『桐島です』の脚本家・梶原阿貴の『爆弾犯の娘』は面白い ― 2025年07月18日
先日観た映画『桐島です』のパンフレットを読んで、脚本を書いた梶原阿貴の父親は爆弾事件を起こした人物だと知って驚いた。彼女には『爆弾犯の娘』という近著があるそうだ。
爆弾犯である父親は現代人劇場の役者で、1971年の新宿クリスマスツリー爆弾事件などを起こしたグループの一員だそうだ。1971年、大学生だった私は現代人劇場の芝居をいくつか観ている。ツリー爆弾事件も記憶にある。阿貴という名は高橋和巳の『邪宗門』の登場人物から付けたそうだ。そういえば、あの小説に出てくる教祖の娘・阿礼の妹がそんな名だった。この脚本家への興味がわき、その著書を読んだ。
『爆弾犯の娘』(梶原阿貴/ブックマン社/1925.7.2)
とても面白い本で、一気に読了した。特に小学生時代の話が興味深い。
著者は1973年生まれ。父は1948年生まれ(私と同じだ)。母は父より2歳上である。爆弾事件の1971年、父は23歳だった。事件後の逃亡生活のなかで父は母と一緒になり、著者が生まれる。著者の家は表向きは母子家庭だが、実は逃亡中の父が隠れて同居していた。その父は、著者が小学6年のとき、14年間の逃亡生活の末に自首する。その後の裁判で懲役6年になり、1991年に刑期を終え、再び家族3人の生活が始まるが――という波乱の物語である。
子供の頃から、父は著者にとってやっかいな同居人だった。存在を秘匿せねばならない面倒な人物を著者は「あいつ」と呼ぶ。名前を知らなかったのだ。
小学6年になって、母親から父の名前と爆弾事件を知らされる。そのとき著者は「全部、知っていたような気がする」と答える。その直後に父は自首し、著者は中学生になる。
父の裁判で「元俳優だけあってテノールの良い声」で朗読した冒頭陳述への著者の感想が面白い。
「こんなに純粋で真面目だと、生きていくのが大変そうだと同情したことを憶えている。(…)確かに私は父とも母とも違って、純粋ではないような気がしている。要領がいいし、すぐに嘘をつく。」
著者の母親は興味深い人物だ。亭主の14年間の逃亡生活を仕切り、6年間の服役時代を支える。しかし、父が出所してしばらくすると、母は「今までお疲れ様でした。今日から私たちは別々です。解散!」と、家族解散を宣言する。爆弾犯を抱えた緊張で支えられてきた家族は、緊張が消えれば消滅なのだ。父は不本意げに出て行き、母は伊豆の祖母のもとに去る。20歳になった著者は自立し、15歳から始めていた俳優業を続ける。
このとき、著者は父に郵送する本のなかに『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』の戯曲を見つけ、父がこの芝居の準主役だったと知る。私は1971年のこの芝居を観ている。あの芝居の役者が、芝居の延長のように爆弾事件を起こしたという短絡に愕然とした。胸に刺さる。戯曲を読んだ著者は次のように述べている。
「今一度この戯曲を読むと、段々と清水邦夫と蜷川幸雄に腹が立ってきた。自分たちは賢くて大人で、現実と虚構に区別をきっちり線引きできていたのかもしれないけれど、無垢でアホで真面目な若者は、現実との区別がつかなくなってしまったかもしれないのだ。その責任についてあなたたちはどう考えているんですか? と問い質したくなった。」
闘争の当事者ではない劇作家と演出家が、闘争の代償行為のような芝居を作ることによってナイーブな若者たちを煽っていると見られても仕方ないと思う。私は著者の父親世代だが、著者に共感した。あの芝居への多少の違和感の根が逆照射で見えた気がした。芝居は怖い。
15歳で俳優になった著者は30歳から脚本を書き始め、現在は脚本家である。爆弾犯の娘という出自を公にするにはためらいもあったようだ。『桐島です』の脚本を引き受けたのを契機に本書を執筆した。この脚本について次のように、ややドヤ顔で述べている。
「本文中、何度も、「五日で脚本を書いた」とドヤ顔で自慢気に言ってますが、これに要した時間は、五日ではなく私の人生五十年です。」
爆弾犯である父親は現代人劇場の役者で、1971年の新宿クリスマスツリー爆弾事件などを起こしたグループの一員だそうだ。1971年、大学生だった私は現代人劇場の芝居をいくつか観ている。ツリー爆弾事件も記憶にある。阿貴という名は高橋和巳の『邪宗門』の登場人物から付けたそうだ。そういえば、あの小説に出てくる教祖の娘・阿礼の妹がそんな名だった。この脚本家への興味がわき、その著書を読んだ。
『爆弾犯の娘』(梶原阿貴/ブックマン社/1925.7.2)
とても面白い本で、一気に読了した。特に小学生時代の話が興味深い。
