『オービタル・クラウド』はハリウッド映画のようなSF2022年12月02日

『オービタル・クラウド(上)(下)』(藤井太洋/ハヤカワ文庫)
 積読棚の『虐殺器官』(伊藤計劃)を読んだのを機に、同じ棚に積んでいた次のSFも読んだ。

 『オービタル・クラウド(上)(下)』(藤井太洋/ハヤカワ文庫)

 2014年のSF大賞受賞作である。藤井太洋氏の短編はいくつか読んでいる。面白かったので長編も、と思って購入したまま未読だった。

 この長編、読み始めると引き込まれ、一気に読了した。ハリウッド映画を観ているような読書時間だった。ハードSFではあるが展開は冒険スパイ小説である。

 単行本が出た2014年時点での近未来SFである。プロローグは2015年、本編は2020年12月の5日間、エピローグは2022年のクリスマスだ。エピローグは私の現時点(2022.12.2)から数週間先の近未来だが、物語の大半は私にとって過去の話だ。と言っても、やはり近未来小説である。

 SFに接していると、こんな感覚は珍しくない。『1984年』や『2001年宇宙の旅』は未だに未来小説だ。先日、ちょっとした気まぐれで古い『SFマガジン』をパラパラめくった。1963年3月号である。その巻頭言(福島正実)は「1950年頃のSFには10年先の1960年代に地球が滅亡に瀕したり宇宙人がやってくる話が多い。現実の現在とはかけ離れているが、読者はスペキュレーションを楽しめばいいのだ」という主旨だった。今も昔も、未来小説のありようは同じだと思った。

 『オービタル・クラウド』のハードSF的仕掛けは「テザー推進」である。長い紐を使ったローレンツ力による推進で、その解説はウィキペディアにも載っている。私はこの小説で初めて知った。小説だからホラ話に近い部分もあるだろうが、リアリティを感じさせる知力と筆力に感服した。

 ハイテクを題材にしたエンタメで、状況の書き込みが巧みである。犯人の動機や話の展開に少々の説得力が欠けていても、ハリウッド映画的な強引な展開に引き込まれ、これでいいのだと思えた。

 この小説は、先に読んだ『虐殺器官』と通底する部分がある。「欧米先進国 vs 発展途上国」という構図を背景にしている点だ。現在では「民主国家 vs 覇権国家」という見方の方が一般的かもしれない。これは21世紀の文明論的な課題であり、現役の作家にとっては避けて通ることができないテーマなのだと思う。

『黄金のビザンティン帝国』で多少の知識整理2022年12月04日

『黄金のビザンティン帝国:文明の十字路の1100年』(ミシェル・カプラン/井上浩一監修/知の再発見双書/創元社)
 目下、ビザンツ帝国がマイブーム、次の本も読んだ。

 『黄金のビザンティン帝国:文明の十字路の1100年』(ミシェル・カプラン/井上浩一監修/知の再発見双書/創元社)

 創元社のこの翻訳双書は図版中心のコンパクトな作りで、短時間で楽しく読了できるのが有難い。

 本書を読んで、「キリスト教帝国」と「ギリシア哲学の継承」という相反する事象を両立させたビザンティン帝国の不思議をあらためて感じた。ギリシア哲学はキリスト教的ではないので、ユスティニアヌス(6世紀)はアテナイの学院を閉鎖する。しかし、10-11世紀になるとギリシア哲学研究が復活し、ギリシア哲学の保持・継承がビザンティン帝国の大きな特徴になるのだ。

 本書はビザンツ帝国の商業や農業をやや詳しく解説している。それは、驕れる帝国の失敗の歴史でもある。国際都市コンスタンティノープルは東西の商人が集まる交易都市として栄えるが、交易の主導権はヴェネチア人などに奪われていく。ビザンティンの貴族が職人や商人を蔑視し、豊かな市民層をエリート層に吸収できなかったからである。

 農業に関しては、西ヨーロッパやイスラム世界では時代が進むとともに農業の生産性が上がったのに、ビザンティン世界では1100年の間、農業の生産性は変わらなかった。初期には先進的だったビザンティン農業は10世紀には遅れたものになった。貴族中心の都市型の国家だったからだろうか。

