イラン旅行中止2026年01月13日

 2月末に予定したイラン旅行が中止になった。残念だが仕方ない。

 私がイラン旅行を検討していた昨年11月頃、一般の旅行会社のイランツアーはなかった。外務省が出す危険レベルは3(渡航中止勧告)だった。だが、友人のツテでイラン旅行の企画があると知り、参加を決めた(参加者は8人)。外務省は昨年は11月26日、イランの危険レベルを3(渡航中止勧告)から2(不要不急の渡航はやめろ)に引き下げた。

 イランは古代からの長い歴史をもつ国で、日本との関わりも深い。調べるほどに魅力的な国だと思えた。イラン旅行への参加を決め、頭の中はイラン・モードになり、『バンダルの塔』『イランを知るための65章』などの関連書も読んだ。

 昨年6月にイスラエルとの12日間戦争があったが、当分は小康状態が続くと思っていた。だが、見通しは外れた。イラン通貨の急速な下落が引き金で抗議活動が始まったのは昨年12月28日、それが体制変換を迫る動乱にまで発展する可能性があるという。イラン国民の多くが現体制には批判的で、政権も一枚岩ではないらしい。そこにイスラエルや米国などの外部勢力がいろいろな形で介入し、先行きは不透明である。

 外務省は一昨日(2022年1月11日)、イランの危険レベルを2から3に引き上げた。今後の情勢を注視していくしかない。私の老体が動くうちにイラン旅行が実現することを期待しているが。

半世紀近く昔のアフガニスタン紀行記を飛んだ2025年12月19日

『旅は道づれガンダーラ』(高峰秀子・松山善三/中公文庫)
 現在、アフガニスタンは外務省の危険レベル4(退避勧告)である。一般人が行きにくい国だが、1979年のソ連侵攻以前は、かの地に赴く好事家も少なくなかった。高峰秀子・松山善三夫妻も、1978年にアフガニスタンの遺跡巡りをしている。その旅行記を古書で入手して読んだ。

 『旅は道づれガンダーラ』(高峰秀子・松山善三/中公文庫)

 この文庫本の原著が出たのは1979年5月、ソ連のアフガニスタン侵攻半年前である。シルクロード・ブームの契機となったNHKの『シルクロード』放映開始は、ソ連侵攻後の1980年4月、取材班はアフガニスタンには入れなかった。

 本書は、アフガニスタン旅行が可能だったよき時代の貴重な記録である。高峰秀子と松山善三の掛け合いエッセイで、読みやすくて面白い。

 松山善三は、井上靖、加藤九祚、樋口隆康らの「クシャーン王朝の旅」に誘われ、すぐに行く気になる。そして、そんな旅には関心のなさそうな女房・高峰秀子を説得して3週間のツアーに参加する。

 総勢9名(ガイド、運転手を除く)のツアーである。そのときの主なメンバーの年齢は下記の通りだ。

 井上靖(1907-1991) 71歳
 加藤九祚(1922-2016)56歳
 樋口隆康(1919-2015)59歳
 高峰秀子(1924-2010)54歳
 松山善三(1925-2016)53歳

 みな既に故人だが、いまの私(77歳)から見れば、みんな若い。

 アフガニスタンとパキスタンを訪れる旅である。アフガニスタンで発掘調査中の樋口隆康は現地で合流する。

 善三のやや思索的で諧謔的な文章と秀子の身辺雑記的ユーモラスな文章が交互にくり返される紀行文である。カラー写真やモノクロ写真も多数収録していて、1978年頃のアフガニスタンの様子がわかる。

 本書のタイトルはガンダーラとなっているが、ガンダーラ地方の話は後半の三分の一ぐらいで、メインはアフガニスタンである。やはり、バーミアンの話が興味深い。

 善三は秀子のことを「近眼、乱視、斜視で、ほとんど遠景が見えないから、風景には興味を示さない。その点、子供に似ている。自分の周囲、せいぜい三十メートルくらいのことにしか関心と注意がゆきとどかない。」と述べている。

