江川卓訳『カラマーゾフの兄弟』を読んだ ― 2025年12月29日
中公文庫の『カラマーゾフの兄弟』は池田健太郎訳だと思っていたが、すでに絶版になっていて、今年の夏、江川卓(1927-2001)訳で『カラマーゾフの兄弟』が刊行された。すぐに入手した。江川卓訳にこだわった経緯は、先日再々読した『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』(江川卓)の読後感に書いた。年末になり、その文庫本をやっと読了した。
『カラマーゾフの兄弟(1)(2)(3)(4)』(ドストエフスキー/江川卓訳/中公文庫)
それなりの読書時間が確保できると目論んで読み始めたが、読了に9日を要した。この長編を読むのは4回目で、訳者はすべて違う。20歳頃に初めて読んだのは米川正夫訳、13年前に読んだのは亀山郁夫訳、昨年の夏に読んだのは原卓也訳だった。
やはり『カラマーゾフの兄弟』を読むと疲れる。登場人物たちの異常に過剰な迫力と熱量に圧倒され、ぐったりする。
この長編は、殺人事件→裁判という展開の犯罪小説・心理小説的なストーリーをベースに、劇中劇のような宗教的・哲学的な議論や物語がふんだんに上乗せされている。この多重構造は有機的に絡み合っているので、現実世界を超えた異次元世界を旅している気分になる。
江川卓訳の中公文庫版は1979年の集英社版世界文学全集が底本で、訳者によるかなり詳しい注解と後記がついている。『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』が出たのは訳書より10年程後の1991年だが、この注解と後記は『謎とき』に重なっている。注解を参照しつつ小説を読むと『謎とき』の復習になる。小説に登場する事項のシンボル性や聖書との関連に「へぇー」と思いながら読み進めた。
この小説には「私」という語り手がいる。私は昨年の再々読時に、語り手は13年後のアリョーシャではないかと思って読んだ。今回、この「私」を気にしながら読み、アリョーシャを語り手と見なすには無理があると思った。
『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』のなかに「ここで作者自身(語り手でない)が突然顔を出し(…)」という部分があり、江川卓は作者と語り手が別だと述べているのだと思った。だが、それは私の早とちりだったようだ。この小説は全編「私」という語り手が記述した物語であり、「私」は作者ドストエフスキイの分身だと思う。
「私」は神様の視点で登場人物たちの行動や心理を語るのではない。「私」は自分の感想や印象を述べるし、詠嘆したり興奮したりする。まるで登場人物である。作者自身が物語世界に引きずり込まれている不思議な「語り」に思える。江川卓の指摘は、作者の分身である語り手が、ときに分身であることを忘れて作者自身になっていると述べているのだと思う。
4回目の『カラマーゾフの兄弟』であらためて感じたのはアリョーシャという人物の不可解性である。妙な自己確信と予言力があり、神を信じていないフシもある。イノセントな教祖風でもあり、自らを好色で衝動的なカラマーゾフの一人と認識している。「第7編 4 ガリラヤのカナ」終盤の次の記述が印象的だ。
「彼が大地に身を投げたときは、まだ弱々しい少年にすぎなかったが、ふたたび立ちあがったとき、彼はすでに生涯を通じて、変わらぬ不屈の闘士となっていた。」
この不可解なアリョシャ像は、幻の第二部から照射しなければ明確なイメージを結ばない。その第二部はエピローグの「カラマーゾフ万歳」で予告されている。アリョーシャに心酔している少年コーリャは「ああ、ぼくもいつか正義のために自分を犠牲にできたらなあ」と述べる。13年後のテロリストを予感させる台詞だ。皇帝暗殺の黒幕はアリョーシャ、実行犯はコーリャ――そんスリリングな将来がぼんやり浮かぶ。
『カラマーゾフの兄弟(1)(2)(3)(4)』(ドストエフスキー/江川卓訳/中公文庫)
それなりの読書時間が確保できると目論んで読み始めたが、読了に9日を要した。この長編を読むのは4回目で、訳者はすべて違う。20歳頃に初めて読んだのは米川正夫訳、13年前に読んだのは亀山郁夫訳、昨年の夏に読んだのは原卓也訳だった。
やはり『カラマーゾフの兄弟』を読むと疲れる。登場人物たちの異常に過剰な迫力と熱量に圧倒され、ぐったりする。
この長編は、殺人事件→裁判という展開の犯罪小説・心理小説的なストーリーをベースに、劇中劇のような宗教的・哲学的な議論や物語がふんだんに上乗せされている。この多重構造は有機的に絡み合っているので、現実世界を超えた異次元世界を旅している気分になる。
江川卓訳の中公文庫版は1979年の集英社版世界文学全集が底本で、訳者によるかなり詳しい注解と後記がついている。『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』が出たのは訳書より10年程後の1991年だが、この注解と後記は『謎とき』に重なっている。注解を参照しつつ小説を読むと『謎とき』の復習になる。小説に登場する事項のシンボル性や聖書との関連に「へぇー」と思いながら読み進めた。
この小説には「私」という語り手がいる。私は昨年の再々読時に、語り手は13年後のアリョーシャではないかと思って読んだ。今回、この「私」を気にしながら読み、アリョーシャを語り手と見なすには無理があると思った。
『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』のなかに「ここで作者自身(語り手でない)が突然顔を出し(…)」という部分があり、江川卓は作者と語り手が別だと述べているのだと思った。だが、それは私の早とちりだったようだ。この小説は全編「私」という語り手が記述した物語であり、「私」は作者ドストエフスキイの分身だと思う。
「私」は神様の視点で登場人物たちの行動や心理を語るのではない。「私」は自分の感想や印象を述べるし、詠嘆したり興奮したりする。まるで登場人物である。作者自身が物語世界に引きずり込まれている不思議な「語り」に思える。江川卓の指摘は、作者の分身である語り手が、ときに分身であることを忘れて作者自身になっていると述べているのだと思う。
4回目の『カラマーゾフの兄弟』であらためて感じたのはアリョーシャという人物の不可解性である。妙な自己確信と予言力があり、神を信じていないフシもある。イノセントな教祖風でもあり、自らを好色で衝動的なカラマーゾフの一人と認識している。「第7編 4 ガリラヤのカナ」終盤の次の記述が印象的だ。
「彼が大地に身を投げたときは、まだ弱々しい少年にすぎなかったが、ふたたび立ちあがったとき、彼はすでに生涯を通じて、変わらぬ不屈の闘士となっていた。」
この不可解なアリョシャ像は、幻の第二部から照射しなければ明確なイメージを結ばない。その第二部はエピローグの「カラマーゾフ万歳」で予告されている。アリョーシャに心酔している少年コーリャは「ああ、ぼくもいつか正義のために自分を犠牲にできたらなあ」と述べる。13年後のテロリストを予感させる台詞だ。皇帝暗殺の黒幕はアリョーシャ、実行犯はコーリャ――そんスリリングな将来がぼんやり浮かぶ。

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