手塚治虫はファウスト・フリークだった2023年09月03日

『ファウスト』(手塚治虫/手塚治虫漫画全集/講談社)、『ネオ・ファウスト』(手塚治虫/朝日新聞社)
 ゲーテの『ファウスト』読了後、手塚治虫の『ネオ・ファウスト』を大昔に読んだことを思い出した。内容は失念しているが本棚に保存している。また、ネット検索で、手塚治虫には『ファウスト』という古い作品もあると知り、古書で入手、あらためて二つのマンガ版ファウストを読んだ。

 『ファウスト』(手塚治虫/手塚治虫漫画全集/講談社)
 『ネオ・ファウスト』(手塚治虫/朝日新聞社)

 『ファウスト』と『ネオ・ファウスト』は、表紙で明らかなように画風がかなり異なる。『ファウスト』は丸っこい可愛い絵の子供向けマンガ、『ネオ・ファウスト』は手塚治虫晩期の大人向けマンガである。前者の発表は1949年(21歳)、後者は1988年(60歳)に雑誌連載、逝去後に出版された未完作である。

 『ファウスト』はゲーテの原作をマンガ化した「世界名作もの」第1陣である。第2陣は『罪と罰』だった(これは、かなり以前に読んだ記憶がある)。本書の「あとがき」によれば、手塚治虫は中学時代からゲーテの原作を何十回も読み返していたそうだ。ファウスト・フリークだったのだ。『ファウスト』はマンガ的に脚色しているが、原作の大筋を把握できる。

 『ネオ・ファウスト』ゲーテの原作を枠組みに、現代を舞台にしている。冒頭は東大・日大闘争に続く1970年2月のNG大闘争の場面、主人公は争乱の大学にあって超然と世間離れの研究に没頭している老学者・一ノ関教授(ファウスト)である。私たち団塊世代にとっては懐かしくも身につまされる設定だ。

 『ネオ・ファウスト』は時間SF、バイオSFであり、1960年代の世相を映した社会性もある。意欲的で面白い。この作品を『朝日ジャーナル』に連載した1988年1月から12月にかけて、手塚治虫は入退院をくり返していた。そして1989年2月、胃がん(本人には告知されなかった)で死去、享年60歳、最期まで執筆意欲があったそうだ。

 『ネオ・ファウスト』は1970年を主な舞台にした第一部が終わり、十数年を経た現代(当時の現代=1988年頃)の第二部が開幕して20頁で途切れている。これから面白くなりそうな予感を秘めて絶筆になってしまった。実に残念である。

ダンテの『神曲』を読む前に……2023年09月05日

『やさしいダンテ〈神曲〉』(阿刀田高/角川文庫)、『ドレの神曲』(原作:ダンテ、訳・構成:谷口絵里也、装画:ギュスターヴ・ドレ/宝島社)
 何とかゲーテの『ファウスト』を読了すると、ダンテの『神曲』を読みたくなった。『ファウスト』と『神曲』は、頭の中でゴチャゴチャになることがある。よく知らないからだ。この際、全訳本を読んできちんと整理・把握しておこうと思った。

 『神曲』(講談社学術文庫)は『地獄篇』『煉獄篇』『天国篇』の3冊から成る。1冊目の『地獄篇』を「注」や「解説」を頼りに半分以上読んだ時点で一旦中断した。ネット検索で見つけて入手した次の概説書2冊を先に読む方がいいと判断したのだ。

 『やさしいダンテ〈神曲〉』(阿刀田高/角川文庫)
 『ドレの神曲』(原作:ダンテ、訳・構成:谷口絵里也、装画:ギュスターヴ・ドレ/宝島社)

 2冊とも読みやすく、短時間で読了できた。

 『やさしいダンテ〈神曲〉』を読んで、古典を面白く的確に解説する阿刀田氏の芸にあらためて感服した。『地獄篇』を途中までしか読んでいない私が抱いたモヤモヤが晴れた気がする。「歴史上のヒーロー、ヒロインの登場する中に、ご近所の事件が紛れ込んだみたいで、場ちがいのような気もするけれど〈神曲〉では珍しいことでない」という指摘に納得した。

