原作はもっと軽い感じだったと思えた。

 そんな気分から、映画を観た後に原作を再読した。数十年ぶりのミステリー再読は、ある意味では贅沢な至福の時間だ。犯人を推測する必要がないので、物語の細部への関心がわいてくる。地図帳で登場する地名を確認しながら読み進めた。

 映画の冒頭シーンはエルサレムで、ポワロはそこからオリエント急行起点のイスタンブールまで船旅をする。原作では、冒頭はトルコのアッポレだった。ポワロはそこからイスタンブールまで列車の長旅をしている。オリエント急行に乗る前に、すでにポワロは列車の長旅に倦んでいたと思えるのは再読での再発見だった。

 再読では、オリエント急行が雪で停車した場所への関心もわいた。原作ではユーゴスラビアとなっていて、現在のクロアチアだ。今はなき国名に接し、時代背景も気になった。明示はされていないが、小説発表当時の同時代、第一次大戦と第二次大戦の間の時代のようだ。興味深い時代だと感じたのは再読の成果だ。

 そして、この物語の終盤における原作のポアロは映画ほど重くないと確認できた。映画のポワロは殺されたジョニー・ディップへの配慮があったのだろうか。原作のポワロの方が映画より早い時点で事件の全貌を見抜いているようにも思える。ポワロ像は映画より原作の方がいいと私は思う。

 また、原作では「一人の女優」の印象が強く、そこに面白さがあるのに、映画ではさほどではない。これは名優たちを集めた映画の宿命で、あえて「一人の女優」をフレームアップするのが難しかったのかもしれない。

 名優を集めるのに適した『オリエント急行殺人事件』でも、名優すべてを活かして映画を面白くするのは難しい。

原作読了から半年経って映画『関ケ原』を観た2017年12月26日

 下高井戸シネマで映画『関ケ原』を観た。封切りは今年の8月で、その1カ月程前に司馬遼太郎の原作を読んだ。読みでのある小説を読了すると映画はどうでもいいという気分になり、封切り時にはなんとなくスルーした。

 その後、この映画では小早川秀秋の扱いが原作と異なり、原田眞人監督の独自の見解が取り入れられていると知り、映画への興味がわいた。夏・秋が過ぎ年末になって映画を観る機会を得た。

 映画が原作を超えることは稀れである。『関ケ原』のような長大な小説を数時間の映画に収めるのは至難であり、映画『関ケ原』も小説のダイジェストの趣になるのはやむを得ない。それでも、かなりメリハリのある映像に仕上がっていて、『関ケ原』とはこんな話であったかとあらためて想起し、映画を観終えると原作を再読したくなった。

 小早川秀秋は確かに原作とは違う。原作では魯鈍のようなキャラクターだったが、それが悩める貴公子になっている。歴史解釈の妙だ。原作をリスペクトしながらも改変する映画監督の心意気=創造性に感服した。

 原作で感じた島左近 vs 本多正信の謀臣のドロドロは映画では表現されていなかったが、福島正則、大谷刑部らは映像化によって私にとっては印象が深まった。

 この映画には司馬遼太郎の肉声を思わせるナレーションが所々に挿入されている。司馬遼太郎の小説のメインは人物評であり、その映像化は難しいが、ナレーションで押し通すのも一つの手だ。ナレーションの部分をもっと増やすと俯瞰の面白さが出たのでは思う。劇映画ではなくエッセイ映画になってしまうかもしれないが。

映画『ハイドリヒを撃て!』を観て小説『HHhH』を読んだ2017年12月07日

 ナチス統治下のプラハでナチス高官ハイドリヒが暗殺され、その報復としてヒトラーがチェコの一つの村をせん滅したという話はどこかで読んだ記憶がある。だが、その詳細はおぼろだった。下高井戸シネマで『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』という映画が上演されていると知り興味がわき、観に行った。

 『ハイドリヒを撃て!』は迫力のあるいい映画で、1942年に発生したハイドリヒ暗殺という史実への関心が高まった。この事件が第二次大戦史やナチス・ドイツ史の中でどの程度のウエイトを占めているかはよくわからないが、チェコの人々にとっては記憶にとどめるべき歴史的大事件だったようだ。

 映画のパンフレットで、ハイドリヒ暗殺はすでに過去2回映画化されていると知った。『死刑執行人もまた死す』(1943年)、『暁の7人』(1975年)という映画だ。前者は事件発生翌年の映画で脚本はブレヒトだそうだ。