 その秀子は次のように語っている。

 「バーミアンの巨大な大仏の迫力にはさすがに私も圧倒されました。(…)でも、あくまで現実的にできている私は、八世紀の昔にいったいどんな方法でこの巨大な仏像の面(おもて)をソギ落とした? という方が気になってしかたない。」

 7世紀に玄奘が見た大仏は、8世紀頃にはイスラムの侵攻を受け、その頃に顔面が削ぎ落とされた。でも、その迫力ある威容は20世紀までは保たれていたのだ。タリバンによってダイナマイトで粉々に破壊されたのは2001年3月である。

 秀子は上記の文章に続いて、次のように綴っている。

 「当時、ダイナマイトなんてものが存在したとは、いくらアホの私でも考えられないし、(…)」

 この文章を書いたとき、23年後には現実にダイナマイトが使われることになろうとは夢にも考えなかったはずだ。ため息が出る。

西域旅行記(2)――新疆ウイグル自治区という観光地2025年09月22日

 今回の西域旅行では他の日本人グループに会うことはなかった。9月は抗日戦争勝利80周年記念行事などもあり、日本人旅行者が少なかったのかもしれない。カシュガルに着いた9月18日は柳条湖事件(満州事変)の日で、日本大使館から日本人は外出を控えるようにとの要請も出ていた。そんな理由もあるだろうが、この地域にまで足を伸ばす日本の観光客はまだ少ないようだ。

 だが、中国人の観光客は非常に多かった。近年、豊かな中国人が増え、国内旅行をする人が増加している。今年は新疆ウイグル自治区発足70周年だそうで、いたる所に「新疆ウイグル自治区成立70周年を心から祝う」という意味の表示があった。新疆ウイグル自治区の人々にとってどれほど目出たいかは微妙だが、中国全体にとっては記念すべき年だそうだ。

 クチャのキジル千仏洞は中国人観光客で混雑していた。各堂には中国人のガイドがいて、中国語で解説をしている。敦煌は中国人観光客で混雑していると聞いたことがあり、敦煌を敬遠しているのだが、キジル千仏洞にもそれなりの集客力があるようだ。

 中国最西端のカシュガル地区の人口は480万人で、その9割はウイグル族だそうだ。トルコ系コーカソイドのウイグル族は漢族や日本人とはあきらかに風貌が異なる。このカシュガルにも中国人(漢族)観光客が押し寄せている。車で何日もかけて来る人も少なくない。中国人(漢族)にとってウイグル族の多い新疆ウイグル地区は疑似海外旅行のようなエキゾチックで魅力的な観光地なのかもしれない。

 私たち日本人も観光客なので、行く先々で中国人(漢族)観光客と一緒になり、ウイグル族の地域なのに漢族が多いな、という印象をいだいてしまう。京都を訪れた西洋人が着物姿で練り歩くように、ウイグルの民族衣装で嬉々として闊歩している漢族の若い女性観光客もいる。現地の人と混同してしまう。

 クチャ、ホータン、カシュガルでは博物館をいくつか訪れた。いずれも比較的最近になってオープンした博物館で設備は立派だ。CG映像などを駆使した展示も多く、見せる工夫をしている。だが、魅力的な現物はさほど多くない。レプリカや写真の展示が多い。約百年前、英国、フランス、ドイツ、日本などの探検隊が目ぼしい文物を持ち出したせいだろうと思った。

西域旅行記(1)

西域旅行記(1)――タクラマカン砂漠縦断2025年09月22日

 「西域シルクロード紀行」というツアーに参加し、本日(2025.9.22)午後帰国した。広州、ウルムチを経由してクチャまでが空路、クチャからはバスでアラール、ホータン、カシュガルと巡る旅だった。

 クチャは往年の亀慈で、近くにはキジル千仏洞がある。アラールはタクラマカン砂漠の西北部にある比較的新しい農業生産都市である。ゴビ(礫が広がる乾燥地)を八路軍の湖南省旅団が開拓したそうだ。屯田兵が建設した都市である。

 アラールに一泊し、翌日はホータンまで1日がかりでタクラマカン砂漠をバスで縦断した。100年以上昔、大谷探検隊の橘瑞超が32日を要して生死の境をさまよいながらラクダで踏破したタクラマカン砂漠縦断である。タクラマカン砂漠の面積は32万平米、日本の面積(37.8万平米)に近い巨大な流動砂漠である。タクラマカンはウイグル語で死を意味する。古来「空には飛ぶ鳥なく、地には走獣なし」と言われた砂漠だ。