 『ドレの神曲』は19世紀の高名な版画家ドレの挿絵134点を収録したビジュアルな本である。大半の頁は、左頁が全面挿絵、右頁が抄訳・解説になっている。見開き挿絵の頁もいくつかある。先日読んだ岩波文庫の『ドン・キホーテ』(前篇後篇 )もドレの挿絵を多数収録していて、楽しめた。

 『地獄篇』を読み進めながら、異界の異様な情景をイメージするのが難しく、ビジュアル表現がほしいと思った。で、ネット検索をして本書を見つけたのだ。ドレの挿絵については阿刀田氏も言及している。息をのむような挿絵が多い。迫力がある。ドレの挿絵は解釈の一例だとは思うが、『神曲』を読み解く手助けになる。

 概説書2冊を読むと『神曲』の概要を把握した気分になった。これで十分という気もするが、乗りかかった船なので全訳版のボチボチ読みを再開しようと思う。

 『神曲』を構成する『地獄篇』『煉獄篇』『天国篇』はほぼ同じ分量である。だが、概説書2冊は『地獄篇』のウエイトが約半分、『煉獄篇』が約三割、『天国篇』が二割前後だ。『地獄篇』が一番面白く、絵にもなりやすいのだろう。『天国篇』は神学談義や怪しい宇宙論になり、少々難解らしい。取り組む前から気分がメゲル。

『神曲:地獄篇』の不思議な世界観2023年09月07日

『神曲:地獄篇』(ダンテ・アリギエリ、原基晶訳/講談社学術文庫)
 『神曲』の『地獄篇』を読了した。この後、さらに『煉獄篇』『天国篇』が続く。

   『神曲:地獄篇』(ダンテ・アリギエリ、原基晶訳/講談社学術文庫)

 この有名古典の名は中学生の頃から知っていた。高校生の頃にはダンテの想い人ベアトリーチェの名も知った。漠然と地獄巡りの話と聞いていたが、高邁で難解な宗教的古典だろうと敬遠したまま半世紀以上が経過した。

 『神曲:地獄篇』を読んで、「こんな内容だったのか」と驚いた……というか、むしろ呆れた。同時代の政治や宗教への怨念をぶつけた書ではないか。ダンテの同時代の人々(私には未知の人ばかり)をことごとく地獄に堕として告発・断罪している。誹謗中傷の怪文書のようにも感じられる。

 とは言え、壮大な叙事詩である。巨大な古典文学と評価される由縁もわかる。ダンテが己の脳内世界を渾身の思いでさらけ出した作品だと思う。

 『神曲』の翻訳は何種類かある。当初、岩波文庫の山川丙三郎訳を手にしたが、旧字旧仮名で、明治の新体詩のような翻訳だった。これで数百ページは辛い。結局、比較的新しい講談社学術文庫版にした。訳者の原基晶氏は1967年生まれ、私より19歳若い。「注」が各見開きの左端にあって読みやすく、巻末の解説も充実している。

 『神曲』は百の歌(『地獄篇』34歌、『煉獄篇』33歌、『天国篇』33歌)から成る叙事詩である。詩の翻訳は難しい。原文の格調を日本語に移せるとは思えない。翻訳でしか読めない私は、その内容の何割かを把めるだけで、ダンテの詩的表現などは評価できない。きっと、格調高い文学なのだろうと推測するだけだ。

 本書を読むにあたって2冊の概説書(『やさしいダンテ〈神曲〉』『ドレの神曲』)を読んだのは役立った。わかりやすいとは言い難い『神曲』を、何とか面白く読み進めることができた。

 ダンテは1265年、都市国家フィレンツェに生まれた。1300年に行政最高権の統領に就任するも、ローマ訪問中にフィレンツェでクーデターが発生、追放処分となり死刑宣告を受け、亡命者となる。その後、フィレンツェの地を踏むことなく、1321年にラヴェンナで亡くなる。亡命生活のなかで執筆したのが『神曲』である。だから、自分を追放した者たちへの激しい思いが反映されているのは当然だろう。

