戯曲『リア王』を読んで、あらためて悲劇と認識2024年03月15日

『リア王』(シェイクスピア、松岡和子訳/ちくま文庫)
いま、東京芸術劇場で上演中の『リア王』(演出:ショーン・ホームズ、主演:段田安則)を近く観劇予定だ。観劇に先立って戯曲を読んだ。

 『リア王』(シェイクスピア・松岡和子訳/ちくま文庫)

 シェイクスピアの主要戯曲はだいたい読んでいる気がしていた。だが、『リア王』のチケットを手配したとき、四大悲劇のひとつである『リア王』を戯曲で読んでいないと気づいた。だが、私のシェイクスピア初体験は『リア王』である。

 私がジュニア版の『リア王』を読んだのは小学低学年の頃だった。わがささやかな読書体験の最も初期によんだ「お話し」である。幼少期に読んだ本の印象は長く残る。コーディリアという三女の名とケント伯爵の名は記憶に刻まれている。いまでも、「ケント」という名に接すると煙草やスーパーマンではなく『リア王』が思い浮かぶ。不思議なことだ。

 記憶には残っているが、『リア王』を面白いと思ったわけではない。バカな王様が騙されて嵐の中をさすらう姿に強烈な印象を受けた。イヤな話だと思った。読み返したいとも思わなかった。後にラムのシェイクスピア物語で読んだ『ハムレット』『マクベス』『オセロ』は面白いと感じ、戯曲も読んだ。しかし、『リア王』はイヤな話という印象が持続したまま戯曲もスルーしていた。

 今回、初めて戯曲を読んで、その展開の速さに驚いた。開幕早々にリア王はコーディリアに対して癇癪を起し、戯曲半ばで、すでに道化と共に嵐の中をさまよっている。私の記憶にあるリア王はこのシーンで終わっているのだ。

 そもそも、小学生時代に読んだジュニア版の記憶を頼りにするのが無理筋で、虚心に戯曲を読み進めねばならない。読み終えて、こんな結末だったのかと少し驚いた。かなり強烈で極端で理不尽な悲劇である。愚かさが招く悲劇とは言え、誰もが多かれ少なかれ愚かなのだから身につまされる。

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