著者は1973年生まれ。父は1948年生まれ(私と同じだ)。母は父より2歳上である。爆弾事件の1971年、父は23歳だった。事件後の逃亡生活のなかで父は母と一緒になり、著者が生まれる。著者の家は表向きは母子家庭だが、実は逃亡中の父が隠れて同居していた。その父は、著者が小学6年のとき、14年間の逃亡生活の末に自首する。その後の裁判で懲役6年になり、1991年に刑期を終え、再び家族3人の生活が始まるが――という波乱の物語である。
子供の頃から、父は著者にとってやっかいな同居人だった。存在を秘匿せねばならない面倒な人物を著者は「あいつ」と呼ぶ。名前を知らなかったのだ。
小学6年になって、母親から父の名前と爆弾事件を知らされる。そのとき著者は「全部、知っていたような気がする」と答える。その直後に父は自首し、著者は中学生になる。
父の裁判で「元俳優だけあってテノールの良い声」で朗読した冒頭陳述への著者の感想が面白い。
「こんなに純粋で真面目だと、生きていくのが大変そうだと同情したことを憶えている。(…)確かに私は父とも母とも違って、純粋ではないような気がしている。要領がいいし、すぐに嘘をつく。」
著者の母親は興味深い人物だ。亭主の14年間の逃亡生活を仕切り、6年間の服役時代を支える。しかし、父が出所してしばらくすると、母は「今までお疲れ様でした。今日から私たちは別々です。解散!」と、家族解散を宣言する。爆弾犯を抱えた緊張で支えられてきた家族は、緊張が消えれば消滅なのだ。父は不本意げに出て行き、母は伊豆の祖母のもとに去る。20歳になった著者は自立し、15歳から始めていた俳優業を続ける。
このとき、著者は父に郵送する本のなかに『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』の戯曲を見つけ、父がこの芝居の準主役だったと知る。私は1971年のこの芝居を観ている。あの芝居の役者が、芝居の延長のように爆弾事件を起こしたという短絡に愕然とした。胸に刺さる。戯曲を読んだ著者は次のように述べている。
「今一度この戯曲を読むと、段々と清水邦夫と蜷川幸雄に腹が立ってきた。自分たちは賢くて大人で、現実と虚構に区別をきっちり線引きできていたのかもしれないけれど、無垢でアホで真面目な若者は、現実との区別がつかなくなってしまったかもしれないのだ。その責任についてあなたたちはどう考えているんですか? と問い質したくなった。」
闘争の当事者ではない劇作家と演出家が、闘争の代償行為のような芝居を作ることによってナイーブな若者たちを煽っていると見られても仕方ないと思う。私は著者の父親世代だが、著者に共感した。あの芝居への多少の違和感の根が逆照射で見えた気がした。芝居は怖い。
15歳で俳優になった著者は30歳から脚本を書き始め、現在は脚本家である。爆弾犯の娘という出自を公にするにはためらいもあったようだ。『桐島です』の脚本を引き受けたのを契機に本書を執筆した。この脚本について次のように、ややドヤ顔で述べている。
「本文中、何度も、「五日で脚本を書いた」とドヤ顔で自慢気に言ってますが、これに要した時間は、五日ではなく私の人生五十年です。」
『凍土の悲劇:モンゴル吉村隊事件』は怖い本 ― 2025年07月21日
今月(2025年7月)天皇・皇后がモンゴルを公式訪問し、抑留中に死亡した日本人の慰霊碑に供花・黙禱した。
ソ連の捕虜となってモンゴルの収容j所で死亡した日本人は約1700人である。シベリア抑留の死亡者約5万5千人に比べると少なく見えるが、死亡率はモンゴルの方がシベリアより高かった。いろいろな要因でモンゴルの方が悲惨で過酷だったのだ。
先月読んだ小説『黒パン俘虜記』で、あの「暁に祈る事件」がモンゴルでの出来事だと知った。今回の慰霊を機に、メディアあのがあの事件を取り上げるかなと思っていたが、私が把握した範囲では、そんな記事は見あたらなかった。
モンゴルの収容所の「吉村隊」では、労働ノルマを達成できなかった隊員に対して「吉村隊長」が、極寒の屋外に縛ったまま放置する制裁を課し、「暁に祈る」姿勢で凍死した者が多数出た、と報じられた事件である。引き揚げ後、一部の隊員が「吉村隊長」を告発(1949年)して裁判となり、懲役3年の刑が確定(1958年)した。
私は子供の頃にこの事件の話を聞いたが詳細は知らない。ウィキペディアによれば、告発に対して吉村隊長こと池田重善が冤罪を主張し、やや複雑な様相になったようだ。ウィキペディアの記事を読んでも釈然としないので、34年前に出た次の本を古書で入手して読んだ。
『凍土の悲劇:モンゴル吉村隊事件』(佐藤悠/朝日新聞社/1991.12)
著者は朝日新聞編集委員。本書は1991年3月から5月まで朝日新聞夕刊に52回にわたって連載した記事をベースにしている。