 「ローマ帝国」と自称するビザンティン帝国は中華思想の帝国であり、コンスタンティノープルは周辺の国々が憧れる「世界の中心」だった。しかし、繁栄した中央がやがては周辺勢力に追い抜かれ、ついには敗れる――普遍的に繰り返される構図のように思える。

 本書で初めて知ったトリビアルな知識もある。宮殿の「黄金の広間」「主謁見場」を表す「クリュソトリクリノス」の意味である。ギリシア語で「クリュソ」は「黄金」、「トリクリノス」は「古代ローマ人が横臥して食事する寝椅子を備えた食堂」で、この言葉は「黄金の横臥食卓部屋」という意味になる――ということは別の本で知った。なぜこんな命名をしたか不思議だった。

 本書によれば「皇帝はキリストを演じようとし、最後の晩餐を真似て、宮殿の宴の間(クリュソトリクリノス)の祝宴に12人の会食者を招いた」そうだ。謁見の広間を「キリスト主催の最後の晩餐の場」に重ねたので「黄金の横臥食卓部屋」と呼ばれたわけである。

奪帝が頻出したビザンツ帝国の「革命」の当事者はだれ?2022年12月06日

『コンスタンティノープル千年:革命劇場』(渡辺金一/岩波新書)
 37年前に出た次の新書を読んだ。

 『コンスタンティノープル千年:革命劇場』(渡辺金一/岩波新書)

 この新書、1年前に人に薦められて購入した。第1刷は1985年6月だが、限定復刊された新本を購入した(2019年2月 第9刷)。著者は1924年生まれ(私の親の世代だ)の歴史学者、日本におけるビザンツ史研究の泰斗だそうだ。

 本書をパラパラめくって、入門的概説書ではないと気づいた。やや難しそうなので、他のビザンツ史概説書を何冊か読んでからにしようと思った。で、ビザンツ史がマイブームのいま、ついに本書に挑戦したのである。

 思った以上に読みやすく、面白く読了した。研究者の知見を一般人に語るスタイルで、内容はやや専門的だが語り口は親しみやすい。洒脱な文章である。

 冒頭でいきなり『吾輩は猫である』で苦沙弥先生が細君を詰って口走る「夫(それ)だから貴様はオタンチン、パレオロガスだと云うんだ。」が出てくる。これはビザンツ皇帝の名の語呂合わせだそうだ。また、本書の中ほどで、急に21世紀の架空の国家が登場する(本書の刊行は1985年)。首都ワクモスにおけるプルシチョウフ書記長の政治的駆け引きに関する逸話紹介である。興味深い記述スタイルだ。

 本書のサブタイトルは「革命劇場」、著者はコンスタンティノープルの千年史は「革命劇場」だと述べている。この革命はクーデターや皇帝位の簒奪を指している。

 数カ月前、ビザンツ史の概説書を何冊か読み始めて、簒奪帝が多いのに驚いた。専制君主の体制が1000年以上続いたビザンツ帝国の90人ほどの皇帝のうち30人が簒奪帝である。農民出身の皇帝も珍しくない。万世一系などではなく、まさに革命劇場である。と言っても、下剋上の戦国時代という感じではない。

 著者は本書全般で、その革命の当事者は誰だったかを追究している。普通に考えれば、クーデターの当事者は、それを起こした人物(将軍など)だ。軍を率いて決起し、闘争に勝利して新たな皇帝についた人物である。しかし、著者はそんな単純な見方はしない。さまざまな史料の検討をふまえて、ビザンツ帝国の体制は革命を起こしやすかったとし、革命の当事者は軍だけでなく、市民や元老院も当事者であったとしている。意外な話だが、言われてみればそんな気もしてくる。

 本書の以下の記述が興味深い。

 「ビザンツでは、クーデター――しかもそれは、すでに見たように、この国では、必ずしも違憲的政治行為ではない――で新皇帝が現れる度ごとに、社会の上層部と中・下層部とが大幅に入れかわり、同時に前政府がかき集めた政治資金の没収がおこって、腐敗政権とその腐れ縁の長期化、慢性化への芽はその都度つみとられた。そして、かかる大幅な社会的流動性のプロモーターとなったのは、すでに見たような、他ならぬ皇帝権そのものに内在する極度の不安定性だったということになる。」