 私はフィレンツェの歴史には不案内で、政争のゴチャゴチャもよくわからない。大雑把に単純化すれば、教皇党と皇帝党の争いで、ダンテは後者だった。教皇は神事に専念し、俗事は皇帝が担当するべきと考えていたようだ。

 『神曲』はキリスト教世界観の書である。キリストが至高の存在だ。だが、キリスト以前のギリシア・ローマの人々やギリシア神話の神々への言及が多い(私にとっては「注」や「解説」がなければ読み解けない事項ばかりだが)。古代ローマの皇帝を神聖ローマ帝国の皇帝と同様に高く評価している。ダンテの脳内世界をうかがえて面白い。

 ダンテを地獄巡りに案内する師が紀元前の詩人ウェルギリウスなのも興味深い。彼はキリスト以前の人だから洗礼を受けておらず、天国へは行けない。だが、ダンテを導く師として存在感は大きい。不思議だ。

 『地獄篇』は9圏から成る巨大なすり鉢状の地獄(地底世界?)を、第1圏から第9圏まで降りて行く見聞記である。途中、さまざまな罰によって責め苦を受けている人々に出会う。まさに地獄絵巻だ。

 最後の第9圏では魔王ルシフェルに出会う。ラスボスである。この魔王は3人の人物を喰らている。その一人はイエスを裏切ったユダであり、これはまあ納得できる。後の二人はカエサルを暗殺したブルートゥスとカッシウスである。皇帝党のダンテにとっては、そういうことになるらしい。不思議な世界観だ。

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【後日追記リンク】
『神曲:煉獄篇』
『神曲:天国篇』

『神曲:煉獄篇』は想定以上に面白かった2023年09月09日

『神曲:煉獄篇』(ダンテ・アリギエリ、原基晶訳/講談社学術文庫)
 『神曲:地獄篇』に続いて『煉獄篇』を読んだ。『地獄篇』ほどには面白くなかろうとの予断があったが、意外に面白かった。

 『神曲:煉獄篇』(ダンテ・アリギエリ、原基晶訳/講談社学術文庫)

 煉獄とは天国の手前にある世界で、生前に犯した七つの大罪をここで贖罪しなければ天国に行けない。1150年代以降に出てきた考え方だそうだ。

 私が初めて煉獄という言葉に接したのは、学生時代にソルジェニーツィンの『煉獄のなかで』(木村浩・松永緑彌訳)を読んだときだ。字面からは地獄より恐ろしい場所に思え、この小説を読み終えても、その印象は変わらなかった。

 『煉獄のなかで』の訳者によれば、この小説の原題は『第1圏にて』で、『神曲:地獄篇』の第1圏のことである。9圏から成る地獄のなかでは最も軽い罪人の場所だが、地獄であることに違いはない。『第1圏にて』では日本人にはわかりにくいとの訳者の判断で、『神曲:煉獄篇』をふまえて『煉獄のなかで』にしたそうだ。印象的な題名だ。私のように、地獄より苛烈な世界をイメージした読者も多かったと思う。

 煉獄は贖罪の苦行を強いられる苛酷な場所である。文字通り火もくぐらねばならない。地獄に似ていなくもない。

 『地獄篇』は凹形世界の降り旅だったが、『煉獄篇』は凸形世界の登り旅、南半球の海に浮かぶ煉獄山の登山である。この島には地獄の門ならぬ煉獄門があり、この門を通過するのも容易でなく、通過してからは、さらに大変である。煉獄山は七つの大罪(高慢、嫉妬、憤怒、怠惰、貪欲、飽食、淫乱)に対応した七層の環道から成る。大罪をひとつずつ浄罪しながら山を登って行くのである。

 各環道では著名人やダンテの同時代人たちがさまざまな苦行を受けている。ダンテは彼らと会話を交わし、それぞれの事情を聞き出す。その内容の大半は「注」と「解説」がなければ私には読み解けない。