事件で告発された池田重善は憲兵曹長だった。捕虜になったとき、憲兵だったことを隠すために吉村という偽名を使ったため、吉村隊長と呼ばれた。新聞連載の2年前、池田重善は73歳で病死している。その死亡記事を読んだ著者が「待てよ」と思ったのが取材のきっかけである。死亡記事の要旨は以下の通りだ。
(1) リンチで30人近い犠牲者を出したとう元隊員の証言が報道された。
(2) 裁判で1人の隊員を死なせた遺棄致死罪などで懲役3年の刑が確定した。
(3) 出所後の池田は手記『活字の私刑台』を出版するなどして無実を訴えた。
犠牲者が30人なのか1人なのかゼロなのかは大きく違う。真実はどうなのか、との思いで著者は取材を始める。存命の関係者もすでに高齢になっている。
1年以上にわたる取材によっても明解な結論は得られなかった。だが、ひとつの認識に達する。吉村隊長に問われるべき行為はまぎれもなくあり、確定判決の認定事実をかなり上回る「間接の」犠牲者が存在したと思える。そんな事態を招いた吉村隊長の行為は、極限状態の人間集団においていつでも起こり得るものだった――という認識である。
著者は、30人近い犠牲者が出たという初期の報道は伝聞に基づいたものであり、確かな証拠はなかったとする。いま風に言えば、ファクトチェックに引っかかりそうだ。伝聞が拡散した根拠や状況も分析し、根も葉もない伝聞とは言えないと見なしている。
無罪を主張する手記『活字の私刑台』の内容には虚偽が多いと指摘している。
モンゴルにおもねる吉村隊長が隊員たちに過酷な作業ノルマを課したのは事実のようだ。吉村隊長は独裁者としてふるまい、隊員に対する処罰も実施していた。その処罰の内容や程度は明確になっていない。吉村隊で多数の死者が出たのは事実だが、死に至る要因は複合的である。吉村隊長に間接的な責任があったとしても、リンチ殺人と見なせるか否かは不明だ。
本書を読み終えて、私も著者と同じように「息ぐるしく」なった。極限状態で人間の多くは自分の生存を最優先とし、非人間的になり勝ちだ。そんな体験をして生き残って帰国した人々にとって、非人間的だった自身を振り返りたくはないないだろう。生存者のなかには、著者との面会を拒む元隊員もかないいたそうだ。極限状況における人間の怖さを再認識させられる本である。
ソ連の捕虜となってモンゴルの収容j所で死亡した日本人は約1700人である。シベリア抑留の死亡者約5万5千人に比べると少なく見えるが、死亡率はモンゴルの方がシベリアより高かった。いろいろな要因でモンゴルの方が悲惨で過酷だったのだ。
先月読んだ小説『黒パン俘虜記』で、あの「暁に祈る事件」がモンゴルでの出来事だと知った。今回の慰霊を機に、メディアあのがあの事件を取り上げるかなと思っていたが、私が把握した範囲では、そんな記事は見あたらなかった。
モンゴルの収容所の「吉村隊」では、労働ノルマを達成できなかった隊員に対して「吉村隊長」が、極寒の屋外に縛ったまま放置する制裁を課し、「暁に祈る」姿勢で凍死した者が多数出た、と報じられた事件である。引き揚げ後、一部の隊員が「吉村隊長」を告発(1949年)して裁判となり、懲役3年の刑が確定(1958年)した。
私は子供の頃にこの事件の話を聞いたが詳細は知らない。ウィキペディアによれば、告発に対して吉村隊長こと池田重善が冤罪を主張し、やや複雑な様相になったようだ。ウィキペディアの記事を読んでも釈然としないので、34年前に出た次の本を古書で入手して読んだ。
『凍土の悲劇:モンゴル吉村隊事件』(佐藤悠/朝日新聞社/1991.12)
著者は朝日新聞編集委員。本書は1991年3月から5月まで朝日新聞夕刊に52回にわたって連載した記事をベースにしている。
事件で告発された池田重善は憲兵曹長だった。捕虜になったとき、憲兵だったことを隠すために吉村という偽名を使ったため、吉村隊長と呼ばれた。新聞連載の2年前、池田重善は73歳で病死している。その死亡記事を読んだ著者が「待てよ」と思ったのが取材のきっかけである。死亡記事の要旨は以下の通りだ。
(1) リンチで30人近い犠牲者を出したとう元隊員の証言が報道された。
(2) 裁判で1人の隊員を死なせた遺棄致死罪などで懲役3年の刑が確定した。
(3) 出所後の池田は手記『活字の私刑台』を出版するなどして無実を訴えた。
犠牲者が30人なのか1人なのかゼロなのかは大きく違う。真実はどうなのか、との思いで著者は取材を始める。存命の関係者もすでに高齢になっている。
1年以上にわたる取材によっても明解な結論は得られなかった。だが、ひとつの認識に達する。吉村隊長に問われるべき行為はまぎれもなくあり、確定判決の認定事実をかなり上回る「間接の」犠牲者が存在したと思える。そんな事態を招いた吉村隊長の行為は、極限状態の人間集団においていつでも起こり得るものだった――という認識である。