 今回の旅行は、このタクラマカン砂漠縦断が目玉だと思っていた。だが、やや期待外れだった。砂丘が連なる荒涼たる光景を思い描いていたが、車窓から眺める砂漠は意外に緑が多い。道路の両脇は流砂を防ぐために植林されているのだ。葦を格子状に植えた流砂止めの向こうにはタマリスク、ソウソウ、胡楊などの灌木を植林している。考えてみれば、道路が流砂で埋まらないための当然の措置である。

 縦断道路の所々には駐車スペースがある。靴の上から防砂用オーバーシューズを履き、しばしの砂漠見物ができた。砂紋のある砂丘を眺めることができたが、植林による防風措置のためか、さほど雄大ではない。砂漠らしい砂漠を眺めるには、四駆かラクダで奥地に入らなけらばならないのかもしれない。

 道路わきの砂漠の多くには低い柵が延々と続いている。立ち入り禁止だそうだ。現在のところ、タクラマカン砂漠の光景を観光資源にするという発想はあまりなさそうだ。

 アラールを出発した直後、タリム河を渡った。意外に大きな河なので驚いた。天山山脈の西方を水源にタリム盆地を西から東にロプノールまで流れる大河である。ロプノールの湖はすでに涸れていると思っていたが、ガイドの話では、ロプノールの水量は増加しているそうだ。

 地図を見ると、タクラマカン縦断道路はホータン河に沿っている。崑崙山脈を水源に南から北に流れて砂漠に消える尻なし河である。タクラマカン砂漠縦断中、車窓からホータン河を確認することはできなかった。道路からは多少の距離があるようだ。ホータンに近づいたあたりでホータン河を渡った。玉(ぎょく)の採取で有名なこの河も大河である。

 タクラマカン砂漠は砂嵐が発生する流動砂漠である。砂の流動を抑えることができれば、砂漠を緑地に変えることも可能らしい。砂漠と言っても地下水はあるのだ。中国は遠い将来のタクラマカン砂漠農地化を見据えているのかもしれない。

 タクラマカン環状鉄道は、3年前のホータン、チャルクリク間の開通で完成した。ガイドは、ディーゼルで走るこの鉄道について「車掌の数が乗客より多い」と述べていた。目先の採算を度外視した開発にチャレンジする中国の姿は不気味でもある。

西域旅行記(2)

『酒を主食とする人々』は常識を覆す驚きのレポート2025年02月28日

『酒を主食とする人々:エチオピアの科学的秘境を旅する』(高野秀行/本の雑誌社/2025.1)
 ユニークな「辺境作家」高野秀行氏の新刊を読んだ。とても面白い。

 『酒を主食とする人々:エチオピアの科学的秘境を旅する』(高野秀行/本の雑誌社/2025.1)

 多数の著作がある高野氏を、私は一昨年の『イラク水滸伝』で初めて知った。その後『イスラム飲酒紀行』で高野氏の酒好きを確認した。本書は、酒を好む高野氏によるエチオピアの秘境に住む驚異の人々の探訪記である。

 酒を主食とする人々については、新潟大学の研究者・砂野唯氏が2019年刊行の『酒を食べる エチオピア・デラシャを事例にして』で報告している。だが、それ以外には報道も情報もないらしい。高野氏は砂野氏の本でエチオピアのデラシャという秘境を知り、いつか訪ねたいと思っていたそうだ。

 デラシャへの旅が実現したのは、TBSの「クレイジージャーニー」という番組で高野氏の探訪を取り上げることになったからである。テレビ局のスタッフ2人と現地のコーディネーターやガイドを伴っての旅は2週間、秘境探検にしては短い。被写体の高野氏が、テレビカメラで撮影しながらの旅はそれが限度と判断したのだ。