鴻上尚史演出の『日本人のへそ』を観た2022年12月08日

 東京芸術劇場シアターウエストで『日本人のへそ』(作:井上ひさし、演出:鴻上尚史、出演:小沢道成、小野川晶、久ヶ沢徹、鷺沼恵美子、他)を観た。「虚構の劇団 解散公演」と銘打った公演である。私は、鴻上尚史氏の舞台を観たことがない。「虚構の劇団」は15年前、若手に育成のために立ち上げた劇団らしい。解散なら最後の機会ではないかと思い、劇場に足を運んだ。

 『日本人のへそ』は井上ひさしの初期作品である。私は昨年3月、この芝居を初めて観た(演出:栗山民也、出演:井上芳雄、小池栄子他)。着想てんこ盛りのエネルギーあふれる舞台だった。

 あらためてこの作品を観て、井上ひさしが若さの勢いでものした壮大なコントのような芝居だと感じた。ミュージカルの要素が多いコメディである。メッセージ性もある。

 この芝居で最も印象に残るのは、ヘレンと呼ばれる女性の半生記である。それは、東北の寒村から集団就職で上京した少女が、クリーニング屋勤めからスタートしてストリッパーを経て政界の大物の東京夫人へ登りつめていく物語である。ただし、これは劇中劇である。上演するのは吃音者たち、吃音治療のための上演という構図になっている。

 吃音治療劇とその劇中の物語という枠組みが面白いが、その枠組みが輻輳していく展開がミソである。観客は、舞台上の役者は単に役を演じているのか、役を演じる役を演じているのか、どこまでが虚構なのか、こんがらがってくる。芝居が終わっても、そこもまた芝居の中、という状況がくり返されると、「この世は舞台、人はみな役者」という感慨がわいてくる。

 以前に観たとき、この芝居のラストは芝居の冒頭に戻っていると思っていたが、よく考えると、そうではなく、劇中劇の構図が変化していたと気づいた。

 観劇後、『日本人のへそ』というタイトルについて考えてみた。芝居に「日本人のへそ」という言葉は出てこない。舞台上で晒されるストリッパーたちのへそを示しているのだろか。劇中歌で「日本のボス」という言葉がくり返し歌われる。「日本のボス」は最終的には天皇を示しているように見える。それが「へそ」かもしれない。

面白いけどややこしい『人類の起源』2022年12月10日

『人類の起源:古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(篠田謙一/中公新書)
 今年のノーベル生理学・医学賞は「古ゲノム学」という新たな学問分野を切り開いたスバンテ・ペーボ博士が選ばれた。ノーベル賞発表の半年以上前に出た本書は「古ゲノム学」の最新の成果を紹介している。ノーベル賞効果もあり、よく売れているらしい。

 『人類の起源:古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(篠田謙一/中公新書)

 本書は最新の知見に基づいた人類の起源の概説書だが、それ以上に最近のさまざまな古代ゲノム解析の結果を紹介する報告書である。著者自身が研究の当事者なので、研究の最前線の様子が伝わってきて興味深い。ただし、その内容はかなりややこしくて一読では十分に理解できない。

 本書で私が初めて知ったのは、DNAを高速で解読できる「次世代シークエンサ」なる新技術である。2006年頃から実用化され、これによって研究が飛躍的に進展したそうだ。

 発掘された古代人のDNA(サンプルに含まれるすべてのDNA)の解読が可能になり、2010年にはネアンデルタール人の持つすべてのDNAが解読できた。世界各地で発掘された多くの化石のDNAを解読すれば、さまざまな集団の移動・混合・置換え・消滅などが明らかになる。いま、まさにそんな研究が活況を呈しているそうだ。と言っても、研究にはいろいろな制約や困難があるようだ。

 古代人だけでなく現代人のDNAも研究対象である。私が十分に理解できているわけではないが、DNAには過去から現在までの変異が刻印されているのだ。生物の不思議を感じる。

 十分の咀嚼できていない本書で私が感じたのは、人類の起源と進化の歴史は単純ではないということである。猿人→原人→旧人→新人という進化はわかりやすい。大筋で間違いではないかもしれないが、その実態はかなりややこしいようだ。限られた材料をベースに推測している段階では、すっきりしたわかりやすいモデルが構築可能である。しかし、材料が増えてくるとシンプルなモデルでは捉えられない事象が出てくる。おそらく、この世界の実相はとても複雑なのだと思う。複雑な事象の説明を試みると難解になりやすい。