著者は、30人近い犠牲者が出たという初期の報道は伝聞に基づいたものであり、確かな証拠はなかったとする。いま風に言えば、ファクトチェックに引っかかりそうだ。伝聞が拡散した根拠や状況も分析し、根も葉もない伝聞とは言えないと見なしている。
無罪を主張する手記『活字の私刑台』の内容には虚偽が多いと指摘している。
モンゴルにおもねる吉村隊長が隊員たちに過酷な作業ノルマを課したのは事実のようだ。吉村隊長は独裁者としてふるまい、隊員に対する処罰も実施していた。その処罰の内容や程度は明確になっていない。吉村隊で多数の死者が出たのは事実だが、死に至る要因は複合的である。吉村隊長に間接的な責任があったとしても、リンチ殺人と見なせるか否かは不明だ。
本書を読み終えて、私も著者と同じように「息ぐるしく」なった。極限状態で人間の多くは自分の生存を最優先とし、非人間的になり勝ちだ。そんな体験をして生き残って帰国した人々にとって、非人間的だった自身を振り返りたくはないないだろう。生存者のなかには、著者との面会を拒む元隊員もかないいたそうだ。極限状況における人間の怖さを再認識させられる本である。
久々にDVDで『太陽を盗んだ男』を観た ― 2025年07月23日
映画『太陽を盗んだ男』(監督:長谷川和彦、原案:レナード・シュレイダー、脚本:長谷川和彦、レナード・シュレイダー、出演:沢田研二、菅原文太、池上季実子、他)を久々にDVDで観た。
中学教師の沢田研二が独力で原爆を製作し、日本政府を脅迫する話である。
この映画の封切りは1979年だが、私は当時は観ていない。後に評判を聞いて観たいと思ったが、なかなか機会がなかった。CATVで観て、さらにDVDで観たのは10年以上前だと思う。大筋はボンヤリ憶えているが細かい所は失念している。
今回、この映画のDVDを観ようと思ったのは、映画『桐島です』の脚本家・梶原阿貴が書いた『爆弾犯の娘』を読んだからである。この本によれば、『太陽を盗んだ男』には歌舞伎町の大きな手配写真の看板が映るシーンがあり、そこに著者の父・梶原譲二と桐島聡が並んで映っているそうだ。そのシーンを確認したくなった。
そんな動機で観た『太陽を盗んだ男』だが、あらためて「こんなブツ飛んだ映画だったのか」と感心し、十分に楽しめた。この映画が封切られた1979年、しらけの時代とも呼ばれた頃である。そんな時代の空気を背景にした何ともエネルギッシュな映画だ。
学校の授業ではヤル気を見せない理科教師(沢田研二)が、交番を襲って拳銃を奪い、拳銃を使って東海村の原発からプルトニウムを盗み出し、プルトニウムを使って自宅アパートのキッチンで原爆を作ってしまう。原爆を完成させるまでのシーンは何度観ても印象深くて面白い。
主人公は明白な証拠によって自分は原爆を所持する核保有「国」だと日本政府に通告する。政府は一個人が原爆を所持している事実を隠蔽しようとする。主人公は政府を脅迫するのだが、何を要求すればいいかわからない。政治や金銭への無関心がしらけ世代的である。警部(菅原文太)との熱いアクション展開は、ハチャメチャで狂躁的だ。冷めた気分と熱い空気の混ざり具合がいい。
映画の中盤で手配写真も確認できた。歌舞伎町派出所の上部に「あなたの近くに爆弾犯人はいませんか?」の大看板が掲げられていた。下段の右端から宇賀神寿一(桐島と同時に逃亡。1982年逮捕。2003年出所)、桐島聡(2024年、逃亡中に病死)、梶原譲二(1985年自首。1991年出所)、鎌田俊彦(クリスマスツリー爆弾事件リーダー。1980年逮捕。無期懲役)である。
この映画には、歌舞伎町がある新宿をはじめ1979年当時の東京の情景がいろいろ出てくる。それが懐かしく感じられる。自分がジイサンになったのだと自覚した。
中学教師の沢田研二が独力で原爆を製作し、日本政府を脅迫する話である。
この映画の封切りは1979年だが、私は当時は観ていない。後に評判を聞いて観たいと思ったが、なかなか機会がなかった。CATVで観て、さらにDVDで観たのは10年以上前だと思う。大筋はボンヤリ憶えているが細かい所は失念している。
今回、この映画のDVDを観ようと思ったのは、映画『桐島です』の脚本家・梶原阿貴が書いた『爆弾犯の娘』を読んだからである。この本によれば、『太陽を盗んだ男』には歌舞伎町の大きな手配写真の看板が映るシーンがあり、そこに著者の父・梶原譲二と桐島聡が並んで映っているそうだ。そのシーンを確認したくなった。
そんな動機で観た『太陽を盗んだ男』だが、あらためて「こんなブツ飛んだ映画だったのか」と感心し、十分に楽しめた。この映画が封切られた1979年、しらけの時代とも呼ばれた頃である。そんな時代の空気を背景にした何ともエネルギッシュな映画だ。
