『90歳、男のひとり暮らし』を読んで考えたこと ― 2026年04月03日
新聞の書籍広告や本屋の店頭に「老人向けハウツー本」が多い。私は77歳である。私たちをターゲットに売り込んでいるのだと思うが、極力スルーしている。老人本につきあっていてはキリがない。だが、次の本を購入してしまった。
『90歳、男のひとり暮らし』(阿刀田高/新潮選書)
先日、阿刀田氏の『旧約聖書を知っていますか』を読んだ直後に本書を目にし、阿刀田氏が90歳でひとり暮らしだと知った。私は現在二人暮らしだが、将来どうなるかは何もわからない。13歳年長の男性のひとり暮らしがどんなものかを知っておくのも何か役立ちそうに思えたのである。
ユーモアを交えた読みやすいエッセイで、長生きのひとり暮らしも悪くないという気分にさせてくれる。食事は外食や宅配ではなく基本的に自炊だそうだ。感心した。私にはできそうにない。
本書に流れるトーンは「仕方ない」「これでいいのだ」「人生ってそんなもの」という肩の力が抜けた日々の感慨である。自己肯定の処世とも言える。見ならいたい境地だが、容易ではなかろう。
読書生活を綴った「おもしろい読書を知っていますか」には共感すると同時に、多少の波長の違いも感じた。
読書家と言われる人でも、おもしろい本と親しまない人が意外と多いのは「惜しい」と阿刀田氏は述べている。「おもしろいだけの本」を敬遠する人が多いのを残念がっているのだ。
私も読書は「おもしろい本」が第一だと思う。老後は(すでに老後なのだが…)おもしろい本だけを再読しながら過ごしたいものだ。そんな再読用の「おもしろい本」を発掘するのが現在の読書の目的のひとつでもある。だが、何を「おもしろい」と思うかが少々難しい。人によって「おもしろい」の基準はさまざまだし、読んだ時期によっても異なる。その時々の状況や気分によって何を「おもしろい」と感じるかが変わることもある。
阿刀田氏は「おもしろい本」と「知力を高める本」を区別し、「おもしろい本」に親しむことを勧めている。ご本人もわかっているだろうが、そう簡単に割り切れるものではない。阿刀田氏の『ギリシア神話を知っていますか』や『旧約聖書を知っていますか』などはどちらにも当てはまる。
『90歳、男のひとり暮らし』(阿刀田高/新潮選書)
先日、阿刀田氏の『旧約聖書を知っていますか』を読んだ直後に本書を目にし、阿刀田氏が90歳でひとり暮らしだと知った。私は現在二人暮らしだが、将来どうなるかは何もわからない。13歳年長の男性のひとり暮らしがどんなものかを知っておくのも何か役立ちそうに思えたのである。
ユーモアを交えた読みやすいエッセイで、長生きのひとり暮らしも悪くないという気分にさせてくれる。食事は外食や宅配ではなく基本的に自炊だそうだ。感心した。私にはできそうにない。
本書に流れるトーンは「仕方ない」「これでいいのだ」「人生ってそんなもの」という肩の力が抜けた日々の感慨である。自己肯定の処世とも言える。見ならいたい境地だが、容易ではなかろう。
読書生活を綴った「おもしろい読書を知っていますか」には共感すると同時に、多少の波長の違いも感じた。
読書家と言われる人でも、おもしろい本と親しまない人が意外と多いのは「惜しい」と阿刀田氏は述べている。「おもしろいだけの本」を敬遠する人が多いのを残念がっているのだ。
私も読書は「おもしろい本」が第一だと思う。老後は(すでに老後なのだが…)おもしろい本だけを再読しながら過ごしたいものだ。そんな再読用の「おもしろい本」を発掘するのが現在の読書の目的のひとつでもある。だが、何を「おもしろい」と思うかが少々難しい。人によって「おもしろい」の基準はさまざまだし、読んだ時期によっても異なる。その時々の状況や気分によって何を「おもしろい」と感じるかが変わることもある。