 そんな話のなかで私が興味抱いたのは、神聖ローマ帝国皇帝フェデリコ2世絡みの話である。教皇に対抗する存在として皇帝に期待を寄せているダンテは、ローマで戴冠した最後の皇帝フェデリコ2世以降は皇帝空位の暗黒時代になったと見ているようだ。フェデリコ2世には私も関心がある。塩野七生の『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』で興味をもち、テレビ番組『文明の道』で感動した。教皇と対立した13世紀のフェデリコ2世の時代からダンテの時代(14世紀)に至る歴史をもう少し勉強したくなった。

 煉獄山の山頂は、あのアダムとイブが追放されたエデンの園(地上楽園)である。ダンテはここで、天国から降りてきたベアトリーチェに出会う。感動的なラストだ。 と言っても、ダンテの批判精神は最後まで貫かれていて、最後の歌(第33歌)ではフランス王による教皇アヴィニョン捕囚を厳しく糾弾している。

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【後日追記リンク】
『神曲:天国篇』

『神曲:天国篇』は贖宥状を批判していた2023年09月12日

『神曲:天国篇』(ダンテ・アリギエリ、原基晶訳/講談社学術文庫)
 『神曲:地獄篇』『神曲:煉獄篇』 に続いて『天国篇』を読んだ。

 『神曲:天国篇』(ダンテ・アリギエリ、原基晶訳/講談社学術文庫)

 『天国篇』になると、地獄巡りや煉獄山登山のようなパノラマ館的な異世界探検の面白さは減少し、ビジュアル的には光あふれる朦朧とした光景が続き、やや抽象的・神秘的な話になってくる。

 『地獄篇』『煉獄篇』では古代ローマの詩人ウェルギリウスがダンテの案内人・導師だった。ウェルギリウスはキリスト以前の人物なので天国へは行けず、『煉獄篇』のラストで去って行く。かわって、天国から降りてきたベアトリーチェが案内人になる。

 ベアトーリーチェはダンテが子供時代から憧れていた少女で、早逝して天国いるのだ。そんな永遠の恋人と一緒の「天国の旅」にダンテの心はときめいたのではと思われるが、『天国篇』のベアトリーチェは神の世界を具現化した超越的存在になっている。恋人ではなく、やはり導師である。

 『地獄篇』『煉獄篇』は基本的に徒歩の旅だった。『天国篇』は浮遊である。物理的空間を上昇するというよりは不思議な時空を観照している感じだ。天国の構造はよく把握できないのだが、「月天→水星天→金星天→太陽天→火星天→木星天→土星天→恒星天→原動天(水晶天)」と昇って行くイメージである。原動天とは、宇宙を動かす起点のような所らしい。その先の終点が至高天で、ここが本当の天国なのだ。至高天に到達したダンテは、そこで、ついに神を観る――そして『神曲』は幕を下ろす。

 天国の描写は容易でない。筆舌に尽くしがたいからだ。「それゆえ筆はここを跳び越え、私はここを記さずにおく」「言葉には私の見たそのような光景を表す力はなく、記憶にもこれほどの途方もない壮挙を覚える力はない」といった、言語表現を放棄したような詩句もある。これもひとつの表現だろう。

 そんな幻視のような世界でも、ダンテはさまざまな人に出会う。十字軍で殉教したという自身のご先祖様に遭遇する話は面白い。キリスト教に好意的だったとは思えないトラヤヌス帝が天国にいるのが不思議だ。中世のキリスト教はトラヤヌス帝を高く評価していたそうだ。

 天国の人々やベアトーリーチェらのの口をかりた、現世の教皇への仮借ない批判は相変わらず続いている。私が興味深く感じたのは、贖宥状批判(第29歌)である。ルターが公開質問状で贖宥状を批判したのは1517年だが、その200年近く前に出た『神曲』もこの問題を取り上げていたのだ。