 古代ゲノム学は、そんな状況なあるのだろうという感想を抱いた。

北斎を描いた芝居『夏の盛りの蝉のように』2022年12月12日

 本多劇場で加藤健一事務所公演『夏の盛りの蝉のように』(作:吉永仁郎、演出:黒岩亮、出演:加藤健一、新井康弘、他)を観た。北斎を主人公にした芝居だと知り、画狂人・北斎への関心からこの芝居を観たいと思った。日本人の絵画で世界中に知られた最もポピュラーな作品は北斎の「神奈川沖浪裏」だと思う。北斎はスゴイ。

 この芝居に登場するのは北斎の他に、北斎の娘・おえい(絵師・葛飾応為)、蹄斎北馬、歌川国芳、渡辺崋山などだ。引っ越しを繰り返す北斎の家に出入りする弟子たちと北斎を巡る年代記である。北斎56歳の頃から90歳で没するまで、さらに没後9年頃までを点描風に描いている。北斎没後は、北斎を回想するおえいと国芳の背後で「あの世」の人物になった北斎や崋山らが座談している。

 北斎という怪物を軸にした絵師たちの葛藤のなかで、私が最も面白いと思ったのは渡辺崋山である。この人物については高校日本史レベルの断片知識(蘭学者、絵も描いた、蛮社の獄で投獄)しかない。芝居がフィクションだとは承知しているが、ここに描かれた崋山のキャラクターは興味深い。インテリ武士でありながら、武士を捨てて絵師になりたいと思う。だが、武士を捨てられず、藩政に奔走し、国を憂い、今度は絵を捨てようと思う。絵の才能は抜群、頭脳明晰な学者であり実務をこなせる――そんな悩める若きインテリが右往左往するのである。

 崋山に関する史実は知らないが、この芝居のような人物なら、この人を主人公にしても面白いのではと思った。

 この芝居の冒頭に、北斎が馬琴を罵倒するシーンがある。「俺の挿絵のおかげで本が売れているのに礼を欠いている」と憤っているのだ。史実なのだろうか。10年前に『椿説弓張月』に取り組んだとき、その本が北斎の全挿絵を収録しているのに惹かれたのだったなあ、と懐かしく思い出した。

1969年の私漫画『ライク ア ローリング ストーン』2022年12月14日

『ライク ア ローリング ストーン』(宮谷一彦/フリースタイル)
 年末になると「今年の物故者」を振り返る気分になる。で、今年6月に亡くなった漫画家・宮谷一彦を思い出し、数年前に入手した『ライク ア ローリング ストーン』を読み、1969年の熱い空気を肌に感じた。

 『ライク ア ローリング ストーン』(宮谷一彦/フリースタイル)

 この漫画は『COM』1969年4月号~9月号に連載したもので、単行本になったのは雑誌連載から48年後の2017年である。その頃に本書を購入、第一話を読んで雰囲気はわかった。気軽にサラサラ読める漫画ではない。いずれゆっくり読もうと思っているうちに著者は76歳で逝ってしまった。

 私が宮谷一彦の名を知ったのは半世紀ほど昔の大学生の頃である。「大学生が漫画を読む」と慨嘆された世代だ。『少年マガジン』『少年サンデー』『ガロ』『COM』などを愛読していた。新宿に「コボタン」という漫画好きの集まる喫茶店があると知り、友人と行ってみた。そのとき、見知らぬ若者が近づいてきて「宮谷一彦をどう思いますか」と訊かれた。宮谷一彦を知らなかった私はとまどって「知らない」と答えた。やはり、ここはディープな喫茶店だと思った。

 その後、宮谷一彦の作品をいくつか読んだが、あまり馴染めず、さほど面白いとは思わなかった。

 今回、『ライク ア ローリング ストーン』を精読し、むせかえる濃密さに辟易しつつも、時代の空気を映した迫力に圧倒された。

 この漫画のオビには「ふたりの女性そしてまんがと革命の時代」「ひとりの漫画家の1969年3月からの120日間の記録」とある。この惹句のとおり、宮谷一彦がモデルの、作者23歳の時点の私漫画である。主人公の心情や行動を、雑誌連載とほぼリアルタイムで描いている。登場する女性(主人公の愛人)やその父親(右翼の大物)のモデルも特定できる。コボタンも出てくる。