阿刀田氏は「おもしろい本」と「知力を高める本」を区別し、「おもしろい本」に親しむことを勧めている。ご本人もわかっているだろうが、そう簡単に割り切れるものではない。阿刀田氏の『ギリシア神話を知っていますか』や『旧約聖書を知っていますか』などはどちらにも当てはまる。
暗澹たる気分になる『新書 世界現代史』 ― 2026年04月01日
自分が生きている同時代を歴史の眼で捉えるのは容易ではない。だが、いつの時代でも、現代史こそが最も切実な課題である。多くの識者へのインタビューをベースに「世界現代史」を描いた次の新書を読み、暗澹たる気分になった。
『新書 世界現代史:なぜ「力こそ正義」はよみがえったのか』(川北省吾/講談社現代新書)
著者は共同通信の国際ジャーナリストである。本書は共同通信が配信した国際インタビュー連載記事「レコンキスタの時代」を元に書籍化したそうだ。インタビューの相手は多様な論客(学者、政治家、言論人、活動家など)で、その立場は多岐にわたる。だが、本書の内容は散漫ではなく収斂している。著者の問題意識に基づいて整理しているとも言えるが、現代の時代様相に衆目が一致するトレンドがあるのは確かなように思える。
本書のサブタイトルは“なぜ「力こそ正義」はよみがえったか”であり、エピローグの表題は“「19世紀」へ向かう世界”である。それは、「世界の警察官」がいない「Gゼロ時代」であり、法の支配でなく「ジャングルの掟」が横行する時代である。
冷戦後のグローバリズムの時代は、米国1強でもG7でもなくGゼロの時代になってしまった。著者は、そんな現代のトレンドライン(時代潮流)を作ったのは米国(トランプ)、ロシア(プーチン)、中国(習近平)らのレコンキスタ(失地回復)への強烈な意思だとしている。
反グローバリズム、反移民、反リベラル、伝統回帰などが現代のトレンドラインのようだ。そんな民主主義や国際法が霞む時代について、本書に登場する論客たちは、その淵源を多様な視点で論じている。
21世紀が19世紀のようになるという議論は、ピケティの『21世紀の資本』を想起させる。ピケティは20世紀に縮小傾向を見せた格差が21世紀には拡大し、19世紀のようになると警鐘を鳴らした。
本書も格差拡大を論じているが、本書の言う19世紀はいくつかの大国の勢力均衡で平和を保つ時代であり、「勢力圏」を争う世界である。それは、小国の命運が大国に握られる弱肉強食の世界とも言える。時代は悪くなると思わざるを得ない。
と言っても、21世紀が19世紀のくり返しになるとは思えない。19世紀には存在しなかった核やSNSやAIは、より危険な要素になるかもしれない。そうでない可能性もある。21世紀の人類には19世紀以降の歴史の記憶が積み上がっているはずであり、その記憶が「いい方向」に作用することを期待するしかない。
『新書 世界現代史:なぜ「力こそ正義」はよみがえったのか』(川北省吾/講談社現代新書)
著者は共同通信の国際ジャーナリストである。本書は共同通信が配信した国際インタビュー連載記事「レコンキスタの時代」を元に書籍化したそうだ。インタビューの相手は多様な論客(学者、政治家、言論人、活動家など)で、その立場は多岐にわたる。だが、本書の内容は散漫ではなく収斂している。著者の問題意識に基づいて整理しているとも言えるが、現代の時代様相に衆目が一致するトレンドがあるのは確かなように思える。
本書のサブタイトルは“なぜ「力こそ正義」はよみがえったか”であり、エピローグの表題は“「19世紀」へ向かう世界”である。それは、「世界の警察官」がいない「Gゼロ時代」であり、法の支配でなく「ジャングルの掟」が横行する時代である。
冷戦後のグローバリズムの時代は、米国1強でもG7でもなくGゼロの時代になってしまった。著者は、そんな現代のトレンドライン(時代潮流)を作ったのは米国(トランプ)、ロシア(プーチン)、中国(習近平)らのレコンキスタ(失地回復)への強烈な意思だとしている。