 ハイドリヒ暗殺はロンドンのチェコスロバキア亡命政府から送り込まれたパラシュート部隊の戦士によって実行される。パラシュート部隊の戦士たちは教会の納骨堂に潜伏し、ナチスとの壮絶な銃撃戦のすえ水攻めによって全滅(7人)する。

 映画を観たあと、わが本棚に次の未読本があることを思い出した。
 
 『HHhH プラハ、1942年』(ローラン・ビネ/高橋啓訳/東京創元社)

 今年5月のアウシュヴィッツ訪問を前に何冊かの関連本に目を通した。その折に人に薦められて購入したが、冒頭の数ページを読んだだけで放り出していた。

 この本を読み通せなかったのは、アウシュヴィッツが直接のテーマでないということもあるが、私が想定したような普通のノンフクションではなく私小説的でわかりにくい語り口に馴染めなかったからだ。

 映画でハイドリッヒ暗殺の概要を知ってから本書に再び取り組むと、その面白さに引き込まれ一気に読了できた。

 この本は「ハイドリヒ暗殺の事実に迫る本を書く」ということを語る「小説」で、メタノンフクションとでも言うべき不思議な本だ。司馬遼太郎の長大なエッセイ風歴史小説とも異なり、1972年生まれの著者の一人称は翻訳では「僕」であり、僕の私生活への言及も随所に織り込まれている。

 にも関わらず、ハイドリッヒ暗殺を扱った立派なノンフィクションにもなっている。「HHhH」という不思議なタイトルは「Himmlers Hirn heiβt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)」という意味らしい。ハイドリヒがヒムラーの頭脳と呼ばれるナチス・ナンバー3の存在だったことは事実かもしれないが、それが本書のメインテーマとは思えない。なぜこんなタイトルをつけたのかは謎だ。

 本書読了後、ネット検索をしていてこの小説が今年映画化され、日本でも来年公開予定だと知った。タイトルは『HHhH』のようだ。ハイドリヒ暗殺をテーマにした4本目の映画だ。ハイドリヒ暗殺は、それほどに人々の興味を引き付け続ける事件なのだとあらためて認識した。

映画『セザンヌと過ごした時間』はゾラの世界に近い2017年09月03日

 セザンヌとゾラの交友を描いた映画『セザンヌと過ごした時間』を公開初日に観た。セザンヌもゾラも私の好きな作家だ。

 2カ月前にサンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館に行ったとき、思いがけず10点ばかりのセザンヌの絵画に遭遇し感激した。ゾラを初めて読んだのは5年前で、面白いので三大長編(『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』)を続けて読み、さらに『ゾラの生涯』という古いモノクロ映画(1937年のアカデミー賞作品賞)のDVDまで入手して観た。

 私の頭の中ではゾラに近い画家はマネだ。マネが描いたゾラの肖像は印象深いし、マネの絵画にはゾラの作品世界を連想させるものが多い。だから、近日公開映画の紹介記事でゾラとセザンヌが少年時代からの友人だと知り意外に感じた。だが、映画館に行く前に『ゾラの生涯』のDVDを再度観ると、無名時代のゾラとセザンヌの交流がしっかり描かれていた。この映画はドレフィス事件が印象深く、セザンヌの登場は失念していた。いつものことながら、わが記憶力の頼りなさにガッカリした。

 『セザンヌと過ごした時間』のはじめの方で、無名のゾラが無名のセザンヌに向かって「ぼくが小説を書き、君がそれに挿絵を描くんだ」と将来の夢を語るシーンがある。その後、二人ともビッグネームになるのだから、この二人の出会いは奇跡的だ。

 とは言っても、先に名声を獲得するのはゾラであり、セザンヌは晩年に多少評価されるだけで、同時代の人々にはあまり受け容れられなかった。映画ではそんな背景をふまえた二人の葛藤を描いている。晩年には二人は交流を絶ち、映画の最終近くで、セザンヌについて質問されたゾラが「彼は天才です。しかし、その才能は花開かなかった」と語るシーンがある。

 この科白が実話かフィクションかは知らないが、意味深い場面だ。文豪の地位を得たゾラは、結局のところセザンヌの真の価値を見出せなかったようにも取れる。映画では、セザンヌはゾラとの再会を期してその場に来ていたのだが、ゾラの発言を聞いてそっと去って行く。成功者ゾラと落伍者セザンヌのすれ違いにも見え、それは後に逆転する19世紀と20世紀のすれ違いでもある。

