『絹の道と香料の島』は16世紀頃までの東西交渉史2020年08月30日

『絹の道と香料の島(大世界史9)』(護雅夫・別枝達夫/文藝春秋)
 『草原とオアシスの人々』(護雅夫)に続いて、同じ著者の次の本を読んだ。

 『絹の道と香料の島(大世界史9)』(護雅夫・別枝達夫/文藝春秋)

 刊行は1968年、かなり昔の本だ。私が大学生の頃に出た文藝春秋の『大世界史』(全26巻)を古書で一括購入したのは数年前、ボチボチ読んではいるが大半は未読で、本巻もまだ読んでなかった。

 前半はシルクロード(絹の道)の歴史で護雅夫が執筆、後半は「香料の島」を目指す「地理上の発見」の歴史で別枝達夫が執筆している。前半は、スキタイや匈奴が中央ユーラシアの草原で活躍する紀元前の時代からパクス・タタリカ(モンゴル世界帝国による平和)の15世紀までを描き、後半は16世紀の「大航海時代」を描いている。全体で紀元前から16世紀頃までの東西交渉史である。

 『絹の道と香料の島』は秀逸なタイトルだと思うが、やはり前半と後半では視点や舞台が大きく異なり、2冊の別の本を読んだ気分になる。前半と後半をつなぐキーは、東西で活躍したイスラム商人である。

 前半のラストで鄭和の遠征(1405年~1433年)に言及している。2万人以上の大船団が明からアフリカ東岸にまで赴いた大遠征だが、著者はそれを「イスラム商船がきりひらいた航路にのっておこなわれた」とし、ヴァスコ・ダ・ガマの航海についても、次のように述べている。

 「ヨーロッパ人にとってはまぎれもなく「発見」であったろうが、アジアのひとびと、とくにイスラム商人にとっては、「発見」でもなんでもなかったのである。」

 そのカッコつきの「地理上の発見」の16世紀を描いたのが後半で、主役はポルトガルとスペインである。エンリケ航海王が企画したアフリカ南端を越えるインド航路の「発見」、コロンブスやアメリゴ・ヴェスプッチの航海、コルテスやピサロによる中南米征服、マゼランの世界一周などの物語は、ヨーロッパ視点からはワクワクする探検譚の連続である。面白い時代と思う。だが、前半に続けて後半を読むと少し白ける。

 世界史視点に立てば、当時の文明国はイスラムであり、「地理上の発見」は傲慢な蛮族ヨーロッパの蛮行に見える。レコンキスタで意気盛んなポルトガル、スペインの後ろ盾にはローマ教皇がいる。新「発見」の土地はローマ教皇に届け出れば領有権を認められたそうだ。ローマ教皇が承認した1494年の条約では、ポルトガルとスペインによる地球の二分(境界は西経46度37分)が決められたらしい。ポルトガルやスペインが日本を「発見」したなら、現在の岡山県から東はスペイン領、西はポルトガル領である。イヤハヤである。

 本書前半ではシルクロードの三つのルート(草原ルート、オアシスルート、海上ルート)の歴史をわかりやすく概説している。

 紀元前のスキタイや匈奴の時代に主流だったのは、カスピ海の北方を通る草原ルートで、遊牧騎馬民族の往来によって西のスキタイ文化がモンゴル高原を経て日本にまで伝わったらしい。ヘロドトスがこのルートに言及しているにもかかわらず、スキタイの衰亡とともにこのルートは忘れられ、ヘロドトス以降のギリシア人はカスピ海を北洋から入り込んだ入り江と考えていたそうだ。地理的知識が後退する例として面白い。

 本書で興味深かったのは西ウイグル王国(天山ウイグル王国)の重要性の指摘である。中央アジアには元々はインド・ヨーロッパ系の白色人種が住んでいたが、現在、この地域はトルコ化されている。インド・ヨーロッパ系の国はタジキスタンだけである。中央アジアがトルコ化していく第一歩が西ウイグル王国なのである。それは、遊牧国家による間接支配ではなく「移住」による直接統治だったからである――なるほどと納得した。

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