 2023年10月、一行はエチオピアに旅立った。デラシャ探訪の前にコンソという地域も訪ねる。酒が主食という点ではデラシャの方がコンソよりディープで、コンソは「前菜」という位置づけだった。だが、2023年末に放映された番組は、映像上の諸事情からデラシャ探訪をカットし、「前菜」のコンソ探訪だけの内容になった。本書を読めば諸事情が何となくわかる。

 当初、高野氏はこの探訪記だけを1冊の本にまとめる予定はなかった。肝心のデラシャ探訪の記録を残すために本書を執筆したようだ。

 紆余曲折を経てたどり着いたデラシャには、固形物をほとんど食べずパルショータという酒を主食にする人が本当に暮らしていた。アルコール度がビールほどのドロドロした濁り酒を朝昼晩に飲むそうだ。小さな子供でも飲む。表紙写真の子供が手にしているペットボトルはお弁当の酒である。そんなに飲んでも普通に生活し、仕事もしている。驚きである。

 なぜ、こんな生活形態が生まれたか。本書の推測は以下の通りだ。パルショータはソルガムという植物から作る。デラシャの人々の先祖は遊牧民に圧迫され、ソルガムしか生育しない山岳の乾燥地帯に追いやられた。ソルガムだけでは栄養が足りないが、発酵させて酒にすれば栄養がまかなえる。だから酒が主食になった。

 酒を主食にする人々は、みんな頑強で体格もいいそうだ。現地の病院で医者に取材しても、肝臓疾患、高血圧、糖尿病などが多いというデータはない。酒を主食にする人々の健康状態は他の人々より良好だ。病院では入院患者も妊婦もパルショータを飲んでいる。この世の常識が覆され、頭がクラクラしてくる話である。

 パルショータだけでなく、高野氏ならではの現地の人々との交流譚も面白い。

日本の存在感の薄さの反映?2024年09月12日

 先月末の南イタリア旅行で念願のカステル・デル・モンテを訪問した。神聖ローマ皇帝フェデリコ2世が建てた用途不明の八角形の城である。

 世界遺産カステル・デル・モンテの入り口には、各国語で歓迎メッセージを書いた看板が立っていた。日本語を探したがなかなか見つからない。ようやく右端に発見し、少しホッとした。しかし、このメッセージはかなり小さい。世界における現在の日本の存在感はこんな程度なのだろうかと思ってしまった。

ポンペイ遺跡を見た……南イタリア旅行記(2)2024年09月01日

 南イタリアを巡るツアーで、カステル・デル・モンテに次ぐ第二の目当てはポンペイ遺跡である。遺跡の見学は約2時間、ほんの一部を見ただけだった。それでも。暑い日の炎天下の見学は疲れた。翌日はナポリの考古学博物館を1時間半ほど見学した。

 ポンペイ遺跡に関しては、録画したテレビ番組、ネット動画、書籍などでその概要を把握していたので、短時間ですべてを見ることはできないと了解していた。

 古代ローマ史は私の関心領域である。いつかポンペイを訪れたいと思いつつ時が流れ、コロナなどもあり、訪問を半ばあきらめていた。一昨年(2022年)に東京国立博物館で開催された『ポンペイ展』や8年前(2016年)に森アーツセンターギャラリーで開催された『ポンペイの壁画展』に足を運び、ポンペイの遺品を目にしていたので、現地に行かなくてもいいやという気分にもなっていた。

 だが、75歳にして初めてポンペイを訪れ、やはり現場に立たねば感得できないものがあると思った。それは、遺跡のサイズ感と周辺の風景である。

 18世紀、発掘が始まって約半世紀のポンペイを訪れたゲーテは、ポンペイをせせこましくて小さな町とし、「狭苦しい街路、窓のない小さな家屋」と表現している(『イタリア紀行』)。私はさほど狭苦しいとは感じなかった。コンパクトで住みやすそうな町だと思った。公衆浴場の床暖房や壁暖房の跡には感心したし、鉛の水道管がいまだに残っているのには感動した。さほど広くない娼家の壁画も現地で見ることができた。

 ポンペイと言えば背景はヴェスヴィオ山だ。そんな画像は何度も見ている。しかし、ポンペイの町からヴェスヴィオ山がどんな風に見えるかは、現地に立たなければ把握しにくい。なるほど、ポンペイ遺跡から見える火山は、近いと言えば近いし、遠いと言えば遠い。あの火山の噴火によって町が何メートルも埋まってしまうとは想像しにくかっただろうと感じた。