 現代から見れば、ゾラもセザンヌも偉大だが、後世への影響力は「近代絵画の父」とも呼ばれるセザンヌの方が圧倒的に大きい……と私は思う。林檎が絵になることを発見しただけでもスゴい。ゾラがそのスゴさをどこまで理解していたかはわからない。おそらくセザンヌは若き日のゾラが夢見たようにゾラの小説の挿絵を描くことはなかったと思える。ゾラの挿絵にはマネの方がふさわしい。

 私がセザンヌとゾラの交友を失念し、その交友を意外に感じたのは、二人の作品世界が異質に見えるからだ。『セザンヌと過ごした時間』はセザンヌが主役だが、セザンヌの世界を描いているわけではなく、むしろゾラの世界を描いた映画である。映画の中で展開される人間ドラマはゾラの作品のようでもあり、美しい風景の中で人々が蠢く映像はマネの絵画に近い。

 と言っても、セザンヌの作品世界を映画化すればどんな映画になるのか見当がつかないし、それが可能かどうかもわからない。

ヘンテコな小説が新たにヘンテコな映画に……『美しい星』2017年08月11日

『美しい星』映画のチラシと単行本
 今年5月に封切られた映画『美しい星』(監督・吉田大八)をキネカ大森で観た。封切り時に観ようと思いつつ2カ月以上が経過し、東京ではこの小さな映画館で夜だけの上演になっていた。上演状況を見ると興行的にはイマイチなのかもしれない。

 私が三島由紀夫の『美しい星』(新潮社)を読んだのは半世紀前の高校生の頃だ。SF少年だった私は、『金閣寺』に圧倒されてもいたので、純文学のスター作家のSFということで身構えて読んだ。読み始めてすぐ、これは通常のSFではなく思弁小説だと了解した。ヘンテコなものを読んだという読了時の印象だけが残り、月日の経過とともに内容の大半は失念した。

 今回、映画を観るのに先立って小説を半世紀ぶりに再読した。その読後感は10代の時とさほど変わらないと思う(記憶が霞んでいるので確言できない)。

 文体は格調高くて思わせぶりだが、登場人物の多くはどこか卑小で、カラマーゾフの大審問官を彷彿させる大議論のシーンもパロディに見えてくる。フルシチョフ、ケネディ、池田勇人など当時の政治家の固有名詞が出てくるアップ・ツー・デートな小説でもある。作者はややコミカルで軽薄とも思われる線を狙っていたようにも思える。

 この小説には三島由紀夫という固有名詞も登場する。白鳥座61番星という「不吉な」星を故郷とする悪役一行が歌舞伎座の十一代團十郎襲名披露興行の「暫」や「勧進帳」を観劇する。続いて上演される三島由紀夫の新作については「こんな小説書きの新作物なんか見るに及ばない」と言って席を立って銀ブラをするのだ。作家が楽しんで書いている。

 そんな具合に肩を抜いた通俗に見せながら、作家の抱いている暗い哲学を潜り込ませているようなので、やっかいでヘンテコな小説なのだ。

 映画を観るために小説を再読し、あらためてこの小説の映画化は容易でないと感じた。そして、どんな映画になっているのか興味が高まった。

 映画は時代設定を現代に移行させ、原作では大学教授風の高等遊民だった主人公をテレビの気象予報士に変えている。だから、冒頭からの展開は原作からはかけ離れていて、三島由紀夫の世界とは別の物語を観ている気分になった。

 映画の展開はどんどんヘンテコになっていくが、それは小説から受けたヘンテコさとは異質に思えた。脈絡をつかみにくい、わけのわからないヘンテコさなのだ。にもかかわらず、映画が進行するに従って映画の世界が三島由紀夫世界に次第に近づいていくように感じられた。

 映画はコミカルでシュールでわかりにくい箇所もある。観終えて、この映画は1962年を舞台にした原作のヘンテコさを2017年を舞台に再現したものだと思え、小説と映画は通底していると感じられた。小説もコミカルでシュールだったと気づいたのだ。

 「ヘンテコ」とは、にわかには面白いかつまらないかの判断ができず、解釈が難しく評価困難ということであり、咀嚼に時間がかかるということでもある。軽薄さと重厚さ、フィジカルとメタフィジカルをほぼ同じ比重で表現するからこんな作品になる。わかりやすさを目指していないので読み解くのは大変だ。