反グローバリズム、反移民、反リベラル、伝統回帰などが現代のトレンドラインのようだ。そんな民主主義や国際法が霞む時代について、本書に登場する論客たちは、その淵源を多様な視点で論じている。
21世紀が19世紀のようになるという議論は、ピケティの『21世紀の資本』を想起させる。ピケティは20世紀に縮小傾向を見せた格差が21世紀には拡大し、19世紀のようになると警鐘を鳴らした。
本書も格差拡大を論じているが、本書の言う19世紀はいくつかの大国の勢力均衡で平和を保つ時代であり、「勢力圏」を争う世界である。それは、小国の命運が大国に握られる弱肉強食の世界とも言える。時代は悪くなると思わざるを得ない。
と言っても、21世紀が19世紀のくり返しになるとは思えない。19世紀には存在しなかった核やSNSやAIは、より危険な要素になるかもしれない。そうでない可能性もある。21世紀の人類には19世紀以降の歴史の記憶が積み上がっているはずであり、その記憶が「いい方向」に作用することを期待するしかない。
千年前の修道士のような国防長官 ― 2026年03月30日
米国のヘグセス国防長官の胸に十字軍のタトゥーがあると知り、いま再読中の『ローマ帝国衰亡史』(ギボン)第58章の一節を想起した。
第58章は第1回十字軍の話である。18世紀の啓蒙人であるギボンは、11世紀末に始まった十字軍に批判的だ。十字軍を無知と狂信と見なし、次のように述懐している。
「われわれの一層冷静な理性はアシアを押し流しヨーロッパを空にしたこの途方もない兵員による遠隔な作戦の正当さを否認せねばならない。」(中野好之訳)
また、十字軍の熱狂に乗じた「抜け目のない一修道士」が自分の肌に十字架の焼き印を刻み、それを見せびらかすことで「裕福な聖職禄」を得たというエピソードを揶揄的に紹介している(画像参照)。
この一節を読んだ直後に、米国のヘグセス国防長官が十字軍マークと「Deus Vult(神はそれを望まれる)」のタトゥーを入れていると知ったのである。千年前の「抜け目のない一修道士」が21世紀によみがえったように思え、頭がクラクラした。ギボンもビックリだと思う。
ヘグセス国防長官はプリンストン大学を卒業し、ハーバード大学で修士号を取得し、FOXニュースの司会者から政界に転じた人だそうだ。彼からは、18世紀の啓蒙人は時代遅れリベラルの淵源に見えるのかもしれない。
おかしな時代に突入していると思う。
第58章は第1回十字軍の話である。18世紀の啓蒙人であるギボンは、11世紀末に始まった十字軍に批判的だ。十字軍を無知と狂信と見なし、次のように述懐している。
「われわれの一層冷静な理性はアシアを押し流しヨーロッパを空にしたこの途方もない兵員による遠隔な作戦の正当さを否認せねばならない。」(中野好之訳)
また、十字軍の熱狂に乗じた「抜け目のない一修道士」が自分の肌に十字架の焼き印を刻み、それを見せびらかすことで「裕福な聖職禄」を得たというエピソードを揶揄的に紹介している(画像参照)。
この一節を読んだ直後に、米国のヘグセス国防長官が十字軍マークと「Deus Vult(神はそれを望まれる)」のタトゥーを入れていると知ったのである。千年前の「抜け目のない一修道士」が21世紀によみがえったように思え、頭がクラクラした。ギボンもビックリだと思う。
ヘグセス国防長官はプリンストン大学を卒業し、ハーバード大学で修士号を取得し、FOXニュースの司会者から政界に転じた人だそうだ。彼からは、18世紀の啓蒙人は時代遅れリベラルの淵源に見えるのかもしれない。
おかしな時代に突入していると思う。
追悼・つげ義春 ― 2026年03月28日
つげ義春の訃報がニュースで流れた。3月3日に入院先の病院で亡くなり、親族のみの葬儀を終えたそうだ。