阿刀田氏の『ホメロスを楽しむために』で原文翻訳に誘われる2023年09月14日

『ホメロスを楽しむために』(阿刀田高/新潮文庫)
 古典文学は数多あるが、その嚆矢はホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』だろう。かなり昔にジュニア版を読んだ気がするが、原文翻訳は未読だ。数カ月前に『新トロイア物語』(阿刀田高)を読んだとき、ホメロスを読みたくなった。駅前の本屋の岩波文庫の棚に『イリアス』があったので購入し、数頁読んで投げた。文章は読みやすいが内容はわかりにくい。

 『イリアス』を読むには事前準備が必要だと思った。歌舞伎鑑賞と同じで、登場人物やストーリーをあらかじめ把んでいないと、読みこなすのが難しい。

 ダンテの『神曲』を読む際に阿刀田氏の『やさしいダンテ〈神曲〉』が役だったのに味をしめ、ネットで阿刀田氏を検索して次の本を見つけた。

 『ホメロスを楽しむために』(阿刀田高/新潮文庫)

 読みやすくて有益な本である。『イリアス』と『オデュッセイア』の内容紹介がメインで、現地(ギリシア、トルコ)取材の紀行文や詩人ホメロスへの考察もあり、飽きさせない。読み終えると『イリアス』の原文翻訳に取り組む気力がわいてくる。

 ホメロスの叙事詩に接してとまどうのは、人間と神様がゴチャゴチャに入り乱れている点だ。人間同士の戦争に神様たちの加勢や妨害を介入させる話に啞然とする。だが、阿刀田氏の解説を読むと、神様にもいろいろ事情があるとわかる。どっちつかずで身勝手なゼウスの立場も何となく納得できてしまう。

 阿刀田氏は人間と神々を同じ地平に置いてユーモラスに解説する。次のような一節に笑いつつもナルホドと思った。

 〔アキレウスの悲嘆を聞き、母なる女神テティスが現われ、「アキちゃん、どうしたの?」と、この母子、アキレウスの勇猛さにもかかわらず、どことなくマザコン的母子関係が匂って来るのです〕

 現在伝わっている『イリアス』はトロイア戦争のごく一部しか描いていない。「現状では〈アキレウス物語〉と呼んでもよいような作品である」という指摘に得心した。

 『イリアス』の登場人物を忠臣蔵になぞらえているのも面白い。老将ネストルは堀部弥兵衛金丸、ステネロスは大高源吾か神崎与五郎――そんな見立てである。忠臣蔵ファンの私は『イリアス』を身近に感じ、原文翻訳を読むのが楽しみになった。

『イリアス』は朗読を聴きたい物語だ2023年09月17日

『イリアス(上)(下)』(ホメロス/松平千秋訳/岩波文庫)
 『イリアス(上)(下)』(ホメロス/松平千秋訳/岩波文庫)

 多少の事前準備をして『イリアス』を読んだ。読みやすくて面白かった。

 事前準備とは「あらすじの把握」と「人名表作成」である。それには『ホメロスを楽しむために』、子供時代に読んだジュニア版、ネット情報などが役立った。

 ウィキペディアの『イーリアスの登場人物』というページには約二百人のリンクが五十音順に並んでいる。この二百人は人間のみ、『イリアス』で活躍する神々の名は含まれていない。岩波文庫『イリアス』巻末には20頁もの人名・地名索引がある。リンクや索引は検索に便利だが、読書前に準備する人名表にはならない。

 事前に準備した人名表は「あらすじ」を元に自前で作成した主要約60名(神も含む)のリストである。ギリシア側とトロイエ側に分類し、簡単な属性を付記した。このリストは読書の過程で随時書き足し、プリントして座右に置いた。

 『イリアス』を読むのに人名表が必要な理由のひとつは父称である。ホメロスは、「アキレウスは…」とは書かず「ペレウスの子アキレウスは…」あるいは単に「ペレウスの子は…」と書く。「アトレウスの子は…」とあれば、多くは「アガネムノンは…」の意味だが、ときには弟の「メネラオス」を指す場合もある。スムーズに読み進めるには、父の名を付記した人名表が必須だ。