 三島由紀夫は『美しい星』執筆後、ドナルド・キーン宛ての手紙で「これは実にへんてこりんな小説なのです。しかしこの十ヶ月、実にたのしんで書きました」と述べているそうだ。この映画の監督・吉田大八も「実にへんてこりんな映画を作りました」とだれかに語っているのかもしれない。

那覇市の映画館で『アラビアの女王』を観た2017年04月15日

 今週前半は沖縄・那覇市で過ごした。県庁前の「パレットくもじ」9階の映画館「シネマパレット」で『アラビアの女王』を上映中だった。東京で見逃した映画だ。

 『アラビアのロレンス』の女性版で、実話に基づいた「イラク建国の母」の物語と聞いていたので、欧州・中東の近代史の勉強になりそうで興味があった。その映画を那覇で観ることができた。期待したような歴史物語ではなく恋愛映画に近い作りではあったが、20世紀中東史への関心を喚起する話だった。

 この映画の主人公は、アラビアのロレンスより20歳年長の英国の貴婦人・ガートルード・ベルである。私はこの映画で初めてアラビアで活躍したこの女性のことを知った。

 映画は史実をベースにしたフィクションだが、砂漠のシーンに魅了された。砂漠と言えば『アラビアのロレンス』と『眼には眼を』が印象深いが、そんな過去の映画を彷彿とさせる砂漠の映像だ。

 主演はニコール・キッドマンで、美しき女親分が従者を引き連れて砂漠の部族を歴訪する話だ。その歴訪を観ていると往年のテレビ番組「兼高かおる世界の旅」を連想し、ガートルード・ベルが兼高かおるに重なって見えてきた。

 また、「西のかた陽関を出ずれば故人なからん」という漢詩や「蒙古放浪の唄」などが醸し出す大時代的砂漠ロマンの世界も想起され、砂漠へと旅立つシーンにうっとりした。

 と言っても、この映画の歴史的な背景にはサイクス=ピコ協定などイギリスの二枚舌、三枚舌外交がある。砂漠を旅行く駱駝の隊列にロマンを感じても、この映画に登場するイギリス人たちの活躍に素直に納得するわけにはいかない。『アラビアの女王』はあえてそんな葛藤を避けた内容になっているのだが…

 沖縄の地でこの映画を観ていると、20世紀の中東と21世紀の沖縄に通底するものがあるように思えてきた。

『シン・ゴジラ』は面白い。その科学は難しい。2016年12月21日

◎ついに観た『シン・ゴジラ』

 年末になって『シン・ゴジラ』を観た。今年7月の封切り時にはさほど関心がなかったが、『太陽の蓋』に似ているという話を聞き、興味が湧いた。そして、先月発売の『日経サイエンス 2016年12月号』に『シン・ゴジラの科学』という特集記事があったので驚いた。真面目な科学雑誌が特集するほどの科学テーマを内包しているなら、ぜひ観なければと思い、映画を観るまではその特集記事を読むのを封印した。ネタバレになると思ったからだ。

◎『太陽の蓋』と『シン・ゴジラ』

 封切りから半年経って観た『シン・ゴジラ』は従来の怪獣映画とは一線を画す面白さで十分に楽しめた。首相官邸の対応を中心にしたリアルっぽい政治エンターテインメントで、原発事故を連想させる仕掛けになっているのが現代的だ。

 確かに3.11の原発事故をテーマにした『太陽の蓋』に似ている。「ジャーナリスティック・エンターテインメント」と銘打った『太陽の蓋』は今年7月の封切り時に渋谷ユーロスペースで観た。管内閣の官房副長官・福山哲郎氏の『原発危機 官邸からの証言』(ちくま書房)などを元にしたドキュメンタリータッチの劇映画だ。俳優たちが福山官房副長官をはじめ管首相、枝野官房長官らを実名で演じるのがミソで、仮名で登場する学者や東電関係者の頼りなさが浮き彫りになる警世の映画だった。よりえげつないほどにジャーナリスティックで、もっとエンタメ性を高めれば、単館上映ではなく広範な観客を動員できたのではと思った。