調布市文化会館の「つげ義春のいるところ展」(1月29日~3月22日)の開催中に逝ったことになる。つげ義春は調布市在住だった。ニュースには昨年から体調を崩していたとあるから、この展覧会に出向くことはなかったと思う。体調にかかわらず来なかったかもしれないが。
私はこの無料の展覧会に3回行った。会場まで電車を使って30分弱、徒歩で40分弱、同じ市内だから行きやすいのである。
1回目に観たときの感想をブログに書いた。2回目に行ったのは、調布を舞台にしたマンガのシーンを再確認するためだった。
3回目はTシャツを買うためである。1回目に行ったとき、『ねじ式』のTシャツに食指が動いたが売り切れだった。2回目に行ったとき、陳列しているこのTシャツに「土日のみ販売」の札が下がっていた。私が行ったのは平日である。他のTシャツやグッズは普通に販売しているのに、何故かこのTシャツのみ販売日を限定しているのだ。で、数日後の日曜日に出向き、無事ゲットできた。
つげ義春の訃報に接し、頑張って入手したTシャツをあらためて広げてみた。まだ寒いので着ていないが、今年の夏には何度か着用すると思う。その頃までに全集をゆっくりと読み返したい。
調布市文化会館の「つげ義春のいるところ展」(1月29日~3月22日)の開催中に逝ったことになる。つげ義春は調布市在住だった。ニュースには昨年から体調を崩していたとあるから、この展覧会に出向くことはなかったと思う。体調にかかわらず来なかったかもしれないが。
私はこの無料の展覧会に3回行った。会場まで電車を使って30分弱、徒歩で40分弱、同じ市内だから行きやすいのである。
1回目に観たときの感想をブログに書いた。2回目に行ったのは、調布を舞台にしたマンガのシーンを再確認するためだった。
3回目はTシャツを買うためである。1回目に行ったとき、『ねじ式』のTシャツに食指が動いたが売り切れだった。2回目に行ったとき、陳列しているこのTシャツに「土日のみ販売」の札が下がっていた。私が行ったのは平日である。他のTシャツやグッズは普通に販売しているのに、何故かこのTシャツのみ販売日を限定しているのだ。で、数日後の日曜日に出向き、無事ゲットできた。
つげ義春の訃報に接し、頑張って入手したTシャツをあらためて広げてみた。まだ寒いので着ていないが、今年の夏には何度か着用すると思う。その頃までに全集をゆっくりと読み返したい。
芥川受賞作2編は面白いとは思うが… ― 2026年03月27日
今年もまた、『文藝春秋 芥川賞発表号』を購入して受賞作を読んだ。2025年下期の受賞作は次の二つだ。
『時の家』(鳥山まこと)
『叫び』(畠山丑雄)
二作ともそれなりに面白いが、私の波長には合わなかった。昨年の受賞作のようなビックリする小説ではなかった。
『時の家』は空家の追憶譚である。坦々として緻密な空家の描写が続き「まさか、この調子でずーっと行くのか?」と懸念したら、最後まで「この調子」が続いた。いっそ、空家の一人称の物語にすればと思った。だが、そんな話はすでにありそうだ。
『時の家』は銅鐸と万博が絡んだ奇怪な小説である。語り口は面白い。話が時々ぶっ飛ぶ。迫力と熱気は感じたが、私にはよくわからない所がある小説だった。
芥川賞発表号を読む楽しみの一つは「選評」にある。当代の作家たちによる新人作家の作品の評価は、それがバラけることが多いので面白い。全員一致で高く評価する作品は滅多にない。受賞作を評価しない選考委員も、受賞に至らなかった作品を推している選考委員もいる。小説とはそういういうものだろう。今回は5編の候補作から2編が選ばれたが、さほどの差はなかったようだ。
選考委員の吉田修一氏は「五作品とも〇? 候補作を読み終えて少し焦るほどの豊作で、やっぱり純文の新人って面白いなーと率直に感心してしまった。」と述べている。豊作はご同慶の至りだが、純文学って何だろうと考えてしまった。何だが特殊な領域の洗練された芸事のようにも感じられてしまう。もちろん、そんなものではない「何か」のはずだが。