 『イリアス』には枕詞も頻出する。「アカイア勢」は「脛当(すねあて)良きアカイア勢」、「トロイエ勢」は「馬を馴らすトロイエ勢」と表現するのがお約束だ。

 父称や枕詞には文のリズムを整える役割もあるらしい。『イリアス』は紀元前6世紀頃に成立したギリシア最古の叙事詩である。太古から語り継がれてきた、耳に心地いい物語なのだ。古代ギリシア語を解さない私は、それを味わえない。

 とは言え、松平氏の翻訳は名調子で読みやすい。当初はわずらわしく感じた父称や枕詞も、くり返し出てきて慣れてくると心地よくなる。この物語は目で読むのではなく朗読を聴く方が楽しめそうに思える。

 トロイエ戦争を描いた『イリアス』は、戦争のごく一部のエピソードを語っているだけだ。戦争の発端も、木馬も、トロイエの滅亡も描いていない。歴史物語というよりは神話に近い。いろいろな神がさまざまな形で人間世界に関わってくる。神話と割り切れば違和感が減少する。神をすべて幻想と見なす読み方もあるだろう。それにしても、本書をベースに発掘に邁進したシュリーマンの強引な読解力(曲解力)には、あらためて感嘆するしかない。

『イリアス』のような叙事詩は、くり返し聞く講談や歌謡曲に近いと思う。耳に心地いいが、よく考えると、その内容はかなりヘンである。アキレウスの思考や行動も尋常でない。パトロクロスへの至上の同性愛を詠いあげていると思えば、何となく理解できる。神話はヘンな話の宝庫だ。

牧野富太郎の標本の現物には迫力があった2023年09月19日

 都立大の牧野標本館で開催中の企画展『「日本の植物分類学の父」牧野富太郎が遺したもの』に行った。入場無料だ。NHK朝ドラの『らんまん』関連の企画で、思った以上に入場者がいた。約9割がオバサンで、私のようなオジサンは少ない。若い人は見かけなかった。

 牧野富太郎の膨大な標本を収蔵した牧野標本館そのものを公開するのかな、とも思ったが、当然そんなことはない。別館ギャラリーで標本を展示していた。

 標本の現物は、やはり迫力があり、美しい。驚いたことにオレンジやスイカまでも標本にしている。オレンジやスイカの実を5㎜ほどにスライスしたうえで押し花のようにして標本にしているのだ。黄や赤の色もきれいに残っている。どんな植物も標本で残そうという執念を感じた。

 なぜ都立大に牧野標本館があるのか。それもビデオで説明していた。

 牧野富太郎が亡くなったとき、自宅に約40万点の標本が残されていた。遺族は寄贈を申し出たが引き取り手がいない。牧野富太郎は東大で長年助手・講師を務めたのに、東大は引き取らない。国立博物館もダメ。整理が大変だからである。で、牧野富太郎が名誉都民第1号だった縁で東京都が引き取り、都立大の理学部に牧野標本館ができたそうだ。今回、初めて知った(私は都立大理学部OBなのだが…)。

『イラク水滸伝』でイラク南部湿地帯のアジールを知った2023年09月21日

『イラク水滸伝』(高野秀行/文藝春秋/2023.7)
 『イラク水滸伝』(高野秀行/文藝春秋/2023.7)

 タイトルは怪しい冒険小説っぽいが、秀逸で面白いノンフィクションである。著者は「誰も行かないところに行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」がポリシーのノンフィクション作家だ。そのポリシー通りの本である。分厚い本を一気に読了した。

 オビには「権力に抗うアウトローや迫害されたマイノリティが逃げ込む謎の巨大湿地帯」「中東情勢の裏側と第一級の民族誌的記録」「“現代最後のカオス”に挑んだ圧巻のノンフィクション大作」の惹句が踊る。読んでみると、この惹句通りだった。