 現在のヴェスヴィオ山は噴煙を上げていない。1944年の噴火以来、休火山だそうだ。そろそろあぶないとも言われているが、その時は仕方ないと考えている人が多いと聞いた。

 ナポリの考古学博物館では、東博の『ポンペイ展』で見た何点ものモザイク画に再会し、懐かしく感じた。「出張、ご苦労さまでした」という気分である。

 この博物館では、有名なアレクサンドロス大王のモザイク画を見られるだろうと期待していた。だが、現在は修復作業中で公開されていなかった。修復作業の現場を遠くから覗えただけである。残念だった。

フェデリコ2世の八角形の城に行った……南イタリア旅行記(1)2024年08月31日

 南イタリアを巡るツアーに参加した。参加者は8人(夫婦3組、私のような1人参加2人)と意外に少人数。落ち着いて観光できた。南イタリアまで足を伸ばす人は意外に少ないようだ。

 ツアーで巡るのはアルベルベッロ、レッチェ、マテーラ洞窟住居群、カステル・デル・モンテ、アマルフィ海岸、ポンペイ遺跡、プロチダ島などである。私の目当ての第一はカステル・デル・モンテ、第二がポンペイ遺跡である。

 添乗員にツアー参加の動機を訊かれ「カステル・デル・モンテ」と答えると驚かれた。世界遺産に指定されていて、それなりに人気のある場所だと思っていたが、この城を目当ての参加者は少ないそうだ。

 私は神聖ローマ皇帝フェデリコ(フリードリヒ)2世に関心があり、旅行の前にはパルコ劇場で『破門フェデリコ~くたばれ!十字軍~』を観劇し、フェデリコ2世関連本の復習もした。フェデリコ2世が建てた用途不明の八角形の城がカステル・デル・モンテである。

 私は6年前に読んだ『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』(塩野七生)でこの城を知り、いつか行きたいと思っていた。その念願がついにかなったのである。

 オリーブ畑やブドウ畑が点在する平原の道を走っていると、前方の小高い丘の上に城が見えてくる。バスは丘のふもとまでしか行けない。ふもとの売店からは乗合マイクロバスに乗り換えて城まで行く。

 丘の上に立つこの城からの360度の眺望は気持ちいい。畑や平原ばかりで町や村は見えない。ここは軍事上の要所ではない。ただの田舎だ。城には防衛や攻撃のための仕掛けもない。

 写真ではかなりの大きさに見えるが、城としては小さいらしい。八角形の城の各角が八角形の塔になった八角づくしで、城の中央には八角形の中庭がある。中庭から見上げる空は八角形に切り取られている。面白い眺めだ。

 この城は2フロアしかない。意外である。1階と2階にそれぞれ8つの台形の部屋がある。この台形の部屋を巡っていると、自分がどの部屋にいるのかわからなくなる。中庭に面した窓からの眺めはどこも同じだし、外側の窓の景色も変わりばえがしない。迷子になりそうな構造は使い勝手がいいとは思えない。だが、方向感覚の狂いを楽しめる場所ではある。

 現場に立ってあらためて認識したのは、内部が荒涼としていることだ。タイルやモザイクなどの内装はほとんど剝ぎ取られている。壁画などもない。まさに、往時を想像力で偲ぶしかない「遺跡」なのである。

 この城の用途は、城塞か、鷹狩りのための別荘か、神殿か、天体観測所か、いまも議論が続いている。『フリードリヒ2世』の著者・藤澤房俊氏は「カステル・デル・モンテはフリードリヒ2世の神聖な自己表現である」と述べ、塩野七生氏は「フリードリッヒも傍(はた)迷惑な人である。八百年後の研究者たちにまで、御手上げという気分にさせてしまうのだから」と述べている。

 そんなカステル・デル・モンテの現場に立ち、フリードリヒは、八角づくしのこの造形を自身の眼で眺め、自身の身体で体感したかったのだろうと思った。謎多き皇帝である。