『時の家』(鳥山まこと)
『叫び』(畠山丑雄)
二作ともそれなりに面白いが、私の波長には合わなかった。昨年の受賞作のようなビックリする小説ではなかった。
『時の家』は空家の追憶譚である。坦々として緻密な空家の描写が続き「まさか、この調子でずーっと行くのか?」と懸念したら、最後まで「この調子」が続いた。いっそ、空家の一人称の物語にすればと思った。だが、そんな話はすでにありそうだ。
『時の家』は銅鐸と万博が絡んだ奇怪な小説である。語り口は面白い。話が時々ぶっ飛ぶ。迫力と熱気は感じたが、私にはよくわからない所がある小説だった。
芥川賞発表号を読む楽しみの一つは「選評」にある。当代の作家たちによる新人作家の作品の評価は、それがバラけることが多いので面白い。全員一致で高く評価する作品は滅多にない。受賞作を評価しない選考委員も、受賞に至らなかった作品を推している選考委員もいる。小説とはそういういうものだろう。今回は5編の候補作から2編が選ばれたが、さほどの差はなかったようだ。
選考委員の吉田修一氏は「五作品とも〇? 候補作を読み終えて少し焦るほどの豊作で、やっぱり純文の新人って面白いなーと率直に感心してしまった。」と述べている。豊作はご同慶の至りだが、純文学って何だろうと考えてしまった。何だが特殊な領域の洗練された芸事のようにも感じられてしまう。もちろん、そんなものではない「何か」のはずだが。
3マス世界史のムック版は、かなり深い ― 2026年03月25日
2年前にEテレで放映した『3か月でマスターする世界史』は、西欧中心視点ではない歴史観を提示した興味深い番組だった。視聴に合わせてテキストを購読し、講師の岡本隆司氏の『世界史序説:アジア史から一望する』も読んだ。
放映から1年以上経過した昨年(2025年)11月、この番組をベースにした次のムックが出版された。
『もっと深く知るアジアから見る世界史』(岡本隆司・編著/NHK出版)
先日読んだ対談本『世界史のミカタ』で「世界史を作ったのは遊牧民」という見方を再確認したのを契機に、積んだままだった3マス世界史のムックを読んだ。
本書は岡本隆司氏が「序章」と「あとがき」を執筆し、本文は番組に出演したゲスト講師が執筆している。各章の執筆者は以下の通りだ。
第1章 アジアから考えるローマ帝国 井上文則
第2章 オリエントと世界宗教 守川知子
第3章 草原と中華の交錯――遊牧国家と中国 古松崇志
第4章 モンゴル帝国の完成と解体 宮紀子
第5章 世界史の分水嶺――ポストモンゴルのヘゲモニーシフト 山下範久
第6章 ヨーロッパとアジア――国際秩序のゆくえ 細谷雄一
番組の内容に沿った構成だが、テキストとの重複は少なく、テキストを補完してより深く踏み込んだ記述になっている。各章末のコメント入り「読書案内」も親切だ。
ゲスト講師6人のなかで私が著書を読んだことがあるのは井上文則氏と宮紀子氏だ。5年前に読んだ井上氏の『シルクロードとローマ帝国の興亡』は本書の内容とも重なる目からウロコの本だった。宮氏のやや専門的な『クビライ・カアンの驚異の帝国』は3マス世界史視聴をきっかけに購入して読んだ。
ユーラシア視点の本書は、ユーラシア規模の歴史変動の要因として寒冷化や温暖化に着目している。気候変動は人々の大規模な移動や疫病につながり、歴史の動因となる。それが3世紀の危機、14世紀の危機、17世紀の危機などをもたらした。歴史を大きく俯瞰した気分になる。
オリエント、イスラム世界、モンゴル帝国などは、その全盛期には文明や文化の最先端であり、世界史の中心だった。だが、ポストモンゴルの近代になって西欧文明が中心になっていく。なぜ、そのような大転換が生じたのか。本書はその過程を概説している。一応は理解できるが、十全に把握できたとは言えない。私が世界史を勉強していく上で探究したい大きなテーマである。