学校の授業ではヤル気を見せない理科教師(沢田研二)が、交番を襲って拳銃を奪い、拳銃を使って東海村の原発からプルトニウムを盗み出し、プルトニウムを使って自宅アパートのキッチンで原爆を作ってしまう。原爆を完成させるまでのシーンは何度観ても印象深くて面白い。
主人公は明白な証拠によって自分は原爆を所持する核保有「国」だと日本政府に通告する。政府は一個人が原爆を所持している事実を隠蔽しようとする。主人公は政府を脅迫するのだが、何を要求すればいいかわからない。政治や金銭への無関心がしらけ世代的である。警部(菅原文太)との熱いアクション展開は、ハチャメチャで狂躁的だ。冷めた気分と熱い空気の混ざり具合がいい。
映画の中盤で手配写真も確認できた。歌舞伎町派出所の上部に「あなたの近くに爆弾犯人はいませんか?」の大看板が掲げられていた。下段の右端から宇賀神寿一(桐島と同時に逃亡。1982年逮捕。2003年出所)、桐島聡(2024年、逃亡中に病死)、梶原譲二(1985年自首。1991年出所)、鎌田俊彦(クリスマスツリー爆弾事件リーダー。1980年逮捕。無期懲役)である。
この映画には、歌舞伎町がある新宿をはじめ1979年当時の東京の情景がいろいろ出てくる。それが懐かしく感じられる。自分がジイサンになったのだと自覚した。
『大唐西域記』全3冊に目を通した ― 2025年07月25日
今月初め、マルコ・ポーロの『東方見聞録』を再読しているとき、未読棚の『大唐西域記』が気になった。『東方見聞録』再読の前に「西方見聞録」とも言える『大唐西域記』に取り組むべきでは、と後ろめたくなったのである。
数年前に入手したワイド版東洋文庫の『大唐西域記』は全3冊。パラパラめくると、漢字と注釈が多い。読みにくそうなので敬遠していたが、猛暑のなかのヤケッパチ気分で全3冊に挑戦した。
『大唐西域記 1,2,3』(玄奘/訳注:水谷真成/ワイド版東洋文庫/平凡社)
何とか読み終えたが、目を通しただけという気分である。どんな事を書いてあるかを把握しただけで、咀嚼したとは言えない。
後に三蔵法師と呼ばれる玄奘が旅立ったのが629年。インドから大量の経典を持って長安に帰還したのが645年。17年にわたる大旅行だ。その記録が『大唐西域記』である。地誌の書だと聞いていたものの、旅行記を期待して読み始めた。
本書は各地の地理・文化・宗教などに関する報告であり、各地に伝わる伝説・故事・仏教説話などの紹介である。玄奘の感興を語る肉声はない。単調で坦々としている。扱う地理的エリアの広大さには、あらためて驚いた。
西域と言えばシルクロードである。中国から中央アジア、アフガニスタン、パキスタンを経てインドへに至る往復の旅の記録がメインの書だと思っていた。だが、本書の大半はインドの話である。玄奘は北インドからガンジス河流域を経て東海岸沿いに南下し、西方に転じて北上しインダス河流域の諸国を巡っている。インドの中だけでも大旅行なのだ。
本書は、巻1から巻12までの全12巻で138カ国の情報を記述している。そのなかには僧伽羅国(セイロン)や波刺斯国(ペルシア)など、訪問していない国の伝聞もある。国によって数行から数ページまで扱いはさまざまだ。特別扱いなのは摩掲国(マガダ国)で、巻8と巻9の2巻をこの1国にあてている。仏陀に関する史跡や故事が多いからである。
本書全体に頻出するのは「無憂王(アショーカ王)が建てた窣墸波(ストゥーパ、仏塔)」という語句である。彼の建てたストゥーパが広範な地域に多数存在するとわかる。2年前に読んだ『古代インドの文明と社会(世界の歴史3)』には、次の記述があった。
「玄奘は『大唐西域記』で、インド亜大陸内に存在する130以上のアショーカ王建立の塔について記している。ただし、これらすべてがアショーカの塔であったとは考えられない。アショーカの塔ということになれば、ブッダの真の遺骨を納めた塔を意味するため、それぞれの地でこの王を建立者とする伝説が創られたのであろう。」
玄奘が訪れた国には寺院などが荒廃した国も多いが、各地の仏教状況(僧徒の数、大乗か小乗かなど)を律儀に記録している。玄奘が紹介する仏教説話には意味不明の変な話も多い。仏教について多少の知識があれば本書を面白く読めるかもしれないが、仏教方面に無知な私は素通りするしかない。
本書巻末には中野美代子氏の解説がある。これを読んで、シルクロード往来に関する部分が素っ気ない理由がわかった。
『大唐西域記』は旅行の記録ではなく、旅行経験にもとづいた地誌を太宗に奉呈したものである。西突厥征討を考えていた太宗が欲しかったのは唐に隣接する中央アジアの情報である。原本には詳述されていたと思われる国境付近の情報は、軍事戦略上の理由で太宗が公開させなかった可能性が高い。そのため、国境付近の記述が極端に簡潔であいまいになったらしい。ナルホドと思った。