 チグリス川とユーフラテス川が合流してペルシア湾にそそぐイラクは、メソポタミア文明発祥の地である。米国がフセイン政権を倒して以降、政情不安が続いている。観光で訪問できる国ではない。そのイラク南部に巨大湿地帯があり、そこは古代以来、中央の政権に反発する人々が逃げ込むアジール、つまりは梁山泊のような所だった――そんな湿地帯のことは、本書に接するまで知らなかった。

 この湿地帯は2016年、シューメール文明の遺跡とともに世界遺産に指定された。だが、現在も依然として「アジール」である。とても行きにくい世界遺産だそうだ。

 著者は大学探検部の頃から世界の辺境を旅してきた辺境旅のプロである。本書は、イラク南部湿原帯探訪の紆余曲折と悪戦苦闘をユーモラスに語った記録である。解説や考察も興味深い。

 著者がこの巨大湿地帯を新聞記事で知り、行こうと思ったのが2017年1月、最初の訪問は1年後の2018年1月である。

 出発までの準備活動から著者の熱意が伝わってくる。文献を読み、識者に会って情報を集める。在日イラク人を探し、取材すると同時にアラビア語を教わる。さらには、9歳上の旧知の「隊長」(レジェンド探検家、環境活動家)を説得して同行を取り付ける。と言っても、準備万端とは言えず、イラク南部湿地帯は行ってみなければわからない謎の場所である。

 著者が目標としたのは、現地で船大工を探し、船を造ってもらい、その船で広大な湿地帯巡りをすることだ。それが湿地帯探訪の最良の手段と判断したのだ。

 湿地帯の旅は3回敢行している(ビザは最長1カ月)。2018年1月の1回目は準備段階、現地の有力者(NGOの所長)と人脈をつなぐ。2019年5月の2回目では船大工を見つけて船を造るところまで進む。2019年秋に予定していた3回目はアクシデントで延期、その後のコロナ禍で渡航不可能になる。2022年3月になってビザOKの連絡があり、2022年4月に3回目の湿地帯探訪を果たす。だが、現地の有力者(NGOの所長=梁山泊の首領)は病気で不在……。

 果たして、自前の船による広大な湿地巡りは成功すか否か、それはここには書かない。本書を読んでのお楽しみだ。

 地球上にもはや秘境・辺境と言える所はなくなりつつあると感じていたが、本書を読むと、そうでもないと思えた。GPSが使え、衛星でテレビ放送を受診できる場所であっても、さまざまな意味で秘境・辺境と見なせる場所は、まだまだありそうだ。

 それにしても、辺境旅のプロの度胸、愛嬌、コミュニケーション力には感服した。

『永遠の都ローマ展』をゆったり見学2023年09月23日

 東京都美術館で開催中の『永遠の都ローマ展』に行った。思ったほどは混んでなく、ゆったりした気分で見学できた。

 ローマのカピトリーノ美術館のコレクションの展示である。目玉は「カピトリーノのヴィーナス」だ。私は10年ほど前に1回だけローマ観光をし、この美術館の前までは行った。だが、中には入っていない。

 カピトリーノ美術館はローマ中心部のカピトリーノの丘にあり、この名はキャピタル(首都)の語源になった。キリスト教を容認し、コンスタンティノープルを造営したコンスタンティヌス大帝は、何度かローマを訪問しているが、カピトリーノの丘には決して足を踏み入れなかった(理由には諸説)。

 そのコンスタンティヌス大帝の巨大な頭像(約1.8M)が目を引いた。この像がカピトリーノ美術館にあることに多少の皮肉も感じた。レプリカだが十分に迫力がある。

 私が注目したのは、トラヤヌス帝記念柱の浮彫の石膏複製である。現物の記念柱の浮彫を間近に見るのは難しい。複製であっても、原寸の浮彫作品を目の前で見ると感動する。この石膏複製は19世紀にナポレオン3世が作らせたそうだ。

 皇帝たちの大理石肖像も興味深い。カエサル、アウグストゥス帝、トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝、カラカラ帝らの胸像が展示されている。彼らの顔と対面していると、ローマ史のあれこれが、時間を超えて少しだけ具体的にイメージできるような気がしてくる。