放映から1年以上経過した昨年(2025年)11月、この番組をベースにした次のムックが出版された。
『もっと深く知るアジアから見る世界史』(岡本隆司・編著/NHK出版)
先日読んだ対談本『世界史のミカタ』で「世界史を作ったのは遊牧民」という見方を再確認したのを契機に、積んだままだった3マス世界史のムックを読んだ。
本書は岡本隆司氏が「序章」と「あとがき」を執筆し、本文は番組に出演したゲスト講師が執筆している。各章の執筆者は以下の通りだ。
第1章 アジアから考えるローマ帝国 井上文則
第2章 オリエントと世界宗教 守川知子
第3章 草原と中華の交錯――遊牧国家と中国 古松崇志
第4章 モンゴル帝国の完成と解体 宮紀子
第5章 世界史の分水嶺――ポストモンゴルのヘゲモニーシフト 山下範久
第6章 ヨーロッパとアジア――国際秩序のゆくえ 細谷雄一
番組の内容に沿った構成だが、テキストとの重複は少なく、テキストを補完してより深く踏み込んだ記述になっている。各章末のコメント入り「読書案内」も親切だ。
ゲスト講師6人のなかで私が著書を読んだことがあるのは井上文則氏と宮紀子氏だ。5年前に読んだ井上氏の『シルクロードとローマ帝国の興亡』は本書の内容とも重なる目からウロコの本だった。宮氏のやや専門的な『クビライ・カアンの驚異の帝国』は3マス世界史視聴をきっかけに購入して読んだ。
ユーラシア視点の本書は、ユーラシア規模の歴史変動の要因として寒冷化や温暖化に着目している。気候変動は人々の大規模な移動や疫病につながり、歴史の動因となる。それが3世紀の危機、14世紀の危機、17世紀の危機などをもたらした。歴史を大きく俯瞰した気分になる。
オリエント、イスラム世界、モンゴル帝国などは、その全盛期には文明や文化の最先端であり、世界史の中心だった。だが、ポストモンゴルの近代になって西欧文明が中心になっていく。なぜ、そのような大転換が生じたのか。本書はその過程を概説している。一応は理解できるが、十全に把握できたとは言えない。私が世界史を勉強していく上で探究したい大きなテーマである。
舞台『砂の女』は男女の年齢を含めて原作に忠実 ― 2026年03月23日
紀伊國屋ホールで『砂の女』(原作:安部公房、脚本・演出:山西竜矢、出演:森田剛、藤間爽子、他)を観た。
安部公房は戯曲も書く小説家で、舞台演出も手掛けた。自身の小説のいくつかも戯曲化している。代表作『砂の女』に関しては、映画化やラジオ化の際に自らシナリオを書いているが、戯曲化はしていない。
安部公房自身が『砂の女』を舞台化したいと思ったかどうか、私は知らない。おそらく、舞台化の構想はなかったと思う。小説の完成度が高く、映画(監督:勅使河原宏)も高く評価された傑作だった。小説や映画を超える舞台を創るのは難しいと考えたかもしれない。
作家自身が戯曲を残さなかった『砂の女』だが、私は5年前に二つの舞台を観た。うずめ劇場の『砂女』とケラリーノ・サンドロヴィッチ演出・上演台本の『砂の女』である。今回が三つ目の舞台だ。5年前に観た二つの舞台は、原作を多少アレンジしていた。今回の舞台は原作に非常に忠実に作られている。原作を読み込んだうえで、巧みに舞台化していると感じた。
変な言い方になるが、原作を読んでいなくても、この芝居を観れば原作の内容を十分に把握できると思った。私にとっては、芝居を観ながら原作の内容を次々に思い出していく観劇体験だった。緊張が持続する至福の2時間だった。
主人公の男と女が若く感じられたのは、私が年を取ったせいだと思う。特に「女」の藤間爽子が原作のイメージ以上に若く見えた。だが、私の錯覚だった。観劇後、原作を確認すると「まだ三十前後の、いかにも人の好さそうな小柄な女だった」と書いていた。