 今回『シン・ゴジラ』を観て、『太陽の蓋』が目指した「ジャーナリスティック・エンターテインメント」がここに実現されているようにも感じた。どちらも、官房副長官を中心に展開する点に工夫を感じる。ほぼ同時期に封切られたこの二つの映画を二本立て上映すれば、虚構と現実の相互浸透的面白さが出るのではと夢想した。

◎荒唐無稽を支える科学は難解だ

 映画を観たので満を持して『日経サイエンス』の『シン・ゴジラの科学』を読んだ。20ページの特集記事だ。かなり難しい内容で、残念ながら私の頭では十分には理解できなかった。

 この特集記事は大きく二つに分かれていて、前半はゴジラの発生と進化に関する生物学的探求で、後半はゴジラを封じる鍵の一つになった「折り紙」の科学の解説だ。いずれも。専門の学者への取材をまとめたものだ。

 ゴジラは日本が生み出した伝統芸能的な壮大な存在だから、いかに超越的能力をもっていても、それが存在することを前提に「科学的」説明がなされなければならない。今回のゴジラは、深海に投棄された放射性廃棄物を餌にした未知の生物が体内に原子炉や核融合炉をもつ生物へと驚異の進化を遂げる。短時間での進化がSFの発想だ。

 このフィクションを支える科学的キーワードは「エネルギー」「未知の新元素」「混合栄養」「血液凝固剤」「極限環境微生物」「無性生殖」「群体」などだそうだ。解説記事だけではその先端科学の内容は雰囲気しかわからない。しかし、次の記述は印象に残った。

 「将来、そうした地球外生命探求の最前線で、今回の『シン・ゴジラ』を子ども時代に熱心に見て育った若手研究者がリーダーシップをとることになるかもしれない。」

 荒唐無稽な設定を何とか「科学的」に説明しようとするSFが、子どもの好奇心を刺激して科学にいざなう効用をもっているのは確かだと思う。

◎蛇足

 エンドロールの出演者リストの最後に野村萬斎の名があった。映画を思い返しても、どのシーンに出ていたのかわからない。購入したパンフレットをめくってもわからない。ネット検索してやっと判明した。野村萬斎はゴジラだった。ゴジラはCGだから、着ぐるみに野村萬斎が入っていたわけではない。CGのゴリラの動きを振り付けたそうだ。

 壮大なフィクションに科学や伝統芸能のリアルを注入しようとする果敢なこだわりは大切だ。

原作を読んでから映画を観た2016年05月15日

 火星に一人取り残された宇宙飛行士のサバイバルを描いた映画『オデッセイ』が公開されたのは数カ月前だった。観たいと思っていたが、つい機会を逸してしまった。

 その後、この映画の原作『火星の人(上)(下)』(アンディ・ウィアー/小野田和子訳/ハヤカワ文庫SF)が本屋の店頭に並んでいるのを発見し、購入した。2年前に刊行した翻訳本を映画公開にあわせて新装版にしたものだ。この本を手にするまで、原作のある映画だとは知らなかった。

 この小説、実に面白い。読みだしたらやめられず、一気読みした。著者の処女作だそうだ。読む前から、火星に取り残された宇宙飛行士が生還する話だとわかっているし、半分も読めば情況と展開が見えてくる。その先は「困難発生」→「克服」のくり返しだろうと予測できてしまう。にもかかわらず、一気読みせざるを得ないのは、多様な知見に裏づけされたディティールに説得力があり、物語世界に引きずり込まれてしまうからだ。

 小説を読み終えて、きっと映画はこの小説ほどには面白くはないだろうと思った。経験的に原作の面白さを超える映画に出会うことが滅多にないからだ。しかも、この小説の面白さは、よくできた映画のような面白さなので、小説を読むだけで映画を堪能した気分になってしまう。この気分を凌駕するのは容易でないと思えた。

 にもかかわらず、小説を読み終えると「映画も観たい」と思った。「SFは絵だ」という言葉がある。活字によってイマジネーションを紡ぎ出すのがSFの醍醐味だが、それを具体的な映像で眺めて堪能したいという欲求は抑えがたい。

 そして本日、下高井戸シネマで映画『オデッセイ』を観た。予感したとおり、原作の面白さを超える映画ではなかった。原作に詰め込まれたオタク的ディティールを映画に盛り込むのが困難なのは当然だろう。しかし、原作を補完する映画と割り切れば十分に楽しめる。迫力十分の「動く挿絵」を鑑賞していると思えば贅沢な気分にもなれる。