『イリアス』は朗読を聴きたい物語だ2023年09月17日

『イリアス(上)(下)』(ホメロス/松平千秋訳/岩波文庫)
 『イリアス(上)(下)』(ホメロス/松平千秋訳/岩波文庫)

 多少の事前準備をして『イリアス』を読んだ。読みやすくて面白かった。

 事前準備とは「あらすじの把握」と「人名表作成」である。それには『ホメロスを楽しむために』、子供時代に読んだジュニア版、ネット情報などが役立った。

 ウィキペディアの『イーリアスの登場人物』というページには約二百人のリンクが五十音順に並んでいる。この二百人は人間のみ、『イリアス』で活躍する神々の名は含まれていない。岩波文庫『イリアス』巻末には20頁もの人名・地名索引がある。リンクや索引は検索に便利だが、読書前に準備する人名表にはならない。

 事前に準備した人名表は「あらすじ」を元に自前で作成した主要約60名(神も含む)のリストである。ギリシア側とトロイエ側に分類し、簡単な属性を付記した。このリストは読書の過程で随時書き足し、プリントして座右に置いた。

 『イリアス』を読むのに人名表が必要な理由のひとつは父称である。ホメロスは、「アキレウスは…」とは書かず「ペレウスの子アキレウスは…」あるいは単に「ペレウスの子は…」と書く。「アトレウスの子は…」とあれば、多くは「アガネムノンは…」の意味だが、ときには弟の「メネラオス」を指す場合もある。スムーズに読み進めるには、父の名を付記した人名表が必須だ。

 『イリアス』には枕詞も頻出する。「アカイア勢」は「脛当(すねあて)良きアカイア勢」、「トロイエ勢」は「馬を馴らすトロイエ勢」と表現するのがお約束だ。

 父称や枕詞には文のリズムを整える役割もあるらしい。『イリアス』は紀元前6世紀頃に成立したギリシア最古の叙事詩である。太古から語り継がれてきた、耳に心地いい物語なのだ。古代ギリシア語を解さない私は、それを味わえない。

 とは言え、松平氏の翻訳は名調子で読みやすい。当初はわずらわしく感じた父称や枕詞も、くり返し出てきて慣れてくると心地よくなる。この物語は目で読むのではなく朗読を聴く方が楽しめそうに思える。

 トロイエ戦争を描いた『イリアス』は、戦争のごく一部のエピソードを語っているだけだ。戦争の発端も、木馬も、トロイエの滅亡も描いていない。歴史物語というよりは神話に近い。いろいろな神がさまざまな形で人間世界に関わってくる。神話と割り切れば違和感が減少する。神をすべて幻想と見なす読み方もあるだろう。それにしても、本書をベースに発掘に邁進したシュリーマンの強引な読解力(曲解力)には、あらためて感嘆するしかない。

『イリアス』のような叙事詩は、くり返し聞く講談や歌謡曲に近いと思う。耳に心地いいが、よく考えると、その内容はかなりヘンである。アキレウスの思考や行動も尋常でない。パトロクロスへの至上の同性愛を詠いあげていると思えば、何となく理解できる。神話はヘンな話の宝庫だ。