男(仁木順平)の年齢は、小説末尾の「審判」の書類で正確にわかる。生まれたのは昭和2年3月7日(月日は安部公房と同じ。年齢は3つ下)、昆虫採集に出発したのは昭和30年8月18日だから、28歳である。そんなに若かったのかと驚いた。私がこの小説を最初に読んだのは十代だったので、男をオジサンと感じたようだ。
小説は、男を失踪者と宣告する簡潔な「審判」書類で終わる。三島由紀夫が「砂のように簡潔で無味乾燥な突然のオチ」と称賛した結末である。舞台は、この書類をプロジェクターで投影して終わる。このシーンは、投影した書類を朗々と無味乾燥に読み上げてほしかった。
私は原作を3回ぐらい読んでいる。原作に忠実な舞台『砂の女』の読後感ならぬ「観後感」は、初めてこの小説を読んだときの感慨とは微妙に異なる。以前は、世界という情況や桎梏と格闘する話に思えた。だが今回は、脱出が空しい家庭劇のようにも見えた。これは、小説と芝居の違いではなく、私の年齢や時代の違いのせいだろう。
安部公房は戯曲も書く小説家で、舞台演出も手掛けた。自身の小説のいくつかも戯曲化している。代表作『砂の女』に関しては、映画化やラジオ化の際に自らシナリオを書いているが、戯曲化はしていない。
安部公房自身が『砂の女』を舞台化したいと思ったかどうか、私は知らない。おそらく、舞台化の構想はなかったと思う。小説の完成度が高く、映画(監督:勅使河原宏)も高く評価された傑作だった。小説や映画を超える舞台を創るのは難しいと考えたかもしれない。
作家自身が戯曲を残さなかった『砂の女』だが、私は5年前に二つの舞台を観た。うずめ劇場の『砂女』とケラリーノ・サンドロヴィッチ演出・上演台本の『砂の女』である。今回が三つ目の舞台だ。5年前に観た二つの舞台は、原作を多少アレンジしていた。今回の舞台は原作に非常に忠実に作られている。原作を読み込んだうえで、巧みに舞台化していると感じた。
変な言い方になるが、原作を読んでいなくても、この芝居を観れば原作の内容を十分に把握できると思った。私にとっては、芝居を観ながら原作の内容を次々に思い出していく観劇体験だった。緊張が持続する至福の2時間だった。
主人公の男と女が若く感じられたのは、私が年を取ったせいだと思う。特に「女」の藤間爽子が原作のイメージ以上に若く見えた。だが、私の錯覚だった。観劇後、原作を確認すると「まだ三十前後の、いかにも人の好さそうな小柄な女だった」と書いていた。
男(仁木順平)の年齢は、小説末尾の「審判」の書類で正確にわかる。生まれたのは昭和2年3月7日(月日は安部公房と同じ。年齢は3つ下)、昆虫採集に出発したのは昭和30年8月18日だから、28歳である。そんなに若かったのかと驚いた。私がこの小説を最初に読んだのは十代だったので、男をオジサンと感じたようだ。
小説は、男を失踪者と宣告する簡潔な「審判」書類で終わる。三島由紀夫が「砂のように簡潔で無味乾燥な突然のオチ」と称賛した結末である。舞台は、この書類をプロジェクターで投影して終わる。このシーンは、投影した書類を朗々と無味乾燥に読み上げてほしかった。
私は原作を3回ぐらい読んでいる。原作に忠実な舞台『砂の女』の読後感ならぬ「観後感」は、初めてこの小説を読んだときの感慨とは微妙に異なる。以前は、世界という情況や桎梏と格闘する話に思えた。だが今回は、脱出が空しい家庭劇のようにも見えた。これは、小説と芝居の違いではなく、私の年齢や時代の違いのせいだろう。
旧約聖書を読むのはタイヘンだ ― 2026年03月21日
ある本を読んでいて「うずらとマナ」が出てきた。ネット検索で旧約聖書の『出エジプト記』に出てくる奇跡の食物だと判明した。旧約の『創世記』と『出エジプト記』はずいぶん昔に読んだと思うが内容は失念している。2年前に木崎さと子の『聖書物語』や月本昭男の『物語としての旧約聖書』も読んだ筈だが、ほとんど頭に残っていない。
「旧約聖書を知っていますか」と問われても「はい」とは言えない。で、次の2冊を続けて読んだ。