 当時よく読まれた本を書き込んだコマもある。『濠渠と風車』(埴谷雄高)、『ああ荒野』(寺山修司)、『黒馬をみたり』(ロープシン)などが描かれている。

 コマ割りが大胆である。阿修羅像や蒸気機関車を見開きで描いたり、心情吐露的文章で1ページを埋めたりもする。「ぼくが埴谷雄高の名を知ったのは前に話した革命運動に強い興味をもっていたとき『幻視のなかの政治』を読み 信奉できる作家だと思ったときからです」などという文章もある。

 「革命の時代?」における社会参加や漫画家の作家性の模索を描いたこの漫画は、終った青春の回顧のようにも見える。23歳はもはや若くはないのだ。

 半世紀以上前に発表された漫画を読み、かつての漫画は尖っていて熱かったと、あらためて気づいた。

書評に惹かれて『絶対悲観主義』を読んだ2022年12月16日

『絶対悲観主義』(楠木建/講談社+α新書)
 朝日新聞・読書欄(2022.12.3)の「売れている本」で次の本を紹介していた。

 『絶対悲観主義』(楠木建/講談社+α新書)

 紹介文に「ふむ、これは古代ローマで流行ったストア哲学の亜種だ」「…本当に声を出して笑ってしまった。傑作エッセイである」などとあり、読みたくなった。

 著者は高名な経営学者で、専攻は競争戦略だそうだ。本書には、著者と交流のある経営学者や高名な経営者が何人も登場する。『競争の戦略』で有名なマイケル・ポーターも出てくる。著者の身辺雑記自伝的な要素もあるエッセイだ。消極的な理由で学者の道に進み、それなりに成功していく物語を自虐オブラートに包んで語っている。その自分語りの部分が面白く、最も印象に残った。

 基本的には「仕事」への向き合いを説いた書である。その主旨は「第1章 絶対悲観主義」で明瞭簡潔に尽くされている。著者によれば、仕事とは自分以外の誰かのためにすることであり、それ故に、絶対に自分の思い通りにはいかないものである。だから「うまくいくことなんてひとつもない」という前提で取り組むべきだ。この心構えが絶対悲観主義である。

 冒頭の数頁で主旨を簡潔に述べた後、本書は著者の自分語りをベースにした処世訓の趣になる。これが脱力系の笑えるエッセイで、面白くてタメになる。と言っても、仕事への心構えの話は、とっくに仕事からリタイアした気ままな高齢者の私には、もはや手遅れである。

 最終章のタイトルは「初老の老後」(著者は58歳)だ。ここで、高齢者の人生に多少は関わってくる。著者の結論は「なるようにしかならないが、なるようにはなる」である。同感できる。

 プラス思考・マイナス思考という言葉があるが、絶対悲観主義はマイナス思考のススメではない。本書は逆説的な自己啓発本であり、経営書でもある。著者は競争戦略の専門家だ。絶対悲観主義とは最も有効な競争戦略なのかもしれない。

「犠牲者意識ナショナリズム」はやっかいな課題2022年12月18日

『犠牲者意識ナショナリズム:国境を超える「記憶」の戦争』(林志弦/澤田克己訳/東洋経済新聞社)
 韓国の歴史研究者が著した次の本を読んだ。

 『犠牲者意識ナショナリズム:国境を超える「記憶」の戦争』(林志弦/澤田克己訳/東洋経済新聞社)

 「犠牲者意識ナショナリズム」という言葉は初耳だが、何となくイメージできる。集団的な被害者意識はナショナリズム高揚の養分になりやすい。被害者意識を崇高に磨き上げたのが犠牲者意識だと思う。

 民族の英雄を讃えてナショナリズムを涵養するのは一般的だ。著者によれば、近年は英雄でなく犠牲者をまつりあげる方向に転換しているらしい。自国の英雄は他国にとって加害者になる場合が多い。犠牲者は他国の共感を得やすい。