また、中野氏の解説によって、水谷真成訳注本である本書の意義を認識した。膨大な注がある本書が世に出たのは1971年で、それまで『大唐西域記』は一部の専門家だけが読む書だった。それは中国においても同様で、中国現代語訳の『大唐西域記』が出たのは1980年代になってからである。その訳本には、日本語訳である水谷真成訳注本が大いに参考になったと明記されているそうだ。
本書の膨大の注はかなり専門的であり、門外漢の私はナナメに読み飛ばしただけである。その研究者向けとも思える注のなかに「岩波写真文庫」の参照を促す箇所がいくつかあり、ちょっと驚いた。
「岩波写真文庫」は、私が小学生か中学生のときに学校の図書館で見た記憶がある。子供向けのモノクロ写真小冊子のように思っていたが、そうでもなかったようだ。ネット古書店を検索し、本書の注が取り上げていた『仏陀の生涯』を安価で入手した。表紙を含めて68ページの写真集で、発行は1956年3月、定価100円だ。「編集:岩波書店編集部、監修:町田甲一、写真:岩波映画製作所」とある。本文はかなり専門的だ。子供向けの冊子ではない。これを先に読んでおけば『大唐西域記』の理解が多少は深まっただろうと思った。
数年前に入手したワイド版東洋文庫の『大唐西域記』は全3冊。パラパラめくると、漢字と注釈が多い。読みにくそうなので敬遠していたが、猛暑のなかのヤケッパチ気分で全3冊に挑戦した。
『大唐西域記 1,2,3』(玄奘/訳注:水谷真成/ワイド版東洋文庫/平凡社)
何とか読み終えたが、目を通しただけという気分である。どんな事を書いてあるかを把握しただけで、咀嚼したとは言えない。
後に三蔵法師と呼ばれる玄奘が旅立ったのが629年。インドから大量の経典を持って長安に帰還したのが645年。17年にわたる大旅行だ。その記録が『大唐西域記』である。地誌の書だと聞いていたものの、旅行記を期待して読み始めた。
本書は各地の地理・文化・宗教などに関する報告であり、各地に伝わる伝説・故事・仏教説話などの紹介である。玄奘の感興を語る肉声はない。単調で坦々としている。扱う地理的エリアの広大さには、あらためて驚いた。
西域と言えばシルクロードである。中国から中央アジア、アフガニスタン、パキスタンを経てインドへに至る往復の旅の記録がメインの書だと思っていた。だが、本書の大半はインドの話である。玄奘は北インドからガンジス河流域を経て東海岸沿いに南下し、西方に転じて北上しインダス河流域の諸国を巡っている。インドの中だけでも大旅行なのだ。
本書は、巻1から巻12までの全12巻で138カ国の情報を記述している。そのなかには僧伽羅国(セイロン)や波刺斯国(ペルシア)など、訪問していない国の伝聞もある。国によって数行から数ページまで扱いはさまざまだ。特別扱いなのは摩掲国(マガダ国)で、巻8と巻9の2巻をこの1国にあてている。仏陀に関する史跡や故事が多いからである。
本書全体に頻出するのは「無憂王(アショーカ王)が建てた窣墸波(ストゥーパ、仏塔)」という語句である。彼の建てたストゥーパが広範な地域に多数存在するとわかる。2年前に読んだ『古代インドの文明と社会(世界の歴史3)』には、次の記述があった。
「玄奘は『大唐西域記』で、インド亜大陸内に存在する130以上のアショーカ王建立の塔について記している。ただし、これらすべてがアショーカの塔であったとは考えられない。アショーカの塔ということになれば、ブッダの真の遺骨を納めた塔を意味するため、それぞれの地でこの王を建立者とする伝説が創られたのであろう。」
玄奘が訪れた国には寺院などが荒廃した国も多いが、各地の仏教状況(僧徒の数、大乗か小乗かなど)を律儀に記録している。玄奘が紹介する仏教説話には意味不明の変な話も多い。仏教について多少の知識があれば本書を面白く読めるかもしれないが、仏教方面に無知な私は素通りするしかない。
本書巻末には中野美代子氏の解説がある。これを読んで、シルクロード往来に関する部分が素っ気ない理由がわかった。
『大唐西域記』は旅行の記録ではなく、旅行経験にもとづいた地誌を太宗に奉呈したものである。西突厥征討を考えていた太宗が欲しかったのは唐に隣接する中央アジアの情報である。原本には詳述されていたと思われる国境付近の情報は、軍事戦略上の理由で太宗が公開させなかった可能性が高い。そのため、国境付近の記述が極端に簡潔であいまいになったらしい。ナルホドと思った。
また、中野氏の解説によって、水谷真成訳注本である本書の意義を認識した。膨大な注がある本書が世に出たのは1971年で、それまで『大唐西域記』は一部の専門家だけが読む書だった。それは中国においても同様で、中国現代語訳の『大唐西域記』が出たのは1980年代になってからである。その訳本には、日本語訳である水谷真成訳注本が大いに参考になったと明記されているそうだ。