『旧約聖書を知っていますか』(阿刀田高/新潮文庫)
『ドレの旧約聖書』(訳・構成:谷口絵里也/装画:ギュスターヴ・ドレ/宝島社)
古典を軽妙に面白く紹介する阿刀田氏の力量は、以前に読んだ『ギリシア神話を知っていますか』、『やさしいダンテ〈神曲〉』、『ホメロスを楽しむために』でよく承知している。『旧約聖書を知っていますか』も期待に違わず読みやすく、頭に入りやすかった。
『ドレの旧約聖書』は約半分のページがドレの銅版画で、文章部分は旧約聖書の要約である。挿絵というイメージによって旧約の場面のいくつかを多少は頭に定着できたかもしれない。
この2冊を読了して感じたのは、旧約聖書のゴチャゴチャした単調さである。楽園追放、ノアの方船、バベルの塔までの「神話」は面白いし、アブラハム、イサクに始まってモーセを経てダビデやソロモンに至るまでは、建国物語として何とか楽しめる。その後がゴチャゴチャしていて容易に頭に入って来ない。
『ドレの旧約聖書』は、さほど文章が多いわけではないが、後半になると読み続けるのが苦痛になった。「聖書」と言えばアリガタくて崇高な教えの書のイメージもあるが、旧約聖書は嫉妬深いと神とユダヤの民をめぐる血生臭い歴史説話である。似たような話のくり返しも多い。多少の史実を反映しているのだろうが、史書とは思えない。身を入れて読み続けるのはタイヘンである。
そんな私は、阿刀田氏の次に述懐に納得し、安心した。
「旧約聖書について言えば、簡単に読めるものではない。研究者でもない限り、全巻をきちんと読むことは不可能である。断言してもよい。普通のサラリーマンが信仰もないのに、電車の中で旧約聖書を読んでいたら、
――狂ったのと、ちがうか――
と、私はそう思いたい。理想は理想として、この古典については読めないのが普通である。」
「旧約聖書を知っていますか」と問われても「はい」とは言えない。で、次の2冊を続けて読んだ。
『旧約聖書を知っていますか』(阿刀田高/新潮文庫)
『ドレの旧約聖書』(訳・構成:谷口絵里也/装画:ギュスターヴ・ドレ/宝島社)
古典を軽妙に面白く紹介する阿刀田氏の力量は、以前に読んだ『ギリシア神話を知っていますか』、『やさしいダンテ〈神曲〉』、『ホメロスを楽しむために』でよく承知している。『旧約聖書を知っていますか』も期待に違わず読みやすく、頭に入りやすかった。
『ドレの旧約聖書』は約半分のページがドレの銅版画で、文章部分は旧約聖書の要約である。挿絵というイメージによって旧約の場面のいくつかを多少は頭に定着できたかもしれない。
この2冊を読了して感じたのは、旧約聖書のゴチャゴチャした単調さである。楽園追放、ノアの方船、バベルの塔までの「神話」は面白いし、アブラハム、イサクに始まってモーセを経てダビデやソロモンに至るまでは、建国物語として何とか楽しめる。その後がゴチャゴチャしていて容易に頭に入って来ない。
『ドレの旧約聖書』は、さほど文章が多いわけではないが、後半になると読み続けるのが苦痛になった。「聖書」と言えばアリガタくて崇高な教えの書のイメージもあるが、旧約聖書は嫉妬深いと神とユダヤの民をめぐる血生臭い歴史説話である。似たような話のくり返しも多い。多少の史実を反映しているのだろうが、史書とは思えない。身を入れて読み続けるのはタイヘンである。
そんな私は、阿刀田氏の次に述懐に納得し、安心した。
「旧約聖書について言えば、簡単に読めるものではない。研究者でもない限り、全巻をきちんと読むことは不可能である。断言してもよい。普通のサラリーマンが信仰もないのに、電車の中で旧約聖書を読んでいたら、
――狂ったのと、ちがうか――
と、私はそう思いたい。理想は理想として、この古典については読めないのが普通である。」








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