 犠牲者意識ナショナリズムに着目した本書が取り上げるのは、ポーランド、ドイツ、イスラエル、日本、韓国の近現代史である。

 読み出のある本で、読み終えるとぐったりした。取り上げる材料が実に豊富だ。日本についても私の知らない事柄を多く紹介している。興味深い話ばかりだが、少し疲れる。議論を説得的にするための豊富な事例だとは思うが、もっと圧縮して、明解な論旨展開に絞った方が頭に入りやすいと思った。と書いて、そう思うのはコスパを求める悪癖に染まっていると反省した。じっくりと読むべき本なのだ。

 著者は犠牲者意識の事例としてアウシュヴッツ、従軍慰安婦、広島・長崎の被爆者をはじめ多くの材料を取り上げ、国家の集合的記憶としての犠牲者意識ナショナリズムを批判的に検討している。犠牲者意識ナショナリズムの問題点の一つは自身が加害者である側面を隠蔽する点にある。皆が自分は加害者でなく犠牲者だと主張すれば、まともな国際関係が成り立たないのは当然だ。当然なことができないのが現実である。

 犠牲者意識ナショナリズムを生み出すのは集団的記憶だ。私個人の記憶を検討してみても、無自覚な記憶の捏造や歪曲は多い。集団的記憶も似たようなものかもしれない。だが、コトはホロコーストなどの重い事柄になるからやっかいなのである。

 「民族」「ナショナリズム」「国民国家」など幻想の共同体の幻想を克服できればいいと思う。それができそうにもないのが課題である。著者は本書において、犠牲者意識ナショナリズムを克服する模索を提示しているが、私には、問題点の剔出で終わっているように思えた。

『唐十郎のせりふ』は舞台の姿を文章で伝える書2022年12月20日

『唐十郎のせりふ:二〇〇〇年代戯曲をひらく』(新井高子/幻戯書房)
 唐十郎の戯曲を論じた次の本を読んだ。

 『唐十郎のせりふ:二〇〇〇年代戯曲をひらく』(新井高子/幻戯書房)

 私は1960年代終わりから70年代始めにかけて唐十郎の紅テントの芝居をかなり観ている。戯曲も10冊近く読んだ。近年、再演が多い唐作品のいくつかも観ている。だから『唐十郎のせりふ』というタイトルの本書に惹かれたのである。

 本書が出たのは昨年12月、購入したのは今年はじめだ。書店の店頭で本書の目次を眺めたとき、少し驚いた。唐十郎の15作品が並んでいるが、私が知っているのは1編(泥人魚)だけ、他の14編は未知の作品だ。本書が論じているのは2000年以降に劇団唐組が上演した作品で、往年の状況劇場ファンの私が惹かれた全盛期の芝居とはズレている。でも、唐十郎を論じた本は珍しいので手元に置いておこうと思って購入した。

 著者は1966年生まれの詩人、埼玉大准教授だそうだ。本書は今秋、第32回吉田秀和賞を受賞した。そのニュースに接したのを機に、積んであった本書をひもといた。

 戯曲も舞台も知らない芝居に関する文章にどこまでついて行けるか、多少の不安があった。だが、杞憂だった。著者は、それぞれの芝居のあらすじを著者の見方で紹介したうえで、その芝居の含意や魅力を的確に展開している。文章を読んでいるだけで、見たことのない舞台の様子が頭に浮かんでくる。これは不思議な読書体験である。単に戯曲を読む以上に舞台を感じられた。著者が舞台を観て感得した重層的な体験が巧く文章化されているせいだと思う。

 唐十郎の芝居は「わからない。でも、面白い」と言われることが多い。そんな芝居を論ずるのは容易でない。自分なりに安易に読み解いてしまうと、こぼれ落ちるものが多く、かえってつまらなくなる。芝居は戯曲という文学ではなく、役者の肉体表現であり、詩・音楽・美術でもある。それを文章で捉えるには修練と感性が必要だと思う。

 本書は冷静な戯曲論の体裁をしているが、その背後には著者の紅テント芝居への並々ならぬ熱情(イレコミ)が秘められている。ときとして、著者は舞台で演じている役者以上に観客として芝居に没入しているようにも思える。本書からは、そんな体験を踏まえた迫力が伝わってくる。