本書の膨大の注はかなり専門的であり、門外漢の私はナナメに読み飛ばしただけである。その研究者向けとも思える注のなかに「岩波写真文庫」の参照を促す箇所がいくつかあり、ちょっと驚いた。
「岩波写真文庫」は、私が小学生か中学生のときに学校の図書館で見た記憶がある。子供向けのモノクロ写真小冊子のように思っていたが、そうでもなかったようだ。ネット古書店を検索し、本書の注が取り上げていた『仏陀の生涯』を安価で入手した。表紙を含めて68ページの写真集で、発行は1956年3月、定価100円だ。「編集:岩波書店編集部、監修:町田甲一、写真:岩波映画製作所」とある。本文はかなり専門的だ。子供向けの冊子ではない。これを先に読んでおけば『大唐西域記』の理解が多少は深まっただろうと思った。
一之輔とタブレット純で夏の夜の夢 ― 2025年07月27日
世田谷パブリックシアターで、春風亭一之輔プロデュースの『せたがや夏いちらくご 夜の部』を観た(聴いた)。夜の部の出演は春風亭一之輔とタブレット純である。
私はさほど落語を聴くわけではない。一之輔は「笑点」で観ているだけで、落語を聴くのは初めてだ。昨年夏、パルコ劇場の『破門フェデリコ~くたばれ!十字軍~』の客席で、一之輔と思しき眼鏡に帽子の人物を見かけたことがある。タブレット純を始めて観た(聴いた)のは3年前の『加藤登紀子ほろ酔い50年祭』だった。それ以来、昭和歌謡と漫談の独特のムードに魅了されている。一之輔とタブレット純という取り合せに魅力を感じ、チケットをゲットした。
今回の企画は、前座の落語に続いて、一之輔の長めの落語。15分休憩の後、タブレット純の歌謡漫談と一之輔の落語というプログラムだった。一之輔とタブレット純の二人が同時に登場する掛け合いも期待したが、それはなかった。
客席の反応から判断して、一之輔ファンだけでなくタブレット純ファンの中高年がかなりいるような気がした。昭和歌謡と他の楽曲との取り合わせが面白い。童謡『サッちゃん』と『赤色エレジー』の混合には笑った。アイジョージとあいみょんの混合は難しい。両方ともわかる人はどれくらいいるだろうか。私はどちらもわからなかった。
初めて聴く一之輔の落語は二つとも江戸の噺だがシュールな部分があり、面白かった。一本目は大店の病弱な若旦那が真夏に蜜柑を欲しがり、番頭が奔走する話である。二本目は、大工とヤンチャな倅が天神祭の飴屋や団子屋で騒動を引き起こす噺だが、後半になって大岡越前が登場し、ドタバタ風の不思議な展開になる。一之輔の語りには越境したような魅力がある。その人気を得心した。
私はさほど落語を聴くわけではない。一之輔は「笑点」で観ているだけで、落語を聴くのは初めてだ。昨年夏、パルコ劇場の『破門フェデリコ~くたばれ!十字軍~』の客席で、一之輔と思しき眼鏡に帽子の人物を見かけたことがある。タブレット純を始めて観た(聴いた)のは3年前の『加藤登紀子ほろ酔い50年祭』だった。それ以来、昭和歌謡と漫談の独特のムードに魅了されている。一之輔とタブレット純という取り合せに魅力を感じ、チケットをゲットした。
今回の企画は、前座の落語に続いて、一之輔の長めの落語。15分休憩の後、タブレット純の歌謡漫談と一之輔の落語というプログラムだった。一之輔とタブレット純の二人が同時に登場する掛け合いも期待したが、それはなかった。
客席の反応から判断して、一之輔ファンだけでなくタブレット純ファンの中高年がかなりいるような気がした。昭和歌謡と他の楽曲との取り合わせが面白い。童謡『サッちゃん』と『赤色エレジー』の混合には笑った。アイジョージとあいみょんの混合は難しい。両方ともわかる人はどれくらいいるだろうか。私はどちらもわからなかった。
初めて聴く一之輔の落語は二つとも江戸の噺だがシュールな部分があり、面白かった。一本目は大店の病弱な若旦那が真夏に蜜柑を欲しがり、番頭が奔走する話である。二本目は、大工とヤンチャな倅が天神祭の飴屋や団子屋で騒動を引き起こす噺だが、後半になって大岡越前が登場し、ドタバタ風の不思議な展開になる。一之輔の語りには越境したような魅力がある。その人気を得心した。
『西域記:玄奘三蔵の旅』は推理小説のように面白い ― 2025年07月30日
玄奘の『大唐西域記』全3冊を読んでも消化不良だったので、次の解説&抄訳本を古書で入手して読んだ。30年前の本である。
『西域記:玄奘三蔵の旅』(原作:玄奘/著・訳:桑山正進/地球人ライブラリー/小学館)
東洋文庫版『大唐西域記』の解説で中野美代子氏が本書に言及していた。それを読んで本書への興味がわいた。本書の解説も中野美代子氏だ。
