『神曲:天国篇』は贖宥状を批判していた2023年09月12日

『神曲:天国篇』(ダンテ・アリギエリ、原基晶訳/講談社学術文庫)
 『神曲:地獄篇』『神曲:煉獄篇』 に続いて『天国篇』を読んだ。

 『神曲:天国篇』(ダンテ・アリギエリ、原基晶訳/講談社学術文庫)

 『天国篇』になると、地獄巡りや煉獄山登山のようなパノラマ館的な異世界探検の面白さは減少し、ビジュアル的には光あふれる朦朧とした光景が続き、やや抽象的・神秘的な話になってくる。

 『地獄篇』『煉獄篇』では古代ローマの詩人ウェルギリウスがダンテの案内人・導師だった。ウェルギリウスはキリスト以前の人物なので天国へは行けず、『煉獄篇』のラストで去って行く。かわって、天国から降りてきたベアトリーチェが案内人になる。

 ベアトーリーチェはダンテが子供時代から憧れていた少女で、早逝して天国いるのだ。そんな永遠の恋人と一緒の「天国の旅」にダンテの心はときめいたのではと思われるが、『天国篇』のベアトリーチェは神の世界を具現化した超越的存在になっている。恋人ではなく、やはり導師である。

 『地獄篇』『煉獄篇』は基本的に徒歩の旅だった。『天国篇』は浮遊である。物理的空間を上昇するというよりは不思議な時空を観照している感じだ。天国の構造はよく把握できないのだが、「月天→水星天→金星天→太陽天→火星天→木星天→土星天→恒星天→原動天(水晶天)」と昇って行くイメージである。原動天とは、宇宙を動かす起点のような所らしい。その先の終点が至高天で、ここが本当の天国なのだ。至高天に到達したダンテは、そこで、ついに神を観る――そして『神曲』は幕を下ろす。

 天国の描写は容易でない。筆舌に尽くしがたいからだ。「それゆえ筆はここを跳び越え、私はここを記さずにおく」「言葉には私の見たそのような光景を表す力はなく、記憶にもこれほどの途方もない壮挙を覚える力はない」といった、言語表現を放棄したような詩句もある。これもひとつの表現だろう。

 そんな幻視のような世界でも、ダンテはさまざまな人に出会う。十字軍で殉教したという自身のご先祖様に遭遇する話は面白い。キリスト教に好意的だったとは思えないトラヤヌス帝が天国にいるのが不思議だ。中世のキリスト教はトラヤヌス帝を高く評価していたそうだ。

 天国の人々やベアトーリーチェらのの口をかりた、現世の教皇への仮借ない批判は相変わらず続いている。私が興味深く感じたのは、贖宥状批判(第29歌)である。ルターが公開質問状で贖宥状を批判したのは1517年だが、その200年近く前に出た『神曲』もこの問題を取り上げていたのだ。