読みやすくて面白い本である。前半は『西域記』成立の経緯と玄奘の旅を考察した解説で非常に興味深い。後半の「『西域記』にはどんなことが書いてあるか」は『大唐西域記』の抄訳である。138カ国から26カ国を抽出して訳している。「訳にあたっては原文の意をくみつつ、自由な訳とした」とあり、かなり読みやすい。
本来は『大唐西域記』に取りかかる前に読むべき本かもしれないが、『大唐西域記』を読んで頭の中が朦朧としている私のような読者にとっては、頭の中の靄が晴れていく体験が得られる有益な本だった。
桑山氏は本書で、現在残っている『大唐西域記』は原本とかなり異なっていると推測している。西突厥への侵攻を考えていた太宗が国境地帯の情報を大幅に削除させたという推論である。直接的な証拠はないが状況証拠はあるようだ。納得できる説だと思った。
玄奘は17年に及ぶインドへの大旅行で大量の経典を持ち帰り、後半生はその翻訳に従事した。そんな訳経は知っていたが、その翻訳作業が国家的な大事業だったと本書で初めて知った。
経典の翻訳には皇帝の勅許が必要であり、勅許が得られれば、場所や膨大な紙をはじめとする文房具が提供され、多くの人材を投入する組織が作られるのだ。そして、翻訳した経典は公式のものとなる。翻訳に携わった玄奘は大きな組織を動かすプロジェクトリーダーでもあった。
太宗が玄奘に『大唐西域記』の提出を求めたとき、経典翻訳を優先させたい玄奘は、翻訳組織の若い僧・弁機に旅行中に得た情報資料を手わたして『大唐西域記』を編集させる。弁機は『大唐西域記』完成後、あるスキャンダル事件によって処刑される。
桑山氏は、弁機の処刑は『大唐西域記』の原本を知っているために消されたと推測している。
翻訳組織にいた慧立という僧は玄奘の伝記を書き上げるが、何故かそれを地中に埋めてしまう。桑山氏は、弁機の処刑が契機で地中に埋めたと推測している。この伝記は、約30年後の第三代高宗の時代になって掘り出され、日に目を見る。この頃、唐は中央アジアを制覇し、玄奘の時代の国境地帯に関する軍事機密は消滅していたようだ。堀り出された伝記は『大慈恩寺三蔵法師伝』として伝わっている。
本書の『大唐西域記』成立に関する考察は推理小説のように面白い。
『西域記:玄奘三蔵の旅』(原作:玄奘/著・訳:桑山正進/地球人ライブラリー/小学館)
東洋文庫版『大唐西域記』の解説で中野美代子氏が本書に言及していた。それを読んで本書への興味がわいた。本書の解説も中野美代子氏だ。
読みやすくて面白い本である。前半は『西域記』成立の経緯と玄奘の旅を考察した解説で非常に興味深い。後半の「『西域記』にはどんなことが書いてあるか」は『大唐西域記』の抄訳である。138カ国から26カ国を抽出して訳している。「訳にあたっては原文の意をくみつつ、自由な訳とした」とあり、かなり読みやすい。
本来は『大唐西域記』に取りかかる前に読むべき本かもしれないが、『大唐西域記』を読んで頭の中が朦朧としている私のような読者にとっては、頭の中の靄が晴れていく体験が得られる有益な本だった。
桑山氏は本書で、現在残っている『大唐西域記』は原本とかなり異なっていると推測している。西突厥への侵攻を考えていた太宗が国境地帯の情報を大幅に削除させたという推論である。直接的な証拠はないが状況証拠はあるようだ。納得できる説だと思った。
玄奘は17年に及ぶインドへの大旅行で大量の経典を持ち帰り、後半生はその翻訳に従事した。そんな訳経は知っていたが、その翻訳作業が国家的な大事業だったと本書で初めて知った。
経典の翻訳には皇帝の勅許が必要であり、勅許が得られれば、場所や膨大な紙をはじめとする文房具が提供され、多くの人材を投入する組織が作られるのだ。そして、翻訳した経典は公式のものとなる。翻訳に携わった玄奘は大きな組織を動かすプロジェクトリーダーでもあった。
太宗が玄奘に『大唐西域記』の提出を求めたとき、経典翻訳を優先させたい玄奘は、翻訳組織の若い僧・弁機に旅行中に得た情報資料を手わたして『大唐西域記』を編集させる。弁機は『大唐西域記』完成後、あるスキャンダル事件によって処刑される。
桑山氏は、弁機の処刑は『大唐西域記』の原本を知っているために消されたと推測している。
翻訳組織にいた慧立という僧は玄奘の伝記を書き上げるが、何故かそれを地中に埋めてしまう。桑山氏は、弁機の処刑が契機で地中に埋めたと推測している。この伝記は、約30年後の第三代高宗の時代になって掘り出され、日に目を見る。この頃、唐は中央アジアを制覇し、玄奘の時代の国境地帯に関する軍事機密は消滅していたようだ。堀り出された伝記は『大慈恩寺三蔵法師伝』として伝わっている。
本書の『大唐西域記』成立に関する考察は推理小説のように面白い。






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